務め
部屋に時間を刻む音が響いていた。耐熱ガラスの奥をジッと眺め、落葉は音が止むのを待っていた。ガラスの奥は赤色に染まり、渦巻く熱が排熱用の隙間から溢れ、微弱ながらも室温を上昇させる。
オーブンの前に食卓の椅子を置き、落葉は腰かけていた。五枚切りのパンを二枚横に並べてバターも塗らずに焼いている。座れたらさぞ極上だろう白色の生地が凝縮し、焦げ目が付き始め、同時に香ばしい匂いが辺りに漂いだす。しかし落葉の目に焼けていくパンの様子なんて映っておらず、香ばしさは彼の意識の外にあった。
考え事をしていた。焚き火を見ると心が落ち着くなんて言われているが、落葉は火を見ていると自分の人生を考えてしまう。過去のこと、未来のこと、現在のこと――は考えるまでもなく常日頃から意識を向けている。わざわざ特別なシチュエーションで思いを馳せなくたっていい。
落葉の視線にあるのは火ではなく、通電したヒーターが高温になり赤く色を変えているだけ。それで焚き火と同じ効果を得られているのだから、人間の脳とは複雑なのか単純なのか不明瞭だ。
「キフユさあ、好きなの、オーブン」
「焚き火を見るのは嫌いですか? パチパチと爆ぜる音色を聞いてると心が落ち着くでしょう?」
「直火で炙るなんて機能なくない?」
「ありませんが、仮に直火焼き機能付きのオーブンがあったとしても、熾火が爆ぜる音は聞けないでしょう。ですが、焚き火の代わりにヒーターがありますし、爆ぜる代わりにタイマーの音色があります。慣れれば、夜中の森の奥地で自分の時間を謳歌している気分を味わえますよ」
「たまに変だよね、キフユ」
チーン。
一層甲高いタイマーの音が六分間に渡る調理の完了を知らせる。蓋を開け、パンがギリギリ収まる大きさの平皿を用意して、素手のまま親指と薬指で一枚ずつ素早く取り出す。食卓に運び、席につくなり、両手の塞がった落葉に代わりオーブンの蓋を閉めてくれた久川が対面に座った。机の上に置かれていたイチゴジャムの瓶に、彼女は手を伸ばした。
「『朝ご飯を作りにいく』って最初に聞いたからちょーとだけ期待してたんだけどさ、まさかパン焼くだけなんてね。別にいいけどさ、オムレツくらいは作れる人じゃなきゃ言っちゃ駄目でしょ、そんなん」
「久川さんにお腹を壊されてはサポート役失格ですから。文明の利器を使えば料理経験がなくたっておいしくパンが焼けます。事前に確認した久川さんの好きなイチゴジャムも用意したんですから、朝ご飯としては充分でしょう」
「ジャムはセルフサービスだけどねぇ?」
「塗りましょうか?」
「いいって。気を使って山盛りにされたら、明日からこのジャムを消化するのが苦行になっちゃいそうだし」
そう言ってジャムを塗り終えた彼女のトーストには、厚みのある紅色の層が出来上がっている。自分が塗る場合もそれくらいで抑えるのに心外だ。落葉は自分のトーストにはジャムを薄く伸ばして塗り、齧った。朝に似合う爽快な音が口元で響く。
「タロウが行って今日で何日だっけ?」
「五日です。これまで通りだと、帰国まで一週間はかからないらしいですね」
「あーそうだったかも。そんくらい経ったら、しれーっとその辺をぶらついてたような」
「会いに来てくれないんですか?」
「あーしら、そーゆう仲じゃないから」
「ですが、先日発つときには来てくれたじゃないですか」
「違うって。本人も言ってたじゃん? アレはキフユに用があったんだって。あーしは滅茶苦茶おまけ感強かったし」
本当にそうだろうか。春久に確認をとったわけではないが、落葉には違和感があった。春久を見つけたとき、彼は久川の家を眺めていた。彼女の部屋がある二階の窓を、その先にいる彼女を見るように。
ここからは落葉の憶測だ。春久と会ったのはあの日が初めてで、二回目の機会を迎える前に影武者として派遣されてしまった。確信を得られるだけの根拠もなければ、きっとそうだろうと思えるほど彼を理解できた自信もない。
落葉に不満を打ち明けた春久は、本音を偽っているようには見えなかった。あの日の彼の行動には、きっと全てに意味があった。久川の家に来たことも、落葉に用があると言いつつ彼女の同行を許可したことも。
「初日に天音さんから聞きましたが、久川さんは自分の家庭教師役はボクのような人が良いと希望を出していたそうですね」
「紫のド派手スーツが好きとか、料理ができないなんて条件までは言ってないよ?」
