「2017年 辰巳真司 48歳」act-15 <トランジスタラジオ>

新学期が始まったが、平井由美は学校に姿を現さなかった。


日曜日をはさみ五日目の火曜日。放課後の音楽室で、辰巳は久し振りにギターを弾いていた。ふと見るといつの間にか入り口の扉が開けられ、そこにブレザー服の平井由美がいた。衣替えにはまだ早い。

「どうしたの?風邪でもひいてたん?」

駆け寄る辰巳に彼女は「ううん、そうじゃないよ」と笑ってみせた。どことなく翳りのある笑顔に胸騒ぎがする。

「じゃ、何で‥」

そう言いかけ辰巳は言葉を飲み込んだ。しばしの沈黙の後、唐突に彼女が言った。

「ねぇ辰巳君。この学校って屋上あるの?」


ギターケースとカバンで両手がふさがっている辰巳は、肩で押すようにして屋上に通じる分厚い扉を開けた。

「広〜い!」

平井由美が、辰巳と身体を入れ替えるように屋上へ飛び出す。そして大きく深呼吸をすると、ブレザー服が汚れることなど気にもせず、パタンと仰向けに寝転がった。あっけにとられている辰巳に、彼女は空を見つめたまま叫ぶ。

「辰巳君もおいでよ。気持ちいいわよ」

辰巳はゆっくりと近付くと「これ、枕代わりになるかな」と言って、ギターケースを差し出した。

「あっ、いいかも」

彼女は、身体を起こしながらギターケースを受け取り、「じゃあ、辰巳君はこっちね」と言って半分のスペースを空けた。

そんな意味で言ったのではない‥

横たわる彼女の身体にドギマギしながら、辰巳は精一杯の冷静さを装い空を見上げた。水彩画のような淡い青に、白いうろこ雲が並んで流れている。足元から声がした。

「ねっ、知ってる?尾崎が飛んだの」


知っていた。それは辰巳にとって、この夏最大の事件のひとつだったのだ。

東京にある野外ステージに出演した尾崎豊は、演奏中に高さ七メートルもある照明塔の櫓へよじ登り、そこから飛んだ。大怪我をした尾崎はステージから姿を消したが、スタッフに抱えられ戻ってくると、そのまま演奏を続けた。

—尾崎は何故、飛んだのだろうー

辰巳は、そのことをずっと考えていた。


「私も飛んでみたいなぁ」

呟くような彼女の声が聞こえた。返答に窮した辰巳は「いいものがあるよ」と言いながら、鞄から小さなトランジスタラジオを取り出した。スイッチを入れしゃがみこみ、人差し指で慎重にダイヤルを回す。ノイズの隙間から聞こえていた音にピントが合い、早口の英語が聞こえてきた。辰巳は、ラジオを半分空いているギターケースの上に乗せ、その隣に座り込んだ。

DJの言葉がとぎれ、音楽が流れ出す。今イギリスで人気のある、化粧をした男性がボーカルをとるバンドの曲だ。

何も無い、ただ広いだけの田舎の空の下。二人の間にあるアンテナから、海を越えてやってくる音楽が次々と流れていた。


「ねぇ、辰巳君。一緒に東京行こうよ、って言ったらどうする?」

「えっ」

「私と一緒に東京行かない?」

「何だよ、それ」

「‥‥」

「冗談言うなよ。びっくりするなぁ」

平井由美は身を翻すように起き上がり「冗談だよ」と言って笑った。はずみで倒れたラジオのチューニングが微妙にずれ、ノイズの音が大きくなる。

暗くなり始めた屋上。雑音混じりのヒットソング。そして、グレーのブレザー服。短い季節が終わろうとしていた。


翌日の朝。担任の教師は、彼女が東京の学校に転校していったことを告げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る