動き出した歯車
久川の沈んだ声に、落葉は膝の上で拳を握り耳を傾けた。気の利いた返事が浮かばない。そもそも気の利いた返事とはなんだ。まるで、どうしようもない結末だと自ら後押ししているようではないか。
他の管理者はなんとも思わないのか。これまでに出会った同僚、町で見かけた同僚の顔を脳裏に浮かべ、問いかける。管理者の立場にある人々の思いは理解しているつもりだ。影武者がいるから自分たちは生きられるのだと感謝の気持ちを忘れず、そのうえでどうしようもなく傍観する。より大勢を救う他の手段を見つけられず、しかたなく犠牲になってもらう。避けられない運命なのだと自らに言い聞かせ、納得できずとも影武者という仕組みを受け入れているのだ。
「でもさー、別にそれでもいいのかも」
「あまり軽々しく考えるべきではありません。それでいい、だなんて」
軽々しく言葉にするべきでもない。依頼の受注検討には、些末かもしれないが久川の意思の尊重が含まれている可能性がある。もしも部屋に盗聴器が仕掛けられていて、彼女に未練がないと知られれば都合の悪い側に傾きかねない。それに、本人が構わないと言ってしまえば、反対している側の気概も削がれるだろう。
「軽くないって。私は軽そうに見えるかもだけど――って、『あーし』だったけ。ま、もうどうでもいいや。キフユに自分らしくしろって説教されちゃったし」
「説教は誇張ですね。自分らしくするつもりなら長生きすべきです。冗談でも、もう満足してるなんて言ってほしくはありません」
「私の目標、前にも話したじゃん? 碧ちゃんに負けないくらい立派に命を使いたいの。生かしてもらったのにつまらない依頼で終わっちゃったら顔向けできないし。今回来てる話は全影の〝金輪際〟を賭けるんだし、相当じゃん? だったら受けても悪くないかもって思うの。変じゃないでしょ?」
こんなに悲観的だったか。こんなに彼女は頑固な性格だっただろうか。落葉は彼女の一変した態度に当惑する。全影を必要とする事件があると喋るべきではなかったか。
期限が迫っている事実を明らかにして危機感を持ってほしかったのに、それが、今すぐ命を捧げても構わないと言い出すなんて。軽率だった。発破をかけるつもりが冗談では済まない逆効果になっってしまった。
久川を救うため、落葉に残された手段はあまりない。
腹を括るしなかった。
「影武者として立派な最後を飾る機会は外の世界にも転がっています。久田碧さんの代わりとして生きるなら、代わりに本当の自由を感じてみてもよいでしょう。つまり、ボクと逃げませんか?」
「逃げない」
天を仰ぎたくなる。盗聴を覚悟して大胆に提案したのに、久川には容赦がない。
「もう碧ちゃんはいない。私だけが逃げたら、そんなのって卑怯だよ。タロウだってそう――ううん、違うかも。碧ちゃんもタロウも逃げたかったわけじゃない。逃げたいなんて一度も言ってなくて、無力に願ってただけ。影武者は立派な役割だと肯定してるけど、そんなものが必要ない世界になればいいなって」
「ふたりが願った世界を作ろうとは思わないのですか? 久川さんも同じように願い、同じように無念のもとで消えるつもりですか?」
「冗談でしょ? 影武者が必要のない世界なんて想像できない。目を逸らしたって、逸らした先でも嫌になるくらい事件は転がってる。影武者の甘い味を知った人達が、『明日からは自分でなんとかしてください』と言って終わるわけないじゃん」
「白旗を挙げるだけの行動をしたわけではないでしょう?」
「だとしても、これでいいの。こんなふうに思うのは初めてなの。タロウがいなくなって、私を〝正しく〟評価してくれてた人がいなくなってしまって、わかった。次こそ自分の番で、自分だけ逃げるわけにはいかない。どうせいつか死ぬんだし、子供を産んでも死ななきゃならないなら、その前に済ませたほうがマシじゃん? それくらいわからない?」
