第37話 SUSHI食べたい

 その夜、尊は宿が取れたと言って僕の家を立ち去っていった。

 本当はもう一泊するつもりだったのかもしれないけれど、これ以上一緒にいるとさすがの尊でも心が苦しくなるのだろう。


 でも去り際には彼らしくこんなことを言っていた。


「もしマンネリしたなら是非呼んでくださいね! ボク、両方いけるのでプレイの幅が広がりますよ?」


 冗談っぽくない冗談に、僕と葉月は苦笑いを浮かべていた。


 切ない気持ちでいっぱいであるはずなのに、ひょうきんに振る舞うのは彼なりの意地だろう。そんな彼の生き様みたいなものを否定したくなかったので、僕は笑って送り出すことにした。


 物語の最後には思いっきり笑えるよう、僕も尊に負けじと頑張らなくては。


 ◆


「行っちゃったね」


「うん、なんだか嵐みたいだったけど、楽しかったよ」


「そりゃあそうだよねぇ、メイドビキニ2人に囲まれるなんてなかなかできない体験だもんね」


「そ、そういう意味で言ったわけじゃないよ!」


 葉月は冗談だよと軽く笑う。

 今までよりももう一歩踏み込んだレベルで刺激的だったので、どこか一人になったタイミングでじっくり思い出すことにしようと思う。


「なあ葉月、そういえば今朝やるの忘れちゃってたんだけど、ハグ……しない?」


 おもむろに僕はそんなことを言い出す。


 すっかり忘れていたれけど、さっきまで僕は葉月が尊に取られてしまうのではないかと、悶々としていたのだ。


 毎日一度は葉月とハグをしようと決めていたので、2人きりになったこのタイミングがベストだと思った。


「う、うん……、もちろん良いよ。珍しいね、一太郎から言いだすの」


 僕からこんなことを言い出すのが珍しいのか、葉月は少し驚いていた。

 このときの僕はなんとなく人肌恋しいというか、葉月をぎゅっと抱きしめたい欲求にかられていたと思う。


「なんかわからないんだけど、抱きしめておかなきゃって思って」


「なにそれ、変なの。でも、ちょっと嬉しいかも」


 葉月は腕を広げて抱きしめて来なさいよと僕をいざなう。

 僕はそれに従うように、彼女を自分の懐へと抱えこんだ。


 いつもならばもう発作が起き始める頃合。しかし今日は不思議と大丈夫だった。

 拒絶反応が起きるどころか、もっと長い時間葉月を抱きしめていたいとすら思えたのだ。


 初めての長いハグに心臓が高鳴る。頭ひとつ身長の低い葉月には、おそらくこの鼓動が丸聞こえであろう。

 でも恥ずかしい気持ちは無かった。むしろ僕がここにいるのだと証明するために、もっとこの鼓動を葉月に聞かせたいぐらいだった。


 ふわっと香る葉月の髪、柔らかい彼女の身体、伝わってくる温かさ、その全てが愛おしくてたまらない。


 尊にひと芝居打たれただけとはいえ、葉月が取られてしまうことが僕は心の底から嫌だったみたいだ。いなくなりそうになって初めて気がつくなんてとても愚かだなと思う。それでも、いなくなる前に自分の気持ちと彼女のとうとさに気づくことができて良かった。


 僕はもう、葉月を手放したくはない。


「……一太郎、大丈夫なの? 発作起きてない?」


「大丈夫みたい。今ならいくらでも抱きしめられるよ」


「そう……、なんだ。じゃあ、かなり克服出来たんだね」


「うん。葉月のおかげ。あとは、きっかけをくれた真と尊のおかげ」


 葉月は何も言わず、僕の懐へさらに顔をうずめる。

 こういうときの葉月は、意外と照れ屋なのかもしれない。


「なあ葉月、もうちょっと抱きしめていてもいい?」


 僕のその言葉に、葉月は懐へ顔をうずめたまま首を縦に振る。

 了承を得た僕は、少しだけ抱きしめる力を強めた。


 何分間抱きしめ合っただろうか。

 気がついた頃には身体が熱くなっていて、軽く汗ばんでしまっていた。

 汗臭いと思われてしまうのはちょっと嫌だったので、ここらで一度葉月を解放する。


 色々な感情が葉月の中で渦巻いているのだろう。彼女の顔には、喜びのような驚きのような、それでいて悲しみも混じったような、よくわからない表情が浮かんでいた。


「ありがとう葉月。僕、やっと克服出来たかもしれない」


「……うん」


「ごめんごめん、色々な苦労をかけたもんね。でもそんな顔するなよ。これからがやっとスタートラインだよ」


「……うん」


 葉月はしばらくその調子だった。

 僕はひと息つこうとして冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出す。2つのコップにそれを注いで片方を葉月へ渡し、軽く乾杯をした。


 それを飲んで落ち着いたのか、葉月にはいつもの調子が戻ってきたようだ。


「――よーし、一太郎が克服できたお祝いということで、今日は思い切ってお寿司にしよっか!」


「おっ、いいね。昨日が和牛のすき焼きで今日はお寿司なんて貴族みたいだね」


「というわけで、貴族級に稼いでいらっしゃる一太郎さん、ごちそうさまです」


「ええっ、僕の奢りなの!? ……まあいいか、お祝いみたいなものだし。貴族級には稼いでないけど」


 葉月は両手をあげてやったーと喜ぶ。


 これからずっと、こんな感じでなんの障害もなく彼女と過ごしていけるようになった。僕もそのことが嬉しくてたまらない。

 気がつくと、ノリノリで寿司屋に出前の電話をかけている自分がいた。


 ちなみにあとから知ったけれど、葉月は超がつくほどわさびが苦手らしい。いいことを知ったかもしれない。


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