【11000文字小説】ライムシュガーイズアンビバレント
環月紅人
本編 #1
「あ……」
下校時刻。玄関先から覗いた空は、ザーザーとした大粒の雨を落としている。
どうしようかと考えていると、私以外の生徒はみんな傘を差して次々と帰路へ。取り残されていく私は、持ってきている覚えもないのに鞄を開いて確かめたのだが、やはり折り畳み傘などない。
「夕立だ」
私は途方に暮れた。
とは言え。
夕立とは一時的なものであることを私は知っている。せっかく履いた靴を今一度脱ぎ、上履きに履き替えた私は時間を潰すために三階教室へと戻りながら、窓の反対側で降り注ぐ大雨に想いを馳せる。
ゴロゴロとした雷鳴も響く。
一時的、とは言うけれど、この雨模様には懐疑的にもなるものだ。
誰もいない廊下を一人。
不思議な気分だ。
みんなは帰ってしまったらしい。唯一帰宅のタイミングを逃した私が廊下を一人で歩いている。真夏のじとっとした暑さを残し、野外では土砂降り。やや古くさい校舎に染み込むのは冷気ではなく湿度であり、じめっとしたような不快感を仄暗い廊下の隅々に思う。
教師はまだ残っているのだろうか。
まさか送っていってくれるほど懇意にしている先生がいるわけでもないが、この短時間で人恋しさすら覚えた私は、わざわざ三階まで上がったのにも関わらず階段を降りて会いに行く。
三階、二階と誰もいない廊下はどこか冷え切った藍色の雰囲気があったが、一階はやはり、扉の窓越しに溢れる明るさが暖色系の雰囲気を廊下にまで届かせていた。
これは人の気、というやつだ。
階段を下りて目の前は保健室。左手、廊下の突き当たりには図書室があり、教員トイレがすぐそばに。節電のために電気は付いていないが、対して、右手。生徒相談室、校長室、職員室と立ち並ぶ廊下扉は、校長室を除いて暖かい光を洩らしている。
校長先生だけ先に帰っているようだった。
来てみたはいいが、やはり用もなく職員室に足を運ぶのは忍びなく思い、私はもう一つ独立して部屋の明かりが付いている生徒相談室の扉を叩くことにする。
「失礼します」
「……びっくりした」
そこにいたのはスクールカウンセラーの先生だ。名前は聞いたことがない。
老け顔だけれど垂れ目で愛嬌があると人気があり、ゆるふわな髪型に丸メガネ。お洒落だとでも思っているのか、細やかながらの顎髭を生やした三十代ぐらいの冴えない先生。
女生徒から特に人気だそうだが、私にはあまり分からない。
先生は私にひどく驚いていたが、くいとメガネを押し上げれば、すぐに穏和な表情をしてくれた。
「ひょっとして、傘を忘れたんだろう?」
そして、ニヤリとした笑みだ。得意げなニヒリズムに、ピッと指を差してくる。
私は少しむっとする。
「あはは。仕方ない、急に雨が降ったんだ。雷は怖い?」
「いいえ。子供じゃないので」
「すごいな。僕はちょっとだけ怖い」
生徒相談室には先生のデスクとは別に、対面で話すための二人掛けソファと小テーブルが置かれている。先生は、なにやらデスクの影に隠れる形で業務に励んでいたけれど、手持ち無沙汰そうな私を見ては「座る?」とソファに促して自らも移動した。
私は一礼してソファに着く。
ふかふかだった。
「涼しいですね、この部屋」
「うん。まあ、僕一人だと橘先生に怒られてしまうんだけど、生徒が来てくれれば大義名分だ」
「………」
「……二人だけの秘密ってことで」
茶目っ気のあるウィンクを送られて、私は仏頂面になる。
分かりやすくダラダラと冷や汗を垂らすような先生にくすりと笑えてしまいながらも、今度は何やら考える素振りをする先生が気になって、私は純粋に問いかける。
「ん? ああ、いや。今日は急な夕立だから、他にも何人かここに来て、予備の傘から僕の傘まで貸してしまったんだよね」
人のいい先生だ。多くの生徒に頼られているのだろう。
照れるように。弱ったな、なんて呟きながら、私のためにどうやって傘を用意しようか考えてくれているようだった。