落葉は黙った。黙るしかない。脳裏にあるのは、命を捧げるという前提をいかにすれば覆せるかなんて不毛な妄想で、管理者の誰かに聞かれれば即刻里を追放されるだろう。いくら寛容な天音でも、久川を派遣すべきか議論されている局面で妨害するつもりなら看過しない。
「結論を出すにしても、いまはまだ急かされていません。気持ちが揺らがないにしても、春久さんが亡くなったと聞かされたばかりですから。無自覚に混乱して冷静な判断をできていないかもしれません。落ち着いた数日後、三日後くらいにしましょうか。その日に改めて確認します。それでもなお決意が固ければ、ボクから天音さんに伝えましょう」
「私に色々教えるために里に来てくれたのに、ごめんね」
「久川さんが悪いわけではありませんから、どうかお気になさらず。時代が悪いだとか、そういう台詞が合いますね。教職には憧れていたので残念――と後悔できるほど、教職らしくはありませんでしたが」
落葉はぬるくなった麦茶を一息に飲んだ。対面に座る久川は、熱心な生徒が教師の一言一句を聞き逃すまいと集中するような眼差しで落葉を見ている。
「気の早い話はこれくらいでいいでしょう。まだ職を解かれたわけではありませんから、まずは目先の課題です。晩ご飯まで集中しますよ。随分と脱線しましたが、雑談のあとでも勉強する時間は充分にあるといったのは久川さんです」
本音を言えば、勉強なんてどうだっていい。正しい文法を身につけたって、日常生活では絡んでこない複雑な計算式を解けたって、目に見えない元素を学んだって、昔の出来事を覚えたって……そんなもの、生き方を選べない彼女に役立つ機会は訪れない。
だけど、選べられるようになったとしたら?
生き方を選ぶ権利を得られたら、勉強した無駄知識が思わぬ場面で彼女の力になることもあるだろう。
「そうだったね」
落葉の指摘に頷く声はひどく乾いていた。
◆
落葉は翌日も久川の家を訪ねた。
里に来てから彼女の家を訪ねなかった日はない。一応休暇を週一で与えられてはいるが、落葉は勉強を教えなくていい日も久川に会いに行った。そして、勉強を教えた。久川は勉強の号令をかけた直後は毎度飽きずに不満を垂らすが、始めれば集中してくれた。
こんな日々をあと何回繰り返すのか。
何回まで繰り返すことができるのか。
一人で暮らすには広大で、二人で過ごすにも持て余す居住スペースが確保された一軒家。落葉は道路から久川家の二階の窓を眺めた。春久と出会った日、彼も同じように見上げていた。あのときと同じで、久川の部屋のカーテンは閉められたままだ。
インターホンを鳴らした。屋内に反響した音が漏れ、外にいる落葉の耳にまで届く。続いて床を歩く振動が伝って、靴を履いて踵を鳴らす音が扉を挟んだ先から聞こえる。錠の外れる音がしたら、彼女が朝の挨拶をしてくれる。落葉は挨拶を返して、気分がよければ軽い冗談を添えたりもする。里に来てからの毎朝の日課だった。
昨日までの日課だった。
いつか終わるにしても、その時期はまだ決まっていないはずなのに、今朝は彼女が鍵を外しに来てくれる気配がなかった。
寝坊の可能性だってあり得る。友達を亡くした事実は、落葉の前では気丈に振舞っていたとしても忘れてしまえる些事ではない。押し寄せた悲しみと不安に眠れず、ようやく明け方に睡魔に誘われたのかもしれない。
別段朝早くから会う必要はなく、疲れているなら休ませたほうがいい。出直すことに決めた落葉は、自分も昼まで二度寝を決め込むかと思いついた。落葉にとっても春久が亡くなったショックは大きく、昨晩は満足に眠れていない。念のため戸締りだけ確かめ去ろうとした。
がちゃ。
玩具のような軽い音。毎朝久川に開けてもらっていた扉に、今朝は鍵がかかっていない。
普段と異なる状況。落葉が不吉を予感するには充分な理由だった。
ドアノブを音を立てぬよう慎重に引く。物音がしたら即時に身を引けるよう心を構える。
