色彩を欲する者たちの代演者
早速二人は図書館に向かった。目的は地下資料庫だ。そこには隠された歴史があるのではないのか、と先生は目星をつけた。
迎賓というカードを切っても入れなかった場所に夜分遅く入るには、先生は達者な人間だった。饒舌に バルドゥール画伯の名前を出し、明後日出立するには是非とも見たいものがあると言い、地下資料庫の鍵を入手した。
「先生は詐欺師にも向いているかもしれません」
「そんなことはないよ。出立が明後日なのは嘘を吐いていないし、バルドゥール画伯とそれなりに仲が良いのも本当じゃないか。それよりコル、ランタンをもう少し右よりに当てて」
「はい、先生」
「そのまま……うん。いけそうだ」
地下資料庫の鍵は錆び付いていた。オイルが必要なのではないかと思うほどぎこちなく開いた扉に、得体の知れない気持ちを抱いては、コルはランタンでその中を照らして見せた。
蝋燭はあるが、どれもが短い。ランプの類は存在していないようでもあった。
どうやって光を取り入れているのだろうとコルが考えていると、先生が自分のランタンをかざしながら次々に蝋燭を取り替えていく。
資料庫と言えど広いものではなかったことが救いだろうか。インテリアを除いて人が十人程度入れれば上等な部屋だった。埃だらけで息がしづらい。手頃な机と椅子があるだけで、あとはぎっしりと本が置かれている。
「コル。僕らが今必要としているのは、“神を覗く者”とそれに纏わる話だ。神話に近い。それらしいタイトルのものは全て選んでほしい。逆に美術史は捨てるんだ」
「わかりました、先生」
そう言って先生は本棚に向かった。コルも本棚に向かい、自分の直感と知識でそれらしい本を選んでは、本棚から抜き取っていく。
ぱらぱらと舞う埃も何もかもを無視して、一心不乱にそれを続けること一周。部屋中の本を精査した後に選ばれた数十冊をコルと先生は黙々と読み始めた。二人は速読が得意だった。否、そうしなくては学士の街ではやっていけないのだ。学士の街の人々は皆、知識に追われて生きている。だから何かを素早く読み込むという力は、異様にあった。
読んでは栞を挟み、めぼしいものが見当たらなくなれば次の本を手に取る。その繰り返しをコルが七回、先生が十五回ほどすると、本は見当たらなくなった。
コルと先生の本を探す手が重なり、二人はハッとする。すぐに退けはしなかった。代わりに二人は頷いた。
「先生。報告をします」
「ああ。僕からもしよう」
先生はある本を手に取り、指でなぞりながら読み上げた。
「これはアグラヴィータの神話だ。まず初めに、神とインクがあった。暇を持て余した神は描き始めた。神は初めに鴉を描いた。空というものを作り出すために。鴉が飛べばそれは空であり、鴉が止まればそれは木だ。神は自在に描き散らした。そのついでに人ができた。人は神を模倣し始めた。そしてこの都市ができた――これを読む限り、やはりアグラヴィータ最初の宗教は、神を模倣することであり、色を遠ざけることではない、ということがわかる」
「はい。私も同じような文献を見ました。神とインク。世界なるカンバス。それらを模倣する人々――その循環がまずあった。つまり“神を覗く者” は最初から存在しなかった」
「そうだね。そしてこんなものがある」
先生はある本を取り出した。
『インクの歴史』と書かれているその本を見て、コルは首を傾げた。
「先生、私も同じ本を読みました。でも……表紙が違うようですね」
先生が持つ『インクの歴史』はコルが読んだそれよりも煤けたものだった。くたびれた表紙には瞳から溢れるインクが描かれている。コルも山積みになっている本から同じタイトルのものを探すと、表紙には抽出機とインクの図版があった。
「それは何版になっているかな」
「二版です……もしかして!」
「そう。これは初版だ。おそらく世間に流出しているのはそっちなんだろう。内容は?」
「“神を覗く者”とアグラヴィータの人々は密接な関係にある。神がよく描いた我らにもたらした秘宝こそが、何も奪わぬ“神を覗く者”だった。ある者は髪を渡した。ある者は肌を渡した」
「求める色というものはおおよそ自然の中にあり、それは真似こそできるが真にその色とはならぬもの。ならばそれそのものから吸い出せば良いだけのこと――そうだね?」
「その通りです。先生」
彼は初版の『インクの歴史』を広げた。
そこには小さな輪郭を持った人間と、絵筆を持つ人間が出会った様子を描いていた。
「そこでは終わらないんだ。むしろその出会いがここには書かれている」
――我らはある支配者に出会った。
「色を持たない一羽の鳥に」
――それは発見だった。