なので私は、素直にお断りをする。
「必要ないです。少ししたら止むと思いますし」
「そう? この時間、見たいアニメとかあるんじゃない?」
「高校生ですよ、私。でも雨宿りはしたいので、止むまでここにいてもいいですか?」
先生は大きく頷いてくれ、私も安心するけれど。
「もちろん、早く雨が止んでくれるといいね。……なんでそんな嫌そうな顔をする」
「ぶぶ漬け出された気持ちです」
「……あ、なるほど、合点がいった。違う、そういうニュアンスじゃないんだ。純粋な願いというか」
少し拗ねたような私に、先生は精一杯手を動かしながら弁明する。
「女心って難しいな」
そしてぽつりとそう呟くので、ついつい面白がって私は。
「カウンセラーでも分からないことってあるんですね」
「そりゃそうだ。感受性はみんな違うから。むしろ、全国民が僕みたいだったらって思ってしまうことが増えた」
思わずゾッとしたような顔をする。先生は引き攣った笑みで、「なんでそんな顔をするのかな」とズレたメガネを正すように押し上げているけれど、私は逆だ。
私は、もし全国民が私のような人間だったら、すぐに絶滅するべきだと思っている。
◆
そんな会話をしている間も、外はザーザーと雨が降る。雷が落ちる。
会話が途切れて、その間も特に居心地悪くなることはなく、先生は私の滞在を許してくれていた。
いつの間にか先生はデスク作業に戻っていた。
私は暇を潰すように、滅多に入らない生徒相談室のなかを見渡していたが、それすら飽きて先生をじっと見つめる。
さすがに目線を送っていると、先生は少しだけ気まずそうににへらと笑っていた。
だから、特に他意があるわけでもないが。
「先生って、なんで生きてるんですか?」
不意をついた脈略のない問いかけ。先生は苦笑しながらも、作業を中断しては「そうだな」と前置きをして、私のために真剣に考え始める。
少しだけの沈黙のあと、先生は、こう言った。
「目的があるからだよ」
私が反射的に述べる。
「じゃあ、目的のない人間は、死んだ方がいいんでしょうか」
先生は吹き出したように笑う。
「君、ひょっとしてバカなんだな?」
ピッと指を差してきて、目尻を拭うような楽しそうな姿に私は心底むっとすると、先生はヘラヘラ顔ではあるけれど謝罪をしてくれる。
「ああいや、ごめん。生徒のことを理解出来ていない僕の方に問題がある。……そうか、君はそう捉えてしまうんだね」
見透かすような目だった。
私は少し居心地悪く、顔を逸らして目を合わせない。
「そうじゃない。目的がないなら探せばいいんだ。それが現時点の目的に変わる。見つけられなくてもそれが拠り所になってくれるし、見つけられたならいざ本番。熱中してれば、それだけ人生は続けていいんだ」
私は俯く。どこか釈然としない気持ちもあるが、反発するほどの言葉と経験を持っていない。
だから今回ばっかりは、子供のように不満げにする。
「意味や価値のための人生、なんて大人は言うけれど、僕は少しそれが嫌いで……。押し付けがましくて、それこそ自分のことを無意味や無価値だと思い込んでしまっている子を、救う言葉にはならないから」
だからこれは、僕なりの意見だけれど。と先生は前置きして。
「人生は、目的のためにあればいいと思っている」
――綺麗事ではあるんだけどね。と頬を掻いて締めくくる。
そんな先生の表情は、対して暗い面持ちの私とは違い、本当に夢を持った人なんだろう。
「……先生の目的って、なんなんですか?」
私は聞いた。聞いてしまった。
先生はきょとんと目を丸くした後に、どこか照れて恥ずかしがるように。
苦笑しながら、教えてくれる。
「先生は、漫画家になりたいんだ」
見せてもらったその漫画は、とってもとっても先生らしい、優しい世界の漫画だった。
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