ささやかな同情
心拍数が跳ね上がった。
落葉ではない古い友人の名前を久川が呼んだから。
「キフユですよ。そう呼んでいたでしょう」
言葉が届いたのか少し瞳を見開き、脱力してまた頭を垂れる。
「キフユかぁ。てか私、いまなんて言ってた?」
「久田さんを呼んでいました。彼女のことを考えていたのですか?」
「捕まってからずっと謝ってる。うまくできなくてごめんねって。碧ちゃんの分も外の世界で生きようと決めてたのに、失敗しちゃってごめんねって」
すすり泣く音もひどく反響する。部屋のなかにも、落葉の胸にも。
落葉は天井を仰いだ。この部屋にも電灯が付いていない。明るいのは、カーテンすらない鉄格子付きの窓から陽が差し込むから。リビング以外の部屋は全部そう。外からプライベートを守る術を許されていない。リビングにしても、電灯はあれどカーテンは付けられていない。
「ボクに相談してくれても良かったではありませんか。諦めてると言っていませんでしたか? そのあなたが、里を抜け出そうとするなんて」
「相談したら、手伝ってくれたの?」
か弱く震える声。
落葉は励ます微笑みを作った。久川の顔が俯いていても、構わずに。
「手伝えていたかもしれませんよ。ボクはペットとして雇われたわけではありません。上の人たちは番犬だと思っているかもしれませんが、天音さんは承知しています。場合によっては噛みついてくる、とね」
「手伝えたかも、じゃない。手伝ってくれたのかって訊いてるの」
「すみません。中途半端は嫌いなのですが、墓穴を掘りました。発言を訂正します」
窓から格子越しの景色を眺めた。空は現実味がない青さ。閉じ込められた空間にいると、外で見上げるよりずっと遠くに感じる。
「ボクは、久川さんを手伝えません」
顔を見ないまま宣言するのは卑怯だろう。自覚していても、落葉は彼女の顔を見れなかった。期待してくれただろうに、絶望に変わる瞬間を見たくなかった。
俯いていた久川が顔をあげた。目の端が赤く腫れていても、新しい涙は溢れていない。
「正直すぎるよ。嘘でも『手伝ったよ』って言うもんじゃないの?」
「憧れが過ぎますよ。出来もしないことを出来るなんて言うのは、相手に永遠の夢を見させたい時くらいです。死に際だったり、ですね。バレなければいいの究極系ですよ、アレは。久川さんを救うと言ったところで嘘だとバレてしまいます。それでも良かったのですか?」
「キフユの優しさが伝われば、それで良かったのに」
「こうしてお見舞いに来たのも優しさですよ。伝わりませんか?」
「そんな冷たい言い方してるのに伝わるわけないじゃん」
言葉と裏腹に、わずかに久川の口角があがる。
「そうやって笑えているのはボクのおかげでしょう?」
「あんまりに馬鹿馬鹿しくて。キフユは手伝ってくれたんだろうなって期待したくせに、違くて。相談しなかったのは自分なのに期待しちゃってて、否定されてもまだ何か期待してる自分のわけわからなさにはもう、笑うしかないって」
「ボクにまだ期待していますか?」
「うん。だってさっぱりしすぎだもん。一週間とちょっとしか過ごしてないけど、キフユは相手が落ち込むようなことを平気で言えるタイプじゃないよ」
胸の奥を無数の針で刺されているようだった。久川の抱く希望に心が痛い。
「期待には応えたいのですが、正直、現段階では何ができるか浮かびません。檻の内側がこんなふうになっているのも知ったばかりです。ボクの進退も、このあと告げられるでしょう。ボクは久川さんのために来たのですから、あなたが務めを果たすまでは里にいられるでしょうが……防げるかは断言できません」
「だから正直すぎるんだって。気持ちだけでも嬉しくなったりするんだよ?」
「そんなのはボクが望みません。久川さんは役目から逃れたくて脱走を敢行したのでしょう? そんなあなたに、ハリボテの宣言なんて」
「でもさ、私だって逃げたかったのかよくわからないの」
「実際逃げたではありませんか」