――色を持たない存在は、まさしく神のとりこぼしだった。
――その鳥は色を求める悲しき魔物だった。
――色を求め、色を失い、色そのものを吸い上げるスポイトだった。
――我らは鳥を小鴉だと信じ、食事を与えた。
――色を与え、色の箱、色という食物を与える代わりに我らの唯一無二の抽出機になってほしいと。
――そう願い、願いは受け入れられた。
――それからアグラヴィータは美術神郷、インクの栄える都市と、そう呼ばれている。
コルは息を呑んだ。
それは先日読んだ絵本の続きだった。小人ではない。小人は小鴉が擬人化されたものだ。先生が言った通りの小鴉そのものであった。
先生は気難しい表情をしながら、本を閉じた。
「――君は本当に、運がいいというか……ぴたりと当てはまるものを読んでいたんだね、コル」
「え、ええ……でもあの中に小鴉がいるだなんて。先生。それはいつからの話なのですか?」
「この本を説明書とするなら百年ほど前から始まっていることになる。けれどインクで栄えているのは今に始まったことじゃない。百年前以上から始まり、今もアグラヴィータのインクは素晴らしい。おそらくはインクによる解釈が変わってきたことが、この歴史を秘匿される理由なんだろう。最初は手製だったものが、小鴉の精製に至った。次第に与えるものが変わって言ったのだろう。それこそ自己犠牲――至高の美術のためならば、それもやむなし、と」
「ついには与えるものは、美しき目を奪われるものに色が変わる瞳こそ、ふさわしいと?」
「瞳である理由はわからない。何せそういったものは、一人のカリスマの登場でいくらでも破綻する。それが今回はバルドゥール画伯であった、と考えた方がいいだろう」
一人の天才が何もかもを塗り替えていく。常識や倫理までもを。
その天才によって人は美しきを見たが、奪われもしているのだろう。コルはそんな想像をして、苦い気持ちになった。
「……先生」
「どうしたんだい、コル」
「想像を確信にして、どう立ち向かえるのでしょう」
バルドゥールだけではない、アグラヴィータのすべて、と口にしたけれども、本当に彼女はアグラヴィータのすべてと向かうことになってしまった。
想像よりも遥かな歴史の重みが、彼女の背にのしかかる。
「私が知り得るのは事実かも知れぬ歴史であり、行うのは考察です。考察はどこまで行っても、過去の再現にはならず、過去の発掘にしかならない。いいんでしょうか? 私はこのまま発掘をして、それで……ちゃんと彼らを止められる?」
足がすくんでいた。
手は震えていた。
この先のことを考えて、コルは怖くなっていた。何故って彼女が知ったところで、バルドゥール画伯の行動を止められるとは思えなかった。彼は
武力で戦えども、威勢を張ろうとも、彼が行おうとしていることはコルの知識で立ち向かえるものではない。
「……そうだね、コル。僕らはただの墓荒らしとも呼べるかもしれない」
「先生」
「でも、知らないよりはずっといいんだ。ずっといい。知らないで、セティくんが盲目になるかもしれないことより、ずっといい。それが宗教や歴史や人々の生活によって正当化されていることだとしても、どうしてそうなったのかを知ることは、絶対に間違いではないよ。大丈夫。僕が誰か知っているだろう?」
先生の声音がひどく優しかった。先生はどこまでも知識の探求者であり、その意味を知っていた。
コルはそれだけでよかったのだと、そう思えた。
「大鴉先生……大鴉に認められた、唯一無二の先生です」
「そう。その僕が言っているんだ。無意味ではないよ」
先生の口角が僅かに上がる。コルはにへら、と笑い返した。
そうだ。私はこの先生だから何もかもを任せられる、と。そう感じたことを彼女は思い出した。
そのことを忘れてはいけない。
「それで、この事実があったとして――武力行使でもなく、どう活用するか、だ」
「まだ足りませんか?」
「僕の持ちうる知識で小鴉と、その危険性が証明できればいいのだけれどね。何せここは学士の街ではない。僕らが欲しい小鴉に関する証明は殆ど出来ないと思っていいだろう」
「じゃあセティくんを助けられないかもしれない……ってことですよね。今の状況だと」
「そうなるね。コル、抽出記録は見つけたかな」
「はい!」
コルは素早く、読み返した書籍の中からそれを取り出した。
「おそらくこれは“神を覗く者”の抽出記録だと思います」
紙束を紐で括っただけのものだった。表紙も特別な紙を選んでいない、掠れた字が特徴な紙片だった。
「こう書かれています。“神を覗く者”の取り扱いについて」
雑にまとめられているそれは何かの写しであることは容易に想像できた。先生も丸眼鏡を正してコルの手元にランタンを掲げる。
