3.山の領主
桜が咲いている。
時期外れのとても大きな狂い桜は小島の中心に佇んでおり、周りには澄んだ水が取り囲んで妙に神聖な空気が漂っていた。息も絶え絶えに私はその池を覗き込む。誰だこれは。何処なんだここは。分かりもしない問いだけが頭へ駆け巡る。
見慣れた電柱も、アスファルトもない道。暗くて月の光だけが水面に反射して辺りを照らしているんだろうか、辛うじて見える景色へ私はただ呆然とする事しか出来なかった。
やがて暫しの沈黙の後、光を放つ植物が開花し蛍の様な虫が舞っていく。訳もわからないまま現状を忘れ、綺麗すぎるその光景に目を奪われたそんな時だ。
現在の山の領主、ヒルダ・レティエと出会ったのは。
『だれだ、お前は』
酒瓶を片手に漆黒の髪を靡かせ、その綺麗な背景に負けぬ程の気高い魂の色。色?オーラと言うべきものなのか、よく分からないが何となく認知できるらしい。
ぽけっとしていれば不躾にも不機嫌そうな顔を向けられ戸惑う。口が聞けねぇのかと酷く面倒そうに問われて慌てて否定した。
自分は確かにただ道を歩いていた筈だったと。それが何故か急に立ち眩みが起こり、気がつけば此処にいたのだと。
なんの前触れもなく、いつも通りであった筈の帰り道。会社から退勤ボタンを押して本当にサクサクと歩いていただけだった。毎度の事である少しのサービス残業には目を瞑り、明日は休みだなぁと少し気が緩んだ金曜日の夜が突然姿を変えるなど、一体誰が想像できようものか。
何故だ。もう一度答えの出ぬ問いが脳を支配する。なんで自分はこんなところに居るんだろうか。そしてどうして、私はこんなにも体調が悪いんだ。
「遅ぇ。」
低く小さく吐き出された言葉にハッと我に返る。満点の笑みはそのままに、私は深く息を吸い込んだ。
剣聖ヒルダ・レティエ。外国の様なこの場所で、唯一着流しの様な衣を纏い色気を放つ鬼畜野郎。もとい私がこの世界で初めて目にした人間であり、生きる術を叩き込んでくれた恩人だ。
ヒルダさんはいつもの様に酒瓶ごと口へ運び、一気に煽る。四十五は過ぎた歳の癖してまだ無駄にフェロモンを撒き散らしている様で、初見の女性であれば一瞬で色恋へ落ちるだろう。
残念ながら私の場合、苦い苦い修行という虐めをされたので恨みはあれど恋などという生温い感情は一切ない。そう、私は未だに雪山のてっぺんへ放置された事を根に持っているのだ。あれは流石に死ぬかと思ったんだぞ。
少しだけ遠い目をしていると、視界の隅にくたばっている偽物のルネートが見えたので合掌しておく。さっき響き渡った爆発音は大きかった癖に、ヒルダ・レティエに外傷はない。寧ろ爆発物を使ったであろう男と部屋の方がボロボロだった。
「もしかして、火が届く前に切りました?」
「鞘から出すまでもねぇ。」
「それは失礼。」
「コイツが面白え名を使いやがったから見逃してやったのに、興奮してつまんねえ攻撃しやがるから振り回してやっただけだ。」
「お、お気の毒ぅ。」
けれど、思ったよりは機嫌が良いらしい。おそらく殺気だけでも黙らす事など簡単だったろうに、態々己が愛刀でなぎ払い、殺しすらしていない。これは少し自惚れても良いのかとほんのちょっと苦笑した。
私はこの人の事を知っている。厳しさの中に優しさがある事や、その見かけだけの酒瓶の中にいつも子供でも飲める様な甘いジュースが入っている事。下戸の癖にそんな素振りをするのは威厳の為、他領の連中になめられない為だと口をこぼしていたのは一体何時の話だっただろうか。
懐かしさに釣られて黙っていれば、隣の門番が真っ青のまま領主に謝った。すまねぇ長よ。俺のせいだと、土下座しては震えている。ジドさんはまだ入ったばかりだから知らないのだ。彼の事。ヒルダ・レティエという男の性格を。
「ったく。伝言はしていた筈だがな。」
「、」
「まぁいい、それよりルネート。」
「はぁい」
「どこで道草食ってやがった。」
「こんな事言うのなんですけど、ちゃんと二日前にはついてたんですよ?」
「あほか。それより以前の話だ。」
「。」
「もう一度言うぞ。どこで、寄り道していた?」
瞬間鋭い殺気が私へ向けられる。未だに慣れないビリビリとした肌の感覚。隣ではジドさんの顔が青を超えて真っ白になっていた。
正直背中に伝う冷や汗など気にしている余裕はない。間違いなく、バレている。剣聖が嫌う彼女へ会いに行っていた事。そしてそれを此方の仕事前に優先させてしまった事。これは非常にまずい展開になりそうだと瞬時に理解した。
仕方なしに今回のお代は結構です!と早口で言ったら、当然だろなんて傲慢そのものな返答が返ってきて少し泣きそうになったが致し方あるまい、命には変えられん。厳しさの中に優しさがあり、その中に鬼畜がある様な男だ。彼の愛弟子と自負はしているが、命まで取られずとも全治数ヶ月の傷を負わされるだなんて事も普通に考えられる。
