一つ目の願いへの応援コメント
色々と考えさせられるお話でした。
江戸時代の見世物小屋や、西洋の貴族が「飼って」いた小人などの奇形の人々――そういった近世の人権無視がよいわけじゃないけれど、でも近代以降、ある意味「多様性」がそがれていったようにも思います。
ホラーの形をとりながら、社会派であり、感動モノでもある。
読ませていただきありがとうございました。
作者からの返信
読んでくださりありがとうございます!
そうですね。人権保護の観点が常にいいものかと言われればなんとも、です。
例えば宮廷道化師は、王侯貴族のお付きとして精神もしくは身体障害を患っている人が雇用されましたし、明治以降廃れていく見世物小屋も同じですね。
かつてはこういった興行や慣行は彼らにとってしっかりとした食い扶持でしたが、多様性の名の下消えていった業態でもあります。やはり働き方一つ取っても選択肢の幅が狭まるというのは寂しいものです。
一つ目の願いへの応援コメント
アメリカで奇形者を見世物にする番組が問題になったとき、当の出演者たちは『自分の体を見世物にして稼ぐ権利』を主張したそうですね。
かの人たちにとっては『見世物にされる屈辱』よりも『自力で稼ぎ、自力で生きる』誇りの方が大切だったと言うことなのでしょう。
結局、その番組は打ち切りになったそうですが、理由は『登場する人たちが、見た目は異常でも中身は普通以上に立派だったから』とか。
作中の女将も誰を恨むでもなく、自分の運命を受け入れ、人並み以上に気高く生き、死んでいった。
『異常な人間』は全て、出生前診断によって判別され、生まれることを禁止される時代。
女将のような人はたしかに『滅びゆく物の怪』なのでしょう。
作者からの返信
読んでくださりありがとうございます!
確かに社会の発展と共にもたらされた人権保護の観点は却って一部の人、特にハンディキャップを負う人たちの生き方にある種の不自由を強いる形になったのは否めないですね。
もちろん人権を守るなってわけではないですが、奪われるものもあったかと。
例えば仰る通り、自活する自由や選択肢。少なくともあまり公のものではなくなったと感じます。
同じく、科学の発展は作中のように「物の怪」を蹴散らしました。それはどこか異界のものではなく、現実に存在する何かとして。
吹き荒ぶ時代の最中、女将さんは物の怪や神の類でいたかったのだと思います。