「定期的にインクを抽出すること。その色は前回と交互あるいは反対色などの同系色でないことが好まれる。色が混じるため。そこから先は日付と何色が抽出されたのかのメモです。おおよそ三日から四日の間に一色抽出が行われているようです。繰り返し、青から始まり黒で終わっています」
「その記録はいつから始まっているんだい?」
「五十年かもう少し後でしょうか。でも、これでわかります。次に抽出されるのは、やはり青――!」
ぎゅっとコルは紙束を握った。
先生も頷き、本だけは丁寧にしまうと部屋の灯りを消して鍵を閉めた。
「ありがとうございました!」
誰もいない図書館のカウンターに鍵を置き、裏口から出る。夜分遅くまで作業が難航しそうだ、という先生の話が上手く作用していた。
彼らは走り出す。バルドゥール邸に向かって、できるだけ早く。
バルドゥール邸は静かだった。
ベランダにはバルドゥールとナーナ、セティがいた。彼らは群青の空をじい、と見つめていた。唯一ナーナだけは盲目であるからなのかあらぬ方向を見つめていた。辛うじてバルドゥールに背中を支えられ、同じ方向ではないにしろ空は見つめていたが。
「おや、先生にお嬢さん! そんなに息を荒げてどうしました!」
バルドゥールが視線に勘づいたのか先生とコルを見つけて手を振る。
二人には振り返す程の余裕がなかった。その代わりにぜえぜえと肩で息をしながら、コルが手を挙げる。
「バルドゥール画伯! お話が!」
「ああわかりました。ではそちらに行きましょう」
彼の張り上げる声は夜空によく響いた。
バルドゥールらがコルたちと同じ地面を踏んだ頃、先生とコルの息はどうにか整っていた。
二人はやはりというべきか、バルドゥールの隣にナーナとセティが並んでいるのを知って、顔を見合わせた。しかし黙ってはいられなかった。もし二人の推理が正しければ、それはナーナもいち被害者なのだから。
「それで、先生。お嬢さん。どうしてこちらに?」
「……バルドゥール画伯。私はあなたを止めに来ました」
はっきりとコルが言う。
ふむ、とバルドゥール画伯は頷いた。
「ああ……それで先生は右腕を隠していらっしゃるのですか」
「え?」
コルが気をとられた一瞬だった。
街灯の影から人物が数人現れた。彼らは素早い動きで先生とコルの動きを封じるべく動く。コルは頭をぐわんと揺らすように押さえつけられた。
――右腕?
なんとか先生の方を見ても、右腕を隠しているようには見えなかった。
バルドゥールが高く笑う。
「知識などというものは、圧倒的な美とセンスの前にひれ伏すものです。それをカリスマ。カリスマと言いますな!」
押さえつけられる意味がわからなかった。
ただ理解できたのは、バルドゥールが二人の言い分をおおよそ推測して人を集めたということだった。バルドゥールほどの神郷画家になればボディガードの一人や二人が存在するのかもしれない。そうコルは思いながら、その想像が役に立たないことに歯がゆさを覚えた。
「バルドゥール画伯! 僕たちはあなたを武力でどうこうしようというわけではありません!」
「わかっています、わかっていますよ、先生! しかしあなた方はこうも言うつもりのはずだ。『インクを抽出するな!』そうでしょう?」
「わかっているのならどうして私たちを押さえつけているんですか!」
はあ、とバルドゥールがため息を吐く。
「念のためです。かの大鴉先生は――右腕をお持ちですからな」
じっとりとした視線が先生に向けられた。
コルからはよく見えないが、先生が何かを隠しているらしかった。それが切り札になっていたか、コルにはわからない。話から察するに、それこそが右腕と呼ばれるもののようだった。
バルドゥールが先生が隠し持っているものを暴くようにと命令する。
彼から暴かれたのは白銀の拳銃だった。
「ほう!」
拳銃を受け取り、バルドゥールが観察する。
「なるほど。これが学士の街の権威者が持つという右腕でしたか! 弾丸なき拳銃。これも命さえ奪わないとのことですが――」
彼のペリドットが鋭くなる。
「先生!」
嫌な予感がしてコルは叫んだ。しかしその予感の通り、バルドゥールは先生に向かってその拳銃の引鉄を操作する。
パン! と鈍い銃声が響き、おそるおそるコルは咄嗟に瞑った瞼を開けた。先生は血の一滴も流してはいなかった。
空砲にしては実体がありそうな音だったことを抜けば、その通り命さえ奪わないのかもしれない。コルはバルドゥールの話を半分信じて、そう思うことにした。
キッ、とコルがバルドゥールを睨んでいると、彼はくつくつと笑った。
「お嬢さん。先生を助けて欲しいのなら、やるべきことがあるでしょう」
