ほら穴倶楽部

穂波あるく

ほら穴倶楽部

 夏休み最後の日、私は飼い猫の死骸を冷蔵庫にしまった。街の温度計が観測史上最高温度を示した、記録的な猛暑日だった。

 補習から帰ったとき、彼は空調の効いていない部屋の隅の方でへばりつくようにして息を引き取っていた。毎日必ず電源を入れたままにしている筈のエアコンが、その日は動いていなかった。

 当時同居していた祖母の部屋からは大音量のワイドショーが流れていて、車に置き去りにされ亡くなった女児のニュースを繰り返し報道していた。

「チャン」

 異変に気付くなり、私は教材の入った手提げ袋を投げ捨て、彼を抱え上げた。甲高い鳴き声から私がつけた名前だ。日向ぼっこと煮干しが好きな、まだ5歳ほどの猫だった。

 チャンの身体はゆだるような室内と同化し、溶けきってしまっていた。私を見上げるチョコレート色の瞳は固く閉じられ、隙間から目やにが溢れている。白目が濁っていた。

 毎日撫でていたふわふわの毛並みはところどころ割れており、さする度に、薄茶色の毛が辺りを舞った。そのうち出っ張った固い骨の感触が掌に染み着くのが怖くなり、手を離した。

 エアコンをつけても目を醒まさず、水筒のお茶を口元に持って行ってもぴくりともしない。薄桃色の鼻はかさかさに乾き、指先で触れても牙を見せてこない。

 チャンが、テレビで言っている「熱中症」になった。そしてもうすねに頭をすり付けてくれることがないことも、肩に飛び乗ってくぐもった鼻息で鼓膜をくすぐることがないこともないだろう。

 けたたましいチャイムの音が叔母の来訪を告げた。

 ばれてはいけないと、そんな浅ましい考えが頭を支配した。彼女はいつも私を叱るのだ。祖母の体温の記録をちゃんとつけていない、水分補給をさせていない――等々。すべてに気を配っていても、今度は私が子供らしくなくて生意気だと罵るような人だった。

 叔母がチャンを見つけたら、鼻をつまんで汚いと言うだろう。そしてねえさんが買ってくれたのになんてことをとまた私を罵り、彼をゴミ箱に入れるに違いない。そこまで考えると、こめかみの辺りが締め付けられるようだった。

 だから、チャンを冷蔵庫に入れた。もしかしたら涼しくなって元気になるかもという、荒唐無稽な願望も微かにあった。

 賞味期限の近い鶏肉のパックや木綿豆腐を四隅に追いやり、チャンのためのスペースを作った。尻尾を畳み、耳を少し折れさせ、青白い空間に押し込んだ。私の飼い猫はあっという間に食材のなかに馴染んだ。冷蔵庫全体が、チャンを弔う棺に変わった瞬間だった。

 その後、叔母に近況報告をした。用意していたコンビニのプリンに、細い毛が落ちていないか少し心配だった。

「この部屋、暑いわね」

 彼女はそれしか言わなかった。私が差し出した祖母の体調記録やら家計簿やらを受け取ると、すぐに出て行った。相変わらず、自室にいる実母の顔は見ようともしなかった。

 叔母が出て行った後、私には無機質な棺だけが残された。居間と障子だけで隔てた祖母の部屋からは、芸能人の不倫のニュースと24時間稼働しているエアコンの冷気が漏れていた。

 夕方、祖母と少し会話をした。おしめを替える際、もたついた声で付けっぱなしだったから消しといたよ、と言われた。私はそう、としか返せなかった。

 いつものように液状の食べ物をスプーンにのせ、萎んだ口に運ぶ。甘いものが食べたいわ、なんて譫言が、大音量のテレビにかき消されていった。私にもちょうだい、あの子にあげてたでしょ、あの、ゆきちゃん。祖母は数十年前に可愛がっていたと言う近所の女の子の話をしきりにする。彼女の世界には、私はおろかもう叔母も母も存在しない。

