35 本当の名前
答えたのはホシボクロだ。ペロリと口の周りを舐めてから言った。
「ほっといたらライナムル、疲れ切っちまってただろう? 子分ネズミの数はボクたち猫と王宮ネズミの猛者を合わせた数より多かった。だからさ、勝つには一気に敵の本陣を襲うしかないと思ったのさ」
「それでリーシャさまに剣を取って来いって言ったのですか?」
ロンバスの厭味に、
「違うわい!」
ホシボクロが大声をあげた。
「オッキュイネとボクで行くつもりだったんだ! で、オッキュイネを探しに部屋に行ったら、そこにリーシャがいた。ボクの計画を聞いたリーシャが、それなら自分が行くって――リーシャが自分から行くって言ったんだよ。僕は止めたんだよ、ライナムル」
最初はロンバスに怒りを隠さない怒鳴り声、後半はライナムルに許しを請う、頼りなげな声になっている。そんなホシボクロの頭を『判っているよ』とライナムルが優しく撫でる。
安堵の色を見せるホシボクロにライナムルが続ける。
「それで、その計画ってどんな?」
「うん、最初にライナムルがやっつけた親玉ネズミなんだけどね――」
王宮ネズミたちに壁に穴を開けて貰って、そこからオッキュイネと一緒に地下の部屋に入って剣を持って帰ってくる――ホシボクロの説明を、ウンウンと頷きながら聞くライナムルだ。
「なるほど、ホシボクロとオッキュイネでは剣を持って帰れない、それでリーシャが行くって言いだした」
今度はリーシャに視線を向けたライナムルだ。
「それじゃあ、地下室の上部に入ってからはリーシャに聞くしかないね」
「はい……」
オッキュイネは姿を消して内部に突入したこと、床に着く直前でオッキュイネが動きを止めたこと、魔物の王には姿を消したオッキュイネが見えなかったこと、いたのは黒いモアモアしたものだったこと……筒状のあの部屋で起きたことをリーシャは思い出せる限り正確にライナムルに伝えようとした。
リーシャが話し終わると、
「よく目を回さないでいられたね、うん、よく頑張った。リーシャ、偉いね」
と、ライナムルがリーシャの頭を撫でた。
涙ぐみそうになったリーシャ、でもここは我慢して一番気になっていたことをライナムルに問う。
「ねぇ、ライナムル。癒しの乙女ってなぁに?」
チラリとロンバスを見るライナムル、ロンバスはさりげなくライナムルから目を逸らした。
ライナムルとロンバスが答えないのを見て、ホシボクロがヒゲ掃除の手を止める。
「癒しの乙女って言えばあれだろ? 人間だけじゃなく、生きとし生けるもの、魔物に及ぶまで癒しを
「へっ?」
驚いたのはリーシャだけじゃない。
「ホシボクロ! おまえ、知っていたのか!?」
声を上げたのはロンバスだ。するとホシボクロ、
「なんだ、気が付いてなかったのかよ。ってことはライナムルも?」
とライナムルを覗き込む。ライナムルは曖昧な笑みを浮かべるだけだ。
そう言えば、とリーシャが思い出す。修道院にいる時、リーシャが看病するとなぜか病気が軽くなったり、治るのが早かったりした。だからいつの間にか、怪我の手当てや看病はリーシャの仕事になっていた。ウルマとロンバスが修道院の裏手で暴漢をやっつけた時も、だからリーシャが手当てに出て行った。
日常になってしまえばいつの間にかリーシャの特異性を誰も感じなくなり、リーシャ自身も『そうなのかしら』と思うだけだったのだから、すっかり忘れてしまっていた。今だってホシボクロの説明に、本当にわたしが? と思ってしまう。
癒しの乙女については何も言わないまま、ライナムルが話題を変えた。
「オッキュイネが途中で動かなくなったって言ってたよね。その時、オッキュイネは姿を現してた?」
「ううん、魔物の王はわたしが自力で宙に浮かんでると思ったみたい。宙を飛ぶ人間なんか見たことがないって言ってた。魔法使いかって言ってたわ」
「魔法使いだって宙を飛ぶとは聞いたことがない――その時のオッキュイネの様子は? って、姿が見えないんだった。判らないよね」
ライナムルが苦笑する。
「うん、そうなのよ――で、わたし、オッキュイネを呼んだの。そしたらブルブルって震えて、何をしようとしていたか思い出したみたい」
「そうか……魔物の王にオッキュイネは見えなくても、オッキュイネには魔物の王が見える。オッキュイネはひょっとしたら、攻撃したかったのかもしれないね」
「魔物の王に?」
「そうだよ、他に誰がいる?」
ライナムルが溜息を吐いた。するとホシボクロが尻尾を立てた。
「オッキュイネにとって魔物の王は親の仇だ。目の当たりにして、怒りや憎しみや憤り、今まで押し殺してきた様々な感情が爆発しそうになったんじゃないの?」
「魔物の王がオッキュイネの親の仇?」