「何度も説明している気がしますが、これは指定された制服のようなものです。苦情は天音さんにお願いします。料理のほうはいずれ身につけるとして、他は概ね希望通りでしたか?」
「もう少しイケメンがよかったかな~?」
「それは謝るしかありませんね」
武林さんの家に来る客人には何度か顔を褒めてもらった経験があっても、久川の評価は厳しかった。年齢を明かしたときも『四つ年上には見えな~い』とやや馬鹿にされた。そう文句を言われても、肉体は改造できても顔の造形は努力ではどうにもならない。穿った感想と自覚しながらも、久川の評価は人として経験不足と批判しているように落葉には聞こえた。
「いちおーフォローするけど、落葉のこと嫌いじゃないよ? 勉強教えるのうまいし、勉強は短時間で集中して済ませて、あとは好きなことをしていいってスタイルも好きだし」
「教養がどれくらい必要かは個人差があります。久川さんは有名大学や研究機関で働きたいわけではないのですから、生活に困らない程度の知恵とそこら辺の他人に馬鹿にされない程度の知識があれば充分でしょう」
「そーゆうとこはすごく歳上って感じでポイント高いよ!」
「ポイントで他人を管理するのは良い趣味とは言えませんが、好きにしてください。ともあれ、こうして久川さんの望んだ若い男が――残念ながらイケメンではありませんが、あなたの専属として雇われました」
インスタントコーヒーに牛乳をたっぷり混ぜたカフェオレを久川が啜った。落葉が何を目的に話しているのか、なんとなく察しがついているのだろう。彼女は落ち着いて耳を傾ける。
「天音さんがあなたの要求に応えたのは、久川さんに良い気分で日々を過ごしてもらい、来るべきときに快く役目を果たしてもらうためでしょう。彼はボクの知る限り悪い人ではありませんから、ボクをスカウトしたのも久川さんに対する気配りの一環だと思います。ただ、それだけではないでしょうが」
「キフユが来てくれたら、おじさんたちにもメリットがあった?」
別に自分である必要はなかっただろうが、落葉は首肯した。
「管理者側にも利点があって、たまたま知り合いに条件を満たす人物がいたから天音さんは迅速に動いたのだと思います。もしかすると、久川さんから要求される以前から若い男を専属させる案を検討していたのかもしれません」
ここは久川の家だ。天音からは明言されてはいないが、盗聴器くらいはしかけてあるだろう。いまこの瞬間も役所あたりで監視役が耳を済ませているに違いない。
であれば、天音の耳にも届く。聞いてもらわなければ、意味がない。
「管理者側の目線で考えてみても確かにメリットがあります。久川さんに若い男を関わらせることで、先送りにしたくない問題を解決できる可能性があったわけです。ボクを採用した管理者側が何を期待しているか、わかりますか?」
「結婚してほしいんでしょ」
あっさりと、小学校レベルの算数の問題にでも答えるように退屈そうな声で言った。
落葉には意外だった。口調から緩い感じを醸している彼女だが、実は能天気なばかりではないとは見抜いていても、管理者の願望まで看破しているとは……盗聴器の向こうにいる面々も、落葉と同じ感想を抱いていることだろう。
結婚となると他人事ではない。相手候補として選ばれた身の落葉は、久川の直接的な表現にどう反応したものか逡巡する。真面目過ぎたらおかしな雰囲気になりそうで、しかし茶化してもそう大差はない気がする。迷った末、落葉は苦々しい笑顔を作った。
「どうします?」
「どうしようねぇ」
久川も困った顔をしてくれて、とりあえず落葉は安心した。無理だと即答されてしまえば、期待はずれの落葉は里を追放されかねない。久川に発言を取り消してもらえるよう苦心する羽目になっていた。
「結婚したらさ、あーしはたぶん、子供を産んで、ツトメを果たすんだろーね」
〝務め〟の言い方がぎこちなく、あまり声に出したくない単語なのだと察する。
「影武者として死ぬのってどんな気分なんだろーね。ツトメを果たしたみんなは死んじゃってるから聞けるわけないんだけど」
「戦争でも身を挺して仲間を守り、英雄扱いされた人がいます。望んで英雄になったのかは、本人に聞けない以上確かではありませんが」
「表向きはどうであれさ、本心はどうだったかは怪しいよね」