 その夜、いつものように居間に寝床をこしらえ横になった。ゴウ、ゴウ、という音が、鼓膜をしきりにつつく。ガタガタ。製氷の音だ。それが、チャンが私に語りかけているように思えて、つい棺の戸を開けた。

 私は飼い猫からモノになったチャンを見た。3年前、私をここに置いて出て行った母がのこした動物の死骸は、捌かれる時を息を潜めて待つ哀れな食料のようでも、毛皮をはぎ取られる前の素材のようでもあった。

 これはもうチャンではない。おかあさんが私にくれた子猫は、もういない。二度と会えない。

 棺の冷気が唇の隙間に入り込み、全身の細胞に行き渡る。肺から胸の奥を吹き抜けていった瞬間、私は思わず胸の中央に触れた。

 心臓があった場所に、土気色の手が沈んでゆく。筋肉の弾力や、乾いた骨の手触りはない。なにもない。ただ、この世の夜を全て集めて注ぎ込んだような暗闇がそこにあった。手首まですっぽりと、その暗闇に沈み込む。まるで私の手がなくなったみたいな錯覚がして、それが心地よかった。間違いなく、その時の私には癒しだった。やがて肘まで暗闇に包まれる。もっと先、もっと先へ。甘えた鳴き声と共にざらざらとした舌が私のなくなった指先を舐めてくれることを信じて、奥へ奥へと手を伸ばしてゆく。


 喉の乾きを感じて目を醒ました。カーテンの隙間からは朝日がほんの少し差し込んでいる。私はバスタオルを敷いただけの寝床から身体を起こし、痛む腰をさすりながら流しの蛇口を捻った。少し鉄臭い、温い水が食道を通って身体中に行き渡る。

 胸の中央を指先で叩く。コンコン、コンコン。手のひらをあてると、僅かに振動が感じられた。Tシャツをめくる。むき出しのあばらの上にちゃんと皮膚がのっていた。骨のでこぼこも、しっかりと伝わってくる。

 けれど私は、ここにはもう何もないことを知っていた。この薄い皮の下には無限の空洞が広がっている。ここを満たすモノは何もないし、揺らぐものもない。何も感じない。チャンと共に、あの冷蔵庫の彼方へ消え去ってしまった。


 洗面所に行き、軽く洗顔をして髪を縛った。鏡には顔立ちの幼い老婆が映っている。髪は縮れ、肌は薄汚れていてハリもない。ただの抜け殻だ。唯一の存在を失った、私だった物体。

 流しに溜まっていた洗い残しの処理をしたあと、「棺」から夕べの残り物の味噌汁を取り出し、温めて食べた。中央に位置する毛むくじゃらの物体は、蛍光灯に照らされた瞳でどこかを見つめていた。

 掃除洗濯と祖母の朝の世話を済ませ、教材が詰まった手提げ袋から今日提出予定の夏休みの宿題をランドセルに移す。一連の作業を、ただ事務的に。頭の芯がぼやけたまま、淡々とこなす。

 家を出るときには汗ばむくらいの気温になっていた。ドアを開けた瞬間、太陽に焼かれるアパートの手すりの向こうに、うなだれて力なく鳴くチャンが浮かび上がって消えた。


 学校にはすぐ行かなくなった。元より保健室登校の私がいなくなったところで、気にかけるクラスメイトは誰もいない。

 担任だけ、最初のうちはプリントをポストにねじ込んだり電話をかけたりしていたが、電話線を引っこ抜いてガムテープで投函口を封じたらなんの音沙汰もなくなった。これで私には、冷たい棺のある築40年の牢獄だけが残された。

 一族に見捨てられた祖母の世話を、老け込んだ小学生が付きっきりでする。ごおおお、とたまに冷蔵庫がうなる。棺のどこかに染み込んだチャンの魂が、まだ私のことを恨んでいる。車に取り残されて死んだ女児が、祖母の肩越しに私を見つめてくる。どうして、どうして見捨てたの。こんなに助けを呼んだのに。暑い、暑いって、いっぱい叫んだのに――。

