お兄ちゃんは、妹のペットになっても満たされない。

櫻葉桜乃

プロローグ




 「まーくん、いつもふわふわだね~」


 そうだよ。俺はいつもふわふわだよ。見ればわかるだろ。


 「まーくぅん、すっっっごくあったかいね」


 そりゃ、これだけもふもふなところに顔面うずめたらあったかいさね。でも実を言うと、俺はすっごく暑苦しいんだ。早く放して? あと言葉発しながらモフるのツバ付くからやめて? そして今すぐどいてあっちへ行け。


 「ねぇ、まーくん? 今日も一緒におねむしようね~?」


 ……クソ。

 ええ、ええ、よろこんで……。


 まったく。


 まったく……。


 まったくまったくまったくまったく。


 あれも。


 これも。


 どれもこれもどいつもこいつも……いつものことだ。いつものことなんだ――。


 今や室内を照らすのは、窓の呼吸で揺られた布から透けて射し入るほのかな月明かりだけだった。


 薄暗闇うすくらやみの中でさえ白さの際立つ両の二の腕でむきゅうと挟まれ、頭部は、彼女のこれまたミルクのように白くまろやかでするりと控えめな胸元に向かって、今もくるりと押し込められている。


 視界を閉ざされ、嗅覚はより鋭敏に。

 少女の肌から立ち上るバニラの香りは甘くて、とても甘くて。今のこの嗅覚が凄まじい身体には猛毒と呼べるほど甘美で。もういい加減、気が狂いそうだった。


 姿勢はくるると固定されたまま、軽々と抱えて持ち運ばれ壁際へと追いやられて、ベッドの端。少女が身体を放るのと一緒にころんと容易たやすく身体を横たえられて、すかさず頭頂部が吸われる。

 ふわって二度ついばんで。それでむちゅって。吸われて、嗅がれる。そしてそんな状況の俺には、元より逃げ場なんて用意されていない。

 うん。わかってる。わかっているんだ、これもいつものことだから。


 今の俺とタメ張れるんじゃないかってくらい、わたあめみたいにふわふわと弧を描いたまあるい頬。その中央にちんまり咲いた桜桃色おうとういろの唇からは、フォンダンショコラをひらくととろけ出してくるチョコそっくりの甘く濃厚でやわらかな吐息が、俺のうなじに向かって規則正しいリズムで溢れる。溢れて、そしてとろんと妙な艶めかしさを連れてなだれてくる。

 きめの細かく滑らかな手はたおやかに、どこまでもどこまでも優しくて、慈しみに満ちていた。


 どうして女の子っていうやつは、こんなに甘くて、こんなに良い匂いがするんだろう。

 卵のなかに砂糖とシナモンと、それからいったいどんな素敵なものを混ぜたら、こんなに愛らしいいきものができあがるんだろう。


 また今日も、気が付けば午前0時を廻ろうかという夜深よぶかの刻。

 やっぱり俺は、今日も――いつも――寝られない。


 なんども。なんども。


 チク、タクと。

 振り子時計が刻み続ける針の動きに気がつけないほどゆっくりと、しかし淀みなく、小さな温もりが俺のおでことあたまを行き来し続ける。さっきからあの振り子みたいに、寸分違わず正確に、いつまでも同じところをただひたすらに撫でていた。


 鼻頭の上で折り返すたびにそれはふんわり香って、甘くて優しくて良い匂いだなって。食べたらどんな味がするかなって。嗅ぐって。

 一寸、もやもやした衝動に駆られてすかさずハタキを振るけど、でも身動きは取れないし、それしかできることがないから結局そればかりが頭に浮かんで。消して。また浮かんで。


