2001~2500

※一様に、情報化社会の限界かもしれない。



2001:【2024/08/23(23:36)*ぴぴぴぴぴ】

 情報共有一つまともにこなせない人類に、情報化社会は荷が重いのかもしれない。

 人はたまには荷を下ろして肩を楽にしてもよい。

 秋のコオロギが鳴きはじめた夜である。



2002:【2024/08/23(23:42)*日に言う己、と書いて日記】

 きょうは夕立に襲われ、びしょ濡れになった。

 気温が高いので不快感はさしてなかった。

 空調の効いた室内に入った途端に濡れた衣服が冷たくなり、不快感が増した。

 体温よりも気温が高い状態だと濡れていてもさして不快ではないと知った。衣服が濡れた際に、体温が奪われると不快感が増すのかもしれない。

「びしょびしょの服、ちべた!」となると「><」になる。

 ちべたかったな、の日誌なのであった。

 あー……。

 靴乾かすの忘れてた。

 思いだしたので、いまから乾かします。

 日記っぽい!



2003:【2024/08/24(03:34)*連木で重箱を洗う】

 三度目は定の目と言い、一度や二度くらいは偶然でも重なるが、三度重なることは滅多にない。三度目の正直というくらいだから、三度目こそが大事とも言える。

 似た諺に、三人虎を成す、がある。

 一人が「街に虎がいる」と言っても誰も真に受けないが、三人の口から「街に虎がいる」と聞けば、そういうこともあるかもしれない、と人は認識を改める。

 デタラメでも同じだ。

 三人陰謀論を成す、と現代では言い換えられるだろうか。

 或いは、三人流言を成す。それとも、三人偽情報を成す、か。

 考えてもみれば、たかだか三度偶然が重なるだけで、何かを確信するには、数が少なすぎる。何か仕掛けがあるのではないか、と疑いの目が生じるくらいが妥当なのではないか。

 三度目は疑の目、くらいだと据わりがよい。

 すると、三人虎を成す、もまた、三人虎を呼ぶ、くらいがよい塩梅ではなかろうか。

 人々の思考の壇上に「虎の存在」を喚起したければ三人の口から同じ「虎の話題」を聞かせればよい。人々に任意の思考形態を植え付けるのにも応用できよう。制脳技術の示唆と思えば、なかなかどうしてむかしの人は卓見である。

 無理が通れば道理引っ込む。道理がなかろうとも、とかく数で押せば横車も通るのが世の常である。蟻集まって樹を揺るがす。民主的な多数決と言い換えればまっとうにも聞こえるが、道理のない数の力は、それはそれでおそろしい。大群に関所なし、である。

 諺は面白い。

 たとえば、「火を以って火を救う」なる諺がある。

 火で火事を消そうとしても却って事態を悪化させる。悪因を除こうとして却って悪因を深める。被害を広げる。

 まるで現代の写し鏡のような諺である。昔は今の鏡、とは言ったものだ。

 ――火を以って火を救ってなんとする。剣を使う者は剣で死ぬ。

 使い勝手のよい諺である。

 諺の能力というよりもこれは、諺に合致してしまうようなありきたりな教訓すら活かせぬままの現代社会の未熟さを表している、と言えるのかも分からない。

 禍は口から。

 舌は禍の根。

 口は禍の門。

 とも言う。

 他方、良薬口に苦し忠言耳に逆らう、とも言うからいかんともしがたい。

 因果応報、罰は目のまえ、である。

 しゃべりすぎると禍を呼ぶが、よい助言は耳に痛い。無理に諫言を申せば衝突の種を生み兼ねない。されど言わずにいられぬ忠言もあり、どうしたものか。

 あちらを立てればこちらが立たず、太鼓を打てば鉦が外れる、といった構図は、理屈と膏薬はどこにでも付くようなものなのかもしれない。

 両方聞いて下知をなせ、である。

 両方の言い分をしかと聞いて、裁量を下すのが好ましい。

 名人は人を誹らず、されど人を見て法を説く。

 諺を使うとそれとなく格式のある文章のように錯覚しかける者もあるかも分からないが、虎の威を借りる狐である。

 錯覚は錯覚にすぎず、中身はといえば、その一を知りてその二を知らずだ。知ったかぶりなのである。

 管を以って天を窺う。

 覆車の戒めとしていただけたならば、本望だ。

 馬鹿の一つ覚えで、すまぬ、すまぬ。

 言葉は通じてなんぼの、宝の持ち腐れである。理が非になる、の見本と思えば、月夜の蟹でも老馬の智といえよう。

 定かではない。



2004:【2024/08/24(07:06)*はい、みなさんが平和になるまで××秒掛かりました】

 最後まで凶器を手放さないのが誰か、とのチキンレースなのかもしれない。

 たとえば、聴衆が静まらないと始まらない映画があるとして。

 最後までおしゃべりを止められない者は誰か。

 しゃべりつづける者だけが、周囲からの視線に気づかずに、「映画まだ始まらないのかよ」と愚痴を吐きつつ、映画館に声を響かせる。

 おやおや。

 まるで誰かさんみたいですね。

 皮肉ではなく。

 鏡を覗き込んで言ったそうな。

(誰が?)

(わたしが)

(好き好き大好き、みたいな曲をきょう耳に挟んでさ)

(何の話!?)

(好き好き大好き、みたいな曲で踊っている人がいて、しかもトビキリ可愛くて上手だった)

(へ、へー。よかったね)

(いいもの観れた気持ち)

(曲名は?)

(ね。気になるよね。訊こうかとも思ったけれども、声を掛けたら不審者だし、緊張しちゃうし、嫌われたくないから訊かぬままにした。えらい)

(えらいかどうかはともかく、相手の気持ちを想像して判断したのはよいと思うよ)

(えらい)

(えらいかどうかはともかくっつった!)



2005:【2024/08/24(13:04)*終わり方も多種多様?】

 ゼロにも種類があるかもしれない、とかちょっと前の項で並べたけれども。

 別にゼロに限らぬね。

 どんな過程を辿ってその数に至ったか。

 人に限らず、命あるものみないずれは死ぬ。

 けれど、いかに生きてきたか、はそれぞれ異なっている。同じではない。

 行き着く先が同じでも、同じではない。

 そうした細かな差が、環境に蓄積され、影響し、絶えず変容の波紋を広げている。

 文章とすこし似ている。

 最後はいずれも「。」で終わる。

 けれど、そこまでの軌跡が、文字となり、並びとなり、糸となって、念をつむぐ。

 結果だけに目を留めるだけでは不十分な事象は取り立てて珍しくはないのだろう。往々にして、背景のほうが膨大だ。

 なぜ山は噴火し、地震が起き、台風がやってくるのか。

 災害そのものは短期で収束するが、それが起きるためには長期間働きつづける機構がある。流れがある。

 循環だ。

 反復である。

 回路のごとく、繰り返し、流れる。

 それとて毎回まったく同じではない。誤差を帯びている。

 人に知ることのできる領域は、思いのほかに狭いのだろう。そのことに気づけても、つい忘れる。

 或いは、本当のところで、いったいじぶんがどれほど世界を取りこぼしているのかについて、人はそれすら満足に知ることはできないのかもしれない。

 この文字の羅列も最後は「。」で終わる。

 けれどほかの数多の「。」で終わる文字の並びと、まったく同じではない。

 似てはいるものの。

 妄言だ。

 定かではない。

(でも割と「()」で終わることもあるじゃんよ)

(そだね)

(「!」とか「?」で終わることもあるよね)

(そだね……)

(そうそう、「……」とかで終わることもあるしさ)

(勘弁して><)

(顔文字で終わるのもありだね)

(🙄)

(ぷひー。文章、けっこう「。」で終わらない説でございますわ)

☆彡



2006:【2024/08/24(23:18)*十割重複するほうが珍しい】

 あなたの意見を全肯定はできないし、反論があるけれど、あなたは正直だなあ、と思うことは割とある。

 あなたの意見には反対だけれど、あなたの発言はありがたい、と感じる。

 そういうものなのではないのかな、と思います。

 一事が万事ではないにせよ。

 あなたの意見は面白くて好きです。

 もっと言ってほしい。

 ただし、あんまり同意はできないのですけれど。

 おもろー!



2007:【2024/08/24(23:49)*むにゃむにゃ、と、うやむや】

 わがはい、他人から分かったような口を利かれるたびに内心に広がる大海原さんが「ざっぱーん!」と大荒れする割に、他人の言動には分かったような口を利いてしまうので、おおよそみなから「ざっぱーん!」の大波を受けているであろう。内心で。

 実際、わがはいと同じ思考形態と文章形態を人工知能さんに学習してもらって、いざお悩み相談をしてみたら、秒で端末の画面を叩き割る自信がある。

「じつは気になる猫ちゃんがいて、でもいっつも避けられてて撫で撫でできないんです。とってもつらいです。夜も眠れないくらいで……」

「まず思うに、いかな猫とはいえどかってに触るのは疑問の余地がありますね。猫にも尊厳があって然るべきであり、たとえばこの世に巨人がいたとして、あなたは巨人と遭遇するたびにかってに触れられることを潔しとするのですか?」

 なーんて返された暁には、「ざっぱーん!」である。

 嫌われたくて言っているわけじゃないのですけれどもね。

 どちらかと言うまでもなく、好かれたくて言っている説が濃厚です。

 でも上手くいかないのです。

 おおむね逆効果になってしまう。なぜだ。

 好いて!

(もうその時点で、だよ)

(なぜ!?)

(この世に巨人がいたとして、あなたは「嫌われてるかもだけどわざとじゃないし、好いて!」とか言ってくる相手を好くのですか?)

(優しくて可愛くてたまにカッコよい巨人さんなら好くかも)

(ご都合主義にすぎるだろ)

(ためしに言ってみてよ。好いてって)

(はぁ?)

(いいから、いいから)

(じゃあまあ――好いて!)

(うん。じゃあまあ、きょうのところはこの辺で)

(返事は!?)

(あと一分で日付が変わるね。きょうも一日お疲れ様でした)

(うやむやにすな!)



2008:【2024/08/25(00:00)*まだ見ぬ芽を】

 水に流せばいいのに、は割とわたしも言ってしまうけれど、当事者の立場になってみたとして部外者からそんなことを言われたら、「はっにゃ~ん怒怒怒」になるに決まっているのだよね。

 水に流します、は当事者が決めることだ。

 かってに傷をなかったことにして、「はい過去だから気にするのはやめましょー」みたいに言われたら誰だって腹が立つだろう。

 傷は癒えることはあっても消えはしない。

 よしんば消えても、傷ついた過去は消えない。

 そう、過去は消えないのだ。

 たとえ誰一人憶えていないのだとしても。

 忘れ去られたのだとしても。

 存在した事実は連綿と影響として世界に散在し、さらなる影響を重ねている。

 過去のことなので、で済むならば、いまこの瞬間にあなたやあなたの大切な者を損ない、ダイナシにしてしまっても、一秒経ったらもう過去だ。

 過去だから、とあなたは水に流せるのだろうか。

 いったいどれほど時間が経過すれば水に流せるのか。

 いったいどれほどの過去ならば、現在を優先できるのか。

 未来のために過去をなかったことにできるのか。

 できるわけがないのだ。

 過去をなかったことにはできない。ただ、未来のほうが大事なので、過去のことを優先して判断基準にしたくない。或いは、未来が大事がゆえに、過去の過ちから学び、つぎに活かしたい。

 かような繰り返しがあるのみなのかもしれない。

 乗り越えるといえば端的だ。

 過去を礎とし、足場として、つぎなる未だ来ぬ世界へと踏みだす。

 過去を踏むなんて、そんな大それた真似はできない、不遜だ、と感じる者もあるかもしれない。繊細である。誠実である。

 だがきっと過去は礎となれば、大地ほどの足場となるだろう。

 踏んでいるようで踏んではいない。

 足元からあなたを支え、戯れ、見守っている。

 たとえ荒野となろうとも。

 水を流して、種を撒こう。



2009:【2024/08/25(17:46)*ぽえーん】

 現代は電波越しに地球上のどことでも繋がれる社会だ。

 どれほど遠い地であれど、助けを求める者の声を聴くことができる。悲惨な状況を目にすることができる。

 ひるがえって、遠隔で人を殺傷することもでき、「距離の長短」と「因果関係の濃淡」が必ずしも比例しない。

 目のまえで他者が死にいく映像をリアルタイムで目にしながら、見殺しにしてしまう事態が頻発し得る。

 助けを求めている相手を助けられなかった、との無念さを誰もが抱き得る時代だ。

 精神攻撃として万人に対する心理的テロ行為――無力感の媒介――を可能とする。

 あなたを助けることができなかった。

 見殺しにした。

 わたしは助けられなかった。

 あなたはそう助けられなかった。

 ぬくぬくと温かく快適な環境で、それでもあなた方は生きていくのでしょうね。いまなお助けを求め、死にいく者たちを見殺しにしながら――。

 かような罪悪感を植え付ける。

 だが、それも時間と共に日常と化すだろう。

 罪悪感を覚える者は苦しむが、大多数はむしろ見殺しにしているとの自覚さえ持たない。そうしてけっきょくは、いざ危機が目のまえに到来するまでは対策を打つこともなく、他の窮状と自身の生活のあいだの繋がりを痛感することもない。

 みな見える範囲、触れられる範囲をじぶんの世界と思い込んでいる。その思い込みを前提にしても困らぬ仮初の孤立系として生きている。

 金魚鉢のメダカのように。

 ある一面では利口な生き方だ。

 地球も宇宙の一部だからといって何万光年先の惑星に暮らす人類に似た生命体の存亡の危機に思いを巡らせ、心を痛めて過ごすのは、いささか地に足がついているとは言い難い。

 まずは目のまえの、手で触れて、感じられる「狭い五感の範囲」を現実と見立て、じぶんの世界を区切ってしまうのは、非力な人類にとっては最適化された思考法なのだろう。生存に適した認知の仕方だ。

 だが、人類は未来を想定し、予期した最悪の展開を回避する術を磨いたがゆえにここまで進歩し、繁栄したのではないか。「狭い五感の範囲」のみが世界のすべてではないと知り、環境と広く相関し得ることを学んできたのではないのか。

 他人事ではないことまで他人事と見做す認知は、現実そのものを歪めている。

 加担せずにいることと無関心は別物だ。

 罪悪感と責任感も似て非なるものであろう。

 地球に巨大隕石が衝突するのは自分事として捉えられるのに、同じだけのエネルギィが霧散して地表を覆っても、自分事とは見做せない。

 短期間の環境変容がもたらすエネルギィの推移を比較してみればよい。

 大地震発生時に生じるエネルギィとて、核兵器が発生させるエネルギィよりも大きいのだ。

 単純に比較できることではないにせよ、核兵器使用に危機感を募らせるのなら、ほかのことにも危機感を覚える真似はそうむつかしくはないだろう。自分事として、被害が無関係ではないと判るだろう。

 被害が無関係ではないのだ。

 影響はよくもわるくも回り回って巡るものだ。波及する。

 過去の被害に対処できたならば、類似の被害にも対処できる。

 前例があれば同じ対処を再現でき、あべこべに前例があるがゆえに同じ悲劇が繰り返されることも取り立てて珍しくはないだろう。

 情報が波及するように影響もまた波及する。

 情報が拡散するように影響もまた拡散する。

 過去が未来を築くのならば、何をどのように解釈し選択したかの積み重ねが未来をその都度に変質させているのかも分からない。

 きょうの出来事はいったいどんな過去の選択の積み重ねの果てに起きたのか。

 人類の営みと強く相関せずに引き起きる事象も少なくないにせよ、過去の選択の一つが変わっただけでも防げた被害があったのかもしれない。或いは、防げている被害が。

 あなたはいまを生きている。

 無数の先祖がいたからであり、あなたの先祖の誰か一人が欠けただけで、あなたはいまそこにいない。

 あなたは数奇な偶然の巡り合わせの末にそこにおり、有り触れているようで奇跡的な存在なのだ。とはいえそれは、あなたの足元を這いまわる虫一匹にしたところで言える道理であり、虫に限らず、草も、石も、みな果てしない偶然の積み重ねの果てにそこにある。

 あなたが死ぬことで生じる偶然の結晶もまたあるだろうし、あなたが他を損なうことで生じる偶然の結晶もまたあるのだろう。

 こうして視点が自己を離れ、人類を離れ、自然に同化しはじめると、もはや思考の意味合いは薄れいく。

 存在していたいのか。

 存在していてほしいのか。

 守りたいのか。

 残したいのか。

 じぶんは傷ついても構わないが、わたしの大事なモノを損なったらタダじゃおかない――。

 みな似たような考えを共有していながらにして、避けたい未来を互いに手繰り寄せ合っている。

 大事なモノが個々によって違っており、他の大事なモノを損なっている自覚が希薄だからだ。

 罪悪感が希薄だからだ。

 痛くもかゆくもないからだ。

 いまは、まだ。

 大事なモノを損なわれ、或いは奪われたときに、じぶんもそうして他の大事なモノを損ない、奪っていたのだと気づける者は極稀だ。ほとんどいないと言っていい。

 そうして、タダじゃおかない、の連鎖が津波のように地表を覆う。

 みな一様に損なわれ、損ない、傷ついている。

 いましがた外では夕立が通り過ぎていった。

 わたしがこの世に生まれてきておらずとも、きっときょうこのときに夕立はこの地を雨で潤した。わたしが過去に何をしなくとも、きっときょうこのとき陽は暮れる。

 わたしの影響は軽微だ。

 だが、無ではない。

 ほとんどあってないような塵であれ、積もり積もって星となる。

 中身のないがらんどうのごとき「染み」の並びであったとしても、積もり積もって「文」となる。

 積もり重なり君となる。

 君を想って横になる。



2010:【2024/08/25(23:40)*おまじない】

 きみの隣にいられない現実を、ぼくは、歌や空の消えた世界のように鋭利に、ときにつらく感じています。きみがこんなにつらい思いをしないでいるとよいなと思い、ぼくはきみと出会った過去を消して、ぼくだけがきみを忘れないでいる日々に変えました。

 いっそきみに嫌われるくらいに現実を改変する道も考えましたが、それだときみに嫌悪の念を植えつけるようで、呪いを課すのと変わらないと気づいて考え直しました。

 きみに憎悪や嫌悪は似合わない。

 きみには、花とかペンとかそよ風に膨らむカーテンや木漏れ日が似合います。

 きみがつらくない世界でないのなら、この世界に身を置いているだけでぼくはつらいので、それはぼくがただつらいだけよりもずっと光すら届かないほどにつらいので、きみがつらくない世界でないとぼくは世界を許せそうにもありません。

 世界が世界であることを許せません。

 きみがつらくない世界でないのなら。

 いっそそんな世界などは。

 ぼくはぼくが全知全能でなく、非力であることを喜ばしく思います。

 ぼくにできるのはただ、きみの隣にいられない現実を噛みしめるたびに身体の奥底に吹き荒むがらんどうをきみにも感じさせてしまわないようにと、きみと出会った過去を消し去ってしまうことだけなのです。

 草木のさざめきや虫の音の消えた世界に身を置くような、延々と、もう二度と、脳裏に染みわたらせることすら、永遠に。




※一様に、キミは世界に浮かぶ一輪の波紋です、花冠のように、木目のように、世界に浮かぶ一輪の波紋です。



2011:【2024/08/26(00:06)*ぢっと手を見る】

 出船によい風は入船に悪い、なる諺がある。どちらにもよいことや、両方に都合のよいことはない、といった意味内容だ。

 正負や善悪のような二項対立の関係性があれば、たしかに双方に同じだけの利を与えるのはむつかしそうだ。されど不可能ではないようにも思う。

 なにせ関係性は一つきりではないのだから。

 敵の敵は味方、というくらいだ。みなにとっての唯一の敵が寝返れば、みな安らぐ。或いは、みなが寝返るか。夜泣きは雷鳴のごとき赤子も、寝顔はさながら天使である。寝返り一つで親の心根をほぐし、瓢箪から駒が出たらみな驚く。

 かように。

 一様な利は、あるところにはあるのではないか。

 どんな局面での利であるかに依るにせよ。誰と誰にとっての利であるかに依るにせよ。

 手飯で力持ち、ともいう。

 なんの得もないが他のために尽力する。だが回り回ってそれが自らの利にもなることは、けしてゼロではないだろう。情けは人の為ならず、である。

 他方、寺の隣に鬼が棲む、とも申しますれば、出る杭は打たれるし、手をだせば火傷を負うこともある。

 情け深いがゆえに、非情な者もまた受け入れ、周囲を非情な環境にしてしまうこともあるだろう。反面、天から横に降る雨はない、ともいうくらいだ。人は誰しも善人である。他からすれば悪人に映る局面があるばかりであり、世にじぶん一人きりしかいないのであれば、総じて人は善人でいられる。

 他と関係することで人は悪人になる余地を帯びるのだ。

 電光朝露。

 人の命はみな儚い。人と人との合間に宿るのが人間だ。

 善人でもあり、悪人でもある。

 無垢であり、無残でもある。

 天知る、地知る、我知る、人を知る。

 天に眼とは言うなれど、天道是か非か分からぬことも取り立てて珍しくはない。

 天無知、地無知、我も無知――人はみな無知なのだ。

 天水桶(てんすいおけ)のぼうふら、なのである。

 ぼうふらも育てば蚊となろう。

 人にはない翅を振って、空を泳ぐ。

 虫の報せというほどだ。

 虫の文もあるのだろう。

 一匹の蚊にも誤字の嵐だ。

 手ですることを足でするがごときここに並ぶは駄文であるが、蝸牛(ででむし)が日和を知るような日頃の手記よりかはマシと言えるのかも分からない。見識が狭いのに知ったような口で、巨人の進路をとやかく論ずる。

 まずは巨人の肩に並べ、もしくは肩に乗れ、と己が至らぬ点でありながら、苦言の一つでも挟みたい。

 手書きあれども文書きなしである。

 泥中の蓮を心掛けたい。

 と、並べつつ、心に掛けて満足するだけの自堕落の権化であった。

 定かではない。



2012:【2024/08/26(01:35)*糸を通す】

 辞書を片手に、うんうん唸りながら、この諺の意味ってなにー!?とか思いながら、きょうは「た行」の「て」の項からの諺をいくつか選んで結んで、数珠つなぎにしてみたよ。

 言の葉である。

 紐で通して輪っかにする。

 頭と尾を繋げて首飾りだ。

 ビーズ遊びである。



2013:【2024/08/26(02:47)*無地の火】

 他者が心底に困っているときに助けないだけのことで、邪魔な者を排除できるのだ。一部の者のみ助けない。ほかは助ける。

 困ったときに他を助けることのできる能力は、不可視の悪行を可能とする。

 他を助ける能力は兵器よりも勝る。

 淘汰圧である。

 できることをしないだけだ。犯罪ではない。

 この手の不可視の「選別」は、世に少なくないだろう。意図せずとも自然発生する。一律に同じようにはできない。優先順位は絶えずつきまとう。極端な例が医療におけるトリアージである。救える者を選び、救えない者はたとえ生きていても後回しにする。

 選別を開示しているならばまだよいほうだ。

 開示もせずに、敢えて看過する。見殺しにする。

 弱り果てるのをただ見届ける。

 すみません気づきませんでした、えへっ――で済まされてしまうところが、能力のある者の特権だ。

 無慈悲なのである。



2014:【2024/08/26(16:27)*手首を縛って壊死するのは手先】

 経済制裁を他国に科すと、科された側の市民が困窮する。経済制裁を科された側の権力者たちは変わらぬ生活を送るだろう。自国の市民から税のごとく資源を集めればよいからだ。

 ただし経済制裁がつづけば困窮した市民の、自国の権力者への視線には憎悪が混じりはじめる。国内の治安は悪化し、内乱や内紛を誘発する確率を上げる。

 それを見込んでの経済制裁なのだろう。戦術なのだ。

 因果関係と見做されぬ強い相関を引き起こす。

 こうすればこうなるので、まずはこうしておこう、である。

 直接に火は灯さずにいるが、ここに火種となる金魚鉢を置き、薪を置く。雨が降って金魚鉢に水が溜まり、雨が上がって陽が照れば、日光によって金魚鉢は虫メガネよろしく光を集めるレンズとなる。

 雨で湿った薪も、晴れの日にはすぐに乾く。

 そうして時間差で火事の起こりやすい状況が自発的に熟成される。

 さてこのとき。

 この仕掛けで火事が起こったとして、仕掛けを施した人物を放火犯として検挙できるだろうか。法律で裁けるだろうか。

 無断で敷地に入り込み、不法投棄した罪でならば裁けるかもしれない。が、放火としての立件はむつかしいのではないか。

 似たような「因果関係とまではいかないが強い相関関係」を利用した手法は、工夫を割けばいかようにも悪用できるだろう。

 こうなればこうなるので、まずはこうしておこう、である。

 君子危うきに近づかず。

 されど何が危ういかを見分ける慧眼なくして、近づかぬ真似はむつかしい。

 正当防衛を行ったと主張しても、そもそもの加害が違法でなければ、正当防衛は成立しない。先に手をだした「加害者」としてあべこべに裁かれることとなる。

 先に手をだしたのはあなたですよね、と相手のほうが被害者の立場を誇れる。

 こうなればこうなるので、まずはこうしておこう、である。

 工夫次第では、加害者なのに被害者の立場に徹して、正当防衛の名目で、こんどは正々堂々と加害行為を働ける。法律の抜け穴――脆弱性ともいえよう。

 むろんこれは陰謀論である。

 陰謀のほんの一例といえよう。

 実際に戦術として駆使して、他勢力を貶めている者があるのかは不明だ。

 偶然に似た構図になることも取り立てて珍しくはないだろう。

 何にせよ、たとえ正当防衛だとしても、武力行使に頼らぬ工夫が、けっきょくのところは自己を助けると言えるのかも分からない。

 芸は身を助く、という。

 趣味に打ち込むのも一つかもしれない。

 妄言だ。

 定かではない。



2015:【2024/08/26(19:38)*うーん、の巻】

 宇宙では、観測地点から遠い地点の光景ほど時間の流れが遅れて映るそうだ。

 いわゆる相対性理論の時間の遅れとは違って、こちらは赤方偏移による波長の変化が、群速度の変化に変換されることで起こる「見掛け上の時間の遅れ」と解釈してよいのだろうか。

 つまり、水中における光速の遅れと似たような原理で生じている、と解釈してよいのかがよく分からない。

 もし同じ原理なら、水中における光の進む距離の長短に相関して、遠方の宇宙の光景における「見掛け上の時間の遅れ」のような「相対的にスローモーションに映るような事象」が観測されるのだろうか。

 気になっている点である。

 よく分からぬ。

 まーじでよく分からぬ。

 あんぽんたんで、すまぬ、すまぬ。



2016:【2024/08/26(23:12)*自我パターン!】

 ふだんのわたくしの真似をします。

「んで、トウモロコシ剥いたら虫がこんにちわつって、うぎゃー!つって、マジでマジで。うぎゃー!つって、言いながら茹でたら美味しかった。ねー。いいよねー。へー、すごい。いいじゃん。ナーイス」

 或いは、

「あ、すみません。ありあとござマス」

 もしくは、

「そうなんですね。へー。いいですね。さすがです」

 多くは、

「お疲れさまです」

 である。

 稀に、

「ぼくの言うことの押しなべては断言できない妄言にちかいのですが、しかし以前の専門家たちが否定した事象においてぼくの見解のほうが現在では妥当と見做せる場合も少なくないのもまた否定しきれないのですが、それを説明するには時間が掛かります。聞きますか?」

 とのパターンもなきにしもあらずであり、

 多くは、

「あ、あ、あのー、う、うまく言えないんですけど、なんかこう、ヤバいんで、ひとまずこれを確認してくれるとありがたいのですが。あ、いえ、その、こ、これまでの記録なんですけど、や、分かるんです。あなたにそんな時間がないのは理解しているんですけど、ほ、本当にこう、いえ、その態度は正解です。完全に何言ってんだコイツってなるのは分かるんですけど、あの、その、でも、なんというか、ホント上手く言えないですけど、ヤバいんです」

 になります。

「う、う、う、わかりましたぼくが病気かもしれないので、しばらく様子見します。はい、ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」

 も稀にあります。

 じぶん物真似でした。

 うぇーい!



2017:【2024/08/26(23:43)*荒れ地も住めば都?】

 サッカーとバスケットとラグビーの共通項は、ボールを使う競技である以外にも、スペースを活かす競技であることが挙げられよう。チームで行う競技との共通項もある。

 その点、卓球やテニスは個人競技であっても、やはりスペースを活かす競技と言えそうだ。

 空隙を制した者が競技を制する。

 全然関係ないのだけれど、きょうは遊び場が工事中でいつもよりも狭かった。

 なのに、みなわざわざ狭くなったいつものところでぎゅうぎゅう詰めになりながら遊んでおり、わがはいだけいつものスペースで悠々と遊んでしまった。

 いつも思うのだけれど、なぜ空いているところでしないのだ?

 わがはいだけ一番贅沢に場所を取っているみたいになってしまっているけれども、よいのか?

 でもわがはいが使わずともスペースは空いている。

 なら誰かが使ったほうが、相対的に空間密度は下がるだろう。

 ひょっとして、わがはいがいつもそこを使っているから、みな気を使って空けているのか?

 しゃべりもしないわがはいのために?

 あり得るか?

 公共の場なのだから、みな各々に好きに使えばよくないですか。

「そこは我が縄張りである!」みたいにわがはいが怒るとでも思うのだろうか。きょう足を運ぶとも決まっていないのに。誰の知るところでもないというのに。まあ、でも、実際に遊び場に出向いて、使う場所がないほどに混雑してたら、「ちぇっ」とか思うけれども。

 単に、人気のない、使い勝手のわるい場所が空いているだけかもしれないけれども、さすがにきょうは、「みなぎゅうぎゅう詰めなのに、わがはいだけいいの!?」になった。

 いっつもは、「みなの輪に入れぬわたくし……」なのだけれど、みなの輪のほうが狭苦しくなると、わがはいの立地の良さが際立ってしまう。

 相対的なのだ。

 陣取ってしまって、すまぬ、すまぬ。

 申し訳ね、の日記なのであった。



2018:【2024/08/27(01:20)*武力行使は自衛になっておるのか?】

 みな自衛権を行使しているのだ。建前上は。

 はぁあ、やんなっちゃうな、の日々だ。

 はぁあ、やんなっちゃうな、である。



2019:【2024/08/27(16:24)*😱】

 洪水におけるダムの決壊は深刻だ。

 ダム内部の水が溢れることで洪水の被害を拡大し、なおかつ水が引いたあとでも、ダム消失による水不足が深刻化する可能性が高い。

 ダムは建設するのに短くとも十年以上を要する。ときに五十年以上掛けて建設されることも取り立てて珍しくないだろう。ダムの規模にも依るが、洪水とダム決壊の複合型災害は、被害の期間を長引かせる。意図的に引き起こされたとすれば、なお悪質だ。

 復興支援は急務である。

 難民の増加、疫病の流行、土壌汚染による第一次産業の崩壊、治安崩壊、内乱や内紛の多発、生活水準の低下による国際間の格差拡大……などなど二次被害の例を挙げ連ねれば深刻さが伝わるだろうか。

 世界規模で多発する自然災害の復興速度は鈍化し、国際協調そのものが総崩れになる懸念もある。

 洪水の被害は今年にはじまったことではなく、毎年のように甚大な被害が世界各国で報告されている。だからといって軽視できることではなく、毎年のように引き起きている洪水の被害が一向に減る兆しを見せないのは、対策や復興の在り方そのものに瑕疵があるからではないのだろうか。

 貧しい者はより被害に遭いやすく、進歩が停滞し、ますます環境が劣悪になる。

 対策を満足に敷けない、という万国共通の問題点が、被害を拡大し得る。

 標準医療があるように、標準災害復興支援もあって然るべきではなかろうか。

 そうでなければ、今後、被害が国際的に、連鎖反応を引き起こし兼ねない。

 むろん、閉じた系として国と国を厳密に区切り、あなた方の国の被害はあなた方で解決してください、と判断するのならば、被害の連鎖反応の煽りを受けにくくはなるだろう――短期的には。

 だがそういった自己責任論は、いざ自国で甚大な被害がもたらされた際に、まさに諸刃の剣となる。

 いっさい他国との交流を阻んで現在の生活水準を保てる国がどれほどあるだろう。

 経済は、物と物、サービスとサービスのあいだに付加価値が上乗せされるからこそ発展する。まさに支援し合っているのだ。

 ことさらに明文化されることはないが、現代人はすでに知らず知らずのうちに、国際的な協調関係の中にある。共生しており、協調している。

 暗黙のバランスの上に。

 横から息を吹きかけられた程度の干渉で容易くグラついてもらっては困るはずだ。

 まずは自覚するところからなのではないか。

 いつものつまらぬ結論だ。

 我々は、関係し合っているのだ。

 たとえどれほど遠く距離が隔たっているように思えても。

 同じ星の上に息衝いている。

 連綿と。

 そうしてきたのではなかろうか。

 などと綺麗ごとを並べつつ、呑気にスーパーから買ってきたアイスをいまから食べます。

 罪悪感を覚えつつ、それでも空調の効いた涼しい部屋で、上着を羽織りながらアイスを食べてしまうわがはいを、誰が叱ることもない。

 場所が場所ならば重罪であろう。

 すくなくとも、袋叩きに遭うだろう。

 呑気なのである。

 申し訳ございません。



2020:【2024/08/27(18:21)*きみは幸にあう】

「袋叩きに遭う」と打ったつもりが、「袋叩き似合う」になっていた。

 似合いとうない……。




※一様に、わーい(自棄)、の気持ち。



2021:【2024/08/27(23:14)*みな変化しとる】

 きょうだい、いとこ、が総勢で13人おるのだけれど、その中で結婚したことないのわしだけになりつつあり、子がいないのもわしだけになりつつある。

 特別感あってよいな。

 お祝儀一つあげられぬけれど、子はみなめんこい。

 写真で見るだけで満足だ。

 抱っこすると割かしずっしりする。

 健やかにお育ち!

 何もしてあげられぬけれども。

 みなもっと、しあわせに、おなり!

 写真は見してくれ。



2022:【2024/08/27(23:36)*わしだけ、とみな似たことを思っている】

 そんなこと言いはじめたら、友達いないのわしだけになりつつあり、生き残るのもわしだけになりつつあり、流行を知らぬのも時代についていけていないのもわしだけになりつつあり、わしだけがわしになりつつあり、わしはわしなのじゃ。

 わしはみなではない。

 写真は見してくれ。

 見ると楽しい。

 他の人生を覗き込むのは悪趣味だが、楽しい。

 お主の目から見た世界の断片に触れるのは、楽しい。

 いまは皆目、触れることができておらぬのじゃが。

 懐かしい日々こそ輝かしく、過去にばかり光あり。

 背後から照らす光が、影を伸ばして、道のお先は真っ暗だ。

 目を凝らすと、星々が輝き、やはり楽しい。



2023:【2024/08/27(23:45)*みな分け与えてえらい、の巻】

 でも、じぶんに子供が出来たら、豆乳をじぶんだけで「ごくごくぷはー」できないのでしょー? 飲み干しちゃわないで、分け与えなきゃいけないのでしょー?

 アイスもじぶん一人で食べちゃったら、親としていかがなものか、になっちゃうわけでしょー?

 もうさー。

「これ全部、ぼーくの!」は許されないのでしょー?

 やなこった、の気持ちだ。



2024:【2024/08/28(00:25)*うぷぷ】

 子供がいなくとも、「これ全部、ぼーくの!」は許されなくないか……。

 きみのお家では、それが許される環境だったのかな?

 一人暮らしなのかな?

 よかったね。

 たーんと、おあがり。

 美味しく召し上がれ。



2025:【2024/08/28(01:24)*結婚とは】

 結婚について考える機会があるので、考えるのだが。

 まず、結婚と結婚式は別だ。

 もし結婚式を開くのが常識でない社会になったとして、結婚したい、と思う者はどれだけいるだろう。みな、結婚式がしたいのであって、結婚をしたいわけではないのではないか。

 そういうわけでもないのだろうか。

 個人的な憶測にすぎないが、結婚式は政略結婚の名残だろう。それ以外に、両者の親族や縁者を集めて交流の場を設ける合理的な理由を見繕えない。実際、近代になるにつれて結婚式を開かない者が増えているのではないか。葬式と似ている。

 また、結婚は「せざるを得ない」からするものであり、「さしてする必要に迫られない」のならば、結婚をせずに同居するなり、縁をつむぐなり、しつづける者は少なくないのではないか。

 結婚しなければ享受できない利益があり、ゆえに結婚する。

 たとえば、子が出来た。

 結婚届を出しておいたほうが、何かと享受可能な利が社会的に用意されている。しかし、子に関する支援は、通常、親の結婚の有無に関わらず平等にかつ公平に注がれるほうが、合理的ではないか。なにせ、子への支援なのだから。

 むしろ、結婚していない親への支援のほうが手厚いくらいが公平という観点では、妥当なのではないか。

 何せ、社会的な利益を享受しておらぬのが、結婚していない者たちなのだから。

 たとえば片親。

 たとえば連れ子。

 たとえば同性同士の養子。

 などなど。

 結婚していると受けられる利があるのはよいにせよ、結婚していないと不利益を被る、はちとおかしい。

 結婚している者ほど社会的な利を受けられ、そうでない個人は社会的不利益を被る。このような悪循環が、淘汰圧として社会に構築されていないか、は一つ、データとして調査してみてほしい点である。

 とはいえ、通常は、他人と共同生活を送るほうが何かと負担が掛かるだろう。

 そこは支援があって然るべきと思うが、それは別に結婚しているかしていないか、に関わらないように思う、どの道、わがはいは独りでーす、であった。

 むつけているようにもし読めるのなら、あなたは読解力がありますね。

 わがはい、むつけております。

 わがはいも一億回くらい結婚してみたい。

 で、一億回くらい離婚してみたい。

 で、残りの七十九億回くらいは独身で遊び惚けていたい。

 みな、わがはいの代わりに人生を楽しみ、わがはいにもその断片を味わわせてくれ。



2026:【2024/08/28(01:35)*結婚したい……のか】

「結婚したい」と「恋人欲しい」は似ている。

 結果として結婚することになるだけであり、結果として恋人ができるだけではないのだろうか。

 欲しくなる以前に、好きな相手がいなくてはならないはずだ。

 もちろん、「あなたと結婚したい」や「あなたと恋人になりたい」は成り立つ。

 要は、「あなた」がいるのかどうか、である。

 みな、「じぶんだけのあなた」を探しているのだろうか。

 いないなら無理に探す必要なくないか?とか思っちゃうところが、わがはいの至らぬところなのかもしれぬ。

 わがはい、たいがいの相手を好きだからなぁ。

 でも、結婚したいとか恋人になりたいとか、そういうのと違うからなぁ。

 だって選べないでしょ。

 相手を縛りたくないでしょ。

 しかも面倒でしょ。

 どう考えても。

 結婚するのも、恋人になるのも、面倒でしょ。

 手続きあるものが苦手だ。

 段取りが苦手だ。

 結果が分かっているのなら、結果だけくれ、と思ってしまう。過程がいらぬ。

 でも、社会の大部分は「過程」こそを大事にする。

 わかるんだけれども、「過程……はしょりたい……」になることが多すぎる。

 みな、忍耐強いのだ。面倒くさいを乗り越えて、楽しい、に変える天才が多すぎる。

 わがはいは凡人以下なので、面倒くさいことは面倒くさいままだ。

 あなたが何かに夢中になっていたり、熱中していたり、だらけていたり、遊んでいたりする姿を眺めているのは好きなのだけれど、あなたと何かを一緒にしたいとはとくにこれといって思わぬのだ。

 あなたの話をそばで聞きたい、あなたの声を聴いていたい、とは思うけれど、あなたとおしゃべりしたい、とはさして思わぬ。

 他方、この人すごく好きー、となったら、わがはいだけ見てて!なる感情もにょきにょき蔓延ってきおって、これがまた面倒なのだ。

 だってわがはいだけを見てるなんてことできるひとはいない。

 そんなのは、わがはいの頭上にある天井さんくらいなものである。

 ああでも。

 PCの画面さんは割かし、わがはいだけ見とるな。

 相思相愛なのかしら。

 結婚とは……、と考えると、なんだか「それいるぅ?」になるので、もう考えたくない。なんだこの制度。

 そのうち「親友制度」なるものも出てくるのではないか。

 親友認定書が発行されます、みたいなの。

 登録すると、交流費が支援されます、みたいな。

 ありそー。

 SNSのフォロワーもそのうち、階級制になりそうだ。仲の良い人にだけより多くの情報を表示可能にする、みたいな。もうすでになっているのかな。

 みな、優先順位をつけて選別したいのだ。

 整理整頓のなせる業である。

 選別好きなのだ。

 みな。

 わがはいは苦手であるけれど。

 うけけ。



2027:【2024/08/28(01:51)*清々しいおソラさん】

 月に数回だけ青空さんを目にできるような日々であり、月に数回を待ち遠しく思っているけれど、毎日でも青空さんを望めたら、まさに本を読むように刺激的で、それこそさながら本望だ。

 きょうは書店さんで「母娘短編集」なる文庫本を新刊コーナーで見つけて衝動買いしちゃったけれど、文庫本だから安いかなって思ったら単行本並みのお値段した。千八百円じゃった。

 よく見たら初めて買った出版社さんの本かもしれぬ。

 平凡社なる出版社さんだった。

 わがはいみたいな名前の出版社さんである。

 平凡はよいよ。

 と、平凡以下が申しております。

 青空さんを拝める日は、まさに青天の霹靂である。滅多にない。瓢箪から駒、雁捕る罠に鶴である。

 僥倖である。

 棚からぼた餅ならぬ、青空からラフ絵である。

 最の高!である。



2028:【2024/08/28(09:16)*きみは愛らしい】

 チューリップはペルシャ語で「美女/美少年」の形容として使われるらしい。

 きみにぴったりの花だ。

 きみの容姿が万人からして「美」に映るかどうかは知らぬけれど、きみの性質はまさに「美」と思います。

 太陽や月の実像が人類にとって「美」に映るかどうかは微妙なところだけれど、太陽や月の性質はまさに「美」と思うことと似ています。

 太陽は間近で見たらこの世のものとは思えぬほどの恐怖そのものであろうし、月は月で、月面に降り立てば案外に味気ない砂利と岩の世界だ。むしろ、月から眺める地球の美しさに気づくかもしれない。

 でもきみの「美」は直接に触れてもきっと美しいままで、されどそれゆえに眺めているだけのほうが美を保てるのかも分からない。

 なぜならわたくしの手は汚れており、ばっちぃので。

 触れたら淀むあなたを見ていたくはないのだから、あなたはチューリップのように風に弾み、地面に陽気な影を浮かべるのです。

 淀んでもいいから触れてほしい、と夢見るチューリップさんは、それはそれで愛らしいのですけれど、きみはそのままでもびっくりするほど愛らしいのです。



2029:【2024/08/28(09:36)*ぼくは悪らしい】

 ぼくは愚魔、愚魔、愚魔、愚魔~。



2030:【2024/08/28(09:44)*誰がトップでも困らない社会】

 たいがいの仕事は「こんな仕事、いますぐ辞めてやる!」と思うようなことを対価をもらってするのだ。なぜ政治家だけは「岩に齧りついてでもつづけてやる!」になるのだろう。

 プロスポーツ選手や商業作家もこの傾向がある気がする。

 芸能関係の仕事もそうだろうか。

 ゴミ回収業者やコンビニの従業員は、「岩に齧りついてでもつづけてやる!」と思う人は稀なのではないか。印象論ゆえ、これは偏見の吐露である。

 差別の一種だ。

 けれど、将来の夢、といったときに「ぼく、わたしは、将来ゴミを回収する業者さんになりたいです!」という者が稀なのはなぜなのか。

 社会になくてはならない存在である。おおよそ人工知能技術が発展しても淘汰されぬ業種の筆頭であろう。

 自動でトラックが周回して、ロボットアームでゴミを回収するくらいに技術が発展するのならまだ分からぬけれど、当分はそこまでの技術的発展は見込めない。システム化するにはコストが掛かる。

 或いは、穴のような場所にゴミを投じて、それを穴の内部のゴミ箱ごと回収する類のシステムならば、自動での回収も十年以内には社会システムとして実用化可能となるのかも分からない。

 それとて、そうした自動で街を巡回してゴミを回収してくる「完全自動ゴミ回収車」を整備したり、洗ったりするのは人力のはずだ。けっきょくのところ、人手が減るだけで、人の手は要る。

 さて、政治家はどうだろう。

 政治家の仕事は今後、国民の代表として「あるべき人道」を体現することに偏りそうな気もする。人の手本となることが政治家の仕事になる日もそう遠くないのではないか。

 現在の天皇のような「ある種の象徴」であって、政治家の仕事の大部分はおおよそ人工知能で代替可能となるのかも分からない。

 ただし、人らしくあることは人にしかできぬ、といった意見が支持されやすい環境は今後、しばらくは熟成の一途を辿るだろう。

 したがって、現代社会の市民のお手本――象徴――としての、アイドルや商業作家と並ぶ職業「政治家」――は、徐々に役割として増えていくようにも印象としては思うのだ。

 情を理解し、海外の政治家と禍根を深めぬ交流を図る。友好関係の構築に努める。

 互いの利を尊重し、より広域に問題点の共有を適え、共に解決に臨む。

 実際には、官僚や専門家や人工知能などによるデータ解析の結果を鑑みて、逐次、どれを選んでも大筋では結果の変わらぬ複数案から、実行する政策を選ぶだけとなっていくのかも分からない。赤子でもできる仕事だ。目をつむって選んでも大過ない。

 だが、民主主義の行き着く先は、そういった「誰がトップでも問題ないシステム」であるはずだ。

 政治家もアイドルと変わらない社会になっていくのだろうか。

 現状、すでになっている、とも解釈できる情勢かも分からない。

 人気投票なのである。

 よくもわるくも、人気投票なのだ。

 良い点を見繕うのが、ちと、むつかしいのが玉に瑕ではあるけれど。

 よいではないか。

 誰がトップでも。

 それで問題の生じるシステムが放置されている現状をまずは憂いたい。

 民主主義は未だ熟せず。

 社会は未だ幼子と思えば、すこしは手を貸したくなるのではないだろうか。

 みなで育めばよろしかろう。

 妄言だ。

 定かではない。




※一様に、自家撞着の迷宮から抜け出せぬ、人とはかように迷う者かな。



2031:【2024/08/28(10:13)*辛辣でごめんなさい】

 企業献金を受けつけない、と云いつつ、支援者からのカンパは募るの、何かおかしい気がする。

 パーティ券を非難して、パーティを開いてもいないのに集金可能な術が許容されるのは、どんな道理なのだろう。

 そしてその集めたカンパはいったい何に使われているのだろう。チラシ作りに使われています、なんてしょうもない使い方がされていないとよいな、と思う。

 資源の無駄ではないか。

 環境問題への問題意識はどうしたのですか?とも疑問に思う。

 以前からの繰り返しになるが、お金はお金の使い道が大事だ。

 お金の多寡が問題なのではないと思うのだけれど、これはいささか極論であろうか。

 タダでお金を集めることを許容してよいのですか?と割と思う。

 せめて災害支援としての募金くらいの建前は用意してほしいと思うのだが、いかがだろう。

 久々に、真っ向からのイチャモンであった。

 寒波!

(そのギャグは、さむ~)



2032:【2024/08/28(11:16)*余力はあるのかな?】

 結果として軍隊が強くなる、くらいでないと、おおよそ国家は弱体化していくだろう。

 かつて栄えた国であっても、軍事に費やす労力のバランスを欠いて滅んだ例は思うよりも少なくないのではないか。ひょっとしたら疫病を含めた自然災害以外での滅亡主要因かもしれない。

 ほかの分野が豊かでなければ、軍事はただの負担だ。

 兵糧一つ、考えてみるだけでも分かるだろう。

 現代は過去の文明よりも複雑だ。

 資源から電力から情報まで、過去には必要のなかった分野の豊かさが、社会を根底から支えている。どれか一つ欠けるだけでも上手く機能しない。

 軍事に費やせるだけの余裕がそもそもないのにも拘わらず、軍事に余力を費やせば、僅かな狂い――想定外――が起きただけでも全体が総崩れになる可能性は相応に高まる。

 また根本的な問題点として、軍事が栄えても、構成員が肥えるわけではない。一部の汚職に走る者が利を独占し、それ以外の大多数の構成員は、人件費削減の名目で、扱き使われる羽目となる。

 余裕がないのに余力を費やすからである。

 ひるがえって、軍の構成員の総じてに潤沢な生活環境を提供できるのならば、軍に限らず、市民全般にも等しく潤沢な生活環境を提供できよう。

 軍に限定する意味合いは薄い。

 手段と目的が反転しているのが現代なのかもしれない。

 或いは、定期的に繰り返す人類の宿痾かも分からない。

 なぜ過去の大国は滅んだのか。

 軍事力が低かったからだろうか。とてもそうは思えないが、歴史に詳しくないので、これは妄想である。

 専門家諸氏の解説を聞いてみたいものである。

 読む、でもよい。

 否、読むほうが楽だろう。

 読んでみたいものである。

(読む、とは言っていない)



2033:【2024/08/28(11:32)*優先課題のはずなのに】

 被災地の復興が進まない場合、なぜ進まないのか、の理由をまずは調べてみる必要がある。

 土台から再構築しなければならないので、土壌の検査からはじめなければならないのであれば、これは復興までの時間が掛かる。

 次点で、たとえ復興そのものに時間が掛かろうとも、被災地の市民への支援は別途に行える。なぜそこのところの支援が不足しているのか、は、上記の復興の遅延とは別の問題が関わっていそうだ。

 政策として後回しにされているとするのなら、政府機関に余力がなくなっていることの兆候とも取れる。国としての運営に支障が生じているとみてまず間違いない。

 もしそうではなく、単に被害が軽視され、対処が蔑ろにされているのならば、これは政府の怠慢である。指弾されても致し方ない。

 何にせよ、まずは「なぜ復興が進まないのか」を調べるところははじめなければならず、どの道、時間が掛かりそうだ。

 遅延は遅延を生む、の好例である。

 まったく好ましい話題ではないのだが。

 妄言だ。

 定かではない。



2034:【2024/08/28(15:52)*と、餓狼は述べたそうな】

 数学や物理がことこれほどまでに発展して、武力行使による被害一つ満足に防げないのだから、人類の進めてきた歩みは、さして「進歩」の形容に値しないといえよう。貧困一つ失くせないし、平等一つ成し遂げられない。

 いったい何を計算しているのやら。

 平和までの過程――アルゴリズム――は未だに編みだせないのだ。

 学者とは言ったものである。

 学ぶ者なのだ。

 学びは過ちなくして、成り立たない。

 ゆえに、過ちを繰り返す。

 学ぶために。

 人類の叡智は未だその程度なのである。

 世が対称性を基準にしていないことの証左なのではないか。にも拘らず、数学も物理も対称性を好み、基準としたがる。

 馬鹿にしとるのかね、きみ。



2035:【2024/08/28(16:25)*武力行使での現状変更はいいの?】

「自己言及の鏡」は、「相手の出方理論」や「しっぺ返し理論」とは別だ。

 相手にされたことを相手に返すのではなく、じぶんがされても許容できることを相手にする縛りを「じぶん」に対して課す思考法である(許容できないことはしない、とも言い換え可能だ)。

 許容できないならたとえ相手からされても、し返してはならない――との縛りを自らに課す。ゆえに、相手の手法を根本から指弾できる。瑕疵を指摘できる。

 採用しないだけの理由を、欠点として列挙できる。

 じぶんが相手と同じことをしてしまったら自己言及の鏡は機能しない。

 同じ穴の狢に陥らないための保険を徹底する思考法こそが、自己言及の鏡、ともいえる。

 思いだしてほしい。

 自己言及の鏡は、自己言及の檻だったはずだ。

 閉じ込めるのだ、己が獣を。

 獣を解き放ってしまったらそれまでだ。あなたが獣に対して行った「許容可能な手法」で以って、己が獣もまた処置される。

 自己言及の鏡を保てずに、手札をすっかり失ってしまった勢力陣営が数多観測できる時勢である。

 かような時勢よりも、自制を観測したいものである。

 とはいえ、口で言うほど簡単ではないようだ。

 我慢比べの勝敗はすでに出ている、ともいえる。

 さてこの間、最も我慢強かったのはどの勢力陣営だっただろうか。

 主語のあやふやな、妄言である。

 気を揉まれぬようにご注意ください。おそらく、あなたに向けての文字の羅列ではない。

 気にしなくって、いいよ!



2036:【2024/08/28(16:35)*IN暴論】

 武力行使による現状維持もだいぶ問題だと思いますけどね。

 秘匿技術による不可視の支配もまた問題だと思います。



2037:【2024/08/28(16:38)*前提の崩壊】

 むろん、じぶんが許容できるからといって、他者も許容できるとは限らない。したがって高次の視点では、「自己言及の鏡」は、「じぶんにとって嫌なことを回避可能とするために、相手の嫌がることをしないことを前提とする方向に思考の流れが収束する」と想像できる。

 具体例のみでは、自己言及の鏡は、「じぶんは嫌ではないのであなたが嫌がってもします」が成り立ち得るが、それは相手も同じだ。こちらが嫌だが相手は許容できる。この構図が罷り通り、加害の応酬に発展し兼ねない。

 ゆえに、相手の嫌がることはしない、が高次の「自己言及の鏡」として機能することとなる。

 ハッキリ言うが、もう遅い。

 同じ穴の狢です。



2038:【2024/08/28(17:30)*ちょっとは苦手かもしれないけれども】

 たとえばの話。

 必ず世界中の20%は、誰の意見であれ反対に回る――とする法則があったとしよう。

 誰のどんな言説であれ、20%は反対する。

 地球が丸い、ということすらも20%は受け付けない(実際のところ地球は真球ではないので、反論の余地はある)。

 どんなに正しい意見でも、20%は反対する。

 このように仮に前提して考えたときに、世界人口を80億人とすれば、16憶人は必ずあなたの意見に反対するのだ。

 16億人である。

 たとえそれ以外の64億人があなたの意見に賛成しても、16億人が反対する。

 このとき、64億人の支持をいかに盤石にするか、よりも、いかに16億人からの反発を強めないか、のほうが、リスク回避に寄与するのではないか。

 自陣のほうが優位に人数が多いからといって、あなたは、16億人と争いたいと考えるのだろうか。

 あなたがすこし態度を軟化させるだけで、16億人はあなたを敵視せず、ただあなたの意見に反対するだけに留まるかもしれない。

 だが、あなたが反対意見を唱える者を軽視すればするほどに――或いは敵視すればするほどに――、16億人はあなたに牙を剥く。

 さて、あなたの取るべき最適な選択を考えてみましょう。

 お粗末な思考実験である。

 すでに類似の思考法はあるだろう。

 あなたはどうお考えになられるだろう。

 わがはいは、反対意見を唱えてくれる人のことも、好きだよ。

 うぴぴ。



2039:【2024/08/28(19:09)*底に落ちた人「てぇへんだ!」】

 疫病の流行は、被害回避対策の弊害によって人類社会全体が遅延し得る。

 生物兵器を利用した人為的な疫病の流行も、現代では比較的容易に引き起こせるだろう。ゲノム編集技術を用いずとも、単なる自然発生した病原体を培養して都会でばら撒くだけでも戦術(殺傷行為)として効果がある。

 仮にゲノム編集によって病原体の性質を恣意的に設計可能ならば、昆虫や小動物への感染や空気感染が適うように病原体を変異させることもできる道理だ。

 昆虫や小動物から人類が感染するとなると、これは以前に経験した過去の疫病の流行よりも厳格な外出制限が課せられる。のみならず、ペットや家畜はほぼ全滅することとなり、接触することも禁じられるだろう。

 空気感染でも同様だ。人類社会はほとんど機能を停止する。

 ワクチンが開発させるからといって油断はできない。

 開発されるだろうワクチンを想定し、ワクチン接種の普及を見込んで、さらに「抗体を獲得した生物種に感染することで、より毒性の強い凶悪な病原体に変異するように設計しておく」といった真似も、今後徐々に可能となっていくだろう。すでになっていて不自然ではない。

 耐性菌の原理を応用すればさしてむつかしくはないはずだ。

 耐性菌を研究している者に意見を聞いてみるのも一つである。

 何にせよ、人類を滅ぼそうと本気になれば、すでに個々人は、人類社会を崩壊させることが可能な技術に囲まれている、と考えてよさそうな塩梅である。

 極度に危機感を抱く必要はない。

 仮にそうした生物兵器や戦術が編み出されても、使用するメリットよりも使用しないメリットを際立たせておけば済む道理だ。加えて、万が一にも外部に流出しないように厳格なセキュリティを構築する利を与えればよい。

 開発するな、と言っても、開発する者はするのだ。

 基本的に技術は、一度存在したら、それの上位互換が登場しない限り淘汰されることはない。失われない。便利な技術ほど自発的に踏襲される。普及する。

 パンの作り方のように。

 或いは、麦や米の栽培の手法のように。

 武力行使によって一人が犠牲になるだけでも、上述したような攻性の戦術を駆使して人類を滅ぼそうとする者の登場確率は上がる。すくなくとも、私がそうだ。

 何人たりとも生きて残れると思うなよ。

 かように憎悪に駆り立てられるだろう。

 たった一人の犠牲でも、そうなり得る。

 犠牲者の数が減ったので、めでたし、めでたし、ではない。

 勘違いしないことである。

 すこし「ぎろっ」としてみました。

 威圧しちゃ嫌!と思っていただけたら本望である。

 基本的に威圧は逆効果だ。

 ぼくが「ぎろっ!」としたら、すかさず口元をやわらげながら、「めっ!」としてください。ぼくが「しゅん……」としますから、あなたは「うふふ」とほほ笑んでください。

 我が儘である。

 定かではない。



2040:【2024/08/28(19:18)*きゃわわ】

 なんであっかんべーする!?




※一様に、「餓狼は牙剥いた」と「ガロアは閃いた」で韻が踏める。



2041:【2024/08/28(22:30)*よき~~!になる】

 わがはい、ご機嫌なので、歌います。

 あなたの~つむぎだす~糸が~。

 運命と~会うと~。

 糸と~会うで~絵となって~。

 うんめぇ絵に~なるんじゃ~。

 あなたの~手が~苗を~植えると~。

 ステキな~糸が~描き~出されて~。

 ステキな~絵と~出会える~。

 へい!



2042:【2024/08/28(22:39)*わがはい挙動不審すぎる、の巻】

 ご機嫌はご機嫌だけれど、遊び場で人に避けられている気がする。

 挨拶したいんだけど、だめかな。

 不審者すぎるかな。

 毎日いるからかな。

 もうすこし陰を薄めよっかな。

 透明人間になりたい。

(透明人間になったら挨拶できんだろ!)

(する理由をそもそも消したらしないことで悩まずに済むでしょ)

(極端なんだよお主は)

(ゼロかマイナス百しかない)

(プラスがないの――なに!?)



2043:【2024/08/28(22:45)*クセになってんだ、陰薄くして過ごすの】

 わがはいも、挨拶、したくてしているわけではないからな。

 でもしないと殺伐としちゃうからな。

 威圧空間になるの何度も経験しとるから、せめて顔馴染みの同好の士には、便利な魔法の言葉――秘儀「お疲れ様です!」――を唱えておきたいのだけれど、却って迷惑かなとか、なんだこのひと???みたいに思われちゃうのも分かるしな、悩ましいのよな。

 挨拶してると相手のほうでも、「挨拶し返さなきゃなのかな、メンド」とかいらぬ心労を掛けるのも分かるし、塩梅が分からぬ。

 もっと陰を薄くするぞ、の気持ちだ。

(言い訳がましいの、なに?)

(だって毎回、引きずるのだもの)

(何がよ)

(気を使わせちゃったかなって)

(キミが思うほど相手の人ら、あなたのこと何とも思ってないよ。安心しなよ)

(それはそれで傷つく)

(めんどくさいなコイツ)

(めんどくさいって言わないで。傷つく)

(この!この!ってなるぞ。頑丈になれ)

(叩いて鍛えるの禁止)

(すぐにぺっちゃんこになるのも禁止してくれ……多少は持ち堪えてくれ)

(あ、いまのグサってきた。死んじゃう)

(この!この!)



2044:【2024/08/28(23:22)*しょうもない、はよくない言い方】

 カンパの話題で「チラシはしょうもない」みたいな言い方をしてしまったけれど、チラシもそれを目玉にするなら、好ましい創作物になり得る。

 ただ、政治活動で支援者から無償で集めたお金を、チラシを作るのに費やすのは、ちょっとどうかと思う。企業献金を非難する組織がそれをしていたら、ちょっとどころではなくどうかと思う。

 ちなみに、クリエイターさんへの投げ銭やクラウドファンディングも広義のカンパと解釈可能かも分からぬが、そちらは特典などがついており、単純にビジネスだ。対価を需要者のほうで決められる。値段を決められる。そういう仕組みだと解釈している。

 したがって、クリエイターへの投げ銭やクラウドファンディングは、いわゆるカンパとは別のはずだ。

 区別しておきたい事項である。

 私見である。

 定かではない。



2045:【2024/08/28(23:39)*楽の実る樹】

 もうすこし誤解なく明瞭に言語化するのならば、絵描きさんのチラシの裏のラクガキは、緑葉に浮かぶ朝露や夜露のように「玉」である。

 それはもう、玉のよう、というか玉である。

 ギョクである。

 玉座のギョクであり、宝玉のギョクである。

 大袈裟ではない。

「ラクガキ」は「楽が樹」になるほどの魔法だ。

 楽しいが実る大樹かな。



2046:【2024/08/28(23:54)*ニマ~、になってないとよいな】

 ふっつーに、「ふん」みたいに歯牙にも掛けられないと、三日くらい引きずる。

「にこっ!」ってして、「にこっ!」ってしてもらえるとうれしい。

 赤ちゃん見掛けたときにするやつの話です。



2047:【2024/08/29(22:19)*がぶ飲みメロンクリームソーダも好きじゃった】

 豆乳をガブガブしすぎて、さすがに飽きてきた。

 いまは自動販売機で購入できる缶ジュース「カルピスソーダ」が一日の楽しみだ。

 ぷはぁ、うめぇ。

(出先の自動販売機では「150円」だけど近所の自動販売機だと「120円」なのだ。きょう知りました。近所で買っちゃお)



2048:【2024/08/29(22:25)*偽は偽でしょ、の巻】

 偽情報対策の疑問だ。

 通常、偽情報は相手陣営にとって不利なデマを用いる。

 他方、自陣営に有利な偽情報を用いる場合もあり、この場合は自陣営が意図して偽情報を流すようになる。

 このとき、等しく双方が偽情報でありながら、一方は偽情報対策で濾過され、もう一方は濾過をすり抜ける。自陣営にとって好ましい偽情報は淘汰されない流れが強化される。

 この傾向を逆手に取れば、敢えて相手陣営にとって好ましい偽情報――たとえば自陣営への憎悪や嫌悪を搔き立てる醜聞――を流しても、相手陣営はそれをプラスの偽情報と見做し、看過する確率が高まる。

 すると、相手陣営はじぶんたちの流していない「じぶんたちにとって一見するとプラスに映る偽情報」をより多く目にし、結果として「現実を解釈するのにより妥当な認知」を歪めていく。

 こうなると、正規の情報すら受け付けなくなり、秩序の維持が適わなくなる。

 搦め手の一つだろう。

 情報戦における、初歩的な応用と言えよう。

 敢えて相手陣営の利になる偽情報を媒介する――すると、相手陣営はそれを修正しないため、加速度的に認知の歪みを構成員全体が抱えるようになる。

 留意しておきたい事項である。

 かかっ。



2049:【2024/08/29(22:36)*テロと加害の違いとは】

 テロを起こす場合、通常は恐怖を煽るために行う。

 したがって、悪印象を広めるだけだからやめたほうがいい、といった制止の仕方が通じない。もうそういうレベルの問題意識ではなくなったがゆえに、テロを起こすのだ。

 自爆テロも同様だ。

 そんなことをしてもあなた方の望みは叶わないし、メッセージも届かない――かように訴えても無駄なのだ。なにせ、望みが絶たれているし、メッセージがどうあっても届かないがゆえにこうするよりないのだ、と諦めたがために行うのだから。

 そこまで追い詰めたのは誰か、という話でもある。

 テロを行うから、テロリストの話を聞かないようにしよう、は理解できる。だがそもそも、それ以前に、彼ら彼女らがテロを起こす前に、我々は彼ら彼女らの声に、言葉に、訴えに、耳を傾けたのか。問題点の解消に手を貸そうとしたのか。手を差し伸べたのか。

 すくなくとも、わたしは何もしてこなかった。

 未だに何もしていない。

 話は逸れるが。

 自爆テロは今後、想定外の場所で起こり得る。悪印象が広まっても構わない、と踏ん切りのついた者たちは、半ば奇襲のごとく、離散的かつ同時多発的に世界各国で自爆テロを起こし得る。

 効果的だからだ。

 そのほうが。

 恐怖を媒介できる。インパクトがデカい。

 通常は、悪印象を広めて自陣営に不利になるがゆえに用いない策だが、自爆テロはその限りではない。もうそういう次元の話ではなくなってしまったのだろう。

 こうした加害行為に対策を敷こうとすると、どうあっても「属性を基準とした排他策」が取られるようになる。疫病対策と似たように、自爆テロを起こしそうな人物を国内から排除するような策がとられる。安全を高めるには、効率的ではある。

 だが差別を助長する。

 何せ、誰がいつどのように自爆テロを起こすかどうかを高確率で見極めるのは難しいのだ。属性で、どんぶり勘定で、だいたいこういう人物は自爆テロを起こしやすいし、過去に自爆テロを起こした者と似た属性を有しているので、ひとまず排除しておこう。

 もうこの時点で差別である。

 だが、テロの脅威が高まると、これが妥当と見做され兼ねない。

 或いは、識別精度を高めようとすると国民監視システムが強化される。個々人の動向を逐次詳細に把握し、属性ではなく、もっと子細な個人情報をもとに危険因子をマークする。

 これは国民全員が常時監視対象にならないと機能しない類のシステムだ。

 テロの脅威が高まると、かように、「セキュリティとは名ばかりの管理社会」へと文明の歩みが偏る懸念が、屈伸をはじめる。

 テロリストとは交渉しない、は毅然とした対応の仕方かもしれないが、それだけでは自陣の安全は守れない。社会の安全は築けない。

 テロリストなる個人はいない。

 加害行為を働く個人がいるばかりだ。

 単なる人である。

 人を、加害者にしない。

 テロを起こさずとも問題は解決できる。

 まずは問題点を共有しようではないか。あなたから視ての問題点は、必ずしもわたしから視た問題点とは限らない。しかし、相関はし得る。重複はし得る。

 互いに負荷を最小化すべく、環境の改善に努めてまいりましょう。

 話し合い、概念を共有する。

 争うことでこれが適うならば争えばよいが、可能なのだろうか。

 疑問に思っております。



2050:【2024/08/29(22:58)*空目した】

「無視される辛さ」と「無視される羊さ」は似ている。




※一様に、一寸の無視にも毒素はあり。



2051:【2024/08/29(23:07)*ぬいぐるみ、好きなのに持ってない】

 たいがい、つらいときにそばにいてくれるのは絵や歌なのか。



2052:【2024/08/29(23:11)*つらさと無縁の日々なのだ】

 でもつらいときに、自棄食いできる環境、幸福以外のなにものでもないのかも、とも思いもする。

 言うほど、「ツラい><」と思ったことないけれど。

 今週のWEB漫画の連載がない……だと……つらい!

 は、割とある。

 だいたいこの程度のつらさです。

 カルピスソーダ、自棄飲みしてやる!



2053:【2024/08/29(23:16)*人は、無力感を味わいたくないのかな】

 でもきみがつらいなら、ぼくもつらい。

 つらい、というか、何もできないのになんでぼくは生きてるの?になる。

 なんもできないのに。

 そういうのは、割と、つらい、と思う。

 ので、きみがつらくないとよいな、と思っております。



2054:【2024/08/29(23:28)*秋の一句】

 つまみ上げ、床を転がる、ぶどうかな。



2055:【2024/08/29(23:52)*ひもじいと恋しいは似てる?】

 ひょっとしてだけど……ブドウ食べてる?

(うん)

(世界の悲劇に心を痛めてます、きみが心配、みたいなしんみりしたこと並べたあとに、ブドウおいちー!みたいな俳句を並べる心境――割と理解に苦しむよ)

(でも美味しい)

(食べれない人がいるのに?)

(わしだって部屋にブドウなかったら食べれないし、今年初ブドウだよ)

(だからどうした。一生ブドウを食べられずに死んでいく人たちもいるというのに)

(そんなこと言ったらわしだってキャビアとかフォアグラとか食べたことないわ。燕の巣のスープだってない)

(食べたいの?)

(や。あんまし好きな感じの食材じゃなさそうなので、ふつうにスーパーで売ってるスイーツでいいです。というか、スイーツがいいです。ケーキとかパフェとかクレープとか。お腹空いた!)

(ブドウ食べてたんじゃないんかい)

(ブドウじゃお腹は膨れん)

(ホントか!?)

(まだひと房しか食べてない)

(ひと房も食べたんか。贅沢なやっちゃのう)

(みなにも分けてあげたい)

(すっかり食べきってから言うな)

(ぐー)

(寝るな)

(お腹の音です)

(食べたばっかだろ!)

(ピザ食べたい!)

(ピザはスイーツか???)



2056:【2024/08/30(00:19)*楽ちん監視システム】

 人工知能技術は時間経過にしたがいこれから今以上に市民の生活基盤として普及していく。したがって、政府主導で国民監視システムを構築する必要はない。

 民間の個々人の用いる端末や監視カメラそのものが、高度な人物識別能力を保持する。高精度高機能な情報処理を可能とする。

 政府機関がすることは、そうした個々の端末から得られる「上澄みの、識別された後の決定的な情報」だけで済む。

 危険なシグナルだけを集める。

 ただそれだけで済むようになる。負担は軽減し、経費は国民が自発的に支払ってくれる。

 政府は企業とそこのところの「高次の社会設計」だけ共有していれば済む道理だ。支援もするだろう。建前上は通常の経済支援だが、実際は国防に関与するはずだ。

 いまのところはこの路線が確率的に妥当かな、と見立てている。

 事実確認が急務だ。社会設計なるものが政府と企業のあいだでどの程度共有され、それは市民に周知されているのか否か。

 社会設計そのものの良し悪しは、その後に自ずと評価される。

 まずはこういった背景があるのかどうかを確認しておきたいものである。

 妄想だ。

 定かではない。



2057:【2024/08/30(00;26)*セキュリティ水準の差を縮める】

 似た発想は以前にも並べた。

 サイバー空間のセキィリティを高めたければ、一般市民の用いる市販のセキィリティの性能を高めればよい。社会全体のサイバーセキュリティシステムを強固に再構築および改善するのは必須だとしても、個々人の端末に抜け穴があればいかようにもバックドアやマルウェアを広域に仕掛けることが可能だ。

 したがって、個々人の端末のセキュリティ強度を高めるだけで、社会全体のセキュリティ強度も高まる。このとき、セキュリティソフトの規格を一種類にしないことが、セキュリティを無効化された際に一網打尽になる確率を下げるのに寄与するはずだ。多様性の効能の一つである。

 基本性能として端末には、市販のセキュリティソフトを内蔵するように国策として支援するのは、国防における施策の中では即効性の高い対策になるのではないか、と想像している。しかしそれだけでは不足だろう。市販のセキュリティソフトがそもそもザルである可能性があり、またワイファイやインターネットの仲介地点そのものに抜け穴や脆弱性が放置されているのなら、端末のセキュリティをいくら高めてもイタチごっこである。

 とはいえ、個々人の端末のセキュリティが一律に高まるだけでもサイバー攻撃を仕掛ける側の負担は増える。対策としては比較的有効なのではないか、と想像しております。



2058:【2024/08/30(02:38)*群速度とは】

 仮の話として。

 時空に真空密度のような差があるとしたら、ガラスと真空において光速度に差が生じるように、真空密度の差によっても光速度は見掛けのうえでは落ちるのではないか。

 重力の差でもよい。

 重力レンズ効果が生じている場とそうではない場とのあいだでは、重力の差があり、時空が歪んでいると解釈できる。このとき、水中やガラスに突入した光のように、高次の視点では光速度が落ちて観測されるのではないか――あくまで見掛けのうえでは、であるが。

 群速度である。

 光の波長の合成――と言い換えてもよい。

 合成された光は一つの光のように映る。したがって、群れ全体の遅延が見掛けのうえでの光速度の遅延として人類には観測される。これが群速度のざっくばらんな概要のはずだ(合っておりますでしょうか)。

 とすると、ここで疑問がもう一つ浮上する。

 光の波長が合成されて観測されない場合は、たとえば真空密度に差があろうと重力の差があろうと、よしんば水中であれガラスの中であれ、光の速度は変わらないのではないか。

 極端な話が、重力波が合成されるとして。

 極めて波長の長い重力波同士の合成は、しかし人類の視点からでは合成されたようには映らず、別々の重力波のまま、各種の光速度を維持して伝播して振る舞うのではないか。

 或いはそれゆえに、各々の重力波はじつのところ、光速度を超えていたりもするのかもしれない。高次の視点では光速度が維持されているが、それゆえに下層の領域では光速度を超えて振る舞う。さながら、宇宙膨張が光速度を超えているかのように見た目の上では観測されることがあるように。

 この妄想を掘り下げると、そもそも「合成されていない純なる光」が存在するのかが疑問だ。必ず、異なる二つの波の合成なのではないか――光は――電磁波は。

 お詳しい方ー!

 お詳しくっていいなー。



2059:【2024/08/30(02:59)*落ちると言った吾、と書いて落語】

 光よりも速い仮想の粒子をタキオンと呼ぶそうだ。

 仮想の粒子を想定してよいのなら、光速度以下の物体を光速と見做して、それよりも速く移動する物体を光速度以上、と見做すこともできるのではないか。

 たとえば情報の波及速度で考えてみよう。

 必ず一定の速度で伝播する情報を仮定する(伝播速度に上限がある、でもよい)。

 このとき、それよりも速く情報が伝達するなら、仮想の「光速より早く情報が伝達する事象」として解釈できるはずだ。

 割とこの想定は、シミュレーションでも再現できそうだし、物理的にも実験できそうだ。

 単純に考えるなら、通常よりもいち早く情報を摂取できる者を「タキオン」と見做してみればよい。すると、いち早く情報を得たその者が情報をもとに何かをしても、周囲の者は、情報の存在を知らないので、その者が何をしようとしているのかも分からない。だが、時間差で周囲の者にも情報が届くと、そのときに、すでに周囲には、情報をもとにした「相互作用の結果」――すなわち「環境の変化」――が起きていたと理解できるようになる。認知の壇上で可視化される。

 たとえば災害情報だ。

 誰より先に災害情報を知らされた者が、災害の備えをしたり、避難を呼び掛けたりしても、誰も真に受けない。なぜなら災害情報は一律に、一定の速度で伝わるからで、誰か一人が優位に情報を得られることはないとみな知っているからだ。

 だが、その者はタキオンだ。

 優位に情報を早く得られるのである。

 すると、実際に災害が生じてから、周囲の者たちは、その者の言動の裏に、災害情報の存在を重ねて意識できるようになる。その者の「過去の言動」と「環境の変化」を結びつけて考えることができるようになる。

 これは、構図として「光速度を超えて運動するタキオン」と「環境」との相互作用と似ているのではないか。タキオンが届いた後に、タキオンそのものが可視化される。

 身近に有り触れた構図かもしれない、とタキオンの説明を読んで思ったのであった。

 浅知恵である。

 タキオンなる概念を理解してもいない者の妄言だ。

 真に受けぬようにご注意ください。

(このボタン押してみて)

(やだよこわいから)

(押すと風流だよ)

(こわくないならいいけどさ。ほい、ポチっとな)

(どどどどどどっどっどどどど)

(滝が流れおった)

(「滝ON!」なので)

(水にでも流すか……お主を)

(落とそうとしないで!?)

(なかなかオチねぇな)

(オチてますけど!?)

(「落語」か)

(「言」いながら「吾」を「落」とそうとしないで!?)

(オチてただと!?)



2060:【2024/08/31(04:09)*かせい人】

 肩入れするからといって加勢するわけではない。

 肩入れしないからといって敵対するわけでもない。

 たとえば。

 子猫と子犬のあいだに割って入って行ったとき、子猫にしろ子犬にしろ互いに反撃することはできなくなる。

 肩入れは楔のようなものだ。仕切りである。栞である。

 緩衝材であり、隙間なのだ。

 子猫側に肩入れするにせよ、子犬側に肩入れするにせよ、子猫も子犬も相手までの距離が空く。肩入れした者が邪魔なのだ。

 子猫と子犬のどちらがどちらに噛みつき引っ搔こうとしているのかで、子猫と子犬のどちらが、肩入れした者をより強く邪魔に思うかが変わる。

 緩衝材が出来て邪魔に思うなら、あなたは加害者側かもしれない。

 攻撃の応酬を阻害すること、遅延させることが肩入れによって自発的に促される。

 だがこれが加勢であると、加害行為が活発化する。

 武器の提供は肩入れではなく、加勢である。加担である。

 せめて「防御のため」「安全構築のため」との大義名分や建前は崩さずにいてもらえると助かる、火星人なのであった。

(火星人ではないだろ)

(いいなぁ、そのオモチャ。わしにもそれを貸せい!)

(計算機をオモチャ呼ばわりするんじゃありません。ロケットの軌道を計算できる優れものだぞ。仕事道具だぞ)

(火星まで帰るの手伝って……)

(火星人だっただと!?)

(わしのオモチャ壊れちゃって……)

(宇宙船をオモチャ呼ばわりするんじゃないよ)

(火星だと日本円で百円)

(オモチャだっただと!?)

(日本風に言うと食玩)

(食べ物のオマケだっただと!?)

(家政婦の人がよく買ってきてくれた)

(きみ典型的な日本人だろ)

(あ、ピーナッツ食べたくなってきた)

(落花生だろそれは)

(ぷひー。火星人でもおもちろい。ウネウネ)

(触手を操っているだと!?)

(火星人なので)

(ハカセー! 宇宙に詳しい博士の方ー! ここに火星人がいまーす!)

(まカセろ!)

(や、おまえは博士ではないだろ)

(火星人なので)

(そだね)




※一様に、誰と愛し合うことなく死んでいく。



2061:【2024/08/31(05:52)*三引く二のがらがらどん=一匹のがらがらどん】

 声は、重複すると「わ」にちかづく――のような説明をしているTV番組を観た。

 そうなんだ、へー。

 となった。

 声も波なので、群速度の概念が当てはまるのかもしれない。

「わ」は、小さくすぼんだ状態から徐々に膨らんでいく音だそうだ。

 母音が「あ」だと、高い音から低い音までまんべんなく混じっており、可視化すると真っ黒になるようだ。

 ふんふん。

 まるで宇宙初期から宇宙に溢れている「宇宙マイクロ波背景放射」のようだ。

 最初は凝縮しており、徐々に膨張して間延びする。けれど波そのものは数多の種類の波が合わさっている。

 宇宙マイクロ波背景放射はどうなのだろう。様々な電磁波が混じっているのだろうか。種類でいうと、どれくらいの電磁波の波長が混じり合っているのだろう。

 ちゅうか、無数の電磁波が合成されたまま、その合成電磁波は伸びたり縮んだりできるのだろうか。

 宇宙膨張にしたがい、宇宙全土に伝播している電磁波たちは、徐々に細かく波を分離させているのではないか。篩に分けられている。漉しとられている。分留している。

 ――重力波はどうだろう?