「やるべきこと? ……私に何か望むというんですか?」
「そんなの気づいているでしょうに。あなたの瞳は特級品だ。それは誰もが認め、この美術神郷であるならば、さらに価値を増す悪魔のような瞳!」
「まだ……まだそんなことを言うんですか? ただの群青ではないですか!」
「ただの群青こそが、神になる。そういうカンバスなのです。ここは」
堂々とバルドゥールは言い切った。
彼はポケットからチョークを取り出し、それをお手玉のようにひょい、と反対の手に投げてはキャッチする。
「私を止めたところでどうするおつもりで? 人からインクを抽出するな……それは正しく人道的だ。しかしね。ここの人は毒と刃になろうとも、ペンや筆を執らずにはいられぬ狂気を持ちうる。それが今の私だ! 美術神郷だ! 狂気を払い、生活を得ているわけです!」
「それが何だって言うんです! それでも美しいものを探し求めているセティくんの旅路を……視力を失わせてよいという理由にはなりません!」
「セティ? ああ、セティの話でしたか」
二人に近づこうとしていたバルドゥールはおもむろに歩みを逆方向へ――セティの方へと正した。そしてセティの髪をわしゃわしゃと撫でながら彼は言い放った。
「セティなら了承していますよ」
「え……」
「この子は偉大なる父の作品になることを望んでいる! あれは、“神を覗く者”は人の命さえ奪わない! 奪うのはこの子の青きインクだけだ。母と同じ旅路を逝くだけなのですから!」
「母……ナーナさんもあなたは犠牲にして、何を描きたかったっていうんですか!」
ぎょろりとバルドゥールの冷たい瞳がコルを射貫いた。
ぞっとするような視線にコルは咄嗟に視線を逸らしたくなった。しかしできなかった。しっかりと押さえられた頭は固定されてしまって、バルドゥールと僅かに先生の様子を探ることしかできなかった。
「すべてです。お嬢さん。この世のすべてを描きたい――表現したい。そう思うのは、画家であるなら当然でしょう?」
画家という人間の性だろうか。
それともそうなるべき運命だったのだろうか。
この世のすべてと話しながら、その言葉に一切の傲慢を感じなかった。彼は修行に身を費やしているだけだった。彼はその言葉通りに描きたいだけなのだ。
この世のすべてを。
果てない想像が及ぶ。ナーナの色の違うその双眸に、彼は作品を見出してしまったのだろう。そして恋をして描いてしまった。彼と彼の作品を愛するナーナはそれを認めて、黒き旅路を始めたのだ。
それが正しいことなのか、判断がつかない。あまりに遠い異国の話を聞いているようだった。
コルが黙っていると、バルドゥールの興味は先生に向いた。
「ところで――こうなっていくと私も興味があるのですが、先生も何人を犠牲にしたのですか?」
身動きのできない先生の元へゆっくりと歩きながらバルドゥールは問う。
「かの大鴉先生のフィールドワークには多くの生徒たちが付き添いを希望するとお聞きします。何故って大鴉先生は特別だ。この世のすべてを知っているとも過言ではないでしょう。それだけこの世界では大鴉神話の価値は高い。そして、当初の子と異なる生徒さん。お嬢さんになったのは、先生もその生徒を食らった――犠牲にしたからではありませんかな?」
それは初耳だった。
コルはてっきり自分が最初から選ばれたものだと思っていた。他の生徒もそう聞いていると話していたはずだ。
コルは先生の方を見る。べっとりとアッシュグレイの前髪が顔にかかっていて、先生の表情はうかがえない。
「違います。アドラは僕からやめろと言ったんです。彼には精神が足りなかった」
「そうですか。ふむ……それはお嬢さんにも足りませんでしたな。子どものようにきちんと余所の郷のしきたりを学ぶよう育むべきものでしたな。それがこの美術神郷ですから」
はっきりとバルドゥールが言う。
その通りなのかもしれない。けれど、それにしたって、許せるものではない。
すべてを知りたいというのは、先生も同じなのかもしれない。すべてを描きたいバルドゥールと同じ欲望を持ち、彼も何かを差し出しているのかもしれない。
「けど……っあんまりです……っ!」
コルは叫んだ。その群青には涙が浮かぶ。
「いいよ」
彼女の涙を引き裂くように子どもの声が響いた。
セティだった。
彼はナーナの手を離れ、気づけばコルの前に立っていた。
「コル、さん。いいよ」
「いいって……いいって、どういう意味ですか」
「ぼくは、パパの作品になる」
か細い声だった。今にも途切れてしまいそうなものだった。
見ればセティは青色の瞳に、いっぱいの涙を溜めて必死に話していた。
「ぼくはパパの作品になって、世界を、塗りつぶすんだ。神様と、一緒になって、暗闇の中で、次に描くものを探して、それでっ……!」
