落葉の価値

 公園に残った天音が、春久がそうしていたのと同じようにジャングルジムに手をついた。


「春久くんは明日、影武者としてとある国に派遣される。興味があれば役所で調べるといい。彼の得意先となってる国だ。細かい話をすれば、依頼者は国家じゃなくその国の宗教団体だがな」

「ちらっと聞きましたよ。左手にしか能力を適用できない彼でも、充分に役立てる依頼内容のようですね」

「その分だけ費用が安い。最高額の久川と比べると、バカらしい数字だが約百倍くらいにな。外見だけでは本人と判別のつかない完全な模倣とハリボテの部分模倣だから当然ともいえるが、それでも故人と指紋を完全一致させることだって常識の外にある離れ業だ。そのありえない事実を成立させられれば充分と言われ、我々は春久くんを紹介した」

「ありえないと言っても追求されたらマズくないのですか? 左腕以外は隠してるって聞きましたけど、もしも疑われて暴れられたら簡単にバレますよね?」

「そうならないようガードは固めている。本物の教祖サマがご存命だった時期も厳重だったようだから、その点でも我々としては都合がよかった」


 だから春久は心配ない。彼自身も命の危険は感じていなかった。自分の場合、影武者として派遣されるのは些末なこと。問題があるのはそこではない。


「天音さん、春久さんが影武者の役割についてどう思っているか知っていますか?」


 ほう、と天音は感嘆した。いつも先に踏み込む天音に、今日は先手を打てたらしい。


「ある程度は知っているのでしょう? ボクが管理者と影武者の在り方に肯定的ではないと承知のうえで久川さんの担当に抜擢したんです。彼が心のうちで考えを巡らしていても、構わず影武者の役割をまっとうさせているのではありませんか?」

「柊くんが俺のことを理解してくれていて歓喜の極み――と言いたいのは嘘ではないが、少しだけ違っているな」


 ジャングルジムから手を離して、天音は落葉に対面する。


「彼だけではないよ。影武者たちが己の役割をどう思っているかは全て承知している。でもな、理不尽だと言われたってどうすることもできない。それは本人にもわかってる。理不尽でも従うしかない。死ねと命じられても拒否権はない。ならば我々管理者にできるのは、誰かの身代わりとして命を消費する行為を素晴らしい偉業だと説くことくらいだ」

「自分の役割が嫌になって逃げ出しても、僕ら管理者は見過ごすわけにはいかない……」


 風の音に負けそうな落葉の呟き。聞き取れたらしい天音が瞼を閉じる。


「影武者がいなければ犠牲になる人が大勢いる。俺たちの立場からすれば、知っている一人が死ぬか、知らない大勢が死ぬかの違いだ。一方で、里の外にいる俺たちの雇い主からすると、知らない一人と知らない多数になる。迫られるまでもなく、どちらを選ぶべきかは明瞭だ」

「そんな人々でも、久川さんの扱いには迷っているんですよね。全影の彼女が背負っているのは、ただ一人分の命と換算して比較するには軽すぎます」

「久川くんをいますぐ差し出せば、この先発生する問題を解決できないリスクを背負うことになる。いくら目の前で起きている問題が深刻でも、それを解決したあとで更なる大問題が起きない保障はない。何事においてもそうなんだが」

「彼女はどうなると思います?」

「俺が反対したって未来のリスクを背負う結果になるかもしれないし、賛成したって温存する話で落ち着くかもしれない。決定する権限を持つ相手以外には無意味だな、そういう質問は」


 天音は空を仰いだ。晴天の空は雲の流れが早い。澄み渡る景色は彼にどんな感情を与えるのか。


「ちょうどいい機会だ。俺からも訊かせてくれ」


 落葉が質問したからと、断りにくい前置きを省いて天音が言った。人の生死に関わる深刻な話をしていたのに、天音の声色は明るい。


「久川くんだが、見た目は結構派手でも喋ってみると案外いい子だろ?」

「元々悪いものを想像していたわけではありませんから、別段意外とは思いませんでしたよ」

「マイナスの印象でないならそれでいい。それで、どうだ?」

「どうだ、とは?」


 天音にしては珍しく、明瞭ではない言い回しだった。何かを躊躇っているのは落葉にもわかるが、それ以上は想像が及ばない。天音は低く唸り、本当にわからないのかと疑う目を向ける。


「昨日電話でも聞いたが、久川くんは君を悪くは思ってなさそうなんだろ? では君のほうはどうだ。事前に顔合わせすらせずに専属になってもらったが、うまくいきそうにないなら早いほうがいい。君にとっても、彼女にとっても。そうだろ?」

