存在してそうな歴史書

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存在してそうな歴史書

今時世の宗教観は、この人のためにこそあり。

神仏を尊び奉るのは人民よりむしろ国家の方也(人民が貧富や権力の差で争わずに暮らすには、宗教の教義において何よりも重要なこの御業なくしては)。

その教義はかような人間愛好家たちのためにあり、かくのごとき衆生のための政治を成さぬままにすれば、人類は自ら進んで獣畜生の仲間入りする道ぞ。

故にこそ現代日本国政府はその政治制度の末端に至るまで、すべて国民に対して平等な教育を与えねばならない。

この国は民主自由の国であり、民主主義に基づく多数派による少数者の自治・運営であってはならないのだ!

『よだかのおほろしきよ』

「それはそうかもしれないが...」

だがしかし、それでもやはり大衆は納得しない。

そして大衆の疑問に対する答えは単純明快だ。

「だったらなぜ我が国では、ある主義への傾倒しや民族自決を唱える人々が多いんだ? 彼らは常に同じことを言っているじゃないか」

...その通りである。ある者たちはみな口を揃えてこう言う。

『我々が祖先として選んだ人間はみな奴隷だった。だから我々はその奴隷たちの権利を奪い返すために立ち上がった!』

『我々が祖先をした動物とは、かつて人間であった者たちなのだ』

『我々人間が人間の奴隷になるなどあってはならないことだ。我々の血筋は皆高貴なる存在であり、我々こそが上に立つべきなのである』

つまり、彼らが口にするところによれば、自分たち以外の人々はみな同等ではなく、奴隷階級に属しているというのは真っ赤な嘘だというわけなのだ。

にもかかわらず彼らの主張するところでは、その人権意識とやらは彼ら自身の創造性によって生み出されたものではなく、他民族や無理解な民衆から都合よく切り取られたものに過ぎないとみられているらしい。

もちろんそれは一面的な見方でしかあり得ないわけだが......

しかし彼らは決してそのことを認めないのである。

そんな彼らに対し、日本は平和的立場に立って慎重に議論を展開してきたものの、結局は対ある国という共通の敵を前にしても対立を深めてしまったばかりか、遂には戦争へと踏み切ってしまった。

しかも、この時に行われた軍事同盟の締結に際しては、日本は自らの非戦運動家の勢力を利用して、大戦への参加及び介入を断固反対すべきであると意見書を発表していたのだ。

ところがこれに反発し、戦争参加賛成派は軍部内部からも激しく糾弾され始めた挙句、ついには反戦市民団体すらも動き出して、国内世論は完全に戦火の中に放り込まれてしまったのだった(もっとも、この時の日本社会にはもはや反戦の余地はないことも大きかったのだが......)。

こうして日本が主導権を握っている状態で始まってしまう、

“日本の主導で”進められていく戦争という名の“政治ショー”

――果たしてこれが本当に正義と呼べるものなのだろうか!?

...残念ながら、現時点ではまだそれすらも分からないままだった。

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