「セティくん……」
「いい、んだ。ママも、そうだった。愛する人が描くもの、全部美しい、はず、だから。パパは正しい。ママも正しい。ぼくも、ぼくも……!」
ぎゅっとセティが目を瞑る。
その頑張りは、誰であれ気づいただろう。強がりに他ならなかった。
だからナーナがすぐに駆け寄った。ナーナはコルの代わりに彼を抱きしめて「怖いのならいいのよ」と小さく呟いた。
「今じゃなくてもいいのよ。いつか本当に世界を塗り替えたくなったら、そうしてもいいんですよ」
「でも、早いほうが、いいよ。パパのせいで、青色が全滅しちゃう」
「ううん……いいの……いいの……」
セティの背中をさする彼女も苦しんでいるのかもしれない。いや、これはただの芝居で同情を煽っているだけなのかもしれない。
けれどコルにとってはそんなこと、どうでもよかった。
美しいものと、認めてしまった。
この光景が彼女の歩みを止めなかった。
心を揺り動かすそれが、彼女の心を救っていた。
「……解放してください」
コルが自分を押さえつける相手に言う。
「逃げません。戦いもしません。私は先生に言わなきゃいけないことがあるんです。それが終わったら、すぐ捕らえられます。だから」
彼女を捕らえているその当人たちは戸惑った。そこまで真摯に物申されると思いもしなかったからだ。
自分の雇い主であるバルドゥールを見れば、解放して良いと言われたので、コルを解放した。
先生の前に立ったコルは、きりりと背筋を伸ばす。
「……コル。どういうつもりだい」
「先生、ごめんなさい。私は……やっぱり見過ごせません」
「じゃあどうするつもりなんだ。君は……いや、君がインクになるつもりかい」
コルは何も言わなかった。
言えなかった。
彼女は軽くはにかんで、肯定するしかなかった。
「私はこの美しい子を守りたい。必死に背伸びをしている、まだ何も知らない世界を見ぬ子を、本当の暗闇に閉じ込めたくない。……そのために旅路が終わってしまうかもしれないこと、許してください」
「コル……」
もう彼女の心は決まっていた。
セティが幼子だからではない。彼がしゃんと背伸びをして、世界の旅路を行けぬことを、彼女はひどく悲しんでいる。けれど哀れみでそうしているわけでも、なかった。彼女は自分にとって、守りたいものを覚えたのだ。これが世界にとって守るに値するのだと、彼女の矮小なまだ奥行きのない視界で見る分には、最も尊いのだとそう知った。
だから当然だった。先生はよく知っていた。それが愛すべきものだと、誇るものだと、手を伸ばすものだと知っていた。
「……本当はとっても怖いです! びっくりするくらい……でも、同時に浮かぶんです。私の知っている情景が。それが私の背中を押してくれる。まだセティくんは見えるべきです。まだ知らないものを知って、たくさん描いて欲しい……そう思ったから」
「コル」
「先生!」
彼女は後ろ手に微笑んだ。震えながら笑っていた。
白黒の世界に、黒は溶け込むような夜に、街灯しかない星空に、彼女は正しく黒かった。黒髪が、眉が、笑みが、溶けるようだった。
「良い子だって褒めてください」
その表情を街灯が照らす前に、コルは群青を見開いた。
「そうじゃないと、泣いてしまいそう!」
笑うと、先生が手を伸ばす。
先生が左手で彼女の肩を抱き寄せた。背の高い先生だった。長躯で、意外と身体がしっかりしていて、着痩せをする人なのだとコルは初めて思い知った。
コルは泣かなかった。じゅうぶん先生に褒められていたから。
「コル。怖くなったら、本当に怖くなったら僕を呼ぶんだ」
「はい」
「僕は君を守るためにどこにだって飛んでいく。君を殺させやしない。命さえ奪わずとも、君の心が死んでしまうことだってある。だから」
「はい」
そっとコルは先生から離れた。泣いてしまいそうな表情をしていたのは彼の方だった。
くるりと先生へ背を向ければ、バルドゥールがにたりと笑う。視線が合った途端、しゃがんでいたバルドゥール画伯はしゃなりと立ち上がった。彼は地面に絵を描いていた。鴉の絵だった。
「バルドゥール画伯。私がインクになります」
彼女は胸を張って言った。
その群青の瞳には曇りの一つすらなかった。
「極上の群青を届けましょう。だからセティくんからインクを抽出するのはおやめください」
毅然とした態度で彼女がそう言えば、バルドゥールは愉快そうに笑い出した。
これ以上にない愉快さで、快活さで笑い、拍手をした。
「喜劇ですな……!」
拍手の後、彼はコルに向き合った。バルドゥール画伯は狂気に満ちた胡乱な瞳で、そのペリドットを汚していた。
