3-4

 翌日。


 その日は普段より、目覚めたときの爽快感が強かった。


 きっと、昨日の畑仕事で疲れていたからだろう。

 いつもより、よく眠れたみたいだった。


 ベッドの上で、上半身を起こして、背筋を伸ばす。


「…………たしか、今日は休みだったな」


 仕事を始めてから2日目で休みを貰えるとは。

 なんと優しい世界なんだろうか。


 まあ、今日が偶々休日だっただけなんだけどな。



 ベッドから降りて、部屋を出て一階に降りる。


 すると、既にハンナが朝食を食べ終わって、ゆっくりとお茶を飲んでいた。

 この世界のお茶は、苦いものと甘さがあるものに別れている。

 緑茶と紅茶のようなものだ。


 いま彼女が飲んでいるのは甘い方だろう。

 甘さのあるいい香りがする。



「おはよう」

 と挨拶をすれば、「おはよう」と返って来る。

 しかも、かわいい笑顔付きだ。


 朝、目を覚ますと可愛い少女が同じ屋根の下に居る。

 おそらく、恋人がいない多くの男性が夢見るシチュエーションのひとつに、頬を緩ませながら、隣の椅子に腰を下ろした。


 …………可愛い女の子なら誰でもいいというわけではないが、かわいい女の子がすぐ隣に居て、どうでもいいことを話す空間がある。

 たったそれだけで、疲れは吹き飛び、癒される。


 決して、自慢したいわけじゃないが。



 ここは、最高だ!




「ねえ、今日って仕事休みでしょ?」


 お茶を飲み終えたハンナが、こちらを見詰めてくる。


「うん。休みだけど」


 そう答えると、彼女は目を細めた。


「じゃあ、少しだけ2人で出かけない?」


 その言葉に、俺の思考はフリーズした。


「……………………え?」


「2人で出かけようよ」


 彼女が見詰めてくる。

 慌てて顔を逸らして、頷く。


「……………い、いいけど」


 すると、彼女は「やったー」と喜びを口にした。


「………………体の調子は大丈夫なの?」


「うん。今日はすごく調子がいいから」

 その笑顔は、きらきらと輝いて見えた。







 朝食を食べ終えて支度を終えると、丁度部屋の扉が叩かれた。


「はい」


「準備できた?」


「うん。できたよ」


 すると、扉が開かれてハンナがひょっこり顔を覗かせた。

 白いフリル柄のワンピースに似た服を着ていた。

 いつも、シャツにカーディガンを着ていたため、その新鮮な光景に呼吸を忘れた。


「どう? 似合ってる?」


「はい。とても似合ってます」


 そのままの感想が口から出る。

 ハンナは嬉しそうに口角を上げた。



「じゃあ、行こっ!」


 ハンナに腕を引っ張られて俺たちは家を出た。








 ハンナと過ごす休日は、とても楽しいものだった。


 ただ、村の中を一緒に歩いた。


 散歩と呼んでも差し支えのないそれは、間違いなくデートだった。


「おはようございます」

 と村の人たちに挨拶をして。


「お、2人でお出かけかい?」

「そうなんです」

 とおじさんたちと会話して。


 並んで歩いた。


 しばらく村の中を歩いた俺たちは教会の前で足を止めた。


「少し、いいかな?」


 そう聞いてくるハンナに俺は微笑んで頷いた。


 教会に入っていくハンナの背中を追いかける。

 教会の中は静かで、とてもきれいな空間が広がっていた。


 司祭などの姿はなく、ただ、長い椅子が等間隔に並んでいるだけ。

 窓から差し込む光が教会の中を照らしていて、神聖さを感じた。

 その光景に、ゾクリと悪寒が走った。


 得体の知れない感情。それほどまでに、教会の中に漂う空気は綺麗過ぎた。

 小さく古い村の中にある建物とは到底思えない。

 それは外壁だけでなく、内側も同じだった。


「…………たしか、聖堂って呼ぶんだっけ」


 ぐるりと内側を見渡す。

 綺麗に並べられた椅子。綺麗に清掃された床と壁。

 埃や目に見えない塵なんかも存在しないのではないかと疑うぐらいに綺麗過ぎる。


 人間のヴァーテクスに対する信仰心がこの教会をここまで綺麗に保っているのだろうか。

 だとしたら、それは最早異常と判断しても差し支えないのでは?


