これでよかった
胡坐を解いて立ち、カーテンのない窓越しに天音は外の薄闇に向き合う。
「君たち影武者が好きに生きられないのに、俺だけ自由ってのは不公平だろう。せめてもの罪滅ぼしのつもりなんだ。俺が勝手にそうしたいと思うだけの、自己満足のな」
天音は呆然とする久川を見下ろした。
「予想と違ったか? 話したのは今日が初めてだったか。あまり他人に話すようなことでもないのでな」
「なんで、急に」
「知りたかったんだろ? もう終点が見えてんだ。俺の秘密くらい、いくらだって土産に持たせてやるよ」
気になっていたけれど、知りたいとまでは思っていない。疑問に感じていただけだ。天音には普通の暮らしだってできるのに、自分の幸せを求めないのはどうしてなのかと。
ああ、つまり知りたかったんだ。影武者を管理する側のことなんてどうでもいいと思いたくて、天音に興味を持たないようにしていた。そう見せかけていたのだ。
正直になれば、天音に訊きたいことはぽろぽろと頭の片隅から降ってきた。だけど一つ一つの問いかけも、まとめての質問だって必要がなくなった。
自分だけ自由なのは不公平。
久川の疑念は、彼の打ち明けた一言で全て説明がついてしまったから。
「だったら私も、知りたがってることを言うよ」
凛とした眼光に、天音は目を細める。
「自己犠牲もアリだって思いついたのはずっと前。久田ちゃんを身代わりに生き延びた私は、彼女の気持ちを無かったことにしないために長生きしなきゃって思った。できれば寿命が尽きるまで、おばあちゃんになるまで生きなきゃ駄目だって思ったの」
天音が瞳を閉じて俯く。向き合っていなくとも彼が耳を傾けてくれていると察して、やや間を置いて久川は喉に溜めていた言葉を吐き出す。
「でもそんなの無理だしあり得ないのは、おじさんたち管理者なら考えるまでもないよね。私もすこーしだけ希望に燃えた時期もあったけどさ、すぐに悟ったの。虚しかったよ。結局私は少しだけ久田ちゃんより長く生きるだけ。ならせめて、つまらない死に方だけはいけない。久田ちゃんのように立派に使命を果たさなきゃいけない。
そう心を決めた数日後に、私が子供を産まずに消えちゃえば、全影はもう新しく生まれないって気づいた。だからって結婚を諦めたくなかったけどね。結婚が私の人生で最後の幸せで、私が普通の人と同じように生きた証になるんだから、結婚だけは譲れなかった。結婚して子供を産む前に死ねればいいって……そんなのきっとできないって自覚しながら、生まれた瞬間から背負ってきた不幸に見合う幸せを捨てたくなかったの。――なのに、私はこんなとこにいる」
自嘲するため息が久川から零れる。
「おじさんはそれがわからないんでしょ? だとしたら、それは情報が古いからだね。私の行動原理が全部久田ちゃんのためだって考えてるんでしょ? 最後の幸せをあきらめ――」
話の途中で天音は手で制した。言葉を切った久川を一瞥して、無言のまま部屋を出て行こうとする。
「せっかく打ち明けようとしてるのに、帰るの?」
「もうわかった。それ以上はいい」
天音は一方的に切り上げ部屋を出た。
「最後の幸せを諦めたのは、結婚相手としておじさんが連れてきてくれたキフユと会えたから」
咄嗟に追いかけた久川の声。天音は廊下の中腹で背中から浴び、佇立する。彼は振り返らない。
「キフユは影武者の仕組みに反対してるみたいだった。里にキフユが長い間いたら、たぶん行動を起こす。私たちを救うために何かをしてくれると思う。でもさ、そんな暴挙を管理者が許すわけもないし、未然に防ごうとキフユを酷い目に遭わすかもしれない。そうなる前に私がいなくなれば、部外者の彼は傷つかないで済むよね」
微動せずに天音は背中で聞いていた。相槌すら返ってこない。
天音は何も言わないまま、玄関に向けて一歩を踏み出す。
