「2017年 辰巳真司 48歳」act-17 <エピローグ>
辰巳は残りのビールを一気に飲み干すと、財布から一万円札を取り出し店主に渡した。今時珍しく額にバンダナを巻いている。歳の話をしたことはないが、おそらく自分と同年代か少し上くらいだろう。ふいに聞いてみたくなった。
「マスター、尾崎豊って知ってます?」
小銭を数えていた店主は、辰巳の顔を見るとニヤッと笑った。
「俺達の世代で、尾崎知らないヤツいないでしょ」
店主はそう言うと、彼のヒット曲を口ずさみながら釣り銭を手渡した。平井由美と初めて話したあの音楽室で、辰巳がギターで弾いた曲だ。
尾崎豊は、辰巳が結婚した年に死んだ。事故なのか自殺なのか分かっていない。
二七歳だった。
やけに弾んだ「毎度ぉ」という店主の声を背中で聞きながら、辰巳は暖簾を押し店を出た。風は止んでいたが外気が冷たい。手にしたコートを着て歩き始める。
途中、内ポケットから携帯を取り出し短縮ボタンを押した。
「おう、真司か。どした?」
「いや、別に‥元気かい?」
辰巳の父親は、だだっ広い一軒家で相変わらず呑気に暮らしている。二年前に腰を痛めた。“山歩きがしんどいのさ”と、時たまこぼす。
東京と田舎を結ぶ親子の会話は短くぎこちない。だが、当たり前のように繋がる声が嬉しい。
帰宅した辰巳は、コートと背広の上着を脱ぎ、二階にある自分の部屋の収納スペースから段ボール箱をひとつ取り出した。マジックで『中学校時代』と書かれてある。
卒業文集やアルバムをかきわけ、中から古い手帳を見つけ出しそれを手にすると椅子に座り机上スタンドを点けた。ごわごわと硬くなった生徒手帳には、一枚の小さな紙切れが挟まれている。
—待ってるー
鉛筆で書かれた小さな文字は、もうかなり薄くなっていた。平井由美は、今どこで何をしているのだろう。
「どうしたの?ネクタイもとらないで」
風呂上がりの由紀子が、バスタオルで濡れた髪を拭きながら顔を出した。
「うん。ちょっと懐かしいものを見てた」
辰巳がそう言うと「なになに?」と彼女は部屋に入って来た。
「中学の時、転校して来た子にもらった」
由紀子は、平井由美が書いた文字を目にすると「その子のこと好きだったんだ」と、辰巳の顔を覗き込んだ。
「うん、たぶん‥初恋かな」
すると彼女は急にクスクス笑い始め「ちょっと待ってて」と言い、部屋から出て行った。そして、すぐに戻って来ると、四つ折りにされた一枚のルーズリーフを辰巳に手渡した。
「覚えてる?」
開くと、ペンで大きく走り書きされた文字が出てきた。
—待ってるー
「あなたからもらった最初で最後のラブレター、かな」
忘れた書類を走って届けてくれた取引先の受付嬢‥付き合うきっかけは、それから何度目かの打ち合わせ帰りに、勇気を振り絞って彼女に渡したこの一枚の紙切れだった。
「まだ持ってたんだ」
辰巳がそう言うと「当たり前でしょ、婚約指輪の次に大切なものだもん」と言って由紀子は笑った。彼女の目尻に、細かなしわが刻まれていることに初めて気付いた。辰巳は「そっか」と言いながら、ルーズリーフを元通り四つ折りにして彼女に返した。
「あいつらは?」
「二人とも今日は彼女とデートですって。帰りは遅くなるって電話があったわ」
「何が彼女だ。生意気に」
辰巳の言葉に「結構飲んできたでしょう。冷たいお水持ってくるね」と言って、由紀子は部屋を出て行った。
階下に向かうスリッパの小さな音が、たまらなく愛しく思え、辰巳は急に熱くなった目頭を手で押さえた。
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