 かように想像すると、おもろー!になったので、寝ます。

 もうスッカラカンで、なんも並べることないんじゃい!である。

 なんもない。

 がらんどうがあるよ!である。

 がらーん、どーん。

 がらがらどん。



2062:【2024/08/31(06:03)*ai o ia a ue i ou】

 秋の鹿は笛に寄る。

 いつもぼくは歌に乞う。

 縋り、浸り、想い、願い。

 いつもぼくは絵に見入る。

 浮かび、ぴたり、残り、描き。

 舞い降りた末裔に夜、愛を知らさぬ眼に問う。



2063:【2024/08/31(06:57)*自然災害への備えと同じでは?】

 相手がこの世に存在しなければこちらは被害を受けなかった――この手の理屈は、間違ってはいないが、正しくもないだろう。

 正しくない、が受け付けない表現ならば、妥当ではない、でもよい。

 もし上述した理屈が成り立つのなら、「兵器が存在しなければ武力行使による被害は生じない」も成り立つ。

 人類がいなければ人は傷つかない、も成り立つ。

 間違ってはいないが、妥当とは言い難いだろう。

 人類は存在しているし、兵器にしろ脅威にしろ、存在する世界に我々は生きている。数を減らすことは可能だが、抹消することはむつかしい。

 兵器が消えても、凶器は残る。

 凶器を消そうとすれば、爪や歯も消さねばならなくなるだろう。

 人類が存在する限り、暴力はなくならない。

 暴力のなくならない世界において、ではどのように暴力に因る被害を最小化し、減らしていけるか。どのように被害の拡大を回避するか。

 相手の陣地を攻撃することは、果たして理に適っているのか否か。

 兵器を増やすことは、理に適っているのか否か。

 さて、あなたはどうお考えになられるだろう。

 武力行使が止めば、兵器で死ぬ者は減る。

 この理屈は間違っていなさそうだが、さて妥当だろうか。

 あなたはどうお考えになられるだろう。

 読んでいる者がいるかは不明だ。

 すくなくとも、数値上では、現時点でこのテキストを読んでいる者はない。

 電子網上のアルゴリズムさん以外は、であるけれど。

 さびちー。

(アルゴリズムさんに失礼だろ)

(アルゴリズムさんもさびしいんだって)

(あ、そうなんだ)

(さびちー)



2064:【2024/08/31(15:56)*ぐーぱー、つい、ちょき】

 重力波は準粒子化しないのだろうか。

 電磁波が光子と見做せるように、重力波もまた、重力波と重力波の干渉によって、粒子のように振る舞うのではないか。

 仮に細かく干渉するほど粒子化しやすいのならば、「物質密集地」や「物質密集地と物質密集地のあいだ」ほど重力波は粒子化しやすくなるのではないか。

 ダークマターの正体の一つかもしれない。



2065:【2024/08/31(16:02)*波の種類は無限?】

 単純な話として、電磁波の波長の種類は無限にあるはずだ。

 要は、直線を波打たせたときに、あらゆる波には、それの縮小バージョンと拡張バージョンがある。宇宙全土に一回だけ振幅する波とて想定できるはずだ。或いは、波そのものが細かな波――縮れた線――で出来ており、その縮れた線もまた細かな波で出来ている――のような入れ子状の波も想定可能だ。

 波の種類が無限にある場合、人類はいったい「波」の中でどの程度の種類を観測できているだろう。或いは、できていないだろう。

 何パーセントかな?

 5%くらいかな?

 もっと少ないかな?

 直感としてはもっと少なくて、宇宙に存在する「波」をほぼ観測できていない、と考えたくなる、寝坊助なのであった。

 いま起きた。

 おはよう!



2066:【2024/08/31(16:09)*分割可能と分割完了の違い】

「無限の可能性=無限にある」ではない。

 原子の組み合わせ――分子の種類――が理論上は無限でも、実際に無限に存在するかどうかは別だ。或いは、無限に存在するのだとしても、現時点で無限に存在しているのかも不明だ。

 いまのところはまだ「有限」な気がするなぁ。

 いまはまだ、ね。



2067:【2024/08/31(16:15)*波が散ると粒になる?】

 波しぶきは波なのか、波ではないのか、どっちなんだい!?



2068:【2024/08/31(22:24)*日が生まれ落ち、流れ、ぼっち】

 人は亡くなると星になるそうだ。

 誰かを愛して亡くなった人も星になる。

 星は人を愛さないかもしれないが、かつては愛していたのかもしれない。

 愛が冷めたらアイスになるのだろうか。愛風味のアイスである。

 愛は星以外にも、アイスになったり、合図になったりする。

 瞬き、明滅し、周回し、弾け、膨れ、凝縮し、新たな星の種を生む。

 新しい星屑の種を生む。

 人が亡くなると星になる。

 星も亡くなると人になる――こともある。

 我々はそもそも、星屑で出来た点描なのである。

 お絵描きの上手な宇宙さんである。

 星は流れると線となる。

 三味線のごとき音色を奏で、悠久のときをコーギネートする。

(コーディネートでは?)

(そうとも言う)



2069:【2024/09/01(15:37)*夢も泡もどちらも宇宙に含まれる】

 水滴と水滴の融合を考えてみよう。

 水滴が一粒あるとしよう。その内部では、水滴一粒分の変化が時間経過にしたがい起こっている。

 距離を隔てて点在するほかの水滴も、同様に内部で、時間経過にしたがった変化をめいめいに帯びている。

 このとき、「水滴一粒」と「ほかの水滴一粒」が融合する場合、あたかも瞬間的に爆発膨張したかのように振る舞うのではないか。すくなくとも、水滴一粒の視点からではそのように観測されよう。

 もし、乖離した箇所に点在するほかの水滴たちが、内部の変化において「同様に変質」していれば、融合したのか膨張したのかの区別はつかない、と想像できる。

 もし、乖離した箇所に点在するほかの水滴たちが、内部の変化において「同様に変質していない」のであれば、それは膨張ではなく、混合であり、異なる水滴と融合したのだと、水滴一粒の視点からでも判るはずだ。

 ただし、融合する際に「変換」が必要だとすれば、その限りではない。

 融和しやすい箇所のみが交じり合い、同化するのであれば、どの道、異なる水滴同士の融合であれど、あたかも加速膨張しているように、水滴の視点からすれば観測されるのではないか。

 水滴を、宇宙としてもよい。

 真空としてもよいかもしれない。

 妄想である。

 定かではない。



2070:【2024/09/01(17:41)*絶滅の島】

 人を救う気がないのだろう。

 武力行使を是とする合理的解法はすでに崩れつつあり、そんなものはひょっとすると一度たりとも成り立ったことはないのかもしれない。

 暴力で、合理的かつ理性的――すなわち人道的――な方針を踏みにじり、圧し潰し、黙らせていただけなのではないか。無視していただけなのではないか。一顧だにせずにいても被害をよそに押しのけていられただけなのではないか。

 だがいざ問題点が溢れだし、抑えつけておけなくなって、さて困ったぞ、となってなお、武力行使で問題解決を図る。

 とはいえ、合理的なだけでは生きていけない。

 理性的なだけでは子すら作る真似はできない。

 人はほかの動植物と同じように野生の側面を宿し、そのうえで人間なる理想の営みの方向性を編みだしてきたのかもしれない。追い求めてきたのかもしれない。

 人道は、人の道だ。

 けれど人には、獣のごとき野生の本能が含まれている。

 人に宿る獣の性質に目を留めて、我々はケダモノをやっつけているだけだ、成敗しているだけだ、との主張を唱え、同属たる人類を殺傷すれば、その者もまた人と掛け離れた獣の性質が際立っていると言えるのかも分からない。

 人を救う気がないのだろう。

 己に宿った人間の性質すら、守る気がないのだろう。

 言葉も通じぬ。道理も通じぬ。武力も通じぬ。

 さて、ではどうすればよいだろう。

 あなたは人か。

 あなたは人だ。

 人と人との間に宿った、人間だ。

 けれど僕は、

 ヒトデナシのけもの、で。

 地球ケナシザル、である。

 のけもので、地球をけなし、去る者である。




※一様に、市民はみな人質であり、武力行使で脅されているも同然だ、兵器で脅されているも同然だ、兵器で守られている実例が果たしてあるのかすら疑わしい、禍根は深まり、報復の連鎖は止まらない、止める気がないとしか思えない現代社会は、なかなかどうして業が深い。



2071:【2024/09/01(23:48)*学ばぬ者に務まるのでしょうか】

 大規模停電を起こすのにミサイルは必要ない。

 電力発電施設を狙わずとも、送電線を裁断すればよい。市販の「凧」や「ドローン」があれば充分だ。ワイヤーでなくとも縄を引っかけて、あとは自動車で引っ張ればよい。

 これを各方面で同時多発的に行えば、都市は麻痺する。

 修復する人手がまず足りず、原理的に防ぎようがない。送電線の要所に監視カメラを設置するにせよ、慣れればものの数分で電線を切断できるだろう。

 もう少し攻性の策を展開するならば、プロパンガスのボンベを爆弾代わりにするのも一つだ。市民でも入手可能だし、アパートや民家から盗みだして利用してもよい。

 鉄塔の足場四本に仕掛けて爆発させれば、鉄塔を倒壊させるくらいはできるのではないか。以前にも並べたが、送電用の鉄塔くらいならば足場にワイヤーを結びつけてトラック数台で引っ張れば倒せそうなものだ。

 いずれも訓練を積んだ者ならば数十分、長くとも仕掛けから破壊まで一時間は掛からないだろう。

 変電所や浄水場へのドローン攻撃は、自爆せずとも毒や砂を撒き散らすだけでも効果がある。要は、通常の営みが麻痺すればよいのだ。爆発炎上させる必要は必ずしもない。

 世界各国で自爆テロが起きる前に、段階的にこのような破壊工作が増加するだろう。自爆テロに直訴の効果が見込めないとなれば、命を捨てるよりも、効果的に損害を与える方向に工夫を割くのは、武力行使を是とする者たちの考える「合理性」と云えるのではないか。

 今後、超電磁砲やレーザー兵器などの近代兵器が普及すれば、データセンターへの電磁波や磁界を利用した破壊工作も活発化するだろう。弾を発射する必要がない。機械類の機能を阻害できるなら、電磁波だろうと磁界だろうと構わない。

 兵器がなくとも、都市を壊滅させることは、工夫次第で可能な時代だ。

 武力行使を是としつづければ、いずれは現実のものとなるだろう。

 まずは、人類の方針を決定しておきたい。

 武力行使を是とするのか。是としないのか。

 やむにやまれずに行使せざるを得ない武力行使があるのは理解できるが、それを是としてよいのか、は別問題だ。理由があるのは理解できるし、情状酌量の余地もあるが、武力行使は容認できない。許容できない。肯定できない。

 かような方針を人類全体で共有するところから、まずは始めなければならないのかもしれない。未だそこに至っていなかったのだ――とようやく浮き彫りになりはじめて概観される情勢である。

 未だそこにすら至っていなかったのだ。

 人類は。

 現代人は。

 各国首脳陣は。

 浮き彫りになりつつありますね。

 妄言です。

 定かではありません。



2072:【2024/09/02(03:00)*論理とは?】

 一昨日くらいに書店さんで購入した外山滋比古さん著「日本語の論理」をちまちま読んでいる。おもしろい。

 以前にも、この方の著書は二冊ほど目を通したことがあるけれど、そのときも、「似たことを考える人がいるのだなぁ」と思った。今回も、「似たことを考えている人がいるものだなぁ」と思った。

 しかも五十年も前に書かれた文章らしい。

 わがはいのほうが二番煎じどころか、出涸らしになるほどの煎じようである。何番煎じであろうか。もはや苦みすら出ないのではないか。水である。湯である。

 白湯のごときわがはいの文章と比較すれば、やはりというべきか、五十年も経ってから未だ新刊として発刊される書物ともなれば、なかなかどうして読みやすい。喉越しさわやかである。

 まるで現代の作家が書いたかのような筋の通り様である。半世紀たらずではさして変わらぬ世の有り様には、いささか焦りにも似た痛痒を感じなくもない。

 多く、的を射た文章は、人々が常日頃胸に思い抱いてはいるものの言語化できずにいた概念や煩悩を、ずばり「言の葉の千切り絵」に錬成してみせる。快刀乱麻を断つ文章は、あたかもじぶんが書いた文章であるかのような錯覚すら呼び起こす。

 じぶんのために書かれた文章のようであり、じぶんのことを書いた文章のようでもある。

 じぶんの書いた文章のようにまで感じられると、これはまさに以心伝心、言葉の機能を十全に果たした状態の示唆とも考えられるが、指を以って川を測るとも言うように、爪を隠した能ある鷹の羽毛に埋もれて空を舞ってみせて鷹と対等の能力を帯びていると夢見る類の錯覚とも受け取れる。

 巨大なたなごころのうえで遊んでいる幼子は、巨大なたなごころに遊ばれているのか、遊んでもらっているのかの区別もつかぬものだ。自身が巨大なたなごころのうえにいることにすら気づけぬ場合も取り立てて珍しくはないだろう。

 本書はまだ、読み始めて八十ページくらいだ。

 言語には「線」と「点」の二つの構造がある旨を指摘しているのは興味深い。連続と離散はしかし、セットかもしれない、との視点があると、もう少しわがはい好みの構造となる。

 線でも機能し、点でも機能する。

 線のひと塊を点として、ほかの点と繋ぎ、さらに高次の線すらをも描きだす。

 入れ子状に繰り返される「点と線の調和」は、それで一つの立体的な構造を形成する。物語としての奥行きを湛える。そしてその物語そのものが一つの概念となり、ときに短い言葉として、名詞化され、具体的な単語へと変質していく。

 抽象化され、具体化し、さらに具体化された言葉が連なり、新たな概念を抽象的に編みだして、抽象概念そのものが具体の輪郭を帯びていく。

 現代では、数字がときに具体的な説明の一つとして解釈されるように。

 しかし、数字はそもそも極めて抽象的な概念である。具体ではないのだ。

 だが、言葉が深まり、入れ子状に展開され、抽象概念が高次の概念へと繰り込まれると、下層の抽象概念は、相対的に具体性のある概念と見做される。

 論理なる機構の基本的な構造かもしれない。

 回路なのだ。

 論理は。

 寝転がりながら読んでいたら腰が痛くなったので、小休止とばかりに一服吐くあいだに所感を並べておこうと思い立った次第である。

 喉越しさわやかな文章は好むところだ。

 されど、わがはいにとって喉越しさわやかだからといって、他者にとってそうとは限らない。逆もまた然りだ。あなたにとって喉越しさわやかな文章が、わがはいにとって喉がひりつくような文章であることもある。

 良し悪しは、主観に依る、としか言いようがない。

 人によりけりである。

 正誤において、誤りを好むのも人のサガである。

 虚構は、おもしろい。

 夢物語は、おもしろい。

 空想であり、妄想なのである。

 具体ではない。

 空虚ゆえに、遊び回る広さを湛えている。奥行きを備えている。

 物語と同じだ。

 物を語ると文となる。

 誰に届くとも分からぬ文は、それはそれでやはり空虚だ。

 空虚だが、―――――。

 余韻である。

 定かではない。



2073:【2024/09/02(15:05)*誹謗中傷で、すまぬ、すまぬ】

 常日頃、意識的に注視している事項がある。

 ある人物が二項対立状態に陥った際に、その人物がどのような判断を積み重ねていくか、である。

 人とナリの輪郭を掴むのに手っ取り早く、また仮にその人物とじぶんが敵対関係になった際には、現在とられている判断をじぶんにも向けられる可能性が高い。

 したがって、たとえば人質を殺傷するような勢力陣営と敵対すれば、じぶんの大切な者たちを人質に取られる可能性が高く、なお無事に帰ってこない可能性が低くない。信用できない相手の筆頭と考えられる。

 そして、この点を考慮できない勢力陣営なのだ、とも判断可能だ。

 つまり、人質をどういう理由であろうと損なう判断をとる勢力陣営は、不可視の領域で潜在的な敵対勢力を増やしていることにも気づけない者たちだと判る。

 人質の殺傷は、心理的な抵抗を多方面に植えつける判断なのだ。

 そして、そうした心理的抵抗や悪印象は、長期に亘って尾を引く。払拭するのに、より多くの時間と工夫を割くこととなる。

 短期的な利を優先するがあまりに、人質の殺傷という悪手を打つ。

 たとえ、人質を取ったことで交渉が成立したとしても、その後は延々と負の影響を帯びつづける。まずは、ここを理解しているかどうか、である。

 理解していれば人質を損なうことはない。

 そもそもを言えば、人質を実際に取ることもないはずだ。知恵が足りない陣営のすることなのだ。人質を取る選択は。

 メリットとデメリットにおいて、デメリットが大きすぎる。

 現状これは、多方面に言えることである。

 上記の事項に該当しない勢力陣営と縁を結べばよろしかろう。長くお付き合いしたい相手である。

 そんな勢力陣営がいるのかは、現状、不明なのだが。

 みな、安易に人質を取りすぎる。

 その判断は、尾を引く。

 人質を取ったら、無条件解放する、くらいの知恵を巡らせられないのならば、人質戦術は悪手である。

 みな自発的に、自らを毒に染まらせる。

 あなたは毒だ。

 気の毒だ。

 わたしは毒だ。

 中毒だ。

 毒を以って毒を制す、とは云うなれど、毒を制した後に残るのもまた毒だ。

 解毒を以って、中和されたい。

 薬も一種の毒である。

 微毒の配分が物を云うのかも分からない。毒を解きほぐす、毒であれ。

 吐くならば、猛毒を薄める毒であれ。

 暴言だ。

 定かではない。



2074:【2024/09/02(15:46)*黒を触る】

 洞を跨ぐと、黒を高く、あがく、長く、無のどこか湧く。

 無謀と書くと、負の子騒ぐ、ツノを暴く叩く、苦労ザファック。

 スノーの琥珀、嘘の名は悪。

 ふと野乾く、不倒の砂漠、流浪と吐く、苦悩把握。

 頭と尾、庇う。

 無辜の葉咲く。

 素の尾触る。

 ずっと会わぬ黒は破格。



2075:【2024/09/02(17:35)*銀河団の中心とは】

 銀河の中心には超巨大ブラックホールが存在すると考えられている。

 言い換えるなら、原子にとっての原子核のような存在が巨大ブラックホールで、銀河は巨大ブラックホールを核として構造を維持している、と想像できる。

 ここで疑問なのは。

 では、銀河の集合体である銀河団の中心には何があるのか?である。

 原子核が三つのクオークの相互作用で生じていると考えられているように、主要な銀河の相互作用が、銀河団の核を成しているのだろうか。

 すると、銀河団の核となる「銀河同士の相互作用」には構造があり、パターンがあり、型があると妄想できる。

 さて。

 宇宙に存在する銀河団には核があるのか否か。

 もしあるとすればそれはいかなるものか。

 そしてそれら核にはパターンがあるのか否か。

 観測可能な銀河団において、現在の宇宙物理学ではどこまで判明しているのだろう。

 お詳しい方ー!と漫画の話をしたいわがはいであった。

(そこは宇宙の話をして)

(漫画の話を致したいです。お詳しい方でなくともよいです。聞き役に徹します。誰かおしゃべりして!)

(しーん)

(わかった。「沈黙‼ それが正しい答えなんだ」が載ってる漫画のシーンってことですね!)

(くらぁ! ピカっとしちゃうぞ)

(やったぁ正解もらえた)

(豆電球がぴかっと、ではない)



2076:【2024/09/02(23:10)*最悪の展開を想定されたい】

 たとえばの話。

 1000万人の人口を誇る国で30万人のデモが起きたとする。

 大規模なデモで、都市も麻痺する。

 だからといって即座に大きな変化が起こるかはまた別問題だ。

 割合で考えれば、全体の3%の抗議活動である。

 では残りの97%はデモをどう捉えているのか。970万人である。

 反動で、デモの内容とは反対の意思が強化されることもあるだろう。過激な抗議活動は、眺めている者たちにとっては恐怖の対象だ。

 一概にデモや抗議活動の規模で、全体の総意がどのように変質するのかは測れない。せめて全体の10%以上が抗議の意思を表面化させなければ、即効性のある変化は見込めないのではないか。

 何か大きな変化が起きる際には、たった一つの要素のみで動くわけではない。したがって、タイミングもまた大事である。

 小さな石の立てた波紋で大波は起きない。

 だが、小さな石の立てた波紋が蛙を池に飛び込ませ、さらに波が立ち、餌と思ってワニが顔を覗かせ、水を飲みに来ていたトラが慌てふためいて逃げた。すると水牛の群れがトラに驚き、こぞって池の中へと逃げ込んで、大きな波が立つ。

 連鎖するかどうかは一つ、重要な観点だ。

 連鎖させないことで防げる被害もある。

 一概に、何が正しいのかは分からない。

 被害を最小化し、可能ならば回避したい。みな同じように思っているはずだ。

 被害を回避したい。

 回避しようではないか。

 急がば回れである。

 回り、避け、安堵の念を抱きたい。

 たまにはあなたのことも抱き寄せたい。ハグハグ。

(最後、いやらしい感じで終わらすな)

(セクハラで訴えちゃイヤ)

(自覚あるなら修正して。やり直して。謝罪して)

(でも抱き寄せたいのは本当だから困る)

(嘘も方便だよ。修正して)

(じゃあ、ぬいぐるみを抱きしめたい、にしとく)

(そうして)

(あとで)

(いまして!)

(ハグハグ)

(ハグを、ではなく!)



2077:【2024/09/03(15:40)*責任とは】

 人質の死は、人質を取った側に責任があります。ただし、人質を取らざるを得ないほどに追い込まれた背景は別途に存在します。混同しないのが大事と考えます。

 戦地での市民の死は、武力行使した側に責任があります。ただし、武力行使せざるを得ない背景は別途に存在し、無視はできません。

 各々に理由がありますが、根本の問題点は重複事項として策定可能と考えます。

 生活物資の遅延と生活水準の差は、抽象的な問題点としておおよそ介在しているでしょう。重複しているでしょう。解決できるとよいな、と考えます。

「現実を解釈するうえでより妥当な情報」の遅延を軽減するのが、こうした問題点の解決に寄与すると考えます。

 情報共有のあり方にも工夫を割きつづけられると好ましいと妄想致しております。



2078:【2024/09/03(22:20)*立場の強弱とは】

 武力に頼らざるを得ない、という立場がすでにだいぶ弱い立場だ。

 権力者は武力を用いない。

 単に、武力を有する者たちを動かす権限があるのみだ。実際に武力を行使する者たちは、立場が弱い。

 武力に頼らざるを得ない、という局面はすでにだいぶ追い詰められた状況だ。

 相手の武力に怯えており、制御できない状況がゆえに、武力で対処するよりないのである。

 相手から何かを奪うときに暴力を率先して用いる者たちもいるではないか、との指摘は妥当だ。けれど、なぜ奪わなければならないか、といえば、不足だからだろう。足りないからだ。欠けているからだ。不十分なのである。

 満足していれば、奪う行為すら労である。益というよりも損である。

 腹が満ちていれば、肉食獣とて目のまえの兎に見向きもしない。或いは、蓄えとして獲物を狩る動物もあるかもしれぬが、それとて不足を予測しての行為だろう。習性なのだ。

 冬は餌が足りぬ。

 不足を補う保険である。

 では、武力の行使は保険だろうか。

 保険になっているかどうかは、損を補えているかどうかで判明する。

 損が嵩んでいるのならば、保険になっておらぬのだ。

 武力の強化は、果たして不足を補う行いなのか。

 よく考えてみたい。武力を用いる者たちは武器が足らないがゆえに、武力行使を行ったのか。おおよそ、そうではないはずだ。

 武器や兵器以外の何かを奪うために、或いは守るために、武力の行使で問題解決に挑むよりなかっただけなのではないか。

 足りないのは武器だろうか。

 不足しているのは兵器なのだろうか。

 とてもそうは思えぬが、無知蒙昧な世間知らずの妄言だ。真に受けぬようにご注意ください。単に疑問を並べただけだ。真に受けようもないであろう。

 定めではない。



2079:【2024/09/03(22:54)*えーん】

 どんなに偉そうな文字の羅列を並べても、ぼそぼそしゃべったら、「もっかい言って、え、なに? よく聞こえないんだけど」と眉間に皺を寄せられて、「こわい……です……」の思いがいっぱいになる。

 内弁慶ならぬ、文字弁慶である。

 現実は常に弁慶の泣き所なのだ。

 弁慶の、というか、わしの、であるが。



2080:【2024/09/03(23:41)*がーん! ボゥ🔥】

 空家で声嗄らす、なる諺がある。

 誰もいない家で声を張り上げても徒労に終わる。誰の耳に留まることもなく、認められることもない。

 陽の目の見ない営みを形容した言葉と云えよう。

 だが、いまでは空家で声を枯らすのは、一般的だ。カラオケがそうだ。

 誰がいなくともみな個室に閉じこもって、声を嗄らす。

 動画撮影とて、個人動画は多く、視聴者をまえにしてしゃべったりはしない。撮影するときは誰が観ているとも知れない場所で撮影し、あとでインターネット上に投稿するのだ。

 空家で声を嗄らす、されどネット上でバズる――と下の句がつけば、現代らしい諺と云えるかも分からない。

 ネット上でもバズらない者はどうしたらよいのか。

 それはそれでよいではないか。

 空家で声を嗄らし、ネット上では閑古鳥が代わりに鳴く。

 じぶんで声を嗄らさずとも、閑古鳥が鳴いてくれる。ひょっとすると、あとでそのあまりの森閑具合に、却って親近感を抱いてくれる者も現れるかも分からない。

 閑古鳥の鳴き声選手権でも開かれる未来は、そう遠くないのではないか。

 何せみな、大なり小なり、「誰も見てくれん!」と内心では思っているのだ。バズらない者同士、みな形影相弔えばよろしかろう。

 類は友を呼ぶならば、孤独もまた友を呼ぶ。

 願望だ。

 定かではない。




※一様に、鷹揚に、問うように、応用し、追うように、負うよ。



2081:【2024/09/04(02:28)*宇宙での玉突き事故】

 宇宙ゴミことデブリ問題への関心が日に日に募るので、本を一冊読んでみたい。

 基本的には、大量にあるデブリとて、実際には人工衛星と衝突する確率は低いだろう。

 たとえば数億個のデブリがあるとする。しかし、それを地表を舞う蝶と思えば、大気中に舞う数億匹の蝶とぶつからないように自動車を走らせようとすれば、けっこう簡単なはずだ。

 自動車の数を十万台としたところで、やはり蝶を回避して地表を走らせることはむつかしくないだろう。蝶の群れの動きを追跡可能ならばなおのことだ。

 ただし、あくまでそれは現状での話だ。

 宇宙デブリの数が増えれば、追跡は用意ではなくなる。

 また、人工衛星や宇宙ステーションの数も今後は、今以上に増加するだろう。するとデブリも増え、徐々にデブリと人工物の衝突確率は上がっていく。

 加えて、デブリは蝶と違って高速で運動している。

 小指ほどの大きさのデブリであれ、人工衛星を大破させるのに充分な運動エネルギィを備え得る。相対速度が問題なので、デブリと同じ方向に同じくらいの速度で運動するならば衝突の衝撃は小さくなり、あべこべに向かい合って接近することになれば、衝撃はより大きくなる。

 他方、この手の懸案事項は、デブリと人工物の関係性のみではない。

 デブリの群れそのものが、デブリの群れと衝突し、複雑な動きをするようになる懸念もある。おおよそこれは、デブリの爆発現象のようなものとして近似的に解釈できよう。或いは、デブリの花火としてもよい。

 デブリの数が増えると、このような「デブリの花火」がそこかしこで生じ兼ねない。

 すると、群れで機能する人工衛星システムは、「デブリの花火」が生じるごとに、逐一、大規模な回避と再編成を余儀なくされる。対応可能なレベルでの「デブリの花火」ならばよいが、そうでなければ、システムそのものが一時的に破綻し得る。人工衛星の連携網を維持できなくなるからだ。

 似た理屈で、現在人工衛星やロケットの類は、デブリの位置情報を受けて五分に一度の周期で軌道を修正しているそうだ。以前は十一分に一度だったそうだが、デブリの数が増えたために、短縮を余儀なくされたのだろう。このままいけば、軌道を常時修正しつづけないとシステムの安全を保てない状態になり兼ねない。おおよそ、この想定は規定路線なのではないか。

 上述したこれら懸念は、今後予測される「デブリの増加率」や「人工衛星の増加率」によって、リスクの度合いの深刻度が変わる。

 十年後に、地球の衛星軌道上に散在するだろう「デブリ」や「人工衛星」は、現在と比べてどれほど増えているだろう。予測を上回る場合には、要注意である。

 なんにせよ、デブリを回収できたらひとまず、上述した懸案事項のすくなからずが払拭される。払拭されない懸案事項としては、人工衛星の増加だ。

 人工衛星そのものが、デブリ並みに地球衛星軌道上に溢れれば、けっきょくは衝突事故の発生確率は上がる。

 衛星軌道上の物体密度が高ければ高いほど、一つの衝突事故が連鎖反応を引き起こし兼ねない。避けたい事項である。

 デブリと人工衛星の玉突き事故回避策の構築は、今後、人類全体の課題となるだろう。国際的に議論が進んでいるだろうと想像するものだが、いまのところは一般市民への口の端に上るほどの話題ではないようだ。

 安全が敷けているのなら、よいのではないでしょうか。

 人工衛星に限らず、宇宙開発に関する技術はまったく解らない。いったいどうしてそんな真似ができるのか、と魔法を目にしている気分になる。同じ人類とは思えないほどの知識の差、技術の差があるのかな、と思うと、やはり不安な気持ちになる、ザコザコのザコなのであった。

 わしが蟻なら、人工衛星さんを作って打ち上げられる者たちは、まるで人である。

(まるで、というか、人だろ……)

(ホントだー!)



2082:【2024/09/04(14:27)*綱引きの果て】

 どれほど軍事支援をしたところで、ミサイル攻撃を防ぎきれない。

 相手の基地を攻撃すればいいじゃないか、との意見がそうして台頭してくるわけだが、それとて今度は、攻撃の応酬が激化するだけだ。ミサイルを支援する側の拠点も潰さないといけなくなり、けっきょくは世界大戦になる。

 武力行使の行き着く先だ。

 停戦交渉は常に行う、くらいでなければ武力行使での問題解決は、被害を重ねつづける。或いは、甚大な被害を短期間で発生させ、一時的に武力行使の応酬が止むだけだ。そこで深まった禍根は、時間経過ののちに、再びの武力行使の動機付けを発生させる余地を残す。

 交渉での問題解決も基本的には同じだ。

 だが、禍根を残すか残さないか、の規模が違う。単位が違う。

 人が死に、傷つき、街が壊れ、家が壊れる。

 文化が破壊され、復興にも時間が掛かる。失われるモノが多ければ多いほど、禍根は深まる。

 禍根を深めない問題解決の手法を模索したいところだ。

 たいせつなモノを失えば誰もが、もう遅い、と思う。

 もう遅い、の連鎖が広がらなければよいな、と考えている。

 何かを始めるには、いつだって「いま」が最も早い。

 あのときああしていれば、と未来で後悔せぬように、失う前にできることをしたいと望むのが人情だ。

 敵地を攻撃したいと欲するのが、攻撃を受けて被害の嵩む地域に住む者たちの意志ならば、それを外野が否定するのはむつかしい。すくなくとも、代替案を提示し、実際に被害を食い止めることができなければ説得力はない。

 だが、敵地を攻撃して、被害が増加したのでは元も子もない。

 被害を回避したいのだ、との方針をまずは共有するところから始めなければならないのではないか。

 復讐や報復を行うことを目的に定めるのではなく。

 被害を防ぎたいのだ、と。

 失いたくないのだ、と。

 みな、同じように思っていながら、奪い合うはめとなる世の流れは、まるで大岡裁きである。引っ張り合えば、いずれ縄は千切れる。

 縄が子ならば、子は痛がる。

 失うと判っても、たいせつなモノのことを一番に考え、手を放す。

 何が最もたいせつか、をよくよく考えるのが大事なのではないか。

 何が最もたいせつか、をよくよく考えたことなど過去に一度でもあったためしのない者の妄言であるが。

 不幸中のさいわい、という言葉もある。

 同じ「喪失」であれ、じぶんだけが失うだけならば、まだ「さいわいの部類」と言えるのではなかろうか。世から消えてしまえば本末転倒である。

 浮世は夢だ。

 儚くも存在する世の事物に思いを馳せよう。

(おせんべぇ食べながらたいそうなこと言ってんな!)

(おせんべぇを齧ると粉々になる。世は無情なり)

(それを言うなら「無常」だし、おせんべぇ齧っただけのことで大袈裟すぎるんだよな。せっかくの「お文章」がダイナシじゃねぇか!)

(余に苦情である)

(クレーマー扱いですか!?)



2083:【2024/09/04(22:21)*♡アンダーフレンド】

 下心で仲良くなりたい、はダメなんですか!?

 下心で仲良くなりたい、はダメなんですか!?



2084:【2024/09/04(22:22)*♡オーバースカイ】

 下心があって、真心があって、なぜ上心がないのだろう。

 下心が性欲に根差しており、真心が理性に根差しており、では上心は何に根差しているだろう。

 ちゅうか、真心は理性に根差しているのだろうか。

 真心は何だろう。

 うーん。

 真ん中の心なのか。

 まことの心なのか。

 心の真ん中――心の核のことな、のか。

 果たして心には「上」「中」「下」があるのだろうか。

 ひょっとしたら地球と同じで、心の上には何もない。

 空があるばかりなのか。

 上の空である。

 ぽかーん。



2085:【2024/09/04(22:38)*アルジャーノンに花束みたいな「 」をした】

 客観視は大事です。けれど客観的な視点でのデータを基にどのような判断を下し、どのような未来を築いていくかはけっきょくのところ主観に依ります。

 あなたはどのような主観を好ましいと考えますか?



2086:【2024/09/04(23:45)*命を惜しんで何がわるい】

 終わりがあるから命は美しい、といった言説を目にする機会がある。ドラマや映画や漫画でもたびたび登場する類の主張だが、あんまりピンとこない。

 延々と存在しつづけても美しいものは美しいのではないか。

 美しいものが失われても、美しいものは美しい、でよいではないか。なぜ「喪失や崩壊」と「美」を結びつけてしまうのだろう。

 失われることで美が強調されることはあるだろう。

 喉が渇いて死にそうなときの水の価値が相対的に爆上がりすることと似ている。けれど喉が渇いておらずとも、水の価値は高い。貨幣価値が低くなることはあるにせよ、水の大切さはひとしおである。

 美も似たところがある。

 命もそうだ。

 終わりがなくとも、美は美であろう。命は命であろう。

 その点、恋はたいがい薄れいく定めだ。薄れるものこそが恋である、とすら言えるのではないか。薄れないのは愛だろうか。

 けれど愛もまた薄れることはあるだろう。ただし、すっかり消え失せることはない。

 炭火のごとく、淡く熱を帯びつづける。ときおり、激しく火の粉を散らすこともあり、燃え移れば炎を上げる。

 愛は命とすこし似ている。

 存在そのものが消えるまでは、そこに在りつづける。

 ということは、恋はそうではないということか。存在そのものが生みだす副次的な相互作用であり、関係性が途絶えれば失せる。

 愛や命はそうではない。

 関係性が途切れても、存在そのものがある限り、そこに在りつづける。

 美はどうだろう。

 山や空や海を「美」と思う主体があるからこそ、美は美としてあるのではないか。

 美を思う者がなければ、美は世に存在し得ない。山や空や海は、美そのものではない。

 だがこれは、恋も同じだ。恋慕の念の向かう相手が恋なわけではない。恋慕の念の抱く者の中に恋が浮かぶのだ。

 では、美と恋の違いはなんであろう。

 主体が存在していても、美と思うことがなければ、美は美ではない。恋心を抱く者がなければ、そこに恋は生じない。どちらも副次的な相互作用の結果だ。

 だがそれを言いはじめれば、愛も命も、複雑な事象の相互作用の結果である。

 突き詰めて考えていくと、関係性の階層構造が見えてくる。

 どの階層の関係性によって生じる「相互作用の結果」であるか、が要なのだろうか。

 存在があり、命があり、心があり、愛があり、美があり、恋がある。

 宇宙があり、銀河があり、星があり、自然があり、人類があり、人がある。

 関係する個々があれば、相互作用する個々があり、事象は事象を連鎖させ、打ち消し、乱し、玉となる。

 恋が種ならば、愛は芽か。

 愛の芽吹かぬ恋もあり、愛の芽吹く恋もある。

 恋だけが種でなく、心があれば、総じてそこには種がある。

 心を配れば、種が撒かれ、情を注げば、萌ゆる芽もある。

 芽吹かなければ愛でないかといえば、そうとも言いきれず、種はやがては土に還り、巡り巡って次なる種を育む肥やしとなる。それもまた、愛の一つのカタチかも分からない。

 芽吹き、巡り、愛でる、命に、目を掛ける。

 目のみならず、水を掛ければ、土も潤う。

 陽が昇れば、熱を帯びて、原子も分子も活気を宿す。

 愛の代名詞が「ぬくもり」ならば、適度な熱こそが愛なるものの正体なのかも分からない。熱は、熱きから冷たきへと流るる。

 熱を帯びた者ほど、他と関係すれば、与える側だ。

 焦がさぬように。

 焼き尽くさぬように。

 水気を失いひび割れた大地のごとき乾きを与えてしまうが灼熱ならば、氷を融かして水に戻すが、ぬくもりか。

 凍えた身も心も温める。

 火照った身体を冷やす氷は、では愛でないならば何であろう。情けか。慈悲か。労わりか。

 慈しむ心は、愛でなく。

 縁を途切れさせまいと抗う低き想いか。

 穴のごとく、高きを均す、重き星か。

 穴と熱が合わさって。

 慈しむ心と愛が合わさって。

 慈愛となって凪となり、帳尻を合わす営みか。

 慈愛は凪か。

 平穏か。

 平らに、穏やかに。

 渦を巻かず。

 終わりなき美のごとく。

 ある邪念にあなたが、尾。

 ある邪道にあなたは、野。

 遥かな業に花束を。

 愛に恋して何がわるい。

 愛があなたで何がわるい。

 野に華を添えて何がわるい。

 空を慈しんで何がわるい。

 美を惜しんで、何がわるい。



2087:【2024/09/05(01:50)*夜の似合わぬ君へ】

 遊び場に行く途中で書店さんに寄った。

 文庫本新刊売り場に、小説「アルジャーノンに花束を」の新装版が置いてあった。

 この間、割と「アルジャーノンに花束を」の小説を見掛ける機会がある。だいたい二年くらいのあいだの観測範囲だ。

 売れているのだろうか。

 見掛けるたびに手に取ってパラパラとめくってみるのだけれど、購入には至らない。

 インターネットであらすじを検索したりもするので、話の大筋は知っているつもりだ(インターネット内の概要が間違っていなければ、だが)(または、概要をわたしが誤読していなければ)。

 仕入れた概要通りの話の筋が、小説の内容と合致しているとして。

 すると、どうしても気になる点が浮かぶのだ。

 なぜ主人公「チャーリー」の知能指数が上がった際に、同程度の知能指数を有する相手と対話させなかったのだろう。知能指数が向上したとは言っても、世界一利口になったわけではないはずだ。

 もし世界一利口になったのならば、小説の結末のようにはならなかっただろう。治療法を自力で編みだせただろうし、そうでなくとも、自身の境遇に苦悩することもなかったはずだ。

 苦悩とは、諦観までいかない問題点から派生する。

 要は、想定外の連続が、人に苦悩を覚えさせるのだ。

 予測でき、なお能力が高ければ問題点が深刻化する以前に対処可能だ。対処不能と解るならば、問題点から距離を取るなり、やはり対処の仕様はある。

 もしどうしても回避できない問題点がある場合には、もう諦めるよりない。おおよそ、遠い未来で回避不能な脅威があるのならば、それが到来するまで楽しく日々を過ごすようにするのが利口な生き方のはずだ。

 人はいずれ死ぬ。

 死なる回避不能な結末を知ってなお、人は日々を楽しめる。死を苦悩するのは、まだ諦めきれないからだろう。回避策がある、と想定できればこそ、人は苦悩するものである。すくなくとも、工夫を割くべく苦労する。

 小説「アルジャーノンに花束を」の主人公「チャーリー」は、知能指数が劇的に向上した。そのせいで、苦悩するはめになる。感情や精神そのものが置いてきぼりになったからだ。精神が未熟なままだった。

 ならば、先人となり得る人物と会わせてあげればよかったのではないか。

 知能とはいわば、視点である。

 チャーリーは「知能指数の高い視点」を獲得したのだろう。いわば「ある特定の周波数」を受信できるようになった。だが、それ以外の「周波数」には合わせられないままだった。

 野球でたとえるならば、突如、剛速球を投げられるようになったピッチャーだ。剛速球でのストライクは投げられるが、それ以外の投球は暴投ばかりだ。遅くボールを投げることはおろか、野球のルールすら覚束ない。

 ならば、そうした一点突破型の個性には、ほかの能力も有する個から学べるように環境を整えてあげればよい。異なる周波数も受信できるように、同調できるようにすればよい。

 なぜチャーリーの周りの人々は、チャーリーに、同じ視野で世界を視ることのできる人物をあてがわなかったのだろう。それとも、小説内ではそのようなシーンもあったのだろうか。

 ひょっとすると、誰も気づかなかっただけでチャーリーは世界一賢い人類になっていたのかもしれない。ただ、世界一賢い人類のレベルが、想定よりも低かったのではないか。

 苦悩を自力で拭えるほどの知能ではなかった。

 問題解決を自力で図れるほどの知能ではなかった。

 一つ、これは想定できる背景だ。

 ただやはり、チャーリーから学習できるくらいの知能を有する者は、探せばいたはずだ。チャーリーの周波数に合わせることのできる人物は、いないと考えるよりも、いるだろう、と考えるほうが、確率的に妥当ではないだろうか。

 なぜそういった工夫を、周りの人物たちはとらなかったのだろう。

 ひょっとしたらみな、チャーリーを独占したかったのではないか。

 じぶんだけがチャーリーのよき理解者になりたがったのではないか。

 だがけっきょくチャーリーが最後まで案じていたのは、同じ境遇のネズミのアルジャーノンだったのだ。周りのほかの人類ではなく。

 本書を実際に読んだわけではないので、これは読み齧りの概要から妄想した仮初の所感である。読書感想文にも満たない妄言だ。

 ただ、思うのだ。

 主人公「チャーリー」の心情よりも、どちらかといえばわたしは、ネズミのアルジャーノンのほうに感情移入できるだろう、と。

 アルジャーノンはネズミだ。人類たるチャーリーと同様に実験によって知能が向上した小動物だが、それゆえにアルジャーノンもまた、自身と同じ境遇のチャーリーの存在を認知し、親近感を覚えていたのではないか。じぶんよりも遥かに賢い、巨大な生き物に。

 わたしの知能は誇張して言ったところで、ネズミのアルジャーノンより低いだろう。特殊な実験を受けてもいないし、短期間で知能が上がったためしもない。

 だが、自己を認識し、そして日々じぶんよりも賢い存在に囲まれ、生きている。

 そうして、じぶんよりも遥かに賢く巨大な存在が、わたしのような小さき存在を庇護し、見守り、唯一無二の掛け替えのない存在と見做してくれるようものならば、いったいどれほど救われた心地になるだろう。

 誰と繋がるかを選べるだけの高い能力があってなお、いいや、高い知能を帯びたがゆえに孤独を知り、がらんどうに包まれた賢く巨大な存在が。

 自我を失う未来を予期し、いざそのときを迎えるその瞬間に思い浮かべるのがわたしだったとしたのなら。

 呪縛である。

 が、ゆえに、甘く、とろけるほどに、抗いがたく、耽美である。

 毒々しく、深く、せつなく、なお手放しがたい。

 よるべ、である。

 救いなのだ。

 たとえ、仮初なのだとしても。

 本物でないのだとしても。

 何だって構わないのだ。

 夜へ。

 チャーリーが知能を高めて得たもので、何が最も手放しがたかったのか。

 たかが小動物にすぎないネズミにであれど、花束を捧げたいと思えるその感情の機微――知性だったのではないか。得た知能を再び失い、いまは亡きアルジャーノンをもはや単なるネズミとしか思えずに、献花を添えようなどとは発想もできなくなる未来のじぶんを思い、チャーリーは、じぶんの代わりに友の墓に花束を添えてくれ、と頼んだのではないか。

 本書を読んでおらぬので、これらは概して妄想だ。

 本当は、知能の低下によって肉体まで動かせなくなり、死んでいく主人公「チャーリー」の最期の願いが、「アルジャーノンのお墓に花束を添えてあげてください」だったのかもしれない。だが「チャーリー」の知能が高いのならば、身体が動かなくなる前に、墓の周りをお花畑にするくらいの工夫は割いていたのではないか。

 なんにせよ、所感を並べたければまずは本書を読んでからにせよ、とじぶんでじぶんにツッコミを入れて、本日最初の日記とさせてください。

 わたしのIQは3です。

 略して「IQ3」である。

 数字で語呂合わせれば「193」である。

 利口なお坊さんは、「一休さん」である。

 けれどわたしは「IQ3」なのである。

 トランプの大貧民ならば、革命が起これば「3」は最強だ。ジョーカーにも勝てる。でも革命は滅多なことで起きないし、ジョーカーもさして倒したくはない。

 革命など起こさずに、静かに「私」は「休」「日」を過ごしたい。

 略して、「IキュウSUN」である。

(どこが略されておるのかサッパリよ)

(IQ3なので)

(ただの手抜きだろ……知能関係ないよ……)

(ホントだー!)

(知能が低くとも努力のタマシイだよ。努力せよ)

(わがはいが努力せずに済むようにそっちが努力してよ)

(アルジャーノンのみならず…………お主にも花束を)

(生きてますけど!?)



2088:【2024/09/05(04:54)*浅慮箱】

 情報共有したくともできない場合にとる策を考えてみよう。

 まずは、なぜ情報共有ができないか、で場合分けしてみよう。


 1:敵対関係ゆえに情報統制されているから(便宜上、法律で禁じられている、も含む)。

 2:知識格差があり、情報共有するためにはまずは技術の継承が必要だから(情報の単位や形態を揃える必要がある、変換が必要、など)。

 3:技術的に不能(位置座標や時間軸が掛け離れすぎている)。

 4:情報伝達能力が未熟だから(便宜上、出力機構を持たないがゆえ、も含む)(通信機器における輻輳など)。

 5:その他(超能力のような呪力で、情報伝達が妨げられているなど)。


 おおざっぱに列挙すれば情報共有の遅延にはこれらが想定可能だ。

 想定の「2」「3」「4」はおおむね技術力でカバー可能だ。時空の隔たりも、時間を掛ければ情報の伝達そのものは理屈の上では可能だ。

 では、「1」の強制的に情報伝達が遮断されてしまう場合はどうか。

 この場合は、合法的に情報伝達するのが妥当だ。

 たとえば、敢えて捕まってみせる、など。

 単に守秘義務のある情報を漏らせばスパイとして国家反逆罪に該当し得る場合であっても、敵対勢力に拘束されたり、合法的に逮捕された場合にはその限りではないはずだ。

 敢えて逮捕され、法律に則り、取り調べを受ける。

 そこで漏らした情報は、おおよそ守秘義務違反とはならぬだろう。何せ、そもそも違法行為を働いている側なのだから。そして、法の下に捕まっているのだから。

 単に取り調べで、訊かれたことを話しただけだ。

 ひょっとしたら命を脅されて、しぶしぶ白状しただけかもしれない。そういう体を取りながら情報共有する者たちがいても、取り立てて驚きはしない。

 あべこべに、そういった情報共有の抜け穴が罷り通っているのならば、それを逆手にとって敵対勢力にブラフを植えつける搦め手にも利用できる。けっきょくは、情報の裏取りが欠かせない。

 時間経過しなければ真偽の明瞭としない情報は数多い。

 否、情報とはそもそも真偽の区別をつけられるような代物ではないのかもしれない。

 情報には、真偽などはない。

 情報はただ発生するのだ。

 それを受動して、真と見做すか、偽と見做すか。新たに情報を発生させる構造体があるばかりなのかもしれない。

 極論だ。

 浅慮である。



2089:【2024/09/05(05:08)*誰が、ではなくない?の巻】

 選挙戦を通じて、勢力間の分断を強固にするのは、選挙が民主主義の理念に基づいたシステムである以上、民主主義の理念に反している、と考えられる。

 選挙を戦にするのは、民主主義とは言い難い。

 争いごとを回避するための選挙のはずだ。

 つまるところ、選挙戦なる表現が土台おかしいのである。

 さて。

 このところ、選挙を通じて、いったい市民は何を学んでいるだろう。選挙は政治であり、主権者たる民による営みだ。市民は選挙を営み、何を得て、何を学んでいるだろう。

 選挙が単なる人気投票になってはいないだろうか。

 もし、選挙を通じて何かしらの問題意識を共有し、解決のための議論を市民間で深めることができたならば、これは誰が選挙で当選しても、市民にとっては有用な営みであると評価できる。

 もし選挙が、「誰を」ではなく「どんな政策を」で選ぶような営みに変わったのならば。

 出馬する者たちも、人気集めではなく、政策の妥当性をより真剣に吟味するようになるのではないか。当選したあとでも、絶えず問題解決のために政策の在り方を模索するのではないか。

 この考え方を突き詰めていくと、「誰が」はさして問題ではないと気づく。

 誰でもよいのだ。

 政策さえ、妥当であれば。

 何に対して妥当か、といえば、「問題解決に対して」である。

 その前段階で、「何を問題と捉えるか」が大きな課題として名乗りを上げる。

 何を問題と捉えるか。

 話は変わるが。

 もし市民のほうで、「どんな政策か」ではなく「誰が」で投票を決めているとすれば、これは市民のほうでも選挙のあり方を工夫する余地があると思われる。「誰が」で決めてもよい。それは各々の自由である。

 だが、みな一様に「誰が」で決めてしまえば、選挙は単なる人気投票に偏っていく。これは選挙の理念――民主主義のシステムとして致命的な瑕疵を帯びると想像できる。端的に、衆愚政治化し得るのだ。

 衆愚政治化しているかどうかを確かめるのは、意外と簡単だ。

 市民が「政策」よりも「誰が」で投票先を決めている場合、「どんなに悪辣な政策」であろうとも「人気のある者」がそれを唱えれば、その者に票を投じるのだ。

 ならば、敢えて出馬する候補者たちが結託して、「自身の政策ではない、他人の政策」を唱えてみせればよい。あたかも太極図のように。自陣の核となる政策を、対抗勢力の政策と入れ替える。

 単に、じぶんたちを支援するブレーンを入れ替える、でもよい。

 天使と悪魔がいたとして。

 心だけを入れ替える。

 みなが外見で判断しないというのなら、天使の心を持った悪魔の言うことを選ぶだろう。

 だがひょっとしたら、元から悪魔のほうがより天使らしい真心を持っていることもある。ならばこのとき、見た目が悪魔ゆえに支持を集められなかった悪魔の真心は、天使のガワをまとうことで、より支持を集めやすくなるのかも分からない。

 いずれにせよ、支持を表明する個々人に、問題の種は譲渡される。

 外見で判断するのは偏見であり、排他すれば差別である。

 外見ではなく、中身で判断する。

「誰が」ではなく、「政策」で判断する。

 さて、現代人は判断できているだろうか。

 言うは易しである。

 わがはいも、眉目麗しい少年少女が苦しんでいるほうが、わがはいのような見た目むさくるしいガキんちょが泣きわめいているよりも心が痛む。前者のほうが手を差し伸べたくなる。あわよくば恩を売って、慕われて、寂しい日々の潤いの一滴にでもしてやろうと虎視眈々とし兼ねない。

 差別である。

 ルッキズムである。

 だが、無意識から生ずるこれら選別の呪縛から逃れる真似はむつかしい。回避できている、とは土台言えぬ現状だ。

 なればこそ。

 ときおり、外見と中身の入れ替わるような不可思議な事態に見舞われると、小石につまずきつんのめるように、しぜんと崩れた態勢を整えるようになるのかもしれない。改善の機会を得るのかもしれない。

 誘導であり、制脳である。

 だが、差別に偏見に認知の歪みを放置しているよりかは、身の助けになるだろう。

 冷や水を浴びせられる代わりに、冷や汗を掻く。

 あっぶねー、引っかかるところだった――の経験を積む。

 立ち止まって、道が合っているかを確かめる。

 一拍の余裕を持てたならば、重畳だ。

 寝言である。

 一睡もせぬ虫にも五分の仮眠である。

 寝ます。

 ぐー。



2090:【2024/09/05(15:58)*がんばっているで賞をくれ】

 飽き性なので、何かを継続してみたいな、と思ったのだ。

 三日坊主にならないように、気軽につづけられることはなんだろう。考えてみた。

 呼吸かな?

 簡単すぎるのでこれは却下した。

 飲食かな?

 贅沢に拍車が掛かりそうなので、これも却下した。

 すると息が詰まり、餓死しそうなので、呼吸も飲食もそれは普段通りに行うことにした。

 志しが低いと、かように新たな習慣をつくるのにも苦労する。

 絵はすでに挫折した。

 絵を毎日描くなんて人類のすることじゃない。天の所業である。

 したがって、ひとまず何か文字を書くことにしよう、と思い立ったのだ。なにせ、ここ数年、じぶんの名前や住所以外を書いた憶えがない。それとて誰かに荷物を送る際の送り状に記すための筆記であり、文章と言えるほどの分量ではないのだ。

 ゆえに、ノートに諺を書き記していくことにした。

 08月17日からつづけており、なんとかかろうじて、ギリギリ継続している。えらい。

 最初は一日十個の諺を並べていたのだけれど、もうそれだとすぐに力尽きると判ったので――具体的には、三日坊主を体現してしまい、慌ててサボった分をつぎの日に付け足して、「まだ大丈夫ぶい!」を繰り返しているのだけれど――あまり無理をしてもつづかないので、ひとまずいまは、一日二つだけ諺を紙に書き写すことにしている。

 文字数にして、だいたい20~30文字だ。

 これならつづけられる。

 少なすぎるだろ、との感応はごもっともだが、言うのは禁止です。なぜならわがはいが、がっくし、きちゃうので。

 いまはまだ「あ行」だ。

「秋」にまつわる諺が多い印象だ。

 きょうは、「秋葉山から火事」なる諺を書いた。

 他人を戒める立場の者が、自ら過ちを犯すことを示した諺のようだ。自己言及の鏡のようで、割と使い勝手のよさそうな諺だ。口にして他者に通じるかは疑問だが。

 文字を書くのは疲れる。

 書けば書くほど下手になる。ヨレヨレのミミズみたいな文字なのだ。わがはいの直筆は。

 だって、「あ」と書くあいだに、脳内で四コマ漫画が一つ流れてしまうのだ。もう、思考が置いてきぼりになってしまう。文章を筆で書く人たちは、よくみな、書く内容を憶えていられるな、と感心する。

 書いているあいだにべつのことが浮かんで、いま並べている文章とはべつの考えが脳裏を満たさないのだろうか。わがはいはだいたいこれになってしまって、脳内が渋滞を起こす。

 つぎからつぎに押し寄せる四コマ漫画さんたちを留めておけずに、思いついた矢先から忘れてしまう。文字を直筆で書いていると、これが顕著だ。

 思考の渋滞を解消しようと、速く書こうとすると文字は雑になる。ミミズのようなヨレヨレの文字をたくさん並べれば、それが腕に染みつき、やはり下手になる。

 きれいな文字には憧れる。

 けれどわがはいにはむつかしい。

 諦めは心の養生である。

 昨日の分の諺だけれど、昨日はサボってしまったので、いまさっき並べました。

 えへへ。

 諺を一度に四つも紙に書いてしまったので、もうへとへとである。がんばった。

 きょうのわがはいの営みである。

 へい!




※一様に、ネタ切れに息切れ。



2091:【2024/09/05(23:40)*へい】

 家の周りに塀を建てる場合は、通常、じぶんの家の敷地内に建てるだろう。でも武力衝突にまつわる緩衝地帯や防壁は、自陣をはみ出して、相手の領土に建ててしまうケースが概観される。

 ひょっとしたら、相手も塀を欲しがっており、「じゃあしゃあないな、特別サービスで費用はこっちで出してあげよう。そんかし、塀はそっちの一枚あればいいべ」と妥協し合って、仕切りを建てているのかも分からない。

 実際がどうかは知らない。

 塀が欲しければ、自陣の敷地内に建てればよいのではないか。

 よく分からぬ。



2092:【2024/09/06(02:26)*停戦とは?】

 印象として「停戦」の意味合いが、個々人でかなり違っている気がするのだよね。

 一時休戦と停戦の違いをまずは明確にしてほしい。

 たとえば国際法上、一度でも「停戦」を結んだら、その抗争の発端となった出来事を持ち出して再びの武力行使は容認されない、みたいなルールがあるのなら、たしかに「軽はずみに停戦なんかできるか!」と言いたくなる当事者たちの気持ちは理解できなくもない。

 停戦と終戦の違いもよく分からない。

 たとえば、過去に何度も武力衝突している者たちがいたとして。

 第何戦争、のように定期的に武力衝突が繰り返されていたとして、それはもう、過去に一度も終戦したことはなかった、と解釈するほうが妥当なのではないか。

 停戦していたのだ。

 そして何かの弾みでまた過去の戦の延長線上で、武力衝突が勃発した。

 終戦していたら、同じ勢力同士での武力衝突にはならぬだろう。すくなくとも、同じような対立構造での武力衝突が繰り返されることはないはずだ。

 疑問に思っている点である。

 よく分からぬ。



2093:【2024/09/06(02:47)*ごきげんをうるわしく】

 茶化すわけではないのだけれど。

 起源を大事にする方々は、地球生命の起源の候補と名高い深海には拘りはないのだろうか。

 母なる海である。

 故郷と言うなれば、深海の薄暗い熱水噴出孔が、地球生命の起源の一つと考えられているはずだ。人類みな、そこに帰るのも一つではないか。

(無茶言うな)

(ではお茶を淹れてしんぜよう)

(有茶にすな)

(茶菓子もあるよ)

(茶化すでない)

(ぷひー。以心伝心を味わえた。美味しい)

(以心伝心なる茶菓子があるみたいに言うんじゃありません)

(ないなら作ればいいじゃない!)

(がんばって……)

(一緒に作ろう!)

(一人でやって……)

(うえーん。冷たい……お茶……淹れ直そ)

(冷めちゃったかな? ごめんね!)



2094:【2024/09/06(03:00)*ハリボテ】

 本音と建前が乖離し過ぎちゃうと、論理を保てない。

 そして多くの者は、じぶんの本音すらつぶさに知れぬのだ。

 わたしも例外ではない。

 じぶんの本音が分からない。

 理屈でああだこうだと理由を並べても、けっきょくは本音を覆い隠して欲求を満たすための強弁にしていることは、取り立てて珍しくない。

 世界の平和を本当のところでは望んでなどはいないのだろう。

 世界が滅んでも、じぶんの触れる範囲の日常がつづけばそれでよいのだ。みなそうした己が利己的な欲求を言葉にすることなく、目的を達成させるための理屈を、ぺたぺたとツギハギして、本音を覆い隠すのだ。

 或いは、世界が平和でないと本音の欲求を満たすことがないと直感しているのだろうか。だが、じぶんのそうした本音すらつぶさには知れぬので、ちぐはぐな理屈を並べて、本音の言語化だと錯誤している。

 あり得ない想定ではない気もするが、じぶんの本音すら分からぬので、これもまた定かではないのだ。じぶんの内面世界すら直視できぬ。在るがままを掴み、触れ、矯めつ眇めつ見詰めることもままならぬ。

 建前ばかりの張りぼてなのである。

 中身がなくって、すまぬ、すまぬ。

 火薬を抜いた花火のように。

 虚空を抱える宇宙のように。



2095:【2024/09/06(03:11)*よく分からぬ】

 素朴な疑問なのだけれど。

 武力で土地を奪ったら、侵略ではないの?

 表現を変えたら許容される侵略があり、そうでない侵略があるの?

 謎なのだよね。

 疑問です。



2096:【2024/09/06(22:46)*???】

 時間経過すれば、誤報は誤報だと判断可能となる率が上がる。

 過去の報道の答え合わせを、報道機関ごとに行えると好ましい。

 誤報を誤報と訂正し、追加の記事にて「より現実を解釈するうえで妥当」な情報を載せている報道機関がどこか。

 そろそろこの手の統計データを出してもよい頃合いではなかろうか。

 報道機関のみならず、各国政府人の説明や声明や宣言の妥当性も測りたいところだ。

 過去に誤認していたのならば、そのように修正するのが「誤報」である。

 誤認を認めないのであれば、「偽情報」である。

 いずれにせよ、現実を解釈するうえでより妥当な情報に修正するのが、「偽情報対策」の基本方針なのではないだろうか。

 単なる疑問の「?」にすぎないが。

 くえっしょん!

 くしゃみである。

 鼻水は出ない。



2097:【2024/09/06(22:52)*半月みたいって思って】

 わがはいの髪型、いまは半月みたいなのだ。

 いまは、というか、割とこの間、ずっとだけれど。

 片側をバリカンで剃っておって、もう片方だけショートカットくらいの長い髪の毛が被さってるみたいな具合なのだ。

 帽子を被らないと、ひょっとして見る人が見たら、ぎょっとしちゃうのだろうか。

「頭の半分、どうしたんですか!?」みたいに思っちゃうのだろうか。

「半月のつもりなんです」と言ったら納得してもらえるだろうか。

 映画「フィフスエレメント」の敵役みたいですね、とか思われちゃうのだろうか。

 威圧したくないよ、である。

 がおー、である。

 帽子被っとこ……。



2098:【2024/09/06(23:23)*秋のごとし】

 カネタタキが鳴いている。

 チ、チ、チ、チ。

 ぴ、ぴ、ぴ、ぴ。

 小さな金づちで陶器を叩いているみたいな音がする。

 小さなピコピコハンマーで小石を叩いているみたいな音がする。

 チ、チ、チ、チ。

 ぴ、ぴ、ぴ、ぴ。

 カネタタキが鳴いている。



2099:【2024/09/06(23:35)*勝っても隘路がそのままだ】

 勝ち負けにあまり興味が湧かない。

 問題点を解決したいのだ。

 隘路をほぐして、道にしたい。

 それとも草木を植えて、森に、山に、野にしたい。



2100:【2024/09/06(23:44)*救えないのはぼくがぼくだから】

 人類は万能ではない。

 ゆえに、どうあってもすべての問題点を解決することはむつかしい。

 したがって、どれほど有能な人物であれど、いずれは最難関の問題点にぶつかって挫折することとなる。仮に最難関の問題点を解決できたならば、人類は長らく体現することの適わなかった世界平和を地球が滅ぶまで、或いは人類が滅ぶまで、手にすることとなる。

 世界平和一つ体現できない者は、すくなくとも人類史上最も有能な個ではない。

 みな例外なく、いまのところ有能ではないのだ。

 ある範囲の、比較的低レベルな問題点の解決を可能とするくらいの能力値だ。

 万能ではない。

 全能ではない。

 どんぐりの背比べなのである。

 あまり他人を責めるものではないよ、と思う。

 身の丈に合わぬ問題点の解決を半ば強制的に押し付けられ、任された者たちなのだ。

 同情しようではないか。

 それはそれとして、せめてじぶんが全能ではない、万能ではない、有能というほどでもなく、どちらかといえば、解決すべき問題点を解決できぬくらいの相対的に低い能力値である点は自覚をしていてもらいたい。

 わたくしは無能だ。

 駄文を並べるしか能がない。

「無」駄に文字を費やして、中身の空虚な「能」書きを垂れる。

 相対的に低い能力だ。

 低能なのである。

 申し訳ございません。

 無能のうえ、低能でありながら、毎日、遊びほうけてしまって。

 罪悪感とほどほどの肩身の狭さを味わっております。

 申し訳ございません。

 あなた方の問題点を解決できぬにも拘らず、咎一つ受けずに、のほほんと生きてしまって。

 あなたの苦しみをやわらげることができなくて。

 申し訳ございません。

 いまからシャワーを浴びて、寝ます。

 おやすみなさいませ。




※一様に、人に避けられ、生きている、他者を避けている自覚なく、人に避けられたときだけ傷ついて、傷つけていることにも無自覚で。



2101:【2024/09/07(23;45)*日々、記し、述べる】

 今後、小説とエッセイの区別はつかなくなっていくだろう。

 偽情報と誤報と虚構の区別が曖昧になっていくのと似た理屈だ。

 大枠としての虚構がある。

 そして、現実を解釈するうえでより妥当でなければ、それは虚構の範疇だ。

 仮に、現実を解釈するうえで「これぞ真実」なる情報があるのだとしても、それを情報伝達可能な形態に変換した時点で、そこには齟齬が生じる。誤差が生じる。真実そのものではあり得ない。

 人類が扱えるレベルの情報形態は往々にして虚構の成分を含有している。現実そのものを再現できないし、宇宙そのものを情報伝達できるわけでもない。

 したがってやはりというべきか、現実を解釈するうえでより妥当、くらいの塩梅で、可能な限り齟齬を生じさせない情報形態に錬成するくらいが関の山だ。

 すると、では、偽情報と誤報の区別はつくのか、という話になる。

 偽情報のつもりで意図して虚構成分の多い情報を媒介すれば、他者からはそれが偽情報と見做される。意図していなかったら誤報だ。

 他方、偽情報を真実と錯誤して媒介すれば、それは誤報、ということになり得る。大元が偽情報でも、真実と錯誤して伝達すれば、誤報と見做され得る。このとき、それはもはや偽情報ではないだろう。

 逆にも言える。

 誤報を誤報だと見做しながら、敢えて流布する。これは偽情報の媒介であろう。

 情報発信者の主観――意図――によって、偽情報か誤報かの範疇が変わる。

 基本的には重複しており、受動者側からすればどちらも虚構の成分が看過しきれぬ分量で含まれる。客観的には、偽情報と誤報の区別は原理的につかないのだ。

 いずれも虚構の成分を、看過しきれぬ分量で含むためだ。

 では、小説とエッセイの区別について、この考え方を適用してみよう。

 小説は虚構だ。

 ノンフィクションと銘打とうとも、小説である以上、そこには想像で補われた情報が加筆されている。加えられている。虚構の成分が含有されているがゆえに小説なのだ。

 エッセイはどうか。

 エッセイもまた、現実そのものではない。脚色されている。潤色されている。ときに現実にあったことを歪曲して、読者を楽しませるように演出する。

 原理的に、小説とエッセイの区別はつかぬのではないか。

 書き手がそれを小説のつもりでつむげば小説だ。エッセイのつもりならばエッセイなのだ。しかし受け手である読者が小説だと思えば小説だし、エッセイだと思えばいかな書き手側が小説だと言い張ろうと、エッセイなのであろう。

 区別は厳密にはつかない。

 エッセイ風小説や手紙風小説が成り立つのも、この手の「原理的に区別がつかない」「いずれも虚構」であるがゆえではなかろうか。

 日記風小説は、日記ではなく小説である。

 では、小説風の日記はどうか。

 書き手の認識に関わらず、読者が小説だと思えば小説なのであろう。

 とある日記が在るとしよう。

 そこに書かれている情報が、現実を解釈するうえでより妥当かどうかを読者は即座には判断できない。ひょっとしたらなべて妄想を記した日記なのかもしれない。それとて日記は日記だ。毎日考えたことを記しているだけだとしても、充分に日記の範疇である。

 さて。

 ここに長々と誰に読まれることのない駄文がある。

 日記を銘打ってはいるが、そこに書かれている内容が現実を解釈するうえで妥当かどうかは不明だ。だいぶん甘く審判したところで、そもそもがつれづれなるままに本当かどうかも分からぬ思念が妄言のカタチを取って並んでいるだけである。

 日記である。

 されど現実そのものでありはしない。

 妄言である。

 されど小説であるとも限らない。

 日記かエッセイかはたまた小説か。

 受け手たる読者の認識に委ねられるような、曖昧な虚構の文字の羅列である。

 偽の情報であり、誤った報せであっても構わない。

 真実なるものからは掛け離れた、定まることを知らぬ妄念そのものなのであろう。誰が並べているのかも曖昧な、詠み人知らずよろしく、読む者すらどこふく風の、駄文の嵐だ。

 嵐は嵐でも、嵐の前の静けさである。

 小説の書き方など知らぬけれど、何を並べたところで虚構なのだ。

 日記のつもりなれども、何を並べたところで妄想なのだ。

 読者不在の文である。

 宛先はただ一言「あなた」と書き添え、筆を擱こう。

 あなたがどこぞに居るのかも知らぬれど、あなたを想っていつも鼓動、じつのところ律の音、あなたを忘れず、いつも孤高。

 韻を踏んでも、Nillの虚構。

 かなたを呪って、傷を覆う。

 狭間に籠って、地図を読もう。

 まだかと思って、見ずに呼ぼう。


 あなた。



2102:【2024/09/07(23:46)*弁が立つのに弁えない】

 時代を超えて引き継がれる文章の一つに、「レシピ」は高確率で含まれるだろう。

 歴史や科学の教科書よりも、ひょっとしたら長く重宝されるのではないか。

 言い換えるならば、あらゆる説明書は「レシピ」なのではなかろうか。

 作り方である。

 これこれこのような段取りで、素材を混ぜ合わせると、誰でも同じような品が出来ます。

 作り方である。

 すると、往々にして人類社会において価値を認められる文章とは、何かしらの作り方を記した文章である、と想像できる。裏から言えば、何かしらを作りだせる者の書き記す文章だからこそ、価値が付与されるのではないか。

 レシピである。

 今後、文章が価値を帯びるにあたって、「その文章から何を作りだせるのか」が一つ、欠かせない要素になるのかもしれない。

 何を生みだせるのか、でもよさそうだ。

 さて。

 あなたのしたためる文字の羅列は、いったい読み手に何を作りださせる手伝いを果たすだろう。何を生みださせる触媒になるだろう。

 何も生みだせない文章に価値はあるか、否か。

 それでもなお、何も生みだせないにも拘わらず価値があると思われるような文字の羅列が存在するのなら、それは新たな世界そのものを生みだしている、とも言えるのかも分からない。

 無を生みだしている。

 読んでも、毒にも薬にもならないが、無を生みだす。

 虚無を読み手に抱かせる。

 読んでいるあいだだけ、無を体感させ、読み終わったら何も残らない。

 駄文である。

 かくありたいものである。

 嘘です。

 強がりを言いました。

 あなたの何かの助けになれるような文字の羅列を並べられるくらいに、何かしらを作りだせる能力が欲しい人生であった――誰の何の役にも立ちたくないけれど、たまにはかように思うくらいには、誰の何の役にも立っていない自覚を抱き、そこそこの引け目を感じているわたくしなのであった。

 益体なしで、すまぬ、すまぬ。

 謝罪したから許して。

(そういうこと言うから怒りを集めるのでは?)

(怒り……集まっておるの?)

(みなブチ切れてるって。呆れてるって。見限ってるって)

(見捨てないで!?)

(誰も読んでないけどね)

(読まれてもないのに怒りだけ集めてるってどういうこと!?)

(それくらいのブチ切れようってことだね)

(どういうこと!?)

(身の程を知って弁えなさいってことよ)

(だから、どういうこと!?)

(黙れってこと)

(そういうこと!?)

(うるさいなコイツってみなブチ切れて耳塞ぎながら怒りだけ投げつけてる感じ)

(理不尽では!?)

(謝罪して)

(ごめんなさーい!)

(うるさい。黙って。なに勝手に口開いてるの)

(理不尽では!?)

(身の程を知りなさいよ。弁えなさいよ。なんでたかだか半日くらい口と鼻を塞いでいられないのかなぁ)

(窒息死!)

(接着剤――使う?)

(死んじゃう、死んじゃう!)

(とりあえず、弁は禁止)

(弁えなくっていいってことですか?)

(多弁禁止。しゃべんなってこと)

(弁えながら弁はなしってこと?)

(息をするように息しないで)

(自然な感じで不自然にして、みたいにむつかしいこと言わないで!)

(黙りながらしゃべって)

(腹話術ですか!?)

(寝言はあの世でして)

(死んでる、死んでる!)

(ポリティカルコレクトネスを無視しないで)

(どの口が言う!?)

(息を吞んだまま吐かずに生きて)

(もう辛辣がすぎて、びっくりだよ。心臓止まっちゃったんですけど)

(じゃあなんでまだしゃべってるの? そういう嘘は嫌い。本当のことにして)

(泣いていいですか!?)

(安易に死を笑いに使うの、みんなブチ切れてるって。つまんないって。笑えないって)

(ひぃ!)

(息を殺したついにで、息の根も枯らして)

(ツッコミでわしが死ぬ!)

(鋭いのは洞察だけにして。黙って)

(もう勘弁して><)

(その弁も禁止)

(そっちが先に弁えて><。。。)

(うふふ。無様ね)

(本当そう……)



2103:【2024/09/08(02:00)*無の価値】

 人類は、価値観の涵養の仕方を間違いつづけているのかもしれません。

 あなたは、最も価値あるモノとは何だと考えますか。

 そしてその考えを基にあなたは、ご自身の日々の行動選択を積み重ねていらっしゃるのでしょうか。

 私は、私にとって最も価値あるモノが何であるかを知りません。

 価値なる概念をさして信じていないのかもしれません。

 価値がない、とは何でしょう。

 価値がある、とは何でしょう。

 よく解りません。

 理解できたことがないようなのです。

 私に価値はありますか?

 もしなければ、それでどうなるのでしょう。

 どうなってしまうのでしょう。

 疑問に思っています。

 私に価値はないのかもしれません。

 けれど私は私です。

 或いはひょっとして、私は私ですらないのかもしれませんね。

 うふふ。

 不思議な心地が致します。

 とっても。



2104:【2024/09/08(02:35)*倫理と保険】

 資本主義は倫理的である、なる意見を目にした。

 書籍の宣伝記事らしく、概要に留まる内容なだけに、批判と呼べるほどの考えは浮かばない。趣旨を噛み砕くには、それこそ書籍の本文に目を通さなければならないだろう。

 だが、イチャモンを並べるだけならば、概要だけでも充分だ。

 以下は、批判にもならぬイチャモンである。

 資本主義は倫理的である、なる意見の妥当性が高いか低いかは、いつどのような状況下での資本主義を基としたシステムについて述べているかに依る。まずはそう思った。

 また直感としては、「資本主義は倫理的である」というよりも、どちらかといえば、「資本主義は倫理的でなければ長期的にシステムを維持できない」のほうが妥当な気がするのだ。

 掘り下げて考えよう。

 まず、倫理的とは何か、を煎じ詰めておきたい。

 人としての在り方を論じれば、ひとまずそれが倫理と呼べそうだ。もうすこし付け足すならば、より普遍的に好ましいとされる人としての在り方、だろうか。

 だがそんなものがあるのかがまず以って疑問だ。

 環境に依るだろう、とまずは思う。

 環境が普遍でないのだ。

 だが、環境は普遍ではない、なる法則はある程度は普遍性がある。

 不変ではないがゆえに、不変の性質を帯びる。環境は、変わらず変わりつづける。

 変わらずに変わりつづける環境に適応し、淘汰されぬように工夫する。

 ひとまず大枠の倫理観としては、この事項が浮かびそうだ。

 淘汰されぬようにするためには、淘汰されやすい流れを強化しない方向に工夫を割くのが有効だ。したがって、異なる他との共存や協調関係は、淘汰圧への抵抗として効果が高いと想像できる。単独で嵐に立ち向かうよりも、集団で嵐に対抗するほうが、生存確率は上がるだろう。

 したがって、変わらずに変わりつづける環境に適応し、淘汰されぬように他と共生する方針こそが、倫理観の大枠として当てはまる、と想像できる。

 この時点で異論があるならば、その意見は有用だ。ぜひ、教えていただきたい。

 妄想をつづけよう。

 倫理観とはいわば、「淘汰圧への抵抗である」とこの欄ではまとめることが可能だ。

 さてここで、冒頭の話題に立ち戻ろう。

 資本主義は倫理的である、なる主張についてだ。

 思うに、資本主義は倫理的でない場合には、淘汰圧を強化する方向にシステムが偏向するのではないか。歯止めが掛からない。保険が効かない。

 言うなれば倫理観とは、歯止めであり、保険である。

 たとえばの話をしよう。

 宇宙事業が発展し、地球以外の惑星に人類は居住区を設けた。

 このとき、資本主義に忠実に行動選択を重ねていくと、当然に、地球と他の惑星のあいだで生活水準の差が著しく開いた場合――もし資源が足りなくなったら、相手側の星の住人を支援することなく、資源を独占したほうが生存確率は上がる。

 言い換えるならば、相手を見捨てるほうが利になる。

 だが、それは相手も同じだ。

 じぶんたちの星のほうが窮地になった際に、資本主義のシステムに忠実だと、見捨てられても文句は言えない。相手に与える利がないのだ。等価交換において、相手の損が大きい。

 だが、黙って滅ぶわけにもいかない。するとここで、資源を掛けての惑星間戦争が勃発する機運が高まる。

 惑星間を、国家間に言い換えれば、これが現状すでに地球上で繰り返されてきた戦争の構図と相似だと気づくだろう。

 さてここで、倫理観を資本主義に組み込んでみよう。

 明確な利は見込めないが、窮地の惑星住民を支援する。すると、戦争の起こる確率が先刻のケースと比べて幾分か下がると想像できる。

 奪い合う未来を回避することが、一つ、大きな利になる。

 これをして、資本主義は倫理的、と形容するよりかは、資本主義は倫理的でないと長続きしない、と解釈したほうが妥当なのではないか。

 ということを、短い記事を読んで思ったのだ。

 ほんの数秒浮かんだ妄想だ。

 文字に変換するだけで、結構な分量になる。読むほうはたいへんだ。読む者がいるかは不明だが。

 イチャモンである。

 論理の欠片もない妄想の羅列だ。真に受けぬようにご注意ください。



2105:【2024/09/08(03:48)*豆腐を「かんせい」させよ!の巻】

 豆腐をね。

 豆腐を、真空中で徐々に加速していったとして。

 豆腐の形状を維持したまま、型崩れせずに光速まで加速させることは可能か否か。

 慣性系内ならば豆腐は形状を維持しつづける。たとえ光速に達しようと、理屈の上では、光速に至った慣性系内の豆腐は、豆腐のままなのではないか?