「本当ですかお嬢さん! それは思ってもみなかった!」
「ええ、ですからおやめいただけますか?」
「もちろんです! あなたほどの群青が手に入れば、一生以上の大鴉が――夜空が描けるでしょう!」
拍手が止まない。
バルドゥールがふと手を差し出したので、コルは迷いなくそれを取ろうとした。取るべきだったのだ。そうしなくては彼に示しがつかないから。
けれど。
「コル!」
先生が叫んだ。
コルは少し戸惑った。様々な感情が、彼女の神経を逆流していった。どうすべきか逡巡して、それでも目の前のバルドゥールの手を取るべきだと思った。
そうしなくては救えないものがあると信じて。
傑作だ、と言わんばかりにバルドゥールが笑う。
「残念でしたな先生。お嬢さんは私が頂きます。何、悪くはしませんよ。あなたには邪魔されないようにしますがね!」
「バルドゥール画伯!? 先生に酷いことをするおつもりですか!?」
「酷くはしません。隔離するだけです。細心の注意を払いましょう。ええ、払いましょう。そうして完成するのです! 極上のインク! 群青の色! 紛れもない神の始まりが!」
両腕を広げてバルドゥールが言う。
先生は完璧に動きのとれぬ状態にあった。彼は地面に伏すまで押さえられ、苦悶の表情を浮かべていた。
さあ、とコルの血の気が引いていく。
――私は間違ったことをしてしまったんじゃないか、そう思ってしまう。
けれど。
「コル! 胸を張るんだ!」
毅然とした先生の声が彼女を無理矢理にでも前へと向かせるのだった。
「君が間違っていたら、僕が正しにいく。だから今は胸を張りなさい」
目を背けることはできただろうか。恩師が伏しているところで、それでも無視をして前を向けと言うのは、まだ幼いコルの心ではできることではなかった。
ただ、今そうすべきであることはわかる。それが彼女の選んだ道というものだったからだ。
コルには謎の安堵があった。同時に恐怖があった。これでセティが救われるという心と、先生を見殺しにするような恐怖が織り交ぜになっていた。そのどちらもを抱えて、彼女は一歩、先生へと遠ざかる。
――もし、目が見えなくなっても、先生は旅をすることを許してくれるでしょうか。
彼女は最後までその望みを捨てなかった。捨てられなかった。それだけが彼女の存在意義とも、呼べた。
先生がどのように扱われたかをコルは知らない。その日はバルドゥールに案内され、彼の邸宅で味のしない夕飯を食べたからだ。
身を清めるようにも言われた。特にその瞳を洗うようにと言われ、ぱしゃぱしゃと痛まない程度に瞳を洗った。
鏡の中のコルは、群青の瞳をしている。それは彼女が幼い頃からずっと変わらぬもので、特別とさえ思ったことがないものだった。ただ、青い。それだけのものがこの美術神郷に来て、大きな意味を持つとは。コルはなんとも言えない気分になりながら、鏡の中の群青に想いを馳せた。
翌日になればコルは瞳の色を抜かれる。おそらくは盲目になる。白い虹彩を持ち、暗闇の世界に取り残される。
まるで美術神郷そのものではないか、とコルは苦笑しながらバルドゥール邸の客間で髪の毛を梳かす。
傍らにはセティがいた。彼はずっと涙を流していた。
「セティくん、瞳が溶けてしまいますよ」
「だ、だって、先生、が」
「大丈夫です。殺されはしないはず。殺されたのなら……私は私の意志でこの瞳を抉るだけです」
「そんな!」
「ふふ。冗談ですよ。でも、先生はどうしているんでしょう」
「多分、教会の、おへや」
「教会?」
「どくぼう? みたいなところ、あるって。パパが」
「独房……懺悔室のことでしょうか。まあ、助かっていることを祈りましょう」
明かりを絞った部屋の中で泣くセティのことをコルは撫でた。シンプルな客間――最低限の家具しかないそこで、二人はベッドに座っていた。
「こわく、ない、の。色を抜かれる、の」
「怖いといえば怖いですけど……今は怖くないです。セティくんがこうして泣いてくれるから、あんまり」
「ぼく、が?」
「誰かが泣いてくださるおかげで強くなれる人もいるという……そういうことかもしれません」
適当なことをコルは言った。確証もなく、そうあってほしいという願いの話だった。
彼女自身は力を持たない一般人だ。だからこそ権力にも何にも負けない何かが、今存在してくれればと願ってやまない。
「もし、本当に怖くなったら、先生を呼びます。あの人は来てくれるって、そう言っていました」
「嘘とは、思わない、の?」
「思いませんよ。私の恩師ですから。約束はきちんと守るし、ちょっと朝は弱くて、たまに外れたことを言いますけど、何よりも信じられます」
「そっ、か」
「ええ。だから大丈夫。私は多分……泣きません」
多分、としか言いようがないのが少しばかりコルにとっては不安だった。
“神を覗く者”の輪郭ない恐怖が背筋を這い回っていた。
翌朝には色無し卵の、味のない朝食を食べた。
その間にコルは想像以上に先生のことを自分が考えていることに気づいた。ずっと、眠る間際も目覚めた時も先生のことを思案している。まるで恋した乙女のようだ。けれど、彼女の中にある先生は、決してその恋の中心にあるわけではなかった。どちらかと言えば、彼は防波堤のようだった。コルの中にある恐怖を止める存在。だから彼は、ずっとコルの頭の中に居座っている。
ほぼ意識のない人形のようにコルはバルドゥールの後をついて歩き、右から左へされる説明を流していった。これからコルは神々しい存在になるだとか、威光ある作品が作られるだとか、確かに興味はあったけれども、彼女の心を縫い止めるには途方もない話だった。
正午近く、コルは“神を覗く者”の正面に立っていた。
直近で見る“神を覗く者”は大きな舞台装置のように思えた。教会の壁へ蜘蛛のように伸ばされた柱。砂時計やサイフォンを想像させる形状の真ん中にある伏した巨大な瞼。オルガンのような操作盤。見上げなくてはその瞼を認めることすら難しい。
初めて拝んだ時には二階席であったから、その巨大さには真に気づけなかった。広い教会の奥――ステンドグラスでさえ覆い尽くすようなそれに、コルはようやく目を覚ました。
覗かれる恐怖がそこにあった。
自分が落としている影に、髪に、瞳に、コルという存在自体を覗かれているような恐ろしさを感じた。まだその装置の瞼は閉じられたままだというのに、既に値踏みは始まっているようだ。コルは自分の肩を抱く。抱いて、その装置を睨む。
「お嬢さん、恐ろしいですか?」
バルドゥールが話しかけても、コルは頷くことしかできなかった。
「ああ、恐ろしいでしょう。これはまるで前世すら覗いて暴くような……そんな広漠さえ感じます。ですが大丈夫。あなたの群青に焦がれているだけですとも!」
ぐい、とバルドゥールはコルの背を押した。前へと進むように命令され、コルはその通りに震える足を動かす。
備え付けの木製階段を上ると、コルは匣の前にいた。
先に黒ウサギが閉じ込められていた透明な匣が眼前にあった。匣には扉が備えてあり、コルはその扉を開けて中に入った。何もかもが透明であるから、輪郭をなぞるのに少しの時間を要した。
匣の中に入ると、バルドゥール画伯が拍手をした。密閉された匣の中ではなんとなくでしか声の大きな彼の言葉を聞くことしかできなかった。「これで神が描けるわけです!」遠い場所でそう叫んでいるようだった。
透明な匣から教会内を見渡すことができた。ナーナ夫人や群青の抽出に期待などを孕んでやってきた観衆たちが、ぎっしりと綺麗に席へ並び、バルドゥール画伯の演説に拍手をしているように見えた。
カリスマという言葉が浮かぶ。バルドゥールの台詞が脳をよぎる。知識などというものは、圧倒的な美とセンスの前にひれ伏すもの。彼はそう言っていた。
そうかもしれない。事実、この場ではバルドゥールを勝る者など誰もいないだろう。けれど、コルには及ばない。先生という心の拠り所、恩師、宝の在り処を知っている彼女には、とても些細なことだった。
「先生……」
助けに来てくれなくても、いいのだ。彼女は今、助けを求めていないから。でも、助けに来てくれればいいのに、とも思ってしまう。もしそうであるならば、この物語は劇的だ。
ぐっとコルは信じられるものとして、祝福を握った。大鴉様の祝福。この旅路の始まりに見つけたもの。それが先生と自分を繋いでいるもののように思えたからだ。
けれどそう上手くはいかない。コルは気づいていたはずだった。その自分を暴く者が、どんな値踏みをしていたのかを。
駆動音がした。
これからインクを抽出されるのだ、とコルは身構える。
コルは上方から視線を感じて、それを見てしまった。
ぎょろり、と巨大な目玉がこちらを見ていた。
おかしなことに気づけなかった。その瞳は“神を覗く者”のもので、匣は目玉の上にある。だから目玉が上方にやってきて、視線をよこすことなどあり得ないことのはずだった。
不可思議な現象が続く。今度は下からも視線を感じた。今度は“神を覗く者”本体からの視線だった。
得体のしれない恐怖が連鎖する。コルの息が少しずつ狭く、細くなっていく。
コルはなんとかこの現象を分解して、知ろうとする。考える。けれどその思考の隙間に視線がやって来ては、コルのことを食い尽くそうとする。真っ黒なもので塗りつぶされていくような感覚がする。コルはぐっと息を止めそうにもなった。
――硝子が反射して、視線が……!