「まだ一日しか会っていないんです。判断はつけられませんよ」

「意気投合はできないにしても、意気投合できそうかくらいは感じられたはずだ。要は同じ世界の人間か、そうじゃないか」

「影武者とその管理者ですよ? 同じ世界なんて」

「わかってて言ってるな?」


 天音は立場の話をしているのではない。たとえ従う者、従わせる者の立場がさっぱり消えてしまっても、一人の生き物として相容れるか。天音が知りたいのはそういうことだ。

 久川と落葉の関係に期待しているから、社交辞令としか思えない表面的な回答では満足できない。天音が尋ねているのは、もっと具体的なもの。


「彼女に対するボクの感想なんて聞いてどうするんです? 個人的な興味ですか?」

「多いに興味はあるが、俺個人の興味の有無なんて些末なものだ。君の感想には君が思っているより大きな意味があるのだよ」


 いったい何を言い出すのか。上司から視線を逸らして、落葉は眉間に皺を作る。

 電撃が、閃いた。どうしても噛み合わない歯車がカチリと噛み合い、落葉の脳内に天音の意図が言葉となって流れ込む。


「そうか――だから、あなたは」


 落葉が管理者になれたのは、武林の仕事を手伝っていたアルバイトの彼に天音が声をかけたからだ。『世界の裏では、影武者と呼ばれる人々が平和維持に貢献している。柊落葉くん、君は興味があるようだね。武林さんから聞いたよ。ちょうど今、君のような若い男の人手が欲しかったんだ』それが当時の誘い文句だった。

 天音の勧誘に違和感なんてなかった。それどころか、天音に深く踏み込まれたこの瞬間まで、彼の勧誘に滲んでいた違和感に欠片も気づけなかった。

 落葉は天音を見た。真っ直ぐに見た。天音の口元が、片側だけわずかに吊った。


「本当は、もっと前でしょう?」

「前とは何だ? いきなりだな」

「久川さんですよ。いつから彼女の派遣を要請されているのですか? ボクは昨日のあなたとの電話で初めて知りましたが、思い返してみれば昨日の出来事とは言っていませんでしたね。ボクを里に誘う前から、未来を捨てて彼女を派遣すべきかの話し合いは始まっていたんじゃないですか? いや、むしろ彼女の今後を検討するなかで、ボクを誘う話が出たのではないですか?」


 天音は両瞼を閉じた。落葉の推測を肯定する仕草だった。視界から逃れた天音が、口を真一文字にした状態で二度三度と頷く。


「それで?」


 答えなどとうに確信しているだろうに、天音は聞き返した。まだ落葉は全てを明らかにはしていない。自分の頭にある真実と落葉の推測の一部だけが、偶然部分的に一致しているだけかもしれない。その可能性を疑っているのだろう。

 疑いを晴らすべく、落葉は平坦な声で続ける。


「国が問題視しているのは、久川さんの犠牲ではなく全影の能力者の絶滅でしょう? であれば、その問題を解消する方法は限られます。相手に諦めてもらうか、彼女を〝唯一〟の全影ではなくすか。前者は相手に決定権を委ねていますので実現が困難ですが、後者の方法なら時間と相手さえ確保できれば」

「もういい、君が状況を把握してしまった事実はよくわかった」


 隙間なく外堀を埋めようとした落葉の返答に、天音は観念した様子で重く嘆息する。


「君の想像通りだ。補足の必要もない」


 そんなのはわかっている。答え合わせをしたかったのではないのだ。

 では、何をしたかったのか。

 天音に自分を連れてきた本当の理由を吐かせることに、何を求めていたのか。肯定する天音に落葉は言葉を返せない。非難したい欲求がこみ上げてくるが、自分の意思を表現する言葉を組み立てられない。表現しようとするだけで憤怒が込み上げ、冷静に頭を回せない。


「落葉くんをここに連れてきたのは、久川くんの恋人になってもらいたかったからだ。彼女を許容できて、彼女が気に入ってくれそうな若い男を探そうと思った際、武林さんに雇われている君の姿が真っ先に浮かんだ」


 もっと直接的な表現をしたらどうだ。恋人にさせたいのではなく、期待しているのは更に先なんだろう? ――自分の感情とは信じがたい激しく湧き上がる怒りを、落葉は喉元で押さえ込む。懸命に身体の内側に逆流させる。

 最低だ。最悪だ。人としてどうなんだ。喉元を食い破りたがっている声はどれも強烈で鋭い。しかし無意味な主張ばかりでもある。理性を筒抜けにさせて相手にぶつけたところで、状況が好転するわけではない。むしろ逆効果だ。天音の気分を害せば、落葉は即座に里を追放される危険がある。


「ボクに、全影の継承者の親になってほしかったわけですか」


 跡継ぎが生まれれば、全影は世界でただ一人の貴重な存在ではなくなる。遺された〝親〟は心置きなく国家間の信頼を結ぶ橋として命を捧げられる。信頼を損なわないために、天音を代表とする管理者の面々は久川楓の跡継ぎが喉から手が出るほどに欲しいのだ。

 落葉の確信を付く一言に、天音は目を伏せて相槌を打った。落葉は天を仰いだ。呼吸がうまくできずに溜まっていた息を、広大な青空に吐き出した。

 天音は結婚という表現を避けた。その理由を、落葉は悟った。

 当たり前のように青い空が、ひどく羨ましく感じられた。

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