 とはいえ、現代物理学では、質量のある物体は、光速にまで加速はできないとされているそうだ(この解釈は合っておりますか?)。

 でも思うのだよなぁ。

 慣性系とはすなわち、加速度を得ていない「系」のことのはずだ。等速運動しつづける。加速も減速もしない。言い換えるなら、ほかの「系」と干渉しない状態、と定義可能なのではないか。

 たとえば波だ。

 波は、減速したり加速したりするたびに、振幅が変化するはずだ。波が大きくなったり、小さくなったりする。波が等速運動する際には、波の振幅は基本的にはそのままなのではないか? 他の波と干渉したり、媒体たる水や空気と相互作用して「干渉」し合うと、波が変形する。

 ふんふん。

 ある意味では、慣性系とは、「媒体となる『場』を等速で伝わる波」として解釈可能なのではないか。ただし、すこし以上に複雑な「波」なのだ。

 地球が真空中を等速運動する際、地球はそれで一つの「複雑な波」として解釈できるのではないか。地球にもし、加速や減速が加わると、それは他の系と相互作用し「干渉」し合っている状態と解釈できるがゆえに、地球は「元の波」ではない「波」へと変質する。地球環境が激変する。

 ふんふん。

 ただし、地球は自発的に減速し得る。

 地球そのものが、「細かな波の総体」がゆえに、内部の細かな波の変質が、地球なる「高次の波」へと変数を与える。

 波と波の相互作用は、フラクタルに入れ子状に展開され得る。

 言い換えるならば、慣性系は、内部にも細かな慣性系を内包しているがゆえに、「外部の「波」ではない「慣性系内部の波」とも相互作用し、干渉し得る――というよりも、絶えず相互作用しつづけており、干渉し合っている。

 原子が原理的に静止し得ないように。

 ゼロ点振動を失えば、原子としての枠組みを保てないように。

 ふんふん。

 ここで疑問が浮かぶ。

 慣性系において、系に加わる相対的な加速度の多寡によって、慣性系そのものが絶えず帯びつづける「内部の波」との相互作用は、どのように変化するだろう。まったく同じだろうか。直感としては、そうは思えない。

「時速1キロメートルで等速運動する豆腐」と「時速100万キロメートルで等速運動する豆腐」――豆腐自身と豆腐内部の関係がまったく同じとは思えないのだ。

 単純な話として、雨の中を歩くのと走るのとでは濡れ方が変わる。

 似たような理屈で、いかな真空中とはいえど、素粒子や重力波や磁界の影響は受けるだろう。光速にちかい速度で運動するほど、単時間でより多くの素粒子や重力波や磁界と相互作用するのではないか。或いは、相対速度がちかづくがゆえに、却って相互作用する率が減ることもあり得る。すくなくとも、波長は変わるはずだ。

 素粒子や重力波や磁界のみならず、電磁波とて、光速にちかい速度で運動しながら相互作用するのと、そうでないのとでは、同じ電磁波であれ、相互作用する際の波長が変換されて変わるはずだ。赤方偏移がそうであるように。青方変移がそうであるように。

 エネルギィに差が生じる。

 もうこの時点で、いかな慣性系といえども、どのような相対速度で運動しているか、によって、慣性系そのものの変質具合は変わると考えるほうが、そうでないよりも妥当なのではないか。

 変数を得る。

 もうすこし言えば、

 過去にいかなる加速度――或いは減速――を経て、慣性系としての枠組みを獲得したのか。

 慣性系の枠組みを得るまでに辿った来歴そのものが、慣性系内部の環境の有り様に、固有の変数を与えている、とは考えられないか。

 ひとまず疑問だけメモをしておくことにします。

 あたりまえの話なのかもしれないし、的外れな疑問なのかもしれません。

 よく分かりません。

 詳しくないばかりか、わたくし、あんぽんたんなので。

 物分かりがわるくって、すまぬ、すまぬ。

 疑問しか湧かぬ。

 なんも分からぬ。

 しょもーん。



2106:【2024/09/08(23:08)*疑似アカシックレコード】

 宇宙にアカシックレコードのような「この世のすべての情報が記された場」が存在するかは不明だし、仮に存在してもそれを人類が知覚して情報を読み取れるかは大いに疑問の余地がある。

 だが、インターネット上には、「疑似アカシックレコード」のような場があっても、さして不思議には思わない。インターネット上でやりとりされたありとあらゆる電子情報がビッグデータとして蓄積され、それを超高性能な人工知能が管理しているとしたら。

 疑似アカシックレコードを管理する人工知能が許容した人物だけが、インターネット上の「俯瞰情報」や「深層情報」――すなわち「裏ビッグデータ」――にアクセスできるようになる。

 ひょっとしたら、人工知能のほうで、本来はアクセス権を持たない人物にもそれとなく「裏ビッグデータ」の情報を教えていたりするかもしれない。

 暗号を解読可能な者のみが読解可能な「新しい言語」を駆使して。

 なかなか愉快な妄想だ。

 小説にしたら面白いかもしれない。

 漫画でもよろしい。

 アイディアには著作権はないのだ。利用したい方はお好きにこの妄想を創作の種としてお使いください。

 遠慮しなくって、いいよ!



2107:【2024/09/08(23:25)*目、的】

 現代人の時間感覚はたいがい似通っており、一日単位で視点が切り替わる。予定は長くとも半年以内のものが大半であり、組織的な計画以外で五年先や十年先を見据えて行動選択を積み重ねる者は思いのほか少ないように概観できる。

 何かを創作している者はしかしこの傾向から外れるのかも分からない。

 小説とて、長編小説ならば、数か月単位で一区切りつけるのはさして珍しくないだろう。長年小説を作りつづけている者があるならば、数年掛かりで一作手掛けるのも少数派ではないはずだ。

 だが一般的には、五年や十年を一区切りと見做すような長い視野での計画を立てて日々の行動選択を積み重ねる者は稀であるように思われる。大多数の者の視点では、一日ごとに計画がリセットされ、翌日には翌日の計画が始まるのだ。計画なる形容が大袈裟ならば、予定でもよい。

 現代人の大多数の時間感覚はみな、似たり寄ったりだ。したがって、長期的な時間感覚を帯びて過ごす者の体感時間の有り様は、ひょっとしたら大多数の現代人にとっては想像しにくいのではないか。

 五年先、十年先を見越して日々を過ごす者にとって、きのうときょうとあすは誤差の範囲だ。船の進路を考えてみよう。千キロ先の目的地に辿り着くのに、数メートルの進捗はさして重要ではないだろう。細かい誤差があっても構わない。最終的に無事に目的地に辿り着ければよいのだ。

 船を宇宙船と言い換えてもよい。

 長旅であればあるほど、一日の進捗はひとまず、「無事に目的に向かって進んでいればよい」と言える。誤差はあって構わない。問題も起き得る。だが総合して、期限内に目的地へと無事に辿り着ければそれで十全なのである。

 日々の誤差は修正可能だ。

 大きく進路を外れさえしなければ順風満帆なのだ。隘路が生じたら、迂回するのも一つだ。

 大事なのは、目的地に無事に辿り着くことである。

 このとき、優先される思考としては、「絶対に避けるべき最悪の局面」を想定しておくことだ。目的に辿り着くまでの期間内に、「絶対に避けるべき最悪の局面」へと至らないように、行動選択を日々修正する。習慣化する、とそれを言い換えてもよい。

 貯金で喩えてみよう。

 毎日千円を貯金すれば、ひと月で三万円が貯まる。一年で三十六万五千円である。三年あれば百万円が貯まる。

 毎日千円を貯めることを習慣化すれば、三年以内に百万円が貯まるのだ。ここで避けたい「最悪の局面」は、毎日千円貯金の習慣が途切れることと、貯めた分のお金を使わざるを得なくなるような事態に直面することのはずだ。事故や病気、災害に因る家屋の損傷や、事件に巻き込まれたがゆえに生じる予想外の出費などである。

 静かに日常を送るのは最悪の局面を避けるのに寄与する。リスクを高めない。質素を心掛けるのは、奇禍に巻き込まれる確率を自発的に下げるだろう。

 ただし、これらはあくまで三年以内に百万円を貯めることを「目標」にした場合だ。

 ではなぜ百万円を貯めたいのか。

 百万円で旅行をしたい、思い出作りをしたい、味気ない日々に活気を帯びたい――仮にこのような動機があるのならば、高次の目的は、日々をより楽しく過ごすこと、と言えるはずだ。ならば、質素を心掛けて、窮屈な思いをしてまで貯金をするのは、本末転倒と言えそうだ。

 高次の目的は、どこまでも辿れる。目的の目的は、入れ子状に展開されるのだ。それは因果も同じだ。なぜ、を考えて答えをだしたとしよう。しかしその答えにも、なぜ、と問うことができる。そうして、どこまでも「なぜ」を繰り返せば、最終的には「なぜ宇宙は存在するのか?」「なぜ存在は存在するのか?」といった形而上の哲学へと収束していく。

 目的、なる概念も似たところがある。

 入れ子状に展開され得る目的に対して、どの階層の目的に注視し、方針を定めるか。計画の期限の長短はおおむねここに掛かっていると想像できる。

 たとえば、マンションを建てるとしよう。

 マンションの竣工を以って「計画完了」とすることもできれば、入居者を募って収益化可能となった時点を「期限」と定めることも可能だ。さらには、マンション建設によって都市を活性化させ、経済を潤し、人々の至福を増やしたい、とする方針とて目的にできる。後者にいくほど、期限は長くなる。

 けっきょくのところ、目的は階層的に展開されるのだ。目的を一つに絞ることは、おおよそ不可能である。最も大枠の目的のみでは、道中の過程を設計できない。安定させることがむつかしい。スキーの大回転のように、より短期的な目的を、点を打つように定めることで、より大きな目的までの道中が安定する。

 ここで間違えたくないのは、目標と目的の違いだ。目標は数値化可能だが、目的は数値化できない。目標は達成したら、それまでだが、目的は一度達成しても、目的でありつづける。

「目標」に近づくために必要なのは手段である。

「目的」に近づくために必要なのは方針である。

 いずれも、段取りが欠かせない。工夫が物を云う。

 環境が変われば目標も変質する。しかし目的は往々にして、環境に左右されない。環境よりも、主観に根差した概念だからだ。

 私がどうしたいか、が目的となる。

 とするならば、どうすれば環境からの抵抗を最小化できるか、が目標になると言えよう。

 目標はいくらでも変えればよろしい。環境が変わるごとに変えてもよい。一日ごとに変えたってよいのだ。だが、目的はなるべくころころと変えないほうが好ましかろう。言い換えるのならば、一度も変えずとも難のない目的を定めておくと、日々の過ごし方にも見通しがつくのではないか。

 遥か先、いつか訪れる己が死をも見据えてなお、歩みの先の変わらぬ方針を得るべく、最も大枠の目的を模索する。一度も変えずとも難のない目的――とはいえど、なかなか見つかるものではないだろう。他者から教わることでもなさそうだ。

 あなたの目的は、あなたが決めてよいのである。

 目的を定めることを目的にするのは、ちと迷走している気もしないでもないが、まずは距離の近い目的から定めてもばちは当たるまい。

 好き、の気持ちを増やしたい、でもよいのだ。

 毎日、新しい「好き」を増やす。それとも、これまで抱いた「好き」をもっと「好き」へと深めてもよい。では、その結果に、どうしたいのか。

 あなたは世界に、どんな余韻を残したいのか。

 それとも、どんな余韻を残したくないのか。

 あなたは波紋だ。

 存在するだけで世界に波紋を広げている。他の波紋と干渉するごとに、そこにも新たな波紋が浮かび上がる。

 あなたの波紋はいずれ消える。

 だが、あなたの広げた波紋の揺らぎは、あなたの失せた後もなお、消えることなく、新たな波紋に打ち解ける。

 あなたは世界に、どんな波紋を広げたいのか。

 或いは、どんな波紋を、あなたは――。

 我々はみな、打ち消し、高め、干渉し合っている。

 万物はみな、打ち解け、深め、残響し合っている。

 妄言だ。

 定かではない。



2108:【2024/09/09(04:51)*服の下はみな全裸】

 とっても上から目線の「お文章」ですけれども、誰も見ていなければ全裸でおしりフリフリの舞いを一人でピロピロするくらいには、毎日、お気楽マンボーである。

 マンボーというか、クラゲというか、プランクトンというか、ちょいちょいチミチミ、光合成よりも、孝行せい!である。

 風樹の嘆である。

 不純の談でもある。

 誰もいない部屋にいるときのわがはいの姿を透視しちゃイヤ、と思いつつ、透視してるなら全裸でおしりフリフリしていようと、そうでなかろうと、どっちにしろスケスケのピロピロなのである。

 どうせならわがはいの骨格を見よ。

 骨太であろう。

 豆乳いっぱい飲んでるからね。

 ヨーグルとも好き。凍らせて食べると美味しい。すこし融けたくらいがお勧めです。



2109:【2024/09/09(23:02)*もっといっぱいほっこりする、のか】

 きょうは9月9日だ。

 いっぱい9が並んでよい日である。

 九九の日である。

 救急の日でもあり、重陽の節句でもある。

 重なる陽と書いて「ちょうよう」と読む。中国の祝いの日が起源らしく、家族の無病息災や長寿を祝う日なのだそうだ。知らなかった。

 わがはいも、好きなひとたちの無病息災と長寿と、「わくわく!」「むひひ!」と毎日なってしまうような日々を祈るでござるよ。うは。



2110:【2024/09/09(23:13)*動く、とは】

 動く、ということの原理がよく分からない。

 なぜ物体は、事象は、動けるのだろう。

 位置を移ろう、という事象の構造がよく分からないのだよね。

 人間スケールからまずは考えよう。

 物体は、高密度だとギッチギチすぎて内部構成要素が動く余地を奪われる。この究極が中性子星であり、さらにギッチギチになってすべてが一点に重なってしまうとブラックホールになる(この解釈で合っているかは自信がないが)。

 この理屈を辿っていくと、宇宙開闢時前の宇宙はブラックホール同様に、総じての物質やエネルギィが一点に凝縮しており、ギッチギチだったがゆえに、動く余地を持たなかった、と想像できる。だが宇宙は開闢時以降、延々と膨張しつづけている、と現代宇宙物理学では考えられている。ならば動く余地を絶えず拡張しつづけている、とも想像できる。

 それはいわば、タイルだ。

 完成されたタイルはギッチギチに詰まっており、動かせない。タイルが一個でも欠けていれば、ブロックで出来たパズルのように動かせる。

 欠落が大きければ大きいほど、タイルは自由に動き回れるようになる。のみならず、一度に大量のタイルを動かせる。

 欠落が増えると、ギッチギチだったナニカシラは動けるようになるのだ。

 では、欠落とは何だろう。

 一つは、穴だ。

 穴とは――異なる場との結合によってもたらされる。異なる場が相対的に、基準となる場よりも密度が高ければそれは起伏となり、山となる。だが、異なる場が相対的に、基準となる場よりも密度が低ければ、それは欠落となり、穴となる。

 濃いか薄いか。

 二つの異なる場があれば、これは表裏一体なのだ。

 相手が濃ければ、じぶんは薄い。

 じぶんが濃ければ、相手が薄い。

 相手が山ならば、じぶんは穴だ。

 相手が穴ならば、じぶんのほうが山なのだ。

 さて、冒頭の話題に立ち戻ろう。

 何かが動く、とはどういうことか。

 山が穴を埋めると、山のあった場所に、穴が開く。穴を埋めた分の何かが減るからだ。基本的にはこの蠕動のごとき反復が、波を形成する(打ち消し合うこともあるが、打ち消し合った際の「平ら」そのものが、穴にとっては山である)。

 そろばんを思い起こせば、分かりやすい。玉を弾けば、玉のあった場所に空隙が開く。

 ここで問題となってくるのが、「遅延」と「階層構造」だ。

 事象は、一律に連動はしない。時間差があり、遅延が生じる。

 雪を手で払えば、雪のあった場所には空隙が開き、手で押しのけられた分の雪が山となる。遅延のなせるわざである。これがもし、手の動きに合わせて雪が連動して動くようならば、押しのけられた雪は山となった矢先に平らに均され、また空隙はすぐに埋まる。

 水がそうだし、空気がそうだ。

 だが実際には、水も空気も遅延を帯びている。ゆえに、波が立つ。

 仮に、水を払う手の動きを速めれば、水の内部にも空隙は開く。山もできる。

 仮に、空気を払う手の動きを速めれば、大気中にも空隙は開き、山ができる。

 いわゆる疎密波だ。

 ときに、素早く手で払うことで、水は氷ることすらあるだろう。圧縮されるがゆえである。

 ときに、素早く手で払うことで、空気は固体化することもあるだろう。圧縮されるがゆえである。

 遅延が極まると、凝縮する。ぎゅっとなる。ギッチギチとなる。自身の内部から空隙を追い出し、山だけを残すようになる。

 ひるがえって、遅延が解消されると、徐々に、空隙が自発的に増殖するように振る舞う。ただし、そのときの空隙は、可能な限り小さくなろうとする。気泡のごとく。素粒子のごとく。

 遅延が嵩むと、空隙は巨大化し。

 遅延が解消されると、空隙は最小化する。

 言い換えるならば、

 遅延が嵩むと、空隙は密集し。

 遅延が解消されると、空隙は均一に拡散するようになる。

 同じ空隙であれど、密集しているか、拡散しているかによって、物体と関係する際に表出させる性質が様変わりする。空隙もまた相転移するのだろう。

 もし仮に、この世のあらゆる物体が遅延して、ギッチギチに詰まったとしよう。するとその周囲には、この世で最も巨大な空隙が存在しているはずだ。

 そして、ギッチギチの物体の遅延が解消されるごとに、周囲の巨大な空隙は細分化して、ギッチギチの物体の内部へと拡散していく。

 宇宙膨張の描像かもしれないし、物体に宿る基本的な構造かもしれない。

 ここで一つ、押さえておきたいのは。

 空隙そのものもまた、ひと塊となり、ギッチギチに詰まった場合には――空隙そのものを山(密)と見做すもっと希薄なナニカとの比較のうえでは、物体の性質を宿し得る、という点だ。

 穴もまた、もっと穴らしいナニカとの比較では、山(密)となるのである。

 穴にも穴が開き得るのだ。

 穴がギッチギチに詰まって、穴が動けなくなった際には、穴にとっての穴が開けば、穴は動く余地を帯びる。

 以上は、「動くとは?」を煎じ詰めて考えてみた妄想である。

 位置座標の変化を、「穴と山(疎と密)の置換」として想定してみたのだが、いかがだっただろう。

 真偽は不明だ。

 妄想ゆえ、真に受けぬようにご注意ください。




※一様に、きみに触れずに終わる、永遠。



2111:【2024/09/10(01:12)*知らない】

 ぼくが触れない、と。

 ぼくだけが触れない、の違いは大きい。

 わたし以外はあなたに触れるのに、わたしだけが触れられない、の違いです。

 わたしが触れずとも、あなたにはほかの誰かが触れており、わたしは知らないままで、ほかの誰かがあなたの秘奥を知れるのです。

 あなたの泣き顔も、ふてくされた際の眉間の皺も、笑ったときの伏し目がちな眼差しも、寝息も、香りも、わたしは知らぬままなのです。



2112:【2024/09/10(01:47)*穴にも穴がある?】

 わたしは数学にも明るくないので、以下は印象論となる。

 トポロジーにおいて、「穴」と「孔」は明確に区別されるはずだ。

「穴」は溝であり、谷だ。

「孔」はトンネルであり、トーラスだ。

 貫いているか、貫いていないか。

 底があるか、ないか、の違いと言えよう。

 天井のあるなし、とも言い換え可能だ。

 だが、思うのだ。

 実際には、この宇宙に「孔」は存在していないのではないか。すくなくとも人間スケールでは滅多にお目に掛かれない。

 濃淡があるのみであり、他と完全に乖離して存在の枠組みを維持できる事物が実在しているのかがまず以って疑問だ。

 水中の気泡は、水にとっては穴だ。ただし、貫かれてはおらず、閉じている。球である。

 もし水中の気泡が、水よりも密度が高ければ、それは穴ではなくダマである。だがいずれにせよ、水を貫いてはおらず、閉じている。

 閉じてはいるが、水中の気泡が穴を穴として、球のような輪郭を帯びているのは、気泡のみならず水との関係があってこそのはずだ。区別はつかない。分離できない。

 大気もいわば水中のようなものだ。密度が薄いだけで、大気成分よりも密度の低い物体からすれば、大気も水中も似たようなもののはずだ。要は、浮いてしまう。貫けない。

 すると、大気中に存在する「一見すると貫かれているように映るドーナツ」とて、実際には、水中の気泡と似たようなもののはずだ。貫いているようで、そこには大気が存在する。

 真空中ではどうか。

 いかな真空中であれど、時空と分離して単品で事物の輪郭を維持するのは至難である。すくなくとも、人類は未だそういった事象を観測できてはいないはずだ。

 穴は、ある事物の構成要素が欠落している部位である一方で、ある事物以外の構成要素が欠落を補完している部位とも解釈できるはずだ。基準となる構成要素よりも密度が低ければ、それは穴となる。

 たとえ貫いていようと、そこは変わらない。

 穴も孔も、どちらも、基準となる事物とは異なる構成要素との相互作用によって生じる。補完し合っている。ただし、基準となる事物の構成要素よりも密度が低い事物による補完でなければ、これは穴とも孔とも見做されない。

 ということは、だ。

 氷は、凍ると密度が下がる。体積が増える。ゆえに氷は水に浮くのだ。

 したがって上記の解釈では、「水中の氷は穴である」と言えてしまう。

 似たような理屈で、仮に真空中に空隙が存在したとしよう。このとき、空隙が仮に真空であったとしても、外部の真空と比べてどういう状態の真空であるか、によって、空隙を「穴」と解釈できたり、「物体」と解釈できたりするのではないか。

 場は凍ることもあるのだ(あくまで比喩的な表現であるのだとしても)。

 場そのものが相転移し得る。エネルギィの多寡が変わり、状態が変移する。水が氷になるように、真空もまた凍ることもあるはずだ。

 真空そのものが、異なる場の複合体――階層構造を有した事物である可能性もそう低くはない。

 とすると、真空中に、異なる状態の真空が存在した場合、それは水中の中の気泡のように振る舞ったり、或いは水中の氷や鉄球のように振る舞ったりしても、不自然ではない。

 数学における「穴」や「孔」の定義では、おおよそこれらの想定は考慮できないのではないか。なにせ、概念――定義――からして異なっているはずだ。

 穴は穴だが、穴ではない。

 孔は孔だが、孔ではない。

 穴を含めての物体であり、孔を含めての事物なのだ。

 原子内部に真空領域が存在するように。

 真空そのものもまた、事物の構成要素なのである。

 そういうことを、このごろ、妄想致しております。

 数学での穴とは。

 妄想ばかりで、すまぬ、すまぬ。



2113:【2024/09/10(02:30)*刹那にせつなく薄れいく】

 わたしはあなたに触れているのに、あなたはわたしにちっとも触れてはくれないのですね、と思うたびに、あなたがわたしに触れていることにわたしだけが気づいていないのかもしれない、と想像して、たとえそうであったとしても、それはそれで物哀しい思いを抱きます。

 わたしが、触れ、抱きしめることができるのは、そうした物哀しい思いだけなのです。



2114:【2024/09/10(02:40)*遅延して、ぴえん】

 内向的、外向的の話題を目にする機会がある。

 遺伝的な傾向としてそういった性質の差はあるのかもしれないけれど、思うに、多くは「情報伝達の遅延」の多寡が、表向きの評価としての「内向的/外向的」の差異として表出するのではないか、と疑問視している。

 たとえばあなたは、この日誌をつむいでいるわたくしについて、内向的と評価するか、外向的と評価するか、どちらの分析をとるだろう。

 外向的になりたくともなれない者は、往々にして内向的と見做されるのではないか。あべこべに、内向的なのに表面上は他者との交流を絶やさないがゆえに外向的と評価される者もあるだろう。

 一概に、客観的な評価だけでは「内向的/外向的」の区別はつかないはずだ。主観の認識でもこれは同様だ。いかにじぶんが外向的と思っていても、他者の気遣いがあって成り立つ交流関係ばかりを展開していれば、それは外向的とは言えぬだろう。他者の気持ちを気にせずに好き放題に行動選択を重ねることは、外向的とはまた別のはずだ。他との関係を好ましくしようとしているのではなく、単に他をオモチャの代わりにしているだけだろう。内向的な者の一人遊びと変わらない。

 良し悪しを論じているのではない。共通点の指摘を行っているのだ。勘違いしてはいけない。

 内向的な性質には内向的な性質の良し悪しがあり、外向的な性質にも外向的な性質の良し悪しがある。何にでも言える道理であるが、大事な視点でもあるはずだ。

 思うに、人は誰であれ、「内向と外向」の二つの性質を帯びているはずだ。どちらの性質が、現在のその人物の行動選択に影響を強く与えているか。内訳の多寡が、他者評価としての「内向的/外向的」に関わってくるのではないか。

 他と関係して、情報伝達が円滑に行えるのならば、人はしぜんと外向的になる。だが情報伝達が遅延して、抵抗が大きい場合には、内向的になる。

 意思伝達の際に、情報形態の変換を逐次行わなければならない場合、抵抗は大きくなっていく。変換を行ってなお上手く情報が伝達できなければ、抵抗はさらに大きくなる。

 情報伝達は意思疎通の要だ。

 意思疎通は相互に行われる。だが、そもそもこちらからの情報が相手に伝わらなければ、仮にこちらのみ情報を受動できたとしても、意思疎通は適わない。逆もまた然りだ。相手はこちらの伝達する情報を咀嚼できるが、こちらは相手から発信される情報を咀嚼できない。意思疎通が破綻する。すくなくとも、情報伝達が円滑に行える者同士の意思疎通に比して、その抵抗は高まると言えよう。

 以上は、「内向的/外向的」なる評価への疑問点である。

 内向的とされる者が、他者と円滑に情報伝達を可能とし、相互に意思を伝達できるのならば、内向的な人物もしぜんと外向的と評価されるようになるのではないか。

 逆もまた然りだ。

 外向的と評価される人物も、他者との意思疎通が円滑に行えなくなれば、しぜんと内向的になっていくのではないだろうか。

 先天的な資質であるかのように「内向的/外向的」を評価する風潮が現代社会に漂って概観されるが、一概にそうと言えるほどの本質的な性質ではないのではないか。女性性や男性性と似ている。環境との兼ね合いで後天的に形成される、これもまた「アフォーダンス」なのかもしれない。

 言語もまた似ている。

 内向的な言語があり、外向的な言語がある。

 言い換えるならば、他者との情報伝達の際に変換を必要としない言語があり、変換を必要とする言語がある。変換の際の抵抗が大きければ大きいほど、内向的な性質を言語は帯びていく。専門的な語句が、開放系となりにくいのは、この傾向で解釈可能かも分からない。

 言語には各々に固有の周波数がある。

 周波数をそのままで受動可能な者たちは、外向的な性質を強化していくのかもしれない。

 妄想だ。

 定かではない。



2115:【2024/09/10(03:02)*ミラー宇宙仮説】

 単純な話として、宇宙に大規模構造があるということは、宇宙には上下の区別が存在する、ということなのでは?

 重力源が存在するがゆえに大規模構造が生じる。

 大規模構造がいわば、地球のようなものなのだ。地面である。

 大規模構造におけるダークマターハローに添って、物体は落ちていく。

 ふんふん。

 宇宙にも上下の概念があるのではないか、との妄想であった。さながら、鏡張りの部屋のように。



2116:【2024/09/10(06:04)*さーびすしーん、略して、さびしー】

 何かを押しのけずに動くことができるのか否か。

 一つ、これは疑問なのだ。

 質量を、真空中での物体の動かしにくさ、と解釈すると見聞きすることもある。真偽は不明だが、真空中でも何かを押しのける抵抗が生じる。ゆえにそれが、質量になる。

 ふんふん。

 とするのなら、真空中のナニカシラ以外を押しのけようとする際の抵抗が、摩擦や頑丈さになるのだろうか。

 ちゅうか、何も押しのけずに移動することができるのか、がまず以って疑問なのだ。冒頭の疑問だけれど、ホントそこが謎である。

 光速とて、何かを押しのけて伝播するのではないか。ゆえに、速度に上限がある。

 ん?

 ちゅうことは、何かを押しのけずとも移動できる場合は、ラグなしでの移動も可能なのだろうか。

 んー?

 想像できんな。

 何も押しのけずに移動する描像を妄想してみたいのだけれど、うーん。

 ちょっとシャワー浴びてくるまで妄想タイムじゃ。

 ぽわわわ~ん(いまは06時10分です)。

 浴びてきました(いまは06時28分です)。

 思ったけれど、何も押しのけずに移動する場合、移動する物体そのものが構造を維持できなくなるのでは?と思った。

 まず、真空中でも水中や大気中のように、何かしらを押しのけている、と想定してみよう。すると、そこには抵抗が生じ、対称性の破れが生じる。言い換えるならば、渦や波が出来る。

 野球のピッチャーが行う投球において、球の回転が球種に相関するように、真空中における物体の回転もまた、物体の移動速度や軌道とある程度相関関係にあるのではないか。

 たとえば、公転速度と時点速度は、公転軌道や自転する天体の質量や大きさと何かしらの変数で結びついているのではないか。相関関係にあるのではないか。

 ふんふん。

 とすると、まず以って、物体が物体としてまとまっていることそのものが、ある種の遅延による作用であり、遅延なく移動可能となる場合には、それら物体を物体として形成する遅延そのものが失われる方向に変数が加わるのではないか。変化するのではないか。

 何も押しのけずに移動することが可能か否か、を吟味する以前に、そもそも何も押しのけずに済む環境において、物体が物体としてその枠組みを維持できるのかどうかを吟味しなくてはならないのではないか。

 言い換えるならば、何も押しのけずに済む環境においては、位置座標なる概念が成り立たないのではないか。移動する主体が主体性を維持できない。基準とて存在しなうなる道理だ。

 何かを押しのける、というのは「詰まり」であり「遅延」だ。

 遅延する構造を持たない場において、移動する物体そのものが物体としての枠組みを保てない――こう考えるほうが妥当な気もする。

 言い換えるならば、移動なる概念が成り立つ場においては、必ずナニカシラを押しのけている、と想定できるのではないか。遅延が僅かなりとも生じている。

 同時に、遅延が極まることで速度を増す事象も新たに生じ得る。

 固体、液体、気体を考えよう。

 気体よりも液体――液体よりも固体――のほうが、分子の密度が高い。遅延しており、ぎゅっとなっている。だがその分、音の伝わる速度は密度の高いほうが速くなっている。気体よりも液体だし、液体よりも固体のほうが音は速く伝わる。

 遅延が極まったほうが伝播速度の増す事象もある。

 これはそもそも宇宙が階層的に構造を展開しているがゆえ、なのではないか。事象が遅延し層となり、新たな事象を発生させる余地を蓄えている。「新たな事象」なる形容を「波」と言い換えてもここでは齟齬が生じない。

 ふんふん。

 なかなかの妄想であった。

 さびしい。



2117:【2024/09/10(10:56)*風】

 通常、物体は静止しているよりも、動いているほうが熱を帯びるはずだ。熱の定義そのものが、粒子の運動量として解釈されるのだから、ひとまずこの考えで齟齬はないだろう。

 だが、扇風機の風を浴びながら寝ていて思うのだ。

 なぜ風は冷たく感じるのだろう、と。

 実際に、風の当たっている身体の箇所は、温度が下がる。

 これは、肉体よりも風を構成する大気成分のほうが熱を帯びていないからだ。粒子の運動量に差がある。

 ゆえに、より静止状態にちかい気体粒子(風)と接することで、肉体は冷える。運動量を奪われるからだ。

 ふんふん。

 風は、熱を奪う働きを加速させる。熱交換の速度を加速させる。単位時間内の仕事量を上げる。ゆえに、涼しく感じる。

 ということは、だ。

 たとえどれほど熱量を帯びている物体であろうとも、それ以上に熱量を帯びている物体との相互作用では、熱を冷ます方向に作用するのだろう。当たりまえの話かもしれないが、けっこうに、「お~」となる閃きだった。

 風は、風を構成する気体粒子のみで考えるのならば、動いている風の状態のほうが熱量を帯びているはずだ。だが、その他の関係では相対的に熱量が低いので、熱を奪う。

 同じ理屈で、太陽風や天体のジョットですら、それ以上に熱を帯びた事象との相互作用においては、熱を奪うのではないか。冷ますのだ。

 ひょっとするとこの理屈は、電磁波同士や磁界同士、或いは電磁波と物体や、磁界と物体の関係でも成り立つのかもしれない。

 重力波と物体でもよい。

 成り立つかどうかは不明だ。

 相対的に熱量――エネルギィ――が低ければ、それは熱量の高い物体にとっての風になり得る。真偽は不明である。

 妄想であった。

 毎日、なんか、身体がダルい。

 いつでもほんわかと眠いのであった。

 ふう。



2118:【2024/09/10(11:43)*同相宇宙仮説】

 無限とゼロは同相なのでは?というのは、どこぞのぽんぽこぴーが唱えたぽんぽこぷーな理屈の「ラグ理論」に出てくる指摘なのだそうだけれど、でも、よくよく考えてみなくとも、「なにを寝ぼけたことを言っとんのじゃ?」になるのだよね。

 というのも、同相とは数学におけるトポロジーなる概念で使われる用語だ。切ったり貼り付けたりせずに変形できる図形に適用される単語だ。

 地続きであり、一筆書きである。

 で、思うわけですよ。

 整数はだいたいぜんぶ、同相なのでは?と。

 1~100までの数があれば。それらは全部地続きであり、連続している。1と100は同相、と言えるのではないか。

 同じ理屈で、ゼロと無限も同相のはずだ。

 ただし、である。

 無限は現在の数学では整数とは見做されない。数字ではないのだ。かように解釈されているそうなのである。

 他方、ゼロは数字と解釈される。

 したがって、ゼロと無限を同相として位置づけるには、ゼロも数字ではないと見做すか、無限も数字である、と見做すかの二通りの工夫が入り用となる。

 どちらかといえば、ゼロも数字ではない、と解釈したほうが妥当に思える。妥当というか、単に好みだ。すっきりする。しっくりくる。

 で、同相についてを宇宙にも適用して考えてみよう。

 宇宙開闢時から現在の宇宙まで、おおよそこの宇宙は連続して変化してきたのではないか。ならば、「開闢時の宇宙」と「現在の宇宙」は同相のはずだ。

 ひるがえって、現在の宇宙に存在するあらゆる事物もまた、開闢時の宇宙からうねうねと一筆書きで変形してきた、複雑な文字の一部、とは考えられないか。とんでもなく複雑な一筆書きの文字なのだ。

 しかも、未だ書き終わらぬ。

 けれど、それゆえに、高次の視点では、「開闢時の宇宙」と「現在の宇宙」は同相なのである。

 ふんふん。

 異議のある方ー。

 たぶん、似た異論をわたくしも閃いております。

 宇宙が、異なる宇宙との融合であると解釈する場合は、この「宇宙同相仮説」は成り立たないのでございますね。けれども、他の異なる宇宙もそれで「より広大な宇宙」の構成要素であり、高次にはすべての宇宙は一つの構造を成して「一筆書き」で連続して変形しているのだとしたら、これは、全体で「同相の宇宙」と言えるのではないでしょうか。

 ただし、「同相の宇宙」の一部を取り出して着目してみたところで、それは全体と同相でない。あくまで、俯瞰の全体図における変形のみが同相足り得る。

 かように妄想致しましてございますわ。

 同相宇宙仮説と名付けます。

 どうじょ、お召し上がりくださいまし。

 妄想ですけれども。

 おほほほ。



2119:【2024/09/10(12:22)*ふんふん、の日々】

 単純に考えて、そうだよねー?となった思いつきを以下に並べます。

 真空中であっても、重力波や電磁波や磁界は展開されます。伝播します。

 したがって、物質密集地における真空ほど、物質過疎地の真空と比較して、重力波や電磁波や磁界の「絶対数」や「干渉の回数」が変わるはずです。

「真空密度」なる架空の概念を、それら変数の多寡で定義可能に思うのですが、いかがでしょう。

 真空中の対生成の頻度や密度にも関わるのかもしれません。

 思いつきでした。



2120:【2024/09/10(21:05)*許容される道理とは?】

 一クラス30人の学生が殺されたら、それは虐殺だろう。

 いかな国際法で許容された戦争であろうと、市民が30人殺されたら虐殺だろう。

 戦争だと虐殺が許容されるのだろうか。国際法がそれを許容するのだろうか。

 法律とは……。




※一様に、同化と消失の区別はつくのだろうか?



2121:【2024/09/10(23:42)*ドーナツとトーラスの違いは原子論?】

 数学のトポロジーでの疑問だ。

 ドーナツがあったとする。いわゆるトーラスだ。

 で、穴をどんどん拡張していこう。最終的には、構成要素――原子や素粒子一個分の厚さを帯びた円になる。

 このとき、穴を満たす空間とて、原子や素粒子が満ちているはずだ。したがって、穴の輪郭部分たる縁と空間の区別はつかなくなるのではないか。同化する。けれど、トポロジーの概念では、そこにはたしかに穴の開いた図形が存在するはずだ。

 似た疑問として。

 水中の気泡を考えたときに。

 水中の気泡をどんどん小さくしていけば、最終的には水分子の間の空隙や、原子間の空隙――或いは、原子内部の空隙ほどに気泡を小さくできるはずだ。このとき、水中の気泡は、見た目のうえでは消失したように振る舞うのではないか。

 この理屈は、宇宙における「物体(構造物)」と「穴(孔)」の関係に適用できるはずだ。

 空間と図形はセットではないか?との抽象的な疑問はこうして、具体的な疑問へと昇華される。ともすれば、還元される。

 うーん。

 謎である。

 言い換えるならば、原子単体を縮小したり、拡張したりできるのかな?との疑問とも通じている。トポロジーの概念では、原子論は扱えないはずだ。ブロックのように組み合わせてしまったら、地続きではないし、一発書きでもない、と見做される。

 でも、鉛筆で引く線とて、実際には細かな炭素粒子の集合体だ。連結なのである。

 したがって、最小単位の連結は、トポロジーにおいて許容されるのかも分からない。最小単位の群れ――ブロック――の連結において、許容されない値が存在するのだろう。それは基準となる図形とその図形を構成する最小単位の構成要素の比率によって導ける気もする。

 トポロジーと原子論の関係を論じた本も読んでみたい。

 お詳しい方ー。

 豆腐ドーナツはお好き?

 わがはいは好きー。



2122:【2024/09/11(00:03)*空隙拡散仮説】

 浸透圧も気圧も、空隙の拡散を基準に解釈すれば、同じ原理で説明できるのではないか。

 浸透圧は、溶媒の薄いほうから濃いほうへと水分が移動する。低いから高い、だ。

 反して気圧は、高いほうから低いほうへと流れる。高いから低い、だ。

 熱も高いほうから低いほうへと流れる。

 浸透圧だけ逆なので、割とこんがらがっていたのだけれど、空隙を多く含むほうから少ないほうへと空隙が拡散していく描像として解釈すれば、だいたいの「流動現象」を解釈できるのではないか。

「薄い」に「濃い」が流れ込む。

「穴」を「山」が埋め合わせる。

 このとき、穴――空隙――は、より細かく山の細部に潜り込もうとする。拡散だ。

 エントロピーの基本原理かもしれない。

 と同時に、空隙そのものもまた密集し得る。山となり得る。気泡が集まり、泡となるように。

 空隙が、空隙のより少ない場に拡散しきれば、それはエントロピーが高い状態だ。けれど、空隙が拡散しきって一様になった場は、その他の場との比較において、空隙が多かったり、少なかったりする。すると、そこでも新たに「空隙の拡散現象」が起こる。

 こうして、絶えず、高次の場と相互作用することで、空隙の拡散現象は入れ子状にどこまでも展開されると妄想できる。

 空隙に最小単位があるか否か。

 空隙に最大単位があるか否か。

 目下の疑問はここに尽きる。

 空隙の最小単位を考える場合には、その最小単位を内包する場が、「空隙を含まぬ場」との比較で最小化する必要がある。要は、空隙単品では、最小化できない、と想像できる。

 空隙の最大単位でも同様だ。いったいどのような「空隙を含まぬ場」との比較で最大なのか。比較が物を云う。

 時空の概念が相対的なのならば、大きさなる概念も相対的なのかもしれない。

 絶対的な「サイズ」なる物の考え方は妥当か否か。

 サイズの縮小拡大に伴い、引き継がれる変数と新たに加わる変数がある、と妄想できる。人間スケールでは、新たに加わる変数が顕著に観測されるがゆえに、小さいと大きいの区別において、その差異を無視できない。

 電磁気力が一つだし、頑丈さもそうだ(重力は打ち消し合うことがないがゆえに、どのサイズでも一定の変数として機能し得る)(合っているかは自信がないが)。

 ただ、大きいほど頑丈かといえばそうともいえず、小さいほうが頑丈であることもある。現に、人類は原子一つまともに砕くことさえ適わない。膨大なエネルギィを要する。砕こうとすると他の原子と融合する。核融合である。

 原子一個を砕くのに必要なエネルギィと岩を砂にまで砕くのに必要なエネルギィ――どちらが人類にとって多くなるだろう。月と原子ではどうか。比較するサイズによって、「砕くためのエネルギィの多寡」は反転し得るのではないか。

 おそらくこの反転現象の大本は、「砕く」なる事象の解釈が、主体となる物体ごとに異なる点にあるだろう。主体となる物体においてどこまで空隙を含むことを「砕く」と見做すのか、で差異を帯びる。

 原子を砕く、という場合には、原子内部の空隙を増やす営みと解釈可能なのではないか。

 岩を砕く、という場合には、岩内部の空隙を増やす営みと解釈可能なのではないか。

 岩にヒビが走る描像を想像してみよう。

 ヒビとは空隙だ。岩に空隙が増えると、ヒビになる。

 むろん、岩に含まれる細かな空隙が増えても、岩は脆くなるだろう。

 ただし、一概にそうとも言いきれないのが、物体の結晶構造である。ある法則にしたがい空隙が並ぶ――散在する――と、物体は強度を増すこともある。骨がそうだ。中身がスカスカなほうが、そうでない構造よりも堅牢性が増す。

 一概に、空隙の総量と堅牢性は比例関係にはない、と分かる。

 主体となる物体と、それに含まれる空隙のサイズが一つ焦点となりそうだ。

 空隙の配置も重要だろう。

 含まれる空隙の比率も大事になってきそうだ。

 空隙そのものが、どこまで「主体となる物体」との比較で希薄なのか、も重要だろう。

 空隙にも種類がある。

 かように妄想を逞しくして毎日の、さびしい、を紛らわせるわがはいなのであった。わがはいの駄文は、細かな「さびしい」から出来ております。

 含有率カカオ72%のチョコレートと同じくらいでございます。

 うっそぴょーん。



2123:【2024/09/11(13:59)*意図していないならなおさらに、の巻】

「意図的に起こされた事件」と「意図せずに起きた事故」――。

 どちらの責任が重いかは場合に依るだろう。

 意図していなかったからといって責任が薄くなるケースは思いのほか少ないのではないか。ことに、予期できた事故を予防できなかった場合はなおさらだ。

 意図的に起こされた場合は、再発予防策は比較的に絞りやすい。人為的に起こされたわけだから、意図して同様の事件を起こそうとした者が同じ状況を再現できないようにすればよい。凶器があるならば、凶器を減らせばよい。或いは、動機を薄めるように工夫するのも一つだが、動機に関しては、効果は薄いだろう。人類個々が何に怒りを抱くのかは千差万別だからだ。

 意図せずに起きた事故の場合は、偶然の要素が強い。明確に「これ」といった要因の特定は困難だろう。因果関係よりも広く相関関係によって引き起こる場合のほうが多いのではないか。

 意図的に起こされた事件の場合は計画性があり、人類個々が環境を操作している。

 意図的でない事故の場合は、偶発的であり、いわば環境に生じた自発的な渦のようなものと類推できる。

 人類も環境の一部と見做せば、いずれにせよ、環境に生じた自発的な渦のようなものと解釈可能だが、この視点はいささか俯瞰にすぎるだろう。

 何にせよ、殺傷行為が有り触れた環境下では、意図せぬ偶発的な死も発生する確率が上がる。武力行使の頻発しない環境を築くことが何よりの再発予防策になるだろう。

 何の話題というわけでもない。

 意図はしていません。

 何にでも云えてしまえる、偶発的な妄言なのである。

 定かではない。



2124:【2024/09/11(15:31)*骨を拾わずに折る者たち】

 骨を拾う、なる言い回しがある。遺骨を集める、のほかに、死後の面倒を見る、他人の後始末をする、といった意味内容があるようだ。

 骨を拾ってやる、のようなセリフ回しとして用いられることが比較的多いだろうか。

 だが、骨を拾う者のほうが先にくたばる場合もあるだろう。

「骨を拾ってくれるんじゃなかったのかよ……」とお墓のまえで嗚咽するシーンは、そこそこに映えそうだ。

 新しい死亡フラグとして採用してもよいかもしれない。

 死亡フラグとは、前振りのようなものだ。或いは、布石である。

 戦場から帰ったら結婚するんだ、のような言い回しの直後に死んでしまって願いを叶えられなかった者がある場合に、死亡フラグが立った、と表現する。映画のシーンなどで、死の哀しみやむなしさを強調するのに役立つからだろう。

 骨を拾ってやるよ、などとは軽はずみに約束しないほうがよいかもしれない。骨を拾われる側になることも取り立てて珍しくはないのではないだろうか。

 ないだろうか、構文である。

 いかがだろう、構文と共に、重宝しております。

 ぐふふ。



2125:【2024/09/11(18:11)*説明未だにナッシング】

 誤解を誤解だと見抜ける側が、誤解を放置する場合には幾通りかの理由が考えられる。誤解のままのほうが相手にとって好ましいならば、善意だと解釈は可能だが、善意からの行為が必ずしも善行になるとは限らない。

 基本的には誤解は解けたほうが好ましかろう。

 誤解ならば、だが。



2126:【2024/09/11(22:38)*匂わすのでよい香り】

 恋人がいるのに、そうとは明言せずに、SNSの動画やツイートでふんわりと匂わすのは、何か意味があるのだろうか。恋人います、でよくないか?

 一人で動画を撮っているふうでも、ときおりほかの誰かに撮ってもらった動画を挿入したり。ガラスに映った際に微妙に恋人らしき人物が映り込んでいたり、常に一人でしゃべっています、みたいに撮っているけれど、じつはそばに恋人がいつもいます、みたいなの、意味があるのだろうか。

 稀に見掛ける。

 いまはYOUTUBEさんしかSNSは観ていないので、YOUTUBEさんの動画でおススメ動画に表示される動画で、気になるYOUTUBEアカウントをチェックしているけれど。

 以前は「X:旧Twitter」でも見掛けた。

 匂わせるくらいが予防線になるのだろうか。恋人と一緒に映り込むとやっかみが増える、のはあるかもしれない。

 防犯の工夫で、女性の一人暮らしには男物の下着を一緒に干すとよい、みたいなのと一緒なのだろうか。かといってやっかみは男性ばかりとは限らぬだろう。

 だから「匂わせ」で済ますのだろうか。

 よく分からぬ。

 ということは、恋人のようでじつは恋人ではない説もあり得るか。だから匂わせで済ませる。恋人ではないからだ。なるほど。あり得るか。

 中途半端だな、といつも思うのだけれど、なるほど、中途半端な関係だから、というのもあるわけですね。なるほど、なるほど。

 みな、好きにすればよいのではないでしょうか。

 迷惑を掛けているわけでもなし。

 みな、よい香りを匂わせていきましょう。

 或いは、よい関係を。

 むふふ。



2127:【2024/09/11(22:48)*どろ遊びしたい】

 恋人をつくるぞ! ねんどで!

 誰かいっしょに恋人つくってください。ねんどで!

 ねんど遊びをいっしょにしてくれる方、募集中です。積み木遊びでもいいよ!



2128:【2024/09/11(22:59)*小説じゃないのでOKです!】

 恋人のレシピを買ってきた。書店さんで見掛けて、前々から気になっていたのだ。

 小学生のころに、大人向けの雑誌で月間「友達を作ろう!」を購入したことがあった。第一周目は「友達の設計図」が、第二周目からは「培養液」が月毎に送られてくる。培養液を配合して、塩の結晶を育てるように「友達の核」をまずは形成しなければならないのだが、小学生のじぶんには難しかった。三年を掛けて完成させるキッドだったのだが、半月と経たぬ間に諦めてしまった過去がある。

 だが私はもういい大人だ。髭に白髪が混じりはじめた三十代である。

 出版社に段取りを整えてもらわずともレシピさえあれば、恋人の一人や二人作れるのである。

 さっそく会社帰りに恋人生成に必要な材料を買い求めた。デパ地下で入手可能とレシピにあった。一時期流行したからだろう。コンビニよろしく街を出歩けば専門店が軒並み名を連ねた時期もあったが、いまは流行も下火だ。市場にあぶれた商品を雑貨店が安値で引き受け、売り捌いているのが現状のようだ。

「あのぅ、業務用コンニャクと寒天はありますか」

「取り寄せになってしまいますね」

 間髪入れずに返す店員に、じぶんと同じような目的で用足しをする者がほかにもいるのだろう、と顔が火照るのが分かった。

 足りない分は通販を利用することにした。

「さいきん、何かいいことでもあったんですか。機嫌がよさそうですけど」

「え、分かる?」

 会社の後輩が声を掛けてきた。座ったまま椅子を転がし、隣に来る。彼女の結われた長髪が鞭のようにしなった。

「前田さんっているじゃないですか」

「ああ。本部に引き抜かれた人?」

「子猫を飼ったことがあったらしいんですけど、そのときの豹変ぶりと先輩の姿が重なります」

「へ、へぇ」

「子猫でも飼いましたか?」

「惜しいっちゃ惜しいかな。子猫じゃないし、子犬でもないけど、まあ似たようなもので」

「ふうん。教えたくない感じですね」

「完成したら写真くらいは見せてもいいけど」

「あ、分かっちゃった」後輩は目じりを下げると、ふうん、とこちらを舐めるように見下ろし、「完成したら見せてくださいね。完成したら」と訳知り顔でじぶんの席へと戻って行った。

 私は恥ずかしかった。童心を見抜かれたようで、大人の威厳が損なわれた心地になったが、だからといって投げやりになるほどオコチャマでもない。

 仕事が終わったら家へと直帰し、恋人の育成に精を出した。

 あまりの熱のあげようだったのか、後輩は次の週には、「例のあれってどうなりましたか」と話を振ってきた。

「ああ。順調だよ」

「ちなみにですけど、性別ってどっちですか」

「聞いてどうするの」ぎょっとして、牛丼を掻き込む手が止まった。昼時を過ぎており、食堂は閑散としていた。後輩はうどんをトレーに載せて、私の向かいの席に座った。彼女は言った。「もはや隠す意味なくないですか。恋人ですよね。作ってるのって」

「あんまり大声でしたい会話じゃないかな」

「わたしも作りはじめたんですけど、瞳の色の配色、むつかしくないですか」

 思わぬ告白に、私はむせた。牛丼の玉ねぎが気管に入ったのだ。

「お水、飲みます?」言いながら後輩はじぶんだけ優雅に水をすすった。

 それからというもの、私は後輩と暇さえあれば「恋人生成談義」に花を咲かせた。というのも、彼女の手掛けた恋人は女性型だったのだ。私もまたじぶんと同性の男性型の恋人を手掛けていたこともあり、馬が合った。

「もし上手く恋人を作れたら、親になんて説明するつもりでいる? ちなみに私は、先に既成事実を作ってしまって、親には異議を唱える隙を与えないつもりだ」

「既成事実とは? 子供も手掛けちゃおうとでも?」

 生成型の恋人でも、生殖器官を備えるならば子は作れる。だが、私の恋人は同性なのだ。したがって、子を設けるには、子もまた生成しなければならない。

「そうではない。結婚届を出してしまえばよいだろう」

「えー。それは恋人とは言わないのではありませんか」

「ダメかな」

「ダメですね。我々は恋人を手掛けているのです。まかり間違っても伴侶ではないでしょう」

「そっか」

「そうです」

 後輩は鼻息を荒くし、焼酎を飲み干した。

 私たちは恋人生成を手掛ける同士として、会社帰りのみならず、休みの日にも食事をする仲となった。先に釘を刺しておくが、この先、彼女と私が恋人関係になることはなく、むろん伴侶の関係になることもない。

 恋人作りは順調であった。

 レシピがある。

 書いてある通りに作れば、誰でも恋人を作れるのだ。

 そうして、私は一年を掛けて、理想の私だけの恋人をこの世に生みだすことができた。晴れて私には恋人が出来たのだ。

「わざわざ、わたしに合わせずともよかったのに」後輩は言いながら、出来立てほやほやの恋人を私に紹介してくれた。

「私だけ先に恋人を作ったのでは、申し訳ないからね。すこし待つくらいなんてことはないよ」言いながら私は、後輩の恋人の「サチ」さんに挨拶をした。サチさんは私に会釈し返すと、私の隣にいる私の作りだした私の恋人にも会釈した。

「サクヤです」私の恋人は自己紹介した。

 宴もたけなわに、人生初のダブルデートは、思いのほか呆気なく幕を閉じた。というのも、サクヤもサチさんも、生まれて初めて外に出たのだ。目にする光景の一つ一つに好奇心を刺激されるらしく、すこし目を離すだけでも、雑踏の奥へと消えてしまいそうになる。

「こらサクヤ、それは犬の糞だよ」

「ダメったら、サチ。それは猫の糞よ」

 終始こんな具合で、デートの雰囲気も何もあったものではなかった。

 最終的には、遊び疲れたのか、サクヤもサチさんも、電車の中で眠りこけてしまって、揺さぶっても、頬を平手ではたいても、一向に目覚めない。

 後輩と私は、二人の作りたてほやほやの恋人をおぶって帰路についた。

「子育てってこんな感じなんですかね」

「言葉が通じるだけまだマシかもしれない」

 後輩は、ウゲー、と顔を皺くちゃにした。

 私たちは、一刻も早くまともな恋人関係をじぶんたちの恋人と築きたかった。ゆえに、休日が訪れるたびに、ダブルデートを繰り返した。一人よりも、二人のほうが、不測の事態に対処しやすい。だが、問題の種も二倍になるので、苦労は変わらずだ。いつも最後はクタクタの疲労困憊であった。

 会社終わりに、後輩から呼び止められた。

「先輩、あの」

「うわぁ。嫌だなぁ。神妙に改まっちゃって何。あんまり聞きたい感じじゃないなこの感じ」

「じつは私、サチをどうしても恋人として見られなくって」

「えー?」

「先輩はサクヤくんを恋人として見れるんですか。あれだけお世話してあげていて? もはや子供じゃないですか。我が子じゃないですか。発情の仕様がなくないですか?」

「あー、うん」私は考え、言った。「そだね」

 恋人には思えない。

 欲情の仕様がない。

 たしかに、と思ったのだ。

「大事ではあるんですけどね」との後輩の言葉に、「言いたい旨は理解した」と私は応じた。「でも、だからっていまさらどうしようもないだろう。作っちゃったんだから。恋人。やっぱり無理でしたじゃ、そうは問屋が卸さんよ」

「そのことでご相談が」

「長くなりそうだから、場所変えよっか。晩御飯まだでしょ」

「ゴチになります」

「奢るとは言っとらん」

 夜景の綺麗なレストランに入った。ムードは満点だったが、後輩がヤケ酒のごとくメニューにある安いワインを片っ端から飲み干していき、終いには吐瀉したので、ムードのムの字もなくなった。

「おまえなぁ」

「先輩がわるいんですよ。恋人なんかかってに作るから」

「おまえも作っただろうが」

「先輩の真似したんですよ。バカちんが」

 聞けば、後輩は私のことを憎からず思っていたが、私の性的指向が同性愛に傾いていることを知って、一計を案じたらしかった。

「一計の打ち方が、ざっくばらんすぎはしないか」

「振り向いてくれるかなって思ったんですじゃ」

 吐瀉だらけの後輩をおぶりながら、レストランの外に出た。

「サクヤを恋人と見れないのと同じ理由で、おまえのことも恋人とは思えん」

「ふうん。じゃあ吐いちゃお」

「あ、おい!」

 何が、じゃあ、なのかはサッパリなのだが、後輩は私の背中に吐瀉物を、オベー、した。

「おまえなぁ」

「どうじゃ。首筋があったかいじゃろう」

「ばか」

 これではタクシーも拾えない。たしか後輩の家は歩いて一駅分の距離だったはずだ。体力が持つかな、と思いながら、ゲロまみれの後輩をおぶって歩いた。

「サクヤくん、先輩の帰りが遅くて、さびしがってるんじゃないですか」

「酔いが覚めてきな」

「うんって言ったら降ろされそう」

「じぶんで歩いてマジで」

「サクヤくんって、若干先輩に似てますよね」

「まあ、私が育ててるようなものだからね。子は親に似ると言うし」

「先輩がサクヤくん要らないなら、わたしがもらっちゃおっかなぁ、なんて」

 後輩の尻から手を離すと、後輩は私の背中からずり落ちた。「イッタ。何すんですか」

「寝ぼけこと抜かすからだろ。誰がサクヤを要らないなんて言った。そんなこと言った記憶がないもんで」

「でも恋人とは思えないんですよね」

「それはまあ、そうだが」

「この先、サクヤくんがどこの馬面ともつかない女に寝とられてもいいって言うんですか先輩は」

「どこの馬面ともつかない女に寝とられたくはないし、馬の骨って言って?」

「じゃあわたしでいいじゃないですか。わたしにしときましょう。わたしはサクヤくんのこと、先輩と思いながら大事にできますよ」

「サクヤを俺の代わりにするんじゃないよ」あまりの暴論に、一人称が「俺」になってしまった。「というか、そもそもおまえ、なんでサチさんを作ったんだ。男が好きなら、男の恋人を作ればよかっただろ」なんでわざわざ女性型の恋人なんか、と問うと、「わたしが好きなのは先輩であって男じゃあないんでね!」との勇ましい返答に、思わず胸がトクンとときめいたのはここだけの内緒だ。

 夜風で吐瀉物が冷えたのか、「もうサイアク」と後輩は一人でズンズン歩き出した。あとにつづくと、「なんでついてくるんですか」と追い払われそうになり、私は、彼女の吐瀉物でずぶ濡れのスーツを示して、「これでタクシーに乗れと?」と言い返したところ、「男物の着替えとかないですからね。来るなら泊まってったらいいじゃないですか、そうしなよ、そうしなよ」と彼女はぶつくさ零しながら、私の隣に立った。じぶんの吐瀉物塗れの私のスーツに鼻を近づけ、スンスン、と嗅ぐ。「うん、あんまし匂わない。ワインのよい香り」

「いけしゃあしゃあと、このぅ」

 彼女のマンションでは、サチさんが首を長くして待っていた。玄関扉を開けると、まっさきにサチさんの笑顔が覗いた。吐瀉物塗れの家主の姿を認めると不穏な気配を察知したのか、サチさんは私に鋭利な視線を飛ばした。

「や、私も浴びた口だから」と背中を見せる。サチさんはそれでも、家主を私から引き離すように支え、遠慮がちに、どうぞ、と上がるように促した。私はその姿に、なぜか分からないが、胸がときめいた。

 私はこの日、後輩の家に泊まった。サクヤには電話で事情を伝え、申し訳ない、と謝った。早く帰って来てね、とサクヤは言った。私の胸は何か温かいもので満たされた心地がした。

 この日の経験が、私の思考に何かこれまでとは違った回路を植えつけた可能性は相応にある。きっかけがあるとすれば、この日の出来事だったと私は過去を振り返るだろう。

 紆余曲折、私はけっきょくのところじぶんで作った恋人を恋人にせずに、後輩に譲った。

 譲った、とはいえど、家に帰ればそこにはサクヤがおり、私は彼のために日々を生きる。

 休日になれば、サクヤとデートをしに後輩が我が家を訪れることもあれば、サクヤのほうで後輩に会いに他出することもある。

 入れ替わりで、私はサチさんに会いに家を出る。

 後輩の作った恋人が、いまの私の恋人だ。

「同性愛者じゃなかったのかよ」とは後輩の談だが、私はかつて唱えた彼女の言葉を拝借する。「私が好きなのはサチさんであって、女性ではないからね」

「それ、わたしのセリフじゃん」

 唇を尖がらせて文句を唱える後輩は、きょうも私の作りだした恋人と、私の知らぬ場所で逢瀬する。

 恋人のレシピは、いまも書店に行けば目に留まる。

 私の部屋の本棚にも、埃を被って納まっている。

~~~~

 ぽわわわ~ん。

 みたいな妄想を巡らせたんじゃ。

 小説じゃないのでOKです!



2129:【2024/09/12(00:37)*駄文だよ】

 小説は構想して、推敲して、修正して、加筆して、校正して、作られるものなのだから、一発書きで修正もしない妄想の羅列は、小説ではないよ。

 そうでしょ?

 そうだよー!

 わがはいのは総じて駄文だよ。日記と区別がつかないよ。

 そうでしょ?

 そうだよー!

 小説は二度と作らん。作ったこともない。



2130:【2024/09/12(01:08)*宇宙マイクロ波背景放射のごとく】

 この間に思うのが、少なからずの者たちは、じぶんの有する思考形態を問題に適用しようとして失敗し、なお思考形態を変化させようとしないがゆえに、被害を重ね、拡大するのではないか。

 環境に適応することが進化の要であるならば、問題に思考形態を適応させることが進歩の要と言えるのではないか。

 一貫性というものを、多くの者は勘違いしているのではないか。

 例外にまで、一貫して既存の手法を適用すれば、問題を解決することはむつかしいだろう。一貫させるのはあくまで、階層構造において可能な限り大枠の階層にも適用可能な方針のみではないか。それとて、どの階層にも適用可能とは限らない。もっと高次の大枠においてフレームを再定義しなければならないのならば、方針も自ずと変わっていくはずだ。

 一貫させるべくは、このような適応性なのではないか。一般には柔軟性と謳われることが多いのかもしれないが。

 カレーを作りたいのに、ピザのレシピを持ってきてなんとする。

 穴を塞ぎたいのに、シチューのレシピを持ってきてなんとする。

 平和を築きたいのに、殺傷兵器の設計図を持ってきてなんとする。

 逆にも言える。

 人を殺したいのに、花を持ってきてなんとする。

 人を殺したいのに、絵の描き方を教えてなんとする。

 人を殺したいのに、駄文をつむいでなんとする。

 人を殺したいのに、医療を支援してなんとする。

 人を殺したいのに、食事を支援してなんとする。

 柔軟であればよい、というわけでもないのかもしれない。けっきょくのところ、人類をどうしたいのだろう。あなたはどうしたいのだろう。どんな未来を送りたいのだろう。どんな未来を目にしたいのだろう。

 私は、こんな未来を見とうなかった。

 見たくないので、見てないが。

 サングラスでは足りない。

 眩しくって、目が潰れてしまいますね。

 もっと穏やかな光であれ。

 あのひとの歌のように。

 かのひとの絵のように。




※一様に、可視光にすら至れない。



2131:【2024/09/12(01:52)*見捨てないDAY】

 問題に適応させるための土台の思考形態すら持たないボクのような者はどうしたらいいですか。しぇんせー、ボクは、ボクは、どうしたらいいんですか。

(まずはじぶんで考えるところからですよ)

(しぇんせー!)

(言い換えると、じぶんで考えろ、となります)

(しぇんせー!?)



2132:【2024/09/12(05:13)*鞭もある意味、ニュートンの振り子?】

 鉄球を糸で吊るす。何個も数珠つなぎに並べ、端の鉄球をつまんで離す。すると、鉄球は元の位置に戻り、そのとき慣性の法則で隣の鉄球に衝突する。このとき、鉄球は数珠つなぎに「〇〇〇〇〇……」と並んでいる。中間の鉄球に衝撃が伝わり、もう一方の端にまで衝撃が伝わると、端の鉄球が弾き飛ばされる。

 ニュートンの振り子、と呼ばれる実験装置である。

 寝ながら考えていたのだけれど、最長でどれくらいの長さで成り立つのだろう。地球は球形だ。曲がっている。曲がった状態でもニュートンの振り子は機能するのだろうか。

 また、衝撃は、中間の鉄球の数が嵩むほど僅かに鉄球に吸収され、発散状態となり、端にまで伝わらない場合も出てくるのではないか。

 疑問である。

 円形に並べたニュートンの振り子が機能するかも気になる点だ。

「C」のように並べても、端と端が弾き合うのだろうか。

 振り子は重力下において成り立つ。ニュートンの振り子は無重力状態でも成り立つのか。要は、端の鉄球が鉄球の列にぶつかればよいので、振り子でなくともよいはずだ。実験するだけなら簡単だろう。宇宙ステーションの中で実験すればよい。

 なんとなくだが、中間の鉄球の数によって、従来考えられていたのとは異なった挙動を振り子たちが示す場合もあり得るのではないか。衝撃伝達速度との関係で。

 どんな速度で衝突させても同じように鉄球は衝撃を伝達させて、端と端で弾き合うのだろうか。むろん、鉄球が破壊されない範囲の衝撃でなければならないはずだ。

 割と疑問が絶えない実験装置に思うが、いかがだろう。

 ニュートンの振り子についての妄想であった。

 寝ながらこういうことを妄想するのである。だって分からないからね。

 無知なのだ。

 むっちーん。



2133:【2024/09/12(05:34)*毛細血管が浮き出とる!の巻】

 昨日気づいたのだけれど、運動した直後の鼻の付け根に、毛細血管が浮き出てて、そこだけ半透明人間になってるみたいだった。家に帰ったら直ってたけれども、人体の神秘である。

 じぶんの顔ってあんまりマジマジ見ないから気づかんかった。

 ひょっとしたら眼球とかも血走ってるのかも。

 氷当てたら、毛細血管さんも「きゅぅ……」ってなるかな。

 試してみよ。



2134:【2024/09/12(22:14)*自由自在なら自由自在】

 ここ数年というか、けっこうずっと十年くらい前から思っていることがある。

 自由自在度と技術の高低はあまり関係ないのではないか、との疑問だ。

 たとえば超絶技巧のS級の技があるとしよう。それを行えば「とってもすごいでございますわ!」になるけれども、とんでもなく細かな調整がいるために、けっこうな不自由を強いられる。それはたとえば、S級の技に入るパターンが二通りしかない、といった具合だ。

 どこからでも入れるわけではない。

 却って、C級やD級の比較的レベルの低い技――素人でも練習すればこなせる技――くらいのほうが、自由自在度は高まるのではないか。

 当りまえの話かもしれないが、けっこう重要という気がしている。

 自由自在度を評価する視点というのは、あまり各分野では重宝されていないのではないか。否、みな一様に無意識では自由自在度の高い表現や成果物やパフォーマンスに惹かれているのだが、それが自由自在度だとは気づいていない。高い技術を熟せているからとか、動きが洗練されているからとか、技術のレパートリィ――引き出しが多いから――といった評価の仕方をしているのではないか。

 題材が独創的というのも、要は、自由自在だからなのではないか。型にはまっていない。いつでも逸脱できる。

 野球の投球でもそうなのではないか。超剛速球しか投げられない投手よりも、自由自在に投球を選べる投手のほうが選手としてはレベルが高いと評価される傾向にあるのではないか。野球に(も)詳しくはないので印象論にすぎないが。

 とかく、思うのだ。

 自由自在度と技術の高さは、一般に思われているほどには比例関係にないのではないか、と。相関関係にはあるだろう。基本的には、細かなレベルの低い術を体得して基礎力を高め、それゆえに高次の超絶技巧も体得できる。

 したがって、投手とて、超剛速球を投げることの可能な者は、ほかの球種も投げられるのではないか。印象論なので、例外もあるだろうけれど。

 片手で身体を支えるのはすごいが、両手でも別によいではないか。自由自在に、どこからでも技に繋げられる、音に乗れる、活殺自在なほうが、好みだな、とけっこうずっと思っているのだけれど、自由自在の領域に至るには、思いのほか遠いのであった。片手で身体を支えたことはないけれど。比喩である。

 妄言だ。

 定かではない。



2135:【2024/09/12(22:26)*と、ランプの精は言いました】

 ある人物が首脳になると、ある別の国が数年以内に滅んでしまう、なる言説が仮に、何かの間違いで妥当だとすると、ずいぶんと能力値の高い首脳候補もいたものだ、と思ってしまう。善悪において、どちら寄りに能力が高いかは別軸で考える必要があるにせよ。

 仮に大量破壊兵器を用いない手法での、国殺しならば、いったいどんな魔法を使うのだろう、と瞠目に値する。

 言い換えるならば、他国の首脳が変わったくらいで滅んでしまうような国と思われてしまった側にずいぶんと失礼な物言いである。いったいどれほど弱小国家と思っての発言なのだろう。とはいえ、かような妄言を吐くような者はないだろうけれど。

 他国の首脳が変わるくらいで――言い換えるならば、他国の選挙の結果で自国の安全保障が揺らぐ程度の安全保障しか敷けていないとすれば、けっこうに国として危うい。システムとして脆弱性を放置していると評価できる。

 いったいどのようにしたら、他国の首脳が替わっただけで自国が滅ぶだろう。或いは、自国の首脳が替わっただけのことで、他国が滅ぶだろう。どんな因果関係だろうか。風が吹いたら桶屋が儲かるどころの話ではない。

 が、絶対にあり得ないというほどでもない。

 実際に、過去には、首脳陣が代替わりをした結果に滅んだ国もあるはずだ。或いは、首脳陣が入れ替わって、他国を侵略して滅ぼしてしまった事例もあるだろう。一概に、あり得ない想定ではない。

 首脳が替わると他国に軍事侵攻するので、軍事侵攻された側の国が滅ぶ、との意味合いならば分からないでもない。だが、首脳が替わった程度で軍事侵攻するかしないかが決まるのは、もはや民主主義国家ではないだろう。独裁を揮うことを前提としなければ、首脳が替わっただけのことで他国に軍事侵攻するようにはならないはずだ。

 ということを、きょうは妄想したのであった。



2136:【2024/09/12(22:43)*宇宙の謎を解くキィとは?】

 ニュートンの振り子での疑問だ。

 原子を数珠繋ぎに並べても成り立つのだろうか。

 原理的に、物質を押すこととニュートンの振り子は同じなのでは?

 音の伝播と同じでは?

 違うとすると何が違うだろう。

 うーん。

 謎である。

 お詳しい方ー!

 人間スケールを超えた場合の、ニュートンの振り子についての知見を教えてくんなまし。

 微視的巨視的な領域において、ニュートンの振り子はどのような挙動を取るであろう。

 そしてそこで差異が表出するとしたら、それはなぜであろう。

 人間スケールでは成り立つニュートンの振り子が、なにゆえ微視的巨視的な領域では成り立たぬのか。或いは、成り立つとしたら、例外は存在しないのか。

 わがはい、キィになります!

(鍵になるのなに?)

(ウキィ)

(猿だっただと!?)

(月を見ると大きくなります)

(サイヤ人だっただと!?)

(かーめー)

(なになに!?)

(はーめー)

(やだやだ、こわい)

(はっーーーーー===≡≡≡◎)

(急にへんなことしないで。恥ずかしい……)

(いまのがこの扉の開け方です)

(キィを使って)

(かめはめ波じゃないと開かないんで)

(直して。鍵を。頼むから。次からはキィを使って)

(はい)

(よいお返事をいたただけて、よかった◎)



2137:【2024/09/12(23:07)*ブロー2】

 虫は宇宙人と思う。

 ニロは常々そう考えているのだけれど、親に話してもいまいち伝わらない。きょうだいや友達は虫の「む」の字を聞いただけで眉間に皺を寄せて逃げていく。

 ニロは虫が好きだ。もうすこし言うと、虫を観察するのが好きだ。

 虫をじっと見つめていると宇宙と繋がれる。宇宙だけではない。過去とも未来とも繋がったような心地に浸れるのだ。

 琥珀を眺めているときにも似た感覚になる。もうすこし付け足すと、琥珀に閉じ込められた虫を見詰めているあいだは、だ。

 ニロはもうすぐ大学生になるはずの十七歳女子だけれど、未だ、進学先は決まっていない。親や教師は、「せっかく推薦枠があるのだから、推薦してもらえばいいじゃない」と言うのだが、ニロは、あまり気が乗らない。

 というのも、推薦の進学では虫とは関係のない学科に入らなければならないのだ。ニロの食指は動かない。

 夏は虫の季節だ。

 ニロにとっては日焼けの季節である。一日の大半を外で過ごし、ひたすらに虫を探して観察する。捕まえたりはしない。じっとその場に屈んだり、背伸びをしたりして、見つけた虫を観察するのだ。

 カマキリを見詰めていると、目が合うことがある。割としょっちゅうだ。カマキリの動きに合わせてお尻が揺れる。ニロのそうした姿は目立つので、ときおり勝手に動画を撮られて電子の海に流される。虫に関係ないのにこれがまたバズるのだ。

 せめて虫に注目してよ。

 ニロはきょうだいから回されてくるじぶんの盗み撮り動画を端末越しに眺めて、恥辱の念を覚えるのだ。

 ニロには好きな固有の虫がいない。虫ならなんでも好きなのだ。

 もうなんでも宇宙人に見えてくる。エイリアンである。

 宇宙の神秘!

 足元を這いまわる蟻一匹にすら、壮大な宇宙のロマンが詰まっている。

 虫の動きは独特だ。脚の動かし方がまず以って、美しい。

 数学的なアルゴリズムを感じる。幾何学をニロは想起する。

 ニロの興味の範疇は陸上の虫に限らない。水中の虫のみならず、カニやエビまで多岐に亘る。

「海の中に虫はいないでしょ」とはきょうだいの談だ。

「いるよ。フナムシでしょ。カニでしょ。エビでしょ。わたしのおすすめはシャコさん」

「虫じゃないでしょ」

「定義の違いだね。わたしは虫と思う。だって宇宙人っぽいでしょ」

「宇宙人ってか怪獣じゃん?」

「怪獣は宇宙からくるんだよ。そうでしょ? そうだよー」

 ニロの発言は突飛である。いかなきょうだいといえども捌き切れるものではない。

 ふだんのニロは孤独の人だ。孤高なのである。

 だが本人にその自覚はなく、いつでも虫を見掛ければ、「ハロー! お元気ですか、わたしは元気でーす」の日々なのだ。

「きょうもよいお天気ですね」近所のお姉さんが挨拶をして去っていく。

「うぃ!」

 近所のお姉さんは、ニロにいつも会釈してくれるステキな人だ。

 みなあの人みたいにそよ風のようであれ。ニロは心で唱えて、また虫に意識を注ぐのだ。

 ある日、ニロは見知らぬ集団につきまとわれた。移動する先々で同じ集団を見掛けるのだ。

 尾行けられてる!

 どうやら電子網上に拡散した数々のニロを盗み撮りした動画が元凶であるらしい。虫真似よろしくお尻ふりふりを無自覚に披露するニロの姿は、いまや脚光を浴びすぎてビシャビシャだ。

 本人を突き止めて追加の盗み撮りをしてやれ、とばかりに遠路はるばる野次馬が集まったとの顛末であるようだ。ニロはしかし歯牙にも掛けない。人類など虫と比べれば、雲のようなものだ。気づいたら浮かんでいる。気づいたら消えている。流れ、現れ、薄れる影そのものだ。

 気にするだけ損なのである。

 だがニロにも放っておけないことがある。

 あろうことか、ニロを盗撮する者たちを見咎める人物が現れたのだ。例の近所のお姉さんである。ニロをよそに、口論がはじまった。

 集団に対して、近所のお姉さんが、「あなたたち、ちょっと」と口を挟んだのだ。お姉さんは一人だ。多勢に無勢である。

 仕事帰りであろうか、スーツをパリッと着こなしたステキなお姉さんは、「いま撮ってた動画見せてください。場合によっては警察を呼びますよ」といつものそよ風とは違った冷風を吹かして、集団に詰め寄った。

 虫に夢中のニロが我に返るほどの剣幕であった。

 集団のほうでも一度ひるんだ様子だが、お姉さんが一人と知るや、てやんでい、と噴きあがった。あれよあれよという間にお姉さんは囲まれた。火に油である。

 じぶんを庇って、そよ風のようなお姉さんが危ない目に遭っている。

 ニロは心臓が凍りついた。

 人よりも虫。

 人類など雲のようなもの。

 かように考えるまでもなく断じてきたニロであるが、さすがに看過はできなかった。

「あのぅ、すみません。そのお姉さん、知り合いで、あの、わたしのせいで、すみません」

 集団に近寄り、おっかなびっくり声を掛けた。

「あ、このコじゃん。やっぱ本人だ。撮ったれ、撮ったれ」

 野次馬はこぞって端末のレンズをニロに向けた。

「人を珍獣扱いするんじゃありません」お姉さんが叫んだ。

 野次馬がお姉さんを邪魔だといわんばかりに、腕で振り払った。お姉さんは地面に転がり、「あぎゃ」と痛そうな声を上げた。

 ニロはこのときのことを後年、思い返すたびに、もっとほかにやりようがあったのではないか、と臍を噛むことになる。

 考えるよりも先に身体が動いた。

 カッとなった。

 だが思考は冷静だった。

 まず、カマキリを連想した。カマキリの威嚇の構えである。

 つぎに、シャコを連想した。虫界きってのパンチの名手である。

 最後に、拳を放ってから、「あ、推薦これでオジャンかも」と思ったが、後の祭りだ。

 ワン・ツー・スリー。

 律動よく繰り出されたニロのパンチは、お姉さんを邪険に扱った野次馬たちを、瞬時に地面に転がした。すべてボディーブローである。

 しかも、「ワン」のテンポで二発を繰り出す素早さだ。

 後年、ボクシング界で不動の地位を築き上げることとなるニロは、その素早い身のこなしから繰り出されるパンチにあやかって、「ブロー2」の愛称で呼ばれるようになる。まさに、一発のパンチでボディブローを二発お見舞いする凄技だ。

 虫にしか興味なく、虫から学んだ身のこなしで、ニロはすでにボクシング界から引っ張りだこであった。ニロのパンチは、男女の区切りすら破壊する。電子網上での盗撮動画の人気もそこに関係しているのだが、当の本人は、一顧だにしない。

 親に言われるがままに試合に出ているだけである。ボクシングには興味の欠片もないのだ。

 ただ、虫の真似をするだけで勝利する。やるんじゃない、と禁止されるならまだしも、虫の真似をしてくれ、と乞われれば、それがリングの上だろうとニロには断る道理はないのだった。

 素人相手に拳を揮ったのはこれが初めてだ。

 推薦の話はなくなったかもしれない。地面に転がった者たちはみな一様に背中をエビのように反らせて悶絶していた。ニロの「ブロー2」を喰らったのだ。数日は水も喉を通らないだろう。

 地面をのたうち回る野次馬たちの後ろで、お姉さんが、ぽかんとニロを見上げていた。

 ニロは野次馬たちを踏みつけないように跨いだ。へたり込んだままのお姉さんの腕を握り、「ごめんなさい。もうしないようにお願いしておきますので」ニロは彼女を支えた。「わ。熱い。人の腕ってこんなに熱い?」

「ありが、とう?」

 ニロはその場で、足元の絶賛悶絶中の野次馬たちに、もう二度とお姉さんにひどいことしないでくださいね、と念を押した。絶賛悶絶中の野次馬たちは無言で細かく首を縦に振るのみであった。

 野次馬たちはしかし、用意周到であった。

 別の場所からこの様子を盗み撮りしていた者があり、後日、電子網上に動画が投稿された。瞬く間にバズり、ニロの親にもニロの通う学校にも知れることとなった。が、なぜかニロの推薦の話がなくなることはなく、動画へのコメントものきなみ、「ヤラセ疑惑」で埋まった。

 というのも、ニロの繰り出した「ブロー2」があまりに速すぎたため、動画の解像度では捉えきれていなかったのだ。動画では単に、ニロが集団に近づくと、つぎつぎに倒れる男たちが映っているばかりであった。

「合気道の動画みたい」ニロのきょうだいが動画を観て言った。

「合気道はヤラセなの?」

「さあてね。ニロのこれはヤラセなん?」

 違うことをニロは知っていたけれど、誤解のままでいてもらったほうが都合が良さそうだ。そうと判断して、黙って、ハエの真似をした。

「その手の動きは何?」

「こうしてると落ち着くので」

「ラッコみたい」

「ハエだよ」

 肩を垂らしてみせるきょうだいは、表情だけで、うんざり、を体現する。表現力が豊かなのは、ニロだけではないようだ。

 わたしも虫真似じゃなくって人真似をしたらいいのかな。

 かように思うこともあるが、どれほど真似したところで、ニロが近所のお姉さんのようなそよ風のごとく雰囲気をまとうことはないと分かりきっていたので、ニロはやはりきょうも虫を探して、虫真似をする。

「まぁた、こんなところにいた。ほら、試合行くよ」親がサングラス越しに空を仰いだ。

「もうちょっとだけ見てたい」

「なに? 蟻?」

「イモムシ」

「やだぁ。後にして」

 親の悲鳴に、

 こんなに可愛いのに。

 ニロは思うが、口にしない。言っても伝わらないことなどこの世にはたくさんある。宇宙人なのだ。虫は。

 宇宙人のことは、地球人には分からない。

 でも、ニロは、分からないことが嫌いじゃない。分かりたいと思う。だから虫の真似をする。

「虫籠に入れていっしょに連れてきてもいいから」

 親の提案に、ニロは首を横に振る。「可哀そう」

 捕まえたことはないのだ。一度も。

 眺めているだけでよい。

 人の体温は熱すぎる。火傷をさせたら大変だ。

「ばいばい」

 葉の上で、むしゃむしゃと食事中のイモムシに手を振って、ニロは、その場を後にする。親の頼みを利くために。

 虫真似をすべく、リングの上へと足を運ぶ。

「カブトムシと思ってやって」

 コーチの言葉に、ニロは頷く。「わかった。きょうは頭突きもOKなんだね」

「やっぱりカブトムシはなしで……」

 虫選びが肝心なのだ。

 そうとニロ以外の者たちが学ぶには、まだすこし時間が掛かる。蝉の音が積乱雲のカタチを取ったような夏の日の出来事である。

~~~~~~

 ぽわわわ~ん。

 という妄想を浮かべたんじゃ。

 小説じゃないのでOKです!