 糞尿の処理をし、液体を食わせ、大量の衣類を洗濯機に押し込め、たまに来る叔母にプリンを与え泡を飛ばす口元をぼんやりと眺める。ずっとその繰り返しだ。

 もう悲しいとも腹立たしいとも思わない。棺のなかの死骸は相変わらず死骸のままで、喉をぐるると鳴らしてくれない。

 いつだろうか。私が、チャンに会える日は。こんな生活をずっとしていたところで、冷蔵庫の扉を開けて私に飛びついてくれる日はもう来ないのはとっくに知っていた。やっぱり、身体もなくならないといけないのだろうか。心はあの日なくなったから、今度は身体の番だ。

 冷蔵庫に入り、死骸を抱きしめる。お日様の代わりに湿った土の匂いがした。毛の抜け続ける身体はどこまでも冷たい。肩を入れ、彼のそばにいこうとする。一緒に葬られるために。このアパートの一室ごと、なくなってしまうために。

 木綿豆腐が、トマトが、鶏肉が床に叩き落とされてゆく。上半身はなんとか入った。細い毛が鼻に入り込んでむせそうになるのを耐える。

 しかし、下半身がなかなか入らない。どれだけ足を上げてもなんとかくるぶしまでしかいかなかった。

 ふくらはぎから太股をねじ込もうとした瞬間、甲高い電子音が鳴り響いた。冷蔵庫のアラームだ。

 その瞬間踏ん張っていたつま先が滑り、私はフローリングに叩きつけられた。

 ドン、と天井を突く音を階下から感じながら、私は自分が眠る場所はここじゃないことを悟った。

 私はチャンと共にいなくなることはできない。自分だけの棺を探さなくちゃ。


 棺探しは難航した。冷たくて、暗闇に満ちていて、どこまでも沈んでいける場所。できるだけ狭い方が良い。そんなこの世の果ては小学5年生の行動範囲ではなかなか見つからなかった。 だから、そこを見つけたのは奇跡に近かった。

 そのほら穴は、まさに私が探し求めていた棺にふさわしかった。広大なジャングルの奥深くでも、何万マイルも潜った先の海底でもない。通学路にある小さな公園の山型遊具に、こっそりと誂えられていた。

 その山は公園のなかで一番大きな遊具だった。くしゃくしゃにした折り紙を貼り合わせたような緑の山肌に、赤青黄といった色とりどりの足場が散りばめられている。山頂には小さな旗が立てられていたが、いつも下げられていて、どんな模様が描かれているのか未だに知らない。

 この公園で一番目立つ筈の遊具だけれど、遊んでいる子供を見たことはない。家族に連れてこられた未就学児や下校途中の児童は皆砂場、滑り台、ブランコといった遊具もしくはサッカーに夢中で、山型遊具は視界に入ってすらないようだ。

 誰もが知っているけれど誰も遊んだことのない、蜃気楼のような遊具だった。

 そんな張りぼての山の、一つ足場を登ったところにくり抜かれてできたほら穴が、私の棺になった。

 はじめてそこに入った時、チャンの死骸を抱きしめたときのような冷気が身体を突き抜けた。壁にもたれ体育座りの格好で身を埋めると、輪郭が驚くほどなじんでいるのに気づく。胸の奥の空洞が、ほうと息を吐く感覚がした。

 ほら穴は私が入り込める分のたっぷりとした暗闇をいつでも用意してくれていた。小さな私の世界のなかでやっと見つけた棺。学校にも家にも居場所のない私のために用意された窪みだった。

 やがて日中はほら穴にいることが多くなった。朝祖母の世話をして、ランドセルを背負って公園に行き、ほら穴に好きなだけ身を埋める。日が暮れてきたら家に帰り、叔母にプリンを出して、祖母の世話をして、チャンに挨拶をし眠る。