硝子の反射によって様々な方向から“神を覗く者”の視線がやって来ているのを理解したところで、駆動音は止まるはずもなかった。
“神を覗く者”がコルを暴く。
視線がかち合ってしまったその瞬間に、コルは見たことのないものを、見た。
ある鴉と先生が話している。先生は今よりもずっと痩せこけた状態で、何かを叫んでいるようだった。それを鴉が聞いている。聞いて、何かを話し続けているようだった。あまりに綺麗な夜空の下で、一羽と一人は話し、そうしてある光が溢れ出した。
光の中から、見覚えのある人物が創出されていた。
コルだった。紛れもなくそれは、コルだった。
黒い髪に群青の瞳。一糸まとわぬ姿であること以外は、同じだった。まるで人形のようにぴくりとも動かないそれを先生は拾い、上着をかけ、抱き上げて帰路に着く。一羽の鴉も同じように彼について行って、また何かを話し始めた。
見たことのない記憶だった。コルの中にそんなものは存在しなかった。だからコルは動転して、呼吸の仕方を忘れてしまった。
――先生。
別の光景が始まる。
見たことがあった。先生の邸宅で、自分らしき黒髪と群青の瞳をした少女が話している。少女は感情の起伏が少なかった。けれど先生は穏やかにそんな彼女の相手をした。一羽の鴉も見守り、次第にその少女の感情に色がついていく。
そうして、そうしていくうちに、その少女は、コルらしくなっていく。
――私じゃない!
色を抜かれることは怖くはなかった。けれどどうしようもなく、恐ろしくなってしまった。自分のルーツがぼろぼろと崩れていくような感覚を得て、足元が緩くなるのを感じて、彼女は思わず叫んでいた。
インクを望む好奇の瞳が、コルを抉り抜くような気配すらした。
「先生!」
透明な匣の中でしか反響しないそれは、外の世界へ情報を渡すことなど不可能だった。
コルが騒ごうと、暴れようと、観衆は興味を持たない。持っているのは群青だけ。その色だけにしか興味がなかった。
また瞳が見開かれる。知らない記憶が流れ込みそうになる。ほろほろと涙が落ちる。
次に見たのはバルドゥールの姿だった。
彼は思い悩んでいた。上手く色彩を扱えぬことに、悩んでいた。否、彼は才能があったのだ。それに見合う道具がこの世に存在しないだけで、インクがないだけで彼の創造は途絶えるまであった。
だから、ナーナは差し出した。自分の瞳と世界のすべてを。愛する者が自分にとっても美しいものを描くのだと信じて。
水を得た魚のようにバルドゥールが生き生きとし出す。それを彼女はとても喜んでいた。
彼女は最初に右目を、その次は左目を差し出した。
ナーナは恐れなかった。何もかもを暴く瞳に、彼女が見せたものは揺るぎない信念だった。
――美しいものが見たい!
――美しいものを知りたい!
その美しいものを創り出すのがバルドゥールだった。バルドゥールのためなら彼女はなんでもしてみせた。その愛とは呼びきれない行動の数々が流れ込んできては、コルの喉を締め上げた。こんなものが愛なのか! 知的好奇心の増幅とも呼べそうなそれが、真に愛とは感じられず、コルの切迫した小さな部分をさらに黒く染めようとする。
“神を覗く者”が見ている。
コルという人間を覗いて、暴いて、裸にしようとしている。
「先生……!」
二度、その呼称を呼んだ時、コルは不思議な音を聞いた。
それは汽車の音によく似ていた。そうとしか思えなかった。
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