 呼吸を繰り返すだけで息が詰まりそうだった。


 その中で、真ん中らへんの椅子に座るハンナは両手を合わせて、頭を垂れていた。


 俺は静かに、その光景を見守った。





 教会を出て、またしばらく並んで歩いた。


「この先に、花畑があるんだよ」


 ハンナが道の先を指で刺した。

 さっきの儚げな脆い姿を感じさせることなく、彼女は嬉しそうに歩いている。

 まるで、ステップでも刻むように。



 その途中、荷物を運ぼうとしているアラン村長とおばあさんを見かけた。


「どうしたんですか?」


 どちらからともなく、アラン村長に駆け寄った。


「お、2人とも。実はこの荷物をツナさんの家に運びたいんだが、人手が足りないんだ」


 ツナさん、というのは隣にいるおばあさんだろう。

 彼らの前には俺の腰の高さまで積まれた荷物があった。大きな皮の袋が縦にふたつ詰まれたものと、その横に布が積んである。




「俺、手伝いますよ」


「いや、お出かけの途中で悪いよ」


「いや、いいですよ」


 大きな皮の袋の方を持ち上げる。…………持ち上げようとしたが、簡単には持ち上がらなかった。


「ふんっ」

 両足を踏ん張って何とか袋を持ち上げる。

 軽く、大人ひとり分くらいの重さを感じた。


「大丈夫か」


「はい。大丈夫なので家まで案内してください」


「私がするね」

 そう言ってハンナが歩き始める。


「じゃあ、俺はこっちを運ぶよ」


 アラン村長は積まれた布を両手で持ち上げて歩き出した。






「みんな、ありがとうね」


 無事に荷物を運び終えて、ツナさんから感謝の言葉を貰った。


「どう、いたしまして」

 俺は肩で呼吸を繰り返してそれに応える。


「お礼に、これ上げるわよ」


 差し出されたのは小さな布の袋だった。


「これは?」


「お茶の葉っぱと木の実が入ってるからね」


「ありがとうございます」


 それを受け取ると、皺だらけの顔をより一層皺を増やして頷いた。



「2人とも、邪魔して悪かったな。それと、ありがとう」


 アラン村長と別れてデートを再開させる。


 しばらく歩くと、ぽつぽつと樹木が見え出した。

 村の外に広がる森の木々よりも背は小さい。さらに進めば、辺りは林っぽくなり、人の気配も少なくなってきた。更に進めば、村を囲うようにして建っている柵が見えてきた。


「もしかして、怪物避け?」


「そうよ。危ないから気を付けてね」


 木を網目状に組んで、土台を石で固めてある。

 村の外に向けられて、等間隔に鉄の槍先が並べられている。

 その外側には、奥が見えない程濃い森が広がっている。


「…………すごいな」

 感動して、息を漏らす。


 この柵に沿って歩くと門が見えてくるわ」


 止めていた歩みを再開させる。

 数分歩くと、彼女の言葉通り門が見えてきた。


 木でつくられた古い門。それが、この村の出入り口なのだろう。

 ここから一歩を踏み出せば、そこは怪物たちの領域。

 とはいっても、門からは舗装された道が伸びているのでまだ人々の生活領域内だろうが。



「こんにちは」

 髭を生やした2人組の門兵に挨拶をする。

 彼らは少し不愛想に頭を下げて返してくれた。



「この門の向こう側で、倒れてるタクミを見つけたのよ」


 そう言って胸を張るハンナ。

 だが、俺はその言葉に驚きを隠せなかった。


「もしかして門を出たの?」

 俺が顔を近づけて問えば、彼女は少し戸惑いながら、「う、うん」と頷いた。


「直ぐ近くだったし、危なくなかったよ」


「…………それでも」


 か弱い女の子が村の外に出るなんて。

 凄く危ないと思うのだが、俺は言葉に迷った挙句、口を閉じた。



「…………あまり、1人で出たら駄目だよ?」


「普段は出ないよ」

 彼女は慌てた様子でそう言った。

「あ、そういえば」と言葉を続けて、

「あの時、私この村を初めて出たんだわ」と口にした。



