第五話:色を欲する人々の代演者

 翌日の先生の講演は大盛況だった。

 学士の街からやってくる神話解釈の達人と前評判があったらしい。先生は困ったように登壇前に言う。「僕はそんな大それたものじゃないんだけど……」と。

 何を言うか、とコルは彼を小突く。なんとしても、コルはこの先生という人物に胸を張って欲しかった。ばしばしと背中を叩き「先生の論は間違いありません!」と太鼓判を押す。そうして、やれやれとはにかんだ彼を見送った。

 そもそも『神郷美術史しんきょうびじゅつし』がアグラヴィータの歴史を語るに近いものであるから、そこに新解釈が加わるというのはなかなかに珍しいことのようだった。それにはアグラヴィータの事情――彼らは美術にしか興味が無いということもあり、講演の席を埋めたのは外部の学者が多かった。

 そこにはコルも知る神話学者の顔ぶれもあったが、先生は物怖じ一つしていなかった。というか、コルが知っているのならば先生からすれば旧知の仲である人間が多いというわけだった。

 先生はコルの憂慮など知らず、登壇さえしてしまえば意気揚々と自分の論をのびやかに語った。

 彼の話した解釈はこうだ。色のある歴史が色のない歴史に置き換わったとき、これから先はどんな歴史が解釈されるのか。

 生活を支えるインクが神であった。大鴉様という神の輸入によって、色のない人々が生み出された。ではアグラヴィータは何処に向かうのだろう。これから先に生み出される神話とは、と考えたとき、先生はこう語った。

 ――これからは、また着飾る時代がくるでしょう。

 美術神郷びじゅつしんきょうは神飾に至る、と彼は語った。いつの日か自分こそがカンバスになる世界が訪れるのではないのだろうかと彼は言う。色を遠ざけることは確かに修行の一環、鮮やかな世界を生み出すにふさわしいけれど、そこに夜の黒は存在しない。夜とは鮮烈かつ深い青だと彼は言う。現に、鴉を黒く表現する者は、この美術神郷には存在しない。神は彩部に宿られているのならば、尚更のことだった。

 彼がこの論を謳った瞬間、衝撃ではないがそれなりのショックを人々に与えたらしく、すぐ講演を後にする者も存在した。それだけ色を着飾ることは今のアグラヴィータでは難しいことなのだと、後に先生は語る。

「一応内容は検閲済みだったんだけど……まあ、そういうこともあるよ、コル」

「でも先生はいいのですか? その、自分の論が受け入れられないというのは、なかなかに酷なことなのではないのでしょうか」

 先生とコルは講演後、甘い物が食べたいと先生がぽろっとこぼしたので、例のカフェでアイスクリームを食べていた。バニラアイスとチョコレートアイスの組み合わせだ。

 コルの疑問に先生はくしゃりと笑った。

「それは確かに苦しいことだけれど、彼らにとっては文化や生活が一変する、だなんて言われているようなものだ。僕のことを疎む気持ちは少なからずあるだろう。君だって、コル。もしこの旅が数日中に終わる、だなんて言われたら――」

