千々星雲 〜透々実生短編集〜

透々実生

ラムネのビー玉、終わる夢。

 ――これは、僕が夢を諦めた、20歳の夏の話。


***


 肌を突き刺す炎天下に暖められた、穏やかな風を堤防が受け止める。僕は、太陽光に熱された堤防に腰掛けながら、手を伸ばしても届かない水平線を眺めていた。真下から奏でられる濤声とうせいが心地良く耳をくすぐる。

「ねえ」

 隣に座る幼馴染――海音みおんが声をかけてきた。白いワンピースと白いハットが白い肌に馴染む。そのまま一体となって溶け込んでしまうんじゃないだろうかと思えた。


凛空りくはさ、ラムネのビー玉を取ろうとしたこと、ある?」


 尋ねながら、空のラムネ瓶を揺らす。カラカラ、カラカラとビー玉がソプラノで歌って、波濤のテノールとセッションを奏でた。

「……何だよ突然」

 脈絡もなく話を振られたので少しばかり困惑するが、このぶっきら棒な返答はまずかった。餅が焼ける様に、太陽に熱される海音の頬がぷくりと膨らむ。

「いいから答えて」

「……あるけど」

「だよね。誰だってやりたくなるもん」

 眩しい笑顔を向ける海音。それからラムネ瓶を、懐かしそうに愛しそうに顔の上に翳した。白熱する太陽光が青い硝子を透過して、海音の白い顔を更に青白くしていく。

「私もね、あるんだ」

「……何の話をしようとしているんだ、海音」

 分からないよ、と言外に伝える――いや、分かろうとしていないだけかもしれない。もう僕には、どっちが本当なのかも分からなくなっていた。

 海音は物欲しそうにラムネのビー玉を眺める。照らされる瞳がきらりと輝いて綺麗だった。

「このビー玉ってさ、透明で完全な球形で、とっても綺麗で美しいじゃない。だからどうしても取りたくなっちゃう。でも――」

 そこで話を切って、突然瓶を逆さまにする。

 ビー玉は重力に従って落ちて行き――からん。飲み口に阻まれて外に出ることはなかった。隙間から余った甘い雫が零れ、堤防の岩を濡らす。

 さざなみの音だけが支配する一瞬の静寂を、海音が破る。

「――このビー玉は落ちて来ない。飲み口も固定されていて、力づくじゃ開けられない」

「……」

 ……当たり前だ、と思うのと同時、漸く海音の言いたいことに察しがついた。

 でも、僕はそれを言って欲しくない。分かりたくなんてない――向き合いたく、ない。

 それでも海音は続ける。俯き加減に、悲しそうな表情をして。


「……このビー玉って、まるで夢みたいじゃない?」


 海音の話に耳を塞ぎたくなった。でも、海音の話に耳を貸さない訳にはいかなかった。好きな人の話を聴かない人なんて、この世にいるだろうか。

「とっても綺麗でキラキラしていて、思わず手を伸ばしちゃう。でも、手に入れられない。割ってしまえば手に入るかもしれないけど、その時には報いでも受ける様に、手は硝子片で傷だらけ」

「……海音」

 嫌だ。

 夢を見て、何が悪いんだ。

「ねえ、凛空」

 海音はラムネ瓶を堤防に置いて立ち上がった。潮風が吹いている筈なのに、海音の着ている純白のワンピースは

 それから僕に振り向いた。青空の中の太陽のように、眩しい笑顔をいっぱいに輝かせてくれる海音。


 ――、と思った。


「私を忘れて、前を向いて生きて欲しいなって。今日はね、それを伝えに来たの」

 14歳で時の止まった海音。彼女の、笑顔で細められている目尻から、涙が滲んで頬を伝う。太陽は憎らしくも涙を照らす。

 あまりにも綺麗なそれを拭ってやりたくて、手を伸ばす。

 手は、空を切った。触れられなかった。

「勿論、凛空と話すのはとっても楽しいの。毎年毎年、楽しかった――でも、それは凛空を縛り付けることにしかならないって、漸く気づいたの」

「そんなこと――」

「あるんだよ」海音が言葉を被せてくる。覚悟を決めているかの様に。「だって凛空は今、『私とずっと一緒に居たい』って叶わない夢に手を伸ばしたまま、立ち止まってる――立ち止まらせちゃってる。私が」

 潮風が少しずつ勢いを増す。つられて波が激しくなる。

 ……海音の声が、徐々に聞こえなくなっていく。

 頼むよ、神様。

 俺の夢を奪わないでくれ。

「だから、ラムネ瓶のビー玉ではない何かに、手を伸ばして欲しいの。それが、私からの最後の願い――

「……海音」

「ごめんね、凛空」

 海音の目が開かれる。溜まっていた涙が、更に溢れ出た。

「私も、凛空が好き。大好きなの」

 抱き締めたかった。抱き締めようとした。……そんなことは、出来なかった。

「だから、ずっと、ずーっと一緒にいたかった。でも、もうお終い。凛空は自分の人生をいっぱい楽しく生きて」

 今まで、ありがとう。

 とびきりの笑顔と別れの言葉のすぐ後に、突風が吹く。

 思わず一瞬目を瞑ると、堤防には風に倒れたラムネ瓶だけが、寂しい音を立てて転がっていた。

「海音! 海音!!」

 呼びかける。答えたのは濤声だけ。

「……っ!」

 そんな事実、受け入れたくない。

 受け入れて、堪るものか!

 遣り場の無い感情の赴くまま瓶を掴み、力任せに堤防に叩きつける。

 破砕音。飛び散る鋭い硝子片。

 ……堤防に転がる、ラムネのビー玉。


 ほら、手に入るじゃないか。


 僕は手を伸ばす。

 だけれど、誤って硝子片に触れてしまい、手を切った。

「っ!」

 反射で手を引いてしまった。掴み損ねたビー玉は、そのまま蒼い海へと落ちて行った。

 僕は、急いで堤防の下を覗く。

 穏やかな波に呑まれ、ビー玉の姿は跡形もない。

 夏日にキラキラ光る硝子の残骸を横に、僕は出血する手を固く握った。


***


 ……これが、僕が夢を諦めた、20歳の夏の話。


 あれからもう、10年か。


 からり。

 夏の盆に、手元のラムネ瓶を揺らした。僕は微笑んだのかもしれなかった。

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