首のない母
木の傘
1話
お母さんは、お日様のような柔らかい笑顔が素敵な人だった。
でも、素敵だったはずのあの笑顔を、私はもう思い出せない。
白いブラウスに、ベージュのスカート。サラサラの黒い髪には、可愛いお花の髪飾り。
抱きしめられると、優しい気持ちになった。
「もう一度会いたいよ。幽霊でもいいから」
幾度となく、そう強く願った。
……でも、いくらなんでも、これは無いんじゃないかなって、私は思うんだよ。
不自然に曲がり、ひしゃげた体。ブラウスが赤黒いのと、スカートにまだらな染みができているのは、体から流れ落ちる赤い体液のせいだ。そしてあろうことか、首から上が見当たらない。一目見ただけで、これは生きている人間じゃないとわかる。
まったく、朝起きたらこんな幽霊が枕元にいたらたまったもんじゃない。
だけど、状況のわりに私の頭は自分でも驚くくらいに冷静だった。普通は、朝起きて枕元にこれがいたらパニックになるかもしれないのに。きっと、パニックにならなかった原因は、私がこの人をよく知っていたから。
たとえ顔が見えなくても、記憶の中に今も生き続けているこの人は、紛れもなく、
「お母さん?」
―――——
この日、河瀬家は約10年ぶりに父と母と娘の3人で朝食を囲った。
「この雰囲気、この服装、間違いなく夏歩さんだ」
お父さんは目頭を押さえ、しみじみとそう呟いた。
私は、首のないお母さんと再会してしまった事がショックで泣くタイミングを逃したけれど、お父さんはお母さんの幽霊をすんなり受け入れているようだった。姿かたちを気にせず奇跡の再会を喜べるのは、夫婦の絆が生きている証だろうか。
……これが愛の力?
思わず心の中にそんな言葉が浮かんだ。
視線をお父さんからお母さんに戻す。
お父さんが静かに泣いている一方で、お母さんの幽霊は、私の後ろに立ったまま、何も言わない。
……首が無いと、表情が読めない。
私が困惑しているのに気が付いたのか、お父さんはお母さんに話しかけた。
「夏歩さん、愛希ちゃんに何か伝えたいことがあるんじゃないか?」
「私に?」
「だって、愛希ちゃん前にも夏歩さんの幽霊を見たって言ってたじゃないか。いままでお父さんはそれを否定してきたけど、今回は信じる。お父さんの目にも、ちゃんと見えてるからな」
実はお父さんが言う通り、私がお母さんの幽霊を見たのはこれが初めてじゃない。
「でも、こんな痛々しい見た目じゃなかったよ。私が見たのは、事故にあう前のお母さんだったもん。首もちゃんとあったし。……顔は、ぼやけて見えなかったけど」
「……それでも、現れたからには何か理由があるに違いない。なあ、夏歩さん」
お父さんの問いかけに、お母さんの体が少し揺れた気がした。首が無いからわからないけど、頷いたつもりなのかもしれない。
「もしかして、首が無いから話せないのか」
「そういうものなの?」
「紙に書いてもらおう」
「だから! 状況を受け入れるのが早くないかな?」
お父さんはペンを持たせようと、お母さんの手に触れようとした。しかし、伸ばされたその手はお母さんの手を取ることは叶わなかった。触れようとしたお父さんの手も、ペンも、お母さんの手をすり抜けてしまった。そこにいるはずなのに、お母さんはまるで幻のように実体が無かった。
お父さんは驚いたように何度も手を伸ばしては、自分の手とお母さんの手を交互に見比べた。お母さんも、驚いたように両手を口の辺りに持って行った(首が無いから本当に驚いているのかどうかは、わからないけど)。
「幽霊は物に触れないんだね」
私はため息をつきながら、トーストの最後の一片を口に運び、コーヒーを飲み干した。いつまでもコントのようなやり取りに付き合っている時間はない。今日はまだ平日だから、高校に行かないと。モタモタしていたら遅刻しちゃう。食器を洗って、登校の準備。
「いってきま~す。昨日も言ったけど、今日遅くなるから」
そういいながらリビングを通り過ぎようとして、背後に違和感。私の足音に重なり、ヒタヒタとついてくるのは、お母さんの幽霊だ。
「ついてくるの!?」
「夏歩さんは愛希ちゃんが心配なんだろ。最近は物騒だし」
「だからって……」
「行方不明者が4人。まだ捜査中だが、事件に巻き込まれた可能性がある。そういうわけで、お父さんは愛希ちゃんが心配でしょうがない。夏歩さんも同じ気持ちなんだろ」
「だから化けて出たっていうの?」
私はお母さんをジッと睨んだ。でも、お母さんは静かに私の後ろに佇んだままだ。ただ、身に纏っているこの雰囲気は、なんだか身に覚えがあるような気がする。
「怒ってんの?」
お母さんは、何も言わない。ただ、何か言いたそうに、怒りを持ってそこに佇んでいた。
目的のわからないお母さんに、マイペースな調子のお父さん。朝から混乱する事ばかりで調子が狂ってしまう。ただイライラだけが胸の内に沸き上がっていく。
「とにかく、あまり遅くならないうちに帰りなさい。なんなら、バイト先まで迎えに行くから。愛希ちゃんにまで、もしものことがあったら、お父さんは——」
「はいはい。なるべく早く帰ります~。だから、絶対バイト先には行かないでね。というか、そんなに心配だったら、早く犯人捕まえてよね。
私のイライラは爆発寸前だった。それでも、朝から喧嘩をするのは避けたかったから、私は早々に会話を切り上げようとした。でも、お父さんはまだ何か伝える事があるみたいだった。
「そうだ! 夏歩さんについても明日先生に相談してみよう」
「はいはい。そうだね」
ため息を付きながら玄関を出た。
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