失敗を責められた時に自分が悪いと理解できず、ただ「(私は何もしていないのに)ひどいことを言われた」と思う人
これがどういう心理状態なのか上手く説明できずモヤモヤしてきた。
具体的な例を出して説明する。
〇とある例
とある母とその子供がいた。その子は結婚して家庭があるのだが、母はその子自身や孫に会いたさにその子の家を訪ね、料理を作ってあげていた。
これだけ聞くといい母親なのだが、その子は慢性的な胃炎を患っており、「胃にやさしいものを作ってくれ」と頼んでいた。にも関わらず母は(おそらく自分が食べたいという理由だけで)揚げ物などを作りおきして帰っていく。
ある時、餃子を作ってくれた母に対し子が「胃が悪いから」と断ったのだが、何度断っても食べさせようとして、最終的には「親の愛が分からないのか」などと言い出す始末。
何度かそういうことが続き、とうとうその子はお腹を壊した。
結局その後、その子は母を家に招くことをやめた。
そして母は「子供の家族が家に尋ねてこない。寂しい」と嘆くようになった。周囲に「それはアンタのせいじゃないか」と言われても、自分の行動が悪かったということがどうしても認められない。
(これは実話で、揚げ物の件は姉、餃子は私である)
***
この例を見ると、この母親がいわゆる「毒親」であると思う方も多いかもしれない。
ここでヤッカイなのは、この母親はまぎれもなく子供を愛しているということである。それが何かの免罪符になるわけではないがここがとても重要で、なぜかというと、この人はおそらく自分の行動を客観的に顧みることが本当にできないのである。
要するに「自分が一生懸命やってあげているのだから、自分の努力を認めて感謝するべきである」という考え方なのだ。例えその行動の結果相手が苦しもうがどうしようが、自分が労力を費やしてやってあげた、ということが大事になってしまっている。
人に何かをやってあげる、というのはいつでも気分がいいものだ。しかしそれが果たして本当に相手にとって幸せなのか、ということを考えない「奉仕」は「暴力」になってしまう。
私が以前読んだ「ブッタとシッタカブッタ」という漫画にカブトムシにショートケーキを買ってあげてそれしか食べさせなかった結果死んでしまったというエピソードが出てきたが、まさにそれである。
世の中に多くいるのは「絶対的に悪い人」というよりも、この手の「悪気のない迷惑な人」だ。そういう人を責めるのは不毛で、「私は何もしてない!」と逆ギレされるだけに思う。
しかし、こういう行動を「愛」という名前の元に正当化することはできないだろう。
では、なぜこういう思考回路の人間が誕生してしまうのか。
おそらく単純に、自分自身で精いっぱいで「相手がどう思うか」ということにまで考えが回っていないのだと思う。
おそらく幼少期に自尊心がうまく育たなかったタイプの人というのはこういう心理状態に陥りがちなのかもしれない。
私の学生時代の知り合いで、先生に叱られると過呼吸になってしまう人がいた(推測だが、家庭環境があまりよくなかった?)。例えその人自身が悪くてもそうなるので、私は昔その人がただ逃げ癖のある精神的に幼い人だと思ってしまっていたが、今考えるとその人はおそらく何らかの心の病気を患っていたのだと思う。
精神疾患があれば何をしてもいい、と言っているわけではないが、世の中はそういうふうにしか生きられない人というのが一定数いて、そう言う人たちともともに生きて行かなければならないのである。
あまりこういう言い方をして一般化したくないのだが、まとめると:
確かにそういう「おかしい人」というのを責めたくなるのは自然だが、そういう「おかしい人」はおそらく心の問題があって自分を客観視できていないので、責めるだけムダなのではないか?
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