影武者として
「なかで話そう」
久川は疑問を返さなかった。ドアを開け放ったまま屋内に進んだ彼女に代わり、落葉が家に鍵をかけた。
食卓の椅子を引いて、久川は機械的な所作で身体を預けた。落葉は対面にまわる。それが食卓で過ごす時間においての二人の定位置だった。
座るなり、落葉は春久の遺した黄色のノートを机の中央に差し出した。
「そこに書かれてたん? あーしのこと」
「そうです。読んでみてはどうですか?」
「いい。碧ちゃんの代わりになろうとしてるんだろって、タロウから直接言われたことあるし」
「そうでしたか。嫌いというのは……」
「そのとき一緒に言われた。あーしの容姿や喋り方なんかの表面的な部分は嫌いじゃないけど、根底にある生き方が嫌いだって。他人を参考にするのはいいけど、他人の真似だけで生きようだなんて怠慢で、困難から逃げてるって。影武者なんていう身代わりを務める身だからこそ自分自身を大切にすべきだとも言われたかな。少なくとも、里のなかでみんなが見ているのは誰かの身代わりとしての俺たちじゃないんだからって」
「なんと答えたんですか?」
「『あーしはもう死んでるから関係ない』って、そうやって言ったよ。そのあと嫌いだって言われた。それ以上は喋らなかった。嫌いって言われたのもその一回だけ。その次の日にフツーにお友達みたいに会いに来てくれて、向こうが触れないから、あーしも自分から蒸し返したりしなかった」
落葉は天井を仰いだ。影武者の仕組みはこんなにも残酷だ。誰かのために死ぬことを義務付けられた者が誰かの代わりとして生きれば、世界のどこにも自分がいなくなってしまう。自分として生きられない運命に反感があるのならマシだ。けれども、久川の生き様に葛藤は介在しない。
「髪を染めているのも彼女が理由ですか? 久田碧はかなり派手な性格をしていたようですね」
「オシャレが好きだったし、あーしくらいの歳まで生きてたら染めたかもって。それだけじゃないんだけどね」
後頭部に手を伸ばし、久川は髪留めをはずした。さらさらと波打って落ちた髪は肩より少し長い。そうやってストレートにしているほうが彼女らしいと落葉は感じた。
久川は少し照れた様子で伸びた髪を撫でる。
「髪の色を変えるとさ、生まれ変わった気がするの。みんな歳を重ねるほど色んな失敗をするじゃん? 失敗が糧になるって言う人多いけどさ、足を引っ張ることも多いわけじゃん。また同じ失敗をしちゃうかもって。だからさ、どうせならおいしいとこだけ取りたいわけ。失敗した過去の自分から別人に生まれ変わって、失敗したのは自分じゃない、自分はもっとうまくやれると思い込めたほうが楽しく賢く生きられるって思わない?」
「過去と決別して久田碧さんに生まれ変わった、というわけですか」
「先にあったのが碧ちゃんなんだけどね。碧ちゃんとして生きるために、過去の自分を捨てたわけ。わけわかんないかもだけどさ」
「その通りですね。本当にわけがわかりません」
不安そうな丸々とした瞳を浮かべる。それも、久川楓ではなく久田碧の瞳なのか。
違う。彼女は何年も前にいなくなった。久川は久川以外であるはずがない。
「久田碧さんは、生涯は短かったでしょうが彼女として暮らし、散ったのでしょう。死に際の容姿は別人だったかもしれません。ですが、普段は自分自身として生きていたから久川さんは彼女を思い出せるのです。だいたい、どうして代わりになろうだなんて思ったのですか? 別に、あなたをかばって亡くなったわけではないはずです」
当時ふたりいた全影の片方が選ばれただけ。選びなおせば影武者を命じられたのは久川だった可能性も充分にある。上下関係はない。ふたりとも完全な影武者だから、管理者側からすればどちらでも良かった。
「碧ちゃんは優秀だった。あーしより、ずっと」
落葉の知り得ていなかった久川の主観での久田碧。語る久川は片肘をついた手で顎を支え、自然に垂れ下がる頭をなんとか持ち堪えさせる。
「記録にどんなふうに残ってるか知らないけど、偶然なんかじゃなかった。偶然碧ちゃんが選ばれたんじゃない。選ばせたの。自分を指名するように。担当していた管理者に提案してさ」
「ボクも彼女について役所で調べましたが、そういった記録は見聞した覚えはありません。本人から聞いたのですか?」
「聞いてない。でも私がやるはずだったのは間違いないの。私は碧ちゃんより頭が悪いし、運動ができないし、かわいくないし」
一人称が変わったことを久川は自覚していない。前回の〝わたし〟とも違う成長した響きは過去の彼女の一人称でなく、現在の彼女の本当の一人称なのだ。ちゃらんぽらんな普段の呼び方は自分自身を偽るための隠れ蓑――演技だったのだろう。
「あなたよりかわいいなんて余程ですね。久川さんも美少女なのに」
「言うね~、ホントにそうなら化粧のおかげかな? 私は碧ちゃんにならなくちゃいけないから、いっぱい勉強した。学校の勉強はしなかったけど、化粧についてはたくさん調べたり聞いたりしたの」
「化粧をしたのが久川さんなら、それは他の誰でもなくあなた自身だと思いますけどね」
「キフユ、私の気を引こうとしてる?」
「そう聞こえたなら訂正します。ボクはまだ、そこまでは考えていません」
少し残念そうな顔をされたが、見なかったことにした。
一転して久川は不潔な物を発見したように身を引く。
「ていうか『美少女』って、そんな言い方する? おじさんじゃん」
「『おじさん』は初めてですね。新鮮な響きです」
「そういう余裕ぶってるとこもおじさん臭いよ?」
「ひどい言われようですね。ボク、なにか気に障ることを言いましたか?」
「さぁね」
席を立ち、久川は空になった二つのグラスを台所に持っていった。冷蔵庫を開け、取り出したペットボトルの麦茶を注ぐ。まだ溶けきっていない氷がからからと鳴った。
落葉は背もたれに体重を預け、グラスが運ばれてくるのを待った。たくさん喋ったから喉が渇いていた。
まだ話題は残っている。次はなにを話そうか。
「ねぇ、碧ちゃんの話、していい?」
机にグラスを置く前に、久川は思案する落葉に許可を求めた。彼女は表情には確かな覚悟があった。
「構いませんが、話が終わったら夜まで勉強ですよ? それでいいですね?」
「夜まで話が続いたら?」
「明日一日閉じ込めて取り返します」
「こわ。監禁じゃん」
俗に言う缶詰だと訂正させようと思って、やめた。落葉には缶詰と監禁の違いが明瞭ではない。犯罪なのが監禁で、合法なのが缶詰か……?
「よくわからないのでソレでいいです。夜まで続くようなら明日監禁します」
「今日のキフユ、なんか変。おじさんっぽいし、なんか危うい感じするし」
言葉選びを一度間違えただけで、向こう一週間、もしかしたら一ヶ月はおじさん呼ばわりされそうだ。舌は災いの元とは実に的を射ている。そんな冷静さこそ、久川におじさん臭いと思わせる理由なのかもしれないが。
「でもさ、監禁の心配はいらないかな」
久川はグラスを両手で大事そうに持って、一口をゆっくりと啜った。これまでの久川楓が見せたことのない仕草。彼女本来の、久川楓らしい仕草。
唇から離して、グラスを置かずに久川は対面を見据えた。
「そんなに長くないから」
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