着地地点の存在しない会話だった。彼女の感想は自分と同意見で、それでこの会話は一区切りがついたものだと落葉は感じた。
細く問いかけるような声色で、久川は「なのに」と続ける。
「久田ちゃんは笑って出てった。まだ十二歳で、やりたいことがいっぱいあったはずなのに」
後半は声が震えていた。彼女の親友だった久田碧が影武者の使命を果たしたのはもう八年も前の出来事で、悲しみも思い出に昇華していそうな頃合だが、久川にはまだ向き合うべき悲劇なのだろう。落葉は目を細めた。それほどに、久川にとって親友の死は重かった。
「影武者として誰かを助けること、久川さんは納得できませんか?」
場所を移動してから訊くべきか迷った。迷ったが、落葉は盗聴を許容して尋ねる。どんな答えも、管理者の連中にとっては想像の範疇だろうから。
少し、気分が悪くなった。顔に出ないよう気をつけようとしたが、久川は落葉を見ていなかった。まだ半分ほどカフェオレが残るカップに目を落として、対面する彼女の唇がゆっくりと動く。
「全然できないってわけじゃない。たださ、うまくできるのかなって思うわけ」
「仕事を成功させられるかが不安ですか?」
「久田ちゃんのおかげでどれだけの人が助かったか知ってる?」
「ある程度は。当時某国で起きていたクーデターを沈静化できたのは、彼女が犠牲になったからです。初の女性国家主席であった代表者とすり替わり、敵対勢力の襲撃を受け犠牲となったことで政府は反撃の準備を整えられ、油断した敵を一網打尽にできたと聞いております」
十二歳の少女が、六十代手前のおばさんに化けたのだ。唇の色合い、瞳の形状、皺の数、顔のシミ、髪の長さや色艶、手足の長さに胸囲、身長、体重、お腹のたるみ具合までも完全再現した全影の再現力の凄まじさを、落葉は天音から語られていた。
「でもさ、影武者が真似できるのは外側だけじゃん。相手の仕草や行動は演じなきゃいけない。声色だって違うままなんだから、そんなには演技が必要な場面なんてないだろうけどさ、狙われる立場になるんだからどっかで見られてる可能性だって高そうじゃん。うまくできなかったら、影武者だってバレて意味がなくなっちゃう危険もあるはずでしょ?」
「失敗した事例はあるようですが、全影が必要となる国家全体を巻き込むほど大規模な依頼では発生しておりません。依頼側も必死で、準備に万全を期してくれるから問題を防げているのでしょう」
だとしても、今回もうまくいくとは限らない。そう言いたげな雰囲気はあったが、彼女は口を閉ざしたまま抑えた。落葉も言葉を繋げない。ここで励ますのは違うと感じた。
だからあなたも問題なく犠牲になれる、だなんて当人に言えるはずがない。
落葉は席を立った。椅子の脚が床を擦る音に反応して久川が見上げる。
「少し散歩をしてきます。よければ一緒にどうです?」
「いい。そーゆう気分じゃないし」
「では、すみませんが行ってきます。一時間後くらいには戻ってきますので」
ダイニングテーブルをまわり、廊下側に座る久川の隣を横切る。久川はまた目を伏せた。さっぱりとしていそうに見えても、役目に対する不安は拭いきれないのだろう。
部屋の扉を開け、出て行かずに閉じた。
背中を向ける久川に近づき、落葉は彼女の耳元に顔を近づける。「ひゃっ」と頓狂な声を出した久川は、落葉が唇の前に立てた人差し指を見て片手で口を押さえた。
「結婚する相手は春久くんでは駄目ですか?」
やや赤面していた久川の瞳が鋭利な光を帯びる。
「声は抑えてください。盗聴器があるかもしれませんから。あまり聞かれたくない質問なんです」
久川の視線は「どうしてそんなことを?」と語る。落葉は疑念に気づかないフリをして黙って返答を待った。他にも伝えたいことはあるが、いまはまだ伝えるべきではない。
二人の顔は手のひら一つ分くらいの間隔しかなかった。久川が先に、至近距離にある相手の瞳から目を逸らした。
「キフユ、気づいてない?」
イエスでもノーでもない返答に落葉は困惑した。
久川は小さく息をついた。落葉の反応に辟易するのではなく、その反応に同情するように。
「まーわかんないよね、あんなんじゃあさ」
「どういうことですか?」
「タロウはさ、前に言ったんだよ」
それを皮切りに、久川は落葉の知らない事情を小声で滔々と語りだした。
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