玄関先に人影がなければ、家のどこにも音がない。誰か呼ぶべきか迷い、落葉はしかし屋内に進んだ。
久川楓は自分が担当する少女で、春久がいなくなった今、最も近しい関係にいるのは自分だ。ならば、彼女の身に何が起きたかを確認することも自分の役割だろう。まだ事件が発生したとは限らないが。
廊下を進み、手前の浴室を覗く。物音がしないのだから、入浴中なんてわけもない。風呂場の床は湿っていても、水滴が溜まっているほどではない。洗濯かごは空でも違和感はない。久川は毎日とはいかないが、二日に一回は洗濯をする適度にマメな性格だ。
トイレにも異常はなく、二階にあがる階段を後回しにして居間の扉の前に立つ。ノブを握り、深呼吸。酸素が薄いように感じるのは気のせいか? それとも、呼吸が下手になっているのか? うるさくなる心拍数を鼓膜の内側で聞きながら、落葉は居間の扉を開いた。
誰もいなかった。
けれども、もはや探索の必要はなくなった。
開きっぱなしのノートが一冊。連日落葉と久川が囲んでいた机の手前に置かれていた。手に取り、目を落とす。内容の確認は数秒で済んだ。長い文章ではなかったから。
落葉は久川の家を飛び出した。
◆
確信した。やはり久川の家には盗聴器が仕込まれていたのだ。おまけに、久川は自宅の会話が盗聴されていると承知していたらしい。
盗聴器に耳をそばだてる管理者は、久川の気持ちに変化があれば上に報告する。久川が影武者としての役割に従順か、反抗的か。落葉との関係は良好か、意図通りに一つ先のステップにいけそうか。春久がいた頃には彼との信頼度も量っていただろう。プライバシーの侵害だと糾弾しようにも、里そのものが酷く歪んでいる。
昨晩の会話も聴かれていただろう。いますぐ犠牲になってもいいと主張する久川と、冷静になれと宥める落葉。久川が肯定的だと知った天音が、彼女から直接報告を受ける前に話を進める危険もある。
久川の自己犠牲には意味があった。子孫を残さずに役目を終えれば、不幸の連鎖は途絶える。春久の願った影武者のいない世界に、自分の命を捨てれば近づける。そんな終わり方も悪くない。
そう思わせ、油断させた。
盗聴を逆手に取り、盗聴している連中を騙したのだ。
『ごめんね、キフユ。ほんとうは逃げたかった。せっかく来てくれたのに、別れのあいさつもできなくてごめん。キフユのこと、嫌いじゃなかったよ』
里の出入口はひとつ。役所前のゲートを通るより他にない。しかし当然、門衛が立っている。全力疾走すれば強行突破できる甘い警備でもない。
おそらく、全影の能力を使って抜ける気だろう。左手の甲の刻印は消せないが、疑わしきはそれだけ。管理者の誰かの顔面と体型を完全再現すれば、どうとでもなる。門を通過する際には門衛に必ず左手の甲を確認されるなど熟知していても、それでも問題ないと久川は判断した。
確認する側の門衛の容姿を完全再現すればいい。
そんな単純な策でうまくいくと思えたのか。久川の秘策が落葉の予想通りだとしたら、成功する可能性は限りなく低いだろう。
その推測は合っていた。
テーマパークの出入口を連想させる巨大なゲートのそばに天音がいた。門衛の男と話す彼は落葉に背中を向けていて、久川の姿は視界のどこにもない。
門衛の男に先に気づかれ、落葉は彼の視線を浴びた。遅れて天音とも目が合う。天音は話していた男に断りをいれ、悠然と落葉に歩み寄ってきた。表情に焦りの色はない。
「事情は把握してるようだな」
「久川さんはどちらに?」
直球な物言いに、天音は小さく唸る。
逡巡のあと、真相を知りたがる落葉の気持ちを汲み、天音は濁さずに言った。
「久川くんは保護した。理由は、説明いらないよな」
固いコンクリートに両膝をつけないよう堪えることに、落葉は必死だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます