第六話:美しいものに捧げる瞳

 コルは不機嫌だった。どうしようもなく、不機嫌だった。

 あのなんとも言えない先生の回答を得てから、ずっと彼女はふて腐れている。理由は彼女らしく最もで、あの先生が嘘をついているように感じられたからだ。

 コルの中で先生というものは、清廉潔白――とまでは言わないが、嘘を吐かない性分の人間だった。それゆえ上手く自分を回避するために、適当なそれらしいことを並べて逃げようとしたことの矮小さが、とても大きな汚れに見えてしまったのだ。

 別にそんなこと、人間なら誰しもある。コルだってレポートを書かなくて良い理由をあれこれ探して逃げようとしたことは、一度や二度ではない。けれど彼は、コルという人間から逃げようとしたのだ。それがとても嫌だった。

 ――私が先生の何か、と言われたらそれまでですけど、最低です!

 コルはぐっと怒りを堪えながら先生に挨拶をし、今日のスケジュールを確認した。

 自由散策と言われている。先生は各種方面に――主に査読をしていただいた皆様のために挨拶やれ会談があるらしい。それには流石に大人の事情もついて回ってくるため、コルは連れて行けないとのことから自由散策が命じられていた。

 こっそり後をついて行こうとも考えたが、それはそれで先生からの信頼を失いかねないので、コルは諦めた。

 宿の窓から今も鮮やかなアグラヴィータの街並みを見つめる。

 葬式は五日目に突入し、初日こそ大賑わいだった美術神郷びじゅつしんきょうは次第に落ち着きを取り戻していった。外部の者らが美術品や絵画の買い付けをしに来るのは大抵初日から三日がピークとのことだった。

 コルは改めて美術神郷を歩くのに前向きではなかった。それよりもバルドゥール画伯が貸してくれた本たちを読み終えられるかどうかが心掛かりだったので、彼女は宿屋にあるラウンジで読書をすることにした。窓際の席は細い陽光が差し込んで白黒の世界にはちょうど良かった。

 バルドゥール画伯が貸してくれた本はどれも生活色彩学――白黒の世界でいかに生活をするか、というものについて書かれた本だった。コルはそれらを興味深く読み、レポートに使えそうな部分は複写をした。

 ただ、それだけで時間が過ぎるものではなかった。午前から太陽が天上に昇る頃までの時間は潰せたものの、それ以上の時間は費やせなかった。単にコルは疲れていたし、それに気づけるほど彼女は繊細でもなかった。

 コルは早速バルドゥール画伯に本を返そうと思った。急ぎ、汚れぬうちに返した方が良い。そう思った。

「バルドゥール画伯! バルドゥール画伯!」

 分厚い本を五冊とは、なかなかに重い。

 コルはそれを引っ提げてなんとかバルドゥール邸を訪れた。

 が、彼女は全く想像もしていなかった。先生が査読を任せたという一員の中に、バルドゥール画伯こそいるものだと、考えもしなかった。

 何度も戸を叩いても一向に反応を示さないので、諦めてコルは踵を返そうとする。

「コル……さん」

 ひょっこりと窓から顔を出したのは黒髪に空色の目をしたセティだった。

「セティくん!」

「あれだけ戸を叩かれたら、誰でも気づく……です。パパとママは、先生と一緒、です」

「え?」

 その時ようやくコルは自分が愚かなことをしているのだと気づく。分厚い本五冊を抱きしめながら、ぐったりとしてみせた。

「私はなんということを……」

 思わず天を仰ぐ。その様子をじい、とセティは見つめて首を傾げる。

「家に置けばいいと思います。パパとママは夕暮れには帰ってきます」

「でも、お礼もありますから。一旦置いて出直してきます」

「……コル、さん」

 セティがコルを呼び止める。

 パタパタと家の中を動き回る音が遠くからすると思えば、コルの目の前にあった扉がゆっくりと開いた。そこにはもちろんセティがいた。

「お話ししたいです。その、昨日の……美しいものについて」

 もじもじとセティが言う。

「ぼく、パパとママのくれたものしか知らない、です。だからコル……さんの見た美しいものも知りたい……です」

 その言葉に彼女がどれだけの希望を見たのかを、少年は知らない。

 咄嗟にコルはセティを抱きしめていた。わなわなと震える手で、しっかりとその小さな背中を抱き留めた。

 どれほど力を込めればいいのかわからず、コルはとにかく彼を抱きしめる。ぎゅう、とぬいぐるみを抱えるように、愛する人を引き留めるように。

 彼女が満足してセティを放した時、少しセティはぐったりしていた。けれども、彼は小さく微笑んでいた。

「これも美しさ、です?」

 そうだ。コルは頷いた。

「ええ、ええ……美しいです。きっと、この光景だって書き留めるにふさわしい出来事です。それを私たちしか知らないだけ。たったそれだけのことなんです」

「まだ、ありますか? コル、さんが知っているもの」

「あります! お話しします! ええと、何から話しましょう。学士の都でのことを話しましょう。あそこはとても勉学に興味を持つ……いえ、興味しか無い場所なのです」

「コル、さん。おうち、入りましょう」

「ああそうだった! 入ります。それで、その学士の都でも休息をとる日……生息日というものが一ヶ月に一日設けられているのです。そのことを話しましょう。私が出会ったのはオーレシア。環境学を学ぶ青年でした」

 コルはセティの案内でリビングの椅子に座った。その間に彼女はこんなあらすじを話した。

 オーレシアは勤勉な青年だった。学士の都に住む人々は皆同じように勤勉だけれど、オーレシアは人一倍勤勉だった。食事をしながら本を読み、風呂に入りながら何かを諳んじ、眠りに落ちるその瞬間まで何かを書いていたという。その努力の末に彼は、学士の都でも評判の良い学者になると言われていたが、彼には苦手とするものがあった。

「生息日、ですか?」

「そうです。彼は休み方を知らなかったのです」

 ちちちと鳥が鳴こうとも、花が散る季節になろうとも、彼は生息日の楽しみ方を知らなかった。生息日にはどの図書館も休館され、学術を学ぶ場は一切閉め出される。学術書を買うにも店が閉まっている。徹底した学徒のための休息日。それを彼は知らないとなれば、一大事なもので。

「オーレシアは度々私のところにやってきては、何か物語を知らないか、と言いました。けれど私もある種勤勉な――生息日を知らない人間でした。先生との旅路の準備をしているぐらいで、他には何もしていなかったのです。だから話せる物語も少なかった」

 そんなときに救世主が現れた。

 吟遊詩人のヴィヴィ。彼がたまたまやって来たのだ。

 ヴィヴィと言えば、この世で名を知らない者はいないだろう、大鴉神話と並ぶほどの伝説だ。

「ヴィヴィ……! 世界の何でもを知っている、あのヴィヴィが来たの!?」

 セティの声も上擦っていく。

 ええ、とコルは頷いた。

「正しくはヴィヴィの名を引き継ぐ一人――ヴィヴィは屋号のようなものですから、その一人が学士の都にやってきたのです」

 ヴィヴィの名を引き継いだ吟遊詩人は、ちょうど生息日にやって来た。

 そして彼は琴の奏でに乗せてあらゆる逸話を語り継ぐ! 艶やかな調べが学士の都を包み込み、チップが空を飛んではその一切をヴィヴィは手にしなかった。

 そんな中、オーレシアはヴィヴィの虜になった。その日ばかりはいつも頭の中に巡っていた公式や理論がすっぽり抜けて、頭を文字通り空っぽにして過ごすことができた。ヴィヴィの竪琴が奏でるすべてが清涼な空気、流れの如くオーレシアの足りない部分を洗い、埋めていった。

 オーレシアはヴィヴィに問うた。これからの生息日、どうすればいいのか、と。

 ヴィヴィは語った。謳うように学びなさい、と。

「へ? 学ぶ?」

「謳うように学び、実際に歌いなさいと言ったのです」

 ヴィヴィは簡単な旋律を唱えて、それをオーレシアに教えた。彼は下手くそな音階を歌い上げて、これを練習するのかともじもじする。もちろんヴィヴィは頷いた。「これが君の息抜きだ」そう言ってヴィヴィは消えた。

「オーレシアはどうなった、ですか?」

「少しずつ彼は練習をし始めました。なんとなく疲れたときに、下手くそなりに歌を歌い上げるようになりました。そのうち彼の歌は上手になっていきました。そして生息日には、必ずと言って良いほど歌っていたのです」

 オーレシアは歌った。

 どうしてか、とコルは一度だけ問うたことがある。オーレシアが生息日にやってこなかったのを不安に思い、聞いたのだ。「何があなたを夢中にさせているの?」と。

 オーレシアは答えた。「僕を突き動かしているのは思い出なんだ」と。

「オーレシアの中にはヴィヴィに教えてもらった旋律がずっと響いているそうです。それはある時は穏やかに、ある時は厳かに、はては勇気づけるように響くそうです。だからこの旋律を誰かに教えなければならないような気がして、彼はずうっと歌い続けています」

「環境学は、どうなった、ですか?」

「もちろん。彼は勤勉ですから、歌い始めたことによる支障はありませんでした――。寧ろ生息日に休むようになって、さらに順調に研究は進みました。今じゃ学士の都が誇る環境学者の一人です」

 わあ、とセティは手を叩いた。

「それは、とても、いい、お話」

「でしょう? 私はオーレシアとヴィヴィの出会いが大好きなのです。だから学士の都の話をする時、必ずこの話をします。学士の都の生息日――彼らの休息はこんなにも穏やかで小さな幸せが詰まっている」

 コルが微笑むとセティは小さく頷いた。

「ふふふ。コル、さん。すごくいい、笑顔」

 見て、とセティがリビングにある鏡を指し示した。そこには満面の笑顔を讃えている自身の姿があった。

 少し恥ずかしくなり、コルは頬を抑える。セティはくすくすと笑った。

「何かを、堂々と、話せるのは、いいこと。パパが、そう」

 それはそうだ、とコルは思った。バルドゥールは何を話すにも胸を張って語り尽くす。饒舌なのだとその一言では済まされない――世界の楽しみ方を知っているようだ、と彼女は考える。

 セティは何冊かのスケッチブックが束になってまとめられているカゴから、一冊を取り出した。表紙にはセティの名前が書いてあり、まだ新しい。

「ヴィヴィを、描こうとした、んだね。オーレシアは」

 そう言って彼はクレヨンで輪郭を描いていく。

「オーレシアは、どんな色、ですか?」

「ええと……髪は小麦と同じ色、肌はうっすらと青く、瞳はバルドゥール画伯とそっくりです」

「パパと同じ! 新緑だね。緑は、自然の、濃度の色」

 すらすらとセティはクレヨンを操り想像のオーレシアを描いていく。コルが特徴を口にする度、そっくりな人相が紙の上にできあがるので、コルは開いた口が塞がらなかった。

 それからセティは手頃な場所にあった写真を手に取り、模写していく。その写真はアグラヴィータの学校のもののようで、若き日のバルドゥール画伯とナーナ夫人が揃っていた。

 ――ナーナ夫人に色がある。

 コルは些細な気づきを得た。その写真――と思いきや丁寧に描かれた絵――にはナーナ夫人に色が付いていたのだ。緑と青のオッドアイが美しい。

 しかしコルの興味はセティの手にすぐ向いた。すらすらとクレヨンを使いこなし模写していく様子は達人のものではないかと思えるほどだった。

「アグラヴィータの人々はこんなにもすらすらと絵が描けるのですか? すごい技術……!」

「絵しか、ない、からね。修行、で、娯楽なん、だ」

 少し寂しそうにセティは言う。

「遊びは、ある、けど。描くこと、みんな、好き。ここの人たちは、何か、大切なもの、きらきらを、描く、ために、練習、する」

「きらきらですか?」

「んーと、うん。きらきら。心の中にある、これだ! っていう、ものを、描く」

「スケッチ対象……ということではなさそうです」

「うん。一生を、かけて、描く、から、ね」

 そんなに? とコルが首を傾げると、セティはすぐに頷いた。

 既にオーレシアは完成していた。コルの知っている、小麦髪の死神肌、新緑の瞳のオーレシアが紙の上で歌っていた。

「それは……途方もない修行ですね」

 一生と聞いて、コルは自分のままならない半生を思い返す。気づけば学士の街にいて、勉学に励みながら過ごしていた。一生を捧げるつもり――と言えばそうだったのだけれども、アグラヴィータの人々が語る一生とは異なるだろう。

「パパも、ママも探してる。これだ、これしか描けない、これを描くために、生きるもの。それを、探してる。子どもは、みんな、旅人。さまざま、描いて、探してる」

「大人も、旅人?」

 思わずセティの話し方に寄って、コルが問う。

 セティはスケッチブックから顔を上げて微笑んだ。

「大人も、旅人。ずっと、変わる。変わって、みんな、どこか寂しくて、温かいもの、探してる」

「例えば……バルドゥール画伯の今の描きたいものって、なんでしょう」

「パパ? パパはね……」

 セティはくしゃりと困ったように笑った。

「よぞら」

 舌っ足らずの声が部屋に響く。

 コルの脳裏にぶわり、とその言葉が広がった。瞬く間に広がっていく情景に言葉も出ず、その広がりを見つめているだけだった。

 遠く遠く、それはアグラヴィータを塗りつぶすほどの巨大なドームになって、コルの心を埋め尽くす。コルはその中で輝く星を見て、大鴉の翼の動きを感じた。ざわざわと揺れる木々だって、その翼の動きを受けて風を感じているに違いないのだ。星という大鴉の宝物が、月がある限り、人々は決して夜を迷わない……。

「夜空……」

 その暗闇を何でバルドゥールは塗るのだろうか。その輪郭を彼は知り尽くしているのだろうか。その巨大さをどのような筆捌きで認めるのだろうか。

 コルは想像して高鳴りを覚えずにはいられなかった。きっとそれは、壮大な記録であり芸術になるに違いない! 先日見たバルドゥールの作品から、そのように考えるのは容易かった。

 ただ、セティは浮かない表情をしていた。彼は情景に見蕩れているコルを見守っているだけだった。

 ハッと我に返り、コルはセティに聞いた。

「何か不安があるのですか?」

 セティは首を振る。

「パパなら、描けるよ。なんでも、なんでも……でも、描くための、画材、足りないって」

「画材?」

「インク、だよ」

「このアグラヴィータで……?」

 それは不思議な感覚だった。世界中のあらゆる絵画における芸術が集合し、そのために生きるような人々がいて、さらにはその人々を食い扶持にする商売をする商人までいるのだ。画材といえば生活必需品の上位に食い込むに違いないのに、存在しないとはそれはそれは不思議な話だった。しかもそれがアグラヴィータで有名なインクだとは。

 先日の“神を覗く者ミスティルテイン”の稼働を思い出しつつ、コルはさらに問う。

「それはどんな色なのですか? もしかしたら、私の持っている鉱石などで抽出できるかもしれません」

「ううん。それは、ダメ。純度、低い、から」

「純度?」

 セティが頷く。

「アグラヴィータではね、心奪われたものに、色が染まる、んだ。純度が、高い、ほど、心を、奪われて、る」

「何が……ですか?」

「おめめ」

「目?」

「パパは昔、とても、緑を、描いてた。でも、やっぱり神様は、そこに、いないって。神様は、夜に住む、って」

「バルドゥール画伯が緑を……?」

 決して驚きはしなかった。心奪われたものに色が染まるというなら、バルドゥール画伯の瞳の色は間違いなく新緑のそれである。エメラルドの鮮やかなそれに、コルは羨ましささえ覚えていた。

 神はいない。その言葉がやけに重たく感じられた。

「だから、パパは、夜空、探してる。夜空、にふさわしい、もの。インク。瞳……」

 悲しそうにセティは呟いた。

「僕の目、きれい?」

 ふいにセティがコルに問い掛ける。

 セティの瞳は青空のようだった。透き通った青が、まるで瞳の奥まで映しそうだった。

「綺麗……ですけど……あっ……!」

 コルは気づいた。その問いの意味に。

 口を塞ぐ。セティがやんわりと微笑むので、やめてくれと言いたくなる。けれど言葉は出なかった。

「良かった。僕、パパのインクになれる、ね」

 その時だった。ガチャガチャと玄関扉を開けようとする音が聞こえたのは。

「パパたちだ!」

 セティが飛び出す。愛する家族を迎えに行く子どもに一瞬で変わってしまったので、コルは引き留めることもできなかった。

 コルの居る場所からはかすかにしか聞こえないが、バルドゥール画伯とナーナ夫人。それから先生が戻ってきているのは間違いなかった。セティがコルも居ることを話したようで「お嬢さんが!」と一際大きな声が家に反響する。

 間違いがなければ、コルの想像は正しかったのだ。

「コル?」

「わっ……!」

 声を掛けられて彼女の肩は跳ねた。

「どうしたんだい。何かいい論文でもできそうかな?」

「また先生は論文論文と仰る! 少しぐらいお嬢さんにも休みをあげてもいいじゃないですか」

「コルが勤勉だから期待しているだけですよ。彼女も相当な学者になる」

「それはそれは楽しみだ! あはは!」

 あっはっはと笑っているその人のこと、よくコルは見ることができなかった。恐ろしかった。

 先生はうっすらとそれに気づいたようで、コルの背中を支えながら柔軟にバルドゥールたちへ対応していく。話をうまく切り上げ、夫妻の家をコルと一緒に出た。

「……コル、何に気づいたんだい?」

「あ、あの。先生。もしかしなくても……アグラヴィータで最も美しいものは、瞳なのではありませんか?」

 宿屋へ向かう道中、息を顰めるようにコルが言う。

「そうだろうね。彼らにとって最も心を奪われ、動かされるもののために筆を取るんだ。何かを見つけるその瞳こそが美しいと言っても良いだろう」

「ええ。であれば……その美しいものから……優れた色彩から取れるインクは……」

 コルは立ち止まった。辺りに人がいないことを確かめてから、絞るように声を出した。

「瞳からインクを抽出することも、あるのではないでしょうかっ……!」

 切実な願いだった。この推論を裏切ってほしいという祈りでもあった。

 先生はコルの悲痛な叫びを聞くと、彼女の背中をさする。

「コル、よくそこに辿り着いたね」

「どうなんですか、先生。先生の見立てでは、どうなんですかっ!」

「僕は……僕もその可能性は高いと思っている。話してくれないかな。どうしてコルがそこに行き着いたのか」

 願いは裏切られなかった。

 ただし、仲間を連れ添った。コルにはまるで悪いことをしているような心象がまとわりついていて、先生はその共犯者にでもなったかのようだった。

 コルは仔細にセティと話した時の違和感や雰囲気について話した。バルドゥール画伯が夜空に執着をしていること、画材がないということ、セティが発した「綺麗」という台詞。それらが予告しているものは、セティからのインク抽出なのではないか、と彼女は語り尽くした。

 気づけば宿屋の付近に来てしまっていた。

 先生はコルを自分の部屋に案内した。先生の部屋は整理整頓がされていなかった。トランクの中身がいろんな場所にぶちまけられているような、雑な部屋だった。どうして借りている部屋をここまで個人の色に染め上げられるのか、それがコルにはとても不思議だった。

「どうしてハンガーがベッドで寝ているんですか……?」

「あはは。それは……どうしてだろう。さて、さておき。コルの想像の話だけれども、僕も今日バルドゥール画伯から夜空に執着している話を聞いたんだ」

 コルを適当な椅子に座らせ、自分はベッドに腰掛ける。そうして先生は切り出した。

「あの人は夜空という色にこそ神が宿っているとしている。神を描きたいんだろうね。それまでバルドゥール画伯の作品といえば、新緑豊かな自然が当然だったけれど、ここ数年で方向転換をしたそうだ。空に――大鴉が飛び立ち、宿り木にするという空に、彼は執念を燃やしている」

「セティくんも言っていました。パパの最近はそうだって」

「そこでね、僕はこうも聞いたんだ。バルドゥール画伯が夜空を塗るなら何色ですか? と」

 先生は単なる興味でそれを聞いた。聞いて、論文の参考にしようと思っただけだった。

 しかしバルドゥール画伯は何故か彼を試すように話したという。

「群青ですよ、と」

 ――群青。それはアグラヴィータで最も高価なインクである。

「群青はなかなかない。夜は最も濃度の高い青をしていて、その濃度の最高峰こそが群青なのだと、彼は話した。僕はそこで、君が褒めそやされているのを思い出した。じゃあコルは夜空そのものですね――そう言うなら、彼は機嫌をよくして、いや、何故か僕ではなく君をアグラヴィータに滞在させる気はないかと話を逸らした。何故だろう? 僕は考え尽くしたよ。そこである結論に辿り着いた。そこから先は、わかるね?」

 ごく、とコルは生唾を飲んだ。

 先生とコルの想像は一致している。対象が異なるだけで、それはほぼ同じものだった。

 バルドゥール画伯は瞳をインクとして扱っている。

 “神を覗く者”は生きるもの――あのウサギだろうと、容赦なくその力を振るうのだから人間にも同じことが言えるのだろう。そして心奪われたものと同じ色になるという瞳からインクを抽出する。

 そして今、バルドゥール画伯のお眼鏡にかなったインクになるべき瞳が、セティとコルという話なのだろう。

 セティの青空のような瞳を思い出す。確かにあの青でも夜空は描けるだろう。ただ、ふさわしさで言えばコルが勝るのは間違いない。

 コルは身を縮めた。まさかそんなふうに思われていただなんて。恐怖のような、畏怖のような、得体の知れない恐ろしさが彼女の身を包んだ。

「大丈夫だよ、コル。僕がいる限りそんなことはさせない。……君が望まないことは、僕が許さない」

「先生……」

「昨日は歯切れの悪いことを言ってすまなかった。僕は……僕にも、だね。僕にも人には言えない目的があるんだ。それはこの旅の行く末を決めるものではないことを、まず伝えさせてもらう。それからもう一つ。僕があの時言ったことは、まだ若い頃に掲げていた理想のようなものなんだ。だからどうか、笑わないでほしい。僕も過去には胸を張りたいからね」

 先生は柔和に微笑んだ。

「かと言って、この旅にも、フィールドワークにも手を抜くつもりはない。その上で僕は最善を尽くし、君を守ろう。大丈夫。僕は大鴉様の加護を受けているからね」

「加護ですか? ……あ! わかりました。学士の街で神話学を学んだ最も優れた者に託されるというアレですね。大鴉様の右腕」

 大鴉様の右腕とは黒鉄色をした魔法銃のことだった。拳銃に似ているが、弾丸の装填が必要のない代物である。代わりに人々が常に纏っているという魔力を使う――とされているが、魔法の通じない場ではただの拳銃そのものだった。