「――私がそんな風に考えたって推察してるなら、それ、間違いだから」
再び彼は足を止めた。緊張した先の停止とは違う、まるで久川の一声に足元が凍てついたかのような静止。動かないのではなく、動けない。
今度は振り返った。身体の首から上だけを動かして。乾いた唇が動くが、声を出すまでには至らない。疑念は音にならず空を切る。
久川はおかしくてたまらなかった。
「おじさんの推測が外れたの、初めてだね。私の担当をキフユに譲っちゃったから、何でもお見通しなんて具合にはいかなくなったんだね」
「俺の知ってる久川楓なら、最終的に自己犠牲を選ぶ。久田碧がそうしたように、今度は自分の番だってな」
「やっぱおじさん古いよ。キフユと会う前ならそうだったかもしんないけどさ」
「見当もつかん。なら、なぜ捕まるような真似をした? 久田くんのように大勢を救う役目を果たし、全影の歴史に終止符を打つ大儀のためじゃなければ何だ。他に理由なんてないだろ」
「私、そんな立派じゃない」
珍しく憤然とする天音に、氷水のように冷たい久川の声色がかかる。
「そんなふうに私が行動するはずだと感じるなら、久川楓は勇敢だって思わせてきたからだろうね。周りに対してだけじゃなくて、自分自身にもさ。勇敢にならなきゃって騙してきたの。身代わりになってくれた久田ちゃんの期待に応えるためにさ。ホントに、そのためだけにがんばってきたつもりだよ?」
感情の薄かった表情を、久川は苦笑いに変えた。
「キフユに会って、全部諦めちゃったけどね」
「諦めたなら尚更わからん」
「立派じゃないって言ったじゃん? キフユが傍にいてくれるようになったせいで、孤独なのが普通じゃなくなった。結婚相手の候補としておじさんが連れてきたのは最初からわかってたんだけどね。子孫を残すためだけの関係で、役目を終えたら命を使い果たすこともさ」
影武者の役目から逃れられないなら、そうするしかない。そうしなければならない。せめて立派に役目を果たさなければ。
「だけどわかっちゃったの。キフユと長くいたら、たとえば結婚なんかしたら立派に死のうなんて思えなくなっちゃうって」
天音は口元を堅く結んだ。長年共に過ごしてきた少女の主張を傾聴する。
「そんなの身勝手すぎるじゃん? 死にたくないって嘆いて結局死んでいくなんて、久田ちゃんへの酷い裏切り行為だし。でもきっとそうなっちゃう。キフユは久田ちゃんと似てるから。管理者なのに私たちの味方になろうとしたり、なんとか救おうとしてくれたり、自己犠牲で他人を助けようと行動できる人だから。私は久田ちゃんと別れたくなかった。キフユとも――」
「不毛だ」
久川の心情の変化などに興味はないと突き放す一言。それ以上の言葉を紡ぐことを許さず、久川も口を噤む。天音にしては強烈な否定に、久川は気圧された。
一枚目の鉄格子の錠を外し、鍵を閉めてから天音は顔を見せた。
「俺の推測に間違いなんてなかった。過程はどうあれ、最後にはこうして務めを果たすために久川くんはここに来た。その勇気に感謝する。把握していなかった身の上話を聞いた今も、聞く前と何も変わらない。俺は君が無事に役目を完遂できるようサポートするだけだ」
出て行く天音に歩み寄りもせず、二枚目の鉄格子が外れ、閉められる光景を久川は眺めた。天音の動きは淀みなく、躊躇いの片鱗も晒さず玄関の扉を開けた。
電灯の光が一瞬、ドアの向こう側から暗い廊下を駆け抜ける。反対側のリビングからも漏れる明かりが一筋、暗闇に佇む久川の脇から伸びて異質な鉄格子を照らす。格子は冷たく光を反射していた。
「これでよかった。そう決めたんだから」
呟いて、明るい部屋に戻る前にもう一度だけ唇が動いた。
「よかったんだよね、久田ちゃん」
こぼす疑問の答えは、久川自身が知っていた。
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