ライナムルが驚いてホシボクロを見る。
「そうだよ、そんなことも知らなかったんだ? ライナムル、あんなにオッキュイネのこと可愛がって大事にしてるくせに、なんで知らないんだよ?」
苦笑するしかないライナムルだ。
「僕は母上と違って鳥の言葉が判らないからね。オッキュイネの考えていることや感じていることはだいたい判るけど、何を言っているのかは判らない」
「チッチピッピオにはあいつ、懐いてないからなぁ」
とホシボクロも苦笑する。
「あら、オッキュイネは王妃さまが嫌いなの?」
「嫌っちゃいないだろうけどさ」
リーシャの問いに答えたのはまたもホシボクロだ。
「チッチピッピオは鳥を使役できる。鳥の王オッキュイネはあんまりいい気がしないんじゃないの?」
「鳥の王?」
今度はロンバスが口を挟む。そうなのよ、と答えたのはリーシャだ。
「魔物の王の強風で、とうとうオッキュイネが姿を見せた時、魔物の王はオッキュイネを魔鳥の王って呼んだわ」
それにはライナムルがニッコリする。
「僕が思っていた通りだね。やっぱりオッキュイネは鳥の王さまだったんだ」
「それでは、今後、さらに敬意を払わなければなりませんね」
ロンバスの冗談にホシボクロが『ボクにも敬意を示せ!』と笑った。
リーシャにはもう一つ気になっていることがある。
「わたしが癒しの乙女だとして、リーシャって名前を教えたのに、なんで魔物の王はわたしを操れなかったのかしら?」
「癒しの乙女だろうがそうじゃなかろうが、名前を知った相手を魔物の王は操れるんだと思うよ」
とライナムルが答える。
「そっか、癒しの乙女じゃなくても名前が知りたかったってことね――で? なぜわたしは操られなかったの?」
チラッとライナムルがロンバスを盗み見る。
少し考えてからロンバスが言った。
「魔物の王は長年、あの部屋に閉じ込められていました。外ネズミは巧く操れたかもしれませんが、人間を操ろうとして失敗したんじゃないでしょうか?」
だがこれは、
「魔物の王に限ってそれはないだろ?」
とホシボクロに笑い飛ばされる。
「もしさ、操るのに失敗したとしたら、リーシャってのが――」
「ホシボクロ、喋り過ぎだ」
いつになく鋭い声でライナムルがホシボクロの言葉を遮る。でも却ってそれはリーシャに何かを隠していると知らせてしまった。それに気が付かないライナムルではない。
少し溜息を吐いてからライナムルがリーシャに向き合う。
「今、ホシボクロが言おうとしたのは、リーシャには本当の名があるんじゃないかってことだよ」
「本当の名前?」
ホシボクロに初めて会った時、そんなことを聞かれたことをリーシャが思い出す。
「うん、よく聞いてね、リーシャ――リーシャは小さい時、お母さんに連れられて古郷から王都に逃げてきたって言ってたよね」
「あぁ、それはわたしの想像。
「リーシャの想像は当たってると僕は思うよ――で、逃げてきたってことは、本当の名前を隠した可能性が高い」
「あぁ――」
「リーシャ、ひょっとしたら本当の名前はこれかも、ってのはない?」
どうだったかしら? ずっとリーシャだった。みんなわたしをそう呼んでた。俯いて考え込んだリーシャがぼそぼそと答える。
「リーシャ以外を名乗ったことはないし、呼ばれたこともないわ。母の名はレイシアで……そうとしか知らないわ。あ、でも――」
「でも?」
ふとリーシャが思い出したのは小さなころに母親に言われた言葉だ。
『そのうち言えるようになるわよ』
リーシャが顔を上げライナムルに訴えるように言った。
「母がそのうち言えるようになるって言ってたのを思い出したの。でも、それがどんな言葉だったか思い出せない。ひょっとしたら名前?」
リーシャを見詰めてライナムルが優しい眼差しを向ける。
「うん、多分それがリーシャの本当の名前だね。思い出すことなく、リーシャがずっとリーシャでいてよかった。それがリーシャを救ったんだよ――リーシャ、本当の名前を思い出したい? 知りたいかい?」
自分を見詰めるライナムルをじっとリーシャも見つめる。優しくて穏やかで、誰よりも美しい瞳――この人はわたしがどんな選択をしてもきっと判ってくれる、許してくれる。
「ライナムル……わたし、ずっとリーシャだったの。修道院のみんなも、亡くなった母も、わたしをリーシャって呼んだ。ライナムルもリーシャってわたしを呼ぶわ」
「うん、そうだね――僕のリーシャ」
「だからわたし、このままでいい。リーシャのままがいいわ――本当の名前って重要?」
リーシャのこの質問には少しだけライナムルが困り顔を見せた。
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