「困ります! 嫌です!」

「そう言うだろう? あれはそういう反論なのさ。黙って出て行っただけ、あの方々の忍耐と理性を讃えるべきだ。昔は物を投げられたりしていたからね」

 決して暗い表情を見せずに先生は言う。

 神話を語るということは、その生活を脅かすことに繋がる、と昔先生が言っていたことをコルは思い出した。

 大鴉神話が溶け込んでいる現在、それを解明することは真理に近づくことでもある、と彼は話す。

 謂わば錬金術のようなものだとも言う。今は昔、そのさらに昔のことを今と紐付けて話すことは恐ろしいけれど楽しい、と先生は話していた。コルはそのことを思い出す。

「先生」

「何かな」

「私も……早く先生とご一緒したいです。講演をしてみたいです」

「それじゃあまずは今日の分のレポートを書こうか、コル」

 あっけなくコルは撃沈する。打算のつもりで言ったわけではないけれど、のうのうと先生は躱すのでコルは足をじたばたさせながらアイスクリームを食べる。

「……そういえば、検閲と言っていましたがどなたに頼んだのですか?」

「美術神郷にやってくる前に、司祭の方々に。バルドゥール家族も読んだんじゃないかな」

「そんな方々にまで……でもバルドゥール画伯はにこやかでいらっしゃいましたよね?」

「さあ。どうだろう。もしかしたら心の中では嫌だと思っているかもしれないよ」

 しれっと先生は言う。思わずコルは先生をもう一度小突いた。

「あいたた」

「先生、そうやって勝手に嫌われている、だなんて思うのは酷いです。もし嫌われていなかったら、先生の思い込みじゃないですか」

「それはそうだけど……いや、別に謙遜しているわけじゃないよ。人の心は知れないからね。だから、そういうこともある、と思っておいた方がショックは小さいよ」

「けれど……でも、私は先生が間違っているだとか、嫌われるだとか、思いたくないです。だってその、私にとっては……私にとっては唯一の先生なんです。だから」

 必死に言うコルに、先生は眉を下げながら笑う。そうすることしかできなかった。

「ありがとう、コル。僕には味方がいるというだけで心強いよ」

 彼はよく出来ている先生だった。アイスクリームを食べて、空っぽになっているコルのカップを奪って片付けに行ってしまった。

 コルはどこか先生が遠くに行ってしまうような気がして仕方がなかった。元から遠い存在だったように思うけれど、それがもっと果てしないところにまで及んでいるようで、心がざわついて仕方がない。

「先生」

 彼女は必死だった。必死に追いつこうとする。

「今日、レポートの途中経過、みてください。昨晩、進めたんです。けれど……その、何か上手くいかなくて」

 コルは追いすがるような気持ちだった。それを先生は軽やかに受け止めて、頷いた。

 先生のアドバイスは的確だった。コルが題材にした『美術神郷とその生活および神話の親和性について』というものについて、貸し与えた本を例にしながら彼女のレポートを導いていった。

 コルはその手腕にほう、と声を上げたい気持ちをぐっと堪えた。いつまでも憧れてはいられまいと、気合いを入れて文献を読みあさり、昼寝をした。夢は見なかった。不思議と彼女は夢を見ない。どれだけ先生という夢のかたちを知ったとしても、それを覚えることは彼女にはなかった。彼女は今日も夢を見なかった。

 そして目覚めた時には、やはり彼女の頬には本の歯形があるのだった。

 コルは頬についた本の歯形を揉みながら、起き上がる。

 微睡みに抗いながら彼女はどこかざわざわと宿の周りがうるさいことに気づいた。

 時計を見ればまだ夕方だった。

 何か特別な行事が行われるとも聞いていなかったコルは、なんとなく胸騒ぎを抱えながら部屋を出る。

 宿の二階に泊まっているので、外に出るべくとにかく一階のラウンジに向かう。

 するとそこには必死になって大量の聴衆へ受け答えをしている先生と、部屋の隅でゲラゲラ笑っているバルドゥールがいた。

 この光景は見たことがある。学士の街でも起こっていた――そう、質問攻めというやつだった。学士の街では新説が打ち出されれば各方面から野次や質問が飛び交う。質問をする時間を講演の中に設けても、それが全く機能しないので場外乱闘よろしく、こうして壇上を降りた後でも続く。

 懐かしい景色を目の前にコルは流石先生! と喜びはしたが、先生に声を掛けることはおろか近づくことすら出来なかった。何故ならたくさんの聴衆――先ほどの講演で、外に出なかった者たちが、おしよせ、そのわりには従順に並び、質問をしては帰り、また質問をして――を繰り返しているからだ。

 仕方が無いのでコルはバルドゥールの隣に近づいた。バルドゥールはすぐに気づき、コルを歓迎する。

「お疲れ様お嬢さん。レポートが行き詰まっていると聞いたから、先生に文献をいくつか渡すように言われていたんだ」

「ありがとうございます。文献はどちらに?」

「先生が先に読もうとしたら、ああやって囲まれて、それからあの渦の中に」

 バルドゥールが先生の方を指す。確かに先生が受け答えをしている傍らには数冊の本が置いてあった。

 あれを取りに行くのは至難の業だ、とコルはため息を吐く。

「しかし先生は人気者ですな。美術神郷の外からも先生のファンがやって来るとは」

「神話研究の権威――と言われていますから。様々な人々が、例えば壁画を、本を、宝石を、神話的価値がないかと先生を呼んで確かめたがっている、と聞きます」

「それはそれは……災難かな? いやはや、先生のことだからすべての都市に向かっていきそうな気もしますな」

 バルドゥールの言葉にコルは笑った。確かに先生であれば、一見の価値ありとして何かと理由を付けて向かっていきそうな気もする。

 先生の方を見れば、ああではないこうではない、と言いながらも目を輝かせつつ応答を続けている。宿のラウンジを殆ど占領しての質疑応答は途方もない時間がかかりそうだった。

「どうですかお嬢さん。ここは先生を信頼して、私の家に来ませんか。ナーナとセティも会いたがっています」

「そうですか? じゃあ、失礼します」

 深々とコルは頭を下げて先生にまずは手を振った。先生もそれに気づき、コルに手を振る。次の瞬間にはがっと視線がコルに集まりそうなところを、バルドゥールが「おきになさらず!」と豪快に笑って去って行く。そんな景色が広がっていた。

 バルドゥールの家は宿から近い。朝の散歩に適している距離で、大きい家であるのが特徴だった。

 聞けば神郷画家が住む家としてその家は建っているそうだ。

「お邪魔します……」

 バルドゥール宅は、ナーナに水を掛けられたときと変わらず綺麗に保たれていた。白黒の調度品に、今日は目立った色のかつらをしたバルドゥールがいる。

 ナーナ夫人はセティに案内を受けながら紅茶を淹れてくれた。マンゴーのフレーバーティーは黒色ではなく黄金色をしている。葬式の日にしか飲まないのだと言う。

「美味しいです。ありがとうございます」

 白の茶器に注がれた紅茶を一口飲んで、コルは感想を述べた。ナーナが伏せた瞳をほっと綻ばす。

 大きなリビングにあるテーブルをバルドゥール、ナーナ、セティと並んだところにコルが向かい合うかたちで座ったので、コルは何故か萎縮した。バルドゥール家族はどこか芸術品のような顔をしているからだ。バルドゥールは鼻が高く彫りも深い。その一方でナーナ夫人は柔らかな天使そのままの顔をしているように思う。セティ少年は発展途上だが、これから凜々しくなるのだろう顔立ちで想像に容易かった。

 コルは何かを話そうとして、頭が真っ白になった。そのことにはバルドゥールもすぐ気づいたようで、けらけらと彼女を笑う。

「いけませんよ。お嬢さんを笑うだなんて」

「いや、ナーナ。可愛らしいじゃないか。何かに熱心になって白を覚える少女の奥ゆかしさは絵に勝る。あはは! お嬢さん、先生から聞きましたよ。先生の新説が受け入れられなかったことを、どこか悲しまれているだとか」

「先生が話したのですか?」

「そうです。珍しくお嬢さんが引きこもっているから、多分ショックだったのでしょう……と仰っていましたな」

 先生が気がつくほど落ち込んでいたのは驚いた。コルは申し訳なくなって少しだけ俯く。

「まあ……事実なのですけれど、その。ええと」

「我々が新説をどう思っているか話しましょうか。せっかくですから」

 コルが聞き出すこともなく、勝手にバルドゥールは話し始めた。その語り口は柔らかなもので、決して彼女を咎めようとしているものではなかった。

「はっきり言ってしまうと、避けられないとは思いますね。先生が仰ったように、この美術神郷では鴉を黒で塗りつぶすような人間は居ません。鴉は群青、お嬢さんと同じ瞳の色をしているとされている。夜の色は至高の色。それと同じように鴉は描かれるべきと、そう皆が一様に語ります。ええ、それだけは……それだけは美術神郷の共通事項と言っても過言ではないでしょう」

 バルドゥールはコルの瞳を指した。

 美術神郷の誰もが褒めそやした群青の瞳。それは彼女が美しいからではなく、その色にこそ価値があるとされてきたからだ。彼女の生まれ持ち、纏っていた色彩が、たまたまこのアグラヴィータにぴったりであっただけのこと。

 痛感しながらコルは頷く。

「今の美術神郷では、色を纏うのは葬式の時だけです。それが間違いであるとは誰も思っていないでしょう。しかし同時に、ずっと葬式が続けばいいのに……と思わずにはいられない人々もいる。それが先生を囲んだ人々です。あの人々は正当性を先生に求めている。どうかこの美術神郷が変わりますように……と祈っている」

「あの、それはどうしてですか? 美術神郷は今でも素晴らしいと思います。色を着飾らないことは、そんなに人々を苦しめているのでしょうか?」

「苦しめている、というよりはもっと発現の場が欲しいという印象ですな。己を着飾ることはまさしく最初の美術なのですから。最も……これはもっと深く入った話になりますが、美術神郷はまさに苦しめられているのです」

「というと?」

「己の色がわからない、と言って美術に関心を持たぬ人々も増えてきているのです。まあ、生活の基盤が黒白ですからな。難しいことを強いているのは、誰もが理解しています。だからこその修行です。けれどそうは思わない……美術を愛せぬ人間もいる。最初に愛すべき自分の色を知らずに生きる者もいます。先生がそこまでお考えかは存じませんが、私はそういった側面を見るに、先生の着飾る日が近いというのは、あながち間違いではないと思うのですよ」

 コルは想像する。美術神郷において色がわからない、ということがどのようなことなのかを。

 色彩を扱うことが修行の一環とされる。だのに色がわからないというのは、多大な欠陥なのではないか、と彼女は思う。何かを知り、心を動かされ美術というカンバスに向き合うものだとコルは想像している。だのに何を彩れば良いのかもわからず、白紙に一生向き合うのだとすれば、それはなんという拷問か。

 先生の新説が正しいというわけではない。そうであるという証拠もない。ただ、正当性を先生に求めている人々は、自分たちの心が変われる日を心待ちにしているだけなのだ。

 コルは穏やかに眉を下げた。想像以上にバルドゥールが落ち着き、真摯に話してくれたことに安堵した。

「実は……私はてっきり、バルドゥール画伯たちは、先生の新説を嫌うものだと思っていました。今までの生活を一変させるようなことを先生は述べましたから、その、神郷画家としても、教会の方々としても見過ごせないのではないかと……そう思っていました。でも、私は先生のことを間違っている、とも思いません。美術神郷の方々を、悪い、とも思いません。どちらも双方、思うところがあってのことだと思うのです。だって、それらは双方、美しかった。掛け値無しに美しいものが、そこにあったのです。私はそれを信じたい……」

 コルの言葉は拙かった。勉学に励み、先生のような人物を目指しているにはまだ幼いものだった。けれど、コルの言葉は真面目で、その心が確かに突き動かされたのだと信じるに足るものだった。

 バルドゥールとナーナ夫人ははにかんだ。コルの、彼女の言葉がバルドゥールのように真摯だったからだ。

「コル……さん」

 セティの声だった。コルは顔を上げ、その空色の瞳に首を傾げる。

「どうかしましたか?」

「ええと……どうして旅をしている、ですか?」

 コル以上に拙い言葉が彼女に問い掛ける。

「美しいがあるからですか? ママやパパの生み出すものよりも、素敵なものがどこかにあるからですか?」

 セティは信じられない、というように話す。

 コルはどう答えるか悩んだ。彼女の旅の目的は「美しいものを探すこと」だ。けれどその理由だって、今の弁論からすればもう見つかっているようなものである。

 コルにはもう、美しいものが何かわかっているのに、それ以上を探すのか――そう、セティは問い掛けたいのだろう。

 そのうちセティは黙っている――なんと答えれば良いか悩んでいたコルに煮えを切らしたかのように、スケッチブックを持ってきた。

 スケッチブックにはバルドゥールやナーナが描いたのだろうスケッチの山があった。その端にしっかりとセティが描いたものもある。子どもには思えない画力で描かれたそれに、ほう、とコルは感嘆した。

「ここにあります。美しいものは、もう」

 必死にセティが言う。

 それをコルは受け止めたうえで、きっぱりと言い放つ。

「けれど美しいものは……これ以上に美しいものは、きっとあります」

 彼女は断言する。年端もゆかぬ子ども相手にするには、少し大人げないと感じながらも、はっきりと言う。

「美しいものはこの外にもあるのです。それは色を持っていたり、いなかったり、そもそも不定形だったりする。けれど私たちはそれに、たった一言、美しい。そう感じて止まない瞬間があります。私はそれを見聞きして、書き留めたい。本でもいいかもしれません。それは図録になるかもしれない。論文にだってなるかもしれない。私はそんな美しいものを探し、見て、聞いて、誰かに伝えたいのです」

 コルは知っている。それが何処にあるのかも。

「美しいものは心にあります。きっと何処かでときめきを、輝きを知って動かずにはいられないものです。だから、セティ。あなたの心の何処までも美しいものは広がっている。このアグラヴィータの外にだって、それはある。バルドゥール画伯の心にも、ナーナ夫人の心にも。見えない壁を通り抜け、寄り添ったとき、あなたたちの美しさは共有されて、さらに動かずにはいられなくなる。私はその衝動を、たったひとつ書き留めたいだけなのです。それだけのために、旅をしています。美しいものを探し、誰かに伝えたいのです」

 コルはそう伝えて、スケッチブックの端書きを指した。セティが描いたのだろう拙いそれに、指を添えて彼女は続ける。

「おそらく……セティくんも気づいていないだけです。あなたの心にもそれはあるのです」

 だから、とは言わなかった。続けてしまえばセティをアグラヴィータから追い出すことになってしまう。あなたも探しに行こう、とは易々と言えなかった。

 バルドゥール画伯とナーナ夫人はその様子を見守っているだけだった。

 セティはふるふると震えながら、首を振った。子どもながらに長けた美的センスが、育てられた美しさへの情念が小さな彼を動かしている。認めたいような、認めたくないような気持ちの狭間で、彼は震えていた。

 そっとセティを抱きしめたのはナーナ夫人だった。くすくすと彼女は笑い、「ごめんなさいね」と優しくコルに言う。

「セティ坊やはまだわからないものね。何が美しくて、外にも何かがあるだなんて、想像もつかないもの。だってパパはこの世で一番の画家で、パパが描くものが一番だと思っていたのね? なんて可愛い子ですこと。でも、セティ。確かにお嬢さんの言うとおり、美しいものはこの世に溢れるほどあって、それを知らしめることの難しさは途方もないことなのよ」

「ママ……」

「ふふふ。よく知りなさい。限られた時間で、限られた視界で、限られた歩みで知れる限りを尽くすことの大切さを。それだって美しいんだわ。私にはもう見えませんけど、あなたの努力とその心細さがこれからの旅路を創り上げていってくれるでしょうから。ねえ、そうでしょう。バルドゥール」

「そうだな。ふふ、お嬢さんから良い話を聞いた」

 バルドゥールもナーナの傍に寄ってセティの背中をさする。

 セティはナーナに抱きしめられながら、難しそうに唸った。唸った後に彼はわんわんと泣いた。

「ショックだったのね。ええ、そうね。あなたの美しいものはここにしかなかったのだものね……」

 そう宥められながらセティはナーナの懐で泣き喚いた。コルはそれを一切うるさいとは思わず、ひたすらに泣けるセティのその純粋さに感銘のような、感動のようなものを抱いた。

 コルはそっと場を後にした。小さくバルドゥールとナーナが手を振り、真似するようにセティも手を振ってくれていた。

 宿屋に戻るとぐったりとしている先生がラウンジの片付けをしていた。書き殴られた紙たちには先生の誇る知識の数々がびっしりと書かれていて、殺到していた人々の狂乱ぶりを彷彿とさせる。

「戻りました、先生」

「あ、ああ。おかえり、コル。バルドゥール画伯のところに行っていたんだろう? どうだったかな」

「……ええと、なんて言えばいいのか。とりあえずこの場を片付けませんか? 宿の方々にも迷惑ですし」

「そうだね。そうしよう。こっちは……まあ見ての通りさ。大変だった」

 端的に先生は言うが、その一言に収まり切らないほどの出来事が起きていたのは間違いなかった。

 先生とコルは書類をまとめ、書物を束ねた。バルドゥール画伯がコルのために持参してくれた本の数々は無事にコルの手元にやって来ることができた。

 先生曰く、やって来た――先生に質問を、とやって来た人々の大半はアグラヴィータに彩りが欲しいと願う人々ばかりだったそうだ。

「色を遠ざけても何もわからない。私たちは外の美しさと同じくらい、鮮やかなアグラヴィータが観たい――彼らはそう話していた」

 一理あると先生は考えたらしい。色を遠ざける修行が確かに有益だとしても、色を失った美しさは人工的だ。自然ではない。神は自然のものであるから、人工などナンセンスとも言える。

 先生は「この塩梅こそ文化によりけりだけれども」と付け足し、「僕もあまりに恣意的だと思っている」と続けた。

「それは……アグラヴィータの黒白の世界が、ですか?」

「ああ。何というか……支配されているような感覚がする。生活がそれに馴染んでいるから気づかないけれどね」

「なら、何に支配されているんですか?」

「それこそ、“聖体コルポサント”さ」

 はっきりと先生が言うので、コルは目を丸くさせた。

「“神を覗く者ミスティルテイン”に? あれはナーナ夫人が動かしていたように見えていましたよ」

「そうだけれど。でも、こうは考えられないかい。供物を捧げ、インクを作り出してもらっている。その贄が色彩なのだとしたら――間違いなくこの美術神郷は黒白の世界になる」

 彼の言い分には頷ける。けれど贄にするほどの色彩がどこにあるのだろう、とコルは考える。

 アグラヴィータはもはや白と黒で完成されていると言っても過言ではない。そのように生活が組まれ、様式は揃い、そのように行えるようになっている。輸入したものから色を抜く行為はあるだろうが、それだけでは“聖体”が満足するような贄になるとは思えない。

 コルが頭を悩ませていると先生はそうだ、と人差し指を立てた。

「食事をしながら“聖体”の話をしよう。何が食べたい?」

「あかつきトマトケチャのナポリタンを!」

「コルはそれが好きだなあ。よし、外食にしよう」

 すかさずコルがブランドトマトのナポリタンを所望するので、先生はやれやれと肩を竦めた。

 あかつきトマトではないけれど、二人はナポリタンのある店に駆け込むことができた。アグラヴィータと言えど、食べ物までは色を完全には失わない。そもそも色を無くして何かを食べる、と言うのは非常に難しい。

「アグラヴィータでは色を食べることを食彩と呼ぶそうだよ。この場所では美食も美色、というわけだ」

 先生は色無しカルボナーラを注文する。赤と白の相対的な色合いの食卓が完成したところで、彼は切り出した。

「“聖体”は超自然現象ではなく、人と契約を行うことから従属的現象とも言える」

 それはまさにコルがナポリタンを食べようとした瞬間の出来事だった。ナポリタンの麺をフォークに絡ませ、いざ一口目を食べようとしたところに、先生は切り出した。

 あんぐりと――パスタを食べるために開いたコルの口が、塞がらない。

「不思議な、けれど魔術でない現象は今まで“聖体”と言う名前だった。けれどそれは魔術の国マギア・ロジータの発生によって、名を失った。その後、“聖体”は人と契約をしてそれを行使する存在に切り替わった。君が乗ろうと提案した夜汽車ブルカニロもそうだよ」

「え? あれは魔術ではないのですか? 人の願う場所に連れて行くと言うのは、いかにも魔術的だと思っていました」

 夜汽車ブルカニロ――それは人が望む場所に一夜にして移動ができるという魔法の汽車だ。

 乗ることは簡単だが正しく降りることは難しいと言われている。便利なものには相応の値段と勇気が必要だと言うことをこの世の何よりも知らしめている夜汽車だ。高値のチケットを払うか、正しく、迷わず、夜汽車ブルカニロに目的地を伝えその道筋を伝えることで場に到着できるそれは、肝試しにも使われているほどだ。

 そもそも夜汽車ブルカニロの乗車客は少なく、また乗る人間も少ないので、どこに停留するのかを知るものも必然的に少数だった。

 コルは夜汽車に乗ろう、と先生に言ったのは一つ旅の初めのジョークだったのだが、現存すると聞いて目を丸くさせていた。

「それがそうではないらしい。夜汽車ブルカニロが誰と契約し、何を求めているのかは謎だけれども、夜汽車ブルカニロは魔術の国の所有物ではない。だからおかしいんだ。魔術以外に人を運送できるのは汽車やバイクなどの機械だ。けれど夜汽車ブルカニロは事実として燃料の補充なしに動き続けている」

「……どこかに停留所があると聞きますが、それをご存知なのですか?」

 恐る恐るコルが問うと、けろっと先生はフォークにカルボナーラを巻いた。

 それからパクリとコルよりも早く一口目を頬張る。軽く咀嚼してから、先生は頷いた。

「昔どうしても夜汽車ブルカニロを題材にして論文を書きたくてね。それで学んだのさ。あれは到着地点と同じ具合でね。望めばどこにでもやって来るし、どこにでも連れて行ってくれる。行けない場所は宇宙の果てぐらいだよ」

 あっさりと彼は言う。

 さらに開いた口が塞がらず、コルは持ち上げ続けていたフォークを皿の縁に寝かせる。

「先生」

「なにかな」

「なんでそんな素晴らしい――研究報告がされていないのですか?」

「あはは……いや、だって夜汽車ブルカニロは本当にあったんだ! というのは妖精を――存在するかわからぬ魔法そのものを証明するようなものじゃないか。もちろん、学士の街では禁書扱いさ。コルだって、こんなことを言われて気が気じゃないからフォークを置いただろう? そういうことだよ」

 しれっとそれらしく先生が話すのでコルは反論する気持ちも何処かに追いやってしまった。

 確かに魔法はこの世に存在しない。魔法を行使する存在もいない。妖精はカテゴリ的に魔術ではなく魔法に分類される。呪文を使わないで願いが叶えられるものは大抵が魔法カテゴリに分類されてしまう。

 夜汽車を分解すると、まあ確かに魔法らしいのだ。願えば何処にでも連れて行くという魔法の夜汽車。願いが強ければ何処へでも一夜にして連れて行ってくれるもの。そしてその願いが強固でなければ、意思を伴わぬ希薄なものであれば、夜汽車は彷徨い続けるという曰く付き。完璧な魔法カテゴリの存在である。

 けれど、だからこそ、夜汽車ブルカニロは大人気だった。

 絵本の中の夜汽車ブルカニロは恐ろしいけれど心優しい汽車として描かれていた。夜汽車ブルカニロに携わる人々――おそらく車掌というものが存在したとして、それらはみんんな何処か寂しさを携えた優しく細い人々というように描かれていた。そんな魔法の代物を扱える人間は、皆心の何処かに優しさを飼っているのだと思われがちだった。

『大鴉様の旅立ち』と同じように夜汽車ブルカニロの話も人気だったのだ。コルはそのことを思い出して、なんとも言えない気持ちになる。

 もし、本当に夜汽車ブルカニロに乗れたとしたら――私は何処に行くのだろう?

「……先生の言い分はわかりました。でも乗ったことはないのですよね?」

「うん。呼び出してみたことはあるけれど、乗らなかったよ。その時の僕には特別行きたい場所もなかったからね」

「車掌はいましたか?」

「いたね。金髪の男だった。彼はブルカニロに乗るための注意事項を話して、僕が乗らないとわかると、そそくさと夜汽車を出発させたよ」

「当然ですね。乗らない客はただの人間ですから」

「乗れば良かったかな。けれど彷徨い続けるのは嫌だったから、しなかった。そんなところだよ」

 コルは漸くナポリタンに手を付けた。甘いケチャップを使ったナポリタンは美味しいけれど、何処か抜けているような気がする。これはアグラヴィータの食事のどれにでも言えることだった。何かが抜けている気がして、仕方が無くなってしまう。

「……ずるいです、先生」

「何がだい」

「夜汽車ブルカニロのことも知っていて、“聖体”のこともあっさり答えてしまって。なんだか先生は……先生はこの世の全てを知っている賢者のような気がしてきました。先生が今学びたいことって、あるのですか? 私にはなかなか思いつきません」

 先生はそれを聞いて、くしゃりと笑った。

「わからないことだらけだよ。“聖体”のことを知ったとしても、それがどうしてあるのかはわからないし、どうして契約を望むのかもわかっていない。等価交換と言われたらそれまでだけれどね。それに僕は……僕はコルと同じ気持ちだよ。この世の何処かの美しいものたちを、何処かの人々に教えていきたいのさ」

 くるくるとパスタを巻き、ベーコンも一緒にフォークに絡めながら先生は言う。

「あなたたちの生活は、文化は、比較することもなく美しいのだと、そう言えたら素晴らしい。外様に言われるだなんてと思うかも知れないけれど、僕はそう言える世界を望むね」

 先生はぱくりとカルボナーラを食べた。

 ざわざわと辺りの人々が関係のない話をしている。それは当然のことだ。コルは先生の話をきちんと聞くために、あらゆるものをシャットダウンしていた。

 けれどその当人は――話している人間も、コルに対して何か一定の距離のような、隠し事のようなものがあるのではないか? と彼女はふと思ってしまった。

 その中身はわからない。わからなくて良いのだ、と思いつつ――

「先生。隠し事をしていませんか」

 聞いてしまった。

「え?」

「何か隠されている気分がします。今の先生の、学びたいという理由は確かに素晴らしいと思います。私だって人にこの世は素晴らしいんだ、と言えたらどんなに良いことか。でも、先生にとってその理由は、理由じゃないような気がします。うわべの、取り繕いのような気がします」

 はっきりと彼女は言った。

 かちゃ、かちゃと食器の触れ合う音がする。

 ナポリタンを無言で食べ進めると、先生が何も無言を貫いていることが嫌でもわかってしまった。視線を上げる気にもなれず、コルは熱心にナポリタンを食べ進めた。

 悪いことをしたような気分になりつつも、コルは謝らなかった。この先、先生と旅をし続けるのならばきちんと聞いておくべきものだと思ったからだ。

 先生が旅をする理由もきちんと尊重したい。彼が自分を尊重してくれるのと同じぐらいに。

 結局二人は無言で食事を終え、言葉も少なく宿屋に戻った。自室に入るとき、先生がコルにかけた「おやすみなさい」の声もどこか覇気のない様子だった。

 やはり謝るべきかを考えて、コルは押し黙った。先生も大人なのだから、嘘を言い当てられただけで何も言えなくなるだなんて、卑怯だ。コルはぐっと堪えながら、本を抱いて眠ることにした。


 男は空を見上げていた。

 真っ黒と呼ばないアグラヴィータの空をじいっと見つめていた。

「星の輝きは大鴉様の宝物……か」

 ならば、月はひときわ輝く宝物になるのだろうか? 彼は想像して、閉口した。

 この手の考察は留まることを知らず、最早神話の領域を通り越して議論がされている。彼はそのことを知っていたから、余計に口を噤んだ。

 黒ではない空。群青の空が続いている。

 大鴉様の羽根の色とも呼べばいいのだろうか。夜とはそうこの美術神郷では解釈される。

 男は悩んでいた。嘘を吐いた。

 ただ、驚いたのはそれに納得をしない教え子のことだった。彼女が聡い子であることをすっかり忘れていたわけではないけれど、自分の旅の目的があやふやになっていることまで言い当てられるとは思わなかった。

 間違ってはいないのだ。本筋から少し脚色をしただけ。けれど彼女はそれが気に入らなかったらしい。

 けれど。

「全てを話したところで……信じられるとは思えないな。やっぱり」

 男は利き手とは逆の、右手首に付けている腕時計を外す。

 手首の内側には黒い羽根のようなタトゥーらしきものがあった。それは幾度こすっても消えないものだった。

「僕が大鴉と契約しているとか……そんなことは、やっぱり嘘になるよ。コル」

 男は――先生は、ただただ月を仰ぎ見ることしかできなかった。

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