朝・赤本・自己嫌悪

 朝、下駄箱の前で文乃あやのに会った。季節は秋に差しかかり、袖丈はその日の暑さによってまちまちで、風が少し乾いている。寝ぼけ眼の僕とは対照的に、彼女は朝から真っ直ぐに背筋を伸ばし活動的だ。彼女と談笑していた女友達が、用事があるのかどこかへ行った。彼女が僕に気づく。

「おはよう」

 爽やかな笑顔で彼女は僕にそう言って笑いかける。「おはよう」と挨拶を返して、僕はおもむろに靴を履き替えた。彼女の明るい挨拶に対して、自分の返答は無愛想ではなかっただろうか。そういうことをいちいち考え、精神をすり減らしてしまう自分が、どうしようもなく嫌いだ。

草壁くさかべってもう志望校決まってるの?」

 本当は耳にしたことがあるのに、僕はそういていた。それくらいしか、この会話を続けるすべを僕は知らなかった。

「一応、ね」と彼女は言った。綻んだ表情と明るい口調からは、あまり迷いが感じられなかった。

 文乃はこの学校でもトップレベルの優等生だ。僕と彼女との間には歴然とした学力差が横たわっている。彼女は、日々の生活が苦しそうに見えない。まるで、息を切らしながら険しい山道を登る僕を横目に笑顔で軽々と山を乗り越えていくように、彼女は見える。

「ほんとに、草壁はすごいと思うし、羨ましいなと思う」

「え、ほんとに? ハハハ」

 君は笑っていた。

 時計の針はただ均質に時を刻む。

 少し幸せな朝が始まった。



     ◆



 近所の書店で赤本を買った時、カバーを付けるか訊かれた。普段の僕は本の帯すら読むときに邪魔だと思うくらい神経質だが、このときは何故だかカバーを付けるようにお願いしていた。書店の名前とよくわからないポーズをした人間の絵が描かれた地味なカバーを、僕は赤本を持ち運ぶ際は常に装着していた。

 どうして自分がそうしているのか、僕はしばらくの間わからなかったし、その行為に疑問を持つことすらなかった。しかしある日の放課後、僕が開いていた赤本をクラスメイトに覗き込まれたときに咄嗟にそれを慌てて手で隠した瞬間、カバーが存在すべきである理由を悟った。それは安っぽい自尊感情と、くだらない恥じらいのためであった。自分はこの広く混沌とした世の中に比べればひどく矮小わいしょうで、ひとたび風が吹けばすぐに飛ばされてしまう哀れな砂の粒のようなものだ。だが僕にとっては、自分の精神世界こそが全宇宙だった。自分という存在が他人の目にどう映っているか、そればかりを考えて、そればかりに苛まれて生きていた。

 地下鉄に揺られながら、放課後の教室に残りながら、僕は面白味のないカバーで覆われた赤本をめくった。憂鬱なときに眺めていた、冒頭の方に載っているはしがきや大学情報といったページの文言は覚えようと意識せずとも自然に暗記した。各教科の配点、試験時間、出題の傾向と対策。胸に渦巻く、大声で叫びたくなる衝動を抑え込むように、僕は文字をひたすら目で追いかけた。それでも言いようのない焦燥は消えない。

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