 消しゴムをかけてもかけても筆跡だけは残ってしまって。あんまり何度も擦りつけるものだから、紙もくたびれてしまって。

 その筆跡はもう消し去れないことにだって、きっと気付いているはずなのに。それでも俺はまだ――。



 定刻になると文字盤中央の小屋の中からうさぎ達が飛び出して、くるくると賑やかに踊り出す。童話的な、可愛らしい装飾に富んだ振り子時計。

 今日も日付が変わって、深夜のカーニバルは部屋の片隅でひっそりと。


 その昔、彼女の頭より物差しふたつ分高いところに取り付けてやったそれは、ひとまわり大きくなった彼女の指先にならって、今も同じところで刻を教えていた。


 毎日のように、何時間と、赤子を寝かしつけるように。

 その手はなんども、俺を撫でた。


 こんなことが、毎日続いている。

 こんなことが、いったい、いつまで続くんだ。


 「でっへへぇ……まーくぅん……」


 おいおいやめて? やめ、やめろ。

 背中に涎は勘弁してくれ。舐めて毛流れきれいに直すのめちゃくちゃ大変なんだって。


 両手に抱えられているせいで難易度は最高なんだ。全く理不尽だ。避けらるわけがない。

 もがこうにも両腕は動かないし、視界も悪すぎる。何度か身体をよじったりもするけどやっぱりだめだと悟って、諦めて、結局甘んじて受け入れた。

 ……別に、彼女の胸の熱に甘くほだされたって訳じゃない。


 いいじゃないか。これもいつものことなんだ。

 いくらか被弾するのも。疲れてじっとしていたら、また余計な思考が頭をもたげてくるのも。そうこうしているうちに、いつの間にか頭上を行き来していた彼女の手が動かなくなっているのも。


 何が気持ちいいのか、夢に入ったであろう後もきつく抱きかかえたままだし、頭に覆い被さってきた手も邪魔だしで、相変わらず周囲がよく見えない。

 何度も踏ん張って、コルク栓ばりにぎゅるんぎゅるん身をよじってようやく抜け出でてそっちを見やると、だらしない少女の笑顔が寝息を立てていた。


 「えへ……えへ……ふへ、だーいすきぃ……」


 無邪気に寝言をかます少女は、大層幸せそうなんだ。

 可愛いかった。そして、少女の可愛さと同じだけしんどかった。地獄だ。逃げ出したい。自分の家に帰りたい……。


 夜な夜な訪れるこの拷問にやられて、もはや情欲は疲弊しきっている。年中発情期とか、全くもって嘘々。もうアホかと。


 ベッドから飛び降りて自分の寝床へ向かうがてら、姿見の前で身なりを整える。今や二本脚で立っている時間の方が圧倒的に少なくて、毎回身体を起こすとちょっとぐらってきて一生懸命バランスを取る自分を、不思議にすら思わなくなっていた。


 ちょっと見づらいけれど、身体を左に捻って右に捻ってしながら、毛流れを美しく。大事なファッションチェックだ。我ながらめっちゃえる。

 涎のダメージがないかも念入りに確認して、舐めとって、くいくいと梳っていく。あれだぞ、好きで彼女の体液を舐めすすっているわけじゃないぞ。決して。


 そう。

 今、目の前で同じ姿勢で視線を返してくる生き物は確かに俺だ。そういう自覚はある。思考も正常だ。でもひとつ、いや、色々おかしいんだ。


 実際のところあんな風に、異性に夢中で抱きしめられたらさ、世間では役得だとか、ラッキースケベだとか、うらやまけしからんとか、ラノべ主人公とかテンプレ乙とか言うだろ。


 俺だって、男としてはおいしすぎるこの状況がこれほど特別じゃなかったら、きっと同じように思ってるし、ありがたく受け入れているに違いないよ。むしろずっと求めているよ。

 でも、今は全くおいしくなかった。一切合切おいしくなかった。


 「へぅっ……っへへ…………えへぇ」


 なんで?

 なんでって、そんなの、当たり前だろう。


 なぜなら、背中でえへえへ言っている、ついさっきまで俺にパパママレベルの熱い抱擁をかましていたこいつは、紛う事なき俺の妹で。


 そしてこうして毎晩情熱溢れるキスをされ続ける俺は、長い体毛がもふもふで、長い耳がとろんと垂れていて、鼻がヒクヒク動いている。

 つまりは、その……可愛い可愛いうさぎさんだからだ――!

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