藍と太陽

November Nineteenth

一 六月十三日

 生きるということは、刹那の繰り返しだ。どんな感情に流されようと、今は過去と同じで、未来もまた今と同じなのである。時間には永続性などない。その刹那、その瞬間が無限に続いていくだけだ。高校か中学で数学の教師が、「二次関数の放物線はプロットした点の連続なのだ」と雄弁に語っていたが、それと同じ理論だ。僕はここに来てから、ようやくその事実に気づかされた。

 僕の一日は、朝起きて点呼、夕方に点呼、就寝前に点呼。その繰り返しだ。点呼の無い時間は部屋の中で自由に過ごすことができる。と言ってもテレビもスマホも新聞もないのだが。だからこうして、何気ない思いを綴る毎日だ。ただただ、自己満足の形容と言葉(センテンス)を並べながら。周囲から疎まれている僕の生きざまなんて何の価値もないのかもしれない。国民と国家から生きることを禁止されたのだから。あの日、―四年前、八月の暑い日だった。あの日から僕は名前をなくした。世間からは「大量無差別殺人を起こした死刑囚」と言われ、拘置所では番号で呼ばれる。もう死ぬまで、いや、死んでからも名前で呼ばれることはない。僕はこの部屋で、その日が来るのをただ待ち続けるだけだ。もちろんそれへの恐怖は今も持っているが、四年も待たされると、結局は永遠にこれが続くのではと思っている。はやく執行してくれと思っている自分すらいるように感じる。僕に名前はない。大量無差別殺人をした死刑囚なのだ。

 子どもの頃、確か幼稚園に通っていた時だろうか。僕は電車が好きで、電車のおもちゃで遊んでいた。すると隣にいた子が、僕もそれ使いたいから、と言い、僕が使っていた電車のおもちゃを取り上げ、遊び始めた。当然僕は嫌だと言い、取り返そうとしたが、体が小さかったからその子に勝てず、取り返せなかった。僕は腹が立って、楽しそうに遊ぶその子の背中に思いっきり蹴りを入れた。彼はそのまま前に倒れ、バカでかい腹に電車が刺さっていた。そこからは殴り合いの大喧嘩だ。先生がやってきて止められた。

「やられたからといってやり返してはいけません。」

先生はあのデブの子にそう言っていた。そうか、やり返してはいけないのか。四歳の僕はそう学んだ。今僕は、人を殺したから、国家と国民の総意によって殺されようとしている。「人を殺したのだから死刑になって当然」きっとあの日の先生もそう言うだろう。そして子供にはあの日と同じように、「やられたからと言ってやり返してはいけませんよ」という。日本人の優柔不断な民族性か、それとも僕がおかしいのだろうか。この国では誰もそんな矛盾に触れようとしない。

 今日は六月十三日。この塀の外の世界はもう梅雨入りしたのか、コンクリートの壁に耳を当てると、ひんやりとした感触の裏から、かすかに雨の音がする。外では紫陽花が申し訳なさそうに道端に行儀よく座り、その着込んだビリジアンの葉をしとしとと雨が濡らしている。そんな景色が想像できた。もう四年間、この中でしか生活していない。当然ながら、外の景色や、日本や世界では今何が起こっているのかは、全部自分で想像するしかない。外の世界を想像し、妄想を膨らませることは好きだ。みんなが住んでいる「世界」から隔離されたここでは、僕の「セカイ」は僕の思い通りに形作られる。嫌なものは消去し、自分の想像を頭の中で創造し、それだけが自分のすべてになる。僕の「セカイ」は、「世界」では嘘であることも真実になり、「セカイ」をつくるピースになる。ここにきて、世間から隔離された自分のセカイを作ることの楽しさに気づいた。自分が感じ取ったことが真実で、それ以外は嘘として見ることができる。このセカイでは、真実はふたつだけ。僕は近いうちに死ぬということ。そして、僕は今、生きているということだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

藍と太陽 November Nineteenth @NovemberNineteenth

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る