SFショート・ショート『後天性の才能』

十司新奈

前編


 それは体重の2%、身体の約20%のエネルギーを消費するとされる器官。

人体のブラックボックスとされた脳は、今から40年程前に脳科学の発達により、その全てが暴かれた。この科学的大躍進により、社会は大きく変容した。

何故ならば、「才能」の正体が明らかにされたからだ。


「どうして自分は、」「…物覚えが悪いのだろう?」「…不器用なのだろう?」「…どうして…」

自身の熱意と才能の解離に悩まされてきた人類は、平等をよしとする当時の世相も相まって、世界中の科学者たちの英知を結集し、自由に才能の有無を操る方法の開発を急がせた。

そして数年後には、その英知の結晶と言える薬剤「ジニアセン」を開発するに至った。出産前に「ジニアセン」を使った能力向上処置を受けることで、歴史上最高水準の知能、技能、センスを生まれながらにして手に入れることが可能となったのだ。今や才能の無さを嘆く人間などいない。


 「先輩、何をしていらっしゃるんですか?今はお昼時ですが…」


午前中の業務を終えて、白衣をロッカーにかけにきた新人が話しかけた相手は、本に何かメモされた付箋を貼っている最中だった。

健康的に日焼けし、発達した筋肉は服の上からでも分かる大きなものだ。本に当てられた手は古傷とタコが出来た大きなもので、本を見つめる黒い瞳は真剣そのもの、日光を浴びても透けない真っ黒な髪は短く刈り上げられている。顔を上げたその男はにっこり笑い、新人の男を見つめていった。


 「仕事に役立ちそうな本を読んでいるんだよ。じっくり読みこまないと理解が浅くなるから、昼食時間でも勉強はしていたいんだ」

 「…? …はあ…頑張ってください」


今や努力など必要なくなったこの時代に理解が浅くなるとはどういう事だろう?上手く呑み込めなかった新人は気の抜けた社交辞令を返すほかなかった。



「アイツはさ、そのー…なんだ…『未処置者」なんだよ。アイツの親父さんが古いタイプの人らしくてな。ジニアセン処置を拒んだらしいんだ。おふくろさんもあんまり乗り気じゃなかったそうで…」


眼鏡のブリッジを押し上げながら、新人の疑問に答えた指導担当の男は、声を潜めて言った。


「え?処置を受けてないって、そんなことあるんですか?」

「任意だからな。殆どの両親は処置を受けさせるが、世の中色んな家庭があるんだよ。一応言っとくが不習、北畠は怒ったりしないだろうが、あんまり言いふらすもんじゃないぞ」

「そこは心得てます。少し驚いただけですから」


不習ならわずと呼ばれた新人は真面目な顔で答えた。



午後からの新人研修は、噂をすればという事なのか北畠が担当することになった。少し気まずい思いを抱きながら、不習は白衣を着て、実験室の北畠の元へ向かった。


「じゃあもう説明は受けたと思うけど、自分たちの今のプロジェクトの確認からスタートするね?」


北畠の問いかけに不習は頷いた。手元のメモを見ながら北畠は話す。


「我々の目下の目標は遅筋・速筋のバランスをコントロールできる新たな薬剤の開発である。運動機能については遺伝の関係もあり「才能」を自由に引き出せるようになっていない。プロジェクトの第一目標として持久型、短距離型を決める要因にもなっている筋肉のタイプをコントロールできる薬剤の開発がスタートした」


メモを読み終わった北畠は形式ばった口調をやめてフレンドリーに言った。


「そんなわけで自分たちがやるのは新規・既知問わずDNAに結合する化合物を片っ端から全合成して実験に必要な量を動物実験・臨床班に供給すること。DNAに結合する化合物は良きにつけ、悪しきにつけ変異を引き起こす要因になっているからね。まあ当分扱う化合物は合成ルートが論文発表されてるから楽だよ」

「その方法では特異的にDNAの目的部位に結合させるのは難しいのでは?」

「えーと…そうそう!そっちは他の生物系の班と協力してやることになってるよ。確かに最終的には天然物じゃなくて人工的に設計された分子を使うかもね。ただ天然物から見つかればめっけもんだからさ。実際いろんな化合物を受精卵や胚みたいな生まれる前の生物に投与なんてした研究は無いし、可能性は追おうってこと」


大まかなプロジェクトの進行手順を見ながら北畠は答えた。


「じゃ早速今回の実験に入るけど、最初の反応はE2だから、用意する試薬はかさ高い…」

「カリウム tert-ブトキシドですよね」

「その通り。ここに必要な量用意してあるから、パスツールで試料入れた試験官に取って反応始めちゃっていいよ。」

「攪拌子とスターラーも用意しますか?」

「いや、もうあとは入れるだけだよ、僕は次に使うヒドリド還元の試薬とか取ってくるから」

「了解しました」


不習は事前に実験資料を一読していたこともあり、非常な手際の良さで業務は進んでいった。



その日の夜、最後に業務を終えた二人は実験室に鍵を閉めて、外で食事をすることになった。

北畠は外交的な性格なようだ。古き良き居酒屋に足を運んだ二人の話題は、自然と今日の業務になった。


「そろそろ仕事の知識は増えてきたところだと思うけど、今日は初めてのジャンルの仕事だよね。どうだったかな?」


傷だらけの手で枝豆をつまみながら北畠は言った。


「凄くスピーディでハードでした。殆ど他の先輩とも変わらない…というか多いぐらいの仕事量をこなしていてびっくりしました。とにかくついていくのに必死でした」


北畠は不習の言葉にジョッキを口に運んだままニヤッと笑った。


「他の先輩とも変わらなくてびっくりした…ってことは僕の仕事量が他の先輩より劣ると思ってたのかな?」

「え、いや、…別に、そういう訳ではなく」


しまった。気を配っていたつもりだったがつい口が滑ってしまった。

それを見抜いたというように、北畠は声を出して笑った。


「いや、いいんだよ。未処置者だって聞いたんだろ?誰でも本なんか一回読んだら忘れないっつう世の中に、本の読み込みなんかしてたらそりゃあ目立つよな」

「つかぬことを聞きますが…辛くは無かったんですか?周りで自分だけが才能に恵まれていなくて」


この際、せっかくだから北畠の話を聴いて見たくなった。毒を食らわば皿まで、もう失礼なことをしてしまったのだ。


「小さい頃はまあ少しは…。でも父親の支えもあったし、努力で能力は補えるから別に辛くはないかな。強いて言うなら皆の気遣いかな、別に気にしなくていいのに!」

「努力って…なんで本来せずに済んだはずの苦行を重ねて、そんなに平気なんですか。努力して到達する目標は、他の人は生まれつき持ち合わせてるものなのに…」


うーん…と唸ると、これは父親の受け売りだけど、と前置きして北畠は答えた。


「努力っていうのは、単に目標に到達するためのステップじゃないんだよ。」


あまり良く理解できていないといった顔の不習に、北畠はいずれ分かる時が来るかもよ、とだけ言って、天井を見上げ、口にしていたジョッキを空にした。


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