第1話(先発:上坂涼)

 ポップミュージックが小汚い厨房の中で踊る。横幅32インチのテレビと同等に思われる巨体が、その音楽に合わせて小気味良く揺れていた。巨体の左右にくっ付いている弾力のある肉厚な腕。さらにその先端にある左手でネギを抑え、反対の右手で握る包丁を振り下ろしてネギを器用に切り刻んでいく。


 ルンルンと身体を揺らしている巨漢は、あっという間にネギをみじん切りにして、熱した中華鍋に油を敷いた。


 中華鍋が心地の良い音を立てて、油に熱を与えていく。


 巨漢は油に熱が加わったのを見てから、あらかじめ秘伝のタレに漬け込んでおいた豚肉を中華鍋に投入する。


《こんにちは。儚音(はかね)みおんです》


 豚肉を炒めようとお玉を構えていた巨漢の顔が驚きに変わる。お玉を握ったまま、食堂に面したカウンターへ肘を乗せて身を乗り出す。


 食堂に備え付けられた32インチのテレビに人気急上昇中のアイドル声優『儚音みおん』が映り込んでいた。


《新曲のHOME INはいかがでしたでしょうか。どれだけ苦しい人生でも、夢を持って生きていこうという私からのメッセージを込めたナンバーとなります。マネージャーからは押しつけがましいとか言われちゃってるんですけど。あはは》


「はぁーあ。みおんちゃんはいつ見ても可愛いなあ」


 うっとりとツインテールの彼女に魅入る巨漢の背後で、焦げ臭い煙が換気扇に吸い込まれていた。



 

「いらっしゃいませー!」

 売り場にはつらつとした声が行き渡る。


「塩クロワッサン焼きたてでーす! 小麦百パーセントの塩クロワッサンですよー!」


 はつらつと塩クロワッサンを商品棚に並べるパン職人の服を着た一人の女性。楽しげに歯を浮かせてせっせせっせと塩クロワッサンを並べ終えると、店内にいる客へ声をかけていく。


「こんにちはー! いつもありがとうございますー。あの、良ければ塩クロワッサンどうぞ! 焼きたてですよー!」

 客達としばしの談笑を楽しみ、ルンルンの笑顔で厨房へ舞い戻る女性。


「はっ」


 厨房のドアをくぐった途端、女性はうんざりとした顔をして短く息を吐いた。せっせとパンをこねまくる従業員達に脇目も振らず、スタスタと歩いて社長室の前へ。


 懐から社長室の鍵を取り出し、施錠を解除して中へ入ると、すぐさま後ろ手で鍵をかける。女性の顔は剣呑そのものだ。


「おばあちゃん。この戦いは私が死んだ後も続きそうだよ」


 女性が見つめているのは、デスクの上に飾られた写真立ての中。彼女の祖母が微笑む一枚の写真だった。


「でも、必ず成し遂げるから。どうしようもなくなったら悪魔に魂だって捧げてやる」


 今度は鍵ではなく、懐からバターナイフを取りだし、壁に張り付けられた一枚の写真に投げつける。パンに刃物を入れたような音が鳴り、バターナイフが壁に突き刺さる。


 それは既に無数のバターナイフによって張り付けにされた、焼きたての餅の写真だった。

 



 青い空と川面に白球が飛翔する。


「回れ回れ回れ回れ!」


 野球帽を被った初老の男性が腕をグルグル回している。そんな彼の姿をブラスチックのベンチに寝そべる男が遠巻きから見ていた。


「青いねえ」


 黒まじりの白髪を鼻先に垂らし、ひげをボーボーに生やした男は笑う。

 ここらの草野球チーム界隈で注目のエースが放った主砲は、寝そべる男の目の前の草っ原にぼすりと着地した。

 駆け寄ってくる外野手の少年。寝そべる男の薄汚い風貌を認めるや否や、その速度を緩め、気まずそうに近づいてくる。


「あのう。すみません。ボール取らせてください。……失礼しまーす」


 恐る恐る歩み寄ってくる少年にニヤリと犬歯を見せ、ゆらりと立ち上がる男。


「気にすんなよ。それよりホームインしちまうだろ。止めねえと」


 男に言われて少年が野球グラウンドを振り返ると、エースが二塁ベースを蹴ったところだった。

 ふいに少年の視界が薄暗くなり、つんとするアンモニア臭が鼻孔を襲った。


「おらぁ!!」


 次に映ったのは、逞しい男性の背中。躍動する体躯はまさしく獰猛な獣そのもの。そんな獣が振るった腕から放たれるは、白い光線の如き一撃。

 光線はみるみるうちにキャッチャーとの距離を縮め、寸分狂うことなく彼の構えるキャッチャーミットの中にスパーンと収まった。唖然とした顔で本塁ベースに走ってきた注目のエースの肩に、同じく唖然とした顔のキャッチャーのミットが当てられる。

 

「タ、タッチアウトォー!」


 またまた同じく唖然とした監督が審判結果を告げる。


「ひゃ、百メートル以上の距離をノーバウンドで……しかも弾丸送球だと? アイツはいったいなんなんだ!?」


 監督が目を凝らして、遙か遠くの男の姿を見定めようとする。

 得体の知れない様々な汚れが染みついた深緑色の雨合羽を羽織った男。彼は揚々と天を仰ぎ、まばゆい太陽に目をやった。


 ふうと息をつきつつ、肩に手を置いて首を回す。凝り固まった筋肉と骨の節々がボキボキと音を立てた。


「やっと今年も暖かくなってきたな」


 雨合羽をばさりと脱ぎ去り、右肩に背負う。

 現れたのは、すらりとした手足に程よく筋肉の付いた身体。アニメ調のキツネのイラストがデカデカとプリントされたTシャツと、紺のオーバーオール。


「ゴミ拾いタイムと洒落込みますかね」

 ぽかんとする草野球選手達と監督に目もくれず、男は我が家である高架線の下へと向かった。

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