 来る日も来る日も、人工のほら穴で目を瞑り続ける。そうするうちに私と穴の境界がなくなって、いよいよチャンの元に行けると信じていた。

 しかし、いつも公園のスピーカーから流れる夕やけこやけのチャイムと共に目が醒めてしまい、チャンのいない残りかすの世界に引き戻される。その繰り返しだった。


 朱梨ちゃんに出会ったのは、そんな往来を繰り返していた最中だった。

 その日もいつも通り色あせた足場からほら穴に入り、定位置で体育座りをした。チャンを思い浮かべながら、瞳を閉じる。

 しばらくそうしていると、肩の辺りに校庭に生えていた楡の幹のような、滑らかな感触がすることに気づき慌てて目を開けた。隣に座っている女の子の二の腕がずっと触れていたことに、その時まで気がつかなかった。

「えっと、ごめんね」

 謝りながら、私はなんとか目を凝らして女の子を視界に入れる。穴の入り口から差し込むかすかな光を頼りに、「周防朱梨」と書いてある名札を読み取ることはできた。

 それ以外はどうも朧気だった。私と同じ制服のポロシャツにジャンパースカート、少し泥のついたスニーカー。身につけているものは何となくわかる。けれどそれ以外の女の子――朱梨ちゃんの髪型や身体つきは、ぼやけていてどうも掴めない。まるでほら穴の暗闇から浮かび上がる亡霊のようだった。

「いいよ」

 たわんだ糸のような声が、密やかにほら穴の空気を震わせる。

「ひとりも、ふたりも、変わらないし」

 目が合った瞬間、私の鼻孔に湿った土の匂いが通り抜けた。あの日、チャンの死骸から香った、彼の還る場所の匂いだ。それ以上に驚いたのは、彼女の瞳だった。

 そこはなんの光も映していない。私の胸の空洞よりも、もっと濃くもっと果てしない。見つめているだけで溺れてしまう、そんな暗闇。目元だけ切り抜いて奥のほら穴が覗いているような、そんな深淵がそこにあった。

「――チャン?」

 思わず口に出していた。かろうじて輪郭がのっている、湿った声だった。頬が、ジャンパースカートを握りしめた手が濡れている。

 彼を亡くして、はじめて涙を流せた瞬間だった。

「そう」

 朱梨ちゃんの声は、私に真っ直ぐ届いた。

「それが、あなたのなくしものなんだね」

 手が伸ばされ、私の胸に触れる。青白く、太い血管が浮いた手だった。冷たい皮膚の向こう側に、かろうじて血の温かさが感じられたとき、はじめて彼女がちゃんと存在しているのが感じられた。

「わたしもだよ」

 胸の中央に私の手をあてがいながら、朱梨ちゃんは囁いた。

 制服のシャツ越しに、凸凹した感触が伝わってくる。乾いた小枝みたいな骨だった。少しでも力を込めるとパキパキと音を立ててしまいそうで、指の先が震える。

 私をじっと見抜く瞳には、相変わらず光が射していない。動かなくなったチャンの冷え切った目玉が、ぼんやりと浮かび上がる。こん、と頭を叩いたら、真っ黒な珠が眼窩から飛び出てしまいそうだ。

「わたしもね、ここに、なんにもないの」

 ボールを蹴る音がする。同級生達のかけ声が鼓膜を微かにくすぐるが、それでも私は手のひらを離すことができなかった。朱梨ちゃんのからだは薄く張り詰めていて、ひんやりとしていた。丁度この、コンクリートでできた「ほら穴」の床と同じ温度だ。

「だから、わたしたち、いっしょだね」

 一音一音、教科書の文字をなぞるみたいに朱梨ちゃんは言った。その言葉は私の耳から脳に届くよりも早く、胸の奥の空洞に注がれた。

 私は手を朱梨ちゃんの胸から離し、彼女の手を取った。握った指先もやっぱり、冷たかった。あの日抱きしめたチャンの亡骸を、私はまた思い出した。

 そうだね。わたしたち、いっしょだね。

 気づけばそんなことを口走っていた。深く考えずに出た、無責任な同調だった。けれど朱梨ちゃんは、少しだけ目を細めてくれた。

 コンクリートに触れるむき出しの太ももが冷たくて少し姿勢を崩す。さっき下ろしたランドセルに足が当たった。外では、相変わらずクラスメイトがサッカーに明け暮れている。

 下校途中にある小さな公園。そこの遊具に設えられたほら穴で、私と朱梨ちゃんは初めて「空っぽ」を共有した。


 その日から、私は毎日朱莉ちゃんと共にほら穴での時間を過ごした。雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も。へばりつく日常から逃げるようにほら穴に駆け込めば、当然のように彼女がこちらを見つめているのだった。

 ほら穴のなかの私たちは会話をしなかった。朱莉ちゃんの存在を認めても、私がすることは変わらない。暗闇の中で目を瞑り、さらに深いところへと意識を沈ませるだけだった。

 ただ、棺の中は孤独ではなくなった。喋らなくても、濡れた土とあの冷蔵庫の匂いがないまぜになった気配が隣からずっとするのだった。そのうちあのチョコレート色の瞳が私を見上げてくれそうで、思わず手を伸ばす。

 しかし両手はいつも空を切る。代わりに、棒切れのような感触に全身が包まれる。

「だいじょうぶだよ」

 朱莉ちゃんはいつも一方的に励ましてくれた。彼女の身体は私よりもずっと瘦せ筋張っていて、私が望むようなお日様の香りやぬくもりはくれない。

ただ果てのない空洞がそこにあった。

 抱きしめてくれている背中に手を回した瞬間に、私の全身が取り込まれそうな、超然とした何かがそこにあった。

 私はぞわりとした何かを感じて、いつもその抱擁に応えることができなかった。乗り越えられない壁のようなものがそこにあった。

 スキンシップを拒んでも、朱莉ちゃんは気に留めていないようでやっぱりだいじょうぶだよと囁くのだった。


 私が気付かなかっただけで、ひょっとしたら最初にここを見つけたあの日から、彼女はいたのかもしれない。

 私がチャンに思いを馳せ自我の薄れを感じようと必死になっている間、彼女はずっとあの暗闇しか映さない双眸で私の傍に佇んでいたのだ。

 私が気付いて、名札の名前を見たあの時から彼女は朱莉ちゃんで、その前まではこのほら穴そのものだったのかもしれない。

 いや、この公園ができる前、この土地にかつてあったビルが取り壊される前、もっともっと、この地域一帯がまだ海の底に沈んでいたころから、彼女は存在していたような気さえしていた。

 そんな、人間の時間を超越した唯一無二の存在に朱莉ちゃんを置くことで、私は安心しようとしていた。

  朱莉ちゃんがどこに住んでいて、なんの因果でここにやって来るようになったのかなんて、当時は全く気に留めていなかったのだ。ただ、彼女は間違いなく「空っぽ」で、私もその筈だった。

 あのまま彼女に抱き着いて、額を摺り寄せていれば。私も「ほら穴」そのものになれて、その奥底にいるチャンと共に眠りにつけたのかもしれないのに。

 現実逃避の日々は突然終わりを告げた。


 その日も私は朱莉ちゃんと共にいた。体育座りをして、目を瞑って、時折手をつないでほら穴のなかを揺蕩っていた。

「あんた、何してるの!」

 突然腕を引っ張られ、私の暗闇が奪われた。あたりが一面明るくなり、何が起きたのか、一瞬わからなかった。 目の前には、私が毎日プリンを与えていた筈の女の顔があった。それが眉をつり上げ、口をわななかせ何か叫んでいる。くるった、ひとでなし、あんたのせいでかあさんが――。

 そんな音がかろうじて鼓膜から頭の中へ伝わってきた。

 公園はいつもの光景から一変していた。子供たちは一人もおらず、黄色いテープで区画され、パトカーがランプを煌めかせそこらに停まっていた。

 そこまで見渡してやっと、私は「ほら穴」から引きずり出されてしまったのだと気づいた。そして、日の光に暴かれてしまったからもう二度と戻ることができないとも。

「周防さん、落ち着いて」

 叔母の脇を固めていた警官が泣き暴れる彼女をなんとか抑え込むと、そのうちの一人が私を見やる。何故か目に涙を溜めていた。

 こどもを不安にさせまいと思ったのか、声を不自然に張り上げて語りかけてくる。

「すおう、あかり、ちゃん、だね?」

 はい、と答える前に数名の警官に抱きかかえられ、担架にのせられる。

「周防さん!」

 砂場の前に停まっている救急車の方から担任の叫び声がした。彼女も何やら狼狽している。

「見つかって、よかった――」

 警官の一人が無線を取り出す。行方不明女児、確保――。行方不明――私が? 毎日家にいて、叔母にもあって、祖母の世話もちゃんとしていたのに。ただ通学路にある公園に通っていただけだ。こんな騒ぎになるようなこと、起こした覚えはない。

 そうだ、あの子は? あの、朱莉ちゃんは――いや、朱莉ちゃんと呼ばれたのは私ではなかったか? じゃあ、あの名札の子は誰なんだろう。あの、濡れた土と冷蔵庫の乾いた匂いのする女の子は――

 救急車に運び込まれる寸前、担架から山型遊具の「ほら穴」の入り口が目に入った。

 そこには、ちょうどチャンと同じくらいの大きさの猫の骨が散らばっているほか、なにもなかった。


 そこから私は地元から遠く離れた病院に入れられ、いくつかの施設をまわされた後、今に至る。

 当時まだ小学生だったのと、その歳で認知症の老人の介護をやらされていていたストレスからいくつかの精神疾患が発症していたとかで、祖母の喉に大量のプリンを詰め込んで死なせた件は不問とされた。

 担当医師やカウンセラーが警察の話をかいつまんで教えてくれたところによると、あの日の私は飼い猫を祖母に――エアコンを勝手に切られるという行為によって――喪ったことで心神喪失となり、彼女の望み通りに冷蔵庫にあるだけのプリンを与え続けた後チャンの亡骸と共に失踪したらしい。

 自分のことなのにらしい、と付け加えるのもなんだかおかしい話だが、当時の記憶は濃い霧に包まれていて、未だにはっきりと回想することができない。

 叔母とはあの日以来連絡を取っていない。成人した日に周防家から籍を抜いたので、彼女が捕まっていても自殺していても私には関係のないことだった。未だにその顔つきははっきりと思い出せない。

あの日以来、「朱莉ちゃん」と呼んだ自分ではない少女は姿を見せなくなった。地元には一度も帰っていないから、あの公園の山型遊具がどうなったかもわからない。

 私は首元に垂れさがったネックレスに触れる。当時の担任が入院していた私のために拵えた、チャンの骨の入ったリングがそこにある。

 リングを鼻の先に持っていく。それはもう、濡れた土の匂いも冷蔵庫の匂いもお日様の匂いもしない。冷たく滑らかな感触しか、もう返ってこない。

 リングを握りしめ、目を瞑る。そこにはチョコレート色の瞳をした生き物と、常に夜を揺蕩わせた井戸がある。

 井戸に足を進める。生き物の毛が、私の足にからみつく。チャーン、チャーン。まだ行っちゃだめだと、必死に甘えた声を出す。

「だいじょうぶだよ」

 私は生き物を抱きかかえる。ふわふわの毛からは、やっぱり大好きだったお日様の匂いはまだしない。

「あなたを失ったことを忘れない限り、だいじょうぶだから」

 ぴんと立った耳元に囁きながら、自分の胸元に手を当てる。

 そこには相変わらず空洞がある。誰と触れても何を見聞きしても果てのない暗闇に吸い込まれ戻ってこない私だけのほら穴が、まだちゃんとある。

 私はチャンの鼻に口づける。そこはしっかり湿っていて、ふんふんと蠢いていた。

――あの時、私の胸の中にできたほら穴。そこが埋まることは二度とない。

朽ちてまで私の傍にいつもいてくれたこの相棒のことが薄れ、いつかその傷ごと霞となって消える日まで。私はチャンの奥に佇む井戸に落ちることはないだろう。

――だから、安心してね。もう少ししたら、そっちにいくからね―-。

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