 神話学を学び、優れた者に託されるのも理由がある。どうやらその拳銃、大鴉様の力が込められているだとか、大鴉様の眷属が使っていただとか、兎角曰く付きだったのだ。よってその拳銃について調査を行う、というのも先生の仕事の一つだった。

「今はそう呼ばれているんだね? まあそういうことさ。武器の心得なら少しはあるから、君一人ぐらいは守れるだろう」

「でも私だって護身用に短剣を持っています」

「使わないことが一番なんだよ。君のそれだって、抜き取って欲しくない。平穏無事に……それだけが願いさ」

 先生はそう語った。その姿に嘘偽りは無いだろうとコルは想像する。

「……加護とか言うけれど、おまじないさ。本当に大切なものを守るとき、誰だって何かを犠牲にしていることを忘れちゃいけない」

 彼ははあ、とため息を吐いた。

「でもセティくんがバルドゥール画伯のインクになるのだとしたら……それはナーナ夫人も知っているのだろうか?」

 ふと思い立ったことを彼は口にした。

 ぱちん、とパズルのピースがコルの中で嵌められていく。

 色のあったナーナ夫人の絵が思い浮かぶ。

「ナーナ夫人は生まれ持っての盲目では無いかもしれません」

「それはどうして?」

 鋭く先生が問う。

「ナーナ夫人に色がある写真を――いえ、絵を見ました。おそらく十年ほど前のものだと思います」

「どうしてナーナ夫人だとわかった?」

「白髪はそのままだったのです。ただ違うのはオッドアイだったことです。新緑の緑と海のような青色でした。隣にはおそらくですが赤髪の……かつらではないバルドゥール画伯もいらっしゃいました」

「……もしかするとこの美術神郷は皆が皆、色を捧げているんじゃないかな。そんな気がしてきたよ」

 先生は複雑そうな表情で結論を出した。その事実はなんとも形容し難いものだった。

 この美術神郷では、色を失いながら生きることが正しいとされる。色を失いながら、色の扱いを知り、心を捧げたものに色を染める。しかし色を失うと言えど、限度がある。そこで登場するのが“神を覗く者”だろう。

「“神を覗く者”を使って最高峰のインクを得る――自分たちの眼球や髪、様々な色を持つものを使って……とするなら、確かにこの異常なまでの色彩への配慮は納得がいく。特産品が人の何かだとすると、気持ちが悪いけどね」

「でも先生。このままでは推論です」

「コルはどうしたいんだい?」

 どこかそわそわしている様子のコルを宥めるように先生は聞いた。

 コルは不安だった。どうしようもなく、不安だった。その街やそこに住む人々の宗教を、生活を勝手に悪しきものにしてはならないということをよく知っていた。

 だからこそ彼女は悩んだ。自分が心配する事は全て憂慮に過ぎず、本当に推論でしかなく、アグラヴィータは素晴らしい場所なのだということを信じたかったのだ。

 けれど。

「私は……あんな幼い子が、インクにされるだなんて、許せないです」

「うん」

「わかってます。私の想像でしかないかも知れないことも。ここで先生と議論をしていても、仕方が無いことも。だから……だから確かめたいです。アグラヴィータとは何なのか、インクの正体も“神を覗く者”もすべて」

 コルは立ち上がった。決意を灯した瞳で、彼女は発言する。

「私は知りたい。この美術神郷を全て、まるごと」

 コルの心から沸き立つのは知りたいという衝動だった。不思議なことが起きている。そこに見知った人が巻き込まれるかもしれない。その不条理を解き明かすために、彼女は知りたいと強く願った。

 先生はコルの言葉をじっくりと聞いて、首肯した。そして立ち上がり、コルに手を伸ばす。

「じゃあ知ろう。いくらでも方法はある。僕は君の知識のために、全力で君を支えよう」

 コルは伸ばされた手に、なんの疑いも無く手を重ねた。もう彼を信じない理由は、どこにもなかった。

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