手紙

 ロビーに置かれたいくつかの応接セットのひとつに案内された。案内したのは初日に役所で戸惑う落葉に声をかけた加藤だ。彼は役所で勤務するなかでは最年少で、そのせいで雑務をよく任される。『柊が役所勤務なら、きっと自分は雑務係を卒業していた』そういう他愛のない短い雑談のあとに紹介された春久の母親は、心配していたより元気そうだった。子供を亡くしたのに、挨拶した落葉に微笑みを返してくれた。やや弱々しい疲れた笑顔ではあったが、他人を慮る余裕は保たれている。

 息子の死は今朝知らされたばかりで、まだ現実味が無いのだ。落葉もそうだった。葬式もしないから、現実味がないまま風化していくのだろう。


「あなたが柊落葉くんですね。急に呼び出してしまいごめんなさい。春久小太郎の母です。楓ちゃんも、来てくれてありがとう」

「話したことありましたっけ?」


 首をかしげ、細い声で久川が呟くように質問する。


「里に住んでててあなたを知らない人はいないよ。私たちの代表みたいな人なんですから」

「あんま人と話さないから気づかなかった……あーしって有名人だったんだ。キフユ、知ってた?」


 落葉は「そうですね」と一息置いて続ける。


「久川さんは里にいる影武者全員の顔と名前を覚えていますか?」

「それなりには」

「ではその人たちが何をしてどう生きているのか、興味がありますか?」

「ないよ。そんなの勝手だし」

「でしたら間違いないですね。久川さんは有名人です」


 疑問符がいくつも浮かぶ久川を置き去りに、落葉は春久の母親のほうに向く。


「春久小太郎くんとボクは、彼が発つ前日に初めて会って、短い会話を交わしただけの仲です。久川楓さんを呼ぶならわかります。これまで長い間、友達として付き合いがあったはずですから。でも、ボクなんですよね?」

「ええ。私にもわからないけど、あなたなの。あなたを名指ししているの」

「名指し?」


 春久母が何を伝えようとしているのかわからない。子供を失ったショックで錯乱しているのかと思うくらいだ。そうなっても無理もない。喋っている意味がわからずとも、落葉は無理に問いたださないことにした。


「書いてあったんですよ。あなたの名前が」

「『書いてあった』というのは?」

「これです」


 空席にあったベージュ色に一輪の花がプリントされた手提げ袋から、春久母は一冊のノートを取り出した。いわゆる大学ノートで、黄色の表紙のタイトルを入れる部分には、人の名前ではない文字が並んでいた。


 《ヒイラギ オチバに》


 〝に〟の後に黒く塗りつぶされた文字があった。塗り潰されているが、元の文字の輪郭が薄っすらと浮かんでいて、かろうじて読める。丁寧な言い方にしようとして、別にそれでも伝わるからとわざわざ消したらしい。漢字でないのは、落葉の名前を文字として見たことがなかったからだろう。

 封筒に収められた便箋ではなくノートであっても、それは疑う余地のない遺書だった。

 口では命を落とす心配はしていないと豪語しながら、遺書を書いていた。

 今度こそ死んでしまうかもしれない。事前に春久はそう察していたのだ。


   ◆


 春久の母は別に用意されていた自分宛ての遺書を読んでいなければ、落葉に宛てたノートの中身も確認していないと言った。いくら他人に宛てたメッセージとはいえ、亡くなった息子の遺した数少ない言葉だ。親より先に読んでもいいのかと落葉は訊いたが、彼女は逡巡もなく許可した。落葉に渡す前に決めていたのだ。

 「返さなくてもいい」とも彼女は言った。それは本心ではないだろう。落葉が返しに来る頃には平常心を保っている自信がないから、人と会う機会を作りたくなかったのだ。落葉は申し出に首を横に振った。ノートは読み終わりしだい役所に預けるから、時間ができたタイミングで回収してほしいとお願いした。彼女は落葉の提案に異を唱えず、言われた通りの内容で了承してくれた。

 落葉と久川は役所を出て、里のゲートの脇に並ぶベンチに腰をおろした。夏の前触れが運ぶ紫外線が汗を誘う。ふたりとも早くも額が滲んでいた。でも待てず、春久が何を伝えたかったのか一刻も早く確かめたかった。


 いや、違う。


 落葉は自らの感情の動きを見つめ直す。 一刻も早く確認したかったのではなく、しなければならない気がしていた。

 受け取ったノートの表紙に改めて視線を落とす。表紙をめくろうと指をかけたとき、覗き込んでいた久川が三人掛けベンチの隅まで距離をとった。


「ボクに宛てられたものだから遠慮しているのですか?」

「そういうわけじゃないけどさ、別に二人で読まなくてもいいじゃん? なんであーしには何も遺さなかったのか不思議だけど」

「気にしているのですね」

「そうじゃないけど、あえてキフユだけに書いたんだし、それってキフユだけが読むべきものなんじゃない? ま、勝手についてきたのはあーしだけどさ」

「春久さんが久川さんを除け者にするとはボクには思えませんが、まずはこちらで内容を確認しますよ。春久さんの意図が何もわかっていない状態ですし」


 以前、久川は春久小太郎が自分を嫌っているのだと語った。理由は一度も尋ねていないし、教わってもいない。久川の遠慮は、そのことに起因しているのか。春久が落葉だけに遺書を渡したことにも関係しているのか。

