手記:毒親の下で育ったカースト最底辺の実情と内情

石男(うまずお)

毒親

 私の父は無関心だった。小さいころに父と遊んだ記憶などほぼ無かった。父について記憶にあるのは小学校高学年のころ当時ゲームを遊んでいる父の姿と、毎月1~2度父のために近くのスーパーにビールを買いに行くこと。あとは小学校4年の時にどこかの山に置き去りにされかけたことぐらいだ。

 私の母は過干渉だった。ただ、私が学生時代の頃は当時珍しい共働きで、干渉するときとしないときの差が激しい人だった。

 『普通』という言葉を多用し、『お前はADHD(発達障害)だ』『お前は普通じゃないんだ』『普通になってほしい』等とよく言われた。ただ精神科や心療内科を当時受診したわけでもなく、ADHDだの発達障害だの医師から診断された覚えはない。

 親と絶縁して5年近く建ち、ADHDや発達障害が何たるかを調べて理解した。現在は鬱や不眠で心療内科に通っているが、自分が発達障害なのかはいまだにわからないままだ。ただ、今になってわかることは『当時の母はADHDの子を育てるという点において、対処を間違えた』ことだろう。


 私は家族に褒められた記憶がない。テストで優秀な点を取っても、当時部活動で優秀な成績を収めても、高校入試で代表スピーチに選ばれても。褒められはしなかった。褒められたとしても、そのあとすぐに不満点を探り出され叱られた。

 親に殴られることなど日常茶飯事だった。ある時は包丁を取り出されたこともあるし、ある時は金属バットで殴られたこともある。またある時は躾と称して全裸にしたうえで、白昼の最中に玄関に放り出すなんてことも平気でやった。今の時代なら間違いなく虐待と判断されるだろう。虐待に時効がないならば、今からでも両親を刑務所にぶち込んでほしいとすら思っている。

 私は親からプレゼントをもらった試しがなかった。誕生日もクリスマスもケーキを食べた記憶なんて殆ど無いし、誕生日やクリスマスのプレゼントなんてなかった。

お年玉は多少の金額もらっていたはずだが、同学年の友人に比べても少なかったし、親戚付き合い(祖父祖母との交流など)なんて全くなかった。その癖その金額のほとんどが親に管理されてほしいものがあってもそこから出してはくれなかったし、成人した後にできた兄の子のお年玉には、私がかつてもらった金額の3倍以上を包むことを要求してきた。

 その当時貧乏だったのかと言われれば、明確にNoだといえる。多くの同級生が団地住まいだったが、私の家は3階建ての一軒家だったし、母は自営ではあったが共働きだったのだ。時代の違いはあれど『貧乏だ』とはお世辞にも言えないだろう。どちらかといえば裕福だったと思える。

 今にしてみれば『親が普通でないのにその子が普通なわけがない』と断言できるが、私は『普通』という言葉が大の苦手になった。『普通って何だろう』という感情は今でも持っている。


 家庭環境への嫉妬や、私の行動など様々なことがきっかけなのだろうが、私は小学校中学校といじめられた。当時の私は『感情の変化の激しい子』だったので、いじめられることに対してすぐにキレるような子だった。ある意味我慢できなくて正解だったとは思うが、そのいじめのダメージは20年以上経った今でも残っていて、鬱やフラッシュバックに苦しんでいる。

 しかしながら、『いじめに対してすぐキレて暴れること』が気に入らなかったのであろう両親は『いじめられるお前が悪い』と切り捨て、味方になってもらえなかった。体裁や外面ばかり気にしていた。

 小中といじめられてきたので、高校は地元中学から離れた学校に進学した。そのおかげでいじめられなくはなった。


 別に貧乏ではなかったはずだが、高校は奨学金を借りていくことになった。口が達者な母に『奨学金借りて行け』と丸め込まれた。

 高校2年になってアルバイトをし始めたが、アルバイト代はお年玉同様問答無用で親に管理されることになった。ただ、そのころには通帳は毎月私に確認させたし、コミケに行く時の金や、高校卒業した後に友人と東京に遊びに行く卒業旅行の費用を出すのは認めさせた。

 高校卒業した頃は『大学行ってまで学ぶことないしなぁ』と高校入試前から思っていたし、就職して早く家を出たいという思いも強かったために工業高校を選択した経緯もあったので卒業と同時に就職したが、今にして思えばこの選択は大失敗だったと断言できる。今の記憶を保持して過去に戻れるなら迷わずもっと勉強して中学の同級生がいるというリスクを負ってでも普通科を選択すべきだったと思うし、大学にも行くべきだったと後悔している。


 いじめによるコンプレックスや親が毒親だったと自覚していることで、いつしか『自分自身が家族を持つ』という選択肢を排除するようになった。自分自身が親になる姿が想像できないし、いじめによってそもそも女性と関わることを避けたいと思うようになった。

 私が学生時代の頃は『毒親』なんて言葉は少なくとも目に入ってこなかったし、だれも毒親なんて単語を使ってなかったので、存在していなかった。様々な新しい言葉が増えて、インターネットのおかげで見る機会が得られているおかげで、私が親に対して思っていた何とも言えない感情を表現できる言葉が見つかった。

 親と絶縁して5年近く経った。今でも『許されるなら両親揃って気のすむまで殴りたい』というある種の破壊衝動にとらわれたり、いじめから守ってもらえなかった嫌悪感がトリガーになってフラッシュバックし、苦しい思いをすることがある。

それでも、絶縁できただけましなのだろう。出来なきゃ今も毒親からの呪縛にとらわれたままだったろうから。

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