 俺は咄嗟に彼女を見詰める。

 いま、自分がどんな表情で彼女を見ているのか分からなかった。


 ただ、驚きはあった。

 そして心臓の音が、うるさかった。



「咄嗟の事だったし、出たっていう感覚なんてなかったけどね」

 小さく舌を出して、はにかむように笑う彼女。


 その顔は、確かに俺の心臓を貫いて…………。



 だから、きっと俺は情けない表情をしていたに違いない。

 バカみたいな顔で彼女の事を見詰めていたんだろう。



「タクミ?」


 再び、彼女に名前を呼ばれるまで俺はフリーズしていた。


「ありがとう」

 目を細めて、ただ、その言葉を口にした。

 最初は「えっ」と息を漏らした彼女は俺から半歩離れて、少し腰を曲げて。

 それは鮮やかに、満面の笑みで、


「どういたしまして」


 と返してくれた。



「そろそろ行こうか」


 少し顔ごと視線を逸らして歩き出す。

 顔の熱を感じながら、もう一度心の中で感謝を告げた。









 またしばらく歩いて、今度は花畑に到着した。


「…………綺麗、だね」


「そうでしょ」



 赤、青、黄、緑、紫、白、黒。

 それは、店内に綺麗に並べられたランドセルのようだった。


 色鮮やかな花が、煌点の光を全身に浴びて風に揺らいでいる

 虹色の波が何度もこの世界を染めている。その美しい光景に思わず笑みがこぼれた。



 その中を、真っ白な彼女が無邪気に進んでいく。


 ほんとうに、綺麗だった。



 俺はゆっくりと花を踏み潰さないように彼女を追いかけた。


 その時、少しだけ強い風が吹いて、波を荒立たせた。

 彼女の服の裾が風に煽られて激しくなびいた。

 それを慌てて両手で押さえながら、恥ずかしそうに笑った。


 その直後だった。

 ハンナが急に咳き込み、その場にうずくまる。



「―――――! ハンナ!」


 俺は急いで彼女に駆け寄った。

 ハンナは地面に膝を着けて両手で口元を覆っていた。

 指の隙間からポタポタと赤いものが垂れて、小さな池をつくっていた。


 心臓が高鳴る。あらゆる音が遠ざかってゆく。

 彼女の背中を抑えて傍に寄り添う。


 ハンナは苦しそうに何度も咳を繰り返して、俺を見上げた。


 苦しみに歪められたその微笑みがチクリっと俺を刺す。


 そして、糸が切れた操り人形のように。

 彼女はその場に倒れた。










 その後の事は鮮明に思い出せない。

 気が付けば、意識のない彼女を抱えて診療所の扉を叩いていた。


 驚いた医者の男性が何かを叫んでいる。



 その後、診療所のベッドに彼女を寝かせた。


 少しすると、ソフィアさんが血相を変えて診療所に入ってきた。





 俺たちは邪魔者であるかのように部屋を追い出された。



 そして、そのまま夕方になった。



 部屋を出ていた医者の男性が表情を歪めてこちらに歩いてきた。


「命は助かりました。運び込まれたのが早かったからでしょう」



 その報告を受けて俺は腰を抜かした。その場に尻餅をついて呼吸を繰り返す。

 ソフィアさんも膝から崩れ落ちて、「…………よかった」と呟いている。



「目を覚ますにはまだ時間がかかるでしょう。部屋を貸すので、今日はここに泊まっていって下さい」



 その言葉に従って食事をとる。

 だが、なかなかものが喉を通っていかなかった。



 夜になって水浴びから帰ってくると、ソフィアさんがしんみりと椅子に座って木のコップを傾けていた。

 鼻の奥を刺すような独特のアルコール臭。


「………お酒、ですか?」


「ん? ああ。しばらく飲むのは控えてたんだけどね」


 頬を赤らめて机にもたれかかるようにしてソフィアさんは口を開いた。


「今日はありがとな。タクミも飲むかい?」


 お酒を勧められる。

 興味はあるけど、首を横に振る。


 今は、とてもそんな気分になれなかった。


 ソフィアさんの向かい側の椅子に腰を下ろす。




「…………あの子はね、あたしの弟の子供なんだよ」


 そう言って、ソフィアさんは目を細めた。


「弟はこの村の門兵だった。この村で一番の剣の使い手で、小さい頃はあたしにすら喧嘩で勝てなかったのにさ」


 ソフィアさんは過去を見詰めているのだろう。


「そんな子が、ある日ひとりの女を連れてきたんだ。その人はこの村では病弱で有名だった。でも綺麗で優しい人だったんだ。そして、幸せそうに笑う人だった。」


 きっと、昨日の事のように思い出せるのだろう。


「ハンナの母親はさ、幼いころから病弱だったんだ。それだけじゃない。その母親も、またその母親も同じ病気を患ってたんだ」


 ソフィアさんの話を、俺は黙って聞いた。



「…………一年くらい前に、大きな街の医者をこの村に呼んだことがあるんだ。その時も無理だと言われたし、それよりもっと前に、ヴァーテクス様に訊ねたこともある」


 ソフィアさんは木のコップに口を付けて中のお酒を喉に流し込んだ。

 口からコップを離して、空になったそれを傍にある木の樽の中に突っ込んだ。


 赤いアルコールの液体で、コップがいっぱいになる。

 それに少し口をつけて、再び語り出した。


「あの子の病気は治らないかもしれない。それでも、あの子は笑って明日を臨んでいる。本当にすごい子なんだよ」



「…………はい」

 俺は静かに肯定するように頷く。


「タクミがこの村に来てから、あの子は楽しそうだった」


 そう言って、ソフィアさんはじっとこちらを見詰めてきた。

 赤みを帯びた頬と綺麗な朱色の瞳に見詰められて、思わず背筋を伸ばす。


「タクミ。もし、お前にこの村から出ていく理由がないのなら、この先もあの子と一緒に居てやってくれ」


 机の上にコップを置いて、頭を下げられた。



 俺は直ぐに頷くことができなかった。

 この村から出ていく理由を思いついてしまったからだ。


 瞬間、彼女たちのことが脳裏によぎった。

 頭を振って直ぐに掻き消す。


 念入りに奥に押し込んで蓋をする。


 …………思い、だすな。


 捨てたはずだ。

 捨てようとしていた筈だ。


 忘れようとしていただろ。


 俺が生きるのはこの村で、俺が生きていたいのは、この村での生活だ。


 迷うことなんてない。

 ここで誓ってしまえばいいのだから。


 でも、どんなにあの思い出を、あの想いを消そうとしたところで、無理だった。

 一度、蓋から出てしまえば、それを押しとどめることなんてできない。


 ―――――溢れる。


 強く拳を握り締めて。


 ―――――溢れる。


 奥歯を噛み締めて。


 ―――――溢れた。



 必死に、考えないようにしていた。

 意識して、思い出さないようにしていた。



「―――――タクミ?」


 俺を心配する声に、顔を上げた。

 瞳を揺らしながら、俺を見詰める綺麗な瞳がある。


 それに強い意思を感じた。

 たとえ、実の娘ではなくとも。


 子を想う母の強い思い。



 だからこそ、何も言えなくて…………。


 俺は口を閉ざした。



「…………急に変なことを言ったな。すまん」

 そう謝って、ソフィアさんは俺から目を逸らして、コップの中の酒を見詰めた。


 その表情からは、反応の色が見て取れる。


 俺は、何を言えばいいのか分からなかった。


 もう、今更戻ることは出来ない。

 戻ろうとも、…………思っていない。



 だから、この村で生きていこうと決めた。

 この村を新たな居場所にしたいから、仕事を手伝った。



 俺は口を閉ざして。

 閉ざして。


 答えを先送りにするために。


「すみません。もう寝ますね」


 と口にして、立ち上がって背中を向けた。

 後ろから僅かに声が聞こえた。


 でも、聞こえないふりをして歩き出す。

 荒い呼吸を繰り返しながら、部屋を後にした。

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