「外の世界で普通に生活してみたかったのは本当。一方で、影武者として命を捧げる意義もわかってる。どちらが立派なのかも理解してるつもり。でも、なんだか自分だけ死にたくないみたいでダサいけどさ、碧ちゃんもタロウも、私には同じ運命を辿ってほしくないって思ってくれてる気がするの。そうじゃなきゃ、私の代わりになんかならなかった。そうじゃなきゃ、私に影武者って仕組みのおかしさを熱弁しなかった。二人の思いを裏切りたくなくて、悩んでる暇はなかったの。悩んだら、自分にだけ都合の良い別の解釈をしてしまいそうだったから。何かに悩んだときって、最初に浮かんだ解決策が正しいと思うの。今回でいえばそれが里からの脱走で、影武者の役目の放棄だった」
一息に喋るから、最後のほうが少し掠れていた。
「本意ならわかっているではありませんか」
「そう思ったはずなんだけど、外の世界どころか私はこんな場所に入れられちゃった。夜中に抜け出して、ゲートのとこまで行っても騒がれなかったからイケると思ったのにさ。ちょうど昨日は女性の管理者が見張りだったの。トイレで席を外せば、男性みたいに即効で帰ってくることはないじゃん?」
「服はどうしたのですか? バラバラといっても、全員スーツですが」
「一年くらい前かな。どうせ就活はしないけどリクルートスーツを着てみたいって頼んで、おじさんに買ってもらったの。あ、これって恩を仇で返すってやつ? 悪い女だね、私」
「楽しそうに言わないでください。手袋で隠せると思ったでしょうに……」
身体の脇に垂らしていた左手の甲を落葉に見せる。〝02〟の刻印は掠れず明瞭に残っている。
「こんなのを刻まれてもさ、里を抜けたいって思うのは少数派なの。世界では一日に何人死んでるとか、そのうち何人が戦争や解決できたかもしれない事件で犠牲になったかとかを聞かされ、使命感に燃えるの。馬鹿みたい。自分と関係ない世界なんて」
途中で久川は咳き込んだ。落葉は水を取ってくると言い一階に降りた。冷蔵庫からペットボトルを出して、棚に並んでいたガラスコップを手に久川のもとに戻った。
久川は注いだ水を素直に飲み干した。コップを床に置く。
「ボクは役所にいってきます。夜にでもまた来ますよ。外には出られないかもしれませんが、そんなに悪い環境でもないでしょう。ほしい物があれば食べ物でも嗜好品でも用意してくれそうですし、入口に立っている人とは良好な関係を築いておいたほうが良さそうです」
「うん。てゆうか眠くなってきたかも。少し、休む」
「上等なベッドを用意するようボクから言っておきます。体力回復は怠らずに。いつ、何が起きるかわかりませんのでね」
こくり、と眠気で舟をこぐ頷きを見届け、落葉は部屋を出た。
一階の鉄格子まで戻り、門番の姿が見えなかったから壁に取り付けられているブザーを押した。どこにも説明が書かれていないが、おそらく使い道はひとつだけ。予想したとおりに押して五秒も経たないうちに玄関のドアが開き、生真面目そうな女性が入ってきた。
高井はまず、落葉側の鉄格子を施錠するよう指示した。同時に開いた状態では、落葉に暴れられたら檻から久川を脱走させかねない。誰かに命令されて抜け目ない手順を踏んでいるのか、彼女自身の性分なのかは定かではないが、一筋縄ではいかない相手だ。落葉の施錠後も、先に鍵の返却を求めてからもう一枚を解錠した。
「テレビとか調理器具はありましたけど、とりあえずベッドも用意していただけませんか? 彼女、だいぶ疲れているようです」
「手配済みです。私たちにとっても久川さんは大切な人ですから、快適に過ごしてもらうためにベッド以外にもいくつか用意させています」
「電灯は、意図的に?」
「要望があれば取り付けも可能です。こんな一軒家にしているのは複数人が同時に入る場合を想定しているからですが、一人ではいくつも部屋を使わないでしょう。最低限の設備以外は入居者が変わるごとに入れ替えています。希望したように生活できないなら、本当に収容所と変わりませんから。それは意図するところではありません」
落葉は胸をなでおろした。どんなひどい扱いを受けるのかと心配していたが、久川を気にかけている高井が見てくれるなら、ひとまずは安心だ。
檻の外に出ると、鉄格子越しに見たときと変わらず空が青かった。
手の届くはずのない空が、さっきよりも近くに感じられた。
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