天音の義務
久川はテレビの前の座布団に座っていた。テレビは点いていない。真っ暗な画面に茶髪で間の抜けた女性が映っている。何をしているんだろう、と疑問にさえ思えない脱力感。自由を剥奪され、使命を与えれる時を静かに待つしか許されず、既に死んでいると言われても大差のない状態にあった。
――いまさら、か。
久川が生まれながらに与えられた能力は、ただでさえ異能の影武者のなかでも最上級。必ず命を捧げる大役を任せられると、生まれた日に確約されたようなもの。
影武者として生まれても、片腕や片足が模倣できるだけでは使い物にならない。なったとしても、大した仕事は与えられない。そんな極端な部位だけ真似できても、需要がないから。春久は特殊だった。管理者にとっては喜ばしかっただろう。尖った能力で腐ってもおかしくない影武者を有効活用できたのだから。春久本人がどう感じていたかは、考えるまでもない。
生まれた瞬間から自由なんてなかった。
生き方を選んだことも、学校を辞めたことも、髪を染めたこともオシャレしたことも、許可された範囲で妥協した自由の真似事でしかない。本当の自由とは、程遠い。
玄関の扉が開く音がした。宙を漂っていた意識がその音を合図に身体に戻る。窓の外は薄暗闇で、カーテンのない部屋の明るさは外と変わらない。隔てる鉄格子さえなければいつだって抜け出せる。物理的には。
たとえ鉄格子がなくたって久川は逃げ出せない。久田碧がいなくなった日から蓄えてきた全精力を注ぎ脱走を試み、無様に失敗した彼女に檻を抜ける気力など残っていない。縛られずとも、そこにいるしかない。何もせず、変化のない景色を眺めるだけが彼女に残された時間の唯一の使い道だった。
玄関のほうで二つの錠が外れる音がした。雑音がないから、小さな音にも耳を澄まさなくていい。立ち上がり、廊下に続く引き戸を開けた。
「調子はどうだ? ベッドはもう届いたようだな」
天音だった。彼がチラリと視線を投げた隣の部屋に、昼過ぎに組み立てられたベッドがある。隣の部屋の家具は今のところそれだけ。頼んでもいないベッドが何故届いたのか疑問だったが、彼の口ぶりで納得した。
落葉でないとわかり、久川は会釈もせず薄暗闇の部屋に踵を返す。天音の足音が追ってきて、パチッとスイッチを入れる音と同時に眩しい白光が灯った。
「柊くんは管理者を辞めたよ」
「え」
「もう里にもいない。昼くらいに出て行ったから、今頃は家についてるだろう」
「でも、また来るって……」
「彼がそう言ったのか?」
天音は渋面を浮かべる。久川は彼の口元を凝視する。
「不確定な事実を口にするなんて、柊くんらしくないな。久川くんがここに入った時点で、彼が里を出て行くのは決まっていたのに。事前に伝えなかった俺の落ち度かもな。でもまさか、何年もおとなしくしていた久川くんが脱走するなんて想像もしなかったし」
「キフユは――柊落葉は、もう来ないの?」
「当面はな。本人はもう我々と関わりたくないと言っていたが、それも不確定だ。まぁ、もしも戻ってきたら快く受け入れようとは思っているよ」
「それを私に伝えるために、わざわざ来たわけ?」
振り絞った強気な言葉。関心も示さず、天音は軽々しくかぶりを振る。
「尋ねられたから答えただけだ。本題は別にある。一言でいえば、久川くんに働いてもらう日が決まったから伝えに来た」
「私を最後の全影にするって決めたんだ」
「望んだとおりになっただろ?」
「……どういう意味?」
「わかっていなければ、そんな反応はできないものだ」
座布団も敷かれていない床に、自分の家であるかのように天音は腰をおろした。久川は立ったまま呆然と見下ろす。向けた先の天音は視線を室内で右往左往させた。
「入居初日はいつもこんなもんとはいえ、あいかわらず殺風景だな。まぁ、呼ばれるまでは時間がある。十五日後だから、約二週間くらいか。理想の暮らしが出来るよう可能な家具家電は全て提供しよう。遠慮は無用だ。久川くんは国家にとって重要な人物だからな」
「そんなの、どうだっていい」
「無欲を美徳とするなら強要はしないが、もったいないぞ?」
「知らないよ、そんなの。それより答えてよ。なにが『望んだとおり』なわけ?」
「互いに承知してる内容をわざわざ言う必要はないと思うが……それとも答え合わせをしたいのか? 柊くんが来る前の二年間は俺が彼のポジションにいたんだ。久川くんの考えていることは手に取るように、とはいかないが大方はわかる。毎日のように一緒にいれば、相手の頭の中なんて透けてるようなものだ。だから離婚する夫婦は少なくない。同じ屋根の下にいるうちに本音が隠せなくなってしまうのだろうな。独身の俺には無縁の話だが」
天音の人間観察論を聞きたいわけではない。
久川は焦っていた。天音は看破している。おそらく、間違いなく。その〝おそらく〟の不確かさが久川を苦しめる。首にかけた手に徐々に力を込めるように、緊張による息苦しさが激しくなる。
「別に、脱走に失敗しても良かったんだろ?」
不意に苦しみが消えた。最後の秘め事も暴かれ、痛覚を与える一切が消失したのだ。
「……私、おじさんに教えたっけ?」
「柊くんと違って、俺にはあまり身の上話なんてしなかったよな。影武者の制度に納得いかないだとか。まぁ、俺は里の管理も兼任してて柊くんのように付きっきりではなかったから、余計な話をする暇はなかったか」
「じゃあなんで」
「同じ話をさせるのか? 別に苦じゃないが、同じ話をするなら一月か二月くらいは空けてもらいたい。それとも心がお留守だったか? 聞いてなかったなら仕方ないな」
「私と一緒にいたからって話? それだけで、ありえない」
「では俺がなにを考えていて、これからなにをしようとしているかわかるか? わからないだろう。でもな、俺にはわかるぞ。久川くんを本当で気にかけていたからな。久川くんが俺との間に一定の距離を保ちたかったことも承知している。違うか? 違わないだろう。身近にいる人が無断で行動しても、なんとなく想像がつくものだ。具体的な例えをだしても、まだ納得できないか?」
久川の記憶で親友が顔を覗かせた。
久田碧――彼女は久川が影武者として命を落としてしまわないよう身代わりになった。久川に代わり、全影の役割を先に担ってくれた。
何故助けたのか、動機を本人から聞いたわけではない。久田が亡くなった後で彼女が身代わりを提言していたと知ったが、教わるまでもなく久川は親友に救ってもらったのだと確信できていた。
変わらない。久田の意思の推察を肯定するならば、天音の言う理屈にも納得しなければならない。でなければ、久田への感謝も贖罪も恩返しも嘘になる。勝手な妄想で何年も生きてきて、引き返すこともできず、単に影武者という道具として利用され死んでいくだけになってしまう。
天音は仰向けに倒れて天井を仰いだ。瞳を閉じて、不快そうに呻く。
「しかしわからないね。どうして決心がついた? いや――」
問いかけてすぐに訂正する。
「全部言ってやろう。何故君は、自分が犠牲になって全影の歴史に終止符を打とうと決心できたんだ?」
もはや疑いようもない。ブラフではなく、天音は完全に久川の目的を看破していた。
「私の考えは全て見抜けるんじゃなかったの?」
「厳しいな。訂正しよう。わからないこともある」
「どうでもいい。だいたい、話したって何も変わらない」
「檻から出すのは無理でも、事情しだいでは延期させられるかもしれない。まぁ、延期程度じゃあ話すには値しないか」
天音は身を起こして胡坐を組み、上体を縮めたり伸ばしたり、ストレッチをした。久川は天音が来てから一歩も動かず、彼の様子を窺う。
立場が違うだけで天音に悪意はない。そう信じたい。影武者が犠牲になる度に、例外なく天音は死を悼む。益もなく他人を想える彼は少なくとも根っからの悪人ではないはず。
だけど天音には落葉のような迷いがない。管理者に反旗を翻し、影武者の側についてくれそうな葛藤は感じられない。天音がどれだけ影武者の死を嘆いていても、彼にそれを止める気はない。止められるかもしれない権力を持っているのに、彼は嘆いては次の影武者を他国に差し出す。
『君たち影武者に使命があるように俺にも使命がある。それぞれが使命を果たし、世界はより良くなっていく』と、管理者を続ける理由を過去に尋ねた際、彼は久川にそう答えた。淀みない定型句のような口調だったと覚えている。
「死ぬまで管理者を続けるつもりなの?」
「それが俺の義務だからな」
「結婚は?」
「またそれか。年頃の女子らしい質問だが、しつこさはおばさん級だな。担当してる頃に何度も言っただろ」
天音が久川に勉強を教えていた二年間に、久川は何度も天音に結婚しないのかと尋ねた。久川には不思議だった。天音ほど落ち着いていて人望が厚ければ好意を寄せる女性がいないほうが不自然だ。天音から攻めれば大勢は彼との交際を快諾するだろう。結婚したって、天音なら家族を大切にできるはず。
久川の高評価に反し、天音は四十二歳にして未婚なうえ、家族を持つ予定も計画もない。
「結婚する気はない。管理者を辞める気はないのと同じで、死ぬまではな」
問いかけに天音は毎回この返答をする。理由は話さない。なんでもないことだと言わんばかりに表情を変えないから、久川は追い討ちをかけられない。具体的な制約があるわけでもなく、それが義務だからと、漠然とした答えを得られるのが関の山だと思うから。
ところが今日は違った。
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