引きつる顔をなんとか止め、そのまますいませんでした、海の領地へ行っていましたと正直に言う。そしたらジドさんが卒倒しそうになりながらも勢いよくこっちを見た。やめてくれ、言いたい事はわかっている。火に油だってのは理解してるんだ。
しかし、そこは私も運び屋の意地。期限切れの仕事が近かったもので優先順位を付けさせて頂きましたと、そう言い終わって黙りを決め込んでおく。これ以上は守秘義務だと相手も分かっている。だからふっと殺気が収められた瞬間、肩の力を抜いてやった。相変わらず脅しの掛け方が上手い人だ。
「ふん、吐けばいいものを。中々根性見せる様になったな餓鬼。」
「恐縮です。」
「相手も速達だったと言う事は分かった。十分だ。」
「げ。やめてくださいよ、詮索するの。」
「それは向こうも同じだろ。直接的な言葉を使わないだけで察しているのは変わらん。」
「、うーん、参ったなぁ。」
「つくづく詰めが甘い。せめて此方と彼方の情報網だけは押さえておけ。命がいくつあっても足りねぇぞ。」
「了解師匠。」
苦笑しながらゆっくりとご機嫌取りに空の領地で得た手土産の茶菓子を差し出せば、甘党な彼は一瞬子供の様に目を輝かせた気がした。そんな様子を垣間見たジドさんは先ほどの名残で顔を引き攣らせながらもきょとりと瞬きを繰り返している。
一変し、上機嫌になった師匠は彼へ目配せして偽物ルネートを部屋から追い出した。それで?どうだったと。二人きりになった途端仕事の話とは、ほんと恐れ入る。
今回の仕事。それは最近突如現れたとあるモンスターの生態及びその行動範囲を調べ上げ、その情報を届けるというものだった。運び屋だって言ってんのに幾度もこうして情報屋の様な他の仕事も任せ、万屋扱いをする領主達には困ったものである。
それだけ領土の横断が難しく信頼できる者も少ないんだろうが、何だよ、別に運ぶのは変わらないとか屁理屈捏ねやがって。その手の仕事屋から逆恨みも買うし命の危険は割り増しだし本当に良い事ないんだぞ。
一応専門でも無いので全て口頭が条件で渋々受け入れたのだけど、これが天下の領主様方からの依頼で無ければ誰が引き受けてやるもんか。決してギャラに釣られた訳ではないから。決して。決してだよ。いやそも今回はノーギャラになったんですっけね。くっそ、お土産もあったんだし半額で手を打って貰えれば良かった。惜しい事したなぁなんてため息を吐いては考える。
「どうもこうも、死にかけましたが。聞いてませんよ、あんな化け物だって。」
「く、そうだろうなぁ。噂が本当なら奴は嵐や雷の化身そのものだ。」
「出くわした場所が鏡の森で助かりました。平野で出会っていたらまず逃げられなかった。」
「普通の人間ならな。」
「。」
「だがお前なら逃げ切れるだろうが。なぁルネート?」
嫌みったらしいその笑みに気付かなかったふりをして、話を戻しますがなんてさらりと躱す。師匠はクツクツと面白そうに此方の様子で遊びながらも、決してその続きに口を挟もうとはしなかった。
それだけ事の重大さが伝わって来たので淡々と調査結果を述べていく。モンスターの容姿は獅子の頭部に鷲の身体。高い山や木の上を好み、どんな鳥類系よりも早く飛ぶ。その翼で嵐を起し、咆吼で大地を砕くとまで言われた伝説上の生き物。その名は、
「間違いなくアンズーです。現在の被害は数ヶ月前に滅ぼされた街二つ。どちらも結界器具もろとも一瞬で壊滅へ追い込まれたとの事。」
「そうか。」
「辛うじて生き残った難民は隊商を編成し移動しているとか。しかし、安全地区へ辿り着く前に息絶えるでしょう。アンズー自身が出てこなくとも、あの辺りは他と比べてモンスターの数が最も多い。」
「だろうな。だからこそあの女もお前に頼んだんだろう?新しく作る結界器具の素材を。」
「守秘義務です。」
「ふん、腐っても領主だな。お互い。」
それは決めつけられているが、間違いなく当たっていた。海の女領主は確かに私へその素材の調達を頼んでいたからだ。一つは自領における領土防衛の為。もう一つは交易または慈善活動という名の名声上げの為。かの領地は加工分野がとっても得意だから、新たに強固な結界でも作るのかもしれない。
ふっとわらって目を伏せる。どちらの領主も啀み合っている癖に、無意識下で互いを認め合っていた。彼女もモンスターの調査など攻め入る態勢でなく、防衛に徹したのはこの男が動くと確信していたからに違いない。この二人が組めば恐らくもっとモンスターからの被害に渡り合えると言うに、残念な事だ。
香奈、と本名を呼ばれて視線を戻す。彼が言いたい事は分かっている。ヒルダさんだけじゃない。山の領地の人間は、皆モンスターに敵意を抱いているのだから。
「アンズーを殺すぞ。手伝え。」
響いた声に少しだけ痛んだ心など気にはしなかった。所詮モンスターは化け物で悪役。殺すしか、ないのである。
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