 想像を巡らさずとも、答えは手の中にある。落葉はノートの表紙をめくった。

 何枚も根元からページが破られていた。雑に破られた残骸が根元で枯れ草のように残っていて、無事だったのはたった一ページだけ。最後の一枚だけがページ本来の形を保ち、少しぶれた書体で、しかしなんとか丁寧に書こうと心がけた文章が一行目から記されていた。住宅街の公園で話した彼の声で、平坦な文字が落葉の脳内に語りかける。


 ◆


「これは遺書だ。だから、俺がまだ死んでないんなら読まないでほしい。だけど死んじまってたら困るから、帰ったら伝えようと思ってたことを書いておく。きっと俺が伝えなきゃ、オチバはずっと知らねぇままだろうから。

 急だけど、俺は久川楓が嫌いだ。昔はそうじゃなかったけど、今のあいつは好きじゃない。あいつはおとなしい性格だった。俺みたいに学校を辞めちまう問題児じゃなかったんだ。それが新しい自分を見つけてのヘンボウだったらわかるけど、あいつは違う。あいつは久川楓として生きることをやめて、別人の代わりとして生きてる。だからあいつの行動はいつも、自分だったらじゃなくて、その人だったらになってる。その人だったらどうするかと考えて、学校もやめた。俺たちは影武者って超能力をもってるけど、そうじゃない時は自分として生活してるのに、あいつだけは違う。自分の命があるくせに、普段の生活さえ他人として過ごしてる。

 どうしてそんなことをしてるのか本人に聞いたら、隠そうともせず教えてくれた。何年も前に亡くなった友達のためらしい。そいつは、久川と同じ全影の能力を持ってた女子だ。どうしても完璧な身代わりが必要になって、小学生だったそいつの命が使われた。

 あいつは、そいつは自分の代わりに死んだんだと思ってる。命をつないでくれたそいつのために、そいつになりきって生きると決めたんだと。

 馬鹿らしいだろ? オチバなら、馬鹿らしいと思うよな?

 言いたかったのはそれだけ。

 あいつのこと、頼んだ」


  ◆


 表紙を閉じると、落葉の耳に音が戻ってきた。緩急をつけた虫の鳴き声、ゲートを管理する詰所から漏れ聞こえる雑談、殺風景な町並みを自動車が駆け抜ける音、エアコンの室外機が回る音。太陽に照らされていた事実さえ忘れていた。

 遠くにあった意識が、屋外のベンチに座る落葉の身体に戻った。暑い、の感情も取り戻して、手で顔に触れるとびっしょりと水滴がついた。それは暑さだけが原因ではないと自覚もしていた。


「ちょ、汗やばいよ!? だいじょーぶなん?」

「大丈夫……ではないですね」

「とりあえず涼しいとこ行こ? そこのカフェとか」


 隣の建物を久川が指差す。エアコンの室外機がぐるぐると回っている。


「魅力的な提案ですが、カフェでは都合が悪いかもしれません」

「都合ってなに? 自分がヤバいのわかってる?」

「わかっているつもりですよ。ですが、暑さのせいではありませんから」

「いやいや! めっちゃ汗かいてんじゃん!」

「うん、まぁ、そうなんですけどね」


 ちぐはぐな会話が、ますます落葉の頭が暑すぎておかしくなったのではないかと久川に心配させる。暑さが原因ではないにしろ、平常心を保てる心理状態ではないから半分だけ正解だ。


「久川さんの家か、ボクの家に行きましょう」

「あーしの家でいいよ。落葉のアパート狭いし。歩ける?」

「歩くくらいなら」


 本心をいえば、落葉は一歩たりとも歩きたくない。歩行なんてことより、早く目の前にいる彼女に伝えたかった。

 しかし、こんな場所で伝えても困らせるだけ。

 いつもより歩幅を狭く、速度を落として久川が前を歩く。負傷して憔悴した兵士のように歩く落葉を気遣ってくれていた。

 いつもより倍以上の時間をかけて、久川の家の前に到達した。


「うわっ部屋のなかあっつ! エアコンつけるからちょっと我慢して」

「久川さん」


 玄関のドアを開けてから久川は振り返った。声をかけた落葉を強張った顔で見る。彼女を呼ぶ落葉の声に、微かな怒気が含まれていたから。

 落葉はしまったと後悔した。余裕がなくて、感情を抑えられなかった。

 もう引き下がれない。引き下がったら、春久の最後の信頼を裏切ってしまう。

 数秒ばかりの間。黙って窺ううちに、久川の緊張がわずかに解けた。落葉の気持ちも落ち着き、努めて冷静に、落葉はこう問いかけた。


「あなたは、亡くなった久田碧の代わりをしているのですか?」


 落葉が突きつけたノートを、久川はドアノブを握ったまま眺めていた。

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