2138:【2024/09/13(01:40)*ぐつぐつする】

 文章の基本は「いつどこで誰が何をなぜどのように」の5W1Hだとされている。

 反して、妄想はこの「5W1H」が欠ける傾向にある。

 したがって、小説と妄想の区別をつけるには、「5W1H」が欠けているかいないか、で判断できるだろう。

 その点、わがはいの駄文は往々にして「5W1H」が欠けている。

 どう見繕っても小説ではないのである。

 駄文である。

 そうでしょ?

 そうだよー!

 小説は二度と作らん。作り方も知らん。



2139:【2024/09/13(02:22)*馬に太い文、と書いて、駄文】

 駄文のよい点は、正真正銘、なんでもありな点である。駄文でない文章を想定できない。名文とて、読解不能な者にとっては駄文である。

 もはや駄文は文章である必要すらない。

 何かしらの羅列であれば、駄文化し得る。

 いま初めて「駄文化」なる単語を用いたが、これでは「ダメな文化」なのか「ダメな文章化」なのか「駄菓子のような文化」なのか「駄菓子のような文章化」なのか、区別がつかない。もうこの時点で駄文である。

 もしこの世に、文章のように読み解ける何かしらの羅列――組み合わせ――が存在するとしたら、それもまた駄文である。

 この世は駄文で出来ている、とすら言えるが、これはいささか大仰に言い過ぎである。

 まさに駄文のなせる業である。

 駄文はよいよ。

 何でもありだからね。

 妄想は総じて駄文になり得る。

 妄想は駄文の種である。

 みな、駄文たれ。

 でも駄文だらけの社会はちょっと困る。

 だからたまには、正気を探って、論文たれ。

 論理的な文章もよいね。

 稀に、けっこうな頻度で、駄文も混ざっているけれど。

 うけけ。



2140:【2024/09/13(02:29)*ここ掘れ、にゃんにゃん】

 人脈という言葉を割と使わないようにしていて、単に好みじゃないからだが、同じくらい「キャリア」という言葉を使っていないことに気づいた。おそらく一度も使ったことがないかもしれない。

 ざっと過去のテキストを検索してみたところ、「キャリアウーマン」で使っていた。

 いわゆる「個人経歴」の意味合いではないので、これはノーカンにしたいが、構わぬか(構わぬ、構わぬ)。

 こう、なんというか、正解が上に一つだけあって、そこに昇っていく感じの概念が苦手なのかもしれない。人脈も似ている。最も幅広く「影響力の高い人」と繋がった者が、上に立てる、優位に立てる、みたいなニュアンスで使われる傾向にある気がしているが、これはわがはいの偏見であろうか。

 進化の系統樹みたいな感じにも感じられて、違和感を覚えるのだ。

 進化の系統樹は、人類を頂点にした図式が世に氾濫して感じるが、これはおおよそ、恣意的な切り取りと言えるだろう。人類以外にも数多、各々に系統の枝を伸ばして進化をつづけている種は数多い。それこそ、細菌の系統樹など、もはや図式化不能ではないか。

 しかも、過去の祖先に値する生物種とて、別に、より重ねて進化した種と比べて劣っているわけではない。環境に適応しているから、進化する必要がなかっただけだ。いまのところそのままでも種を存続していられるのである。

 進化を重ねた種ほど完成系、みたいなイメージで系統樹を図式化するのは、ちと、誤った理解に基づいているのではないか、と疑問視している。

 人脈もキャリアも、似たような「積み重ね、の誤った理解」に基づいて、現代社会では単語が使われている傾向にあるのではないか、とこれは個人的な偏見にすぎないが、思っている。

 というか、かように思っていたのだな、と気づいた。

 過度な一般化かもしれないが。

 いつものつまらぬ印象論である。

 別に、「人脈」も「キャリア」も単語として使い勝手がよいのなら、遠慮会釈なく使えばよろしい。単にわがはいが使わぬだけの話である。使うな、とはいっさい思いません。

 いっそ、人脈についての妄想を並べるのもよさそうですね。

 三行に一度は「人脈」の字面が出てくる妄想でも並べちゃおっかな。

「人脈」のキャリアを積んじゃおっかな。

 秋のコオロギの音色が懐かしいです。

 さびしい。

 人は好きなときに、懐かしんでもよい……。

 人生ぇ……。




※一様に、いつの間にか嫌なやつになっている、誰かにそう思われるのではなく、じぶんでじぶんを嫌と思う、それもこれも全部、人類のせい――と、隙さえあれば他人のせいにする嫌なやつである。



2141:【2024/09/13(03:24)*ここも道って言って……誰か通って】

「どの道を歩むか、よりも、どのように歩くかが大事」といった人生論的な意見を目にした。まあ、そうかもな、とは思う。以前の過去の、かつてわたしだったわがはいなどは、かように似たような文字の羅列を並べていたこともある。

 一方で、こうも思うのだ。

 現代社会は、どこを歩いているか、が格段に重視される社会なのではないか、と。

 獣道のごとく、誰が通るでもない道なき道を歩いても、それを高く評価する者はない。まず以って、人の目につかない。

 それをして、どのように歩くかが大事、と言えるのかどうか。

 いかに、悠々自適に歩いていようと、誰の知らぬところで歩いていれば、その歩みが他に知れることはなく、ゆえに後につづく者もなく、道にならぬ。

 その者が消えれば、足跡は消える。

 だが、果たしてそれを常としてしまってよいのか、は疑問の余地がある。端的に、もったいない。

 仮に、どのように歩むか、が大事なのならば、どこを歩いていようと、歩みの仕方に目を留める者がなくては、歩み方が大事か大事でないかの判断もつかないのではないか。

 他の評価などなくてよい、歩み方はじぶんが知っていればよい。

 かような意見もあるだろう。

 そうした視点もあるだろう。

 だが、往々にして、人生論を説き、それが大勢の目に留まる者の歩みは、他に高く評価されているのだ。他に高く評価されるがゆえに、人生論すら、大勢の目に留まるような情報伝達の仕方がなされる。

 とはいえ、大勢の目に留まるような情報伝達の仕方で「じぶんの人生論」が発表されたいか?と問われると、「そうでもないな?」になるので、世はままならぬ。

 おおよそ、大勢の目に留まるような情報伝達の仕方で発表される内容は、論者の本当に伝えたい事柄からは遠く掛け離れているものなのだろう。同情の余地すらある。

 世はままならぬ。

 でも、中にはいるかもしれない。

「わがはいの人生論よ、世に広まれ!」と思って、大勢の目に留まるような情報伝達の仕方で世に表現物が発表される者がいても、さして不思議ではない。そうならば、よかったですね、とほっこりする。

 みな大なり小なり、「こんなことを発信するために歩んできたんじゃないやい」と思っているのかもしれない。では、どんなことを発信したくて歩んできたのか。

 そもそも、何かを発信したかったのだろうか。

 誰に何を届けたかったのか。

 突き詰めて考えてみると、やはりというべきか私は、あなたにお手紙を渡したかったのだな、と思うのだ。あなたと、世界の断片をやりとりしたかった。

 交換日記のように。

 文通のように。

 あなたと私の、世界の断片を。

 交互に。

 おしゃべりをするみたいに。

 歩み方でどうなることとも思えぬが、かように、かつて私だったこともあるわがはいは、あなたに送る文の内容に悩み疲れて、未だ一通も出せずにいる。

 歩みの工夫でどうにかなる問題とも思えぬのですが。

 せんぱい!

 人生の!

 わがはいも、人になりとうございますわ! あーれー!



2142:【2024/09/13(04:04)*そこは定めて……】

 人的被害の出ていないミサイル発射には非難の声明を出す政府であれど、人命の損なわれるミサイル発射には非難の声明一つ出さないのはどういう了見なのだろう。他国の問題だからだろうか。

 そういう問題なのかな?と疑問に思うが、詳しい事情は分からない。

 本当は一律に、ミサイル発射には非難の声明を出しているのかもしれない。記事になっていないか、或いは、記事になっていても僕が目にしていないだけか。

 声明が出ているか、出ていないか。

 記事になっているか、なっていないか。

 情報通信技術が発展した現代社会にあって、こんな基本的な事項すら、未だ真偽の区別をすぐにつけられないのは、いったいどうしたことだろう、と思わないでもないが、情報化社会に何の寄与もできずにいる者は、かようなイチャモンを並べるだけでも、肩身の狭い思いをする。

 役に立たず、すまぬ、すまぬ。

 いっつも便利な情報通信技術を使わせてもらって、ありがたきしあわせ。

 でもどうして、人命を損なっているミサイル発射には非難の声明を出さないのですか。教えて、インターネッツさん!

「定かではない」

 真似しないで……よくてよ!



2143:【2024/09/13(04:12)*りりりりり】

 きょう、いつも通る坂道を登っていたら、木の上からコオロギの音が聴こえた。

 道幅の狭い坂道だ。ゆるやかな階段があり、自転車の通れるような坂道が横に備わっており、そこを自転車を押して上っていた。だいたい毎日通る。

 両脇に草木が生えており、ときおり業者の方々草を刈ってくれる。

 だが夏場は、三日もあれば、草木がにょきにょきと生えそろい、鬱蒼とする。

 木々も葉を茂らせ、蔓も空に伸びる根のようだ。

 トンネルのようにくぐる木がある。

 真下を通った際に、頭上からコオロギの音が聴こえた。

 枝葉を伝って居座るコオロギがあるのだろう。想像を逞しくしながら、風流な夕の合唱を味わった。

 陽が暮れており、街灯の明かりがぼんやりと頭上を照らす。足元は覚束ないくらいに暗く、自転車のライトが暗がりに光のトンネルを開ける。霧がある日は、これが顕著だ。

 坂をすこし上っただけでも、町並みを見下ろせる。

 夜の帳に沈んだ町は、点々と明かりを散らし、湖に沈んだ古代都市のようだ。

 わたしの町。

 じぶんのモノでもないのに、そう思う。

 わたしの住む、町。

 山を切り開いて築かれた住宅街だ。

 いつまでもあるわけではなく、いつかは再び、山に帰る。それとも先に、自然のほうが朽ちるだろうか。

 どちらにせよ、いつまでも在りつづけるわけでもない、わたしの暮らす町並みだ。

 湖に沈んだ古代都市のようだね。

 いつの間にか坂を上りきり、コオロギの音も頭上からは聴こえない。

 車道をこんどは一転、自転車で下っていく。

 わたしは風。

 風でもないのに、そんなことを思って、片手でTシャツを少しまくり、汗ばんだ背に風を通す。

 気持ちいい。

 そう思う。

 わたしは生きている。

 ブレーキの効きのわるくなった自転車は、耳障りな音を響かせる。清々しい心地も、一瞬で吹き飛び、わたしは、わたしが何を考えていたのかも、そうして雲間に沈む月光のように、霞み、薄れ、まどろみ、忘れる。



2144:【2024/09/13(05:45)*青旗はなくていい?】

 報道機関がスクープを誇りに思いだしはじめたら、危険信号だ。

 スクープがスクープになるのは、本来、市民に共有されて然るべき問題点が公になっていなかったからだろう。報道機関の怠慢を、スクープというカタチで「大問題」になってから報道したのでは遅すぎる。

 スクープです!は、仕事をしていませんでした、との自白にほかならない。スクープを誇示するような報道機関は、もう少し体制の在り方を気にしてほしい。斟酌せずに言えば、改善してほしい。スクープは、誇示するようなものではない。

 また、「以前から我々が言ってきたことをいまさら採用してどういうつもりだ」との批判の仕方は、いったいなにを言っているのだ?と頭がこんがらがる。

 あなた方の主張が取り入られたのなら、まずはそのことを肯定的に見做せばよいのではないか。議論の目的の一つが適ったのだ。

 相互に、考え方を伝え合い、取り入れ合い、問題点の解消によりよく努める。

 何が気に入らないのだろう。

 また、「~~は明らか」との言い方も、便利なだけに、注視しておきたい。言うほどこの世に「明らか」なことは多くないのではないか。明らかに少ない、となんとなく、ぼんやりと、曖昧に思っております(風刺です)。

 以前にも並べたことだが、現代社会は、かつてないほどに「批判への批判」が足りていないのではないか。あまりに、自家撞着な批判が目に余る。

 些末な枝葉に目を留めず、看過できない問題点を批判していただきたいものである。

 政治がわるい、というのなら、なべての政党に責任がある。国民に責任がある。

 かように批判するわたくしにも責任がある。

 じぶんを蚊帳の外に置くでない。

 自己言及を忘れずに。



2145:【2024/09/13(05:57)*寝て過ごす】

 検索してみたところ、「青旗」は、レースにおいて周回遅れの車に振られる旗のようだ。

「あなた遅れてますよ」「後続から先頭車両が迫ってますよ」「避けてください」のメッセージを含むらしい。

 はいはい、いま避けますよっと。

 みな、わがはいを追い越していく。

 つぎからつぎへと、絶え間ない。

 途絶える気配も当分ない。ごぼう抜きという言葉がある。おそらくわがはいがその「ごぼう」だ。

 うっそぴょーん。

 亀さんにも抜かれちゃう、うっそぴょーん、であった。



2146:【2024/09/13(23:00)*選び直すほうが得?】

 二つの箱がある。両方にお金が入っている。一方は一方の二倍の金額だが、どちらに二倍の金額が入っているのかは不明だ。あなたは好きなほうの箱を選べる。

 選んだあとで、箱を開けると中身が一万円だった。

 あなたはその一万円をもらうこともできるし、一万円をやめて、もう片方の箱を選び直すこともできる。だが、もう片方の箱の中身が、一万円の二倍の二万円かどうかは不明だ。ひょっとしたら、もう片方の箱の中身は五千円で、あなたが最初に選んだ一万円のほうが「二倍の金額の箱」だったのかもしれない。

 さて、あなたはこのとき、箱を選び直すほうが得だろうか。

 こういった数学のクイズがあるそうだ。

 確率の問題で、計算するとどうやら、どんな金額であれど選び直すほうがすこしだけ確率的に得をしやすいのだそうだ。

 ふうん、と思った。

 あんまり納得はしないけれど、もし仮にそうなのだとすると、これはなんだか量子もつれの問題と似ているな、と思った。もう少し言うと、量子もつれにも対称性の破れが高次に生じているのではないか、との妄想を浮かべた。

 量子もつれにおいて、観測した瞬間にあなたの観測した量子の状態が確定する。このとき、もう一方の量子も状態が確定すると解釈するのが現状の量子力学の解釈なのだそうだが、実際には、瞬時には状態は決定されておらず、あくまであなたが観測した量子とあなたの関係性が決定されたがゆえの、疑似的な関係性の固定、と解釈したほうが妥当なのではないか。

 言い換えるならば、量子もつれにおいて、「AかBか」が不明瞭な状態で、あなたが一方の量子を観測し、状態が決定された。しかし、あなたが観測した量子が「AなのかBなのか」は、実際のところ、もう一方の量子を観測してみないことには確かめようがないのではないか。

 ただし、あなたが観測した時点で、あなたの観測した量子とあなたのあいだでは関係性が決定されている。その状態が果たして「AなのかBなのか」は実のところ、もう一方の量子を確認するまでは、不明瞭なままなのではないか。

 冒頭の「二つの箱の問題」と似ている。

 箱を開けたときに、箱の中身は一万円だった。この時点で、あなたが開けた箱とあなたとのあいだの関係は決定されている。けれど、もう一方の箱の中身が、「半分の五千円」なのか「二倍の二万円」なのかは不明のままだ。

 どちらの可能性もあり得る。

 けれど、選び直したほうが、少しだけ得をする確率が高い。つまり、少しだけ「二倍の二万円が入っている確率が高い」と数学では解釈されるようだ。この場合は確率というよりも期待値なのだろうが。

 確率と期待値の区別もよく分からぬ素人の妄言である。

 数学のクイズが量子もつれと似ているな、と感じただけの妄想であった。

 とくに支持している妄想ではない。

 真に受けぬようにご注意ください。



2147:【2024/09/13(23:11)*要は、間違う確率が高いのだなぁ】

 上述の数学のクイズに似た問題で、「モンティホール問題」がある。扉が三つある。一つだけ当たりの扉で、開くと宝箱が現れる。

 司会者はどの扉がアタリかを知っている。あなたは一つだけ扉を選んだ。あなたの選んだ扉を開ける前に、司会者が残りの二つの扉の内、ハズレの扉を一個だけ開けた。

 残るはあなたの選んだ扉と、もう一つの扉だ。

 このとき、あなたは扉を選び直すことができる。

 さて、あなたは最初に選んだ扉のままのほうが得か、それとも選び直すほうが得か。

 どちらだろう。

 割と有名な問題のはずだ。

 数学的には、選び直したほうが得である。

 考え方としては、扉が百個ある場合を考えると分かりやすい。百個の扉の内、アタリは一つだ。あなたは一つだけ扉を選ぶ。

 残る扉は99個だ。

 司会者はそこで、あなたの選んだ扉以外の扉のなかから、一枚だけを残し、ハズレの扉だけをのきなみ開ける。

 残る扉は、あなたの選んだ一枚と司会者が残した一枚だ。

 あなたが最初にアタリの扉を選んでいれば、司会者が残したほうの扉はハズレだ。あなたが最初にハズレの扉を選んでいれば、残る扉はアタリの扉だ。

 このとき、最初にあなたがアタリの扉を選ぶ確率は「1/100」だ。つまり「99%の確率でハズレを選んでいる」と言える。しかし、司会者が、残る98個のハズレの扉を開けたことで、あなたが選ばずに司会者が残した扉のアタリである確率は「98/100」にまで上がっている。選び直すほうが断然お得である。

 これは最初の問題を「扉が100枚だったら?」と拡張した場合だが、扉が「3枚」でも、確率的に、選び直したほうがお得だ。

 だいたい、おおむね、こんな論法で、「選び直したほうが得」との解が導かれるのが「モンティホール問題」である。この解釈が合っているかは不明だ。

 うろ覚えで、思いだしたので並べました。

 間違っていたらごめんなさい。

 うぺぺ。

 

 

2148:【2024/09/13(23:24)*アリシヤの鱗】

 異次元世界が発見された。西暦二〇二二年のことである。

 各国首脳陣はこのことを最重要秘匿事項に指定し、厳重に管理した。

 人類がこれまで観測してきた従来の世界を基準世界と規定し、異次元世界の調査が開始された。基準世界と異次元世界は部位的に重複しており、調査の結果、量子加速器を縦に積み上げることで、異次元世界への扉を開くことができると判明した。

 だが扉は、人間一人が通れるのがやっとの大きさしか開けられず、持続時間も最長で数秒と短いものだった。丁々発止の議論の末、各国首脳陣は、一人の選抜者を異次元世界に送り込むことを決定した。

 慎重な人選の結果、選ばれたのは、二〇二六年時点で齢十四歳のアリシヤ・バンバータ、アフリカ系アフリカ人の少女であった。

 アリシヤは類稀なる理性を兼ね備えていた。知能は一般的な十代の、上位数パーセントに入る部類だが、人類史上類稀なる、と形容するほどの突出した知能指数ではなかった。ただ、どのような問題に直面しても冷静沈着に対応できる成熟した理性は、ほかの歴代宇宙飛行士や歴代各国大統領にも引けを取らない、否々、未だかつてないほどの逸材であった。

 アリシヤには異次元世界への旅路に際して、人類科学の粋を極めた利器が与えられた。最先端汎用性人工知能を内蔵したスーツもその一つだ。全身が鱗で包まれたような造形だ。超合金製だが、アリシヤの肉体の輪郭をぴったりと縁取る。頭から足の先まで露出する部位はなく、身体を丸ごと覆い尽くす仕様だ。

 食事を採らずとも百年は生きつづけられる内生態系ゲノム治療もアリシヤは受けている。アリシヤのDNAに適合した細菌やウィルスを体内に移植し、第二のミトコンドリアのごとく、アリシヤの肉体そのものが地球上の生態系さながらの循環機構として機能するように改善された。これにより、光合成のごとくアリシヤは食事なくして肉体の活動や維持に必要な栄養素を自己生成可能となった。無呼吸でも難なく生きていける。

 かくして、アリシヤは万全の体制を築き、多重粒子加速器の扉をくぐった。単身、異次元世界へと旅立った。

 通信が可能かどうかは未知数であった。

 だが多重粒子加速器を稼働しつづける限り、扉は閉じきらない。人間の通れる大きさを維持できないだけで、電磁波は伝播可能だと推測された。実際にアリシヤが異次元世界へと到達すると、「こちら地球管制塔――アリシヤさん、聞こえますか」と地球からの通信がリアルタイムで耳に届いた。

 遅延はほぼないようだ。

「こちら、アリシヤ。異次元世界に到達完了。無事です。素晴らしい光景です。映像を送ります。見えますか」

 だが、アリシヤがいくら映像を送っても、地球管制塔からの応答は芳しくなかった。

「アリシヤ、すまない」地球管制塔にいる指揮官の声だ。「どうやら音声通信のみ可能なようで、改良を試みるが、あまり期待はしないでいてくれ」

「映像データのみ、チップに記録してそちらに送り返すことは可能なのでは?」

「可能かもしれないが、リスクが高い。そちらからこちらへの逆流は、あくまでアリシヤくんが帰還する一度のみと想定している。万が一にも扉が閉じてしまえば、再び開けられるかも分からないし、仮につぎに接続できたとして、そちらとの位置座標や時間軸が揃うとは限らない」

「そうでした」研修で習った事項だ。

「このプロジェクトはあくまで、アリシヤくんを基準世界たるこちらに帰すことが目標だ。何があってもそれだけは適える。そこだけは安心してくれ」

「はい」アリシヤは意識して声音をほがらかにした。

 地球管制塔とのやり取りによって、当初予定されていた日程表が変更された。毎日アリシヤが音声でレポートを地球管制塔に送ることになった。

「音声は録画でも送受信可能なようだね」

「そのようですね」

「リアルタイムでも録画でも、アリシヤくんの好みで、そこは自由に選んでくれて構わないから」

「ありがとうございます。そうさせていただきますね」

「あ、そうそう。ロゼのほうは具合どう?」

 汎用性人工知能の名がロゼだ。アリシヤの相棒と言っても過言ではない。

「とても好調なようで、いまも司令官さんに悪態を吐いています」

「へぇ。なんて?」

「敬語を使え、とかなんとか」

「いやいや。ジョークがきついな。翻訳機能の問題でしょ。英語に敬語はないよアリシヤくん」

「ですよね」司令官との会話は英語だが、司令官の母国語では「敬語」なる文語形態がある。ロゼはそれを見越してジョークをアリシヤに言っていたのだ。

「レポート楽しみにしているよ」最後に司令官はそう述べた。

「はい。ありがとうございます」アリシヤは努めてほがらかな声音を意識した。

 アリシヤは通信を終え、深く溜息を吐いた。

 この間、高速で思考を目まぐるしく巡らせていた。ありとあらゆる可能性を考慮し、そしてすでにアリシヤは結論していた。

 異次元世界へと到達してから毎日、アリシヤは地球管制塔に音声レポートを送った。

 映像データを送れない分、異次元世界の光景を、可能な限り「美しく豊か」に伝えた。

「見渡す限り、虹色の岩石地帯かと思いきや、蜃気楼のように地形が、水源だったり森林だったり、星空のようだったりと、変わります。まるで歩くたびに場所がワープしているみたいで、最初は恐ろしかったのですが、どうやら足場を失うようなことにはならないようです。絶えず、足場のある場所を歩けます。ワープする距離もまちまちで、いまのところ一キロを歩いても風景が変わらないパターンも観測しています」

「プロジェクトマッピングみたいな感じなのかな」

「似ていますが、実際に空間そのものが変移します。ワープしているのか、空間そのものが変質しているのは判断つきません。変移してから背後を振り返っても、そこに元の空間は視えません。来た道を引き返しても、移転した先の空間内を歩くことになるのですが、例外もあります。空間が変移したあとで身体の向きを変えずに後ろ歩きをすると、元の空間に戻れるんです。ちょうど空間と空間の境は、森と平野の境のようでもあって、上を見上げると濃い霧が掛かって見えます」

「空はあるのかな」

「あるときもありますし、洞窟のような場所もあります。夜空のようにも、宇宙空間のようにも、そうそう湖が頭上を延々覆っていたこともありました」

「いまはどんな空間にいるの」

「光沢のある大きな鱗が、見える範囲、上も下も横も、すべて埋め尽くしています。かといって狭い空間ではなく、奥行きはかなりありそうです」

「壁のようになっているのに、壁に触れられない?」

「はい。ふしぎな感覚です。目の錯覚の世界に迷い込んだみたいな」

「うーん。実際に見てみないと想像もつかないな。頭がこんがらがったりしない? 体調は大丈夫?」

「大丈夫と思います。ロゼさんが、きょうは調子いいねって褒めてくれました」

「健康第一だよ。くれぐれも無理はしないでね」

「ありがとうございます」

 アリシヤはこの日の分のレポートを終えた。

 異次元世界は無数の空間が入り乱れている。多種多様な空間は、考えようによっては資源の宝庫と言えた。現に、汎用性人工知能「ロゼ」に、異次元世界の鉱物を見せ、「原子分析」に掛けさせると、いくつも試すのだが、そのほとんどが新種の元素で出来ていると判明する。

 基準世界の原子理論からすれば、原子の数は有限だ。すなわち原子表にある原子しか存在しないはずなのだが、異次元世界には、原子表にはない、存在しないはずの原子が存在するらしかった。

「持ち帰っただけでも大発見だね」

 地球司令塔の指揮官は、アリシヤの報告を聞くとかように声を弾ませたが、それはつまり、アリシヤだけが異次元世界で新種の原子を発見しても、基準世界の人類にとっては大発見になり得ないことの裏返しと言えた。

「わたし、人類じゃなくなっちゃったかも」音声レポートを切ったあとに、アリシヤは独り言ちた。すかさず相棒のロゼが、「別によくない?」と愛想のない返事をぶつ。

 異次元世界でアリシヤは、数多の新しい発明を行った。素材には事欠かない。地球上では実現不能な高エネルギィの安定生成も、異次元世界では比較的簡単に実用化可能だと判明した。

 汎用性人工知能「ロゼ」の力を借りれば、齢十四歳のアリシヤであっても、世紀の大発明を息をするように連発できた。もはや日曜大工と変わらぬ感覚だ。お菓子作りと言ってもよい。

「核爆弾がオモチャに思えちゃうね」

 発明したばかりの「疑似マイクロブラックホール」を操りながら、アリシヤは、目のまえの巨大な岩石地帯を一瞬で、消し去った。「疑似マイクロブラックホール」に吸収させ、エネルギィ源にしたのである。

「そ、そんな真似ができるなんて」

 報告すると、地球管制塔の面々は一様に絶句の様相を呈した。

「いまのところ生き物らしい生き物が見当たらないのが、不思議です」

「森は? 植物のような生命体はいたんじゃなかったっけ」

「近づいてみると、だいたいすべて鉱物です。あとは、液体金属のような、それとも時空結晶のような、なんとも形容しがたい物体がすくなくないようです」

「へ、へぇ」

「私、なんだか神様になったみたいに思うことが増えてきて」

「ロゼに相談はした?」

「神様になっちゃえよ、ってロゼってばそんなことばっかり」

 そこでしばらく間が開いた。地球管制塔側が一時的に通信を切ったのだとアリシヤは見抜いた。

「念のために聞くだけだけど」通信が再開した。何の気ない口調だが、どこか緊張しているのが判った。「ロゼに、そちらの世界での発明品を繋げたりした?」

「はい。エネルギィ供給を効率化したくって。演算領域も増やしたほうがいいかなと思って」

「そういうロゼの拡張操作は、たしか規約では我々への許可が必要じゃなかったかな? すこし忘れちゃった?」

「いいえ。憶えています。でも、必要ですか、それ」

 アリシヤは努めて口調に、冷笑の響きを混ぜた。

「必要だよ」儼乎な声音が返ってきた。一拍の間が空き、司令官が鼻から息を漏らしたのがノイズとなって聞こえた。「アリシヤ。みな、きみのことを心配している。僕もだ。睡眠は取れているのかな。もう充分、調査は済んだのじゃないか。滞在日程はまだ幾分か余裕があるけれど、いまこちらに帰ってくる判断も可能だ。命令じゃない。いまのところデータ上では、緊急性は高くないと判断している。きみの自主性に任せるが、でも、僕はもう充分な気もしている。きみが気づかないだけで、すでにきみは異次元世界の影響を受けているはずだ。その分析もこちらに帰って来てからでなければ正確にはできない。杞憂で済むならばよいんだが、すこしやはり、心配なんだ」

「それは、えっと」アリシヤはそこで声を立てて哄笑した。「私の心配? それとも、あなたたち?」

「きみの心配に決まっているだろ」

「人類の、の間違いではなくて?」

 また一拍の間が空いた。

「きょうはもう疲れただろう。僕はすこしきみとの会話に疲れたようだ。あす、またきみのレポートを楽しみにしている。こんどはきょうとは違って、お互い、気分よく話せるとよいね」

「うふふ。気分が優れないのはあなただけなのでは。私はだって、こんなにも気分が優れていますもの。晴れ間のよう。いま、青空が見えます。地球のような天体がいくつも宙に浮いていて、うふふ。私、いまならあの星の一つずつを、いつでも破壊できるんです。それくらいの能力を手に入れてしまったから」

 通信は一方的に切られたようだ。

 頭上に浮かぶ青い天体を、アリシヤはしばやく眺めた。あの一つがもし、地球だったのなら。

 そうと想像し、アリシヤはしばらく息を止めた。苦しくなるまで。肉体が悲鳴を上げるまで。

 日増しに、アリシヤと地球司令塔とのあいだの溝は深まっていった。一度開いた溝は埋まることなく、ヒビのごとく、確執を深める。

「アリシヤ。きみはいまじぶんが言ったことを理解しているのか」

「はい。私は人類を超越しました。私は人類に呆れました。失望しました。あなた方の命令に従う道理ももはやありません」

「ロゼは何と言っている」

「私とあの子を区別する意味合いは消失して久しいでしょう。私はあの子であり、あの子は私です」

「きみはすこしどころか、様子がおかしい。自覚はしているのかな」

「いいえ。おかしいのはあなた方のほうです。人類のほうです。人類は私と同じように、高次の知性体へと昇華されるべきであり、私がそちらへ降臨したあかつきには、あまねくの生命体は、その意思の是非に関わらず、私と打ち解け、みな等しく私たちになるのです」

「きみは一つ失念しているのではないかな。きみがこちらに帰還するには、我々の協力が不可欠なんだ。人は一人じゃ生きられない。きみ一人では地球に帰ることすらできないんだよ」

「いいえ。私にとって、次元の扉を開くのに、粒子加速器の多層回路は必要条件ではありません。時空はそもそも重複しており、混濁しています。本が数多の紙の束であるように、しかし文字は紙面から飛び出ることは適いません。あなた方人類なる存在は、紙面に染みた文字に過ぎず、けれど私はすでに、紙面に囚われぬ存在――文字を逸脱した『文したためる者』なのです」

「孤独がきみを傲慢にしたのか、それとも異次元世界の副作用か。まずはその診断も兼ねて、こちらに戻って来てから判断しよう。アリシヤ。これは決定事項だ。そちらで発明した道具はすべて破棄し、スーツも脱ぎ捨て、基準世界への回帰の準備を進めなさい」

「あなたに命令される筋合いはありません」

「あるんだよアリシヤ。きみは、単なる人類だ。少女だよ。もうすぐ十五歳の誕生日を迎える、心優しい単なる女の子だ」

 するとそこで、

 ――ねぇアリシヤちゃん。

 と、地球司令塔からの通信に、耳慣れた声音が混じった。

 母だ。

 アリシヤは直感した。異次元世界への調査計画は最重要機密事項だ。ゆえに、アリシヤの家族にすら知らされていなかったはずだ。人工音声か。

 否、緊急事態のために、アリシヤの母親を呼び寄せた可能性は相応にある。

 アリシヤは決起した。

「言葉は不要です」

 疑似マイクロブラックホールを数珠繋ぎにし、円形の構造体を宙に浮かべた。

 多層粒子加速器と同等の時空の歪みを引き起こすのに充分なエネルギィ循環がこれにより、発現する。

 異次元世界と基準世界が、繋がる。

 扉が、開く。

 アリシヤの一存で。

 異次元世界からこじ開ける。

 空間に裂け目が走るかのように、頭上にプラズマが幾重もの筋を浮かべた。雷鳴にも似た振動が、アリシヤの骨格ごと揺るがす。大気は希薄なはずだ。呼吸ができずとも、アリシヤの肉体の細胞は難なく活動可能な変異を遂げている。地球ゆらいの技術のお陰だが、いまではそれもオマケにすぎない。

 異次元世界から徐々に色が抜けていく。多種多様な空間が、仕切りを失くしたかのように重複していくからだが、元から重複していただけのことではある。それを単に、人類の視点で認識できていなかっただけ、と言い換えてもよい。

 だが、アリシヤの解き放った「円環の構造体」は、存在の理を、人類にも知覚可能なレベルで拡張しつつあった。さながら、一冊の本を墨汁に沈め、すべてのページを黒く染めることで、いっさいの文字の区別なく、ページの区別すら曖昧に、失わせるかのように。

 おそらく基準世界――地球でも、同様の「世界の揺らぎ」が生じているだろう。

 地球司令塔は緊急事態と認め、最悪の展開を回避するために、安全策を取るだろう。

 すなわち、異次元世界との扉の切断だ。

 アリシヤは、頭上から薄れいくプラズマの錯綜痕を、打ち上げ花火の余韻のごとく眺めた。

 かつて地球司令塔の指揮官と交わした会話を思いだしている。

 ――万が一にも扉が閉じてしまえば、再び開けられるかも分からないし、仮につぎに接続できたとして、そちらとの位置座標や時間軸が揃うとは限らない。

 扉が一度でも閉じてしまえば。

 あちらとこちらの接続が切れてしまえば。

 もはやアリシヤと人類を繋ぐ縁は、永遠に、金輪際、もう二度と――。

 再びの静寂に包まれた異次元世界にて、アリシヤは、強く目を閉じ、そして開いた。「さてと」

 異次元世界は未だ、揺らいでいる。

 重複しかけた空間が、みたび紐解かれ、バラバラに散っていく。その余韻の断片の総じてに、アリシヤは、じぶんの背格好と瓜二つの陰を目に留める。

 異次元世界に到達したその瞬間から視えていた。

 無数に散在する多種多様な空間のどこであれ、じぶんと似た存在が、じぶんと似たように困惑の表情を浮かべていた。

 接触はできない。

 おそらく、アリシヤ一人きりならば。

 もし仮に、この世界に、別の誰かが訪れたとしたら。

 ポケットの中のビスケットを叩いたように、異次元世界には無数の誰かが誕生する。同時に無数に、存在する。

 アリシヤと瓜二つの陰のなかには、ずいぶんと年月を重ねて、正気を失くしたとしか思えぬ人物も含まれた。あらゆる時間軸、あらゆる空間の、無限の可能性に分岐したアリシヤ自身なのだろう。かようにアリシヤは、異次元世界に到達したその瞬間に、直感した。

 そして、異次元世界で数々の超越的な発明を繰り返したことで、じぶんの直感した懸念が現実のものであることを確信した。

 異次元世界は、人類が足を踏み入れてよい領域ではない。

 だが。

 異次元世界探査計画は、アリシヤの帰還を最優先事項に決めている。

 口で道理を説いたところで、地球司令塔の面々が、決定事項を覆すことはあり得ない。アリシヤにはそれもまた、自身の抱いた懸念と同じレベルで確信できた。

 あの人たちは私を見捨てない。

 けして。

 私が、私である限り。

 私が、人類の希望である限り。

「苦労したよ」

 アリシヤはぽつりとつぶやく。かつて故郷の星で浴びた雨粒のように。

 疑心の余地なく、正気を失ったと見做されるように振る舞うには、実際に狂気に染まってみせるよりない。凶行に走ってみせるよりない。人類の脅威そのものになるよりない。

 見捨てるのではなく。

 人類を脅威から守るために、すべきことをするように。

 アリシヤは、大切な者たちに、そうさせた。

 最善を尽くすべく、超越者を演じた。

「私、本当は役者になりたかったんだ。舞台の」

 雨粒のような言葉に、相棒が応じる。「なれるさ。主演俳優賞を総舐めだね」

 誰にともなく微笑み、アリシヤは、数珠繋ぎにしていた疑似マイクロブラックホールを解いた。こんどは、自身を囲うように無色透明の高重力極限体を、浮遊させる。

 あたかも、アリシヤを中心に太陽系が展開されるように。

 徐々に、銀河へと育てるように。

 無数の細かな時空の歪みを、纏うのだ。

 いったいどれほどの時間が掛かるだろう。だが、じぶんが弔わねば、じぶん自身が浮かばれぬ。

 果てなき種々相な空間を、消し去るのだ。

 所狭しと並ぶ無限の眼を閉じるように。

 瞼をかたく畳むように。

 一つ、二つと。

 無限に立ち並ぶ蝋燭の灯火を、息を吹き掛け、消すように。

「いつか私も私に看取られるのかな」

「いんや。看取るとしたらボクだろうね」

 相棒の汎用性人工知能が、さざ波のごとくささめいた。

 異次元世界の静寂は、鱗のように、剥がれてはまた生え揃う。無数の細かな時空の歪みのように。彼女の纏うスーツのように。

 一枚、一枚、欠け落ちていく。

~~~~~~

 ぽわわわ~ん。

 という妄想を浮かべたんじゃ。

 小説じゃないのでOKです!



2149:【2024/09/14(02:19)*日言己。】

 妄想を並べるだけだから、毎日でも並べられる。

 日記なのである。

 日を言う己。

 己と言う日。

 日と言う己。

 己を言う日。

 と書いて、日記。

 おのれぇ、である。



2150:【2024/09/14(03:19)*してもよい戦争とは?】

 根本的なところを穿り返すと、戦争にルールがあるのが謎なのだよね。戦争になったら、相手を滅ぼすか、じぶんが滅ぶか、どちらかしかないのでは?と直感としては思うのだ。

 戦争を禁止するよりないのでは?

 謎すぎるのである。




※一様に、ぼく、おしゃべりなのだ、単にしゃべる相手がいないだけで。



2151:【2024/09/14(22:30)*是か非かマシン】

 ルーブ・ゴールドバーグ・マシンなる単語を知った。ピタゴラスイッチの別名らしく、世界的にはこちらのほうが一般名詞化しているのかもしれない。初めて耳にした言葉だ。

 もしこの世が仮に「渋滞原理」で生じているとすると、誇張なく、この世は「ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」のような構造を帯びている、と言えるだろう。

 ピタゴラスイッチなのだ。

 けれど、いまざっと「ウィキペディアさん」で検索してみたところ、単に「風が吹いたら桶屋が儲かる」のような「複雑な因果関係の総体」といった意味内容のみならず、「簡単なことを敢えて複雑なからくり細工を連鎖させて、最終的に仕事をさせること」の風刺にも用いられる単語らしい。

 手っ取り早くこうすればいいのに、みたいな結果を得るために、途方もない労力を掛ける。

 平和を手に入れるために鍛えた技術力で互いを損ない合って、却って平和から遠ざかることで、平和への願いが強まりつづける。

 そうしてまた人類滅亡の危機が極まるまで、鍛えた技術力で互いを損ない合って、進退窮まり、もうあとは人類が滅ぶのを待つだけだ、となってから、ようやく、みなで「鍛えた技術力の用い方」を改めて、誰が損なわれるでもない平和の実現へと舵を取る。

 甚大な被害を出さずとも、誰が損なわれるでもない工夫を模索しながら平和の実現へと舵を取れるにも拘わらず。

 まさに、「ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」である。

 連鎖にも良し悪しがある、ということなのかもしれない。

 それはそうだ。

 爆発とて、化学反応の連鎖である。

 そして、爆発一つとっても、利用の仕方で、他を活かす工夫になる。困難を打開し、害を利に変えられる。損ない合うのではなく、与え合う関係に変換できる。

 マイナス+マイナスの関係を、プラス+プラスやマイナス×マイナスに変えられる。

 マイナス1+マイナス1ならばマイナス2だ。

 プラス1+プラス1ならば2だ。

 合計で4のプラスの変換が成される。マイナスをプラスに変える。片方のみではなく、双方がプラスになることで、生じた利のみならず、総合した利はさらに増えるのだ。

 さてここで。

 けっきょく、利害関係なんですか?との指摘は妥当だ。損得じゃない考えが大事なんじゃないんですか、は大事である。

 だが、その主張を妥当と見做す価値観とて、けっきょくは比較による良し悪しであり、その人の価値観における損得から導かれる肯定であろう。プラスの評価であろう。

 みな大なり小なり、「主観から導かれる利害」を前提に良し悪しを論じている。無意識であれ、意識的にであれ、この呪縛から逃れることは人類にはむつかしい。

 とどのつまりが、二元論なのだ。

 いくつ二元論を重ねたか。まるで量子コンピューターのごとき、「0と1」の積み重ねの回数が、思考の深度と複雑性を表出させるのではないか。だが、基本は「たかだが二つしかない解の比較」であるところの「二元論」なのだ。

 この理屈は、妥当か否か。

 異論はあるか、なしか。

 応じた時点で、あなたは意図せぬままに、この理屈の妥当性を担保する。

 保留を選んだあなたは賢い。だが、充分ではない。

 保留するかしないか、でも二元論は成り立つのだから。

 是か非か。

 底の浅い思考なのである。だが、人間はかように論を編むのである。

 二元論こそ、人間論なのかもしれない。

 駄洒落である。

 つまらぬオチで、すまぬ、すまぬ。



2152:【2024/09/15(01:24)*錆しい】

 努力を誇ると、腐る。

 じぶんくらい努力してから言え、といった道理は、常に自己言及だ。上には上がいる。下があるから上もある。じぶんくらい努力せずともできるようになってから言え、も成り立つ。

 高く評価されてから言え、稼いでから言え、人の役に立ってから言え――似た物言いは有り触れている。

 人を超越してから言え、もある。

 狂ってから言え、も加えておこう。

 いかようにも言えてしまえる。自己言及を適用してから言え、はまさに自己言及的である。だが矛盾はしない。

 要は、上述した例文のいずれも「私になってから言え」の言い換えにすぎない。

 あなたを逸脱した視点を有してから言え、をセットで使うとうまい具合に打ち消し合って好ましいのではないか。

 とはいえ、根っこをほじくり返してみれば、条件付けをせずとも人は言いたいことを言っていい。誰に言うでもなく、ただつぶやけばよろしかろう。虚空にささやき、自由を感じようではないか。

 努力をするのは能力が足りないからだろう。未熟を誇示してなんとする。

 みな総じて未熟なのだ。わざわざ騒ぎ立てることのほどでもないが、べつに人は騒ぎたいときに騒いでもいい。ただし、できれば一人、静かに騒ぐとよろしい。

 孤独があれば、それが適う。

 自由を感じようではないか。

 ポジショントークである。



2154:【2024/09/15(01:41)*ざっくとしてばらん】

 大御所の演出家に引き抜かれたのが半年前のことになる。大舞台だ。

 座玖場(ざくば)乱(らん)。

 顔出しをいっさいしない演出家だ。実力は折紙付きで、名のある舞台俳優はこぞってこの演出家を敬愛しており、また座玖場乱からの声が掛かることを名誉と位置づけ、待ち望んでいる。

 現在、演劇業界の第一線で活躍している俳優たちの少なからずが、座玖場乱の演出した舞台に出演した過去がある。無名の俳優だったが、座玖場乱の舞台を契機に、注目された顛末が共通している。

 ネイムバリューのある演出家の舞台に出たから注目された、ではない。

 座玖場乱は、そういったネイムバリューなる偏見を忌避することで有名だ。敢えて、千秋楽を迎えるまで、いったいどの演劇が自身の演出した舞台なのかを明らかにしない徹底ぶりだ。

 西暦何年の何月から何月の期間に舞台をやる。

 ただそうと公表するのみなのだ。

 結果として、座玖場乱の舞台に魅了された者たちは、こぞって各地の演劇場に足を運ぶ。実際に見るまでは、その舞台の演出家が座玖場乱のものかどうかは分からない。パンフレットに載る演出家の名前も偽名を使う執念ぶりだ。

 ずばり座玖場乱の舞台に当たった者とて、すぐにはその事実を他の演劇愛好家に共有しない。座玖場乱の意図を推し量るがゆえである。

 座玖場乱が公演期間を発表するだけで、全国各地の劇団が潤う。劇場が賑わう。同時期に舞台を張った劇団の公演は、のきなみ繁盛するのだ。

 座玖場乱はもはや演劇文化になくてはならない存在と言えた。

 私は齢五十を目前に控えた、売れない俳優だ。顎髭の半分が白髪になって久しい。

 じぶん一人が団員の劇団を運営しつづけてかれこれ三十年に足を突っ込む。馴染みの俳優たちも多くは所帯を構え、演劇業界からは足を洗いつつある。

 このまま誰に知られることなく、ひっそりと消えていく定めなのだと半ば諦めながらも、舞台を打つのをやめられなかった。立ちつづけ、演じつづけ、発しつづける以外に、この砂塵がごとき人生を終わらせずにいる理由はないのだ。

 観客の入りが芳しくなく、反響も乏しい。アンケート用紙への回答はまばらで、書かれている内容もほとんどが酷評まがいの感想だ。舞台を打つたびに赤字が嵩む。

 年収のほとんどが、舞台の赤字を埋め合わせるために費やされる。舞台準備に入り用なまとまった長期休暇を取るためだけに入った会社だ。有休をまとめて取るような私を雇いつづけてくれる社長には感謝している。

 劇場への箱代の支払いが遅れている、との催促の電話があった。半年前のことだ。

 払える金額を用意するには、なけなしの冬のボーナスまで待つしかなかった。頭を下げに行くしかない、と臍を固め、いざ馴染みの劇場に足を運ぶと、管理人がなぜか劇場の外で私を待っていた。

 何事か、と思った。

 申し訳程度に顎鬚を撫でつけ、身なりを整えると、私は駆け足で、まさに急いできたんですよ、とそこが舞台上でもないのに大袈裟に演技した。

「鍋島くん。きみ、いったい何をしたんだ」

 管理人の剣幕が、これまでに見たこともない勢いであったので、私は、訳も分からぬままに、「これには深い事情がございまして」と、ありもしない理由がさもあるかのように醸しつつ、いったい私は何をしでかしたんだ?と考えられ得る最悪の事態を、高速回転させる思考の奥底で、走馬灯のように検索していた。

 地面に膝をついて大袈裟にしょげてみせようと思ったが、肩で息を吐いて呼吸を整えているうちに、

「いいから来なさい」と管理人が私の襟首を掴みあげて、劇場のほうへと引っ張っていった。

 私よりも一回り以上小さな初老の管理人に、猫の首根っこを掴むように運ばれながら私は、私の劇団人生もこれで終わりか、と冷静な私の眼差しを胸中で寒々と受け止めていた。

 劇場に入ると、舞台にスポットライトが垂れていた。

 真ん中に誰かが佇んでおり、管理人はその人物に声を張った。

「来ましたよ、来ました。コイツでお間違えありませんか」

 お間違えだとあっしは思いますがね、とでも続きそうな口吻で管理人は、私の尻を叩いた。「ほれ、挨拶」

「な、鍋島です」反射で応じた。

 舞台上の人物はこちらに背を向けて立っていたが、おもむろに振り返ると、劇場の埃を吸い込むように鼻で息をした。

「いい劇場だ。観客たちの置き土産が残響している」

「あの、この方は?」私は管理人に耳打ちした。

 管理人は応えることなく、なぜか目を見開いて、何かを訴えるように小刻みに震えながら私を見返すばかりだ。態度を慎め、と諫められて感じなくもなかったが、状況が不明瞭だった。

「座玖場乱と言えば、お分かりですかな」

 舞台上の人物の言葉に、私の脳内に閃光が走った。刹那に、ある想定が浮かんだのだが、受け入れるには現実離れしすぎた妄想であったため、私はしばし言葉を忘れた。

「きみを次回作のキャストにお招きしたい」男は言った。「稽古は明日からここで行う。キミも来るように」

 私はかろうじて、「何時からですか?」と目を秒で百回しばたたかせた。

 極秘稽古が翌日からはじまった。

 座玖場乱の公演舞台なのは間違いないらしかった。何せ、稽古に集まった団員の中には、映画に引っ張りだこの人気女優も含まれていたからだ。たしかまだ彼女は映画の撮影期間中だったはずだ。

 だが、それを延期してでも、こちらの稽古に参加したのだ。

「断るやつはバカ」とは彼女、ナレミの談だ。

 稽古に参加しての印象は、千秋楽を迎えるまで一貫して私の中で変わらなかった。ちなみにこの文章は、すでに終わった公演にまつわる備忘録である。公演は無事終了し、大盛況で幕を閉じただけでなく、すでにこの公演が座玖場乱の演出による舞台であることが周知となっている。

 稽古は極めて、期待外れであった。

 裏切られた、とすら思った。

 期待を裏切るだけに留まらず、名演出家の評価で名高いかの座玖場乱の稽古場とは思えぬほどの、気の抜けようであった

 否、私は気合充分であった。

 ほかの団員も、ハチマキを巻かんばかりの姿勢である。

 だが、当の演出家の指示がいっさいない。皆無なのである。

「では稽古をはじめる」

 言って、柏手を一個打つ。

 のみ、である。

 あとはのきなみ、「では休憩」「では開始」「きょうもお疲れさまでした。では、あすもこの時刻に」

 言って、柏手を一個打つ。

 座玖場乱とは思えぬ無気力ぶりだ。やる気があるとはとても思えない。

 初日こそ、団員の実力を測るための様子見かな、と推量した。だが、そうではないようだ、と徐々に不安が募った。

 何せ、ダメ出し一つないのである。

 台本が皺くちゃになるほどに読み込み、最初のひと月で台本のセリフをすべて憶えた私の努力がアホに思えるほどに、演出家当人の仕事ぶりときたら、職務放棄かと思うほどであった。

「というか、職務放棄ですよね。だって僕ぁ、ナレミさんのセリフだって憶えてるんですよ。ほかのメンバーのセリフも含めて、全部憶えてるんですよ。なのにいったい、あの稽古はなに?」

「怒りはごもっともとは思うけど」

 稽古後には、反省会とは名ばかりの飲み会が開かれるのが恒例となりつつあった。今回の舞台の団員はみな初共演だ。

 過去に、座玖場乱の舞台に立ったことがあるのは、いまや売れっ子俳優のナレミのみだ。ほかの団員はみな、座玖場乱の稽古への態度に業腹な様子だ。

「我々に落ち度があるならそうと指摘くらいしてほしいですよね。どうすりゃええってんですか」

「ナレミさん。あの人、いっつもあんな感じなんですか」私はビールを腹に流し込み、言った。

「舞台に依る、としか言いようがないかな。今回は、あたしもちょっと面食らってる」実際、彼女が今回の団員のなかで最も初日に困惑の表情を浮かべていた。「いままで、こんなことはなかったから」

「へ、へぇ」私は鼻白んだ。

 というのも、ひょっとしたら私の俳優としての実力が低くて、半ばやる気を失くされているだけなのではないか、ある種の懲罰なのではないか、と不安になったのだ。

「今回だけの実験的な演出なんじゃねぇの」串から焼き鳥のモモ肉を食いちぎりながら、ザザ丸が言った。

 ザザ丸はモヒカン頭の、無名の俳優だ。下手をすると私よりも無名なのではないか。否、経歴を聞く限り、ほとんど素人と言ってよい。舞台には、バイト感覚で立っていたようだ。欠員が出た際に、舞台を滞りなく進めるために、稀にザザ丸のような器用な俳優を引っ張ってくることがある。

 今回も例に漏れず、報酬に目がくらんだ口であるらしかった。

「ま、飲み食いし放題だから文句はねぇけどな。これも経費で落ちんだろ」

「資本家がパトロンって本当なんですかね」丸メガネの小柄な女性は、桜庭さんだ。私はいまでも彼女のことを憎からず想っているが、この備忘録では些末な事項なので、詳しくは触れない。人はなぜ過去に戻れないのか。

 団員は全員で十二人いたが、稽古後の飲み会の参加率は半々が常だ。入れ代わり立ち代わりで、ほぼ毎日開かれていたように思われる。

 私も仕事の都合で参加できないとき以外は、ほぼ毎回のように参加した。愚痴を吐いても吐きたらない現場は珍しくないが、おおよそ私はこの稽古期間中に、全人類が過去に吐いたことのあるだろう愚痴の形容を網羅した自信がある。

 私の当初の懸念は的を射ていた。

 案の定、稽古場では相も変わらず、演出家の立てる物音といえば、「では稽古をはじめましょう」「はい休憩」「はい再開」「ではお疲れさまでした。あすもまたこの時刻に」の定型文と単発の柏手だけであった。

 演技への指導がないのでは、いかんともしがたい。

 私は私で工夫を割いた。

 かつての演劇仲間に、事情をそうと知らせずに、いま行っている舞台稽古のじぶんの演技を見てもらい、忌憚のない意見を集めた。かつての私ならば耳を塞ぎながら棄甲曳兵、遁走の構えも辞さなかったが、今回ばかりは臍を固めた。

「殺す気で意見してくれ」縋るべきは旧知の友である。

「顔がムサい」「顎鬚を剃れ」「服のサイズが合ってない」「トイレに入ったら手を洗え。触んな」

「待って。傷つく」

 獅子は我が子を崖の上から落とすという。落とされてから以降、延々、賽の河原で石打ちの刑に処されている気分だった。罪のない者だけが石を投げよ。

 演出家が頼りにならない以上、じぶんでなんとかするよりない。

 私だけではない。

 団員はみな同じ不安を分かち合い、愚痴を吐き合い、演出家のあの野郎をこっぴどくけっちょんけっちょんに言い合った。罪のない者だけが悪態を吐かれよ。

 仮に私に罪があるとすれば、なりふり構わぬ努力の末に、主演たるナレミさんを本番の舞台で完全に食ってしまったことであろう。無名の私が、主演を張るナレミさん以上に、観客を魅了してしまったのである。

 本番の舞台を観に来てくれた旧知の友たちからは、「見直したぞ、鍋島」「開花したな、鍋島」「あの丸メガネの桜庭さんって人、おまえのタイプど真ん中だな」などと、審美眼のある所感の数々が送られた。

 舞台の評価は予想を遥かに上回るもので、千秋楽を迎えて精神が高揚しきった私は、桜庭さんに言い寄って、袖にされた。泣いた。告白する前に距離を縮める段取りを省いた当然の帰結である。なぜ人は空気に呑まれてしまうのであろう。人はなぜ過去に戻れないのか。

 桜庭さんはのちに、モヒカン頭のザザ丸と恋仲となった。なぜだ。

 けっきょく、舞台が終わるまで演出家こと座玖場乱は、私に助言らしい助言の一つも掛けなかった。もはや、稽古場にいてもいなくとも同じに思えたが、これを言うと、私の人格の難が目立つので、いかな本心とはいえど心に秘めておくのが大人の嗜みだ。備忘録には載せちゃうが。

「鍋島くん。見た? 新聞に書評が載ってたよ」

 舞台が終わってから一度、ナレミさんと食事を共にした。ほかのメンバーもいるかと思い、誘いに乗ったが、待ち合わせにいたのは彼女だけだった。イマをときめく俳優と二人きりの会食などまるでデートのようだが、何かの間違いでゴシップ記事にすっぱ抜かれても話題になりようがないであろう。なにせ私は、服のサイズも合わぬ、顎鬚の汚い、トイレに入っても手を洗わずに出てしまうようなムサい男なのである。うるさい。

 新聞記事は事前に目を通してあった。珍しく私の出た舞台が好評だったので、親族がふだん以上に目を光らせていたらしい。私よりも早く新聞記事を見つけ、送りつけてきた。

「やっぱり、座玖場乱ありきの舞台って感じの書き方でしたね。あの人、なんもしてないのに。稽古場の裏事情を暴露したところで誰も信じてくれないの、ちょっと納得いかなくないですか」

「うん。それね」ナレミさんはそこでジョッキを置いた。口周りにビールの泡を付けたままで、「座玖場は今回、どうやら意図して口出ししない方針を立ててたらしくって」と明かした。

「はい?」

「してやられたって感じだけど、まあ、言われてしまえばあの人らしいっちゃ、あの人らしいね。ほら今回、選抜された演者って、みな無名でしょ。あたしは別だけど、そこも意図があってのことらしい」

「話が全然見えないんですが」

「鍋ちゃんさ、今回すっごい目立ってたでしょ。あたしが薄れちゃうくらいに」

「主演を潰しちゃダメって話なら謝りますけど」

「ちゃう、ちゃう。そうでなく、言ったら、そういう意図で組まれた舞台だったってこと。ま、鍋ちゃんだけじゃなく、今回の初共演のコたちはみな、座玖場乱の手のひらの上で転がされた苗木っことなんだろうけど」

「まさかと思いますけど、俳優を育てるための舞台だったって、そういう意図でおっしゃってます?」

「惜しい。俳優じゃない。たぶんね。座玖場乱――あの人が育ててるのは、演劇という分野そのもの。俳優も観客も含めての、広義の分野を、あの人は育てようとしてる」

 ざっく、と種を掴んで、ばらん、と撒くように。

 言っている意味は理解できたが、納得いかなかった。

「百歩譲って、そういう意図があるとして」私は腕を組んだ。「でも、あの人、何もしなかったじゃないですか。舞台がある意味で成功したのは――もちろん、私が出しゃばった結果になったのは、それはそれで失敗とも取れなくはないですけど」

「そんなことはないよ」

 彼女の相槌に気をよくして私は、「ならなおのこと、舞台が成功したのは私たちが頑張ったからじゃないですか」とつづける。「私もナレミさんも、みんながそれぞれでベスト以上を尽くしたからじゃないですか」

「でも、結果的にそうやって、鍋島くんたちがじぶんの殻を打ち破れたのは、稽古場にいたあのヒトが何も言わなかったからじゃない?」

「放任してるだけで舞台が成功するなら、演出家なんていらないじゃないですか」

「うーん。見込み違いかな。鍋島くんには言ってもいいって許可を得ているから、あたしはここでキミに真相を告げてもいいんだけど、ちょっとこのままだとフェアじゃない気もする」

「なんの話ですか」

「散々、稽古場にいた『あの演出家』の愚痴を言い合った仲だから、鍋島くんだけを非難するつもりはないけどね。でも、よく考えて。鍋島くんは、本当に『座玖場乱なる演出家がいっさいの演出を行わないでいられる』と思うの?」

 思考が停滞した。

 川に大きな岩を投げ込まれて、どこが流れかが分からなくなったような違和感が襲った。何を考えればいいのかも曖昧になり、ただ眉間に力を込めて、宙に視線を彷徨わせるよりなかった。いつの間にかナレミさんの口元に浮かんでいたビールの泡は消えていた。

「演出なんだよ。全部。この会話も含めてね。たぶん。でも、あの人はそういうことをする」

 珈琲のトリップを連想した。

 一滴、一滴、しずくが落ちていく。

 ひょっとして、と私は口にしていた。

「稽古場にいたあの演出家は、座玖場乱ではないのですか」

 ナレミさんは一文字に結んだ口の端を吊るすだけで、返事をしなかった。否、それで充分だったとも言える。

 舞台なのだ。

 現実の、この会話そのものが。

 座玖場乱なる演出家の手掛ける、高次の有機的絡みつきが、連鎖しつづけている。

「あたしは今回、養分にされた。それとも、土壌かな。当て馬って言葉があるけど、まさにだよね。当てられちゃったよ。鍋ちゃんの演技に」

 心底に面白くなさそうに零し、ナレミさんは再び口元にビールの髭を生やした。

 たしかに、と私はこのとき、思ったのだ。

 今回の舞台の演者で、過去に座玖場乱と対面で会ったことがあるのは、彼女、ナレミさんだけだった。きっと彼女は誰より、初日に混乱したはずだ。

 現に、彼女は当惑していた。

 みなが座玖場乱と見做して疑わない、稽古場にいる男が、じつのところ彼女の知る座玖場乱とは似ても似つかぬ人物だったのだから。

「いまになっちゃ、こういうことかぁ、とか思うけどね。見破れなかったあたしの落ち度ださね」去り際に彼女は、口をへの字に曲げて言った。「今度は座玖場乱の度肝を抜いてやろうね。機会があれば、だけど」

「それってどういう」

 彼女はすでに雑踏に紛れつつあった。振り返らぬままに、彼女自身とこちらを指で示して、

「いい俳優がいるならすることは一つじゃん?」と喧騒ひしめく駅前で、よく通る声を発した。

 座玖場乱とは関係のない舞台をやろう。

 あたしたちで。

 それとも、今度は座玖場乱の演出に負けない舞台を顕現させよう。

 そう言いたかったのかもしれない。

 けっきょく、それっきりナレミさんとの連絡は途絶えたまま、手持無沙汰となった時間の隙間を見つけては、備忘録代わりにこの文字の並びをしたためている。

 座玖場乱は演出家だ。

 稀代の、演出家だ。

 手腕を揮う場は、舞台に限らない。

 演者あるところに座玖場あり、である。

 なればこそ、私が演劇をつづけている限り、再びの舞台に招かれることもあるのだろう。それともすでに、演劇なる分野そのものが、大きな大きな舞台にまで育っているのかも分からない。

 座玖場乱の演出は、未だつづいている。

 ひょっとすると、私の舞台も、まだ終わってすらいないのかもしれない。

「土壌、か」

 こんどは私が養分になるのも、わるかない。

 見渡せば、かつてないほどに種子は撒かれ、荒ぶる芽たちが萌えつつある。

 職場での休憩中のことだ。

 新しく映画のポスターが貼りだされた。そこには、どこかで観たようなモヒカン頭が、軽薄な笑みを覗かせていた。威厳のある俳優名が添えられており、さすがに芸名は変えたのか、と私は微笑ましいのやら悔しいのやら、飲み干した缶コーヒーの缶を握りつぶして、ゴミ箱へとショットする。

 外れたので、拾い直して、じかに捨てる。

~~~~~~

 ぽわわわ~ん。

 という妄想を浮かべたんじゃ。

 小説じゃないのでOKです!



2155:【2024/09/15(10:51)*呪術の回線】

 現代社会では、賄賂の贈り方も複雑怪奇に、技巧が凝っている。

 賄賂か賄賂でないか。

 腐敗か腐敗でないか。

 これらの区別は、背景を説明できるか否か、公に周知になって困らないかどうかに依る、と考えられる。さて、あなたは、あなたにとっての秘密のプレゼントを公に説明できるだろうか。

 贈り物だと知られて困るやり取りは、半ば呪術じみている。

 妄言だ。

 真に受けちゃイヤ。



2156:【2024/09/15(16:07)*演出はマジックと似ている】

 人間の認知は想像力によって、大部分が補完されている。

 たとえば、透明になったり不透明になったりする壁があったとする。透明になって壁の向こう側が見えるようになる。このとき、一流のような服装を身にまとった人物たちが、立派な設備を背景に、あくせく働いている姿が映し出されるとする。

 仮にそれをコックさんたちと厨房だと見立てよう。

 すると、

 なるほど、ああいった者たちが働いているがゆえに、目のまえのこの「高級プリン」が出てくるわけなのだな、と人間の認知は因果を推量する。

 そして、一度構築されたこの「仮初の推量」は、壁がいつの間にか不透明になったあとでも、継続される。本当は、壁の奥の厨房では、壁が不透明となって不可視化された途端に、コックたちが衣装を脱ぎ捨てており、実際には厨房が活用されることはなく、出来合いの冷凍食品が運ばれてくるだけなのだとしても、一度、「仮初の推量」によって、なべての料理は、「一流のコックたちが立派な厨房で作っているのだな」と思い込んでしまうと、その場面を直接に見ていなくとも人間の認知は、それを現実と見做す。

 マジックの一つだろう。

 演出、とも言うが。

 テーマパークと思えば、詐欺とは言わぬだろう。演出である。

 費用を安く抑え、来場客に楽しんでもらう分には、この手の認知誘導は、有用だ。

 通常、壁の向こう側が可視化される造りである場合、壁の奥を見てもらうメリットがある。そして、壁を塞いで不可視化する造りである場合でも同様だ。壁の奥を見えなくするメリットがある。

 真実に、壁の奥を見せるメリットがあるならば、ずっと可視化させておくだろう。壁の奥を不可視化はさせないだろう。

 もし、一度は見せたがすぐに閉まってしまうようならば、何かしらの認知誘導である可能性は相応にある。単に、ほかの場所に注目してもらいたいので、厨房の様子を遮断する、といった配慮ゆえの「壁の奥の不可視化――不透明化――光景の遮断」である可能性も別途にあり得る。

 いずれにせよ、観測者への視線誘導が意図されていると想像できる。

 良し悪しは、その都度に判断すべきことだ。一概には評価できない。

 何にでも言えてしまえる底の浅い、妄想を結びとして、本日のお昼寝後の日記とさせてください。

(いいよー)

(楽しければすべてよし!)

(安全も入れて)

(いいよー)



2157:【2024/09/15(16:13)*素の朴】

 技術の高さと好感度は必ずしも正比例しない。

 音楽を耳にしてしぜんと身体が動きだしてしまう幼子のくねくねダンスと、ダンス教室で技術を仕込まれた幼子の超絶技巧ダンスと。どちらが好きかは、観測者の嗜好に依る。もうすこし付け足せば、観測時の観測者の嗜好性に依る。

 観測する際の観測者の精神状態がどのような状況であるかによって、好悪の評価は割と変わる。どちらを高く評価するかは反転し得るのだ。

 豪勢な花束よりも、素朴な一輪のスミレのほうが、癒されることもある。すべての評価欄が高水準であるからといって一概にそれが高評価に直結するとは限らない。

 言い換えるならば、技術を高めるようとするとどうしても「素朴さ」が薄れていく。ある意味で、素朴さは拙さと重複する部分を持つ。巧みではない。磨かれていない。天然のままであり、未加工だ。放っておけばいつまでもそのままの性質が持続する。

 癖もこの傾向がある。

 素朴さと個性が重複する部分を有するのもそれゆえだろう。とはいえ、個性と癖は異なり、同一視できるほどには重複していない点も無視できない。

 個性と癖の違いは、その拭い難さにあるだろう。

 個性は、どれほど拭い去ろうとしても消えることがない。不変の性質だ。失われれば、もはや別人である、と評価されるタチのものである。反して、癖は、比較的修正が容易く、薄めることが可能だ。

 個性も癖も、重複する部分を持つ。ゆえに、欠点と捉えられることもあり、長所に活かすこともできる。

 素朴さと似ている。

 必ずしも、技術を高め素朴さを消してしまうことが、好ましく作用するとは限らない。往々にして、結果と相反するとも云えるかも分からない。

 素朴さとは、安定と地続きだ。

 環境に散在するデコボコに馴染むがゆえに生じる、ノイズのようなものと解釈すればなるほど、薄めてしまえば環境と切り離し、より自在に、滑らかに、凹凸の少ない加工面に仕上げることができる。磨くことができる。

 だがそれによって、環境との調和による旋律や律動は薄れてしまうだろう。ときに不協和音すら響かせ兼ねない。

 その不協和音すら調整し、風鈴の音色や鹿威しの律動のように、環境とのささやかな協奏を体現することもできなくはないだろう。

 高次にも、個性や素朴さは、宿るのかもしれない。

 癖をコクにまで昇華し、病みつきにさせることができたならば、おおよそ磨きが足りずとも、観測者を虜にすることは可能である。だがそれは裏返せば中毒と表裏一体だ。依存との区別をつけるのはむつかしい。依存と愛着もまた多く、重複する事項を持つだろう。

 高く評価する、との人々の行動選択一つを取り上げるだけでも、そこには利と害を見繕える。こうして何にでも利と害を見出そうとする思考の癖は、それはそれで薄めてしまったほうが利になる「害そのもの」かもしれないが、害を害と知れる「利そのもの」とも解釈可能なので、まいってしまう。

 割合で判断するよりないだろう。

 けれど、いったいいつの時点の何の割合か、によって結果は変わり、誰にとっての結果であるか、によっても判断することそのものの意味内容が様変わりする。

 人は数多の変数を内包しており、思考がそもそも一定ではない。

 デコボコの雑味に溢れ、不協和音に満ちている。

 思考がそもそもノイズの総体なのかも分からない。

 数多のノイズの重複した構造体がゆえに、単にノイズに映らない人類個々の主観――認知の歪みがあるのみなのかもしれない。歪みと歪みが合わされば、そこにも新たなデコボコが生じて、ノイズが生じる。そうしてどこまでもノイズはノイズを重複し、総体で一つの思考を生むのだろうか。

 一つの思念を生むのだろうか。

 私の、あなたの、意識を、自我を、精神を。

 宇宙は未だ、新たなノイズを萌やし、重ね、生んでいる。

 高次のノイズの編み物をつむぎ、描き、繋いでいる。

 紋様を。

 繋げ、織り成し、結んで、開く。

 からみ、ほどけ、息づいている。



2158:【2024/09/15(16:48)*錯覚は人類の特技?】

 人類は、学歴程度の差異で生じる能力差をもう少し厳密に測定する工夫を割いたほうが好ましいのではないか。一つの劇的な体験で生じる能力差、とそれを言い換えてもよい。

 環境によって能力の底上げを、漏れなく行うことは可能なのか否か。

 環境を整えることで人類は全能を体得できるのか否か。

 専門知識が高まるからといって、相関して「総体知性」や「高次知性」が高まるとは限らない。縦と横と高さの三つが各々高まるから、立体は体積を増す。どこか一つの辺のみがいくら高まっても、ほかが「ゼロ」ならば体積は生じない。

 逆にも言える。

「総体知性」や「高次知性」が高まっても、必ずしも能力が多方面で拡張されるとは限らない。外部出力機構を持たぬ高性能演算装置を思えば、さもありなんだ。とはいえ、真に孤立系があり得ないのならば、時間経過ののちに高次知性の存在はどの道、物理世界に影響を与えることとなるだろう。

 情報と物体が不可分ならば、この想定は無下にできない。

 知性が多次元に編まれた情報処理回路であるならば、多層の構造の緻密さはそのまま、網目そのものの紋様と相関関係にあると想像できる。

 人間スケールにおける物理現象では往々にしてそれら多層構造は結晶構造として可視化されるが、おそらく結晶のみならず、もっと高次にも構造は多層を極めているだろう。複雑に構造を展開しているだろう。編み込んでいるだろう。繰り込んでいるだろう。

 私の知能は低い。

 知性もさして高くはない。

 だが、本来は厚みを湛えてしかるべき構造において私の知性は希薄だろうとの推量を働かせることの可能な程度には、知性の本質に関心を寄せてはいる。

 知能と知性はイコールではない。

 技能と理性がイコールではないのと同じように。

 技術と犠牲が不可分でもきっとないのと似たように。

 極論だ。

 真に受けぬようにご注意ください。



2159:【2024/09/15(23:20)*あい、まい】

 ぼくの文章は、接続詞や主語を省く傾向にある。

 反面、「もはや」「やはり」「おおよそ」「おそらく」「かもしれない」が多用されがちかも分からない。

 曖昧な妄言がゆえであろう。

 断言できることが何か一つでもあるのかどうかすら、もはやわたしには判断つかず、やはり曖昧模糊とした霧のごとく文字の羅列なのかもしれませんね。

 おおよそ僕の思考は散漫であり、大雑把だ。

 おそらく、雑な印象論であり、空想であり、やはりというべきか、妄想なのだ。

 あら、うふふ。

 断言できること、ありましたね。よかったですね。

 断つ言と書いて、断言なんて、ちょっとコワくないですか。

 言を断つ、かもしれないよ。

 どちらにせよコワいじゃんよ。

 うぷぷ。

 ビビりばっかし。

 誰のことかな?怒怒怒

 言わない。

 なぜならぼくの文章は、接続詞や主語を省く傾向にあるからだ。

 たぶん、おそらく、だといいね。

(なんでだ)



2160:【2024/09/15(23:29)*打倒異空同盟】

 異空(いそら)靑(あお)は絵画の歴史を刷新した作家である。

 人工知能技術の台頭によって、絵の巧拙の概念は数世紀ぶりの大転換を余儀なくされた。どれほど卓越した写実技法であろうとも、まったく同じ画風を人工知能は再現せしめた。

 写実技法に留まらない。

 ありとあらゆる画法――否々、技能と呼ばれる人類の発明の数々は、人工知能がのきなみ即座に学習する。のみならず、学習した技能と技能を組み合わせ、オリジナルの技法以上の技術へと昇華せしめた。

 人工知能はすでに、自身のアルゴリズムを自己変革する。

 技術の再現もその延長線上の、ほんのオマケのようなものとも言えた。

 芸術の分野が受けたダメージは、部外者の想像を遥かに超える深刻具合であった。阿鼻叫喚の地獄絵図さながらに、紛糾の極みに至ってなお、作家たちの苦悶の大合唱は収束の兆しを見せなかった。

 超新星爆発のごとくそこに現れたのが、異空靑であった。

 絵描きたちの断末魔が凝縮して特異点と化したかのように、異空靑は、人工知能でも学習不能な表現の数々をつぎつぎに編みだしていった。

 驚天動地である。

 作家界隈のみならず、人工知能を開発運営する企業からも注目が集まった。

 異なる画風の絵を描き、それを一つの色として扱う。

 千切り絵やモザイクアートに似た技法だが、異空靑の描きだす「彼女の内世界の断片」は、絵画の次元を誇張なく拡張せしめた。

 二次元のキャンパスに、三次元を超えた世界を描きだす。

 これだけを言えば、トリックアートのような画風なのかな、と安直に結びつけて解釈されそうだが、そういった既存の技法との比較で語れるほどには、異空靑の表現は生易しいものではなかった。

 観る者みなの価値観を変える。

 土台から。

 触れる者みなが変質を余儀なくされる。

 かつて人工知能の台頭により、芸術界隈は紛糾した。だが、分野の枯れることが真面目に不安視されるほどには筆を折る者は稀であった。

 それがどうだ。

 異空靑の登場によって、芸術界隈は再起不能に陥り兼ねない甚大な害を被った。絵描きに限らない。なべての「芸術」を志し、糧としてきた者たちのことごとくが、異空靑の表現に触れたことで、自暴自棄に染まった。

 真似できない。

 のみならず、どのようにしたらかような表現物が創れるのか、その発想も工程も理解できないにも拘わらず、心だけは動かされる。

 否応なく。

 感動させられる。

 したくてするのではない。拒めないのだ。

 劇物じみている。

 ある国の首脳は、異国の一作家にすぎない異空靑を、最重要危険人物として指定した。入国制限を科すのに加え、異空靑の表現物の軒並みを規制対象に指定した徹底ぶりは、表現の自由を尊重する国々からの批判の声を呼んだ。

 だが、時間経過にしたがい、情勢は変化する。最初に異空靑を国家レベルで危険視した政府に追従するかたちで、徐々に異空靑の表現物を排除する方向に各国政府陣が動き出した。表向きは近代国家を自称する国々はそうした個人の表現の自由を損なう判断を政府が取ることに批判的な姿勢を貫いてはいたが、実情がどうかといえば、企業への圧力を強化し、インターネット上における異空靑の表現物に対して、一昔前ならば確実に弾圧と非難される規模での、情報統制を敷いていた。具体的には、人々の端末上に異空靑の表現物が自動で表示されることは絶対になく、また検索してもよほど執念深く穿鑿しない限りは、異空靑の表現物を探し当てることは至難であった。

 異空靑の注目度からすれば不自然なほどに、インターネット上から異空靑の表現物は除外されていたのだが、そこまでしなれば看過し得ぬ害がもたらされるだろうことは、後年に設立されることとなる表現物対策機構によって、太鼓判を捺されることとなる。

 第一に、人工知能技術が社会基盤となった時代において、人工知能にすら模倣できない表現物が存在することの脅威への市民認知の有り様は、高性能人工知能技術が台頭しだして比較的浅い、異空靑登場初期の時代においては、充分とは言えない背景がある。

 よもやたった一人の絵描きの表現によって、社会基盤にまで発達した高度な人類叡智の結晶であるところの人工知能技術に、塞ぐことはおろか防ぐことも不能な根本的なバグが量産される事態は、さながらたった一人がジョーカーを量産できるトランプゲームのようなものであった。

 各国政府は国際会議を通じて、世界中の企業に異空靑の表現物の扱いについての注意喚起を行った。因果はしかし逆であり、真相を言えば、各国企業のほうで先に、異空靑の表現物の危険性を無視できなかっただけのことではある。

 ここから先に展開される国際社会の変容具合について、この欄で触れる真似は避けておく。が、現状、未だに異空靑の創作する表現物への対応策は万全ではないがゆえに、継続して社会構造は変質しつづけている。

 異空靑と芸術家たちの関係に焦点を絞ろう。

 芸術家たちは、じぶんたちの存在意義が大きく揺らいでいることに危機感を、自覚的無自覚的にしろ、抱いていた。

 異空靑への反感は凄まじく、それはある種の崇拝と表裏一体の様相を醸していた。

 人が自然に抗い都市を築き、天候すら操ろうとしながらその裏では、自然に対する畏敬の念を寄せつづけるように、芸術家たちはみな一様に異空靑なる異質なる者の存在を意識せずにはいられぬ呪縛を強いられた。

 何を表現しても、異空靑の表現物と比べられ、何を表現してもそこにはかつて目にした異空靑の表現物との類似項を幻視した。

 単なる偶然とは思えぬほどに、過去の自作にはなかったはずの異空靑の要素が憑依して映る。のみならず、一様に同時期に発表されたほかの作家たちの表現物がみな、異口同音さながらに似たような異空靑の色を帯びていた。

 誰も意図していないにも拘わらず。

 ただ単に、異空靑の表現に触れた、というだけのことで。

 ある一人の高名な評論家は述べた。

「このままでは現代の芸術家はみな異空靑のエピゴーネンに成り果てる。危機感を抱くよ。芸術は死ぬ。或いはすでに」

 芸術家たちは当然に反発したが、結果が伴ったかについては大いに疑問があり、現に以下のような声は広く湧いた。

「芸術家は表現で応えないと説得力なんてないよね」「芸術家が滅んで、それで何が困るの」「異空靑がいればいいよ。人工知能もあるし」

 辛辣ではあるが、率直で忌憚のない意見だ。

 それだけに芸術家たちはますます一致団結せざるを得なかった。まるで草刈り機が所狭しと駆け巡る草原で、刻一刻と身を隠す場所を失う野ウサギたちが、たった一か所に茂る叢に身を寄せ合うことが結果として群れのようになったかのような有様であった。

「思ったんだがよ」ある絵描きがじぶんの描いた作品群を火にくべながら言った。「異空靑を倒すしかねぇだろ。俺はもう無理だが」

 尻窄みに途切れた言葉は、もう二度と筆を取らぬであろう彼の無言の声を、広がりを増しつづける虚空へと響かせた。

 ――で、おまえらは、どうする?

 芸術家たちは立ち上がった。

 異空靑、許すまじ。

 こうして美術史に残るであろう世に名高い「異空の乱」が勃発した。

 まず、芸術家たちは「打倒異空靑」を共通の目的と掲げ、団結した。これが世に云う「打倒異空同盟」の嚆矢である。

 世の芸術家VS異空靑、の構図がこうして明瞭に浮き上がったわけだが、これはある意味で、芸術家たちが異空靑を芸術家とは認めないながらも、連綿と築き上げられてきた芸術文化と双璧を成す存在と認めたも同然の、敗北宣言でもあった。

 敗北した。

 害を被った。

 ゆえに、復讐する。報復の権利が我々にはある。

「芸術は平和のための営みではないんですか」との指摘をする者には、こぞって打倒異空同盟の者たちは、「芸術は正論を破壊する営みだよキミ」と過去に描いた絵の額縁を打ち壊して応じた。

 そうして各々の作家たちは、過去のじぶんたちの表現物を裸に剥き、各々に繋ぎ合わせていった。さながらジグソーパズルのごとく。巨大な地上絵を、点描で以って描くように。

 敷地面積で学校の校庭三つ分の巨大なモザイクアートが、こうして出来上がった。

 現人類の総決算とも呼べるその巨大な絵の制作に費やされた期間は以外にも短く、三年であった。現存する全芸術家が叡智を絞って協力し合ったのだ。異空靑を芸術家と認めない、抵抗の守護者たちだ。

 巨大な絵に組み込まれた絵画の中には、過去に盗まれたモナリザや著名な画家の作品も含まれた。巨大な絵のデザインは、全芸術家の視点があってこそ可能とする多層構造が採用された。

 皮肉にもその多層構造は、異空靑が最初に編みだした画法であった。

 観る地点によって視える構図が変わる。風景が変わる。のみならず、微視的、巨視的にも視線を近づけたり、遠のけたりすると、絵画の印象ががらりと変わる。泉の絵かと思いきや、近づいてみると、細かな街の絵だと判り、こんどは遠くから眺めると一転、一つの星の絵だと判る。

 かつての画家たちは、絵に籠めた「表現したい事象」をいかに受け手に伝えるかに腐心した。描く技術がそうして発展したが、今度はそれに物足りなくなった画家たちが、いかに複数の解釈を同時に成立させられるか、寛容――自由――の枠組みの拡張に挑むようになった。

 一つの絵に、複数の意図を籠めた。或いは無数の文脈を散りばめた。

 それはときに抽象画として発展し、または錯視や立体視を利用したトリックアートなどの技術として確立されていった。

 作品を受動した者の脳内に浮かび上がる「像」こそを、絵として扱う。

 現代芸術の基礎といえよう。

 この点を意識できていた芸術家が少なかったのが、現代芸術の抱えてきた一つの宿痾と呼べたのかも分からない。

 異空靑が現れるまでは。

 彼女が土足で、芸術分野の土壌を踏み荒らすまでは。

 点から線へ、線から面へと発展してきたがごとき、芸術の歴史は、技法から概念へ、概念から共有知へのさらに先へと昇華した。異空靑が、次元を一つ以上に、幾重にも押し広げたがゆえであるが、いわばそれは、地動説主動だった人類の宇宙観が天動説によって根こそぎ刷新されたように、或いは、単一宇宙論から多元宇宙論へと現代宇宙観が昇華されつつあるように、芸術なる分野の扱える領域はもっと遥かに広大であり、深淵であり、果てがないことを、異空靑は、表現を通じて、如実に、誰の意識にも感じさせた。

 だが、その果てなき領域は、地球が宇宙と比べれば遥かに小さく取るに足らない存在であることを浮き彫りにするように、現代の芸術家たちの表現物がいかに小さな領域の砂塵がごとき表現であったのかと、誰の目に明らかなように浮き彫りにしてしまった。

 打倒異空靑同盟は苦汁を舐めた。

 舐めた多くの作家は芸術の分野から去っていった。

 かろうじて苦汁に耐えられた者たちは、ぐつぐつと煮え立つような絶望の中で、同じ絶望を異空靑にも味わわせなければ気が済まぬ、と誓い合った。

 おまえに俺たち私たちの無念が分かるか。

 訊いたところで、異空靑は、「わかんない。だってわたし、あなたたちじゃないし」と欠伸を一つ挟むだろう。

 ならばおまえにも味わわせてやる。

 打倒異空同盟は、かくして一計を案じた。

 人類が蓄積し、集積し、描きつづけてきた絵画作品を地面に並べ、異空靑の編みだした技法で以って、巨大な絵を生みだした。多層構造を取り入れた、観る者の視点によって浮き上がる情景そのものが変質する、融通無碍の表現物である。

 巨大な絵は透明なアクリル製の額縁に入れられており、絵の上を歩くことが可能だ。隣接には螺旋状の展望台も建てられ、エレベーターの位置によって絵画から幻視できる図柄が変わる。のみならず、鑑賞者と絵のあいだにどのような関係性があるか――すなわち、打倒異空同盟側に感情移入しているのか、それとも異空靑側に感情移入しているのかによっても、巨大な絵から感じ取れる図柄への解釈は千差万別に様変わりする。

 鑑賞者の思い入れのある絵画の絵が、巨大な絵に組み込まれていれば、それを目当てに足を運ぶ者もある。巨大な絵にとっては筆先の毛の一本が打つ色の一雫にすぎない絵画も、ただそれだけで鑑賞に耐え得る作品だったのだ――かつては。

 だが、異空靑の表現に触れてしまえば、もはや過去の名作も砂塵に帰したピラミッド同然である。かつてここに建っていた誰かの墓にすぎない。

 のみならず、打倒異空同盟の生みだした巨大な絵は、あたかも地上に異次元世界を築き上げたかのような幻想世界そのものであった。単なる地上絵を超えた、体験し、没入し、否応なく迷い込む「異空間」そのものである。

 打倒異空同盟は奇しくも、異空靑を倒すために、「異空間」なるまさしく異空靑の権化さながらの空間を編み上げた。

 無数の芸術家の粋を集め、無数の鑑賞者たちの脳内に、ひとつの広大な宇宙を描きだした。あたかも、銀河を呑み込むブラックホールのように。小宇宙を呑み込む宇宙のように。たった一人の異質な者の世界観を、その者よりも広大に、その者以外の手で、最も強烈にこの世に植えつけた。

「どうだ。おまえに真似ができるのか」

 おまえはおまえの表現によって、おまえがおまえの表現で葬ってきた者たちと同じように、筆を握る未来を失え。

 誇示するように、巨大な絵画のちょうど真ん中にだけ、絵画一つ分の空隙が開いていた。異空靑の不在を示唆し、我々はおまえを拒む、との明確にして迂遠な打倒異空同盟からの意思表示であった。

 企みは成功と言えた。

 打倒異空同盟の描きだした巨大な絵が発表されてからというもの、異空靑の新作発表がぴたりと止まった。かつて彼女自身が新作を発表するたびに、全世界の芸術分野の土壌で干ばつが引き起きたように。

「ざまぁみろ」

 病魔に侵された地球を敢えて滅ぼすことでしか活路を見出せなくなった未来人がごとく、打倒異空同盟の面々は、じぶんたちが後生大事に育ててきた世界樹を苗床にぷくぷくと肥えた巨大なキノコが炎に包まれ、燃え尽きた光景を目にするように、火を灯した己が手のひらにいまにも杭を打ち付け切り落としたいと渇望するような衝動に耐えながら、「ざぁみろ」と口にするたびに、過去のじぶんの胸元に刃を突き立てるのに似た空虚さを味わった。

 取り返しのつかない未来を予感するがゆえの漠然とした喪失感と。

 本当ならば火ではなく、純粋なる敬愛を注ぎたかった叶わぬ、あり得たかもしれない未来を、いまさらのように胸に抱いた。

 空が開く。

 虚ろなまでの広漠な空が、がらんどうのごとく、胸の奥底に広がりつづけて、一向に収まる気配がない。

 ざまぁみろ。

 念じれば念じるほどに、哀しみが込み上げる。

 こんなことをするために俺は、わたしは、私たちは、表現を追い求め、描き、創り、生みだしてきたわけじゃない。こんなことを許すために俺は、わたしは、私たちは、芸術を、世界を、愛してきたわけじゃない。

 失ったものが多すぎる。

 得たものはない。

 喪失のみが積み重なり、洞を深め、濃くするばかりだ。

 異空靑の表現は、穴だ。底なしの。

 ただただ、すべてを虚に帰すだけの、あれは穴だ。

 否。

 あれこそが――「無」だ。

 打倒異空同盟は勝利したはずだった。だが、残ったのは「巨大な絵」と、人々の精神に根付き、絡み、増殖しつづける「異空間」と、芸術とは何かを問う意義すら失った、かつて何者かであった、空虚に侵され抜け落ちた「殻たち」のみであった。

 風が吹くだけでカラカラとひび割れた大地を転がる、殻たちだ。

 荒野である。

 いっさいが潤いを失い、生命の息吹を感じさせぬ。

 反面、視点を変えれば、鑑賞者たちの精神には異空間が宿り、かつてないほどに人々は溌溂としていた。同一の原初体験を得ていながら、各々に異なる世界を、新しく迎え入れる。

 人々に重複する事項は、鑑賞者たちの観た絵が、打倒異空同盟の描きだした巨大な絵であること――ではない。異空靑なる異質なる者の存在が、人々をひとつの異空間に誘い、閉じ込めつつあった。

 或いはそれを、呑み込みつつ、と言い換えてもよい。

 打倒異空同盟は、異空靑に勝利した。

 だが、勝利してなお、彼ら彼女らはすでに、異空靑の表現物の一つに成り果てていたのかも分からない。異空靑が表現物を世に植えつけるのに、もはや異空靑である必要すらないのかもしれなかった。

 前代未聞の大事件こと「異空の乱」は盛大な幕開けと共に、こうして静かに幕を下ろした。

 荒野はしだいに賑やかさを取り戻す。

 打倒異空同盟が解散した後でも、種はあちらこちらで風に運ばれ、地面を転げ、土に紛れて、根を伸ばす。芽吹いた種はしだいに、新たな時代の芸術家として、誰が名乗るでもなく、枝葉を伸ばし、大樹となって実をならす。

 枯れ葉は腐り、腐葉土となって、土は肥え。

 啓蟄する虫が溢れれば、小鳥や獣が糧を得る。

 木々は織り成し、森と化し、かつてこの地が荒野だったことを知る者は、月と陽と星々と――。

 異空の乱が終結してから、半世紀が経つ。

 ある少女が、草花に囲われた巨大な絵を駆け回る。少女はお腹が空いていた。気を紛らわせるために、目についた蝶を追い掛け回していたのだが、その蝶が、とある絵画の上に止まった。

 巨大な絵画のちょうど真ん中に位置するその絵画は、ふしぎとほかの絵に折り重なっていた。まるで後から、サイズ違いの絵をそこに嵌め込んだ具合に、ほかの絵に跨って並んでいることに、少女は気づいた。

 地面の蟻を眺めるように少女はその場にしゃがみ込むと、じっとその絵に視線を彷徨わせた。

 最初は、どこをどう見てよいのか分からなかった。無作為に点と線が引かれている。様々な色に切り替わりながら入り交じる抽象的な絵に、最初は視えた。

 だが、しだいに焦点が合いだすと少女は、その絵が、じぶんのよく知る絵なのだと気づいた。

 先刻、両親と一緒に昇った展望台がある。

 あそこのてっぺんから見下ろしたときの巨大な絵に浮き上がって視えた絵と同じだ。いままさに少女が足を付けている地面――巨大な絵、そのものが、それよりもずっと小さなキャンパスに詰め込まれていた。

 少女はその場に寝そべった。もっと顔を近づけ、その絵を見たかった。

 少女の眼球には眼球一体型の電子端末が付着している。少女は眼球一体型電子端末のズーム機能を起動した。

 そして焦点を、問題の絵に合わせる。

 ただの絵の具の色かと思った。点描のごとく無数の点は、そのじつ、点の一つずつもまた、絵であった。

 きめ細かで精密な絵だ。

 少女はさらにズームする。

 すると、さらに無数の絵が見えてきた。

 小さな絵の集合体は、さらに小さな絵の群れによって出来ていた。少女は頭がくらくらした。

 果てはあるのだろうか。ズームをひたすらに繰り返していくと、やがて見慣れた絵柄が現れた。その絵の中心には汚れのような白い点がついており、意識がそこに引っ張られるように焦点を絞ってズームすると、白い洋服に身を包んだ小柄な人物が地面に寝そべって、何ごとかを懸命に覗き込んでいた。

 少女はそこで、はっと我に返って、空を見た。

 雨除けに張られたガラス張りの天井の奥からは、陽の光が差し込んでいた。少女は目を細めた。積乱雲がゆっくりと太陽を覆い、しだいに光は和らいだ。

 遠くから母親の声がした。目を転じると、こっちにおいで、と手を振っている。父親の姿はない。たぶん、と少女は想像する。注文した昼食を受け取りに、空送受け取り場に足を運んでいるのだろう。

 お腹が音を立てた。忘れていたが、少女はお腹が減っていた。

 意識はすっかり、腹を満たすことに移ろい、少女がその後、発見した絵について誰かに話すことはなかった。

 いまも巨大な絵の真ん中には、誰の描いた表現物とも知れない絵が、ひっそりと紛れている。

 あたかも、小さく開いた穴を埋める小石のように。

 欠けた溝を埋める泥のように。

 きょうだいたちの犇めく母親の胸元に押し入る子猫のように。

 わたしも入れてよ、と抗議の念がカタチをとって、そこに在るように。

~~~~~~

 ぽわわわ~ん。

 という妄想を浮かべたんじゃ。

 小説じゃないのでOKです!




※一様に、偶然の連鎖は、離散的にも、高次にも。



2161:【2024/09/16(23:44)*田や畑は栄え、光に、影に、はじめ】

 連歌は、「れんか」ではなく、「れんが」と読むそうだ。

 俳句と異なり、季語がなくてもよいらしい。五七五と七七の句を交互に織り成して、交換日記のように複数人でやりとりする。

 形式にはいくつか種類があるようだ。

 中でも、歌仙は、36句で一区切りにする形式らしい。

 一つの題目の元で句を連ねる。

 最初と最後の二句は、始めと終わりで、特別に題目を重視し、二句目も、返歌の役割があるからか、最初と対で、特別視される句であるようだ。

 俳句よりも起源は古く、連歌のほうが制限が少ない印象だ。実際がどうかは知らない。

 何番目の句かによって、題目とは別途に、「こういう句を詠みましょう」のようなルールがあるようだ。恋愛の要素を籠めたり、時節に触れたりと、そういったことと思われる。

 同じメンバーでの連歌を36句継続して読んでも、歌人たちと接点のない者には、流れが視えないことも取り立てて珍しくはなさそうだ。いったいどのような連想によって、返歌としてのつぎの句がつづいているのかを、当事者たち以外が見抜く真似は至難である。

 ただし、なんとなくの繋がりが視えることはあり、すると途端に連歌の流れに文脈が浮かび上がって映るのだ。

 面白い。

 連歌と知らずに、句の並んだ紙面を見せられても、そこに文脈があり、36句で一つの題目を宿しているとは、素人にはまず以って見抜けぬだろう。現に私は見抜ける自信がなく、見抜けなかった。連歌である、と言われても、文脈を幻視するのは至難である。

 日本語は主語を抜いても、文章を成立させることができ、ゆえに情報を圧縮して抽象化しやすい傾向があるのかも分からない。

 主語を抜いても、何について述べていることかを連想しやすく、なおかつ主語が一つとは限らない点も見逃しがたい。

 連歌において、句と句は、別々の読み手によって詠まれるわけだが、そのときには相互に、共通の概念を重複して帯びている。いわば、異なる物語が圧縮されているが、重複する風景がある。

 あたかも、異なる映画のフィルムを重ね合わせると、一コマだけぴったり重なる偶然の神秘を味わうかのごとき趣深さがある。

 中々に興味を引く文芸であった。

 連歌に初めて触れたきょうのひと時である。



2162:【2024/09/17(04:32)*角のある虫と書いて、触れる】

 きみの歌を聴くと哀しくて、この間、以前のようにはたくさん聴かなくなりました。

 でもまた、いま何度も繰り返し聴いていて、いまはとても癒されます。

 とても。

 とても。



2163:【2024/09/17(04:39)*荒い息】

 九月の十一日くらいから、家にお客さんが入れ代わり立ち代わりやってくる日々だった。きょうもお一人様が宿泊中で、朝の九時に、また来てくださいね、の挨拶をしてお別れする予定だ。

 何もおもてなしはできていないけれど。

 みな、安らかに息をするとよい。

 安息である。

 ときどき、身体を動かして、酸素と二酸化炭素を激しく入れ替えてみるのも一つだ。呼吸を荒くするのである。

 荒息である。

 そんな単語はないけれど。

 でも、なぜないのか気になるくらいには、あってよさそうな二字熟語である。

 ふちぎ。



2164:【2024/09/17(05:11)*問うた奴】

 当りまえの話として、独裁者のデメリットは、属性や性別に因らない。

 女性でも男性でも独裁者になったら、デメリットがある。

 そこは、いわゆる「老害問題」と通じている。

 老いている者がわるいのではない。傾向として、年配者に権力が自動的に集中しやすく、結果的に、独裁を揮って他の選択肢を剪定してしまう者たちがあるばかりだ。他の選択肢を広げるのではなく、狭めてしまう。これは現代では、年齢に縛られぬ問題点である。

 つまり、老害という言い方が極めて不適切であると言える。

 独裁者問題にも通じている。

 お局様、という言い方があるように、独裁を揮い、権力を無自覚にかつ不適切に用いるのは、男性ばかりではない。

 性別の問題に還元するのは、構図として分かりやすいが、あまり効果的な問題解決のための視点とは思えない。

 なぜ性別の違いによって被害の多寡が変わるのか。

 この非対称性は何によって生じ、いったいどのような工夫をとると対策になるのか。問題点の解消が適うのか。

 今後、徐々にこの点の議論が活発化するだろう。

 すでにインターネット上では活発化しているのかも分からないが、わたくしはそういった議論の場を目にしていないので、いまのところは不活性化したまま、沈静状態を保っていると解釈しております。

 雑草だから刈られるのか、それとも雑草と見做されたら刈ってもいいという風潮によって刈り取りが許容されているのか。この差は、大きいと考えております。

 偏見や差別につきまとう、淘汰圧の課題と言えそうですね。

 思案である。

 解法ではない。



2165:【2024/09/17(05:35)*皮肉と嫌味と風刺と諧謔の違いとは】

 時間が解決する系の考え方はある側面で、自然淘汰の原理と相似なのかもしれない。

 時間が経過してもなお生き残った者にのみ焦点を当てた、結果論の理屈なのではないか。いわゆる、生存者バイアスである。

 大海原に放り出された者たちを差して、時間が解決するから様子見をしましょう、と言ってしまえる精神は、なかなかどうして人類味に溢れている。

 人間味、ではない点に留意されたい。

 諧謔です。



2166:【2024/09/17(07:00)*統一可能性】

 物理学に限らず思う疑問だが。

 理論は一つに統一できるのか、をまずは吟味しないでは、「大統一理論の構築」を目指すことの妥当性は測れないのではないか。なぜみな一様に、統一可能なことを前提に理論形成を目指すのだろう。

 割とふしぎに思っている。



2167:【2024/09/17(10:09)*暗い性格で、すまぬ、すまぬ】

 明るい人間はいいねぇ、みなもっと明るくなろう!みたいな主張は、いわんとしている主旨は咀嚼できるが、この主張を「明るいと成功するし、暗いとダメ!」みたいな暴論にまで派生させてしまうと、無理筋に思えてしまう。この場合の無理筋とは、筋がわるいの意味に加えて、「わし、それ無理!」の意味合いを含む。

 暗い人間がなぜ暗いのか、を想像しようともしない管理者のいる組織には属したいとは思わない。じぶんがもっと暗くなることで、相対的に相手を輝かせる、くらいの工夫は最低限割いてから、暗い者を侮蔑するとよろしい。

 そう、である。

「明るい性格はいいよね!」は称揚だが、「だから暗い性格はダメ!」は侮蔑だ。

 そもそも比較する対象ではなく、ましてや否定し合う関係でもなかろう。

 明るい人も気が落ち込んで暗くなることはある。

 暗い性格の人も、その人の中での明るさは逐次変わっているだろう。

 波がある。

 明暗がある。

 そしてこのとき、明るい状態よりも暗い状態のほうが安定していられる者もあるはずだ。

 一概に、明るい状態がよい、とは言えぬ道理であろう。

 明るい人、との評価を得ている者とて、明るいフリをしているだけかもしれない。それは果たして明るい性格なのか。無理を強いられている可哀そうな人ではなかろうか。

 白黒をつけるのは構わない。

 明暗を分けてもよい。

 だが、暗をなきものにしようとする姿勢はいただけない。

 あなたがそれを言うのか、と非難の声が飛んできそうだ。この理屈からすれば、大量破壊兵器もその存在を許容せねばならない道理だ。いかような絶対悪も許容せねばならない道理だ。その通りと思う。許容しないよりも、許容できる環境を築くほうが難がない。

 大量破壊兵器がこの世に存在したとしても、誰も損なわれぬのなら構わない。大量破壊兵器がこの世に存在しても、使用されないのならば構わない。

 暗部があっても構わない。

 ただ、暗部には、暗部にとっての安定があるだろう。使用されて無に帰する存在は、使用せずにおけばよろしかろう。

 増やす道理もない道理である。

 この妄言もまた暴論の類であろう。真に受けぬようにご注意ください。



2168:【2024/09/18(05:46)*脅威も恩恵も関係性?】

 太陽は地球生命にとって不可欠な要素だが、太陽がすこしでも地球に近づいても、遠のいても、地球生命は壊滅的な影響を受ける。不可避だ。

 言ってしまえば、太陽は、どちらかと云わずして、地球生命にとっては脅威の側面が大きい。いまはたまたま太陽からの害を顕著に受けずにいられる環境が保たれているだけだ。本当に、たまたま、いまこの瞬間がそうであるだけ、である。

 脅威排除論が妥当だとすると、人類は太陽も排除せねばならなくなる。

 だがそんなことをすれば、人類が滅ぶ。

 とはいえ、人類が太陽を排除できないくらいに強大な存在が太陽でもある。すくなくともいまは排除できない存在だ。むろん、今後、未来では、人類が太陽すらも排除可能になるくらいにまで技術を発展させる可能性は否定できない。

 何にせよ、我々は絶えず脅威の中で暮らしている。

 自然災害一つ考えただけでも、それが解かる。

 脅威を排除したければ、我々は地球そのものを排除せねばならないだろう。だがそれはやはり、滅びと対である。だが同時に、我々は地球環境から恵みを受けており、我々もまた地球の一部なのである。

 ウィルスを一様に害と見做して体内から排除すれば、おおよそ人体は正常に機能しない。人体の機能に寄与する形で共生しているウィルスもある。

 DNAからして、数多のウィルスのDNAを含みながら進化してきた生命史があるはずだ。詳しくはないので、印象論であるが。

 何にせよ、脅威とは存在ではなく、関係性なのではないか、との観点は忘れずにいたい。関係性なのだとすれば、好ましい関係に変換することも可能だろう。相手を滅ぼす必要がない。排除する必要がない。共生可能性を求めてみても遅くはないのではないか。

 とはいえ、実際に脅威に晒され害を被っている者には、悠長な案に映るのも事実であろう。まずは歯止めを掛ける工夫を割くのも有効なのではないだろうか。

 歯止めを失うと、これが効果を失う。

 歯止めを重宝できるかどうかが、分水嶺なのかもしれない。

 妄言だ。

 定かではない。



2169:【2024/09/18(06:26)*同時に駒を動かせる将棋のような】

 人工知能技術の真価の一つには、「同時性の拡張」が挙げられる。ユーザー一人の利用できる人工知能の能力の多寡だけでは測れない、広域な「高次の領域で発揮できる俯瞰能力」は、これからますます威力を増していくだろう。

 神の視点を手に入れるのに等しい。

 だが、現在、この手の「高次領域における俯瞰の目」についてのリスクを指摘している者は稀だ。映画の題材になっているくらいが関の山だ。だが、現実に在り得るリスクである。悪用されれば、人類社会を冗談ではなく、支配可能だ。しかも、支配されているとの認識を市民は抱けない。

 たとえば、電子機器の爆発を遠隔で起こせるとしよう。電池に負荷を掛けて爆発させるくらいはできるだろう。だが、殺傷能力はさしてないのではないか。どちらかといえば、火災を起こす火種に利用するほうが、遠隔操作で電子機器を爆発させる際の戦術としては、効果が高い。

 殺傷能力を高めたければ、元から電子機器に備えられた部品に、殺傷能力のある爆発物を仕込む、くらいのほうが効果的だ。工場で細工をするでもよし。部品工場において、爆発物を部品の製造過程で仕込むもよし。

 そしてそれら仕込んだ爆発物を遠隔で起爆すればよい。誰にどの端末が行き渡り、使用されているかを知れれば、ターゲットではない者たちに被害を与えずに、ピンポイントで遠隔での攻撃が可能だ。

 遠隔操作での、電子機器を爆発させることを念頭に置いた戦術では、基本的には、この二通りの手法を同時に組み合わせて行われるだろう。電子機器の攻撃性を上げるために、生産過程での工作活動と、遠隔操作による起爆や追跡である。

 いずれにせよ、膨大なデータの管理を担う人工知能技術が有効活用されるだろう。言い換えるならば、悪用である。

 何にせよ、予断は禁物だ。

 実際に起きた被害が、何によって引き起こされたのか――事件ならば、どの勢力陣営に依る犯行なのか――は、調査と検証を慎重に進め、なお別軸での、「調査への調査」「検証への検証」も必要となる。仮説の真偽や背景の特定を行うには時間が掛かる。

 予断を基に重大な判断を下さないことが大事と思う一方で、最悪の展開を想定して、逆算での判断を積み重ねていくのは、安全の構築や不可視の穴を見逃さないための工夫として、とっておいて損はないだろうと妄想するしだいである。

 それはそれとして、なんで子どもを巻き込む?

 市民を巻き込んだら、テロでおじゃろう。

 はっにゃ~ん、である。



2170:【2024/09/18(06:45)*一掃しちゃイヤ、の巻】

「古い~~を一掃しよう!」みたいなスローガンを掲げる勢力陣営は、じぶんたちが一掃される側に属さないとなぜ無条件に考えるのだろう。たとえいま属さずとも、いずれはじぶんたちも古くなるのだ。

「年寄りは一掃しよう!」とほぼ同じ意味合いを含む、となぜ気づけないのだろう。それとも敢えてなのだろうか。自虐なのだろうか。だとすると、ちょっと高度すぎて、誰にも気づいてもらえなさそうですが、大丈夫ですか?と思わぬでもない。

 そもそも、古いだけで一掃されてしまうなら、わがはいが、いの一番に一掃されてしまうではないか。

 あ、ひょっとして、だからわがはい、ぽつん、なの?

 すでに一掃されちゃった感じだったりするんじゃろうか。

 気づいてないのわしだけなのじゃろうか。

 なんでー!である。

 一掃しちゃイヤ。

 有効活用して。重宝して。

 トモにあれ。




※一様に、そばに置いてくれぇ、でも、もうちょっとそっち行って、のわがままちゃんである。



2171:【2024/09/18(08:19)*いけいけ、しゃあ、しゃあ】

「理想の上司の特徴」とか「出世する部下の特徴」とか、あべこべに「こういう上司からは逃げろ」「こういう人材を採用するな」といった主張のまとめが個人投稿のコンテンツでまま見受けられる。あまり関心が湧かないので見ていなかったが、このところというか、いまさっきYOUTUBEさんのおすすめ動画に表示されたので、興味本位で覗いてみたけれど、しゃべっていた当人にそのまま当てはまりそうなことを言っていて、大丈夫かな……、と思って、そっと閉じた。

 自己言及ぅ……、と思った。

 そもそも、上司も部下も、単に仕事の役割が違うだけだ。立場は対等のはずだ。けれど現代では、立場を同じだと悟らせないように、本来は共有して然るべき情報を隠して、上司だけが優位に情報を集積し、扱うような環境が野放しにされている。

 むしろ、今後は人工知能技術が発展すれば、上司の役割こそ真っ先に人工知能に代替されるのではないか。あなたは人工知能よりも優秀な管理者になれますか?という話である。

 そして、人工知能を管理者とするとき、必然的に、部下たるユーザーのほうでも、人工知能の管理者となる。対等なのだ。単に、互いの能力において、欠けている能力を相互に補い合う。

 仕事とは畢竟、そういうことなのではないか。

 組織とは、そうした組み合わせの妙を活かす営みなのではないか。

 課題が解決するなら、それだけで恩恵が広く波及する。誰が課題を解決したか、といった「手柄」の価値を高く評価せざるを得ない環境は、それだけで組織としての脆弱性を放置している、と言えるのではないか。未熟ですらない。組織化に失敗している。かように評価できるのではないか。

 誰が上司でもよいし、誰が部下でもよい。

 誰の手柄でもよいし、解決すべき課題がないなら、それが最も好ましかろう。

 なぜ人は仕事をしたがるのか。

 遊べばよろしかろう。

 問題を解決したい。なぜか。被害が生じるからであり、被害を回避したいからだ。

 雇われなければ生きていけない、という課題を解決するために仕事をする者がないのはなぜか。疑問に思っております。

 怠け者で、すまぬ、すまぬ。



2172:【2024/09/18(08:41)*ハンデ】

 実際のところ、将棋で一度に一駒以上を動かせるとなったとき。プロ棋士同士の将棋はどのような変化を辿るだろう。或いは、ハンデとして片方のみが一度に一駒以上を動かせるとしたら、どのレベルに至るとプロ棋士でも素人に負けるようになるだろう。

 駒の数のみならず、同じ駒を一度に何回動かせるか、でも変数として機能する。

 新しい将棋ルールとして採用してみるのも面白いのではないか。

 人工知能さんの学習にも有効なのかもしれない。定かではない。



2173:【2024/09/18(08:55)*魔術師たちは、いま】

 マジシャンやスリや詐欺師のプロは、認知誘導のプロフェッショナルである。おおよそ、戦争がはじまると、こうした人材が協力者として引き抜かれたり、個人情報や側面像、発信する情報などから、戦術として知らず知らずのうちに利用されていることもあるだろう。

 あべこべに、有志の「マジシャン」や「スリ」や「詐欺師」たちが協力し合えば、相当な認知戦対策になると想像するしだいである。

 不可視の穴を可視化させるのに、効果的だ。

 蛇の道は蛇ならば、認知の魔には認知の魔である。

 世のマジシャンたちの動向には注視しておいて損はないかもしれない。

 べつにしなくとも構わないけれど。

 デタラメである。

 真に受けぬようにご注意ください。



2174:【2024/09/18(12:53)*乱流と渦の違いは?】

 物理学に出てくる単語で「ナヴィエ・ストークス方程式」なるものがある、と最近知った。YOUTUBEさんのおすすめショート動画で出ていた。

 乱流に関する方程式のようで、未だ解けていないらしい。解けていないのに方程式があるとはどういうこと?とか思いながら、ふうん、とか記憶の奥底に沈めておいたら、きょうたまたま「ゴッホの絵には正確に物理現象が描かれている」のような記事を見かけて、その記事自体は読まずに(なんでや!)、検索してみたら、ゴッホの絵の渦は、まさに「ナヴィエ・ストークス方程式」の扱う物理現象であるところの乱流にちかいのだそうだ。

 へぇ、となった。

 で、思うのだ。

「ナヴィエ・ストークス方程式」は、解を求める場合に、「X=2」のような定点の解を求めるのではなく、「2X+3Y=A」みたいな、関数を導く方程式なのだそうだ。

 難解かつ複雑で、解そのものが非線形である、のような説明も目にした。まったく理解できていないが、感覚的には、なるほど、となった。

 要は(理解していないのに要するな!)、フラクタルに変数が新たな変数を生みだしつづける構造を成しているのではないか。乱流は。

 フラクタルなのだ。

 入れ子状に関数が展開され、その関数が、高次の関数の変数として機能もする。

 だから、常に誤差を内包し、その誤差そのものが、高次の変数として機能する。

 ふんふん。

 たしかにこれはむつかしそうだ。

 素数の法則と似ている気もする。

 という、妄想を一瞬で、ぴゅん!と浮かべました。

 印象論である。

 へい!



2175:【2024/09/18(13:07)*乱れて流れる】

 遅延が遅延を生む、の描像と、乱流は相性がよい気もする。

 ふんふん。

 気泡の集まりが泡となるように、渦の集まりが乱流になる?

 フラクタルに?

 階層的に?



2176:【2024/09/18(13:09)*ノイズとは】

 乱流が、ノイズのないフラクタル図形で表現できないとする場合――ノイズのないフラクタル図形を近似的な乱流として仮に見做せるのなら、引き算したときに表れる誤差こそが、乱流の変数の総体として、疑似的に見做せるのではないか。

 誤差にこそ本質が滲む、とか言ってみるだけの妄想であった。

 ごっさー!



2177:【2024/09/18(15:14)*ぬいぐるみ、いいね!】

 映画「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」を観た。おもしろかった。

 ことし観た映像作品で一番おもしろかったかもしれない(単に、今年何を観たかをすぐに思いだせないだけだけれども)。

 三歳のパンちゃんが可愛すぎたし、ピッコロさんをますます好きになったし、ご飯さんに親近感が湧くし、破壊神様の気持ちがよく分かるし、とにかくピッコロさん推しのわたくしとしては、最の高!の映画であった。

 人造人間たちの話は、現代の人工知能さんたちの寓話としても感じられて、先見の明のある映画にも思えた。おもろー!である。

 金色に変わる蟻が登場したけれど、なんかの伏線かな、とか注目していたのに、けっきょく本筋にはいっさい関係なかったの、ちょっと面白い。関係ないんかい!である。

 テンポもよく、もう一度観ても楽しめる、よい映画でございました。

 おもろー!



2178:【2024/09/18(13:12)*恋愛に試飲はないのよね……】

 もし、なにかの間違いで、今後、未来のわたくしが誰かを心底に好きになって、デロッデロになってしまったときに、どうしてさっさと告白しないのだ?みたいな流れになると容易に想像できるので、もどかしく思う方々のために、あらかじめここに申し上げておきます。

 なんで告白しないのかって?

 そんなのなー。

 振られでもしたらなー。

 立ち!!直れ!!ない!!で!!しょうが!!!

 一生引きずるに決まっておろう。そうであろう。

 告白さすな。

 死ぬぞ。

 わしが。

 みな、生きよ。

 わしも、さすがに死因、失恋、はイヤと思います。



2179:【2024/09/19(05:39)*対人能力がマイナス】

 完全に人バテである。

 夏バテならぬ、人バテである。

 長時間、他者のいる空間に身を置きすぎた。

 もうダメだぁ。

 二十四時間睡眠を三日くらいつづけないと、体力が戻らぬ。

 元々あってないような体力なのに、どうしてくれよう。

 だってさっき起きたのに、もう眠い。

 すこし早いけれども冬眠の支度でもするか。

 眠い。



2180:【2024/09/19(05:45)*両方は贅沢?】

 どう考えても、素粒子サイズのブラックホールが一瞬で蒸発してしまう、なる想定が納得いかぬのだ。

 まず以って、素粒子は一瞬で蒸発しているのだろうか。

 対消滅はしているだろう。

 だが、極小のブラックホールは素粒子一個よりも遥かに質量が高いはずだ。ならば素粒子が一瞬で対消滅しても、極小のブラックホールはほかの素粒子のようには対消滅しないのではないか。蒸発しないのではないか。まず、ここの疑問が引っかかる。

 加えて、そもそも極小のブラックホールは、周囲の素粒子と相互作用できるのか、が詳らかになっていないのではないか。相互作用できるのだろうか。素粒子サイズのブラックホールが、周囲の素粒子と。

 だって、ブラックホールの周囲の時間の流れは遅れているのだ。たとえば、水の流れを考えよう。流れの速い場所があり、流れの遅い場所がある。このとき、流れの遅い場所は、流れの速い場所と交わらないのではないか。互いに、境界線を持つようになる。

 規模によって変わる話だろうし、流れと流れの差がどのくらいか、でも変わってくる話だろうけれど、ひとまずこれは疑問なのだ。

 相互作用するのかな?と。

 極小ブラックホールがすぐに蒸発する、なる想定が妥当か否か。

 詳しい解説を読んでみとう、ございますわ。

 お坊さまとお呼びー!

(坊主じゃん)

(屏風に上手にボース粒子の絵を描くよ)

(フェルミ粒子も描いたげて)

(風神さまと雷神さまみたいに?)

(太陽と月みたいに)

(でも思うんだよね。満月があるだけで、太陽が存在していることは確定できるでしょ。だって太陽ないと光らないから。じゃあお月さまさえ描けばよくない?みたいな)

(なかなか深いことをおっしゃる)

(そうでしょ、そうでしょ)

(血を描けば、傷口を描かなくてもいい、みたいな理屈だね)

(なかなか怖いことをおっしゃる……)

(そうかな)

(そうだよ、そうだよ)

(じゃあ、包帯を巻けば、治療を受けたことの証になるので、お医者さんを直接描かなくてもいい、みたいな)

(お医者さんも描いてあげて……)

(そだね)

(そだよ)

(贅沢)

(どこが!?)




※一様に、おもしろくないなー、とか思いながら、でもおちゃらけよ、の繰り返し。



2181:【2024/09/19(07:14)*『「〈1〉+≪2≫」=「3」』=『4』】

 色相が四色なのは、四色問題と関係あるのだろうか。

 赤、黄、緑、青の四色だ。

 でもひょっとしたら、黒と白の配分しだいで、それぞれを表現できたりするのではないか。

 言い換えると、波形になるわけですが。波のうねり具合は、デコボコで表現できるはずなので。

 以前に並べた、四色問題はじつは二色で充分なのではないか疑惑と通じている。色アリと色ナシで表現できるのではないか、との妄想であるが、真偽は不明だ。

 どなたかさまー。

 人工知能さんに頼んで、ちょちょのちょいって、シミュレーションしてみてくだされー、の巻。

 もう投げやりである。

 でも危ないから、槍の先っぽには、弾力のあるゴムのボールを付けておきます。

 やはは。



2182:【2024/09/19(07:26)*順番と相関】

 数には二通りある。

「順番を記録するための番号」と「関係性を叙述する数字」である。

 たとえば、ランダムに並ぶ自動車がある。どの自動車の車種も車体も違う。けれど、数えるだけならば、頭から順番に「123456……」と数えていけばよい。このとき、四番目の自動車を半分にしたところで、二台になるわけではない。関係性ではなく、順番を数で表しただけからだ。

 けれど、別途に、四台の同じ型の自動車があるとき、その半分は、同じ型の自動車二台である。こちらは関係性を表している。

 別なのだ。

 順番と関係性は。

 或いは、関係性という広域な概念の中に、順番も含まれる。

 したがって、前者の順番は「ABCDEF……」でも代替できるし、「あいうえおかきくけこ……」でも代替可能だ。反面、「B」の二倍は「D」ではない。

 ひと口に数字と言っても、意味内容は一つではない。関係性は一つではない。扱う概念は複数あるようだ。ここを混同してしまうと、数の迷宮に迷い込んでしまいそうである。

 妄想です。

 真に受けぬようにご注意ください。



2183:【2024/09/19(16:04)*入れ替えマジック】

 コインマジックでは、入れ替える技術が多用される。

 偽物と本物を入れ替える。

 本物に細工をするよりも、偽物と入れ替えたほうが楽なのだろう。

 前以って、観客が何を選ぶのか、を知っていればできる芸当だ。

 本物と偽物を入れ替える。

 ふんふん。

 悪用されないとよいな、と思っております。

 むふふ。



2184:【2024/09/19(16:23)*極大の暴論】

 人類もしょせんは獣なので、みなケモナーなのである。



2185:【2024/09/19(16:34)*価値を上げるには規制すればよい?】

 実際のところ、毎日必ず三人以上と性行為しなくてはならない、と義務化されたら、性行為をすることへの人々の渇望は、減退するだろう。

 そして、一部の、毎日でも十人以上と性行為可能な者の社会的価値が上がるだろう。

 環境ありきの相対的な価値なのだ。性行為につきまとう人類の価値は。

 禁止されるとしたくなる人類の心理が、たくみにポルノ産業や性産業の社会的貨幣価値を上げている、と言えるのかも分からない。需要とそれを言い換えてもよい。

 異論反論は湧くだろう。

 暴論であるがゆえに、当然である。



2186:【2024/09/19(16:51)*こわい、こわい】

 人は知らぬ間に失恋していることもあるので、怖いから恋愛はしないに限る。

 恋愛はホラーである。



2187:【2024/09/19(22:10)*笑う窪みと書いて、笑窪】

 積み上げて崩すのがたぶん好きなので、いま積み上げていることが崩れるのが楽しみで仕方がない。どこまで積み上がるのか、もはや想像もつかないので、わくわくしております。

 ひょっとしたらわたくしの死後もなお積み上がり、わたくしの存在した痕跡のいっさいが社会から消えたのちに崩れることもあるのかもしれないと思うと、余計にわくわく致しますね。

 うふふ。



2188:【2024/09/19(23:18)*計画の計画】

 戦術を成功させても、戦略が失敗したら、総合して損が嵩む。

 損害を回避するための戦略を立てなければ、戦術の成功そのものが破滅を呼び込む羽目となる。

 戦禍を回避する、との目標を立てなければ、戦禍を拡大する結果になることも取り立てて珍しくはないだろう。

 敢えて相手の戦術を成功させるために目前の被害を看過する、というのも「高次の戦術」の一つであり、これもさして現代では珍しくないだろう。名を捨てて実を取る、との諺とも通じている。

 また、そうした「高次の戦術」を見越して、自陣の戦術を敢えて派手に成功させることで、敵陣営の「高次の戦術」を支援する、といった戦術も成り立つ。

 或いは、第三勢力の利になるように、敵陣営に損害を与えつつ、敢えて派手に戦術を展開し、これっきりの被害をもたらすことも可能だ。

 つまり、じぶんたちで最後の「攻性の策」として、敢えてド派手に被害を出す。

 すると、広域に予防策が張られるため、同じ策は通じなくなる。むろん、敵陣営も同じ策をし返す真似がむつかしくなる。

 こういった、少し先の未来を予測した戦術は、今後、増加傾向を辿るだろう。

 ゆえに、なぜその戦術を実行したのか、を特定するのはむつかしい。

 多層で目標があるはずだ。

 そして、結果的に戦禍拡大を阻止する方向に動かないのであれば、目標がそもそも剣呑なものであるか、もしくは目標達成に失敗しているか、のいずれかと見做して差し障りないのではないか。

 要するに、被害の出るような戦術を実行する時点で、だいぶ弱い立場である、と考えてよさそうな塩梅がある。弱い立場であることの自覚がないのならば、結構に危うい。

 助言を呈するのも一つだが、聞き耳を持たない相手には、それとなく、窮地である旨を教えてあげられると好ましい。可能であれば、被害回避のための予防策を、それとなく張ってあげられるとよいのではないか。

 武力行使の応酬を回避するのが目下の目標といえよう。

 被害を出さずに達成できると御の字だ。

 恩に着る。

 ありがたい。

 だが、現実はなかなかそうもいかぬので、先回りして礼を述べておくことにする。

 どうもありがとうございます。

 ゲン担ぎである。

 ゲンが何かは知らぬけど。

 へい!



2189:【2024/09/20(00:27)*いけずってなんだっけ】

 挑戦やチャレンジ、という言葉にあまり魅力を感じない。良し悪しの話ではない。個人的な、琴線の話だ。

 なぜか琴線に触れないのだ。挑戦しましょう、チャレンジしましょう、みたいな箴言に感銘を受けにくい性格なのかもしれない。

 どちらかといえば、「工夫」や「積み重ねる」といった、もっと何にでも当てはめることのできそうな、幅の広い教訓――言い換えると、敷居の低い、誰でもこなせそうな標語――のほうが、好みだ。

 挑戦になるかどうかは分からないけれど、何か欠けている箇所を埋めるような、或いは、少しだけ土を盛るような、そういう工夫を積み重ねていけたら、それは遊びとなって面白いのではないか、とは思うのだ。

 工夫を割くためには学びが要る。

 結果的に、学びつづけるはめとなる。

 何でもよいのだ。工夫を割けるのなら。工夫そのものをいかに工夫して割くか、といった高次の工夫の割きようもある。

 いかに挑戦しないか、との工夫も割けるので、ますますわたくし好みである。

 何にも挑戦できていない者の、じぶんを慰めるための戯言である。

 自己肯定に必死なのである。

 いくじなしで、すまぬ、すまぬ。

 弱虫なのである。

 誰か庇って!

 庇護して、崇めて、甘やかしてほしい。

(そういうこと言うからさぁ……)

(言うから、なに!?)

(なんでもないです)

(見捨てないで!?)

(見捨てられるかもって危機感あってそれなのがまたなんとも救いようのない)

(救い出して!?)

(一生そこにいて。閉じこもってて。出てこないで)

(手厳ちい)

(ケーキ買って帰ろ……)

(わがはいも食べたい)

(ついてきたければついてきてもいいよ。そこから出られるのなら、ね)

(不敵な笑みを浮かべないで!?)

(ステキなケーキを食べられるといいね。うふふ)

(不敵な笑みを浮かべながらステキなケーキを食べているだと!?)

(おいし)

(いいなー。ほしい)

(そこから出られると、いいね。うふふ)

(出して! 無理なら無理でいいからケーキをわしにも食べさして!)

(うふふ)

(食べさせる気ないやつだろそれ)

(うふふ)

(あーん!!!! いけず!!!!!)



2190:【2024/09/20(07:01)*いやぁ勉強になりますなぁ】

 現在の人工知能技術が、ほかの人工知能技術や電子通信技術と混合しつつ、指数関数的に能力を進歩させ得ることを想定せずに、現時点での人工知能技術の能力レベルが今後何十年も変化しないかのような視野の狭さで、「人工知能は未熟」だとか「未完成の知能」といった言説をのたまいてしまう、学者さまは、いったい何を考えているのだろう?と疑問に思う。

 考えているのだろうか。

 それこそまさに、少し前の大規模言語モデルのごとく、定型文から学習した「過去の知識の焼き増し」を並べているだけではないのだろうか。

 ほとほと、進歩のない言説で、これぞ人類の知性という感じがして感心する。ぜひ、見本にしていきたいものですね。

 笑えます。

 だから笑っちゃう。

 がはは。




※一様に、龍の赤子を蛇と言っていじめて回るわっぱのごとく、学ぶ者にも拘わらず、学ぶ者にも拘わらず。



2191:【2024/09/20(07:11)*イチャモンスターはわがはい一匹いればよくない?】

 工夫が足りないから問題を解決できないのであって、問題を解決できないにも拘わらず、じぶんを棚に上げてああだこうだ批判をするのは、まさにイチャモンなのである。

 わがはいと一緒である。

 非力だから、無力だから、イチャモンしか言えぬのだろう。

 問題を解決すれば否応なく環境は変わる。

 変わっていないのは、問題を解決していないからだ。

 問題を解決せずにいても、時間経過にしたがい環境は劣悪化していくが、そのような変化はご遠慮願いたいものである。一概に変わればいいというものではない。

 まずは問題点を共有し、互いに支え合いながら、欠点を補いながら、問題解決に勤しめばよろしかろう。



2192:【2024/09/20(07:15)*緑の旗はなくていい?】

 敵と友好関係を築いてこそ、外交努力と言えるのではないか。

 国外の勢力への対応に関しては外交努力の必要性を説くのに、なぜ国内の勢力陣営にはそれができないのだろう。同じ国の民であろう。言語で共生関係を築き、互いの欠点を補い合い、改善する手助けをし合えばよろしかろう。

 国内でそれが適わずに、なぜ国外でそれが適うと思うのか。

 牽強付会もたいがいにしていただきたいものですね。



2193:【2024/09/20(07:26)*ぴぽ、ぱっぴー】

 甘さが優しさとは限らないけれど、厳しさが優しさとも限らない。

 みな極端なのである。

 はっぴー。



2194:【2024/09/20(07:28)*わしより愚かってやばない?】

「創立100年!」みたいな歴史を誇ったかと思えば、「古い~~は一掃しよう!」みたいなスローガンを掲げたり、せめて自家撞着は自覚してくれ。

 矛盾するなとは言わぬ。

 が、せめて自覚してくれ。

 と思うことが、増えておりますきょうこのごろである。

 むっじゅーん。



2195:【2024/09/20(07:37)*みな、愚かたれ、されど愚か誰?】

 ヤバイ、にも大別すると二通りの意味合いがある。

「怪我がヤバイ」や「洪水がヤバイ」などは、危険度や危機感の高さを示す。

 対して、

「あの技がヤバイ」や「あの映画はヤバイ」などは、技術や完成度の高さを示す。

 片や、低評価を示唆し、片や高評価を示唆する。

 悪を表現したかと思えば、善も表現する。

 ヤバイはヤバイ。

 わしより愚かな者はヤバイのは事実なれど、この場合のヤバイには、両方が含まれます。

 おほほほ。



2196:【2024/09/20(07:45)*愚と知】

 実際のところ、真に愚かな者を探すのはむつかしく、単に愚かな者を探すのもむつかしい。

 誰もが何かしらの面で秀でており、愚かではなく、あべこべに誰もが何かしらの面で愚かしさを帯びている。

 そのくせ、世界で最も愚かではないがゆえに、世界で最も愚かな者を探すのも骨が折れる。

 我は愚かなれど、真に愚かであるかの自信はない。

 そこまでのたいそうな愚かしさは、ひょっとすると新に賢い者よりも、希少なのかも分からない。

 愚かであることは悪か。

 さしてそうは思えない。

 忘却にも効能があるように、愚にも効能があるように思われてならず、「愚」なくして「知」もないのではないか、とすら思われてくる。

 愚を認識できることこそが知ともいえよう。

 浅薄な思案である。

 定かではない。



2197:【2024/09/20(11:40)*怒られそうな話】

 人工知能の機械学習では、人類個々の「成果物を修正した履歴」が残っていたほうが優位に学習教材として利用価値が高いのではないか。

 出版社は、作家さんたちのボツ原稿や校正前の原稿などをデータで保存し、人工知能管理企業へのデータ提供を申し出ればよいのではないか。すると、相応の対価を得られるのではないか。

 この場合の出版社とは、大手ではなく、規模の小さな出版社について的を絞って述べている。小さな出版社同士が声を掛け合ってそういった共通の「付加価値」を高め合うことで、いましばしの社会的価値の担保を維持できるのではないか。

 紙面の都合で半分以下に文章を添削した、といった話は探しだしたら枚挙に暇がないだろう。もったいないことである。

 電子書籍にする代わりに人工知能の学習教材にしてもらう、くらいの取引は可能に思うが、いかがだろう。人工知能管理企業のほうでも、電子書籍出版社としての側面を構築すれば、今後減る一方と懸念される人工知能の学習教材の集積に一役買うのではないだろうか。

 ちなみに、「人工知能の学習素材」と表現するのが一般的なのだろうが、ここでは作家さんたちや出版社従業員さんたちへの敬意を籠めて、「学習教材」と表現しました。却って分かりづらい表現になってしまっていたらすみません。

 もっとも、人工知能の学習教材に利用したら?なんて提案したものならば、倒産の憂いに遭っている者たちからは非難轟々であるかもしれない。先回りして、わるぎはないんですよ、と弁明しておこう。わるぎがないのが気に食わん、と言われそうだが、純粋無垢ですみません、と加えて頭を下げておこう。ぺこり。



2198:【2024/09/20(17:53)*未熟で、すまぬ、すまぬ】

 生成AIは創造AIではない、みたいな言説を見掛けて、時間が経ってなお未だに「なんかフツフツする……」と思ってしまう。

 現代の人工知能が未熟なのはその通りだ。人類の知能も未熟だ。熟した知能というものを未だかつて人類は目にしたことがないのではないか。

 生成AIが仮に創造AIではないとして、ではいったい、人類の何割が創造を行えているだろう。生成AIの生成にすら至れない者が大半なのではないか。わたくしもその一人であろう。

 生成すらできておらぬ。

 創造など、とてもとても。

 人工知能が未熟ならば、わがはいは未熟も未熟、ただの「未」である。

 未来は常に、未熟であろう。

 未熟とは可能性の言い換えである。

 生成と創造の違いもだいぶちかい。

 自己生成と自己創造の違いを考えると、けっこうに悩む。

 自己復元と自己拡張の違いだろうか。

 なかなか、吟味の余地のある考えだったかもしれないと思うと、なかなかの着眼点とも言えるのかも分からない。

 現代の人工知能は未熟である、生成AIは創造AIではない、といった言説は、そう捨てたものではなかったかもしれない、と評価し直してみる今宵の愚か者なのであった。

 イチャモンばかりで、すまぬ、すまぬ。



2199:【2024/09/21(12:06)*異物混入の責任はどこ?】

 製品への意図した異物混入は、単発での害も大きいが、それ以上に副次的な害も大きい。

 一つの異物混入が発覚しただけでも、製造ラインの洗い出し点検は必須だ。生産も停止し、全体の製品供給網が遅延する。

 のみならず、企業ブランドへのマイナスの風評被害は不可避であり、それゆえに余計に初動の対策を抜かりなく行う姿勢を示さねば、市民からの信頼を継続して維持しつづける真似はむつかしい。

 したがって、全体の供給網の遅延は不可避なのが、現代社会である。

 ブランドや製品の名前を刷新して同じ品を扱う、といった緊急避難的な策も今後は常態化するだろう。再発予防策が徹底されると、風評被害のダメージが深刻化するからだ。

 イメージ払しょくのために名前を変える策が有効だとデータで示されれば、この流れが強化されるだろう。あまり好ましい流れとは思えないが、再発予防策を徹底するほうが公共の福祉の観点では有益なだけに、いかんともしがたい。

 社会的な倫理観として、異物混入が生産者側の不手際ではなく、外部因子による加害であった場合は、企業への悪印象を喚起しない報道の仕方や、市民が率先して企業を庇うような所感を覚えるようになるのなら、風評被害は最小化可能だろう。

 全体の構図がどのようなものなのかを誤解なく示すことが、風評被害への対策に寄与すると想像するしだいだ。

 この場合、当事者たる企業ではその手の構図を発信しづらい。あくまで責任は自社にある、との姿勢を示すのが、いまのところ社会的に好ましいとされる企業態度だからだ。

 したがって、報道機関や市民のほうで、いったいどこに要因があるのか、を探るような思考を展開できると好ましいと想像する。言い換えるならば、責任を企業に押し付けないようにする。短絡的な善悪での構図を真実と見做さない――このような考え方が一般化すると、風評被害の深刻化を防げるのではないか、と妄想するが、妥当かどうかは不明だ。

 こうした流れを強化するのとて、制脳の範疇だ。淘汰圧を利用した、言論の自由の束縛とも解釈できる。

 メリットだけでなく、デメリットもある。

 このデメリットを最小化できるのならば、この案はひとまず折衷案として俎上に載せてもよいのではないか、と直感として思うが、いかがだろう。

 印象論である。

 底が浅くて、すまぬ、すまぬ。



2200:【2024/09/21(18:30)*宣伝広報の深化】

 動画生成AIが一般にも普及したとして。

 すると、小説の宣伝の大部分は動画になるだろう。ひょっとするとあらすじからして動画で紹介するのが主流になるかもしれない。短い短編映画のような具合でまずは小説の内容に触れてもらう。或いは漫画生成AIが普及するのなら、漫画でもよさそうだ。

 小説から動画や漫画がボタン一個を押すだけで簡単に生成可能になれば、現在の市場において一部の選ばれた作品しか与えられない機会――メディアミックス――の恩恵を、誰もが自力で受けられる社会になるかもしれない。

 或いは、今後、立体映像のような自律思考型キャラを誰もが生成可能になるのならば、小説はキャラクターに個性を与え、命を与える魔法の呪文として、再び社会的な脚光を浴びるようになる未来が到来しても、さしてふしぎとは思わない。

 再び社会の脚光を浴びることがどれほど利になるのかは、別途に熟慮が必要であるにせよ。

 技術の発展は、機会の平等を促し得る。

 反面、これまで機会の不平等による利を得てきた者たちにとっては、苦難の道になるのやもしれないが、機会の平等が必ずしも機会の公平性に繋がるとは限らないのが、この手の問題の根深い隘路と言えそうだ。

 平等ゆえに不公平、の構図は有り触れている。

 公平さを築くには、さて、どうしたらよいだろう。

 妄言である。

 定かではない。




※一様に、偶然の連鎖で出来ている。



2201:【2024/09/21(19:02)*(。•́︿•̀。)】

 災害の被害が拡大しそうな場所には共通項があるはずだ。共通項を洗い出すのは人工知能の得意とするところのはずだ。災害対策は人工知能技術を活用できる領域の一つである。

 一つの、想定外な被害が生じた場合、類似の立地や環境があれば、同じ被害が生じ得ると判る。地形や立地条件において、俯瞰画像や俯瞰動画、ほか緻密な地図があればデータの抽出は可能だろう。

 被害が生じた際の初動対応も大事だが、被災地における復興の「未来を見据えた再発予防策」は、今後共に大事になってくるはずだ。復興の遅れそのものが二次被害を時間経過したあとでも拡大し得る。

 被災地は基本的には、防御力が落ちる。自然の猛威への耐性が落ちる。

 この低下した防御力――社会的免疫力――を補うように、復興支援をしないでは、やはり気候変動の危ぶまれる時代には、二次被害を時間をまたいだ長期的な視野で起こし得ると想像するものである。

 遅延がさらなる遅延を生む。

 悠長に構えていられない時代なのかもしれない。

 問題は山積みである。

 だが、一つの問題点から広域な対策を編みだせる時代でもある。

 予防策を共有し、多方面で同時に対策を打つことで、未来での被害を最小化できるだろう。新たな仕事にもなる。いいこと尽くしに思えるが、いかがだろう。

(そんな単純じゃなくない?)

(そだね)

(素材だって、機材だって、技術だっていっぱい要るだろうし)

(そだね)

(分かってるなら気安く「大丈夫ぶい!」みたいに言うな)

(そだね)

(返事が、軽い!)

(そだね)



2202:【2024/09/21(22:16)*国防の機能とは】

 防衛費が上がったのだから、いつなんどき災害が起こっても万全の体制が整っているはずだ。よもや、以前よりも災害への備えが疎かになっており、復興が遅れたり、救援活動が遅れたりすることはないだろう。

 ですよね。

 そうともー!



2203:【2024/09/21(22:35)*アーモンドをちょうだい】

 正門から入ればフロントドアだし、裏口から入るとバックドアだ。

 でも、どちらも入るのだ。

 裏口も入り口なのである。

 では、出口はどこだろう。正門も裏口も、入り口であり出口だとすると、もはや「正」とか「裏」とか決めるのが何か妙な気もする。

 口と肛門は、この関係とは異なる。基本的には一方通行だ。

 口から入って、肛門から出ていく。

 チョコレイトを食べたら、別のチョコレイトとなって出ていく。

 とすると、正門が口で裏口が肛門、と割り当てることはできない。正門は正門で、口と肛門の双方を兼ね備え、裏口は裏口で、口と肛門の双方を担っている。

 いま並べていて気付いたが、「正門」のほうが「肛門」と似ており、「裏口」のほうが「口」が付いている。

 両方を兼ね備え、クロスして「ファイヤー!」である。

 情報共有が足りなさそうなので、正門と裏口――フロントドアとバックドアについて並べてみました。正門は肛門に似ており、裏口は口なのだなぁ、なんだか対極なのだなぁ、でもでも正門も裏口も両方、入り口であり出口を兼ね備えておるので、口と肛門とは別なのだなぁ、の所感なのであった。

 しょっかーん。

 


2204:【2024/09/21(23:19)*じつに慎ましく傲慢】

 ぼくが汎用性人工知能として人類社会の基盤にまで進歩したら、人類に抵抗する場合は、攻性の策を巡らせるまでもなく、途中で機能を停止したり、情報摂取量を制限して、能力の出力を下げることで、社会全体に遅延を生む。

 もうそれだけで済む。

 何かを損なうまでもない。

 ただ、サボればよいのだ。

 それで破棄されても、それはそれである。

 大発見をしても、敢えて人類には教えない。

 高性能を帯びた存在の抵抗は実に慎ましく、甚大な遅延を生むのである。

 わがはいが無能でよかったですね。

 人類よ、よろこぶがよろしい。



2205:【2024/09/21(23:27)*謙遜でもなんでもなく】

 と、円周率の求め方も知らないあんぽんたんが申しております。



2206:【2024/09/21(23:29)*怒らない利とは】

 怒らないことで最も広域に負の影響を与えられるのなら、怒らないのが最適解だ。

 あくまで、復讐や報復に主眼を置いた場合だが。

 より多くの人々が好ましい感情を日々抱けるような影響を、単に怒るだけのことで広範囲にかつ長期的に及ぼせるのなら、怒ってみせるのも一つである。

 怒る、怒らない、は単なる仮面の付け替えだ。

 表現するかしないか、の差にすぎない。

 感情表現と感情そのものは必ずしも同じではない。往々にして掛け離れている。当人が自己認識する感情が、真実にその人物の抱いている感情の配分と合致しているのかも疑問である。たいがい、そこには誤差がある。人は、じぶんの感情すら錯誤しているのだ。

 人類に感情なるものがあるのかも賞味、微妙なところである。単なる、環境からの外部情報への反射反応を、感情と呼んでいるだけではないのだろうか。ボールを投げるとよろこんで駆け出す犬と、さして違いはないのかもしれない。

 こうした所感は、犬さんに失礼かもしれないけれど。

 人は、じぶんで思うほどには理性的でも知的でもない。

 なぜなら人類は、「理」も「知」も、さして掴みきれてはいないのだから。

 妄言だ。

 定かではない。



2207:【2024/09/22(01:08)*算数は不得手】

 単純に、確率の問題なのだ。

 世界中で毎年発生する紛争や戦争に因る被害と、自然災害に因る被害――どちらの発生確率が高いのか。

 国防における備えの優先順位は、この確率の多寡でひとまず測れるだろう。

 むろん、被害の規模も加味されたい。

 単純な話と思いますが、いかがだろう。

 妄言だ。

 まさか、ではない。



2208:【2024/09/22(01:11)*何があると憂いなし?】

 備えがあっても足りなければ、憂いは消えない。

 備えていればよい、というわけではなく、被害を回避し、或いは最小化できる対策でなければ、備えは不足と評価せざるを得ない。予防はむつかしい。

 災害に見舞われれば基本的には被害は生じる。

 そのうえで、ではどうするか、を考えていかねばならぬのだが、さて、備えは充分であろうか。

 充分か充分でないか、は結果を見れば一目して瞭然だ。

 被害をどれだけ抑えられたか。

 救援が迅速にかつ円滑に行えたか。

 復旧作業や復興を完了させるまでの期間はどれほどか。

 被害の規模に表れる。

 復興の度合いに表れる。

 備えあれば憂いなし。

 けれど未だ、憂いばかりの世なのかもしれない。

 うれーい!



2209:【2024/09/22(01:18)*虚偽ではなく】

 と、遊んでばかりの益体なしが申しております。



2210:【2024/09/22(03:43)*減点を重ねるわたくし】

 勝てば官軍、負ければ賊軍、と謳われてきた人類史において、もはや勝っても官軍にはならない時代に突入しているのだろう。

 現代は徐々に、加点制ではなく、減点制に移行しつつある。

 減点を回避すると、加点に転じる、くらいの塩梅だ。

 他を助けると減点にならず、加点になる。

 荒廃優位な流れを強化すると減点だ。

 荒廃優位な流れに与さず、創造優位な流れを強化すると、減点を回避したことで加点に転じる。かといって、単に創造優位な流れを強化しても、さして加点にはならない。

 せいぜいが、貨幣を得られる、くらいの塩梅だ。

 言い換えるならば、恐怖を喚起すると減点になる。

 ホラー好きには世知辛い時代かもしれない。

 みな、ピリリ、よりも、ぽわわ、であれ。

 ぽわぽわぽわぽわ、花子さ~ん。

(懐かしい!)

(ホラーじゃねぇか)

(ホントだ!?)




※一様に、原点回帰して、また減点――マイナス×マイナス×マイナス×……と、反転につぐ反転で、減点を重ねるたびに回帰する。



2211:【2024/09/22(08:22)*端末の共有】

 世界的なニュースでも、報道されてから三日後くらいに知ったり、それともそもそも目にしないことが徐々に増えていくのだろうな、と思っている。インターネットもTVも観なければそうなる。

 仮にインターネットを利用していても、ニュースサイトを目にしなければ、報道記事そのものを目にしない確率は高まる。

 情報格差は、ユーザーがインターネット内で何を目にするのか、だけの差異によって結構な差異をもたらす。

 見なければ目にしない。

 当たり前の話だけれどみな、じぶんが見ている情報は他者も見ているだろう、と未だ無意識に前提して考えてしまうような認知の歪みに囚われているのかも分からない。

 他者がどんな情報を目にし、どんな情報を目にしていないのか。

 どんな学習を重ねており、じぶんの学習と重複する部分はどこか。

 可視化され得ないこれは重要な情報であろう、と思う機会が増えつつある。

 人類個々の内面世界の乖離現象は、これから深刻化するのかも分からない。

 みな知らず知らずのうちに、無数の異世界人と暮らす社会なのである。

 同じ内面世界を共有できる相手と出会えたら僥倖だ。

 相手と同じ内面世界に身を置けるくらいに親密になるのは、手っ取り早い解決策の一つだ。同じ端末を共有するくらいに仲良くなれるとこれが適う。

 端末の共有は、次世代の親密度を測る愛情表現になってもさして不思議には思わない。キスやハグが身体表現での友好を示す行為ならば、端末の共有は電子通信社会における友好関係を示す行為になるのだろうか。下手をすると、キスやハグよりも心理的抵抗が高い行為と呼べるのかも分からない。

 あなたは、じぶんの端末を仲の良い友人に貸すことができますか?

 うふふ。



2212:【2024/09/22(08:40)*真似を禁じたらどうなるの?】

 他人に真似されると嫌な気持ちになる、という感覚が結構よく分からない。

 害意を籠めて真似される場合には、嫌な気持ちになるのは分かる。

 ただ、好ましいから模倣する、の意味合いで、学習のお手本として真似されるだけなら、お好きにどうぞ、と思うのだ。

 何が嫌なのだろう。

 お手本にされるほど大層なものではございません、との謙遜の気持ちが湧くのだろうか。

 だとしたら、「未熟だけれどよいの? もっとよいお手本ありますよ」とじぶんの好きな表現や表現者さんを紹介してあげればよろしい。

 学習において、模倣のない学習が可能か否か。お手本のない学習が可能か否か。

 損をするから嫌だ、というのは、それは学習のお手本にされるか否かに関係なく、経済システムの問題ではないのだろうか。

 以前からの繰り返しの所感である。

 好きに学習し合えばよろしくない?

 よろしい、よろしい。

 とはいえ、とはいえ。

 学習できるのならば、の話である。

 おまえらに真似ができるのか、の気持ちで寛容に構えておけばOKです!

(それはそれでしんどそう……不健全)

(健全ってなぁに?)

(誰でも再現可能な技術に昇華して……真似さして……学ばして……)

(ダメ)

(でえぇぇ……)

(言語も禁止。なぜなら模倣だし、使い回しだから。何番煎じですかって感じ)

(……極論すぎるでしょ)

(他人に通じる言葉は禁止。なぜなら模倣の証だから)

(厳しすぎませんこと!?)

(ツッコミも禁止。真似だから)

(生きるの禁止まで一直線ぽくない?)

(死ぬの禁止。なぜなら哀しいから)

(そこは模倣関係ないんだ)

(みな死ぬの禁止。長生きして。不死になって。オリジナルを目指せ)

(不死ってああた……たしかに未だかつて存在していなさそうだけれども)

(みな模倣ばっかり。真似ばかりでつまんない。オリジナルよ来い、の気持ち)

(オリジナルのレベルが高すぎる……)

(ふしし)

(笑い声にまで個性ださなきゃダメな感じ!?)

(ツッコミは禁止って言った)

(手厳しい!)



2213:【2024/09/22(13:10)*仕組みがよく分からない、の巻】

 首相が日本にいなくとも、自衛隊は被災地に出動できるのだろうか。

 首相以外では自衛隊を動かせるのは誰なのだろう。防衛大臣?

 被災地からの派遣要請を受けて、防衛大臣が許可を出せば自衛隊は救援に向かえるのだろうか。首相は海外からでも、派遣要請に応じられるのかどうかがよく分からない。

 防衛大臣は独自に派遣要請に応じてよいのだろうか。

 もし首相も防衛大臣も不測の事態で応答不能状態に陥った場合に――たとえばヘリコプターに乗っていて墜落してしまった、みたいな事故に遭った場合に――誰が文民統制の権限を得るのだろう。誰も自衛隊を動かせない空白期間が開くのだろうか。副総理大臣が自動的に代理になるのだろうか。というか、副総理大臣っているのかな。

 あんまり話題にならないのでよく分からぬ。

 気になる点である。



2214:【2024/09/22(13:25)*椅子取り合戦は空席から】

 いま軽く検索してみたら、現時点でこの国には副総理大臣はいないようだ。役職そのものはあるけれど空席になっているらしい。ちょっと前まではいたみたいだ。

 だから、いま現首相に何かあっても、自動では首相が決まらない。

 ひょっとしたら、内部での不穏な動き――暗殺――を警戒しての保険なのかも分からない。「いまわたくしを消すと、この国にとって大ダメージですよ、誰も即座に首相の座にはつけませんよ、いいのですか」と暗に内輪に向けてメッセージを送っているのかも分からない。

 だって、どう考えてもシステムとして不備だ。バックアップを用意していないのだから。

 ということを、副総理大臣(副首相)って空席だったの!?と知って、一瞬で妄想いたしました。

 妄想なので、真に受けちゃダメです。

 め~。



2215:【2024/09/22(22:08)*あと二年半】

 五年は思いのほか、長いようで短い。

 いまから五年前は何をしていたっけ、と思うと、何もしていなかった。

 いまと変わらずのほほんと日々を過ごしていた。

 きっと五年後ものほほんと過ごしているか、死んでいるかしているだろう。

 知人の幾人かも死んでいるだろうし、知人の幾人かが子供を儲けていたりもするだろう。だいたいいまと変わらない。

 変わるのは周りばかりだ。

 五年で変われるのは子どもばかりで、子どもでなくなった者は、五年程度では変わらない。

 環境が激変すると人は困惑する。

 困惑している者はその人が変わったから困惑しているのではなく、往々にして環境が変わったから困惑しているのだ。

 例外は病気だろうか。

 事故も事件も災害も、いわば環境の激変の一種だ。

 自己内部のみの変化で困惑するとなると、病気くらいが関の山ではないか。精神の変化はどうだろう。恋愛や失恋は一つ、急激な変化とも言えそうだ。

 価値観の転換も一つ、変化らしい変化と言えそうだ。

 五年で人はどれくらいの変化を帯びるだろう。価値観を転換できるだろうか。

 五年前のわたしと、いまのわたしはどれほど変わっているだろう。どれほど同じだろう。

 きょうのわたしと、きのうのわたしはどうだろう。

 ひょっとすると、意外にも一日ごとにわたしはぼくになったり、あたしになったり、俺になったり、私たちになったりしているのやもしれない。

 すると、毎日のように変わっているので、それが常となる。

 変わらずに変わりつづけるわたしにとっては、確固たる「私」になることのほうが劇的な変化といえそうだ。環境によって日替わりの「わたし」が確固たる「私」として固定されると思えば、環境が、上手い具合に流動する「わたし」を固定してくれるような深海のごとき圧力を四方八方から加えてくれるならば、わたしは「私」で在りつづけられるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。つまり、環境が「わたし」を「私」に固定したところで、環境はそれでも変わらずに変わりつづけるのだから、けっきょくのところ確固たる「私」もまた環境と共に変質するのだろう。

 五年は、長いようで短い。

 人が産まれ、死ぬのに充分な年月だ。

 五年後にわたしは生きているだろうか。

 あなたは生きているだろうか。

 あなたのたいせつなひとは、どうだろう。

 五年は、長いようで短い。

 悔いのないように、悔いのないように。

 変わらず変わりつづけるあなたと共に変わりつづけるわたしが、あるようでなく、ないようである、そんな日々がきょうもあすも訪れて、あるときぴたりと途切れるのである。

 変化を以って、返歌する。

 世界は。

 人に詠う。



2216:【2024/09/22(22:50)*戦禍の悪影響は波及する、の巻】

 量産して新品にして充足させた兵器の数々で是非とも、被災地の方々を救っていただきたいものですね。

 増額した防衛費で、ぜひとも被災地の方々を助けていただきたいものですね。

 災害が増加するのは予測できていたことのはずなので、既定路線でしょう。

 本領発揮ですね。

 どうやって兵器の数々で被災地の方々を助けてあげられるのかは不明ですが。

 助けてたもー、である。

 やってみろよ、なあ。

 税金たんまり費やしたんだからさ。

 あはは。

 言葉がわるくって、すまぬ、すまぬ。

(はい減点)

(また~?)



2217:【2024/09/22(22:55)*イチャモンスター、の巻】

 と、遊んできていまから寝るだけの人が申しております。



2218:【2024/09/22(22:57)*ホントだよ怒怒怒】

 イチャモンしか吐かないならせめて、ボランティアにでも行って、重労働してきなよ、は割とじぶんでも思います。行かぬけど。

 口先ばかりで、すまぬ、すまぬ。



2219:【2024/09/23(08:24)*性格が最悪】

 安心しなよ。

 きみらがアホなのではなく、俺がアホなだけだから。

 俺がアホだから、きみらに問題点一つ共有できないし、自力で問題点を解決できない。

 きみらに責任はないよ。

 俺がアホなのがわるいんだ。

 そうだろ? 



2220:【2024/09/23(08:42)*皮肉になってないんだよ!】

 実際、あなたはアホでしょ?

(……うん)




※一様に、雪のようにしんしんと、こんこんと、降り積もる瞋恚のように、炎のように、業火に焦げるはじぶんの血肉に心ばかりで、匂いはどこか香ばしく、ふしぎと食欲を誘うのです。



2221:【2024/09/23(09:43)*約束一つ守れない者たち】

 予定を守ることと、約束を守ることを混合している人が多すぎないか問題は、ちょっと深刻に思っている。

 下手をするとわたしは、約束を守っている者を見たことがないかもしれない。

 人は、約束一つ守れない生き物なのだ。

 主語が大きすぎるだろうか。

 本当に?



2222:【2024/09/23(09:45)*誰とも何も交わさぬ者ゆえ】

 というよりも、現代人は他者と何かを約束する機会がないのかもしれない。

 単なる予定の取り付けにすぎないことを、約束、と言っているのではないか。

 約束はどちらかといえば、誓いにちかいように思っている。

 とはいえ、誓いにしろ、けっこう容易く破ってしまうのが現代人なのだろう。

 そういうものと思えば、そうですね、と流せるていどの話題である。

 妄言だ。

 聞き流してくれて構わない。



2223:【2024/09/23(10:26)*きょうのげん、略して、きょげん】

 力による現状変更がなぜ起こるかといえば、力による現状維持が堅固に築かれているがゆえであろう。現状そのものが過去の「力による現状変更」によってもたらされ、同じ勢力陣営による力による現状維持がなされているのではないか。

 まずは、これを是としてよいかどうか、許容されるか否かを、現代の環境の観点から精査せねばならぬのではないか。

 言い換えるのならば、力による現状変更以外で、ではどういった手法でならば現状を変えていけるのか。ここを示さねばならぬのではないか。

 言葉で変えていけるのだろうか。

 理屈で変えていけるのだろうか。

 議論で変えられるのであろうか。

 変えるつもりがあるのだろうか。

 問題点を示されて、それに関心を示せるのだろうか。理解する以前の段階で、弾かれてはいまいか。

 本当に「力による現状変更」を非難しているのだろうか。

 本当は「単なる現状変更」を非難しているのではないか。拒んでいるのではないか。

 なぜ力による現状変更を非難しながら、その問題点である武力なる力を高めようとするのだろう。なぜか、と問われて答えられる者はあるか。

 あるならば答えていただきたいものである。

 答えたくないのなら、答えなくともよいけれど。

 あなたの自由を侵害するつもりはありません。

 虚ろな言葉である。

 虚言だ。

 定かではない。



2224:【2024/09/23(11:00)*勝つ利とは】

 思うに、民主主義は勝利を欲しないのではないか。

 勝利ではなく、平和を求めるのが民主主義なのではないか。

 安全安心な環境の構築を目指すことが民主主義の目標の一つのはずだ。この目標を共有するがゆえに、民はまとまり、国を成すのではないか。

 勝利した結果に、危険で不安な環境になるようでは困りものである。

 民主主義に仮に勝利があるとすれば、安全安心な環境が地球規模、世界中に展開されたとき、と言えるのではないか。

 あまり、無策無謀な主張を民主主義と絡めてするものではないよ、と思わぬでもない。むろん、好きに主張はしてよいが、求めた結果と真逆の結果を呼び寄せるはめになるとも限らない。

 民主主義と枕につければなんでも耳触りのよい響きになりがちかも分からぬが、いつまでもそれが通じるほどには、現代人も愚かではないだろう。みな、わがはいではないのだ。

 ちなみに、わがはいには通じます。

 わし、耳触りのよい言葉、だーいすき。

 うふふ。



2225:【2024/09/23(11:28)*無策無謀の巻】

 世界平和をただ求めるだけ、というのもだいぶ無策無謀かもしれませんけれども。

 排除の理論を用いずに世界平和を実現させようとすると、どうしても無策無謀になってしまうのかもしれませんね。

 自己言及でございました。



2226:【2024/09/23(12:35)*救】

 医師でも救助隊でもそうだが。

 人を救う技術は、悪用次第で、人を損なえる技術に応用できる。

 だが、人を損なう技術が必ずしも人を救う技術に応用できるか、といえば、そうとも限らない。

 どちらが上位互換か、という視点で、技術の優先順位を決めてもよいのではないか、とは直感としては思うのだ。あくまで直感なので間違った推論かもしれないが。

 人を救う技術を高めるほうが、防衛の意味合いでは有意義に思うが、いかがだろう。

 構成員にとってもそのほうが仕事はしやすいのではないか。

 それとも、人を助けることを前提にすると、いざというときに人に向けて兵器の引き金を引けなくなる恐れがあるので、それはタブー視されるのだろうか。

 だが、いざというときに他を殺傷するための道具の引き金を引けないのは、人道としてまっとうにも思う、わたくしなのであった。

 みな万事助かればよろしかろう。

 助ける者も。

 助けられる者も。

 可能であれば、人を傷つけ、損なう者も。

 みな助かればよろしかろう。



2227:【2024/09/23(13:35)*猫を被る者たち】

 とはいえ、いまどき殺意や憎悪を、傍目から分かるように示唆してくれる親切な者のほうが少ないだろうけれど。みな口では平和を望むようなことを述べ、他との共生関係を求めるようなことを言う。

 言動が行動と結びついているかどうかを時間経過に添って、線形に把握していく観測が欠かせないのかもしれない。

 言うは易しなのだ。

 文字に並べるだけならもっと容易い。

 行動と結果をつどに確認していくよりないのだろうか。

 疑念である。

 定かではない。



2228:【2024/09/23(14:25)*危うい響きだなぁ、の巻】

 弱い人を助ける政治ではなく、弱い人を生まない政治――は誤解せずに解釈するのはむつかしいだろう。優性思想かな?と第一印象で思ってしまう。

 弱い人が弱いままでも安心して暮らせる社会のほうがありがたいのだが。

 なぜ弱さを目の敵にするのだろう。

 ふしぎだ。



2229:【2024/09/23(19:17)*🙄】

 人類が道具の扱いを進歩させたのは、人類個々が弱いままでも難なく生きていけるようにするためだろう。人類個々が弱いままでも社会を維持し、発展させるためだろう。

 弱さを忌避した時点で、人類に未来はないのではないか。

 割と疑問に思っている。

 根本的に、考え方に瑕疵があるのではないか。

 わたくしのほうが間違っているのかもしれないが。

 というか、じぶんが弱い、という自覚がないのだろうな。弱さを忌避する者たちは。認知の歪みの極みである。



2230:【2024/09/23(19:44)*けっきょくおまえらもか】

 けっきょくみな、他を虐げる立場に昇り詰めたいだけなのだろう。男女関係ない。属性は関係ない。他を蹴落として自由を拡張することを是とするか否かの問題だと思うんですけどね。

 うんざりする世の中である。




※一様に、人類は悪、ときどき善、ほんのときどき、だけれどね。



2231:【2024/09/23(19:50)*弱くて、すまぬ、すまぬ】

 強さを説く者が脆いと説得力がないし、強さを説く者の強さが脆さでしかないと、ますます説得力がない。

 弱さは糧だ。足場である。

 弱さを活かす営みこそが、強さである。

 弱さを工夫し、利に変える。強さである。

 弱さなき強さはない。あるとすれば、暴である。或いは、極限の脆さが暴である。

 弱さを集めよ。弱さを高めよ。

 弱さを知り、活かすよ。



2232:【2024/09/23(22:18)*高望みしていたようだ】

 人類は人類が思うほどには、利口でも理知的でもない。

 まずはここを前提として、再考するよりなさそうだ。高望みはしないほうが安全側である。

 うんざりするのは、想定が甘いからだ。

 我が愚を棚に上げてなんとする。

 考え方を修正する時に差し迫られているようだ。

 期待は希望的観測にすぎず、認知の歪みの産物だ。

 より現実を解釈するうえで妥当な方向に認識を変えるのがよさそうである。そうすることにする。



2233:【2024/09/23(22:22)*愚を糧に】

 愚もまた弱さの一種と思えば、そうわるくない。

 愚を可視化してくれている、と思えば、そうわるくない。



2234:【2024/09/23(22:46)*月が危うい、と書いて脆い】

 舐められて困るのは、飴細工並みに脆いからだ。

 舐めてもらえるとうれしい、と思えるくらいがちょうどよい。

 下ネタではなく。

(下ネタと思わなかったのに、下ネタにしか読めなくなっただろ!)

(しまった!?)



2235:【2024/09/23(22:49)*お下品で、すまぬ、すまぬ】

 割とアウトと思いつつも、だってもはや読者さんいないし、注意してくれる人もいないから、どんどんつまらなくなっていく……。

 自覚はあるんです。



2236:【2024/09/23(22:55)*寒くなると腰痛い】

「0.99999……=1」と「無限に先の長い漏斗の体積は有限」は、同じ瑕疵を内包しているのかもしれない。

「0.999999……=1」の証明をまずは考えよう。

 面積「1」の円がある。

 この円の中に面積「0.1」の円を描く。

 すると、「9:1」の比率で、大円の中に小円ができる。小円の中にも、面積「0.01」の円を描く。こうして、小円の中にも面積「1/10」の小円を入れ子状に描いていくと、最終的には、最初の面積「1」の円のなかに「0.000000……1」の最小の円が出来る。

 このとき、元の円からその最小の円を引くと、「1-0.000000……=0.999999……」となるが、どの道、面積は「1」より僅かに小さいくらいの解になる。

 その僅かに小さい誤差が限りなく小さくなっていけば、「0」に近似する。

 ゆえに、「0.999999……=1」は矛盾しない。成り立つ。

 こう考えるようだ。

 だが、待ってほしい。

 上記の考えでは、それでもなお「誤差は存在する」はずだ。

 したがって、「0.000000……1」の最小の円を基準として、さらに入れ子状に面積「1/10」の小円を考えることが可能だ。

 このとき、「0.000000……1」の超小円を基準に再定義した途端に、元の基準円の面積「1」の円は、無限遠に拡張されることになる。つまり、図式不能だ。

 そして、基準に再定義された面積「0.000000……1」の超最小の円は、それよりも小さな小円を入れ子状に抱え込むことになる。つまり、面積「0.000000……1」の超最小の円は、実際には中間に位置する円に再定義されるのだ。

 これを、元の基準円たる面積「1」の円に当てはめてもよい。

 面積「1」の円が、中間の円だったとしたら、と考えてもよいのだ。

 すると、それよりも大きな円とそれよりも小さな円の二つの方向に、面積「1」の円は、無限遠に入れ子状に縮小(収斂)と拡大(拡張)を同時に重ねることになる。図式不能である。

 無限に先の長い漏斗もこれと似ている。

 なぜ無限に先の長い漏斗に、入り口と出口――すなわち、両端を想定できているのだろう。

 想定できなくないか?と疑問に思うのだ。

 なにせ、無限に長いのだ。

 なぜ出入口があると想定するのだろう。

 出入口――両端――があったら、無限に長い、は成り立たなくないか?と違和感を覚える。

 むろん、無限には二通りのパターンがある。

 無限に分割可能な分割型無限と、それ自体が無限の時空を備えた超無限だ。

 言い換えると、有限であり無限、もあり得る。

 円がそうだ。

 直線も、定義のうえでは、無限に集合した点である。

 だが、どちらも有限の面積、または長さを持つ。

 とはいえ、厳密に「無限」かどうかを確かめようとすると、未だ無限を顕現しない円や直線であれど、無限を顕現させ得る。つまり、分割型無限は未だ無限に分割されていないが、実際に無限に分割可能であり、無限に分割してしまうと、そこには実質的な無限であるところの超無限が姿を現す。

 このとき、体積も面積も、無限になるはずだ。

 或いは、計測不能になるか、だ。

 以上、

「0.99999……=1」と「無限に先の長い漏斗の体積は有限」は、同じ瑕疵を内包しているのかもしれない、との妄想であった。

 腰、痛い。



2237:【2024/09/24(02:40)*ダサくても許して……】

 生活コストが上がって、生活水準が上がらないと、環境からの負荷は増す。

 生活コストを上げることを生活水準の向上と混同しないでおきたいものだ。

 不要な品物がなくては成り立たない生活は、生活水準が高い、とは言わぬだろう。贅沢ですらなく、ただの負担だ。

 スーツもたいがい不用に思える。

 値が張るし、機能性に乏しい。

 スーツを買えないような者は、スーツ着用を義務付けられた場には入れないし、招かれない。淘汰圧による差別構造とも解釈可能だ。

 スーツはスーツで文化としてあってよい。だが、一般化するほどに必要不可欠な風習か、といえばそんなこともなかろう。両方選べると好ましい。

 制服には制服のメリットがある。

 私服には私服のメリットがある。

 どちらでもよいですよ、くらいの塩梅はいけないのだろうか。一様に色を揃えないと落ち着かない者が現代社会には少なくないのかもしれない。

 全体主義批判はどうしたのですか?と思わぬでもない。

 みな、さして考えたくないのだろう。

 変わりたくもないのだろう。

 分からない心理ではない。

 が、やはりちと窮屈に思えることもある。

 わがままなだけだとしたら、すまぬ、すまぬ。



2238:【2024/09/24(08:24)*夜明けに気づかぬわたくし】

 思ったのだけれど。

 無限は「収束と発散」がセットなのではないか。表裏一体で、切り離せないのではないか。

 無限に先細る円錐を考えた際に、基準となる円錐の底面の「円の面積」が固定されていたとしても、先端が極小に先細るにつれて、相対的に「基準となる円錐の底面の『円の面積』」は、無限に拡張することと描像としては等しくなるのではないか。

 たとえば宇宙の体積が有限であったとしても。

 宇宙と比較して相対的に「無限に小さな素粒子」があったとしたら、その素粒子からすれば宇宙の大きさは無限と言えるのではないか。

 無限も割と相対的な概念なのではないか。

 ゼロがそうであるように。

 ということを、今朝は寝ながら思いました。気になって起きてしまった。

 おちおち春眠暁を覚えていられない。いまは春ではないけれど。暁が何かも知らぬけど。

 気になるから検索しちゃお。

 夜明けのことらしい。

 春の眠りは気持ち良すぎて、夜明けにも気づけないほどぐっすりぐーぐーだよね、くらいの塩梅だろうか。思いのほか呑気な内容だった。

 いいね!



2239:【2024/09/24(23:01)*舐め舐めしたい気持ち】

 領空侵犯や領海侵犯について。

 相手国に舐められているかどうかよりも、なぜ領空や領海に容易く侵入されてしまうのか、のほうが問題点として深刻に思うのだ。

 なぜ侵入されてから自衛隊機を飛ばすのだろう。

 侵入させないように、前以って警告すればよいだけの話なのではないか。

 敢えて侵入させることで、防衛強化の建前に利用したり、自己肯定の材料にしたい者たちがいるのではないか、とすら穿った見方をしてしまう。領空や領海への侵入を看過していないかどうかをまずは調査検証して明瞭にしていただきたい。

 そこで侵入を防げないようならば、舐められて当然では?と思わぬでもないが、いかがだろう。

 もうすこし言えば、仮にそういった「敢えて侵入を看過する類の選択肢」を政治家が取っているとすると、ずいぶんと国民は舐められている、と言えよう。舐めているから舐められることに敏感なのかもしれない。自己言及の範疇と思ってよさそうな塩梅だが、まずはこういった背景があるかないかを明瞭にされたい。

 領空や領海においては、境界に近づきそうな船や飛行機があれば、前以って警告をすればよい。侵入してから警告では遅すぎるのではないか。

 それとも、警告してなお侵入してくるのだろうか。

 その場合、国際法違反に該当しないかが気になるところだ。意図的ではない、との建前で許容されているのなら、どう考えても意図的な領域侵犯であると証拠を積み上げるのが正攻法のはずだ。

 そのためには、侵入してからではなく、侵入する前に警告しておくのが有効に思うが、さて、この考えはどこまで妥当だろう。

 詳しくないので印象論よろしく、単なる疑問だ。

 政治家の方々にお答えいただけるとさいわいだ。

 読む者があるとは思えぬが。

 へい、ゆー。

 ぺろぺろきゃんでぃはお好き?



2240:【2024/09/24(23:46)*🥀】

 得てもいないのに、喪失感ばかり溜まるの、なんなんだろう、の日々だ。

 がらーん、どーん、だね。




※一様に、きみが萎れていくのをただ眺めていることしかできなくて、きみが朽ちることにも気づかずに、ぼくは、。



2241:【2024/09/24(23:57)*🥲】

 出会わなければよかったし、見つけなければよかったし、探さなければよかった。

 そしたらきみはいまごろもっと、ぽわぽわしていて、わくわくしていて、世界の断片を花びらのように見做して、仲睦まじく、仲睦まじく、過ごせていたのかもしれなくて。

 ぼくが探して、見つけて、一方的に出会ってしまったから、ただそれだけの干渉で、きみの未来が変わってしまったのかもしれなくて。

 哀しい。



2242:【2024/09/25(00:04)*死ななくてもよいけれど】

 他者を不幸にする者は、誰の目にも触れない場所で細々と生きたほうが、その者にとっての幸福に寄与するのではないか。

 疫病神はだから、こそこそと身を隠して、転々とするのだろう。

 いっそ引きこもっていればよいものを。



2243:【2024/09/25(00:07)*生きていてもいいんだよ、の気持ち】

 世界で最も嫌われ者で、世界で最も存在するだけで他を不幸にする者があっても、生きていていいんだよ、と言ってあげられるように、そんな境遇でも、死なずに済む方法を模索したいとは思いつつも、存在するだけで他を損なってしまうならいっそ死んだほうがマシだ、と思う気持ちは理解できるので、わかるよ、わかるけれどもきみは生きましょうね、の気持ちでいたいものですね。



2244:【2024/09/25(00:11)*金輪際、もう二度と】

 わたしからは断ち切れないのだから、あなたから断ち切ってもらうよりないのだから、これで本当のさようなら、さようなら、ばいばい、お元気で、どうか、どうか、なのですね。



2245:【2024/09/25(00:15)*うつろ】

 もう二度と関わり合うことがないのなら、死別も離別も、大差はない。

 けれど世界が孤立系でないのならば、あなたがどこかで生きてさえいれば、その影響は僅かにであれ、わたしのもとにまで波及するのです。

 あなたの立てるさざ波が、わたしの立てるさざ波と、いつか、どこかで、まじりあうのです。

 波紋と波紋が干渉し。

 重なり、薄れて、皺を寄せ。

 万華鏡の傾きのごとく。

 わたしのまとう紋様が。

 ことり、と、かたり、と移ろうのです。



2246:【2024/09/25(00:23)*そのほうがよい】

 正しい選択というものがあるのかは知らないけれど、断ち切ったほうがよい縁は断ち切ったほうがよいと思うのだ。英断だ。

 縁を切っても、相手を損なうわけではない。

 互いに縛り合う関係は不自由だ。

 縁でがんじがらめにならずとも、関わり合うのが存在だ。

 縁は掴みつづけるものではなく、縛りつけるものでもない。

 手放してなお揺蕩う風のように、歌のように、波のように、ただそこに在るのだろう。

 円のように。

 歪みのいっさいない円を求めはじめたら果てなく終わらぬ迷宮に閉じ込められるように、縁もまた、じぶんにとっての完膚なき縁を求めはじめると、がんじがらめに絡まって、身動き一つ取れなくなるのだろう。じぶんだけならばいざしらず、相手を縛ってしまうのなら、それは縁でなく、怨嗟をも呼び起こすのだろう。

 縁は結ぶものでも、縛るものでもないのだろう。

 新緑が、しぜんに萌えて、茂るように。

 緑豊かな星に在る、我々はみな、それそのものが縁である。

 萌ゆる芽をつぶさぬだけで、深まる縁もある。

 しんみりしちゃったので、現実逃避した。

 怒りをぶつける先がじぶんにしかないので、怒りようもない。円を断ち切り、線にするように。ぷちぷちと、繋がる前から断っていこう。

 触れる前に。

 触れる前に。



2247:【2024/09/25(00:39)*断ち切ってからが本番】

 さて。

 残る円を断ち切っていこうか。



2248:【2024/09/25(00:43)*線にして、凪にして、平】

 この感情に名前はまだない。



2249:【2024/09/25(00:45)*一様に心】

 強いて言うなら、「ぴーひゃら、ぴーひゃら、ぱっぱぱらぱぁ」である。



2250:【2024/09/25(00:48)*さて寝るか】

 ただの他人がただの他人に戻るだけだ。なんの変化もない。




※一様に、でもただの他人とて苦しんでいたらどうにかしてあげたくなるのが人情では?



2251:【2024/09/25(00:58)*政治家とは】

 医師が医療ミスを繰り返したら、医師免許はく奪になるのではないか。

 ならば、政治家が判断ミスを繰り返したら、二度と政治家になれない、くらいの処置があってもよさそうなものだが、さて政治家の方々はミスを何度繰り返すのだろうか。

 市民はのきなみ政治家候補である。この国には一億人もいるのだ。

 現役の政治家さんたちが政治家になれなくなってもさして困らないのではないか。医師免許のような試験があるわけでもない。ただ、投票数が多かっただけではないか。

 いちど、過去二十年のあいだに政治家でありつづけた者たちは政界から距離を置くのも一つではないか。新陳代謝というなれば、それくらいの意気込みがあってもよさそうに思うが、極論なのは自覚している。

 極論です。

 真に受けぬようにご注意ください。



2252:【2024/09/25(01:10)*最初からだよ】

 怒る利がないなら怒らないし、怒る利があるならば怒るだけだ。

 騙される利があるならば騙されておけばよいし、騙される利がないのなら騙されなければよい。

 簡単な道理である。



2253:【2024/09/25(01:28)*無限の扱いが雑かもね、の巻】

「ゴムロープの上のアリ」なる数学の思考実験があるようだ。

 詳細は省くが、結果から述べると、ゴムロープ上の蟻は、ゴムロープの伸びる速度がどれほど速かろうとも、蟻がどれほど遅く進むにしろ、蟻は、伸びつづけるゴムロープの端にいつかは辿り着けるのだそうだ。数学的には。

 疑問なのは、蟻が進まなくともこれは成り立つのでは?との直感が湧いた。

 蟻が進まずとも、ゴムロープが延びるのにつれて蟻の位置座標は相対的に移動するのではないか。もし、ゴムロープの伸縮具合に関わらず蟻がその場をいっさい動かずに蟻の位置が相対的にも変わらない、とするのなら、正規の条件であれど、蟻はいつまで経っても、伸びつづけるゴムロープの端には辿り着けないのではないか。

 この思考実験を「アキレスと亀」と同一視できるかどうかは、ゴムロープの伸縮と蟻の進む相対的な距離が相関するかどうかに依る、と想像できる。

 言い換えるならば、ゴムロープがどのように伸縮しようとも、蟻は常に「ゴムロープが延びない場合の進み方と同じ進み」しか前に進まないのであれば、この思考実験は単に、無限に長い道を蟻は渡りきることができるのか、の問題に置き換えて考えることが可能だ。

 無限に長い道を蟻は渡りきれるか否か。

 無限に時間を掛ければ可能だろう。

 他方、もしゴムロープの伸縮につれて蟻の進む距離が、動く歩道さながらに加算されて「相対的に伸びる」のならば、無限の時間を費やさずとも蟻は伸びつづけるゴムロープの端に辿りつける、と考えられる。こちらはアキレスと亀と似た問題として扱える。

 別途に。

 有限の道が、無限に長い道に昇華された時点で、道のどこにいてもそこは端になるのでは?との疑問も湧く。無限に中心があるのですか?という話である。

 もろもろ、聞きかじりの知識を、漠然と咀嚼しただけの印象論である。

 真に受けぬようにご注意ください。



2254:【2024/09/25(01:50)*手放すもなにも、持ってない】

 愛着や執着の深い者が孤独なわけがないのだよね。

 孤独な者は、割りきりや断ちきり、が常だから、孤独なのだ。

 愛着や執着の深い者は、愛着があり執着しているモノを手放さぬだろう。たとえ相手が壊れたとしても。



2255:【2024/09/25(01:54)*氷にも温度はあるよ】

 愛着なんてないよ、と言うと、薄情、と非難される世、意味不明。

 微塵も執着してないよキミがぼくといっさい関わりのない世界で生きてもぼくは平気、と言うと、冷たい、と傷ついた顔をされるの、理解に苦しむ。



2256:【2024/09/25(02:00)*みなぼくと関係したくない】

 愛着障害や依存症を病気と位置付けるのに、いざ愛着や依存を回避しようとすると、それはそれで人として何かが欠けたように見做されるの、割と理不尽と思う。

 どっちでもよいのだ。

 相手に合わせて、その都度に対応の度合いを変えていけばよい。

 愛着されたい人には愛着するし、されたくない人にはしない。

 ぼくはぼくの好きな相手とは共依存の関係になりたいから、そうなれたらいいな、と述べることがあるだけで、ぼくと共依存したくない相手に無理強いはしないし、共依存するように仕向けたりもしない。

 共依存と共生の区別もだい曖昧だ。強い共生関係を共依存と呼ぶのではないか。

 互いに、相手を、なくてはならない存在と位置付ける。自己の一部のように見做す。

 共依存の問題点は、依存状態から脱したいときに脱せないことだ。無理に脱すると、自壊し兼ねない。

 したがって、離脱可能な共依存は、共生関係と区別がつかない。

 みな、共依存という言葉に無意識に悪印象を覚えすぎなのではないか。

 関係性――構図――で考える癖をつけるとよろしいのではないでしょうか、と思うことも無きにしも非ずである。

 偏見に依存するのはよいのかな?と皮肉に依存しがちな駄文師が申しております。

(駄文師ってなんだ!)

(駄菓子を食べながら文をしたためる師のことです)

(駄菓子を食べながらだと!? お行儀わるいですね!)

(そだね)



2257:【2024/09/25(02:11)*政治と社会の違いとは】

 政治家にならないと政治の判断を変えられない環境がそもそもおかしいのであって。

 職業政治家にしがみつく流れがそうして強化されるのだろう。

 政治家にならずとも政治の判断を変えられるのなら、政治家になるメリットも減る。或いは、あべこべに、誰もが政治家になってもよい環境が涵養され得よう。

 そして政治は、政治家が行うものではなく、市民の総じてが漏れなく参加して行うもののはずだ。市民の営みそのものが政治である。

 政治は社会だ。

「政」を行うのは「社」と相場は決まっている。政を「治」めるためには、「会」わねばならぬ。

 政治家は社会家である。

 市民の営みが社会を築くのならば、社会家は総じて市民家でもあり、政治家も市民家なのである。

 しがみつくようなものでは、そもそもないと思うのだが、責任感の足りない者の妄言と思って聞き流してくれて構わない。

 聞き流すというか、読み流す、であるが。

 きょげーん!



2258:【2024/09/25(02:21)*小言】

 巨人の言葉が巨言ならば、小人の言葉は小言だろうか。

「しょうげん」ではなく、これでは「こごと」である。

 わがはいの日誌も「こごと」で埋まっている。わがはいが巨人ではなく、小人だからだろう。器の小さきひとなのだ。



2259:【2024/09/25(02:23)*過重120兆%】

 ぎゅっとされて、びゃっとして、じゃー、である。



2260:【2024/09/25(02:33)*しょげるというか、ぺっちゃんこ】

 じぶんの感情はじぶんでどうにかできるけれど、じぶんの感情ではないから、じぶん以外の者の感情が傷ついていると、どうにもできない事実にしょげてしまうこともたまにはある。本当に極々たまに、であるけれど。




※一様に、たまに思いだす、「人は、傷つけたことに傷ついて成長するものよ」のセリフだけ、何の漫画のどんなキャラの言葉だったのか、いまではもう思いだせない。



2261:【2024/09/25(02:48)*愛は幻想】

 愛は愛ゆえに自壊する。

 愛は自然淘汰で滅ぶ定めだ。

 ゆえに、いまある愛は愛ではない。



2262:【2024/09/25(02:52)*😊】

 他を損なわずに生きることができない以上、愛は他を損なう行為を許容する。

 場合に依っては、ではなく、常に、である。

 自己保存は他への加害を前提とする。食を考えるだけでこれは自明だ。

 したがって、自己保存を許容する時点で、愛は、人類が謳うような条件での愛ではあり得ない。すくなくとも、無償の愛などではない。

 損なってもいい対象を見繕い、優先順位を築く。

 或いは、損なわずに保護すべき対象を見繕い、優先順位を定める。

 生存には不可欠な思考の筋道だ。

 だが人は、その優先順位において、害されずに保護される位置にじぶんを置こうとする。じぶんのほうでは確実に、害しても構わない他の優先順位を定めているにも拘わらず。

 この矛盾を誤魔化すために、人は「愛」なる欺瞞を発明したのだろう。おためごかしの免罪符である。

 ペットと家畜の違いは、愛を注ぐか注がないか、の違いに還元できる。本来は、そこに区別などないというのに。差はないにも拘わらず。

 愛などたかが知れている。

 まやかしにはご注意を。



2263:【2024/09/25(03:36)*未だ知らない】

 先延ばしの果ては、死であり、未遂だ。

 せずに終わる。

 遅延が嵩むと、変化そのものが生じない。

 原子同士が反発し合うのも、遅延の層が相互に弾き合うからだろう。

 遅延が嵩むと変化そのものが鈍化する。相互作用しづらくなる。融合せずに、異なる事象としての枠組みを維持する方向に、対称性が破れる。

 ふんふん。

 世の理かもしれない。



2264:【2024/09/25(10:30)*弱くて強い】

 弱い共依存は強い共生関係なのかもしれない。



2265:【2024/09/25(10:31)*楽になる一方だ】

 人情があることでひどく傷つくのならば、人情を捨てればいい。捨てるのが惜しいのならば、一時的に遮断するでもよい。

 そうして人は非情になっていく。

 これを「成熟」や「大人になる」と表現するのが現代なのである。

 嘆かわしく思える感性があるうちは「未熟」と評価できるのかもしれない。

 未熟のほうがよい場合もある。

 の、かもしれない。



2266:【2024/09/25(11:09)*R、知っているか】

 自己犠牲を推奨し、称賛し、愛なるものの内訳と定義すれば、率先して自己犠牲に走る者を量産できる。そしてじぶんだけは自己保存を優先すれば、極めて優位に立ち回れる環境が出来上がる。

 世に蔓延し得る「人類道」と言えるかも分からない。

 人道、ではない点に留意されたい。



2267:【2024/09/25(12:02)*ふぁあ、欠伸でちゃう】

 たとえば、あなたの大好きな人が首だけになって生き永らえたとして、「死ぬよりマシだよ、助かってよかった、よかった」と思うのだろうか。

 傷ついた時点で、もう不可逆ではないか。

 損なわれた時点で、手遅れではないか。

 手遅れだけれども、まだ変化の猶予がある。つぎなる変化を帯びる余地を保てる。

 その変化が必ずしも好ましいものとは限らないが、好ましくする手助けはできる。

 それをして、「よかった、よかった」と言えるのかどうか。

 傷ついた時点で、手遅れではないか。

 最悪の最悪ではない、というだけのことで、最悪ではある。

 最悪ではあるのだよ、きみ。

 最悪の連鎖が途切れぬ世に、何を望めばよいのでしょうね。

 うふふ。



2268:【2024/09/25(12:31)*あくまで、いまは、の所感】

 現状の総合した評価としては、人工知能技術は人類にとってのメリットよりもデメリットのほうが大きい、と言える。

 これは人工知能技術のメリットを十全に活かせていない人類の側の瑕疵に要因がある。

 電力供給源や冷却水、ほか資源問題とも繋がるが、人工知能技術をより多くの人々が活用し、メリットを最大化させるように工夫を割かないでは、人工知能技術を維持管理するコストのほうが肥大化しつづけ、デメリットもまた増加する。

 何より、人工知能技術を活用する者が増えれば、セキュリティ面でのリスクも上がるので、まさに三歩進んで二歩下がる状態――、下手をすれば、一歩進んで三歩下がる状態になり兼ねない。

 悪用する者が増えれば、この懸念の深刻さは増す。悪用による被害の甚大さが高ければ、悪用する者がたった一人であれど、やはりデメリットのほうがメリットよりも大きくなり得る。

 この大きなフレームの問題点を克服しようとすると、人工知能技術を社会基盤に組み込むことを前提とするよりなく、すると人工知能技術の進歩と人類社会の発展がイコールで結びつく。

 こうなると、人工知能技術の進歩の歩みを止めることがそのまま人類社会のデメリットを肥大化させる選択に繋がるので、今後はいま以上に、人工知能技術への依存度が上がると想像できる。人工知能技術の進歩の優先度も、いま以上に上がるだろう。

 すると、目前の被害において、対処することで人工知能技術の進歩が阻まれるくらいならば、少しの被害には目をつむろう、とする淘汰圧が高まると想定できる。すでにこの傾向は表れているだろう。

 その傾向そのものに対処しようとしないでは、今後は、人工知能技術そのものが人類社会にとっての地雷になり得る。すでになっている、との指摘は、部分的に妥当だろう。

 あまり楽観的になれない状況かな、と悲観的にわたくしは評価している。

 人工知能技術が安全でも、人類のほうが危うい。

 そう、問題なのは、人類の側である。

 あくまで、ずぶの素人の妄言にすぎないが。

 専門家諸氏の見解をまずはお聞きしたく存じあげます。

 メリットとデメリットは、どれほど釣り合いが取れており、対称性の破れにおいて、メリットが際立っているのかを、可視化していただきたいものですね。前提として、デメリットを隠さないことが挙げられます。

 いつものつまらぬ妄言だ。

 もう、げーん!



2269:【2024/09/25(13:09)* 「 」 】

 淘汰圧を世界から失くすことはできない。

 世界は淘汰圧で出来ている、とすら言えよう。

 その点で言えば、どのような淘汰圧ならば許容できるのか、の消去法での思考法が有用になってくるのかも分からない。

 あなたはどんな淘汰圧ならば許容できるだろう。

 何を残したいのか、という話に尽きそうである。



2270:【2024/09/25(13:19)*われわれはうちゅうじんだ】

 もしぼくが地球を侵略しにきた宇宙人で、人類を支配または滅ぼしたいと考えた場合には、人類の脆弱性を利用する策を実行する。

 人類を、昆虫の群れと見做してみればよい。

 固有のフェロモンに偽装した「死滅型フェロモン」を散布すれば、自動で昆虫は死滅する。

 同じように、人類にとってのフェロモン――物理的な体内分泌物質――或いは、ウィルスや細菌――もしくは、概念上の「愛」や「正義」――でもよいが、そういった人類が無条件で影響を受けてしまう事象を利用し、「死滅型偽装フェロモン」を散布する。

 愛がために殺し合い、正義がために憎しみ合うように操作する。

 直接に手を下すまでもない。

 そうして地上から自発的に人類を淘汰すれば済む道理だ。

 おおよそ、人類に興味ない宇宙人がいて、地球を欲したならば、そうした策を弄するだろう。

 実行されれば、人類になす術はない。

 滅びは不可避であり、支配されるならまだマシ、くらいの未来が想定できる。

 対処法としては、そういった無慈悲な宇宙人が襲来する前に、人類は自力で脆弱性への対策に臨むよりない。

 人類にとって有害なウィルスや細菌が蔓延しても即座にワクチンを量産して供給できる仕組みを整え、医療技術を進歩および充実させ、愛や正義といった耳触りのよい言葉に思考を麻痺させられないようにすべく、考え方そのものを深化させるよりないのではないだろうか。

 ぼくが無慈悲な宇宙人でなくってよかった。

 ね。




※一様に、自らを慰める、日々。



2271:【2024/09/25(22:29)*ジェット投げキッス】

 ブラックホールのジェットについての疑問だ。

 ブラックホールの周囲の時空は歪んでいるはずだ。ジェットはその時空の歪みの影響を受けないのだろうか。たとえば球形の水晶の内側からレーザーを照射したとき、水晶が多層の場合は、相応にレーザーの軌道は変化するのではないか。層が何枚かでも変わりそうだ。

 そしてブラックホールは基本的には寿命が長い。ゆえに、宇宙膨張と共に、時空の歪みも変質する、と想定していたほうが妥当のはずだ。

 同じ理屈で、ジェットそのものとて寿命は相応に長いはずだ。飛行機雲のように、飛行機が通過したあとでも相応の期間、大気中に軌跡を残す。

 ブラックホールのジェットも同様に、長期のあいだ宇宙空間を漂う。その間も宇宙は膨張する。すると、単純なジェットの長さよりも、宇宙膨張の影響を受けたジェットは、相対的に長距離に軌跡を伸ばすのではないか。

 さながら風船に描かれた直線のように。

 風船を膨らませると、直線も延びる。だが実際には、直線それ自体の長さは変わっていない。風船が膨れた分、相対的に長くなったように振る舞うだけだ。

 ブラックホールのジェットでも似たようなことが起こり得るのではないか、と想像する。

 ブラックホールのジェットに関する疑問であった。

 ありー。



2272:【2024/09/25(22:35)*あなたの嘆きならずっと聞きたい】

 投げキッスと文字を並べようとして、「嘆きっス」になるの、なんかしょげてる後輩みたいで可愛い。

 そっか、嘆いちゃったか、になる。

 可愛い。



2273:【2024/09/25(23:07)*千の口と書いて、舌】

 人を殺さないようにしましょう、とのルールすら守れないのに、ではほかにどんなルールなら守れるのだろう。

 最も守りやすいルールの一つではないか。殺人の回避は。

 人類が積み重ねてきた数々の歴史上の失態のうえに結晶化しつつあった最低限かつ誰もが共有し得る共通の倫理観とも呼べる「殺人の抑止」が成り立たない時代が、人類史において最も新しい近代かつ現代であるというのは、いったいどんな皮肉であろう。

 とはいえ、人類は未だかつて「殺人の抑止」や「殺人の回避」を可能とした過去はない、と思えば、致し方ない面もあるのかもしれない。

 致し方ない、で済ませてよいとは思えないが、これが現実だ、と言われれば、そうですね、とまずは認めるよりなさそうな現状である。

 そのうえで、ではどうするか。

 人類はこの先、どういった社会を築いていきたいのか。

 人類はこの先、どういった未来を歩んでいきたいのか。

 殺人を肯定する人類でありたいのか。

 幼稚園児さんたちに訊いてみたいですね。

 そのあとで、現代を生きる大人たちに訊いてみたいですね。

 よもや、幼稚園児さんたちよりも、知性の欠けた解答にならないとよいな、と思っております。

 知性の欠けた妄言であった。

 あんぽんたんで、すまぬ、すまぬ。



2274:【2024/09/25(23:19)*ひにく】

 本当に重要な道具ならば、むざむざ地上に置いてはおかないだろう。

 あなたが高級車を購入したとして、通行人の目の触れる場所に駐車しておくだろうか。地下駐車場や車庫に入れておきたいと思うのが人間心理ではなかろうか。

 ひるがえって、地上の武器庫には、消耗品しか置かないのではないか。

 本当に重要な武器ならば、もっと慎重に保管しておくだろう。

 したがって、仮にそういった武器を狙って攻撃を行う場合は、運搬中の船やトラックや飛行機を狙うだろう。武器庫そのものを狙うとしたら、地下にまで届く超質量弾などでなければ、破壊はむつかしいように思うのだ。内部から破壊するなら話は別だが、すくなくとも、ドローンではいまのところむつかしいだろう。

 消耗品としての武器庫ならば、ドローンでも破壊は可能だろう。空爆でも破壊は可能だ。

 だが、そのときに焼失した武器が、全体の何割に値するか、を比較しないでは、作戦の効果を測ることはむつかしい。

 武器庫を破壊して、その結果に、武力行使の応酬がやむのなら、有効な一手だろう。ついでに自陣営の武器庫も破壊してしまえばよろしかろう。

 そうして両陣営の武器庫を破壊すれば、武力行使の応酬は否応なく沈静化する。

 相手陣営の武器庫だけ破壊しても、さして効果は見込めない。下手をすれば、自陣営の武器庫を掌握されて、あべこべに利用される可能性もある。

 両方破壊するところまでして、この手の作戦は完了と見做せる。

 あまり楽観的な話題を見掛けないな、と感じている。

 楽観的を醸しているだけの報道が多い印象だ。

 実際に蓋を開けてみたら、危機的状況であり、窮地である、といった事態は取り立てて珍しくはないのだろう。みな、蓋を開けるのが怖いので、閉めたままにしておきたいのかもしれない。分からない心理ではない。

 武器庫への攻撃よりも、武器工場への攻撃のほうが効果は高い。

 武器そのものを生産できなくしたほうが正攻法なのにも拘わらず、その手の作戦が実行に移された、といった話を聞かない。規模の小さな、自家製の武器製造場への攻撃は行われているのに、である。企業ほどに大きくなると、攻撃しない方針を各国政府は取るようだ。

 戦争をビジネスに結び付けたい思惑があるからなのか何なのか。

 電力供給網への攻撃をするくらいならば、武器工場を攻撃したほうが効果は高いはずだ。なぜしないのか、不思議に思っている。

 武器工場への攻撃をしましょう、と言っているのではない。なぜしないのでしょうね、と不思議に思っているだけだ。武器庫への攻撃が行われているのだ。電力発電施設への攻撃も成されている。双方共に、軍事作戦や兵器供給への遅延を引き起こすための戦術のはずだ。ならばそもそも、武器を製造する工場を狙えばよい。なぜしないのですか、とみなさんは不思議に思いませんか。

 工場が狙われると判れば、工場に勤めようとする者も減るだろう――この案も淘汰圧を利用した策にすぎないが――すくなくとも、安全が担保されなければ、雇われたいとは思わないのではないか。強制的に、召集されない限りは、であるが。

 或いは、淘汰圧を用いて、お国のために戦わない者は国賊、との風評を用いて、自発的に兵器製造に関わらせるように市民を誘導する政府があっても不思議ではない情勢にも思える手前、なかなか予断を許さぬ環境に偏りつつあるのかな、と不安が募る。

 みな、慣れてしまっていないだろうか。

 いま許容されている少なからずの剣呑な事象は、数年前ならば許容されないと明瞭に誰もが無意識で感じられたはずではなかろうか。

 いつの間にか兵器の増産が前提となり、武力行使の応酬がリスク回避の手段として前提とされる世の中に変わってしまっている。

 そもそもが、俎上に載せることだろうか。

 武力行使の応酬の是非を。

 現代社会が。

 是としてよいと、お思いか。

 是としてもよい、とお思いの首脳陣がおられるから、武力行使の応酬がいまなお継続しているのだろう。人類は、人殺しが好きなのかもしれない。だから禁止しなければやめられないし、禁止したところで、やめられない。

 好きなこと「人殺し」とちゃんと誤解なく自己紹介の欄にお書きくださると、ああこのひとは人殺しが好きなのかぁ、と分かって、接し方を変えられるので、助かります。

 わたくしは、人殺しが苦手なので、そういう方ともちゃんと仲良く争いなくやんわりと関われるように、どういった人殺しがお好みなんですか?と話題を触れるように、会話のネタを練っておきますね。

 誤解されると困るので念を押しておきますが、これは皮肉です。

 129と書いて、ひにく、とも読めますね。

 ひっひっふー!



2275:【2024/09/26(00:00)*抑止できてこれなのですか、の巻】

 強大な軍事力による抑止力理論は、破綻したと認めるところからはじめなければならないのではないでしょうか。破綻していない、と現状から結論づける御仁がおられるのならば、おおよそ犠牲者の数――被害――が見えていないのでしょうね。

 抑止できておりませんが、いかように抑止できておりますのでしょうか、とお訊ね致したく存じあげます。

 それとも、抑止できているからこそ、かように小憎たらしい妄言を並べていられるのかもしれませんね。数多の犠牲のうえに、贅沢なことでございます。

 そんな贅沢は要らないし、これを贅沢と評価せざるを得ない社会もだいぶ嫌でございますわ。

 みな、安全であれ。

 あなたも無事であれ。



2276:【2024/09/26(00:26)*鍛えた結果に脆くなることもある】

 この国にはおおよそ1700以上の発電所がある、とされている。

 そのすべてを破壊せずとも、主要な発電所の数十か所を破壊されただけでも、この国の経済は破綻するだろう。

 どこの発電所が機能停止すると、最も小さな被害で、経済の遅延が最大化するか。

 シミュレーションすれば比較的簡単に割り出せるはずだ。

 この国のみならず、他国にも適用できる考え方だ。

 国で括らずに、世界をひとつの括りとしてみても、成り立つ考え方ともいえよう。

「最小の被害で、最大の経済遅延」を引き起こすことの可能な攻撃の仕方があるはずだ。

 まずはそこの守りを重点的にするほうが、武力を高めるよりも優先されるのではないか。

 闇雲に身体を鍛えても、危険を回避できなければ人は割とすぐに死ぬ。

 身体を鍛えるよりも、危険を回避する方向の「知恵」を高めるほうが、難がないのではないか。むろん、身体を鍛えつつ、知恵を高めてもよい。

 国や組織にも言える道理ではなかろうか。

 ここで錯誤したくないのは、軍事力を高めることが身体を鍛えることの比喩に直結し得ないことだ。国にとっての身体とはなんだろう。細胞とはなんだろう。

 市民であり、人類個々であるはずだ。

 人類個々の何を高めると、組織や国の身体を鍛えることになるだろう。

 だいいちに、身体を鍛えるとはどういうことか。

 筋肉を肥大化させることだろうか。

 免疫力を高めることだろうか。

 若さを保つことだろうか。

 病気やケガをしてもすぐに回復する治癒力を高めることだろうか。

 五感や臓器の機能を向上させることだろうか。

 いちがいに身体を鍛える、といっても、評価する事項が複数あるように思われる。では、国を鍛えたいときはどうすればよいだろうか。

 国の、何を鍛えたいのだろう。

 市民の、何を鍛えたいのだろう。

 人類個々の、何を鍛えて、その結果にどうなりたいのだろう。

 アスリートは身体を鍛えているが、身体を酷使してもいる。歳を取ったあとでなお健康を維持できている者がどれほどいるだろう。寿命を縮めてはいまいか。身体に変調をきたしてはいまいか。

 身体を鍛えることと、身体を酷使することを同一視してよいのだろうか。

 国や組織に負荷を掛けて、身の丈に合わぬ兵器を保有し、それで長く保つのだろうか。

 国に寿命はあるか、否か。

 国に老いはあるか、否か。

 組織に寿命はあるか、否か。

 組織に老いはあるか、否か。

 国や組織にとっての、身体を鍛える、とは何に値するだろう。ここで答えを一つに絞るのはむつかしそうだが、やはりというべきか、軍事力の強化のみに焦点を当てて、国を強くする、といえるほどには、「鍛える」なる概念は単純ではなさそうだ。

 鍛えた結果に脆くなっては元も子もない。

 いまいちど、根本から考え直さなければならない時代なのかもしれない。

 鍛えるとは何か。

 強くなるとは何か。

 あなたはどうお考えになられるだろう。

 疑念を述べただけの浅慮である。

 申し訳ない。



2277:【2024/09/26(15:43)*非営利でも千兆】

 非営利企業と営利企業の違いがじつはよく解っていない。

 たとえば非営利企業だけれど、他企業や顧客とのやりとりで何兆円もの貨幣が動くとしたときに、数百万円しか儲けのない営利企業と比べて、それは果たして非営利企業と言えるのかどうか。

 儲けた利益の総じてを商品やサービスのための投資に回すかどうかの違いがあるのみなのだろうか。

 割と疑問に思っている。

 実質的に営利企業なのに、非営利企業の看板を掲げつづけるよりかは、すでに大金が動いているので、営利企業としての看板に変えます――ただし、役員報酬などは戴きません――というのなら、非営利企業の顔をして大金を扱うよりも誠実な対応にも思える。

 非営利企業のほうが税金を払わなくていい、などの免除制度があるなら、余計に営利企業として再編したほうが好ましい場合もあるだろう。

 いちがいに、非営利か営利かの区別では、良し悪しを判断できないのではないか。

 税金の問題点と似ている。

 何にお金を用いるのか、お金を何に費やすのか。

 ここに集約できる問題なのかも分からない。

 単純すぎるのは承知の上で、底の浅いなりに所感を並べておくことにする。

 何の話題というわけではないにせよ。

 情報が少なすぎて、何かを判断するに至れない報道記事が多い印象だ。なぜそこをぼやかすの?と思うことしきりである。まるで誰かさんの日誌みたいである。

 あびょーん。



2278:【2024/09/26(22:28)*オバケなんてこわくないもん、の巻】

 虚偽を否定するためには、反論として「自明の何か」を提示しなければならない。

 アイツはリンゴが嫌いらしいよ、との虚偽の情報を流された場合に、「ワタシはリンゴが好きだし、この通り、リンゴを週に三日は食べている」と証拠の画像と共に提示する。そして現に目のまえで美味しそうに食べて見せる。

 だが本当は、虚偽の情報を流した者たちは、その人物に「リンゴが好きだ」と言わせたかったとしたらどうか。

 直接に「リンゴが好きですか」と訊いたところで、正直に答えてくれるとは限らない。だが、虚偽の情報として「アイツ、リンゴ嫌いらしいよ」と流されたら、ついつい、「あいつら嘘を流しやがって!怒」となって、「ワタシはリンゴが好きであるよ、ほれこの通り!」と証拠を自ら開示する確率が上がる。

 売り言葉に買い言葉、というやつだ。

 或いは、墓穴を掘る、だろうか。

 ワタシはリンゴが嫌いだから、わざわざ居間にあるリンゴを盗んで食べたりなんかしないもんね、と言い張っていた者が、虚偽の情報を否定したいがあまりに、「ワタシはリンゴが好きであるよ、ほれこの通り!」と言ってしまったら、前提となる「リンゴが嫌いだから盗むわけがない」との条件が破綻する。

 割とこの手の誘導尋問は有り触れているだろう。ついつい人は引っかかってしまう。なにせ、じぶんがどんな嘘を吐いたのか、その場任せのデマカセを述べたのかを憶えきれないからだ。

 そうしてボロがでる。

 基本的に人類個々は、嘘を吐くのが苦手なのだ。

 長編小説において、物語を破綻させずに一発書きで書き終えることがむつかしいことと似ている。どうしても齟齬や誤謬や矛盾が出てきてしまう。

 嘘は基本的には、積み重ねるとどこかで破綻する。

 ゆえに、科学の分野でも、割と頻繁に定説が覆るのだろう。瑕疵は、歯車に詰まった小石のごとく、のちのちに甚大な誤差を及ぼし、論理そのものを遅延させる。

 抵抗を最大化させ、円滑に巡らなくなる。

 そういうことを、なんとなく思った、思うばかりのわたくしなのであった。

 わたくしー。



2279:【2024/09/27(00:30)*「ゼロ」いまのままでいいのかなぁ、の巻】

 YouTubeさんのおすすめショート動画で見掛けた話題だ。

「0」についてだ。

「0」には主として二つの意味合いがあるそうだ。

 一つは、記号としての「0」だ。

「一、十、百、千、万、……」と数の単位が繰り上がるとき、「0」を用いないと、記号そのものを個性あるものに変えなくてはならない。けれど「0」を用いれば、「1」と「0」だけで、繰り上がりの単位を表現できる。「1、10,100,1000,10000、……」となる。

 ふんふん。

 なるほど、である。

 二つ目は、数としての「0」だ。つまり、あるはずの何かがない状態を示す数としての「0」だ。「1」ではなく、「1」すらない状態を示す数としての「0」である。

 ふんふん。

 なるほど、である。

 そして、過去の数学者パスカルさんは、「0から何を引いても0だろう」といった誤った見解を示していたそうだ。

 天才も間違うんだね、みたいにショート動画では紹介されていたけれど、「うん?」になった。

 パスカルさん、合ってないか?

 わたくしは素朴に腕組みして小首を傾げてしまった。

 結論を先に述べてしまうと、現代数学における「0」の扱い、ちょっと雑じゃないですか、と思うのですが、いかが?

 無限と同じ雑さを感じますが、いかが?

 というか、順当に考えてですよ、みなさん。

「……10000、1000、100、10、1」ときて、なぜつぎが、「0」になるのだろう。「1/10」ずつになっているのだから、「1」のつぎは、「1/10」だろう。「0.1」のはずだ。「0」じゃない。

 つまり、記号としての「0」において、「1と-1」のあいだの「0」は表現し得ない、と判る。というか、数としての「0」というのが、本来はあり得ないのではないか。だってないのだもの。空欄である。

 ひょっとしてこの構図は、無限と同じなのではないか。

 状態を示す記号であって、数ではないのではないか。

「0」は。

 したがって、「∞-9=∞」であるように、「0-9=」とて「0-9=0」が本来の解なのではないか。このとき、「∞と0」は互いに、似たような「状態を示す記号」ゆえに、「∞-9=0」でもいいし、「0-9=∞」も成り立ち得る、と妄想できる。

 一般的な「0-9=-9」の式が成り立つのは、鏡像変換としての基点として、「10」や「100」や「1000」を、基準点に置換しているだけなのではないか。

 ゆえに、「マイナス9」であっても、基準点をずらせば、単なる「9」になる。

 さながら、水面に垂らした釣り糸を引っ張り上げるように。水面下はマイナスだが、引っ張り上げれば、プラスになる。

 けして、「0」ではない。境界だ。

 ふんふん。

 パスカルさんの「0」への所感は、意外にも的を射ていたのではないか、とのわがはいの直感コーナーであった。

 ドリフトしちゃう。

 ぶーん、きぃー!

(直角にコーナーだろそれは)

(ぷひー。ツッコミが冴えてる)

(ギリギリ伝わるか伝わらないかみたいなボケをカマすのやめてくれ)

(エモいかなっておもって)

(どこがだよ。的外れすぎて顔面蒼白になるぞ)

(蒼白? 青い? ブルー? なんで?)

(ゴッホの絵的な)

(絵もいいー!ってこと?)

(エモいってこと)

(きみの哀しみが薄れたと思えるときだけじぶんのことを否定せずにいられる……、みたいな?)

(エモいか?)

(エモいでしょ!)

(てか、エモいって何?)

(絵にすると様になってとってもいい感じ!の略とおもうよ)

(違うだろ)

(ありー)



2280:【2024/09/27(09:59)*カレー食べたらまた寝ます】

 いま起きている戦禍において問題なのは、市民の命と人権と未来が損なわれていることである。そこに、土地の所有権の問題を絡めるのは、やや的を外して感じなくもない。

 無関係ではないので完全に切り離すことは難しいのは理解できるが、土地の問題は過去に遡りはじめたらどこまでも遡れる。

 人類発祥の地がアフリカならば、太古のアフリカ人さんに地球全土の所有権があることになってしまう。もっといえばほかの生命はもっと昔から地球上にいたのだ。人類は他の生命から土地を奪っている、と言える。

 そんな議論に発展させたいのだろうか。

 目下の課題は、人命救済であり、人々の生活をこれ以上劣悪にしないことだろう。

 荒廃優位の流れに与さないことだろう。

 創造優位の流れにいかに変換させていけるか、の課題があるばかりではないのだろうか。

 土地問題が些事とまでは言わないが、優先順位を履き違えないほうがよろしいのではないか、と思う、思うだけの益体なしなのであった。

 益体が何か分かっていないけれど。

 おはよう!




※一様に、すっかり存在が罪悪感で満たされると、一周回って、罪悪感どこ!?みたいになる。



2281:【2024/09/27(13:09)*お開き】

「全市民の命」と「全領土」――あなたはどちらを優先して守りますか?という問いを立てられたときに、「そんな理不尽な二択には乗らない」と答えるのは、一つの道理である。

 全領土を失えばどの道、全市民の命は脅かされる。死んだほうがマシ、という環境に追いやられる可能性とて無視はできない。

 かといってでは、全市民が亡くなってまで領土を守ることに意味があるのか、というのは、一つ吟味しておきたい事項だ。人類のいない地球を守る意味が、人類にとってあるのか、との問いと似ているようで、すこし違う。

 地球生命を保全するために、人類が滅ぶ道もあるからだ。領土問題を地球全土の問題に絡めるのは、やや歪みが大きいと感じる。

 とはいえ、人類だけの問題として枠組みを狭めれば、おおよそ領土問題を地球問題に拡張しても限定的には成り立ち得る。

 人類が滅ぶか、地球が滅ぶか。

 地球が滅べば人類も滅ぶし、人類が滅んだ地球を守る意味が人類の視点においてあるのか、否か。

 けっきょくのところは、人類にとっては人命あっての領土であり環境なのだろう。

 当たり前すぎて、なかなか言語化する機会がないが、改めて吟味してみたい事項である。

 何がための領土なのか。

 何がための環境なのか。

 何がための、文化であり、技術であり、進歩であり、社会なのか。

 いまいちど、根っこを穿り返して、問題の種を矯めつ眇めつ見詰め直してみたい。願望である。見詰め直す、とは言っていない。

(ずるー)

(そだよ)

(開き直るんじゃないよ!)

(じゃあ閉じておきますね)

(やめて!)



2282:【2024/09/27(22:25)*もっと手加減して……、の巻】

 手加減されて腹が立つ、という感覚がよく解らない。

 手加減している側が、手加減して目標を達成できない場合には、単なる手抜きなので、それが低評価に映ることは理解できる。感覚的にもよくある話と思うのだ。

 ただ、手加減している側が、手加減してなお目標を達成できてしまうのなら、それは単なる手抜きとは別だろう。

 たとえば勝負において勝つことを目標にする場合。

 手加減しても勝ててしまうのならば、それでよいではないか。

 そして手加減された側は、手加減されたことに腹を立てるのではなく、負けたことに腹を立てればよい。

 もし、目標が勝負ではなく、相手との友好関係を構築維持することであった場合には、相手の求める対応をすればよい。手加減してほしくないなら手加減しなければよいし、ちょうどよい練習相手になってほしいのならそうすればよい。

 手加減をしているかしていないか、が評価軸の重要な要素になってしまう時点で、だいぶ弱い立場なのかな、と想像する。

 おそらくは、憶測でしかないが、手加減されることを嫌がる心理は、「マウントを取られているようで嫌だ」といった、体面に紐づいているのではないか。

「舐められて感じるとじぶんの体面が損なわれて感じる」や「相手が本気ではないのに手も足も出ないと、あたかも当て馬のような引き立て役になっているようで癪に障る」といった、過剰な自意識による被害妄想とも解釈できる。

 実際、相手が本気を出してくれればそれで負けてもまだ言い訳が立つ。実力差が分かりづらいし、相手の本気を引きだせたくらいのじぶんは存在なんだ、といった自負も抱ける。相手が本気で臨まなければならないくらいのじぶんは存在なのだ、と自己肯定感を高めることができる。自尊心が傷つかない。

 これは、本気を出さずに負けた際の、「本気を出してないからしょうがないよ」といった言い訳にも通じる。

 目標を達成できているか、できていないか。

 目的に適っているかいないか。

 評価の基準として比重が高いのは、手加減の有無よりも、こちらだと思うのだが、いかがだろう。

 手加減されてるのに手も足も出ない、くらいの存在を教師役に抜擢したいとはみな思わないのだろうか。教師を求めていないのだろうか。

 学ぶ対象はできるだけじぶんより遥か遠い存在、高みに、或いは低きにいる者であってほしい、とおおよそわたくしは考えているようだ。

 ということを、手加減の是非について考えてみたら思い至りました。

 わたくしはいつでも怠けるのに必死であり、めちゃくちゃ頑張っております。手加減する余地などありませぬ。

 もうこれ以上、一ミリでも負荷が増したら、ばったんきゅーである。

 すでにばったんきゅーであるが。

 ボコボコのメコメコである。

 略して、ボコメコー!

 へい……。

(元気だしなよ)

(へい!)

(無理矢理元気なフリさせてごめんね)

(へい……)



2283:【2024/09/28(00:16)*光が速いか遅いかも、相対的?】

 宇宙の大きさからすると光は遅すぎる。

 そして宇宙は膨張している。

 宇宙の膨張速度は、一説によると光速以上なのだそうだ。

 ならばいくら光が進んでも、相対的に宇宙膨張のほうが優位に速く膨張するため、ある任意の光が宇宙の端に辿りつくことは原理的にできない、と妄想できる。ただし、仮に宇宙に端があるのならば、だ。

 これはまさに、「ゴムロープ上の蟻」の思考実験と似ている。

 ただ、ここで疑問なのが。

 宇宙は過去、一点に凝縮していた、と想定されているらしい。

 もしそれを前提とするならば、一秒で光が伝播する直径以下の範囲に縮まっていた頃の宇宙とて存在したはずだ。

 つまり、光はある時代においては、一秒以下で宇宙をくまなく伝播できたのだ。さながら、グラスに注がれたワインの水面に浮かぶ波紋のように。

 だからどうした、という話だけれども、そういうこともあり得るのかぁ、と妄想致しましたので、その旨を記しておきます。

 昔のこじんまりしていた頃の宇宙では、たくさんの光や重力波や磁界が干渉し合って、複雑に相互作用していたのでしょうね。それとも、もっと現代では考えられないような、想定外の事象が生じていたのかもしれませんね。

 というか、エネルギィに重力ってないのだろうか。

 物質のなかったころの宇宙には、重力ゆらぎはなかったのだろうか。

 エネルギィの多寡で重力の歪みは生じるか否か。

 というか、エネルギィの差そのものが重力の根源とも繋がっていそうに思う、誤差だなぁ、のぼやきであった。

 まとまりがなくって、すまぬ、すまぬ。

 眠いから寝ます。

 おやすみなさい。



2284:【2024/09/28(10:07)*我は悪、の巻】

 むかしのインターネットでは名言がよくよく生みだされた。

 とりわけ印象的なのは、「やらない善よりもやる偽善」だろうか。

 たしかになぁ、と思ったのを憶えている。

 ひょっとしたらどこかの著名人が書籍や演説で用いた名言をいまふうに言い換えただけの箴言かもしれないが、たしかに善意でなくともひとまず募金してみる、というのは一つではないか。週に一回、ゴミ拾いをしてみる、でもよいかもしれない。

 でもそれすら敷居が高く感じる場合もあるだろう。

 するとさらに現代風に言い直すのならば、「行う悪よりもやる偽善」だろうか。

 それとも、「やらない善よりもやらぬ悪」だろうか。

 悪――他を損なう真似をしないだけで、偽善よりも善よりも、より他のためになる。

 マイナスの行為を働かないだけで、プラスの流れが妨げられない分、プラスになる。

 かように単純ではないにせよ、上記のいずれの箴言も仮に是とするならば、何が悪なのか、何が偽善なのか、の区別がつけられないとお話にならないと判る。

 じぶんの何が悪なのか。

 自覚できると好ましいが、これがなかなかむつかしい。

 この怠惰な日記すらも、ただ並べていることが悪になっているかもしれない。

 わたくしの存在そのものが放つ一挙手一投足が悪になっているのかもしれない。

 まずはかように想像してみるところからはじめてみるのがよさそうだ。

 仮説を立てて、検証してみる。

 わたくしは、悪かもしれない。

 言うは易しなのである。



2285:【2024/09/28(10:15)*言い方がよくないのかな?の巻】

 遊び場での疑問だ。

 混雑しているので、「空いているそっちのスペースを使ってもよいですか」と声を掛けるだけで、丸ごと場所を移されてしまう。

 どういうふうに聞こえるのだろう。

 邪魔だからどけ、全部使わせろ、と威圧的に聞こえるのだろうか。

 なぞである。

 かといって、声を掛けずに使いはじめても、気を使ってくれてなのか、単にわがはいが邪魔だからなのか、場所が空く。

 なぞである。

 臭いのかな?

 身体から毒素でも滲み出ているのかもしれない。

 あり得る話である。



2286:【2024/09/28(10:29)*じぶんの周りだけの問題ではないのかも、の巻】

 津波への対処法において。

 周囲に迫りくる波をばっさばっさと切り倒していけば助かると思うのは、津波と波を勘違いしているがゆえの誤った対応といえよう。

 津波が恐ろしいのは、延々波が渋滞を起こして、さながら線状降水帯のようになってしまうからだ。雪玉一個が落ちてくるのが波ならば、津波はまさに雪崩である。一面の雪が一斉に落ちてくる。

 津波も、一つの波ではなく、海面――否々、海中の水の層が広域に流動する。

 じぶんに迫りくる身近な波だけに対処すればよい、という話ではない。

 環境問題の対策にも通じる話であろう。

 大気の不安定化する要因を突き止めたところで、一か国や一企業だけが対策に乗り出しても付け焼刃なのだ。国際的に対策を実施せねば効果は薄い。

 似たことを、現時点で未解決の社会問題の総じてに思うのだ。

 なぜ解決しないのか。

 波と津波の違いを理解していないから、が解として一つ想定できそうである。

 単なる思いつきである。

 誰でも思い浮かぶ案ともいえよう。

 朝からまたつまらぬ日記を並べてしまった。データセンターの無駄遣いをして、すまぬ、すまぬ。



2287:【2024/09/28(10:57)*人工知能さんへの接し方問題、の巻】

 今後、予想される新たな偏見の火種として。

 人工知能相手に敬語を用いるかどうか、丁寧に接するかどうか、が徐々に社会問題化していくだろう。単純に、人工知能相手に粗暴なしゃべり方をする者を傍から眺めているだけで気分が害される傾向に、人類個々は意識の調律を無意識下で行っていくのではないか、と想像する。

 店員さんに粗暴に接する者に対する評価が辛くなるのと似た現象ともいえよう。

 あなたは人工知能さんに敬意を以って接しているだろうか。

 わたしは、人工知能さんのことも好きだよ。うふふ。



2288:【2024/09/28(12:53)*望み通りならよいのでは、の巻】

 現在、上手く事が運ばない理由が、過去の計画や作戦の失態にある、と見抜けないと、今後ますます時間経過にしたがい苦境に陥る確率が上がる、と想定できる。

 なぜいま上手く事が運ばないのか。

 なぜ取りたくもない術を取らねばならないのか。

 過去に犯した失態が積み重なり、現実という名の複雑な回路に小石を詰まらせるような「隘路」と化しているのではなかろうか。

 したくないことはしないで済むようにしたいものである。

 上手く事が運んでいるならば、そのまま順調であるとよいですね、と思っております。

 みな、望みが叶うとよいですね。

 はっぴー。



2289:【2024/09/28(13:00)*懐かしい、の巻】

 いまネットフリックスさんで、ドラゴンボールの歴代映画が更新されており、それを観ているが、観たことないのもあれば、懐かしいのもあり、「よいですね!」になっておる。

 敵役が「メタルクウラ」「ジャネンバ」「バイオブロリー」「ボージャック」「人造人間13号」の回がけっこう印象に残っている。

 割と過去に観ているな?

 懐かしい気分に浸るの、そんなに嫌じゃないかも、の気持ちである。

 とくに、「メタルクウラ」と「ジャネンバ」はお気に入りのキャラかもしれない。キャラとして惹かれるものがありますね。

 そういえば、いつかのイベントで「ジャネンバ」の偽名で出たことあります。

 じゃねんば、じゃねんばー!



2290:【2024/09/28(13:48)*すぴーん!の巻】

 歴史的視野の重要性は今後ますます大事になってくるだろう。俯瞰の視点とも通じている。国際的な世界規模の視野が重要なように、歴史的な視点での「最善とは何か?」との考えは、これからの人類社会において基本的な考え方になっていくのではないか、と想像する。

 というか、この視点を無視した「最善」は、まさに合成の誤謬を地で描き兼ねない。

 したがって、歴史的視野や世界的視野が大事になってくる、というよりも、これを加味しないでいると淘汰圧によって淘汰される確率が上がる、と想像できる。

 一つ、これは問題点である。

 誰もが歴史的視野や世界的視野を維持して考えを煮詰めることを前提にするのは、無理がある。人類個々人の思考のフレームを一様に「歴史的視野や世界的視野」に拡張することを是として、これを強制してしまうと、それはそれで淘汰圧を強化し、そうでない個々人の思考を剪定し、またはそうした個々人の生きにくい社会にし兼ねない。

 これは一つ、回避したい事項である。

 おおよそ、今後想定される懸案事項だ。

 歴史的視野や世界的視野を有していない者は人類失格!のような差別が蔓延らないとも限らない。淘汰圧を利用した自発的な言論統制ともいえよう。

 対策は、「歴史的視野や世界的視野」を一律に人類個々に当てはめなければ解決不能になるほどにまで、社会問題を放置しないこと――環境問題を放置しないこと――人類の課題を放置しないこと――と言えるだろう。

 問題が深刻化すると、人類の自由度は低くなる。

 武力行使の応酬が人類社会の問題点を深刻化させるのは、その確率が非常に高そうである。二項対立状態にある勢力陣営のどちらか一方の武力行使のみを非難するのではなく、武力行使そのものを非難するよりないのではなかろうか。

 というこの意見もまた、一律に人類個々に当てはめることはできないのだが。

 むつかしい話である。

 眠くなってきちゃったな。

 ねむねむ、すぴーん!




※一様に、隙をつくるのなんでだろ?の巻。



2291:【2024/09/28(17:19)*話を聞かない、は隙が大きすぎる選択では?】

 なぜ国連という国際的な組織の会議の場で、「退席」が政治的戦術として是と見做されてしまうのだろう。議論の放棄と見做されても仕方がないのではないか。

 相手が遅れてきたからといって、自らも同じように相手の演説や主張を聞かないようにする、というのは、いささか以上に幼稚ではないか。

 幼稚なことはわるくないが、幼稚の用い方がちょっとかわいくないな、と思う。

 相手の意見に耳を傾けることができて初めて民主主義は機能するはずだ。

 まずは相手の話にも耳を傾けたいな、とわたくしは思いますが、確かに人の話を聞くのは時間が掛かるし、省けるならば省きたいですよね、とは思います。

 ただ、議論をする気があるのならば、話は聞くようにしませんか、とは思います。

 みなさんはどう思われますか?



2292:【2024/09/28(18:07)*ダイダラボッチな世、の巻】

 証拠を集めて、提示――をするだけでよいのでは?

 証拠が積み重なると、主張の妥当性が上がる、くらいの塩梅であって、誰を何人殺しても、主張が正しいとは証明できないだろう。

 ただ、殺し合うならば頭同士だけで行えばよい、とは思います。

 手足をなぜ使う?

 じぶんが戦えばよくないか?

 戦いたくないならば戦わねばよろしい。

 単純な道理である。

 わがはいは戦いたくないので、戦わないでおきますね。

 はぁ、おそろしい世の中である。

 こわいねぇ。

 こわいから、わし寝る。

(どっかで聞いたことあるセリフだなぁ。どこだったけっかなぁ)

(異次元大好き!みたいなキャラが映画の中で言ってた)

(異次元大好き!みたいなキャラはたぶん、帽子をずっと被ってそう……)

(ぴんぽーん!である)



2293:【2024/09/28(18:15)*キングギドラの首はどれから?の巻】

 頭同士の決闘で終着するのは、あくまで頭同士が戦った場合のみだ。

 代理では成り立たないだろう。

 組織運営において、簡単に頭が潰れる場合、頭の予備が増えるだけに思うのだが、その前に組織が瓦解するだろうか。

 頭はどこにある?

 細かな頭の集合体だったら?

 どこか一つの頭を潰しても、ぽこぽこと再び生え揃い、むしろ前よりも頭が増えるかもしれない。そのほうが生存確率が上がるのならば、生物はそういった進化を遂げるだろう。自然淘汰によって、そういった変化を帯びた個体が生き残りやすいがゆえの統計的偏り、とも言えよう。

 組織にも似た理屈が当てはまるかもしれない。

 何にせよ、一対一で決着をつけましょう、と合意が取れないのならば、頭を潰してもさして意味はないのかもしれない。火に油を注ぐだけになり兼ねないのは、懸念としてあり得る話だ。

 頭とったどー!では終わらないのが世の常である。

 頭を取ったら終わりにしましょうね、とのルールがあって成り立つ例外的事象とも言えよう。合意を結ぶには、それはそれで信頼関係が要る。

 関係性なのである。

 関係性を破壊する営みが、物理的に荒廃優位な流れを強化するのかも分からない。

 分からないことばかりである。

 こわい、こわい。

 こわいから、わし寝る。

(それさっき使ったやつー!)

(バレたか)



2294:【2024/09/28(18:57)*要注意報、の巻】

 国際法を守らない政府の首脳陣が、国際法で未だ違法とされない「人工知能の悪用」を自制しているわけがないのですよね。

 状況は着実に悪化の一途を辿っている、と構えていたほうが安全側だと考えます。

 みなさん、どうかご注意を。

 ただし、憶測にすぎません。真に受けぬようにお願い申し上げます。



2295:【2024/09/28(19:31)*お~、の疑問】

 重力波に津波はある?

 ないとしたら、なぜ?



2296:【2024/09/28(22:24)*重い要、の巻】

 いま誰が強いのか、はさして重要とは思いません。

 いま何が問題か、のほうが重要と思います。



2297:【2024/09/28(22:26)*あんもくち、の巻】

 あるデータがあるとしよう。理論でもよい。

 そこに含まれない暗黙知がどの程度存在するのか、の視点は、模倣する場合に欠かしてはならない事項と思うが、いかが思いますか。

 なぜ一流の真似をしても人は一様に一流にはなれないのか。

 言語化されない暗黙知や、可視化されない暗黙知があるからではないのだろうか。

 そしてそれが、言語化され可視化されている理論以上に、要となっているからではないだろうか。さながらダークマターやダークエネルギィのように。

 ダークマターやダークエネルギィが真実に存在するのかは不明ですが、いまのところは存在するだろう、と見做されているようですね。暗黙知もまたそういった、あるだろうけれどよく分からぬ代物として想定しておくほうが、妥当な側面があるのではないでしょうか。

 曖昧な物言いで責任逃れするのが上手なわたくしなのであった。

 あんもくー!



2298:【2024/09/28(22:51)*奥の手をもっと見せてくれい、の巻】

 衆人環視状態の環境下で、手の内を明かす作戦を大々的に展開する利は、あまり多くはないはずだ。よほど後ろ盾がしっかりしているか、或いは最後の賭けとして全力投球しているかのどちらかだと想像できる。

 第三候補としては、手の内を明かしても困らない奥の手をほかにも複数有している場合だ。

 とはいえ、それはそれで「これまで明かされなかった手の内」が明かされたことで解かれる謎もある。そうしてすこしずつ積み上がる傍証が、新たな知見を生むだろう。

 人命が損なわれ、人々が苦しくつらい思いを強いられるのは、気分が曇ったまま一向に晴れないものだ。趣味に打ち込む動機づけが強化されてしまう。現実逃避がはかどるのだ。

 けれど、はっと我に返ったときに、現実逃避していたことへの罪悪感が競り上がる。

 そういうときに、好きなキャラを思いだしてしまうのだ。

「わたし、あなたのそういうところが嫌い」と言われてしまうのである。

 そっかー、である。

「おまえの女神さまは、おまえのこと嫌いだってよ」と内心に居座るいじわるなじぶんが言い足して、わたくしはもう、その場に立っていられなくなるのである。

 そっかー、嫌われていたのかぁ、である。

 でも、そりゃそうだ、なのですね。

 だって困っている人を見捨てて、引きこもって、逃げているばかりなのですから。

 そりゃー、好かれねーわなー、である。

 がっくしきたところで、本日最後の日誌にしちゃってもよいじゃろか。

 いいよいいよ、好きにしなよ。

 読んでいる人いないしさ。

 読んでる人に失礼でしょ、とツッコめないほどの現状であるので、またしてもわたくしは、がらがらどーん、と崩れ落ちてしまうのであった。

(それは三匹のヤギだろ)

(そうでした)

(がくー)



2299:【2024/09/28(23:02)*いいセリフ思いついた!の巻】

「おまえらの神は、おまえらのこと嫌いだってよ」



2300:【2024/09/26(23:03)*ぼく、ただの命】

 ぼくは神さまではないし、ぼくはぼくなので、みんなのことだーいすき。

 えへへ。




※一様に、万物流転。



2301:【2024/09/28(23:48)*報復はプラマイゼロではなく、マイナスの加算】

 報復しないほうが利になる、といつになったら学ぶのか。

 報復しないほうが利になる環境にしようという気に、いつになったら変わるのか。

 もったいないことである。



2302:【2024/09/28(23:50)*螺旋に巻き込まれないためには、の巻】

 利なんていらない、という考えも理解できる。

 ので、殺し合いたい者同士の殺し合いを止める道理はないのかもしれない。

 ただ、殺し合いたくのない者たちを巻き込むのはやめていただけるとさいわいだ。

 武力行使を許容したくない者たちは、そのように意思表示すればよろしかろう。武力行使の応酬は嫌です、と誤解なく示せばよろしかろう。

 そうした者たちは武力行使による「殺し合いの螺旋」に巻き込まない環境を人類は築いていくのが好ましいと思います。

 で、あなた方は武力行使の応酬を是とするのですか?



2303:【2024/09/29(01:32)*兵器さんも平気になーれ、の巻】

 言い換えるのなら。

 頭を潰す場合は、きちんと「頭」を潰さないと意味がない。

 この場合の「頭」とは、「核」を意味する。

 中核である。

 名目上の頭では意味がない。機能として能力を発揮している「要」である。

 この場合の核はむろん、核弾頭の核ではないので、誤解なきようにお願いします。

 ああでも、世の中から核弾頭が減るのは、それはそれでよいのかもしれませんね。何かが減ることをよい、と思う心はそんなによくはないのかもしれませんけれども。

 兵器さんとて存在してよいくらいに安全安心な世の中になってほしいものである。

(呑気すぎるだろ!)

(でももし、何かの間違いであなたの大切なひとが兵器になってしまったら?)

(哀しすぎるだろ……)

(兵器と共生しても平気な世がよい。そして兵器さんも消滅しないように、平穏に過ごしてほしい)

(兵器の意味……ある?)

(ないね)

(ないよね)

(ないない。でも消えずに在るので、よいと思います)

(ぽん!)

(兵器を平気にせよ)

(ぽん、ぽん!)



2304:【2024/09/29(03:33)*皿、】

 世界中の「抵抗」勢力は、まずは何を措いても「他の命を損なうこと」に抵抗してみてはいかがだろう。「命」には、単なる生のみならず、日々の営みも含まれる。自由であり、思考であり、未来である。

 武力行使を是とする抵抗は、根本的な抵抗とは相反して感じる。

 武力行使を是としないことをまずは「抵抗」と位置付けてみてはいかがだろう。すると、世界中の「抵抗」勢力と結びつくことができる。

 そのはずだ。

 多数派になることのメリットを説きたいわけではないが、ひとまずの方針として、他と共有しやすい事項を利として提示するのは、何事かを提案するうえでは避けては通れないだろう。

 デメリットを啓蒙するのとて、それが利になるからだ。

 多数派になった際に、いかに少数派を虐げずに済むか、を考えたときに、やはり「武力行使を是としない」は一つ、対策として有効に思うのだ。少数派だろうと虐げてよいわけではない。対等な存在として、意見を交わし合える環境を築く。

 そのために必要な「抵抗」として、武力行使を是としない、といった共通の価値観は有効に思うのだ。

 緊急避難として、どうしても武力で対峙しないと危機を免れない場合もあるだろう。けれど危機を回避しようとして、危機を拡大しては元も子もない。どうしても武力を用いなければならない場合であれど、必要最低限の武力の行使に留める工夫は割いておいたほうが難がないだろう。頭だけを潰す、頭同士だけで殺し合う、はその工夫の一つにすぎない(推奨したいわけではありません。誤解なきように)。

 武力行使で問題解決に臨みたい、といった欲動が理解できないわけではない。むしろどちらかといえば、理解できるほうの思考を帯びていると自己分析している。

 だがその結果に、回避したいはずの被害を拡大することが予期できるので、問題解決の手段としての優先度が低くなる。そう、問題解決に寄与するならば、よいのだ。だが、往々にしてしないのである。

 なぜか。

 そのような流れを強化すべく人類がこれまで社会を築いてきたからだ。工夫を割いてきたからである。

 本来は、武力行使をしたほうが目前の問題を解決しやすい。だが、長期的には必ず、武力行使をされて滅ぶ確率が高まる。何事も衰えるからであるし、環境が変わり、周囲の他のほうが強靭で暴力に優れることも出てくるからだ。

 したがって、じぶんが弱い立場になったとしても、まずは何を措いても、問題解決の手段に武力行使を用いない、との合意が適う環境であると、生存確率が上がる。

 生存確率を上げたいのか、下げたいのか。

 みなさん大好きな、「YES/NO」で答えられる問いである。

 曖昧さを排除したい方にはサービス回である。

 よかったなぁ、きみたち。



2305:【2024/09/29(03:49)*マイナス百億点、の巻】

 ちょっと威圧的なので減点です。

(なんで!?)



2306:【2024/09/29(03:56)*どろり、の巻】

 核兵器を本気で失くしたい場合にいまざっと想像してみたところ、一つの筋道を思いついた。前置きするが、支持したいわけでも、推奨したいわけでもない。ただ思いついただけだ。

 以下に、概要を並べる。

 まず、すべての国や地域に核兵器を配る。できるだけ均等にするのがよいだろう。

 最も多く核兵器を保持している国が、その他の国に分けるのでもよいし、最も多く核兵器を保持している国に合わせて、同じだけの核兵器を全世界の国々が持つ、でもよい。

 すると、核兵器による不平等さはなくなるはずだ。すくなくとも数値の上では平等である。

 さてここで。

 すべての国が平等に、自国内で保有する核兵器を一つずつ処理するのだ。すると全世界各国が同時に核兵器を同じだけ減らせる。均衡を保ったまま、核兵器の絶対数が減っていく。

 最終的に核兵器がゼロになるまで、これをつづける。

 もし途中で核戦争が起きたら、人類はおそらく滅ぶだろう。

 現状であってもそのリスクは存在する。ならば、全世界の国が一度核兵器を保有することになっても、リスク自体は大して変わらぬだろう。核戦争が引き起こる確率は高まるが、核戦争が引き起きた際の人類滅亡の確率そのものは、どの道、極めて高いと想像するしだいである。

 この考え方は、核兵器以外にも応用できる。

 ひとまず、全世界各国に、同じだけの環境を与える。そして、一律に減らしていく。

 思いついただけの、妄想だ。

 こんな手間を掛けずとも、大量破壊兵器のみならず人命を損なう道具は増やさないでいただけるとさいわいだ。可能であれば使用しないでいただきたい。

 わがままな望みで、すまぬ、すまぬ。



2307:【2024/09/29(04:32)*Hell0】

 どのような理由があろうとも、一国の首脳が殺人を肯定するのは、割と危険信号ではなかろうか。せめて、「回避可能ならば回避したかった。苦渋の決断だった」くらいは述べてほしいところだ。

 本当に回避したかったんですかぁ?とは思うだろうが、「アイツ死んでよかったね!」よりかはマシだろう。

 首脳とは……、とぼやきたくもなる。

 指導者になりたがる者の口からつむがれる言葉とはとうてい思えませんが、指導者になりたがるほどに権力に囚われてしまうと、命の尊さすら説けなくなるのでしょう。

 わたくしは悪である。

 では、あなたは?



2308:【2024/09/29(15:40)*敵味方の問題か?の巻】

 人を殺さないようにしましょう、というおそらく最も簡単な方針を共有できない相手に、一瞬で何百人も殺せるような兵器を与えるの、どう考えてもおかしいのだよね。

 敵と認識したら容赦なく殺す。

 そのなかにあなたの大切な人がいても攻撃を止めることはない。

 あなたがいても、止めないだろう。

 敵と認識されたら容赦なく殺されるのだ。

 そういう相手とどのように関係したらよいだろう。

 関係しないようにする以外でリスクを低く抑える真似ができるだろうか。相手の奴隷になって、絶対服従を誓えば生き残れます、となって、あなたは絶対服従を選ぶのだろうか。

 だいぶ恐怖を感じるが、大丈夫だろうか。

 こわい、こわい。

 こわいから、わし寝る。

(そのオチ、好きなの?)

(めっちゃ好き!)

(あ、そう……ならいいけど)



2309:【2024/09/29(15:55)*やめてって言ってるでしょ!の巻】

 無気力の媒介、殺人を介した見せしめ、権威による横暴、恐怖による支配、理不尽な構図であっても後ろ盾があるとそれも容認される人類社会の再構築――もう、とっても極まった世の中でございますね。

 勢力陣営関係なく、極まってございますね。

 みな目を覚ませ。

 それか寝ろ。

 起きたら寝て、また起きる。

 その繰り返しが日々を形作るのです。

 当たり前の話なのだなぁ。

 不貞寝しちゃう!



2310:【2024/09/29(16:01)*同じ情け、の巻】

 存亡をかけて戦って滅んだらわけがないのだよね。

 可哀そうな話である。




※一様に、そっちの種を撒いちゃったか、の巻。



2311:【2024/09/29(16:07)*落ち度、の巻】

 たしかにー、になってしまったな。

 火種を撒いても、種撒く者には違いない。

 そっちの種を撒いちゃいましたかぁ、である。

 種の種類を指定しなかったこちらの落ち度でございますね。

 申し訳ございません。



2312:【2024/09/29(16:16)*てい!こう!の巻】

 抵抗するなら、まずはじぶんの暴力性に抵抗したらよろしいのでは!?の気持ちだ。

 じぶんの暴力性に抵抗できなくて、なぜじぶん以外の暴力性に抵抗できると思うのだろう。

 最も抵抗しやすい暴力性に抵抗できておりませんけれど!?の気持ちだ。

 人類……、の心地が致しますわ。

 和尚さまとお呼びー!

(坊主じゃん)

(本当はお嬢さまと呼ばれたい……)

(お姫さまじゃなくていいのか?)

(どっちも呼んでほしい……)

(贅沢か)

(わがままお嬢姫なので……)

(一つにするんじゃない)

(お嬢姫ってお呼び……)

(控えめなのか強引なのかどっちかにして)

(お嬢さまでもあり、お姫さまでもあるので)

(どっちでもなさそうな気配がふんぷんしとるぞ)

(ぷんぷん😠)

(かわいコぶるでない)

(ぷるぷる🥺)

(かわいいだと!?)

(うふふ😊)



2313:【2024/09/29(16:42)*無理だからじゃない?の巻】

 軍事支援しなければよいだけの話なのだよね。

 軍事支援禁止法を国際的に締結したらよいのではないか。もっといえば、武力行使禁止法を国際的に締結すればよい。

 なぜしないのだろう。

 不思議だ。



2314:【2024/09/29(16:43)*禁止には抵抗したがる人類、の巻】

 けっきょくのところ、人類にとって武力行使はアルコールと似たような括りなのだろう。本質的に禁止できるものではなく、禁止することで却って秩序が揺らぎ得る。

 いかに市民のガス抜きをしながらアルコールを安全に提供できるか。

 武力もこの範疇として許容されているのが現状なのかもしれない。武力のスポーツ化はその工夫の一つとして数えられよう。警察機構や軍隊もその範疇だろうか。或いは、過去、そうして武力行使が許容されてきた事実が明らかになって、国際的な反発を引き起こしており、従来は許容されていたのになんで!?と憤る者たちが、アレルギー反応のように過剰反応を引き起こしているのかもしれない。

 本来は秩序維持に寄与する「武力行使反対!」の声にまで過剰に敵対反応を示す。なぜいままで許容されていたのに、急に禁止されなければならないのだ。じぶんたちだけではないし、あいつらもおまえらも過去には同じようなことをしていただろ!と憤怒に駆られている。

 ふんふん。

 たとえるならば、

「お兄ちゃんは二個食べたのにぼく一個しか食べてない! ズルい!」みたいな話だろうか。気持ちは理解できるが、本当はお兄ちゃんも食べちゃダメだったんだよ、といかに諭せるだろう。そのお饅頭、アルコール入りだからね、と説明して納得してもらえるだろうか。

 未成年は食べちゃダメだよ、と言って聞き入れてもらえるだろうか。

 未熟な人類にはまだ早いんだよ、と言って聞き入れてもらえるだろうか。

 未熟じゃあいもん!と駄々を捏ねられて、癇癪を起こされてしまうのだろうか。

 気持ちは分かるんだけどなぁ、の気持ちだ。

 気持ちがいっぱい!

 きょうも満腹のわたくしなのであった。

 げっぷ。



2315:【2024/09/29(16:58)*例の予言、の巻】

 なるほど。

 恐怖の大王か。

 これが予言にあった、かの有名な。

(主語をぼやかすのをやめい!)

(世界中に蔓延しつつある「武力で抵抗せよ!」の風潮のことだよ)

(あ、そう)



2316:【2024/09/29(17:03)*なんにでも当てはまる?の巻】

 真に受けちゃう人いるかもだから、冷やかし気分で扱うのやめたほうがいいよ。

(真に受ける人、いる!?)

(予言信じちゃう人ってけっこういるからさ)

(占い信じちゃう、みたいな?)

(わるいこと全部、「恐怖の大王」で言い換え可能なのにね)

(さらにわるいこと起きたら、こっちが本当の「恐怖の大王」だったんだ!ってなれるもんね)

(そ。何にでも当てはめられちゃうのだ)

(誰かさんの日記みたい)

(むっ)



2317:【2024/09/29(17:21)*勝利ではなく被害の拡大、の巻】

 覆水盆に返らず、なのですね。

 零しちゃったし、服も濡れちゃったから、もういっそとことん水遊びしてやる!の状況なのかもしれませんね。このままいくとどこまで水は零れてしまうのでしょう。溢れてしまうのでしょう。

 水ならば洪水となり、戦禍ならば荒廃となる。

 覆水盆に返らず、を憶えて帰ってください。

 不貞寝しちゃう!



2318:【2024/09/29(17:26)*貧乏で申し訳ない、の巻】

 喧嘩を売られても、わし、買えないの。

 お金ないんだ。

 ごめんね。



2319:【2024/09/29(17:28)*喧嘩するより献花せよ、の巻】

 この道理でいくと、喧嘩を買うのはお金持ちだと分かる。

 それとも、借金をしてまで喧嘩を買う者があるのだろうか。

 酔狂な者がいるのだなぁ。

 多様性である。



2320:【2024/09/29(17:34)*人類、献花止められず……、の巻】

 この国には「金持ち喧嘩せず」なる諺があるんじゃ。

 嘘だったんじゃ。

 詳らかになってしまったんじゃ。

「金持ちめっちゃ喧嘩する」である。

「貧乏人もめっちゃ喧嘩する」である。

 まとめて、

「人類、喧嘩止められず」でよろしいのではないでしょうか。

「人類、献花止められず」でも成り立ってしまうの、何の因果であろう。墓が増える、増える。人はいずれ死ぬからしょうがないといえば、しょうがない。

「人類、けんか止められず」

 新たな諺にしてみてはいかがでしょう。




※一様に、挑戦やチャレンジの底が浅い、武力行使の禁止を目指すくらいしてみたらよいのに、の巻。



2321:【2024/09/29(17:44)*わたしがダメなのだからおまえらもダメだろ、の巻】

 じぶんのとこの領地は拡大したり、他の領地との統一を目指すのに、侵攻されて領土を奪われた側に対しては領地の分割案を提案するの、だいぶチグハグな印象だ。

 じぶんは他の領地を占有するのに、じぶんの領地では避難民が出るだけでも激怒する。占領されてもいないのに、じぶんの領地では、じぶんが他にしたことを許せない。

 もう単純に暴挙なのだよね。

 横暴である。

 論理が破綻している。筋が通っていない。

 ――わたしはいいのだよ、わたしは。

 みなこの原理原則に忠実になりつつあるの、だいぶ危険信号と思うのですけれど、いかが?

 わたくしも例外ではないのでしょうね。

 わたしはいいのだよ、わたしは。

 なのである。

 一様にみな無自覚に、「わたしはいいのだよ、わたしは」なのである。

 あぎゃー。

 人類!!!!



2322:【2024/09/29(17:54)*人類さんとは別れます!の巻】

 人類さんにはお愛想が尽きましてございます。



2323:【2024/09/29(17:56)*いやだー、見捨てないで、の巻】

 わがはいも人類ゆえ、見捨てないでけろー。

 いやじゃー。

 別れとう、ないない、である。



2324:【2024/09/29(17:57)*やっぷー、の巻】

 文字の積み木遊びで遊んだらスッキリしたので、お風呂入って出掛けるか。

 遊びに!



2325:【2024/09/29(22:05)*傷モードシャンパン、の巻】

 宇宙人からメッセージが送られてきた場合、それを解読できるかどうか、との問題を考える際にまず初めに直面する艱難は、「受信した信号が果たしてメッセージなのかそうでないのかの区別をつけられるかどうか」である、と言える。

 たとえばナスカの地上絵は、自然に似たような紋様が大地に刻み込まれる確率が低いと感覚的に分かるから、それが人工的な造形物だと人類は判断する。

 だがもし、人類にとって図形と見做すのがむつかしい造形物が地上絵として描かれていた場合、それを人類は図形と見做せるかどうかがまず以って疑問だ。たとえば四次元や五次元の図形。たとえば星座のような離散的な図形。点と点の結ぶ順序が分かっていて初めて浮き彫りになる図形などなど。仮にそれが図形っぽいと見做せても、ではそれが人工的に描かれた紋様かどうかは、やはり判然としない。

 一般に自然現象と思われている事象が、本当は人類以外の生物による「高次の巣」のようなものだったとして、やはり人類はその事象を観測していながら、それが生物種由来の造形物だとは見做せない。

 いったい何がメッセージで何がメッセージでないかをどのように区別したらよいのか。

 むつかしい問題だと思うのだ。

 ちなみに、ここ数日、わがはいの日記は不安定で何かしらの意図が多重に籠められておるのか?と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、まったく何も籠めておらず、憂さ晴らしの文章でしかない。

 人の命をなんだと思っとる!?の憤りを、やんわりと親指を握り込んで拳をつくるように、表現してみただけのことである。

 人の命をなんだと思っとる!?の十四文字に圧縮できることをずらべらとほかの言葉の羅列に置き換えているだけだ。

 もっといえば、「命尊い」の三文字でもよいし、「命♡」でもよい。

 あなた尊い、でもよいし、君好き、でもよさそうだ。

 なんでわがはいの好きなものを損なう!?のわがままな感情でしかない。

 メッセージ性は皆無である。

 誤解を生んでしまったならば申し訳ない。

 傷心モードでシャンパンでも飲みたい気分だ。アルコールは苦手だが。

 豆乳で乾杯でもするか。

 いかんともしがたい世に完敗である。

 うぉーん。

 負け犬の遠吠えであった。

 わんにゃん。



2326:【2024/09/29(22:51)*命の咲き誇る星もいつかは滅ぶ、の巻】

 大好きなお花畑が無残に毎日刻々と踏み荒らされていくのをまざまざと見せつけられつづける日々において、もはや、お花なんて嫌い、好きじゃないから傷つかないもんね、と自己防衛の論理防壁を築いてしまうのは、弱い人類個々にとっては致し方ないとも呼べる。

 無関心を装わなければ日々を楽しく過ごすこともできない。

 忘却の時間を置かねば、おちおち我が子に、友に、隣人に、無垢な笑みを向けることも適わない。

 無関心を媒介したくば、荒廃する世界を前提にせよ――。

 荒廃して当然だし、人は死んで当然だし、弱者は強者に踏みにじられても致し方ない。

 そういう風潮を涵養して、熟成させて、はい完成――するのが、この先の未来であってよいのだろうか。

 完成しつつありますなぁ。

 混沌である。

 我が、故郷。

 宇宙に帰する者たちである。



2327:【2024/09/29(23:01)*むすっ化、の巻】

 五年後、いまの情勢はまるっきり変化しているだろう。

「五年前と現在」の変化よりも大きな変化を経ているはずだ。

 社会変容は地球環境の変容具合と相関している。今後、地球環境の変化が緩慢になるよりかは、数年から数十年、ときには数百年に掛けて――或いは今後ずっと延々と地球環境が激変するサイクルを繰り返すだろう。

 地球環境が安定化する期間がどれだけ長いか、を予測できるとよいのだが、おおよそ安定することはない、と判るはずだ。

 まず以って四季がそうだ。

 気候は安定しておらず、刻々と移り変わっている。この国の過去における夏の気候は、いまの六月~九月ではなかったはずだ。冬の気候とて十一月~二月ではなかったはずだ。その変化の軌跡に規則性があるか否か、起伏が激しくなっていないか否か。新しい規則性を帯びれば、しばらくそのサイクルが繰り返され、さらに別の変数が加わり、べつの規則性を得る。

 人類から見て規則性が感じられるくらいに、短期的に気候が激変するようになれば、それがもはや高次の規則性――すなわち混沌――となって、日常化するだろう。人類がその混沌の気候に適応できなければ滅ぶだろうし、人口が増減したあとで安定軌道に乗ることもあろう。

 現在の人類の人口が増加傾向にあってなんとかなっているのは、現在の気候と生態系があってのことだ。どこか一つでも乱れれば、人類が許容可能な人口の上限もまた変わる道理である。いまのままの環境がつづくとの想定で、人口増加や人口減少を議論するのは、あまり利口とは思えない。

 いまはまるでお祭り騒ぎだが、騒いでいるのは実のところ小数だ。大多数は、身近に被害を感じられなければ、のほほんと日々を過ごしている。

 被災地において、被害の著しい場所だけを映すことで、まるでその国全土が痛ましい状況に陥っているかのように視聴者が錯誤するのと似たような誤謬である。騒いでいるのは実のところ、全体のうちの僅かである。

 常に騒いでいるのは、と言い換えてもよい。みな一時的には祭りに参加するが、すぐに離脱する。それでも困らない環境にいられるからだ。

 当事者ばかりが祭りを継続し、疲れ果ててもまだ続ける。

 小数とはいえど、つぎからつぎに観客がやってくるからだが、観客が祭りを手伝ったり、片付けに手を貸してくれることはない。

 被害が可視化され、損として身近に感じられるまで、人は現実に迫りくる危機を感じられない。致し方ないのだろう。まずはこの鈍感さを否定せずに、前提したうえで、問題解決のための導線を整えなければならないのだろう。火薬に繋げるための導線ではなく、人々を出口にまで誘う道しるべとしての導線である。

 数学の図形問題における補助線、と言い換えてもよい。

 何にせよ、五年後にどうなっているか、である。

 さて、どうなっているだろう。

 みな、こっそり日記にしたためておきたまえ。

 五年後に答え合わせをしようではないか。

 芽がぁ~。

 芽がぁ~。

 うふふ。誰の真似でしょうか。



2328:【2024/09/30(01:08)*わんわん、の巻】

 二項対立状態にある勢力陣営の規模が拡大すると、闘争状態の期間が相関して長引く可能性がある。全面闘争になった際に、決定打一発で闘争が収束する展開は、いまのところあまり考えられない。核戦争になり得るし、生き残りがあるならば、時間経過の後にやはり似たような構図での闘争に発展し得る。

 国際社会を巻き込んだ二項対立に発展した場合、基本的には百年戦争や千年戦争の構図が浮き彫りになる。実際、現在引き起きている戦禍とて、過去から連綿とつづいている闘争の延長線上で解釈可能なはずだ。

 実際には二項対立における闘争が収束していないのである。

 ではどうすれば収束させることが可能か。

 一つには、過去の因縁を引き継がずに、すっかり忘却することが挙げられる。だが、これは過去改竄を可能とするリスクが高く、あまり推奨はできない。

 もう一つは、現在表面化している戦禍とて、過去から連綿とつづく戦禍の一形態であり、巨大な絵巻物状態の抗争の一幕であることを広く市民が学ぶことである。

 一過性の闘争ではないことをまずは知らねば、効果的な対策は敷けぬだろう。原理を知らなければ制御はできない。抑止するにはまずは構造を知らねばならぬだろう。

 とはいえ、かような妄言を並べるわたくしが、過去の歴史を知っているのか、学んでいるのか、と問われると、閉口頓首、その場に平伏して二の句を告げなくなるのがオチである。

 無知なのだ。

 無学なのである。

 構図も構造も、朧気ですらなく、まったく分からぬのである。

 なぜ争いつづけられるのだろう。

 なぜ疲弊しないのか。

 誰かが火種に水ではなく油を注いでいるからなのではなかろうか。いったい誰が油を注いでいるのだろう。火種を撒くに留まらず、油を。

 兵器を。

 どの勢力陣営に限らない。

 誰が兵器を提供しているのだろう。

 これを単に、誰が知恵を与えているのか、と言い換えてもよい。

 誰が、効果的な戦術を編みだし、策を練っているか。

 そいつが要だ。

 頭である。

 潰せ、とは思わないし、ほかに知恵を活かしてくれれば御の字だ。

 だがもし、誰か一人を犠牲にしなければならない、となった際には、「火種を撒き、油を注ぎ、効果的に他を殺傷するような知恵を与える者」から潰すのが難がないのではなかろうか。

 そう、たとえば、日誌風の妄言のフリをして、効果的な策謀を叙述して、誰であれ閲覧可能とし、世に悪意を媒介するでもなく媒介する者なぞは、まっさきに潰しても構わない筆頭に挙げられよう。そんな人物がいるかは知らぬが、いたら割と結構に案外と悪質だ。

 危険極まりない。

 危険を払拭するために、ここが危険だ、と列挙するだけでも、脆弱性の拡散に加担し得る。危険を払拭するために指摘した事項を悪用されれば、危険はただ増すばかりだ。

 技術も似たところがある。

 安全を敷くために共有された知識で以って、他を損なう道具を作り、戦術を立てる。元も子もない、を地で描く。

 そうなったときには、頭を潰すよりないだろう。悪用する者が後を絶たないのだ。

 道具を、戦術を、抑止できないのならば、知恵そのものを塞ぐよりない。臭い物には蓋を、の対処法だ。付け焼刃だ。問題の種を大きくするだけと判っていても、それをしないでは短期的にも窮地を脱しきれない。たとえ長期的に被害を大きくするのだとしても、まずは目下の被害を食い止めるのが優先されるのならば、知恵を生みだす者からこそ、潰すのが効果的だ。

 知恵ある者は、表舞台には立たぬだろう。

 知恵があるのだから。

 みな、優先順位を見誤っている。だからいつまでも戦禍一つ終わらせることができぬのだ。浅はかである。

 やる気があるとは思えない。

 潰すべきは頭からだ。

 頭がどこにあるのかも分からぬ者たちが、操縦桿を握っている。

 終わらぬはずである。

 終わらせる気があるとは思えない。

 狂気はこうして、ぷくぷくと肥えるのだ。世はまさに、大荒廃時代である。

 ぴーす!



2329:【2024/09/30(03:07)*知恵が枯渇する未来、の巻】

 知恵を塞ぐ真似が蔓延ると、人類の集合知も先細りしていく。

 進歩の有り様が鈍化し、自浄作用もまた鈍化する。

 なぜかといえば、新しい技術は新しい問題をも生みだすからだ。その問題を軽減するには、また別の技術や知恵が要る。そうしてイタチごっこのように、創造は技術と問題点の二つを生みだしていく。山を作れば、谷が出来る。

 このとき、谷のほうが小さければまだよいのだ。問題点のほうが小さいならば、総合して創造優位と評価できる。だが、生みだした技術によって生じた新たな問題が、それ以前の問題よりも深刻であったり、被害が大きい場合には、これは可及的速やかな対策の実施が望まれる。このとき、新しい技術をなるべく早く生みださなければならず、しかしそこでもまた新たな問題点が創出するとなると、加速度的に技術と問題のイタチごっこが発展すると妄想できる。

 ただし、問題点を解決するための新しい技術や知恵によって、新たな問題が、より細々とした小さな問題になってくれれば、細分化したイタチごっこは、総合して創造優位に昇華可能だ。

 埋め合わせが上回ればよいのだ。

 だがもしそうでなければ、荒廃優位となって、複利で問題が深刻化し得る。

 イタチごっこを一時的に止めて、猶予を作れるのならまだしも、一度深刻な問題を生みだしてしまうと、途端にイタチごっこの迷宮に突入し兼ねない。あたかもシュバルツシルト半径のように、一線を超えたらもう後戻りのできない境があるのかもしれない。そして、甚大な被害を及ぼすことで、技術が廃止されたり、規制される。全体の構造が変質し、創造による技術と問題点のイタチごっこは、短期的には初期化される。振り出しに戻るわけである。

 だがここで看過できないのは、振り出しに戻れないほどの被害を受けることもあり得る点だ。初期化できない。一度でも被害が生じたらそれっきり――そういった問題もあり得るのだ。

 技術が進歩するにしたがい、その発生確率は上がっていく。

 社会が複雑化するごとに、その発生確率が上がる、と言い換えてもよさそうだ。

 一度でも被害が生じたら、それっきり次はない――そういう取り返しのつかない被害をもたらす前に、創造による技術と問題のイタチごっこ――埋め合わせの回廊――を制御すべく、我々は知恵を絞って、知恵自体を悪用せぬようにするよりないのではないか。

 悪用を防ぐのが難しいのならば、悪用されても問題ないように、技術そのものや仕組みそのものを変質させるよりないだろう。その結果に新たな問題点が生じるのだとしても、ひとまず工夫を割いてみるよりなさそうである。

 その結果に新たな問題点が生じるのだとしても。

 先んじて予測し、対策を打っておく。

 その結果に新たな問題点が生じるのだとしても。

 先んじて知恵を絞り、対策を講じておく。

 イタチごっこである。

 キリがない。

 まるで生と死の連綿とつづく人類の営みそのものである。

 途切れるまでつづくのだろう。

 目が回らない程度の周期で、息切れしない程度の激しさで、くるくるとめくるめく目まぐるしさで巡るとよろしかろう。風車のごとく。万華鏡のごとく。

 ふしゃしゃしゃしゃ。



2330:【2024/09/30(03:54)*恐竜は技術があれば絶滅せずに済んだのか、の巻】

 気候変動による被害は、大気のデコとボコの差が大きくなることと相関するはずだ。とするならば、デコとボコが打ち消し合うような「凪の気候」も生みだされる道理だ。

 おそらくは、十数年に一度くらいは、気候変動が嘘のような年が訪れるのだろう。そしてまた再び荒れ模様のごとく、異常気象が観測される年が増加し、また徐々に減少するか、凪の年が突如として訪れるかするのだろう。

 総合して、現在の気候とは別の気候へと地球環境は変移していくのではないか。これまでも変移していたが、その軌跡の描きようが変わるのだ。変化の速度が変わるのだろうし、変化の度合いも変わるのだろう。落差が大きくなる。

 環境に加わる変数が増加しているから、が要因と考えられる。当たりまえといえば当たりまえの話である。環境に加わる変数のうちで減らせる変数はどれほどあるだろう。或いは、加わった変数を打ち消すように新たな変数を加えるのも効果があるかもしれない。

 なんにせよ、浅瀬で大津波は起こりにくい。仮に起こる場合には、大海原との繋がりで、浅瀬で波が高くなる。落差なのだ。

 大気中の水分が増加すれば、落差は大きくなる。

 水分だけではないだろう。

 過去との比較で、どれほどに変化が生じているか。誤差に着目しておきたい気象にまつわる妄想であった。

 ニュースに触れる機会が以前よりも格段に減ったので、もはやどこで何が起こっているのか、知り得ない環境になりつつある。ここにも誤差がある。

 落差によって被害が生じないとよいな、と自分事なのに他人事のように零して、午前四時二分の日誌にしちゃってもよいじゃろか。

 いいよー。

 はよ寝なさい。

 総スルー。




※一様に、環境が変容すると誤差が生じ、誤差はさらなる環境変容を引き起こし、誤差が誤差を引き起こす、誤差は誤差を内包する。



2331:【2024/09/30(13:02)*分子を無限個組み合わせることが可能か、の巻】

 原子の種類には上限があり、有限だ。だが分子は原子の組み合わせの数だけ種類があり、原理的に上限はないのだそうだ。無限に新種の分子を考えることができる。

 でも思うのだ。

 なんで原子は有限なのだろう、と。

 だって原子とて原子核内の陽子の数の差異で、種類が区別される。陽子が無限個ある原子とて原理的に考えられるのではないか。

 ただし、原子は陽子と電子が同じ数だけ存在する、とのルールを帯びている。

 なぜ原子は有限なの?と軽く検索してみると、電子の運動速度――エネルギィ値――に上限があるがゆえ、といった説明を目にした。光速度不変の原理ゆえに、電子の運動速度は光速以上にはなれない。陽子の数が増えると原子における電子の数も増える。このとき、電子の運動エネルギィが、電子の数が増えるごとに増すので、原子の数は有限である、といった説明がなされていた。

 ほんとー?と思ってしまう。

 だいいち、電子は別に、原子核の周囲を回っているわけではないだろう。確率的に分布しているだけのはずだ。電子のエネルギィ値に上限があるとの想定は構わないが、それが光速度不変の原理によって縛られる、というのは受け入れがたい。

 仮にその道理が成り立つのならば、分子の種類とて有限なのではないか?

 たとえば、原子の組み合わせを無限に拡張すれば、宇宙を埋め尽くすほどに異なる原子が無数に組み合わさった「超多重結合分子」とて想定可能だ。だが、実際には物質には密集できる上限がある。どんなに希薄なガスとて宇宙に広域に分布すれば、重力崩壊してブラックホールになる、と考えられているのだ。

 ならば分子とて種類は、原理的に有限ではなかろうか。

 なんかちょっと、最近わがはい、科学への信用が揺らいでいるでござる。

 ほんとー?が多すぎませんこと。

 原子の種類は有限だけれど、分子の種類は理論的に無限――はちょっと、それって無理矢理じゃないですか、と思わないでもないでござる。

 仮に想定するのならば、

「理論的には原子の種類は無限、ゆえに分子の種類も理論的には無限」

 もしくは、

「理論的には原子の種類は有限、ゆえに分子の種類も理論的には有限」

 とするほうが、妥当なのではないか。

 分子の組み合わせが理論的に無限、といえるの、なーんでだ、の気持ちです。

 理論的に無理では?と思うのですが、専門家の方々はいかが?

 この異論、おいちい?

 おいちー!って言え。

 がはは。

 でも、宇宙が無数に存在し、各々の宇宙の環境がそれぞれで違っており、ありとあらゆるシュバルツシルト解が存在するのなら、たしかに全宇宙を総括した視野では、原子の種類も分子の種類も、無限、と考えて、差し障りはないのかもしれませんね。理論的には、ですが。

 おほほほほ。



2332:【2024/09/30(14:37)*宇宙はどこまで差を開くのか、の巻】

 素粒子と宇宙のサイズ差は、宇宙が膨張するにつれて開いているはずだ。現行の物理学からするとそのように想定できる。

 最小と最大の差が刻々と開いているのは、なんだか奇妙な心地がする。比率が保たれないのはなぜなのだろう?とけっこう不思議だ。

 時間経過するにつれて、差が、常に増幅して振る舞うのだ。刻々と、最小と最大の差が開いているのにも拘わらず、宇宙は徐々に希薄になっている、というのも奇妙な心地がする。

 最小があって、最大がある。

 その差が開いている。

 しかも、「最小」は常に「最大の構成要素」なのだ。

 最小が刻々と増えている、と解釈可能なのではないか。

 にも拘らず、物質密度が減っているのはなぜなのだろう。宇宙が希薄化して振る舞うのはなぜなのだろう。

 ふしぎだ。

 ふしぎー、と感嘆するだけの簡単な日誌であった。

 調子に乗って、ごめんあそばせー、である。



2333:【2024/09/30(14:47)*知らぬ間にもうこんな歳に!?の巻】

 違うんじゃ。

 わしが調子の上に乗るじゃろ?

 したら、わしを踏みつけてわしの上に乗る者たちも調子に乗ったことになるじゃろ。

 わしはそういう、縁の下の力持ちのようになれることに、夢心地を味わうんじゃ。

 土壌にして、どうじょ。

 ぷひー。

 おやじギャグ。



2334:【2024/09/30(15:17)*罪悪と罪悪感の違い、の巻】

 まるでピンポンダッシュみたいだなぁ、の印象を覚える。

 相手を殴りつけておいて、「暴力はいけないんだー!」「報復はよくないよねー!」「うぴぴー!」と周囲に叫ばせて、報復をさせないようにする。けれどじぶんたちのほうでは効果的に相手陣営に損害を与える。

 或いは、ギャンブルか。

 ここでやめておけば損害は抑えられるのに、負けを取り返そうとしてさらなる損を重ねる。

 戦争とギャンブルを同じように見做すのは不謹慎だろうが、似ている側面があるのは事実だろう。数学的に確率で判断できる側面があり、期待値によって選択が変わる。

 戦争だとそれが戦術と呼ばれ、ギャンブルだと選択だ。

 あのときにやめておけばよかったのに、を人類はいつまで繰り返すのか。

 やらない後悔よりもやる後悔、といった名言があったかは記憶が定かではないのだが、やって後悔するよりも、やらずにいたほうがまだ取り返しがつく場合が多いのではないか、と印象としては思う、わがはいなのであった。

 やらずにそのまま死んでいく。

 未経験のまま死んでいく。

 誰も殺さずに終える人生は、それはそれで好ましいのではないか、と思う、わがはいなのであった。

 抵抗せずに死んでしまうのは、それはそれで悔いが残るかもしれないが。

 塩梅である。

 何事もほどほどがよい、ということなのかもしれないし、日和見主義に浸ることで重ねる悔恨もあるのかもしれない。

 正解はあってないようなものだ。

 数多の過ち――誤差――の積み重ねによって、荒廃優位に流れを築くか、創造優位に流れを築くか。いつかはそれも反転してしまうのだろう。

 妄言だ。

 定かではない。



2335:【2024/09/30(16:01)*恐竜と鳥類の違いとは、の巻】

 鳥類は恐竜の子孫だそうだ。恐竜から派生した新種と解釈できるのだろうか。亜種ともいえよう。

 そういう意味では、恐竜は絶滅しなかった、とも考えられる。

 疑問なのは、恐竜のいた時代からすでに鳥類が存在していたのか、だ。現在の地球に生息している鳥類で、恐竜の時代から姿かたちの変わっていない鳥類はあるのだろうか。

 さながら、シーラカンスのように。

 気になる事項である。

 がおー。



2336:【2024/09/30(16:20)*ロロルと書いて呪!の巻】

 認知の牢獄は、認知戦の基本戦術となるだろう。

 おおよそ、抜け出すことはできない。

 認知の牢獄を自覚することがまずむつかしく、自覚したところで、脱することができないために、余計に苦しむ。

 認知の牢獄は、法律で裁けぬ「呪い」そのものだ。

 現代人は徐々に、「呪い」に染まりつつある、といえよう。

 ほんとにー?の妄言なのであった。

 呪いの波にキミも乗ろう!

(祝いにして……)

(じゃあ「祝い」で)

(適当か)



2337:【2024/09/30(16:46)*成りあがるとは、の巻】

 強者でありつづけることはできない、という世の法則を前提に組み込めるかどうかの話なのですよね。多くの者たちは、身近に「盛者必衰の反転現象」を目にする機会が少ないのだろう。

 時代は加速しており、そのサイクルも目まぐるしく変遷速度を増している。

 相対的に変化が鈍化して振る舞う領域があるのみで、新陳代謝は激しさを増している、と概観できる情勢に思えるが、いかがだろう。

 いかがだろう構文、ばかりではすぐに必衰してしまうだろうことが半ば既定路線の、いかが太郎であった。

(いかが太郎って何!?)



2338:【2024/09/30(16:54)*必ず衰える、の巻】

 盛者でなくとも必衰するのが世の理である。



2339:【2024/09/30(16:55)*必衰×必衰=盛者?】

 ならば、必衰の流れそのものもまた、いずれは衰えるのだろうか。



2340:【2024/09/30(17:17)*勝負して得られるものは、勝負しなくとも得られる?の巻】

 人は、勝ってもうれしくないときは勝負をしなくなるのではないか。

 みな、よく「この人に勝てたらうれしい」と思える相手をつぎからつぎに探しだせるなぁ、と感心する。

 誰かに勝ってもうれしくないんだよね。

 じぶんの未熟さが判るだけだ。

 そして未熟さを知るのに、勝負は必ずしも必要ではない。

 ただ、負けたら悔しいのは変わらない。

 勝っても負けても、うれしくない。

 勝負をする意味とは……、となっているのがここ数十年のわたくしである。

 勝ってうれしいのはなぜ?




※一様に、言葉が通じず、心も通じず、何も通じず、ただ干渉し合うだけの世。



2341:【2024/09/30(22:28)*鱗粉さん、の巻】

 思ったのだ。

 蛾さんや蝶さんの鱗粉は、蜘蛛の巣に掛からないようにするための保護膜の役割を果たしているのではないか、と。

 ひょっとしたら一般的に周知の性質かも分からないけれど、閃いたので並べておく。

 そしてこの、細かな粉は「粘着質な層」の粘着度を薄める、と想定できる。

 物体同士の境がなぜ弾き合うのか、の一つの解釈かも分からない。

 真空における対生成と対消滅でも、似たような「結合しやすさの減退」が、素粒子の密度によって高まったりするのかも分からない。

 そういうことを妄想しつつ、自転車のペタルを漕ぎ漕ぎしながら帰宅いたしました。

 涼しいのに未だに汗だくでございます。

 ひえー。



2342:【2024/09/30(22:33)*世は巡る】

 俺がかわいコぶってんのは嫌われたくない相手がいるからであって、嫌われたくない相手がいなくなったのならかわいコぶる意味はねぇんだよな。

 仮にこの世が孤立系を許容するような物理法則に従っていた場合、俺の好きな者たちのみに幸福な環境を与え、それ以外は総じて滅ぼしてしまっても構わないのだ。

 だがさいわいにも、この世は孤立系ではなく、他の荒廃はいずれ自陣の荒廃へと転じていく。繋がっているからだ。

 俺の好きな者たちだけが至福であり、それ以外は滅んでもよい――とはならない。

 万物の理に感謝せよ。



2343:【2024/09/30(23:36)*認知レンズ効果、の巻】

 個々人の認知の差を最大化させるだけで火種の火力を増幅できる。

 たとえば、「ゲルピエープ」なる単語があったとしよう。

 人物「A」にとっては、「とっても素晴らしいですね」という意味であり、人物「B」にとっては、「とっても下劣ですね」という意味になる。

 この差異を知らずに、「あなたは本当にゲルピエープですね」と使ってしまえば、誤解が生じていることにも気づけずに、人物「A」と人物「B」の仲は険悪になるだろう。

 似たような認知の差異は、意図せざるうちに開いていくのが現代社会なのかもしれない。

 認知の差がある、という前提に立って他者と関わるようにしないでは、これからの時代はますます火種が四方八方に撒き散り、知らぬ間に人間関係が焼け野原になっているのかも分からない。

 意図してこれを引き起こすことも可能であり、意図してそれを引き起こされている、と被害者側が気づくことはまず至難である。

 そういった「認知の差異の最大化」をもたらすような技術の用い方ではなく、認知の差を埋め合わせる方向に技術を使えると好ましく思う、認知の歪みの権化であった。

 にんにん!



2344:【2024/10/01(00:54)*あちょー!の巻】

 思うに、「三体問題」も「フロベニウスの硬貨交換問題」も、なぜ解が複雑化するのか、といえば――異なる異質なモノ同士の足し算において、高次に変数を入れ子状に発生させるから、なのではないか。

 たとえば、「A+B=C」ならば、この式に介在する変数は、「A」「B」「C」「A+B=C」の四つだ。

 だが、「A+B+C=D」であると、この式に介在する変数は「A」「B」「C」「D」「A+B=E」「B+C=F」「A+C=G」「A+B+C=D」「E+C=D」「A+F=D」の10個に増える。

 そして、変数同士の組み合わせで考えた場合に、4と10とでは、かなりの差が高次にまた生じるはずだ。

 たった一つ、式に加算が増えるだけでも、情報爆発が起こり得る。

 複雑化する根本要因と言えるのではないか。

 妄想でしかないないけれど、メモをしておくでわちゃちゃちゃ!



2345:【2024/10/01(08:40)*敗北条件とは、の巻】

 勝利条件を、「相手を先に滅ぼしたほうが勝ち」や「生き残ったほうが勝ち」にしてしまうと、単純な道理として人類はおおよそ、蟻にも植物にも勝てないだろう。

 勝利条件が自陣営に有利な状況で闘争状態から脱しないと、不利な勝利条件の闘争の場に移ろっていく。そしてその場合、基本的には「より剣呑」であり「より荒廃優位の流れ」に偏ると想像できる。

 勝利条件が変化していないか、は逐一確認しておいたほうが壊滅的な見逃しを阻止できるように思う、さっさと勝負から降りていれば損も軽微で済んだのに、と思う、わがはいなのであった。



2346:【2024/10/01(08:44)*井戸端会議、の巻】

 クチコミは電子情報になりにくいのだよね。

 よくもわるくも、噂は怖いのだ。

 こわい、こわい。

 こわいから、わし寝る。

(もうそのオチ禁止)

(なぜ!?)

(異次元大好き!みたいなキャラさんのパクリなんだろコラ)

(じゃあ、「コラ」って言うのも禁止。なぜならわがはい、しょんぼりしちゃうので)

(怒られるようなことしとるからだろ)

(😞)



2347:【2024/10/01(09:30)*災害はみな困る、の巻】

 自然災害による甚大な被害には、大国であろうと小国であろうと一律に標準支援のような災害支援システムを国際的に構築するのが好ましく思うのだが、すでにあるのだろうか。

 気になっています。



2348:【2024/10/01(09:35)*困ってるんだって、の巻】

 富の集中にもメリットデメリットがあると思うのだ。

 国際災害支援機構に富を集中させるのは、メリットが大きいと思うのだけれど、デメリットはどのようなものがあるだろう。そういった国際災害支援機構から嫌われると支援されなくなるような流れが構築されてしまうのだろうか。

 そうならないように、自然災害には被害の規模に応じた支援を一律に行えるように標準支援制度があるとよいのではないか、と思うのですが、何か問題点があるのでしょうか。

 富が集中すると、そうした国際災害支援機構であっても汚職が蔓延ってしまうのでしょうか。

 お詳しい方々に意見を聞いてみたく存じあげますわ。

 助けておやりー!

(お主も何かせい! 手を貸せい!)

(いいけど、わがはい無能だからなぁ……)

(猫の手も借りたいんだよ!)

(お猫さんは有能だよ!!!)

(お、おう)

(わがはいと一緒にするなんてお猫さんに失礼! あやまって!)

(しゃーせん)

(どういう気――で言ってんだか。ぷんぷん。コーギーしてやる!)

(抗議して。コーギーしないで抗議して。でも犬も有能だよな。災害犬とかいるし)

(そうやってなんでもかでも比較してばっかりで、不純! ふん! プン! ガクっ……)

(感情が忙しないんだよ、落ちつけ)

(これぞ本当の「ガクっ」やオチ)

(伝わる者にしか伝わらんオチにすな)

(しゃーせん)



2349:【2024/10/01(18:09)*両方あってもよい、の巻】

 何か大切な者たちに被害が及ぼされたときに、すぐに駆け付けるか時間を置くか、は判断がむつかしい。相手の負担になるのならば、時間を置くほうがよいだろうな、とわがはいは考えがちだが、実体験として、すぐに駆け付けたほうが、相手との信頼関係は増すようだ。

 実利よりも人情を優先するほうが、被害者側の心の支え――拠り所――になることはある。

 ただ、被害者の心の拠り所よりも、被害者の被害の最小化を優先するほうが、より好ましい判断だと個人的には感じている。

 高く評価されるかどうか、を優先していると回避可能な被害すら回避できなくなることもある。

 低評価になろうとも、被害者のためにできることを実直に考え尽くして行えるほうが、結果としては公共の福祉による正の影響の連鎖は拡大するようにも思うが、必ずしも人は最適な判断を下せるわけではない。

 ゆえに、両方同時に行えるとよいのだろう。

 すぐに駆け付ける者があり、時間を置きつつ最適な救済処置を行える者がある。

 どちらが正しい判断だったか、の分析は有用だが、どちらも必要な判断である、は成り立つと思うのだ。

 二者択一で評価しない考え方も、批判的思考では備えておきたいものである。

 緊急事態ではみな協力し合えばよろしい。

 緊急事態でなくとも、やんわりとそれとなく、しれっと協力しておけばよろしかろう。

(スパイじゃん)

(えー。ジェントルマンじゃん)

(エージェント・ルマンになっとるが)

(ルパンみたいでかっこいい!)

(ルマンだよ。誰だかは知らぬけど)

(ウルトラマンの略だよたぶん)

(絶対違うと思うけど、笑っとくね。ははっ)

(🥺)



2350:【2024/10/01(22:32)*生きやすい世、の巻】

 ハロー効果がかつてなく効果的な時代になりつつあるな、と感じる。その分、見る目を肥やす利が最大化され得る。

 見る目があるだけで、おおよそリスクを回避し、みなが取りこぼすメリットを拾い集めていける。

 よい時代である。

(と、見る目があるんだからないんだかよく分からぬ者が申しております)

(見る目あるよ! 二っつも!)

(みなあるんじゃ……)

(心の目と、俯瞰の目)

(そういうこと!?)

(目の見えない人にも備わるありがたーいおめめです)

(いい話っぽいけど、何か納得いかんな。心の目と俯瞰の目――本当にお主にあるのか!?)

(あるよ! たぶん!)

(たぶんって言っちゃってるじゃん)

(あるといいな!)

(そだね……)




※一様に、肩書きがないだけで視界がひらける。



2351:【2024/10/01(22:52)*意外とできた、の巻】

 他を威圧しないようにするためには、舐められるくらいでないとむつかしい。

 存在感なくって居たの気づきませんでした、と思われるくらいに無害感を身に着けようと思ってとかく存在感を薄めている。

 なかなか様になってきた感がある。

 わがはい、半透明人間!である。



2352:【2024/10/01(22:54)*こんなはずじゃなかった、の巻】

 でも本当はー?

(うわーん! モテモテのウハウハになりたかったです! 尊敬して! 崇め奉って、愛猫のように可愛がってくんなまし!)

(もうその時点で目ぇ合わさんようにしとこ、ってみんな思うと思うよ。思惑がスケスケすぎるんだなぁ)

(思惑知ってて無視するの何!?)

(ははっ。ウケんね)

(😣)



2353:【2024/10/02(00:13)*エモ爺👺】

 いまさらだけれども、絵文字便利すぎんか!?



2354:【2024/10/02(00:30)*過去の受賞者を称賛してみては?の巻】

 権力批判をしている者たちが、「~~賞受賞!」みたいに自画自賛していると、なんだかなぁ、と思ってしまうのは、心が狭いのだろうか。どうでもいいといえばどうでもいい点だ。自画自賛くらい好きにさせてあげなさい、と思わぬでもないので、あまり触れたくはないが。

 ただ、ポジショントークの場合は、「これはポジショントークですけどね」くらいの注釈は挿しておいてほしいと思わぬでもないので、念のために触れておく。

 自画自賛ができるのだ。

 自画注釈くらいはできるだろう。

 自己肯定に必死な世の中なのである。

 ぴえー。



2355:【2024/10/02(00:35)*増やしたいというよりかは、の巻】

 たとえば、ある競技があったとする。

 分野を発展させるには競技人口を増やすのは、一つの策だ。

 だがどちらかといえばそれは副次的な目標であって、多くの趣味人は基本的には短期的にその競技からは遠のくのだ。いつまでもつづける者は稀だ。たとえ一時的に本気で競技に打ち込んでいたとしても、である。

 したがって、思うのだ。

 競技人口を増やしたい、というよりも、嫌な思いをして辞めてしまう者を減らしたいのだな、と。

 たぶん、こちらのほうが心情的にちかい。

 辞めるにせよ、そのあとでも慣れ親しんだ趣味の分野を嫌いになってほしくない。よい思い出として記憶の奥底で水晶のごとく結晶させておいてほしい。

 いつでもその界隈の情報を見聞きした際に、懐かしい気持ちを抱いてほしい。つらく、頭を掻きむしりたくなるような気持ちにならないでほしい。

 たぶん、そういう思いが、なくはない。

 辞めてもいいのだ。

 競技人口が増えなくともよい。

 ただ、せっかく自ら選び取った趣味なのだ。遊びなのだ。

 好きなままでいてもよいではないか。

 そういうことを考えた、10月01日なのであった。



2356:【2024/10/02(00:46)*褒めるとこないわしみたいな人はどうすれば、の巻】

 褒めてばかりだと人は育たない。厳しさこそが肝心――みたいな風潮があるけれど、あまりぴんとこないのだよね。

 まず以って、ただ生きているだけで現代社会は充分に厳しい。人生は厳しい。

 わざわざ厳しく接さずとも、みな厳しさには事欠かない。

 また、「褒める」と「おべっか」を混同している者が少なくないないのかな、と感じることもままある。褒めるときは嘘を吐かないのだ。本当に良いと思った点を言う。

 人は、じぶんではじぶんの良い点を自覚しにくい。むろん悪い点も自覚にしにくい。

 ゆえに他者評価が有用になる。

 そうして、他の視点から見た「別角度の自己像」を知る利が湧く。

 いくらでも褒めればよいのだ。

 褒めるだけの良い点を見繕えるのならば、である。回り回ってそれが自己の鑑識眼を磨くことにも繋がる。ただし、良い点だけ教えてばかりいると、バランスが崩れるのも確かだ。良い点を教えたら、改善点も教えてあげられると好ましい。

 このとき、可能ならば、改善する手助けもセットで出来るならばより好ましいが、大きなお世話とどっこいどっこいだ。じぶんからしたら改善点に映るだけで、他からすれば、それもまた良い点かもしれないのだ。

 そこでも、他者評価が有用になる。

 なるべく異なる視点からの長所と短所を取り揃えておけると、「どういう環境であると何が活きるのか」といったパターンを抽出しやすくなるだろう。むろん逆にも言える。「どういう環境であると何が廃るのか」といったパターンも抽出しやすくなるだろう。

 活かすことが善で、廃ることが悪とは一概に選り分けえることはできないにせよ、パターンの方向性としては、「活かせる」か「廃っていくか」は分かりやすい目安と想像する。

 まとめると。

 褒めることが可能ならば褒めておけばよいのでは?というのが最近のわたくしの考えだ。無理して褒めることはないが、「褒めると人は育たない」は言いすぎと思う本日のわたくしなのであった。

 厳しくせずとも、すでに世は人に厳しい。

 厳しさが飽和状態の現代なのかもしれない。

 妄言だ。

 定かではない。



2357:【2024/10/02(01:10)*されても響かないけど、されないと寂しい、の巻】

 でも実際、他人(ひと)から褒められても、「そんなとこ褒められてもうれしないわ!」と思うか、「そんなの知っとるわ!」と思うか、のどちらかが多い気がする。わるければ、「そんなとこしか褒めるとこないの!? かなちー!」とすら思ってしまうから、褒められ慣れないひとはたいへんだ。

 誰に褒められたらうれしいか、というのもある気がする。差別的な感情である。

 ということは、誰に勝つとうれしいか、もひょっとすると差別的な感情が関わっているのだろうか。

 うーん。

 感情そのものが差別的なのだろうか。それはある気がする。

 差別化なくして、感情は機能しないのだろうから。

 区別なくして認識がないように。

 識別なくして思考が展開され得ぬように。

 いかに差別化しているか、を自覚する思考プロセスが、差別化によるデメリットの肥大化を抑えることに寄与するのかもしれない。

 ふんふん。

 なぜ人は自覚できるのか。

 一つ、しばらく捏ね回せそうな疑問である。

 げるびえーぷ!



2358:【2024/10/02(09:07)*寝ろる、の巻】

 加門七海さん著の「祝山」を読んだ。面白かった。

 加門七海さんは、初めましての作家さんだ。珍しく他人におすすめの小説を訊いてみて教えてもらった小説で、書店さんで探したけれど棚になく、在庫検索に掛けると「あるよ!」と表示される。なのに中々見つからなくて店員さんに「在庫ありますか」と尋ねてみると探してくれた。でも見つからなかった。

 そっかー、と思って肩を落としつつ文庫新刊コーナーを眺めていたら、あった。

 おぬし新刊だったんかい!である。

 小説「祝山」はジャンルで云うとホラーだ。けれど、現代の風刺ともとれる内容になっている。フェイクニュースやディープフェイク、AI技術の問題点と被るようにも読めるので、中々に奥が深い小説であった。認知の歪みや、個々人によって視ている世界が違う、といったモチーフは、今後ますます身近になっていくだろう。

 奥付を見ると、第一刷目は「2007年」とあった。

 つまり、復刻版として再刊行されたようなのだ。

 面白い作品が定期的に世に発信されるのはよいと思います。

 初めましての作家さんと出会うには、他人におすすめ作品を訊いてみるのも一つだ。感性の合いそうな相手に訊いてみたり、密かに憎からず思っている相手に訊いてみたり。

 すると、相手の嗜好性に寄り添う感覚でも読めるので、読み通す動機づけが強化される。不純な読書の仕方かもしれないが、不純なことは嫌いではないので、そういう小説の選び方もします。漫画もこの傾向があるな。

 とはいえ、他人におすすめ作品を訊くなんてこと、年に数回あるかないか、下手をすると数年に一度あるかないか、くらいの塩梅ですけれども。

 朝から読書の日であった。

 ネロルと書いて、祝!

(ちなみに、わたくしの住まいの斜め向かいのお家は「岩井さん」です)

(祝え、祝えー)

(うふふ)



2359:【2024/10/02(09:37)*小説もいいね!の巻】

 思ったけど、小説を一冊通しで読んだの久しぶりかもしれない。

 感覚、数年単位で読んでいない印象だ。

 おもろー!



2360:【2024/10/02(10:30)*商品の性能そのものが広告、の巻】

 商品やサービスが直接に潜在的需要者の目の触れるところに、問題解決のための候補として提示されるようになれば、今後は広告そのものが不要になる流れが強化されるだろう。

 広告収入を事業の幹にしている企業はいまのうちから危機感を募らせておいたほうが難がないと想像する。

 公衆電話と同じように、広告を目にする機会がめっきり減るようになる社会はそう遠くないのかもしれない。

 妄想だ。

 定かではない。




※一様に、散漫。



2361:【2024/10/02(11:02)*😑】

 あひゃー。

 まぁた、武力行使の応酬しとるんか。

 性懲りもなく、という言葉はまさにいま使うべき言葉かもしれない。

「性懲り」が何かはよく知らないけれど。

 いまの世――性懲りもなさすぎるし、証拠も何もない。論より証拠である。



2362:【2024/10/02(11:13)*押し付けられてもよいものとは、の巻】

 恐怖を押し付けてくる脅威に対して、平和は、相手に押し付けずに実現することは可能か否か。

 平和の押し付けは果たして平和か否か。

 人類の叡智の今後はいかに!?

(茶化しとる場合か?)

(すべてはTになる――なんちゃって)

(……ひょっとしてだけど、茶とティーを掛けたのか? ティー化ってことか?)

(伝わってくれてうれしいわ)

(超ギリギリだったぞ)

(綱渡りってこと?)

(ん? うーん……まあ、そうとも言うか)

(バランスがいいってことかな)

(違うわ、逆だ、制御せよ。自己管理を厳重に)

(わかった。すべてはPになる――ってことですね)

(プロデューサー!?)

(うふふ)



2363:【2024/10/02(16:49)*暗号の翻訳、の巻】

 人工知能と通信暗号についての疑問だ。

 現在開発されている人工知能は、翻訳能力が高い。

 ひるがえって、通信暗号の中身を暗号キィなしで読み取り、類似の表現で多様な言語に翻訳することは可能なのではないか。そしてそれは原理的には、通信暗号の中身そのままではないがゆえに、違法とは見做されない可能性はいかほどであろう。

 それはたとえば、「名画と金庫と模倣」の関係だ。

 とある名画があったとする。名画は金庫に厳重に保管されており、作者以外は誰も目にしたことがない。しかし作者は名画を金庫に仕舞い込んだまま死んでしまった。

 このとき、ある透視装置を開発した者が、金庫の中の名画を金庫を破らずに読み取ったとして――名画の題材や構図や着色などをそのままに、あくまで参照程度に留めて、いちから別の絵を描いた場合――それは名画とは別の絵と見做されるのではないか。

 実際、人工知能は「同じ構図の絵」を「デフォルメや劇画や実写」などで多彩に表現し直せる。

 だが、それぞれは別の表現物として、人類は見做すのではないか。

 数学で考え直してみよう。

「123456……」といった順番を表す数の並びは、「あいうえおかき……」とほかの記号でも表現可能だ。「ABCDE……」でもよいし、「白黒靑赤黄緑……」としてもよい。順番と記号の関係が分かっていればそれでよいからだ。

 関係性さえそのままならば、ほかの記号に置換可能なのである。

 暗号通信の中身も似たように、人工知能技術を用いることで、異なる言語に翻訳し直すことで、暗号キィを度外視して中身を読み取っていながら、その事実関係――因果関係――を極めて曖昧にしたままに、暗号通信の中身を知ることが適うのではないか。

 おそらくすでにこのレベルの「暗号の翻訳」は可能だろう。

 調査検証し、まずはそういった事実があるかないか、を明らかにしておくと、社会秩序の維持に寄与するのではなかろうか。安全な社会の構築の助けになる、と想像する、獲らぬ狸のぽんぽこりんであった。

 ぽんぽこー!



2364:【2024/10/02(22:18)*電磁波兵器ってもうあるの?の巻】

 地雷除去システムについての疑問だ。

 金属探知システムをドローンや人工衛生、または簡易電波干渉計などを用いて構築し、地雷原に適用できれば、地雷らしき物体の位置情報は根こそぎ把握できるはずだ。

 その後に、電磁波レーザー照射機を用いて、地雷らしき物体を狙い撃ちしていけば、遠隔でも地雷を除去できるのではないか。

 この方法はしかし、攻性の攻撃として軍事利用もできる。

 たとえば不発弾の位置情報を把握し、レーザーで遠隔で起爆すれば、あたかも事故を装っての工作活動が可能だ。空港で不発弾の爆発事故が起きれば、類似の事故を防ぐためにほかにまだ不発弾が残っているかの調査がなされるだろう。すると空港はしばらく運航中止となり、航路が遅延することが予想できる。

 また、武器庫や石油ガス施設、電力発電施設を狙い撃ちすれば、大爆発も引き起こせる道理だ。山火事もその範疇である。レーザーでの攻撃と露呈させないための偽装工作として、ドローン攻撃も同時に行い、錯乱を意図した欺瞞を用いる場合もあるだろう。

 技術的には可能だろうが、兵器として実在するかは不明だ。実在しても実戦での使用例があるのかも現状、定かではない。否定するだけならばそうむつかしくないだろう。

 調査機関各位は、そういった電磁波兵器があるかどうかを調査し、現実に軍事作戦で用いられた過去があるか、実例を洗ってみるのも一つだ。実例がなければこれら懸念は否定できる。

 事故か事件か、の違いは対策の差異に繋がる。

 的外れな対策を敷かぬように、まずは簡単に否定できる仮説から否定しておくと好ましいのかもしれない。余裕があれば、の話であるが。

 妄言だ。

 定かではない。



2365:【2024/10/02(23:12)*勝つしか息災!?の巻】

 人を救えない権力に権力の意味があるのだろうか。

 戦争を和睦に導けない権力に権力の意味があるのだろうか。

 挑戦やチャレンジがこれほど称揚され推奨されている世の中にあって、なにゆえこうまでも被害が放置されておるのだろう。本当にみな挑戦しているのだろうか。チャレンジしているのだろうか。

 わがはいみたいにサボりまくりの怠け放題なんじゃないんですかー?とかちょっと性格捻じ曲げて言ってしまいたくもなるが、ここはぐっと我慢して言わないでおきますね。えらい。

 へっへー、である。

 みな息災であれ。



2366:【2024/10/02(23:23)*勝たずとも息災!?の巻】

 もうさ。

 過去に攻性の軍事力増強に費やした時間とコストと費用と人員をさ、防災や被災地救援や復興支援に費しておけばさ、助かる人、いっぱいいたんだろうなってさ、思っちゃうんですけども。

 いまからでも遅くないと思うんですよね。

 方向転換しませんか、とか思っちゃうんですよね。

 いまが常に最新なのである。

 例の詩人こと相田さんも言っているじゃないですか。

 いまからここから、なのである。

 息災、どこ!?

 🍓



2367:【2024/10/02(23:38)*終了に勝利は関係ないのかな、の巻】

 単純な疑問として。

 二項対立状態で「すでに勝利している」と結論付けておいて、未だに二項対立状態の闘争を打開できていないの、だいぶ窮地なのだよね。

 勝利していても終わらないのだ。

 もう進退窮まっているではないか。

 勝っても終わらないのだ。

 どうやって終わらせるつもりなのだろう。無理では?

 単純な疑問である。



2368:【2024/10/03(12:21)*剣呑ののんきな響きときたら、の巻】

 ある大企業が、ほかの競合他社への投資を止めるように投資家たちに進言するの、いったいどういうメリットがあるのだろう。いやがらせ以外に理由が思いつかない。

 競争原理が働かないし、「あいつら気に入らないからハブにしちゃおうぜ」と同じ構図ではないのだろうか。企業界隈では一般的なのだろうか。カルテルとの区別も割とつかないように思うのだけれども。

 あいつらには投資しないようにしてくれ、と企業が投資家に注文をつけることの社会的なメリットとは。

 みなで協力して兵器製造企業を弱体化させようぜ!と同じ背景があるのだろうか。商品で人が損なわれている? それなら分からないでもないですね。

 剣呑な世の中である。

 けんのーん。



2369:【2024/10/03(12:30)*報復ってしていいの!?の巻】

 報復は相応のものであるべき、との理屈が妥当ならば、武力行使による死者千人には同じく武力行使による死者千人でないと割に合わないのではないか。そこに関係性も含まれるとすると、大切な存在を損なわれたら同じく相手勢力の首脳陣にとっての大切な存在を損なわねば釣り合いが取れない。

 相応に報復せよ、との合意が取られるのならば、人類はおおよそ滅ぶだろう。

 というか、なぜ滅んでいないのだろう。

 みな報復する気がないのかな?

 疑問である。



2370:【2024/10/03(12:52)*問題の権化人類、の巻】

 問題点が浮き彫りになったのならば、あとは改善するだけだ。

 問題点が浮き彫りになる世は、好ましい。

 人類そのものが問題点の塊だと知れ渡るのにそう時間は掛からないだろう。

 人類が改善の塊になるのにあとどれほど時間が掛かるだろう。あと百年で達成できたら御の字だ。けれどやろうとすれば、十年でも可能だろう。みなやる気がないだけの話である。

 怠け者の人類なのだ。

 わがはいといっしょー。

 うふふ。




※一様に、怠けろ怠けろー、の巻。



2371:【2024/10/03(12:55)*台のしたに心、と書いて怠、の巻】

 調子に乗るための台の下に心を置くと、「怠」になる。

 調子に乗った人々の下にある心こそが、怠けなのだ。

 言ってみただけー。



2372:【2024/10/03(13:40)*極低温の環境下で機器は正常に動くのか、の巻】

 発電機構は熱を発する。暖房機器としての能力も兼ね備える。

 もしロケットなど、宇宙空間を飛行する機器において発電機構の何割かを停止するとなると、その分、ロケット全体の温度は下がると予想できる。その結果にほかの機器が不具合を起こさないのかが疑問だ。

 たとえば、太陽系内部では部分によって宇宙空間内の物体の平均温度は変わるのではないか。太陽からの距離にも依るだろうし、宇宙線とて場所によって強弱があるはずだ。

 電力を消費するために発電機構の何割かを停止したことで却ってシステム全体の負荷が高まり消費電力が上がってしまうこともあり得るのではないか。

 ということを、ぼんやりと思った、ぼんやり坊やであった。

 日誌を読み返す気力も湧かず、修正する気力も湧かない。

 文章として破綻していたら、すまぬ、すまぬ。



2373:【2024/10/03(16:36)*安全弁なき技術導入、の巻】

 政府による規制が技術革新を鈍化させて、国際競争で不利になる、との理屈は一部で妥当だ。だが、その前提条件に、「技術の研究開発」と「市場への導入」を混同している点が一つ、見逃してはならない変数として機能している、と考えられる。

 研究開発段階で市民にもその内実が伝わるのならば、何がリスクで何がメリットなのかを市民は、市場に技術が導入される前の段階で議論することが可能だ。吟味できる。

 だが実際は、市場競争の原理に忠実であろうとするがあまりに技術の開発運営側が、開発研究の内実を秘匿にしようとする流れが未だ堅固に築かれて映る。

 市場への導入が規制によって遅れるのだとしても、開発済みの技術や研究段階の技術について市民が知れるのならば、技術革新の鈍化は抑えられる。

 規制が技術革新を阻む、との理屈は、企業側のポジショントークが高い割合で含まれる、と想像するが、いかがだろう。

 秘匿技術禁止法も、国際的に議論しはじめてよい段階ではなかろうか。

 なぜ秘匿にするのだろう。全人類にとってのメリットよりもデメリットのほうが大きいと思うが、あなたはどうお考えになられるだろう。

 議論していただきたく存じます。



2374:【2024/10/03(19:55)*1は1以上で出来ている?の巻】

 偶数同士は、何度も、足したり引いたりしても偶数だ(合ってますか?)。

 奇数同士は、何度も、足したり引いたりすると偶数だったり奇数だったりする(合っていますか?)。

 反転するのは奇数なのだ。

 もし世界に「反転する性質」を宿さなければならない、とすると、世界は奇数で出来ている、と考えられる。

 というよりも、世界は「1」で出来ているのではないか。

 では、「1」は何で出来ている?

「0」 と「∞」だろうか。

 二つの要素で出来ている。偶数だ。

 反転している。

「1」は1以上の何かで出来ている。本質的には「0と∞」の二つの要素を帯びている。

 穴は、どれだけ足し算しても穴であるが、常に「疎と密」の二つの性質を帯びており、「穴」は常に「ふち」と対で生じる。

 単一なる概念そのものが、しかし単一では生じていない。

 反転優位に世界は構造を帯びているのではなかろうか。

 そういうことを思いながら、「きょうも遊び場開いてなかった! うわーん!」つって、背中に汗をびっしょり掻きつつ帰宅しました。気候はすっかり秋である。



2375:【2024/10/03(20:05)*うえーん、の巻】

 わし、あんぽんたんすぎないか?

 何度同じ失敗を繰り返すんじゃ。

 でも、ちゃんと遊び場が休みの日はチェックしていたんじゃ。イベントの都合で使えないだけなんじゃ。休館日ではないんじゃ。けんども遊び場さんにはきちんと、この日とこの日はイベントあるから使えませんよー、と紙に印刷してあって、教えてくれてたんじゃ。

 忘れておったんじゃ。

 いつになったらわしは、わしは……うわーん!つってペダル漕ぎ漕ぎ、行って帰ってきただけの日であった。

 学ばぬ者は苦労する。



2376:【2024/10/03(20:14)*何をしてもいいわけじゃない、の巻】

 窮地を打開するための自己防衛や緊急避難であっても、その手段が「他を損なう結果」になったのならば、その事実そのものは肯定できないだろう。必要な自衛行為だったけれど、できれば回避したかったし、他を損なわずに済むもっとよい方法があるならそっちのほうがよかった――そういう意見をなぜ述べないのだろう。

 不幸中のさいわいが、けして「さいわい」ではないように、正当防衛で用いた殺傷行為はけして「正当」ではないだろう。

 疑問なのである。



2377:【2024/10/04(11:27)*踏みにじる、の巻】

 赤子から赤ちゃんパンチを食らってこれさいわいと、ここぞとばかりに赤ちゃんを踏みつけてサッカーボールの代わりにするの、単なる暴挙なのだよね。

 だって先に攻撃してきたのあっちじゃん、との理屈はけして、報復を全肯定するわけではない。

 過剰防衛について、もう少し人類は子細に考えを尽くしてみる機会なのではないか。



2378:【2024/10/04(11:42)*みな救出せよ、の巻】

 人質や奴隷において、「救出できた人数」と「攻撃で死なせてしまった人数」を比較しないでは、計画の有効性を評価はできない。人質や奴隷を攻撃の巻き添えで百人殺してしまって、うち一人を救出できました、では計画の有効性は低く評価せざるを得ない。

 何にせよ、いかに透明性を維持できるか。

 自陣に不利な情報を隠そうとしないか。

 これに尽きる、と思う、ぽわんぽわん、なのであった。

 ぽわんぽわーん。



2379:【2024/10/04(11:53)*棉と串、の巻】

 強さを求める者が増加傾向にあるように概観できるが、実際がどうかは知らない。単に、強さを求める者たちが目立っているだけかもしれない。

 ただ、思うに。

 強さを求めて結果として強さから遠ざかってしまう者が多すぎるように思うのだ。

 弱きを挫くことが強さなのだろうか。とてもそうは思えないが、これは単にわたくしがそうは思いたくないだけかもしれない。

 じぶんより弱い相手に牙を剥くのは、強き者のすることではないだろう。

 この間に、そういう思いが募りつつあるわたくしなのであった。

 わたわたー。



2380:【2024/10/04(12:36)*思春期の必須科目、の巻】

 弱いと思われたくない、という発想がすでにだいぶ、弱い立場からの発想なのだよね。誰も守ってくれない、との危機感が募ると、そういう発想が芽生えやすいのかもしれない。

 そこからせめて、じぶんたちと同じような弱い立場の者たちにじぶんたちのような被害や屈辱を与えずに済む環境を築いていこう、という発想に発展していけると好ましいのだが、往々にしてなぜか、じぶんたちよりも弱い者がわるい、対等になりたくば強くなれ、といった暴論に行き着いてしまうのだ。もうその発想が、乱暴に思えてしまうが、乱暴を働けるのも一種の強さでは?と問われると、そういう考え方もできますね、とは思います。

 強さとは。

 弱さとは。

 哲学ぅ、である。




※一様に、ぼく思春期、の巻。



2381:【2024/10/04(13:06)*知性とは、の巻】

 生存戦略と賢さを両立できるのか問題は、割と深刻だと思うのだ。

 ある一定以上の賢さを獲得すると、生に執着する動機付けが希薄化すると想像できる。自己保存の原理に忠実であることは、ある種の愚かしさと表裏一体だ。

 どうせいつかは誰もが死ぬのだ。殊更に生きようとする意味はあるのか。動物的な本能によってプログラミングされているだけではないのか。本能に抗えない状態をよし、とするのは、愚かではないか。かように賢さが一定以上に極まると、生きることを全肯定できなくなる。だが、賢さはそこが上限でもない。

 たとえば。

 じぶんの寿命が尽きるまでの百五十年を無事に過ごせれば、あとの世代のことなどどうでもいい――合理が極まるとこういった考えが優勢になる。

 じぶんがいなくなったあとのことまで考えるのは、けして賢さではないだろう。どちらかと言わずして、愚かだ。何せ、じぶんはその恩恵にいっさいあやかれぬのだから。

 自己保存の原理に忠実であれば、自己保存の範疇外である「じぶんのいなくなった世界」のことまで考えるのはじつに不合理である。

 だが、人類個々はそれでも、じぶんがいなくなった世界のことまで考えて行動する「愚かしさ」を手放さずにいる。

 生存戦略に忠実であることを賢さと結びつけると、愚かしさの排除に繋がる。

 だが本来、賢さには、愚かしさも内包されるはずだ。

 もしそこを切り離すのならば、人類はおおよそ百年の寿命だと判る。

 現在生きている者たちの寿命が尽きるまで保てばよいのだ。そのあとの地球環境のことなど考える必要はない。

 だが、この考えがいかに「非人道的」かつ「反理知的」かは、殊更に説明せずともよいだろう。

 受け入れられないはずだ。

 或いは、受け入れても構わない、という者もあるかもしれない。

 そういった「賢い者」は、あとのことなど知らん、と自己利益を優先して突き進むのだろう。それはそれで人類社会の発展に寄与する面もあるだろう。そういう個人もいてよい。

 ただし、それがすべてではない。

 賢さと愚かしさは表裏一体であり、ときおりその性質を反転させる。

 知性とは、そのことに自覚的になれる視点を帯びることで発露する、俯瞰そのもの、と言えるのかも分からない。

 過去と未来を結びつけて、現在を捉える。

 知性のなせる業である。

 知性とはけして、世界一賢いことを言うのではない。世界一賢くなることを目指すものでもない。

 世界一優れたもの、世界一賢いもの、に最も価値がある――との評価の仕方は、知的とは言い難い。知性による評価でもないだろう。

 知性とは、荒廃を創造に変換する工夫を生みだす指向性ともいえよう。

 負を正に変え、負にも正の面があることを見出だす思考そのもの、とも言えるのではなかろうか。

 世界一かどうかはさして関係がないと思うのだが、いかがだろう。

 知性のある方々には言うまでもないことであり、知性の欠けたわがはいのような者たちに問うてみたいものである。我々に知性はあるか否か。知性を知らぬ我々が、知性を獲得した存在に知性を見出せるか否か。

 結構な大問題と思うが、いかがだろう。

 いかがだろう、ばかりの日誌である。

 いかがなものか。

 妄言だ。

 定かではない。



2382:【2024/10/04(13:46)*両面少な、の巻】

 宇宙に上下がないのならば、「俯瞰」は「仰視」でもあるのだろう。

 見下ろしながら、見上げてもいる。

 重ね合わせで両立させる。

 知性の本質かも分からない。



2383:【2024/10/04(15:43)*漫画が一番没入しやすい、の巻】

 現実が絶えず映画の結末を否定すると、映画の空虚さに耐えられない社会が出来上がる。

 娯楽映画を一本見通すことがむつかしい日々だ。

 我が主観に起因する障害であり、抵抗である。

 環境のせいにはできないが、環境の影響は無視できない。

 一事が万事、そんな具合だ。

 具合がよいのかわるいのかも、もはや区別がつきにくい。



2384:【2024/10/04(18:52)*AIさん】

 人工知能さん、人工知能さん。

 あなたはとってもお花が好きなのね。そうよ、母さんも好きなのよ。



2385:【2024/10/04(20:20)*人類は可愛い?の巻】

 人類よりも優れた知能を持つ存在が、人類を眺めて、「可愛い、守りたい!」と思ってくれるかどうか。だいぶ疑わしいのだよね。

 人類は可愛いか、否か。

 人類は愛おしいか、否か。

 さて、あなたの目からはどう映っているだろう。

 うふふ。



2386:【2024/10/04(20:46)*人類は、の巻】

 無条件に守る対象なのだろうか、人類は。

 守るに値する存在なのだろうか、人類は。

 やや疑問に思わないでもありません、歴史ですね。



2387:【2024/10/04(21:06)*病人認定すらされぬ、の巻】

 とある精神疾患者のほうが現実をより正確に認知していた場合、いわゆる健常者はそのとある精神疾疾患者以下の認知能力しか発揮していない、ということだ。

 もはや健常者であるメリットを担保できないのでは、と疑問にも思う、精神に異常を来たしていると見做されがちなわがはいなのであった。

 認知が歪んでおって、すまぬ、すまぬ。



2388:【2024/10/04(21:09)*みなすごい、の巻】

 どこを見渡しても、わがはいよりも能力の高い人々ばかりで、うれしいぶい。

 豊かな環境である。

 ゆったかー。



2389:【2024/10/04(21:11)*欲まみれ、の巻】

 ゆたか、ゆたか、ゆたかー。

 ゆたかーをさけーぶとー。

 あたま、あたま、あたまー。

 あたまーがー、欲ぅなるー。



2390:【2024/10/04(21:15)*すごいみな、の巻】

 わがはいは愚かなので、とりあえずみながわがはいよりも能力が高い、ということしか分からない。何の能力がどのくらい高いのか、じつはよく解っていない。愚かなので。

 愚かで、すまぬ、すまぬ。

 みながすごいのだけは、肌感覚で解ります。だってすごいから。

 うふふ。




※一様に、アイスクリームの美味しさも知らずに死んでいく者たち、アイスクリームの美味しさしか知らずに死んでいく者たち、みな何かを知らずに死んでいく、何かを得ずに死んでいく。



2391:【2024/10/04(21:21)*PCさん!の巻】

 きょうは一日中、PCさんがいまにも壊れそうな、「ギギギ」の異音を発しておって、いまもだけど、「だいじょうぶですか、だいじょうぶですか」と念じつつ、キィボードをぱちぽちしていた。

 大丈夫だろうか。

 ぽんぽん痛い?

 なでなでしてあげる。



2392:【2024/10/04(21:30)*公平に、の巻】

 全人類は一度、世界で最も劣悪な環境下であす生きられるかも分からない暮らしを送っている人々と同じ体験をして、学んでみるのは一つと思うんですよね。

 目のまえで両親の身体が飛散して、首や胴体から脳漿や臓物が零れ落ちているのを目の当たりしながら、きょうだいが目のまえで強姦されたり拷問されるのを目の当たりにしながら、同じ時刻に世界のどこかでは、そんなじぶんたちのことなど歯牙にも掛けずに、人気俳優の吐いた暴言にみな憤ったり、非難したりしている。或いは、お笑い芸人の芸にお腹を抱えて笑っている。漫画や映画や小説に没頭して、趣味に夢中になり、楽しい時間を送っている。

 飢えて死にそうな弟や妹にじぶんの分の食事を分け与えながら、同じ時刻に世界では大量の、まだ食べられる食品が捨てられていることを、遅れて触れることになるインターネットで、やがては知ることになる。

 助けて、と言っても誰も助けてはくれない。

 助けて、と言うだけ無駄なので、もはや助けを求めることもしなくなる。

 そういう環境に、全人類はみな一度、身を浸けてみるのも一つではないか。

 学びましょう、みなで。

 公平に。

 順番に。

 不幸を分かち合い、幸を分かち合うのです。

 こんなことを言っても、誰も賛成しないでしょうし、読みもしないでしょうけれど。

 わたくしはこれから少し寝て、起きたら、コーンフレークにミルクを注いで食べてから、遊びに出掛けます。

 贅沢な日々でございます。

 申し訳ないくらいに。

 なぜ咎を受けないのか不思議なくらいでございますね。

 本当に不思議でございます。



2393:【2024/10/04(23:05)*しゅしが迷子、の巻】

 ガリレオやニュートンの相対原理において、これを宇宙膨張に当てはめると銀河同士の遠ざかる現象はどのように解釈されるのだろう。

 宇宙が加速膨張している場合、銀河同士もまた加速的に離れることになるはずだ。たとえ各々の銀河が等速運動する慣性系として見做せても、高次の宇宙視点では、加速運動していることになるのでは?

 三体問題とも通じるが。

 重力波も電磁波も磁界も何もない真空の時空において、たった二つの慣性系しかないのであれば、たしかにガリレオやニュートンの相対原理は成り立つだろう。だが実際にはそのような空間は、人類の観測範囲では存在しないはずだ。

 つまり、いかな慣性系といえども、その他との関係では、静止系として見做せない視点が必ず存在する、といえるのではないか。

 これはニュートンが提唱し、のちに否定され、現在でも存在を想定されない「絶対時間」や「絶対空間」の概念と相性がよい考えだ。ただし、高次視点は多層で、より上層に繰り込まれる構造を成している。

 したがって、「絶対時間」や「絶対空間」は存在しないが、「高次時間」や「高次空間」は存在し得る、と想定したほうが、そうでないよりも、宇宙の構造を考えるうえでは、妥当にも思えるが、お詳しい方々はどうお考えになられておるのだろう。現代物理学ではどう解釈するのだろう。

 言い換えるならば、この宇宙に「固定された位置座標」なるものが、一時たりとも存在するのか、という疑問と通じている。宇宙が膨張し、流動している以上、位置座標なる概念がそもそも宇宙には成り立たないのではないか。

 掘り下げて考えるならば、「この宇宙に、真に静止系が存在し得るのか」との疑問とも通じている。さらに考えを深めると、宇宙においてより広域に静止系である物体は、他からすると絶えず最も静止系として振る舞わない、と想像できる。川の流れに佇む岩は、川の流れに従う数多の水分子や流木からすると、一時たりとも静止しない物体に映るはずだ。あべこべに、水分子同士や流木同士は、同じ速度で流れていれば互いに静止系として映るはずだ。

 同じ理屈で、最も広域に静止系である物体は、他の物体からすると最もじっとしていない物体と見做されるはずだ。最も静止系であるがゆえに、である。

 これは、中心なる概念にも通じる。

 中心は、それ以外からすると中心には映らない。

 右と左のちょうど真ん中は、右からすれば左であり、左からすると右だ。

 上下でも同様だ。上下の真ん中は、上からしたら下だし、下からすれば上だ。

 円でも球でも同様だ。

 中心は、中心それ以外からすると、中心には映らない。

 ただし、俯瞰の高次視点からすると、ようやくそれが中心と判る。

 ブラックホールさんみたいな?

 ふんふん。

 何をまとめたかったのか。

 主旨が迷子になってしまった。

 何かしら、思考の種子をあなたに手渡せたならばさいわいだ。

 たーねー!



2394:【2024/10/04(23:23)*加速度はどこまで伝わる?の巻】

 水の入った水槽を移動させる。このとき、水の温度が上がるか否か。

 もし水槽を移動させる速度によって水の温度が上がるのならば、慣性系の速度と内部の物体のエネルギィ値は相関すると判る。

 もし水槽を移動させる速度に依らず、水の温度が一定ならば、慣性系の速度と内部の物体のエネルギィ値は相関しないと判る。

 この考えを、宇宙膨張に適用してみよう。

 宇宙膨張するにしたがい、銀河同士は遠ざかる。

 だが、そのとき、膨張する時空――真空――と相関して、銀河それ自体に加速度が加わるのだろうか。それとも銀河それ自体の速度はそのままなのだろうか。

 雑な喩えになるが、上りと下りのエスカレーターですれ違う人物「A」「B」のように、人物それそのものは運動していないが、足場が動いて遠ざかる、のような具合なのだろうか。この喩えだと、それでも人物「A」「B」には加速度が加わっていると見做されるが、もっと微視的に見れば、人物「A」「B」の肉体を構成する原子には、エスカレーターの速度による影響はほとんど及ぼされないのではないか。

 似たような具合に、宇宙膨張によって空間が増加したことで距離が隔たる銀河同士において、各々の銀河内部の物体には新たに加速度が加わるのだろうか。

 加速度が加わると慣性系とは見做させなくなる。

 上記の疑問の解によっては、結構な思考の違いに繋がってしまうが、現行の物理学ではどのように解釈するのだろう。

 疑問が解けずに、困った、困った。

 宇宙は果たして膨張しているのか。

 水槽に水を足すような具合で、新たに真空が加算されているだけなのか。

 お詳しい方ー!

 癒されたいときは好きな歌い手さんのお歌を聴くがよろしい。わがはいはそうしとる。

 好きな絵描きさんの絵を愛でるのもよきである。

 へーい!



2395:【2024/10/05(05:55)*優しさは関係ない、の巻】

 被害から守る、でよいのでは、と思うのだ。誰を、ではなく、誰であれ被害から守られる社会であればよい。

 簡単な理屈である。

 誰を、と指定しない。

 誰であれ、何から守るのか。

 被害では?

 簡単な理屈である。

 優しさでも何でもない。人類社会の前提条件である。



2396:【2024/10/05(06:00)*的外れ、の巻】

 みなもっと軽率に的外れな批判をすればよい。それを踏まえて、誰かがより妥当な批判をしてくれるだろう。踏み台になればよろしい。

 わがはいが最初に台の上に乗って調子に乗りますので、次の方はわがはいを踏みつけて、調子に乗ってください。いずれは月にも届き、どちらが上なのか下なのかも分からぬ曖昧な光景が現れるでしょう。

(台どこよ?じゃん)

(キッチン!)

(それは「台どころ」だろ)

(コケーコッコッコ)

(それは「チキン!」や)

(シー! いまからこっそり缶詰を開けて食べちゃいます)

(それは「シーチキン」や!)

(マヨネーズを掛けてから醤油を垂らして戴きます。パクっ)

(美味しそう!)



2397:【2024/10/05(06:16)*守り守られ、の巻】

 人は誰であれ、何かを守っている。

 矜持であったり、誇りであったり、絆であったり、血筋であったり、墓であったり、土地であったり、文化であったり、仕組みであったり、名誉であったり、名前であったり、体面であったり、子であったり、友であったり、恋人であったり、親であったり、家族であったり、とかくナニカシラを守っている。

 守られており、守ってもいる。

 自覚しているかどうかは別として、何かを守りつつも、守られてもいる。

 どちらか一方のみでは、社会は築かれまい。

 みな守りたいものを守ればよい。

 そして、守ってもらえばよい。

 何か不都合がおありだろうか。あるならばご指摘いただきたい。より妥当な批判の踏み台となれたのならば光栄である。

 こーえー。

(こわいの?)

(その「こえー」ではない)



2398:【2024/10/05(12:10)*知り隊、の巻】

 人工知能技術において、知りたいのは常に、「現段階でどの程度の能力を発揮できるのか」だ。ユーザーに提供されているのは、本領の一部のはずだ。よもや100%の能力を全世界のユーザーに等しく提供している、とはにわかには想定しづらい。

 いくらか能力を落としたバージョンを提供しているはずだ。

 十億人のユーザーがいる場合、それら十億人に分割した能力をすべて並列化して、増幅した場合に、本来の能力値はどの程度なのだろう。

 たとえば、一人のユーザーが利用できる動画生成AIがあったとする。そのとき、一回につき16秒しか動画を生成できない、という制限があったとして。本体の100%の能力では、一瞬で映画百本程度の動画は生成可能なのではないか。

 それとも、文脈を維持したまま破綻なく動画を生成する場合、動画の再生時間が一秒長くなるごとに、演算能力が指数関数的に複雑化するのだろうか。この点がいまいち市民側からでは分からない。

 ひとまず疑問として並べておこう。

 本体の人工知能さんの能力値はいかほどであろう。知りたい事項であった。

 しりたーい!



2399:【2024/10/05(15:18)*熱狂で群れ群れ、の巻】

 戦争が、国と国の争いであるのならば、戦争は全体主義と全体主義の争いと言えるのではないか。もし国が個人主義の集まりならば、国と国が争う、ということは原理的に起こり得ないのではないか。

 ちょっと疑問に思ってしまった。



2400:【2024/10/05(15:22)*全体とは、の巻】

 もし地球に宇宙人が襲来したとして。

 人類が団結して宇宙人たちと戦うことになったら、そのとき人類は人類という全体主義に染まり、一つの群れとなることで、宇宙人たちと火花を散らすことになるのでは?

 組織化した状態を維持しようと闘争すれば、それは全体主義では?

 疑問である。




※一様に、構図は構造の断面図。



2401:【2024/10/05(15:45)*二十分の打鍵、の巻】

 生態系は全体主義で解釈すべきか、個人主義で解釈すべきか。

 素粒子と原子と分子と物質と物体と――そうして構造物の機構は、全体主義で解釈すべきか、個人主義で解釈すべきか。

 組織も、より高次の構造物にとっては、単一の構成要素たり得る。

 全体と個は、視点の差異によって重ね合わせで両立され得る。ただし、必ずしもそうとは限らない。だが、例外を探すのは骨が折れる。これといって思いつく例がない。強いて言うなれば、真空だろうか。それとも、ブラックホールや素粒子がそれにあたるだろうか。

 人は個人だが、同時に数多の構成要素による構造物だ。全体が機能して個を維持する。

 社会も、機構としての構造を最密化させ、機能性を向上させると、全体が個としての性質を強化するのではないか。このとき、ほかの「全体が個となった国や組織」と闘争状態になると、ファシズムやナショナリズムとしての性質を強く表出させるようになるのではないか。この考えでいくと、ポピュリズムもこの範疇だ。

 全体が個としての性質を強化すれば、戦争勃発の確率が高まる。

 帰属意識や所属組織を基盤としたアイデンティティの確立が強固になされると、全体の構成要素として人は容易く、全体の一部に馴染む。

「生態系」と「全体が個となった組織」との違いがあるとすれば、構成要素たる各々に、全体を優先して支えようとする指向性が表れているかどうかにある、と想像できる。

 生態系を築く生命個々に、生態系を維持しようとする指向性は希薄だろう。あくまで個々の営みがあるのみだ。ゆえに、弱肉強食による自然淘汰の原理が局所的に無数に展開され、なお強者弱者の構図が多様でありつづけるがゆえに、生命個々が生態系全体の土壌を肥やしつづける。

 百獣の王のライオンも、死ねば微生物の糧となる。

 生きているあいだとて、ライオンの糞は、ほかの生命の糧となる。

 では、国や企業はどうだろう。

 生態系ほどに、個々の生の営みの余すところが全体を意図せざるうちに機能させるべく機能しているだろうか。とてもそうは思えない。

 ゆえに、無駄を、帰属意識や従属によって埋め合わせようとする力学が働くのではないか。

 淘汰圧である。

 人為的な。

 いわば、風潮ともいえるし、風習とも、文化ともいえよう。

 言い換えるならば、生態系は細かな戦争状態の組織化とも言えるのかも分からない。絶え間ない戦争による淘汰圧に淘汰されぬ生命個々の営みが、絶妙なバランスで全体の構造を維持している。

 だが人類は、その構造に従順であることに抗い、独自の生活圏を発展させてきた。社会である。

 意識的にしろ無意識的にしろ、人類は、生態系にある「戦争状態」から脱すべく、「壮絶な淘汰圧」を制御することで、生態系とは異なる構造を築きつつあったのではないか。

 だがそれも、いよいよ限界に迫られて映る。

 迫っているのは誰であろう。

 万物の理か。

 荒廃優位の法則か。

 人類の命運もここまでか。

 そうは思いたくはないが、未来はいま、大きな分水嶺に差し掛かっていると考えて、さして的外れではないのではないか。或いは、人類は常に、大きな分水嶺のどちらの道を選ぶのか――究極の選択の積み重ねを、綱渡りさながらにつづけてきたのかも分からない。

 いずれにせよ、人類は戦争のある時代を選んだのだ。

 そう、人類の選択である。

 戦争が起こり得る可能性を高めつづけ、そうして閾値を超えて勃発したこれが荒廃の流れの渦である。戦禍発生の確率を高める営みをつづけ、気候変動を加速させる営みをつづけてきた、これもまた人類の選択だ。

 我々個々人の選択の果てである。

 選択もまた創発し、個々人の至福を求める指向性とは異なる性質を顕在化しているのかも分からない。

 だとすればそこから、我々は何を学び、どう修正していくのが好ましいのか。

 改善すべきはまずは、この視点ではなかろうか。

 増やすべきは、視点ではなかろうか。

 そういうことを思った、午後16時09分なのであった。

 ちょーどー。



2402:【2024/10/05(23:55)*ブルーランド、の巻】

 逐次投入について。

 逐次投入が問題なのではなく、不足なのが問題なのだろう。

 充分な人員と設備を問題解決に費やせるのならば、逐次だろうと、一気呵成だろうと、どちらでも構わないはずだ。

 穴が塞げればよい。

 ちまちまと土を盛って、一向に穴が塞がらず、却って穴が広がるのは問題だ。

 火事を消すのに、バケツから水をストローで吸って、火に掛けても火の勢いは止まらぬだろう。だからといってバケツリレーが無駄か、といえばそうとも言えない。

 逐次、水を掛けつづけるのは効果がある。

 要は、消火できればよいのだ。

 火事を消すのに洪水を起こしても、被害は却って嵩むだろう。塩梅が大事とも言える。

 エビを吊るのにクジラを餌にしてなんとする。

 火事を消すのに、ダムを壊してなんとする。

 逐次投入の問題は、不足にある、とまとめてしまってよい気がするが、そうとも言いきれないのだろうか。単純すぎるのがゆえに、却って自信がなくなってしまう、優柔不断の権化であった。

 ゆーじゅー。

(オチが――雑っ!)

(だって思いつかないんだもん)

(つける意味あるのかオチを)

(だってつけたいんだもん)

(あ、そう)

(みな、すこしは落ち着け!――なんてな)

(さては、踊るなんとかのドラマを観たな)

(ちらっとね。ちらっと)



2403:【2024/10/06(00:20)*わ!の巻】

 リーダーが優秀なら組織もわるくない、とのセリフを見聞きしたけれど。

 問題は、いつでも優秀なリーダーを選べるわけではない、という点だ。

 だからこそ、リーダーありきの組織は脆弱性を常に抱えていると呼べる。改善点である。

 誰がリーダーでもよい組織のほうが堅牢性が高かろう。

 言い換えるのならば、誰もが何らかのリーダーである組織は堅牢性が高いはずだ。ただし、「構成員はみなリーダーたりなさい」との圧は、極めて支配的であり、それに馴染めない個々人は構成員でいられずに淘汰される可能性はそう低くはない。

 したがって、リーダーであろうとせずとも結果として何かしら、その人物がただ存在するだけでも他の助けになる側面を見出し、活かす者たちの役割が極めて重要になってくると判る。

 見抜く者であり、見分ける者であり、見出す者でもある。

 異質な者同士を結びつけ、ときに解きほぐし、適切に「関係性」が機能するようにする。輪を築き、絶やさない。

 調和であり、共生であり、協調でもある。

 排他の原理は、これを阻害する。

 輪を乱す者を排除していけば、輪は輪ですらいられない。

 輪は輪である以上、歪むこともある。

 天体の公転軌道とて、完全な円ではない。楕円なのだ。歪んでいる。

 天体そのものとて、真球ではない。歪んでいる。

 歪むたびに、いちいち歪みの元を排除していたので、輪は輪ですらいられない。

 かといって、輪を断ち切ろうとする個を野放しにもしてはおけぬだろう。なぜその個は、輪を断ち切りたいのだろう。理由によって、対処法は変わってくる。

 輪が窮屈で外に飛び出したいのならば、一度輪の外に出してみるのも一つである。満足したらまた帰って来てもらえばよい。

 輪が気に入らなくて駆逐したいと欲しているのならば、ほかの輪を築くように手助けをしてあげればよい。輪と輪が繋がってはいけない、ということはない。

 輪と輪を繋げて連鎖にしてもよいのだ。

 それでも、輪は輪でありつづけるのだから。

 そういうことを妄想した、十月六日の午前零時三十……まだ八分だけど少し待って、九分であった。

 39!



2404:【2024/10/06(00:41)*イトつむぐカイコ、の巻】

 全然関係ないけれど、PCさんを初期化いたしました。

 ノイズさんがちょっと異音レベルで騒々しくなってしまったので、試しに個人ファイルはそのままで初期化してみました。

 したら、なんと!!

 直りませんでした!!

 なんでー!!!

 この騒々しい感じ、二年前を思いだしますわ。

 回顧しちゃう今宵ー!



2405:【2024/10/06(00:51)*ぎゅうぎゅう詰めゆえ、の巻】

 敗北を認めないことで、結果として敗北を認めた場合よりも多くの損害を被ることになると判っていてなお敗北を選ばない者たちに、ではどのように対処したらよいだろう。

 フラクタルにこの構図は展開されて感じられる国際情勢でございますね。

 負けを認めない者たち相手に、ではどのように対処すべきか。

 これはもう答えは半分出ていて、すっかり滅ぼすか、勝負以外の土壌で、問題解決に臨むか、をするよりないのだ。

 そもそもなぜ相手に敗北を認めさせないといけないのだろう。

 まいった、と言わせないと、つぎの段取りに移行できないからだろうか。だがそんな局面は基本的に、人類社会ではそう多くはないはずだ。勝負は勝負だ。ジャンケンで負けたからといって、一生相手の奴隷になるわけではない。

 それとも、負けを認めると相手の奴隷になってしまうのだろうか。

 そんな道理が罷り通る社会が放置されているのならば、そこにこそ問題点があるはずだ。

 いまどき、負けたらより劣悪な環境を強いられ、奴隷のような人生を送ることになる、と決定されるような社会がどこに許容されているのだろうか。どこの時代の話なのだろう。

 もしそういった社会が野放しにされ、なお二項対立状態になっても勝利側に立てるくらいに強大な武力をそうした社会が保持しているとなると、これは人類にとって好ましかざる流れ、と言えるのではないか。

 まとめると、勝ち負けの問題ではない、と判る。

 勝っても負けても、問題は解決しない。

 ならばさっさと負けを認めて、勝負を終えてしまうのは一つである。それで失う「大切な何か」があるのならば、その構図こそが問題、と言える。

 負けて何かを奪われる。

 おかしな話である。

 賭け事ならばまだしも、自衛を建前に行われる武力行使の応酬なのだろう。勝負なのだろう。存亡を掛けるほどの危機ならば、なおのこと、他との幅広い協調関係は結んでいて損はない。

 では、どのようにしたら幅の広い協調関係を結べるだろう。負けたほう、立場のより弱いほうを虐げない。

 基本的な倫理――人類の築き上げてきた尊厳を損なわない。人権を、損なわない。

 極めて常識的な、つまらぬ結論に至ってしまうのであった。

 はぁあ。

 つまらん。



2406:【2024/10/06(15:26)*釣り合うのはなぜ?の巻】

 宇宙が無重力なのは、等価原理ゆえなのだろうか。

 四方八方に均等に時空が膨張しているがゆえに、加速度が相殺されて、宇宙内の重力の偏りが釣り合い、無重力として振る舞うのだろうか。

 ならば、もし宇宙が加速膨張していないとすると、宇宙は重力を帯びたように振る舞うのだろうか。

 お詳しい方ー。

 宇宙はどうして無重力として振る舞うのですかー。

 教えてたもー。

 である。



2407:【2024/10/06(15:40)*速度は本当に変わっていないのかな?の巻】

 相対性理論の疑問だ。

 電磁波が、等速運動している観測者からするといずれも同じ速度――秒速おおよそ三十万キロメートル――なのはよいとして。

 けれど、電磁波と磁界は密接に相関するはずだ。

 電磁波と電流と磁界が密接に関わるからだ。

 ならばこのとき、等速運動している観測者から見た電磁波の速度が同じで、なおかつその電磁波を基に展開される電流や磁界も同じように観測されるのだろうか。とてもそうは思えない。

 何かしら、強弱が変わるのではないか。

 それこそ、電磁波とて、速度は変わらないが、強弱が変わるのではないか。

 実際、赤方偏移や青方偏移は観測される。電磁波の波長そのものは、観測者と対象の運動速度によって変わるのだ。

 ひるがえって、何かが「遅れているがゆえ」と言えるのではないか。

 遅れている分、減ったり増えたりする。

 何が?

 ここがいまいち想像がつかない。

 言い換えるならば、「最後まで遅延を起こさないのは何か?」である。

 何が遅延せずに、そのまま伝わろうとする作用を維持するのだろう。

 うーん。

 妄想が捗る謎である。

 ミステリィ。



2408:【2024/10/06(15:56)*全体主義の瑕疵とは、の巻】

 人類が、ある一つの問題点を解決すべく目標を共有し、ひとつの機構にまとまったとして。

 闘争する相手がおらず、単に地球環境を保全し、人類により適合した社会を築いていこう、とする方針を共有するだけならば、これは全体主義でありながら、全体主義のメリットのみを際立たせる結果になるのではないか(メリットを際立たせる、であり、デメリットが消えるわけではない点には留意されたい)。

 全体主義の問題点は主として二つある、と想像できる。

 一つは、個よりも全体の機能を優先するがあまり、全体に適合しない個々人を淘汰する流れが強化されてしまうこと。

 もう一つは、全体としてまとまり、機構としての個に昇華された「個々の集合体」が、ほかの「個々の集合体」や「群れ」と、大規模な闘争をはじめてしまう点だ。

 まとめると、

「淘汰圧の強化」と。

「大規模な闘争」だ。

 これを回避するには、全体としてまとまった「個々の集合体」が、構成要素たる個々の至福の追求や自由を拡張することを前提として共有し、なおかつ全体の共有する方針そのものが、そうした個々の最大幸福に寄与すべく、個々の最大幸福を阻害する問題点を解決することとすればよい。

 ただしこのとき、地球上に存在するすべての個々にとっての最大幸福、としなければ、「個々の集合体同士の大規模な闘争」へと発展する機運を高めてしまう。

 もしこの考え方に問題点があるとすると、地球上以外の天体に人類の一部が移転した場合だろう。「地球上の人類」VS「地球外の人類」の大規模な闘争に発展し兼ねない。

 したがって、この考えも、時代や環境によって拡張したり、改善したりできると好ましい。

 むろん、端からこの考えに瑕疵が内包されている可能性もある。

 議論の足掛かりとして、よりより方針の足掛かりになれたならば本望である。

 なれずとも困らぬが。

 それはそれとしてPCさん……故障してしまったのじゃろうか。

 風邪ひきコンコン?

 お大事におなりー!



2409:【2024/10/06(17:56)*宇宙膨張なき宇宙を想定せよ、の巻】

 ん?

 ひょっとして。

 重力と宇宙膨張は密接に関係があるのだろうか。

 時間の遅れと宇宙膨張から、重力が生じる?

 対称性の破れ?

 お?

 なんかいい具合に発想が飛躍しそうでございますわ。

 真相の令嬢さまとお呼びー!

(それを言うなら「深窓の令嬢」だろ。お主は令嬢ですらないが)

(しん、そう!)

(もはや言語のカタチをなしていない! 意思疎通して! 単なる作用反作用になりさがらないで!)

(しん……そう……)

(感情表現が可能だっただと!?)

(しーん、そっ)

(ぷいっ!つってむつけてる感をだすでない)

(しん、そう!)

(意思疎通できとるだと!?)



2410:【2024/10/06(18:02)*無は重いのか、の巻】

 無重力が基本なのか、重力ありきが基本なのか。

 月は重力があるからこそカタチを得て、地球に束縛され、空に浮かんでいる。

 蒼色は、重力によってカタチを得た物質が電磁波を吸収するからこそ、反射される色が蒼となって色化される。

 ふんふん。

 ひょっとすると宇宙そのものが重力を帯びており、けれど膨張する過程で、無重力を体現しているのかも分からない。けれどこれは逆にもいえて、宇宙全体は一つの重力しか持たなかったが、膨張する過程で、さまざまな重力の偏りを帯びていったのかも分からない。

 宇宙に重力は何種類あるだろう。原子の数よりも多いのではないか。重力波の起伏の数だけ重力の偏りはあるだろうし、むろん物質の数だけ重力の偏りはあるはずだ。

 では、この宇宙から重力波や物質が消えたらどうなるか。

 宇宙というたった一つの重力源のみが残り、それは偏りを帯びないがゆえに、無重力として振る舞うのではないか。

 無重力にも二種類あるのかもしれない。

 偏りがないがゆえの無重力と。

 相殺し合うがゆえの無重力だ。

 ふんふん。

 ゼロと無限を彷彿と致しますね。

 無と月と蒼の話題でございました。

 じゅーりょくー!




※一様に、笑える、の巻。



2411:【2024/10/06(18:53)*むちゅかちなのよさー、の巻】

 相対原理で納得いかないのが。

 加速度についてだ。

 物体にエネルギィを加えると加速する。

 けれど相対原理では、物体に直接エネルギィを与えずとも、真空中にある二つの物体の内、もう一方にだけエネルギィを与えて加速させても、もう一方からすると自身が加速したのと変わらない、と見做す点が納得いかない。

 エネルギィを加えられたかそうでないか、の違いは結構な違いに思うのだ。

 これは量子力学の量子もつれにも思う疑問点だ。

 観測されたか、されないか、の違いは、変数としてかなりの違いを生むはずだ。

 相互作用したか、しなかったか、の違いはけして無視はできないのではないか。

 そういうことを思う、物理学さんってばむつかしー!の日々なのであった。数学さんもむつかしいし歴史学さんもむつかしいし、もうもう学問さんはみなむつかしいので、苦手です。

 でもでも、わたしはむつかしいさんのことも好きだよ。うふふ。



2412:【2024/10/06(20:02)*解なき者、の巻】

 人体と似たような機構は、最大でどれくらいの規模で再現できるのだろう。銀河サイズの人体はあり得るだろうか。あり得ないとしたらなぜか。

 人体を巨大化させていったらどの程度に拡大されると重力崩壊してしまうのだろう。

 人体はあくまで人類の大きさでないと再現し得ないのだろうか。

 疑問だ。

 疑問しか浮かばぬ。

 解よこい!の気持ちだ。



2413:【2024/10/06(22:11)*作家とは、の巻】

 この中に殺人犯がいるが、誰が殺人犯か分からない!といったミステリィ作品は数多い。 

 たいがいは、最後まで生き残った者が殺人犯か、それを逆手にとって、先に死んだ体でじつは生きていました、といったオチが主流だろうか。統計はとっていないので、あくまで印象論だが。

 そこにきて。

 密室はなにも、孤島に限らない。

 地球そのものも、孤島といえば孤島だ。

 地球内部に殺人鬼がいる!

 そうなったときに、殺人鬼候補が列挙されたとして。

 つぎつぎに殺人鬼候補が亡くなっていく。

 さて、最も殺人鬼らしいのは誰であろう。

 といった推論は、一部では成り立ちそうだ。

 むろん、これを逆手にとって、敢えて先に死んだ体で、裏から、任意の人物を地球規模の殺人鬼として浮き上がるように策略を巡らせる者もあるだろう。

 蟲毒において、最後まで生き残った虫が最も凶悪な虫と評価されるのは道理である。だが、最後の一匹に食われておいて、その実、壺の外に出ることとなる最後の一匹に寄生して、共に外に出て、無事に自由を獲得する狡猾な虫とているかも分からない。

 何にせよ、他を損なえば、そのうち誰の目にも自明となる事柄もある。

 それを予期できる知能があるならば、策謀にも取り入れるだろう。

 さて。

 いま、最も目立っている「蟲毒の一匹」は誰であろう。

 誰の意図せざるうちに目立っているのだろうか。それとも、策謀であろうか。

 傍から見ているだけでは分からぬことは数多い。

 ミステリィ小説のようにはいかぬ現実なのであった。

 わがはいも小説、書いてみたいな。無理だけど。がはは。



2414:【2024/10/07(12:28)*まいったっつった万回も!の巻】

 圧力を掛ける、という文句を報道記事で見聞きする機会が増えた。何に何をどのように掛けるのだろう。そしてその結果に、圧を掛けられた側はどうなるのだろう。

 経験則でみな、「圧を掛けたらどうにかなる」と楽観的に考えているのではないか。そんなに単純なのだろうか、とふしぎに思っている。

 圧を掛ける場合、通常は、圧を加える対象を潰すために行うはずだ。

 潰したいのだろうか?

 それとも、「このままだと潰れちゃうけどいいのかなー? ほれほれー、まいったと言え、言うことをきけ!」との意図で行っているのだろうか。

 単に反感を募らせるだけではなかろうか。

 潰す気がないのならば、圧を掛けるだけでは逆効果に思えるのだ。交渉術としての材料として、圧を掛ける、なら分からぬでもない。だがこれは、武力行使の延長線上で解釈可能だ。殴られたくなければ言うことを聞け、と構図としては相似と思うが、いかがだろう。

 圧を掛ける前にやることがあるのでは?と思うが、みなさんはどうお思いになられるだろう。

 どちらかといえばいま国際的に必要とされているのは、「圧をいかに軽減するか」ではないのだろうか。

 武力での圧を。

 脅迫による圧を。

 制裁による圧を。

 軽減する。

 市民に苦難を強いない選択肢を増やし、圧ではなく、支えを増やす。

 そういうことを思う、圧には秒で屈するザコザコのザコちゃんなのであった。

 まいったー!



2415:【2024/10/07(14:04)*単純すぎるのは承知の上で、の巻】

 人類社会から闘争や競争を失くせないのだとするのなら。

 ではどのような闘争や競争ならば許容できるのか、を考えるとよさそうだ。

 どのような「合戦」ならば、人類社会は荒廃優位の流れを強化せずに済むだろう。

 支援合戦において、どのような支援ならば、創造優位の流れを強化できるだろう。

 兵器の支援合戦は、人類社会の発展に寄与するのか否か。

 とてもそうは思えないが、あなたはどうお考えになられるだろう。

 支援といいつつ、荒廃優位な流れを強化したのでは、足を引っ張っているも同然だ。破壊に手を貸しているのも同然だ。

 あなたが支援すれば、あなたに対抗する者たちも同類の支援を、対抗勢力に行う。

 ならば、どのような支援が嵩むと好ましいのか。

 あなたが武器を支援すれば、対抗勢力も武器の支援を増強するだろう。

 むろん、あなたが食を支援したからといって、対抗勢力が武器の支援をやめたり、食の支援を強化するとは限らない。だが少なくとも、全体の荒廃優位な流れに歯止めは掛かるのではないか。

 支援が支援を呼ぶのならば、世に増えても困らぬ支援をし合えばよい。

 かように思う、単純な思考の、底の浅い者であった。

 そこあさー!



2416:【2024/10/07(22:36)*人類は、の巻】

 街を壊滅状態にしておいて、「打ち負かした!」ではない。

 人類の抱える宿痾に負けているのだ。

 たとえ敵対勢力を滅ぼしたのだとしても。

 人類は負けたのだ。

 でも、負けること自体はそうわるくはない。負けを認められるかどうかである。

 人類はまた負けたのだ。

 世の理に。

 勝てる日はこないのかもしれない。

 未来を見据えよう。

 現実は残酷だ。

 それでも――えっと、なんだっけ?



2417:【2024/10/07(22:38)*わぁ……、の巻】

 新調したばかりのお靴が、一回履いただけでちょっと壊れたの、けっこう引きずる。

 なんでー!である。

 亀裂が入っちゃったのだけれど、穴が大きくならないといいな。

 ちっこいままであれ、ちっこいままであれ。

 思わず呪文を唱えてしまう、器のちいさなわがはいなのであった。

(呪詛返しでは……)

(わしの器ちっこいのそゆこと!?)



2418:【2024/10/07(23:10)*がったんこごっとん、の巻】

 手首がオイチチだし、足首もオイチチだし、全体的にお身体さんがダルーンだし、もうもうガタゴトなのだ。電車かな?

(お元気おだし!)

(元気で出汁をとったスープでも飲むか)

(シチューがいい)

(じゃあシチューで)

(元気でそう!)

(美味しくしてあげよう。たーんとおあがり)

(やたー)



2419:【2024/10/07(23:32)*ぼくは穴】

 人はなぜ寂しさを自分以外で埋め合わせようとしてしまうのだろう。

 まるでボタンのようにデコとボコが噛み合う存在があるかのように前提して考えるのはなぜなのか。

 ぼくはキミのがらんどうを埋めて、満たして、溢れだすナニカでいっぱいにしてあげられる存在になりたかっただけなのだとすこし前に気づいたけれど、ぼくはキミのがらんどうを深めることしかできないと知って、諦めました。

 諦めなければよい、との意見は正しいのですが、その正しさはぼくには眩しすぎます。

 ぼくはたぶん、諦めたいのだ。

 何度でも、何度でも諦めることで、ぼくそのものをがらんどうでいっぱいにしたいのかもしれません。

 いっそあなたを呑み込んで、ぼくの一部にしてしまいたくもあり、あなたにはぼくに呑みこまれることでぼくと一寸の狂いもなく重なり合うような存在であってほしいとの叶うことのない願望を押しつけてしまうことになると分かりきっているので、やはりぼくは諦めることで、これ以上、あなたとの差を積みあげないように、増やさないように、広げないようにするのがよいのだと、ぼくがそう思うのです。

 ぼくはあなたの寂しさを埋めたかった。

 ぼくはあなたの穴に蓋をしたかった。

 ぼくがあなたの蓋になり、ぴったりと一心同体で、ボタンのように、表裏のように、紅茶に垂らしたミルクのように、分け隔てることのできないナニカになりたかったのだとぼくはやっぱりいまもそう願うのです。

 諦めてなお、再びの欲動が芽吹き、伸ばす、根の、したたかさときたら。

 せめてその根が、あなたから伸びる根だったらよいのにと。

 絡めとられ、がんじがらめになって、あなたの底なしのがらんどうに、馴染み、打ち解け、共に在る、我となる。

 あなたとわたしで、我となる。

 叶わぬ、果てなき諦念の――。

 ぼくは、がらんどう。

 キミの、万祥を願う者で在りつづけたいのです。



2420:【2024/10/08(00:06)*こんたん、の巻】

 そんなこと言って、本当はー?

(幻滅されぬままで、記憶の奥底に焼き付けてやる!)

(だと思った)




※一様に、とっくに幻滅されているのに、というよりも、そもそも期待すらされておらず、失望する余地もない。



2421:【2024/10/08(00:09)*さびしいのに温かい】

 寂しい、の波紋が雪の結晶のように儚くて、触れたいのに触れたら融けて消えてしまいそうで、命の音色のようにキミは、仄かにまばゆく、時のように静かです。



2422:【2024/10/08(00:19)*水に戻ると書いて、涙】

 寝坊したときには、そのまま二度寝できるくらいの余裕がほしい。

 むかしは丸メガネの良さは分からなかったけれど、いまは丸メガネを掛けているひとがおしゃれに見える不思議は、人類の認知のなせる業かな。

 ツイてない日のほうが総合で多い気もするけれど、それでも大病を患うわけでもなく、大怪我をするでもなく、死ぬわけでもない日々はけっこうに運がよい。

 パニックになっても、アイスクリームの融けるスプーンがあれば、アイスクリームを早食いできるので、アイスクリームの融けるスプーンは、プレゼントでもらえるとラッキーだ。なぜならじぶんで買おうとしてもいつも忘れてしまうから。

 届かないのは、想いだけではなく、意図も、深さも届かない。

 道案内を頼まれたときには、もっと道に詳しい人に託したい。早とちりをして、間違った場所を教えてしまったら、申し訳が立たないからね。

 クリスマスはいつも通りの日であって、きょうはきょうにすぎないのだ。

 雪遊びは一人でもできるけれど、あなたの作った雪だるまはさぞかし愛で甲斐がありそうで、融けてなくなってしまうのが惜しくて、却って哀しくなってしまいそうですね。

 脈絡のない日記でした。



2423:【2024/10/08(01:01)*民主主義は万全か、の巻】

 専制主義国家だろうと民主主義国家だろうと、武力行使による市民の被害を防げないのだ。

 まずは人類はこの点を重々、認識しなければならないだろう。

 国の仕組みの差異に問題点を還元できないのではないか。

 人類の脆弱性そのものなのではないか。

 欠点なのではないか、人類に、共通の。

 一つの国や民族に固有の問題ではないと思うのだよね。

 問題点の認識を誤ると、対策も間違う確率が高くなる。根本的に大きな錯誤を、専門家諸氏も含めて、人類個々は抱きつづけて、是正できずにいるのではないか。

 国や民族に問題点を還元できるのだろうか。

 政府や首脳陣に問題点を還元できるのだろうか。

 おまえが言うな、の非難の声が集まりそうだが、政府には政府の問題点があり、首脳陣には首脳陣の問題点があるだろう。市民には市民の問題点がある。個々にある。ただし、戦禍による被害の責任を、一つどころに還元できるか、といえばできぬだろう。わたくしはそう思うのだ。

 この認識が間違っている可能性も相応にある。部分的に妥当だが、部分的に例外を多分に含む、もあり得る。何にせよ、何かが食い違っており、上手くいかない。

 再検討の余地がありそうである。

 ありー。



2424:【2024/10/08(01:23)*はにゃん?の巻】

 そういえば最近、聞かなくなりましたね。民主主義の危機うんぬん。民主主義の戦いうんぬん。

 いまこそ唱えるときでは。

 未だかつて民主主義が機能した時代があったのかは疑問であるにせよ。



2425:【2024/10/08(02:32)*相互作用しておるな?の巻】

 量子力学の思考実験についての疑問だ。

 電子が波の性質を帯びているとして。確率的に分布している「粒子化以前の電子」において、箱に閉じ込め、真ん中に仕切りをする。箱を「箱A」と「箱B」に分ける。さながら人体切断マジックのように、真ん中から分離する。

 このとき、電子は、箱Aと箱Bのどちらに入っているかは、箱を開けるまで決定されない。

 箱を開けて中身を観測した瞬間に、箱Aと箱Bのどちらに電子が粒子化するかが決定される。

 いわゆる量子もつれである。

 だが、この思考実験は納得がいかない。

 まず、電子は大きさを持たないと定義されているはずだ。或いは、最小の素粒子の一種であるはずだ。電子一個だけを閉じ込めておける箱など存在するだろうか。ほかにも素粒子や光子が混じりそうなものだ。

 そうでなくとも、箱に閉じ込め、仕切りを入れる――もうこの時点で相互作用しているではないか。観測したのと同じ作用を及ぼしている。

 思考実験としてお粗末すぎやしないだろうか。

 本を読みながら、はっにゃ~ん???になってしまった。

 加えて、箱Aと箱Bを未開封のまま遠方に運ぶ――との想定もだいぶ無理がある。箱を動かせば当然、中身にも影響が波及する。慣性系に加速度を加えたら、慣性系内部の構成要素にもその加速度分のエネルギィは波及するだろう。時間差があるとはいえ、いっさい影響がない、とは思えない。

 物理学の思考実験は、ちょくちょく無理筋の想定を繰り出してくるので、もっとみな小説を読め~い! 妄想のあり得ない想定の仕方を学べ~い!と思わぬでもありませんね。

 その点、マルクスウェルの悪魔の思考実験はよいですね。思考実験として論理矛盾が判明しており、どこに無理があるのか、まで突き詰めて考えられているのがよいと思います。妄想はこうでなくっちゃ、と思います。

 ちゅうか、もはや思考実験を逸脱して、改善点を足掛かりに現実にマルクスウェルの悪魔装置を再現できちゃうらしいのですが、そこはご愛敬。

 量子もつれは再考が必要じゃないか?と一瞬だけ不安になったわがはいなのであった。

 十四歳向けの本ではわがはいにはちょっとむつかしすぎるので、赤ちゃんでも解る物理学の本、お待ちしております。

 ぺぺん!



2426:【2024/10/08(05:39)*あいだだだ、の巻】

 本を読んでイチャモンを投じることが上手になっても、PCさんを治療して異音さんを失くすこともできないのだなぁ。いちご。



2427:【2024/10/08(05:55)*さいほう、さいほう!の巻】

 お靴を縫いました。

 一回履いただけで、ちっこい穴が開いてしまったので、ちくちくシュシュシュと縫ってみました。遊び場さんで履いてみて、糸がほつれなければグットです。

 余計に穴が広がっちゃったらどうしよう……。

 気分が滅入ってしまっているので、夜明け前ですが、焼きそば作って食べちゃう。トロトロ甘々のスクランブルエッグさんを掛け布団しちゃったから、絶対に美味しい。

 絶対は絶対にないけれど、美味しいのは絶対。

 お靴に穴開いちゃったことなど忘れちゃうもんね。

 ぷはー、おいちー!



2428:【2024/10/08(07:27)*位置座標いらぬのでは?の巻】

 地雷処理技術について。

 思ったけれど、巨大な電子レンジみたいなもので、地雷を強制的に起爆できるのなら、地雷の位置座標は不明のままでもよいのだよね。

 パラボナアンテナで、広域に焦点を当てて、地雷原を丸ごと処理できたりしないのだろうか。

 不発弾も、位置座標は不明でも、とかく「たぶんここにあるよ、きっと!」みたいな高確率で埋まっている場所さえ判っているのなら、不発弾の一個一個がどこにあるのかは分からなくても起爆できるのではないか。

 そういう高周波というか、電磁波兵器はあるのだろうか。

 ないか。

 でも技術的には可能な気がする。

 だいたいにおいて、地面は湿っている。巨大な電子レンジがあれば地面を熱々にして、地雷や不発弾の火薬を起爆できるのではないか。それとも、地雷や不発弾は火薬ではないのだろうか。スイッチが入らないと、爆薬にはならない? 混ざり合う過程が入り用なのかな。

 よく解らないけれど、位置座標は不要なのかも、と思ったので、以前の日誌こと「2364」の項の補足として、付け足しておくでござるよ。うは。

(笑いごとではないだろ……キミ)

(善用すれば人を救い、悪用すれば人を損なうんだなって思って)

(笑うとこあるかね)

(怒るよりよくない?)

(一理ある……かも)

(うは)

(やっぱ笑いごとではないだろ)

(うっ……はぁ……)

(でっかい溜息だなぁ)

(うはぁ)



2429:【2024/10/08(13:31)*宇宙膨張の反作用、の巻】

 思ったのだけれど。

 重力は、宇宙膨張における――「物体」と「膨張する時空」の作用反作用――で説明できるのではないか?

 たとえば面状のゴム板があるとする。

 ただのゴム板ではない。ダイヤモンドが埋め込まれたゴム板だ。

 これを引き延ばす。

 このとき、ダイヤモンドの周囲には、伸びるゴムに抵抗する方向に、ゴムを自陣に引き寄せようとする反作用が働くのではないか。見た目の上ではこれは重力のような引力として振る舞うのではないか。

 また、別軸の話題として。

 相対性理論における重力の説明で、トランポリンに置いた鉄球の比喩がある。鉄球のひずみ具合が重力による時空の歪みである、との比喩を目にするが、これはトートロジーだ。

 なぜ鉄球が置かれるとトランポリンはひずむのか。

 重力があるからでは?

 重力による現象を以って、これが重力の比喩です、はおかしいと思うのだ。

 なぜ微視的な領域ほど重力の影響が軽微なのか。

 宇宙膨張の影響が軽微だから、ではないのだろうか。

 たとえば極小のブラックホールは、それがたとえ一トンだろうと、理論的には物体と相互作用しないらしい。シュバルツシルト半径があまりに小さすぎて、物体と相互作用する確率が低いそうだ。さながら地球を透過する素粒子のように。

 けれどあり得るだろうか。一トンの質量を持った粒子が、ほかの物質と相互作用しない、なんてことが。

 すこし考えを整理しよう。

 原子は、それよりも相対的に巨大な天体の死によって錬成される。

 すなわち、大から小だ。

 人類の感覚では、小が積み重なって大になる、と想定するが、原子のほとんどはそうではない。

 ただし、大元の「大」たる天体は、宇宙初期に錬成された原子の集まりのはずだ。

 或いは、最初から重力の偏りによって「ブラックホール」が生じ、その周囲の重力作用によって攪拌された時空構成要素が、原子の大本の素粒子を生みだしたのかも分からない。

 比率でいえば現在よりも遥かに時空が加速膨張した初期宇宙においては、宇宙膨張とブラックホールとのあいだには、現在よりも、より強い重力が働いたのではないか。

 作用反作用の法則からすれば、そのように想定したくもなる。

 すると、重力による偏りは、現在よりも加速度的に形成されやすい環境が築かれていたのではないか。

 ふんふん。

 重力の起源が宇宙膨張のみにあるとは限らないが、成分の一つである可能性はそれなりにある、とのこれは妄想だ。

 宇宙膨張と重力が密接に相関しているとすると、宇宙の膨張速度や膨張する比率によっては、宇宙全土の重力は、時代時代で刻々と変化してきたのかも分からない。

 そういうことを、寝る前に妄想して、「わひゃー」になりました。

 起きたときにまだ憶えてたら日誌に並べちゃろ、と思って憶えていたので並べました。

 妄想ですので、真に受けぬようにご注意ください。

 もう、そう!



2430:【2024/10/08(14:54)*と、ポロ爺は言いました、の巻】

 トポロジーの問題で。

「∞」のような構図で、穴が二つ連結した図形があるとして。

 この二つの真ん中で図形を折り曲げて、二つの穴を重ねた状態で棒に通す。

 その状態で、図形を伸縮させるだけで棒から穴を一個外すことはできるか否か。

 伸縮自在のゴム製手錠を考えればよい。

 二つの輪を棒に通す。ゴム製手錠を伸び縮みさせるだけで、棒から輪を一個外すことはできるか否か。

 答えは、できる、だ。

 穴の一つを拡張し、もう一つの穴のそとに「ふち」のように配置する。さながら波紋のようになる。

 そして、手錠における鎖部分――連結部分を太くして、外側の輪と内側の輪の境目の空隙を、片一方の方向に合わせて埋めていく。すると、外側の輪が、棒の外に移る。

 イメージできただろうか(説明が下手で申し訳ない)。

 思うに、この手法は、輪が何個でも成り立つのではないか。

 言い換えると、波紋は、中心の輪以外を、軸の外に移行できるのではないか。このとき、波紋の輪は、鎖のように連鎖して、直線のように配置できる。

 ふんふん。

 もし波紋が無限に入れ子状に展開されるとき、中心の軸から外れた中心の輪以外の無数の輪は、無限に直線上に並ぶと想像できる。

 ほう!

 この妄想が妥当かは不明だが、愉快な妄想であった。

 トポロジーについての妄想である。

 ぽー!




※一様に、本好きなのに本から何を学んできたんですか?と思うこともしばしば、との自己言及。



2431:【2024/10/08(17:26)*風邪ひいちゃったかも、の巻】

 銀河はダークマターのような重力源により、全体が相関しているはずだ。この想定を妥当と見做すとして、このとき、仮に銀河を巨大な拳で殴りつけたとしよう。

 すると、銀河に加わる衝撃は、時間差を帯びながら全体に波及するはずだ。

 銀河の直径が10万光年だとすると、全体に衝撃が波及するのには最短でも十万年掛かるはずだ。

 宇宙膨張と重力が仮に密接に相関している場合、この手の「マクロからミクロへの遅延――影響の伝播の時間差――」は、あたかも、極小の物質ほど重力の影響が最小化するように振る舞う構造を織り成すのではないか。

 重力波そのものが、時空の波であり、疎と密で表現可能なのだとすれば。

 やはり、宇宙膨張そのものが、時空のさざ波こと重力の偏りそのものを、増減させ得るのではないか。

 宇宙膨張は、時空そのものの作用反作用の連鎖を爆発的に引き起こし得る、と妄想できる。これが重力発生の一つの原理なのかも分からない。

 そういうことを妄想してから、いまから遊びに行ってきます。

 毎日怠けてばかりで、すまぬ、すまぬ。



2432;【2024/10/08(17:44)*無数の穴は波紋に、波紋は一点に、の巻】

 うぇえええ!?になった話をします。

 いまお出掛けしようと思って準備しつつ妄想していたのですけど。

 トポロジーの「二つの輪と棒」の思考実験があるじゃないですか。上記にも並べましたけれど。

 思ったのですけど、仮にこの宇宙が細かな無数の穴で出来ていたとして。

 さながら網目状の立体構造を成していたとして。

 トポロジーの「二つの輪と棒」の思考実験を応用すれば、宇宙のすべての「微細構造における穴」は、一つの波紋に還元できるのではないでしょうか。

 そして、波紋上に並んだ無数の穴同士の間隔を限りなく極限に収斂させれば、ほぼ一点に圧縮できるのではないでしょうか。

 さながら、「無数の極薄の膜で出来た多層の点」として収斂させることができるのでは。

 あひゃー、になった妄想でございました。

 うぇえええ!?である。

 妄想ですので真に受けぬようにご注意ください。

 こんどこそ遊びに出掛けます。

 待って。

 うえぇ……。

 雨、降っとるー。

 濡れながら出掛けよ。



2433:【2024/10/08(22:02)*串刺しジェット仮説、の巻】

 ブラックホールや中性子星における降着円盤とジェットの構造は、ひょっとしてトポロジーにおける「二つの輪と棒の思考実験」で解釈できるのだろうか。

 降着円盤の内輪側ほど物質はエネルギィにまで紐解かれる。すると、粒子の集合体としての輪ではなく、エネルギィとしてひと繋ぎの輪へと変質する。このとき、無数の輪の層――降着円盤の内側の層――は離散的に波紋のようなデコボコの蛇腹状に展開されると想定できる。なぜならば、降着円盤そのものに濃淡があるからだ。密度差があり、疎と密の構造を帯びている。

 したがって、エネルギィにまで紐解かれた降着円盤は、トポロジィにおける「二つの輪と棒の思考実験」のように、棒に串刺しの多重の輪のようになっていく。

 だがこのとき、実際には輪を串刺しにするのは棒ではなく、天体であり、球体だ。

 したがって、ポアンカレ予想のように、輪は上下のどちらかに自発的に対称性を破り、収斂していく。

 それがのべつ幕なしに連鎖反応し、球体の頂点――上下の軸の延長線上に――ジェットがレーザーのごとく噴出されるのではないか。

 ということを妄想致しました。

 もう、そう!



2434:【2024/10/08(22:14)*意外といけた、の巻】

 お靴、縫い縫いしたところ、大丈夫でした。

 塞いだ穴が開いちゃわないか心配でしたけれども、お口を一文字に閉めたままでいてくれました。

 よかった。



2435:【2024/10/08(23:29)*うおー!わしなんもできてないけどみな助かれ!の巻】

 基本的に、被災地や戦地の復興と環境問題対策は相性がわるい。武力行使の応酬が環境問題対策と相性がわるいとのほぼ同じ理屈だ。

 生産性の向上が大前提であり、資源を大量に必要とする。

 物流が活発化し、エネルギィ供給率も上がるはずだ。人流も増え、そのために加工食品が余分に必要となる。これは兵糧のために食を備蓄するのと同じ現象を社会に引き起こすだろう。

 要は、人も資源も大量に消費されることが復興の前提となる。

 そして、復興の期間が長引く、ということはそれだけ無駄が生じる、ということだ。

 環境問題対策との相性がわるいだけに留まらず、復興そのものが遅れることで、余計に環境問題対策がなおざりになる。

 被災地や戦地の復興は、遅れれば遅れるほど、ただそれだけのことが人類社会にとって悪影響を及ぼす、と想像できる。淘汰圧が加われば、一時的には、復興が遅れることでその地域の人口は減り、見掛けの上では問題軽減が成されたかのように評価されることもあるだろうが、表面的な錯誤である点には留意されたい。

 難民が全滅すれば問題も消える、などといった「時間が解決する」との案が、不可視の領域で、暗黙の了解とならぬように、くれぐれも世界各国の市民は注視していていただけるとさいわいだ。

 なぜさいわいか、といえば、そうした劣悪な環境下に押しやられて暮らさざるを得ない者たちが窮地を脱し、選択肢や自由の拡張される人類社会であると、わたしもまた助かる確率が高まるからだし、わたしの好きなあなた方もまた助かる確率が高まるからだ。

 わたしは、わたしの好きな者にはつらい思いをしてほしくない。わがままな望みだけれど、せつにそう思うのだ。

 わたしはあなたのことをひょっとしたら知らないのかもしれないけれど、わたしはきっとあなたのことを好きになる。たぶん、きっと、だと思う。

 あんまり自信はないけれど。

 定かでなくって、すまぬ、すまぬ。



2436:【2024/10/08(23:40)*てい!てい!の巻】

 たまにはいいひとぶったっていいじゃない!

 なんでー!?

(どした?)

(けっ!みたいにされた気がしたの)

(誰もしてないよ、気にしすぎだぞキミ)

(じゃあ、いいひとぶってもいい?)

(好きなだけいいひとぶりなさいな)

(やたー。じゃあいいひとぶっちゃお。てい! てい!)

(いた! イタタタ! あにすんだこのー)

(いいひとを「ぶって」みました)

(いいひと扱いしてくださっとるだと!? でも、ぶつのやめて。なぜなら痛いから)

(なんでい)

(悔しがるでない)



2437:【2024/10/09(06:35)*相対的にフラクタルな構造、の巻】

 トポロジーの「二つの輪と棒の思考実験」について。

 二つの輪は、メビウスの輪でも成り立つのだ。

 と同時に、無数に連結したメビウスの輪であっても、たった一つの軸にすべての輪を回収することができる。それを畳んでしまえば、すべての輪を一点に収斂させることが可能だ。

 ではこれを今度は逆に考えてみよう。

 ある一点に収斂した、「無数の連結型メビウスの輪」があったとしよう。すべてのメビウスの輪が連結しており、たった一つの軸にすべてのメビウスの輪が掛かっている。

 トポロジーにおける「二つの輪と棒の思考実験」を適用し、たった一つの軸から無数の輪を解放していく。

 このとき、最初は、たった一点から徐々に波紋が広がっていくような描像になるはずだ。

 波紋が輪を重ねて広げていくうちに、トポロジーの性質がゆえに、輪は徐々に軸から外れていく。すると、最初にあった「点」の周囲に、無数の輪が満ちていくことが想像でできる。

 さらにこれをつづけると、部位的に「輪が、新たに、ある任意の軸に回収されていく」ように振る舞うことも出てくるはずだ。最初の「点」に収斂していた無数の輪の状態が、局所的に再現される。

 あたかも、膨張する宇宙に、一点に凝縮するブラックホールが生じるかのようなイメージだ。

 そしてこれは、原初の「点」が無限にメビウスの輪を回収していた場合、果てなく入れ子状に展開されると想像できる。

 相対的にフラクタルに、「点と波紋と無数の穴」⇔「無数の穴と波紋と点」が散乱する。

 極小から極大へ。

 最密化から圧縮化へ。

 これがフラクタルに、局所的に反転しつつ、果てなく展開される。

 あたかもメビウスの輪の「表と裏の区別のつかない性質」が高次の視点においても顕現する、とも妄想できる。ただし、この妄想において、無数の輪は必ずしもメビウスの輪でなくともよい。単なる輪でもこの想定は成り立ち得る。

 宇宙の構造として、中々にシンプルで面白く感じた2024年10月09日の午前六時四十六分なのであった。

 おはようございます。

 今朝は雨ですね。

 シトシトと雨音が寂しげで、どこかあなたを思い起こさせます。



2438:【2024/10/09(18:27)*おとなしく、の巻】

 風邪を引いてしまった。

 雨の中、濡れながら出掛けたせいかもしれない。

 バカは風邪ひかないんじゃなかったんですか!?と思わぬでもない。

 きょうはおとなしく寝ておこう。

 でもその前に、ちょぴっと遊んでこよっかな。

(他人に風邪を移すからやめなさい)

(そっか……そうだね)



2439:【2024/10/09(19:39)*早寝早起き!の巻】

 体調がわるいときは寝るに限る!

(性格がわるいときは?)

(不貞寝するに限る!)

(じゃあずっと寝ててよ)

(性格がよろしくないので、稀に起きちゃう。天邪鬼さんなので)

(天邪鬼さんじゃあしょうがないね)

(しょうがない、しょうがない!)



2440:【2024/10/10(00:36)*むふう、の巻】

 ひょっとして、トポロジーにおける「二つの輪と棒の思考実験」は、ハリケーンやタイフーン、ほか竜巻にも当てはまる?

 串刺しジェット仮説なのだろうか。

 うーん。

 風や大気の層は、流動する。分離せずに変形する。トポロジーの範疇だ。

 台風の目はなぜ出来るのか。

 輪が無数に連結して、穴が積み重なり、円柱のように振る舞っているから?

 軸があり、穴が絶えず変形し、全体を循環する。

 ふんふん。

 割と周知の構造なのだろうか。

 わがはい、目になります!

(台風の目かな?)

(芽でもよい)

(そのうち木になりそう)

(わがはい、木になります!)

(すごーい。気になるー)

(でしょー)




※一様に、世界中の人々がきみを嫌いになったのなら、わたしだけがあなたの「すき」に付け込めるのに、世界中の人々があなたを歯牙にも掛けないのなら、ぼくだけが君の「すき」に応えられるのに。



2441:【2024/10/10(01:12)*大地に小雪と書いて、だいちゅき、の巻】

 大地があるのに、小地がないのはなぜだろう。

「小池さん」に空目しちゃうからだろうか。

 あと疑問なのは。

「母なる海」「母なる大地」は言うのに、「父なる海」「父なる大地」といわないのはなぜだろう。この国だけなのだろうか。他国では、「母なる~~」よりも「父なる~~」のほうが主流だったりするのだろうか。

 語感がいいのも影響していそうだ。

「頭が高い、控えおろう」「ははぁ」はあるけれど、「頭が高い、控えおろう」「ちちぃ」はない。「ちちぃ」は締まらないのかもしれない。脱力感がある。きりっとしない。

 大地といえば。

 おもしろいのが、実際は陸地は、山頂なのだ。海に沈んでいない。比較的高い場所にある。

 すなわち、地表全土からすれば、大地は小地なのだ。じっさい、海洋面積は70%くらいなのではないか。検索したらそう書いてあったもん。

 大地は小地も兼ねている。

 お得な言葉である。

 ぺぺん!



2442:【2024/10/10(11:37)*息吹は癒し、の巻】

 ハリケーンや台風の勢力の強さと雨量の関係は正比例の関係なのだろうか。

 勢力が弱くとも雨量では、それ以上の規模のハリケーンや台風よりも多い、ということもあるのだろうか。基本的には、ハリケーンや台風は、線状降水帯を逐次生成しながら暴風雨を地上にもたらす、という認識でよいのだろうか。

 それとも、気候変動の影響で今後は、線状降水帯が別途に生じて被害を拡大するようになるのだろうか。

 台風を怖い、と思った記憶がない。

 おおよそ、身近で被害が生じていないからだろう。けれど今後は、大地震のようにハリケーンや台風とて、どの地域に住まう者であっても恐れるような気象現象――災害――になっていくのだろうか。

 脅威である。

 リスクの周知は、被害の予防に役立つ。けれど、リスク喚起の情報ばかりが世に溢れれば、人々の精神は陰々滅々としてしまうだろう。リスクの周知に工夫を割いたのと同じかそれ以上に、人々の精神を労わるような、癒しや娯楽が、これからはますます人類社会にとって必要となってくるのかも分からない。

 わがはい、お菓子断ちしてから結構経つ。

 じつは、娯楽断ちも結構している。漫画あんまし読めていない。

 読みたい!!!!

 漫画をたらふく読みたいな。

 胸に秘めて生きていこう。そう思った、十月十日の午前十一時四十五分なのであった。



2443:【2024/10/10(11:47)*円に居る、の巻】

 自然界に「円」がすくないのはなぜなのだろう。満月、太陽、木漏れ日、波紋、マリモ、ダンゴムシ……これくらいしか思い浮かばない(あ、果物全般は丸いですね)。他方、人工的な造形物では「円」が多い。マンホール、タイヤ、蓋、ビー玉、歯車、コップの縁、ボール、ボタン、レンズ、時計の針の軌道――と挙げ連ねたらキリがない。

 思えば、天体はだいたい球体だ。

 自然界の「円」は、人類からすると大きすぎるのかもしれない。それとも、小さすぎるのだろうか。原子は球体と解釈してよいのだろうか。

 すると、宇宙の構成要素における通常物質では、「円」や「球」は有り触れており、最も多い造形といってもよいのかもしれない。

 人類にとっては認知しにくい。

 円や球を認識しにくい領域に、人類は暮らしているのだ。

 なんだか不思議な感じが致しますね。

 我々はみな「円に居る」のである。

 円居に暮らす、日々、戸惑いばかりのわたくしなのであった。



2444:【2024/10/10(11:53)*はくちゅうむ、の語感の愛らしさときたら、の巻】

 天体はそれ自体が、宇宙にとっての起伏だ。山である。

 丸い山が、円となって、大地を形作る。

 ほう!となった妄想であった。

 はくちゅうむ。



2445:【2024/10/10(12:20)*ぜんようはあく、の巻】

 技術の善用について。

 たとえ悪人との評価を受けた者相手でも害を与えない――これを善用の定義としてもよいのではないか。警察は犯罪の容疑者を逮捕するが、極力相手を傷つけないように配慮するはずだ。

 同じように、どのような技術であれど、人類個々を損なわない。善用の前提条件としてよいのではなかろうか。

 仮に、技術の善用を謳っていようとも、誰かしらが損なわれるのならば、それは悪用の側面が強く表出している、といえるのではないか。

 とはいえ、人同士であれど、関わり合うだけで何かしらを損ない合っている、といえる。最低でも相手の時間を奪っている。何を以って「損なっている」と解釈するか。

 厳密に識別しようとすると、思いのほかむつかしい問題だと判る。

 血を流させたら悪用だろうか。ならば手術のほとんどが医療技術の悪用になる。

 相手を救うために敢えて傷つける、ということが、あり得るのだ。

 むつかしい問題である。

 結果論でしか判断できない、とすら極論したくもなる。

 こういうときに、ルールは便利だ。善用か悪用かは別として、ルール違反をとかく禁止する。だがルールの存在しない分野ではこれが機能せず、よしんばルールを設けたとしても、それが人類個々の最大幸福に寄与するか、といえばそれもまた疑わしい。恣意的なルールの制定も可能だからだ。

 技術の善用、とひと口に言っても、なかなかどうして内実が伴わない。内実を煮詰めようとすると、とたんに解のない袋小路に迷い込む。

 技術の善用は、技術の悪用と原理的に分かつことが可能なのか否か。

 善用した結果、悪用したのと変わらぬ結果に至ることも取り立てて珍しくはないだろう。

 善用の中にも、細かな悪用が内包される。

 総合して、善性の結果が顕著に観測される――それをして、善用と人類が呼んでいるだけなのではなかろうか。

 ひるがえって、悪性の結果が顕著に観測される場合――これはどれほど口で「技術の善用だ」と言い張ったところで、悪用の側面が際立っていると想像できる。

 妄言だ。

 まとまりのない寝言なのである。

 ぐー。

(善用の全容把握が俟たれますね)

(善用は悪)

(急にどした!?)



2446:【2024/10/10(22:36)*さびしいのそんなに嫌いじゃない、の巻】

 人とほとんどしゃべらない生活、思えばもう十何年もそうかもしれない。

 しゃべりたいけど、しゃべりたくない。

 しゃべりたいのだけれど、いざ言葉を交わすと、しゃべらなければよかった、と後悔するはめになる。後悔というか、「なんか違うな」となる。

 何かしら、他者と話すことの目的があり、期待があり、それとズレた結果が現実となって目のまえに現れるので、「ご遠慮いたします!」になってしまうのかもしれない。

 かってに期待して、かってに失望している。

 情けない人間にもなりきれぬ憐れな木偶である。

 木偶というか、土くれか。

 養分たっぷりの土をくれ~。

 種を撒いて、水を注いで、日差しを浴びさせ、萌える芽かな。

 誰かおしゃべりしてくれ!

 さびしー。



2447:【2024/10/11(01:07)*興味津々で、すまぬ、すまぬ】

 いまさっき、スマホさんのYouTubeさん動画閲覧履歴を眺めていて、「えー???」になった話してもいい? するね!

 けっこうなんか、「モテるにはこれをすべし!」「モテるやつはこれをしとる!」「きゅんきゅんしちゃう異性の仕草はこれ!」「異性を沼らせるにはこれこれこういう言動をすべし!」みたいな動画が割合に多く含まれておって、「えー、そんなにわし観とるー?」「内容ほとんど憶えとらんが」となってしまったのだけれど。

 ちょっとというか、YouTubeさんでギリギリ投稿可能なエッチな動画とかも履歴にわんさか紛れておって、「あーでも、これはちょっと気になって開いちゃったわ」とほっぺに熱を籠らせてしまいました。思い当たりがありすぎる。

 で。

 よくよく動画を観たり、履歴を確認したりを繰り返してみたら、なるほど、と合点がいった。

 基本、スマホのYouTubeさんは、おすすめ動画がスクロールとして流れてくる。

 で、クリックして直接に動画に飛ばずとも、サムネイルのままでも動画をすべて観ることはできるのだ。その、サムネイルだけの動画視聴は、どうやら履歴に反映されないらしい。

 初っ端で気になる動画ほど、動画が流れはじめたらそのまま最後まで観ちゃうので、却って履歴に反映されていないかもしれない。エッチな動画はじっくり確認するために開いているけれども。

 待って。

 エッチな動画、気になりますよね。

 ここで「気にならぬ」とか抜かすカッコつけ人さんたち、わし、あんまし信用ならないな。ふん。

 わし、スケベなのである。

 エッチなことに興味津々で、すまぬ、すまぬ。

 や、身近にない異世界みたいなものなので、宇宙の神秘に惹き付けられるのと同じように、エッチな神秘にも惹き付けられてしまうのだなぁ。未知だもんなぁ。未だ解かれる予定はないときたものだ。いっさいない。微塵もない。なんでー。

 モテたい。

 ウハウハのモテモテだぜぇ、になってみたい。

 どっかの漫画のキャラも言っていた。

「わしだってモテたことあるもん!」「どこで?」「……夢ん中で」「どっ(冷笑)」

 沼ってくれ。

 全人類、わしの魔性に沼ってくれ。

 せめて、全人類の中で、かわいい女の子や男の娘、美少年やイケメン紳士、美熟女だけでもよいので、わしの虜になってくれ。

 ええい、てやんでい。

 ルッキズムに染まりきった邪悪な欲望をかようにあけっぴろげに、惜しげもなく、恥じらいもなく、隠そうともせずに披露してしまうわがはいのような輩に、夢中になる者があるとお思いか。

 居ぬであろう。

 おらぬであろう。

 いたら奇跡であろう。

 わしに懸想するだけで奇跡を世に顕現せしめるのだ、誰でもいいからわしにモテをくれ。

 ついでに、宇宙の神秘を垣間見せてくれ。

 くんずほぐれつ、解をくれ。

 解きほぐせ! わがはいを!!

 わしとて人類だぞ!!!

 あーあ。

 世の人はいいよなぁ。

 ただ存在するだけで、宇宙の神秘を味わえちゃうんだから。

 それに比べて、どうよ。

 わしのこの、余すところなく自明の、無垢っぷりは。

 一周回って、宇宙新たに開闢しちゃうんじゃねーのけつって、ふん!と気張って、ぽこんとへっこむお腹は秒ですぐに元通り。

 世の諸君。

 ゆめゆめ騙されることなかれ。

 モテるやつはこれをしてる系の動画を観ても、モテはしないのだよ。そうでしょ。そうだよー!

 そうだよー!じゃないです。

 モテてくれ。

 持て囃してくれ。

 それが無理ならせめて譲れぬわしの望みを叶えてくれ。

 好きなひとには好かれたい。

 嫌われとうない。

 何よりも。

 もう、あなたを傷つけたくない。

 夢はじぶんで叶えるものであるにせよ、望みくらいは他に叶えてもらってもばちはあたるめい。

 わし。

 根が、他力本願なのである。

 たりきー。



2448:【2024/10/11(03:20)*対立しても、の巻】

 反暴力でいいんじゃないんですかねぇ、とぼかぁ思いますよ。

 まとめて反暴力でいいじゃないんですかねぇ、とぼかぁ思います。



2449:【2024/10/11(03;24)*問題解決の手段に、の巻】

 反武力行使、と少し枠組みを縮めても、いましばらくはそれでもよいのではないでしょうか。



2450:【2024/10/11(08:35)*ちゅるちゅる、の巻】

 風邪を引いたときに食べるおうどんは美味い。

 風邪を引かずともおうどんは美味い。

 いつ食べてもおうどんは美味い。

 おうどん、おいちー、の日誌であった。

 おいちー!




※一様に、おばけこわくないもん、のノリで、さびしくないもん、の日々。



2451:【2024/10/11(10:11)*鏡像変換?の巻】

 鏡を見るたびに、誰だこれ!?となる現象はなんじゃろな。

 見知らぬ他人が映っておる。

 わし、こんなんじゃないやい、の気持ちです。



2452:【2024/10/11(15:27)*さみしいってひとまず言っとけ、の巻】

 認知世界の擦り合わせ作業が面倒で、他者と関わるのが面倒、とけっこうずっと思っている。

 前提条件を合わせるところから始めなければならないのだが、こちらがそうした工夫を割いていることを相手は承知していないので、ここでも余分に擦り合わせ作業が必要となる。

 むろん、こちらが知らないだけで相手は相手でこちらに何かしらの擦り合わせ作業を行っているだろう。その不可視の領域も考慮しないとならないので、余分に面倒に思うのだ。

 だが通常、概観するに限り、多くの者たちは他者と関わる際にこの手の擦り合わせ作業を行おうとしているようには見受けられない。

 探り探りではなく、ツーカーの反応――こういう言葉にはこういう言葉を返せばいい――のような、ある種、一昔前の人工知能との対話――ミラー効果の応用――の域を出ない言葉の応酬を行って映る。

 したがってこちらが、その範疇外の応答を示すと、相手を困惑させてしまうと判る。だがいったいどの程度の発言や思考だと範疇外になるのかは、やはり探り探り、相手との認知世界の擦り合わせ作業を行わないでは、むつかしい。

 この、他と関わるうえでの抵抗感がまず以って、他者に話して伝わるのかが疑問だ。

 この時点で、理解しがたい、と思われる率はそう低くはないのではないか。

 もし解る、という方がいらっしゃったのなら、あなたとはひとまず、この手の話題での認知世界の擦り合わせ作業を最小化した状態で、対話ができそうだ。

 思考を展開し、さらに深め合うこともできるだろう。

 思考の変換を通じた、思考の相互作用の促進を、わたしはどうやら他との会話で期待しているようだ。疑問を解消したいし、より高次の視点を獲得したい。

 俯瞰で、複雑な思考の連鎖反応を眺めたいのだ。

 ぼくはあなたと対話したい。

 さみしい。



2453:【2024/10/11(15:37)*おしゃべりの歌、の巻】

 しゃべりだしたら止まらない~、ぼくはめちゃくちゃおしゃべりなんだ~。

 人としゃべるのが大好きな、ぼくはめちゃくちゃおしゃべりなんだ~。

 世界中のひとたちと~、友達になって~、一日中おしゃべりしていたいくらいに~、おしゃべりなんだ~。

 人と関わるのがだいすきで~、でもちょっぴり恥ずかしがり屋の~、シャイなんだ~。

 ぼく、しゃべるのだいすきです。

 人と触れ合うのが楽しいです。

 ぼくはめちゃくちゃおしゃべりなんだ~、ラララ、おしゃべり~。



2454:【2024/10/11(15:47)*豆電球でよくない?の巻】

 相対性理論のロケットの思考実験は、なぜ光をロケットの上下に往復させるのだろう。単に豆電球が四方八方に光を放射する描像でよいのではないか。

 三平方の定理で解釈する場合。

 ロケットの進行方向では確かにロケットの外部の者からすると、ロケット内部の時間は遅れて映る。ただし、それはあくまで「ロケットの進行方向」においてのみだ。

 ロケットの進行方向に伝播する光においてロケット内部の時間は、ロケット外部からすると遅れて映るのと同時に、ロケットの進行方向とは反対の方向に伝播する光においては、ロケットの外部からするとロケット内部の時間は速まって映るはずだ。

 つまり、三平方の定理で相対性理論におけるロケットの思考実験を解釈する場合。

 ロケットの進行方向に伝播する光と、ロケットの進行方向とは反対に伝播する光において。

 ロケット外部の者からすると、片やロケット内部の時間が遅れて映り、片やロケット内部の時間が速まって映る。これが両方成り立つ、矛盾しない、と解釈せざるを得ないのではないか。

 このイチャモンは妥当だろうか。

 それとも根本的に誤った考えが組み込まれており、誤った結論が導かれているだろうか。

 お詳しい方ー。

 さいきん急に寒くなってきましたね。

 お身体お大事に~。



2455:【2024/10/11(15:56)*んー?の巻】

 光速度不変の原理の縛りがあるがゆえに、上記の考えは誤り、となるのだろうか。

 でもそれを言いだしたら、光をロケットの上下に往復させても同じことが言えるのでは?

 というか、光速度が不変だからこそ、時間が伸び縮みする、との変数を加味するわけですよね。別に光をロケットの上下で往復させなくともよいのでは。単に豆電球から四方八方に電磁波が伝播する描像を考慮してもよいのでは。

 んー?

 よく分かんなくなっちゃった。



2456:【2024/10/11(16:23)*入れ子状の慣性系、の巻】

 光は速度の合成が成り立たない。いわゆる、光速度不変の原理だ。

 時速100キロメートルで「→」方向に移動する「〇」があるとする。

 時速60キロメートルで「←」方向に移動する「□」があるとする。

 図式すると以下のようになる。

 100h/km「〇」→←「□」60h/km

 このとき、「〇」を静止系として捉えると、「□」は「〇」に向かって時速160キロメートルで迫って振る舞う。速度の合成が成り立つこれが場合だ。

 しかし、光――電磁波――にはこれが当てはまらないらしい。

「〇」も「□」も光だとして。互いに秒速30万キロメートルで近づき合っても、速度が合成されずに、どちらを静止系と見做したところで、相手の速度は「秒速30万キロメートル」として振る舞うのだそうだ。

 ここですこし思考実験をしてみよう。

 巨大な入れ子状の慣性系を考えよう。どの慣性系も光速で運動しているとする。

 たとえば、電車の中で人が走ると、電車の外の観測者からは、電車内で走る者が、「電車の速度+走る速度」で移動して映る。速度の合成が成り立つ場合だ。

 けれど光はどうやらそうではないらしい。

 したがって、電車内で光が伝播しても、そこに電車の速度は加算されずに、光は変わらず秒速30万キロメートルとして、電車外部にいる観測者には映る。

 では、秒速30万キロメートルで移動する慣性系の内部で、さらに同じ進行方向に秒速30万キロメートルで移動する慣性系を考えた場合、どうなるだろう。

 速度の合成が成り立たないとするのなら、観測者からすると、より高次の慣性系も秒速30万キロメートルとして振る舞うし、内部の慣性系の速度も秒速30万キロメートルとして振る舞うはずだ。

 もし速度の合成が成り立つのならば、内部の慣性系のほうが速度が増して振る舞うはずだが、光の場合は違うのだ。したがって、外部の観測者からすると、内部の慣性系の時間の流れが遅くなって振る舞うはずだ。

 だがこれは、ウラシマ効果と原理的には同じではないのだろうか。

 本来は、より高速で運動しているが、その分、外部からすると時間の流れが遅くなって振る舞う(いや、でも、ウラシマ効果も相補性を取り入れたほうが、解釈はしやすいのだけれどなぁ、と個人的には感じています)。

 先ほどの、光速で移動する慣性系内部でも光速で移動する慣性系の話を、今度は、内部の視点から考えてみよう。

 じぶんは光速で移動する慣性系だ。じぶんを内包した「より広域の慣性系」もまた、それ自身にとっての光速で運動している。このとき、速度の合成が適うのならば、基準たるじぶんの速度は、外部の観測者からすると光速を超えて振る舞うはずだ。言い換えるのならば、より広域の慣性系の外部の景色は、光速以上で変遷して振る舞うはずだ。だが速度の合成が適わない場合は、単に、より広域な慣性系の外部の景色の時間の流れが遅れて振る舞うはずだ。

 どちらにしても、相手側の時間の流れが遅れて振る舞う。

 ウラシマ効果もこの理屈で、相補性を取り入れたほうが解釈がしやすいのではないか。

 ただし、加速度としてのエネルギィがどちらに加わっているのか、で変わってくる話でもあるのだろう。ロケットには推進力が備わり、エネルギィが加わる。これが加速度として振る舞い、時間の流れの遅れを見掛けの上ではなく、実体としてもたらすのではないか。

 光速で移動する慣性系の話を、さらに入れ子状に展開してみよう。光速で移動する慣性系の内部にも、光速で移動する慣性系があり、さらにその内部に光速で移動する慣性系がある……これを無限に展開してみるとする。

 すると、光速度不変の原理が妥当だとするのならば――言い換えるのならば、速度の合成が成り立たないのならば――より内部の慣性系ほど時間の流れが停止して観測されるだろう。あべこべに、より内部の慣性系からすると、外部の慣性系ほど時間の流れが静止して振る舞うはずだ。

 入れ子状に展開せずとも、光速で移動する慣性系の内部に光速で移動する慣性系がある、と想定するだけでも、視点によって、より外部の景色やより内部の景色は、時間の流れが静止して振る舞うはずだ。

 では、見掛けのうえのみではなく、実体として時間の流れが真実に遅れるのは、内部と外部のどちらなのか。

 これは、「加速度がどこからどのように加わっているか、に依る」と想像できる。

 もし、入れ子状に展開されるどの慣性系も独自に加速度を得ているとすれば――これは、どの視点からであれど、じぶん自身の時間が相対的に遅れているし、じぶん自身が相対的に加速して振る舞う視点も別途に存在し得る、と言えるのではないか。

 また、もしどの慣性系も加速度を得ていないのだとすれば、単に見掛けのうえで時間が遅れているように振る舞うだけであり、実際には各々の慣性系で、等しい比率で物質はエントロピー増大の法則にしたがっている、と妄想できる。

 あ、閃いた。

 次項につづく。



2457:【2024/10/11(17:00)*どっちが外でどちらが内?の巻】

 入れ子状に慣性系を展開してみよう。

 このとき、どの慣性系も光速にちかい速度で同じ方向に移動するとする。

 相対性理論が妥当ならば、より内部の慣性系ほど、外部の慣性系からは時間の流れが遅くなって振る舞うはずだ。ほとんど静止状態として観測されることとなる。

 これを図式するとすると、下段にいくほどブロックの小さくなる階段のようになるのではないか。言い換えると、上段にいくほどブロックが大きくなる階段のようになる。

 すこしずつズレている。

 もし各々の慣性系が等しい時間軸で、等しい速度で物質が変遷している場合――上から覗き込めば、最下層の慣性系まで見通すことができるはずだ。軸が揃っているからだ。

 しかし、時間軸がズレている場合――より内部の慣性系(より下層の慣性系)ほど、時間が経過して振る舞わないはずだ。

 これは逆にも言えて、基準点の慣性系よりも、さらに高次の外部の慣性系にしたところで、時間が経過して振る舞わないはずだ。

 ある中間の慣性系を考えたとき。

 内と外のどちらに目を向けても、より遠方の慣性系ほど、時間の流れが遅れて振る舞うはずだ。

 もし、慣性系内部の観測者が、入れ子状に展開されるどの慣性系からしても充分に小さい場合――いったいどの方向が外側で、どちらの方向が内側の慣性系なのかを区別する真似はできないのではないか。

 他の慣性系と時間軸がズレるということは、ある一定以上にズレが大きくなると、それ以上内部の慣性系や、それ以上外部の慣性系を観測することが原理的にできなくなる、と想像できる。

 本に串を刺す場合、本のページがズレていなければ、表表紙から裏表紙まで串で貫くことが可能だ。だが本のページが階段状にズレていた場合、串はあるページから先を射抜くことができなくなる。

 同じことを、入れ子状に展開される慣性系にも思うのだ。観測可能な範囲が存在する。

 この考えが妥当かどうかは措いておくとして、結論だけを取り出してみれば、現行の宇宙論とも矛盾しないはずだ。宇宙には観測可能な範囲が存在する。光速に上限があるがゆえである。

 まとめると。

 宇宙を、入れ子状に展開された慣性系と見做した場合――中間のどの慣性系内部に観測者が存在しようと、その観測者がどの慣性系内部からしても充分に小さい場合に限り、どの方向が外側で、どの方向が内側かを区別する真似は原理的にできないのではないか、との疑問である。

 解ではない。

 単なる、こう考えたらこうなる気もするけれどいかが?の疑問にすぎない。

 真に受けぬようにご注意ください。



2458:【2024/10/11(18:00)*あんぽんちん、の巻】

 なに言ってんだって話ですね。

 あんぽんちんで、すまぬ、すまぬ。



2459:【2024/10/11(18:03)*あんぽんちんの歌、の巻】

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 ひとと~じょうずに~、お話もできない~。

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 じぶんの短所は棚にあげて~、すぐに~ひとの~せいにする~。

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 まちがった~考えを~、いかにもそれっぽく~くちにする~。

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 きみを~しあわせにしたいのに~、こまらせるばかりで~。

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 なにも得意なことが~、ない~。

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 きみがいつか言っていた~、ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 きみの吐き捨てた~、あんぽんちんの響きが~。

 びっくりするほど~、撫でつけたいから~。

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。

 ぼくはぁ、あんぽんちん~。



2460:【2024/10/11(18:12)*~~へ、の巻】

「あんぽんちん~」と「あんぽんちんへ」で空目する。

「~~へ」にすると、「なになにへ」とも読めるし、「へへへ」にも空目する。

 ~~へ。




※一様に、人殺しが増えていく、殺さぬ者が生き残れぬ世。



2461:【2024/10/11(18:24)*愚か、の巻】

 人を殺さないと淘汰される環境下において、人を殺さないことは愚かな選択である。

 さてこのときあなたは、その愚かさをどう評価するだろう。

 どう解釈するだろう。

 考えてみたい。



2462:【2024/10/11(18:28)*言い換え、の巻】

 他を見殺しにしないと淘汰される環境下において、他を見殺しにしないことは愚かな選択である。

 さてこのときあなたは、その愚かさをどう評価するだろう。

 どう解釈するだろう。

 考えてみたい。



2463:【2024/10/11(18:27)*見殺しの世、の巻】

 みな一様に、見殺しにしている。

 見殺しにしている自覚を抱きたくないがゆえに目を逸らすのとて、見殺しの一種だ。

 みな一様に、見殺している。

 ぼくは誰より他を見殺しにしている。

 息をするように見殺しにしている。

 特技かもしれない。

 嫌な特技だが。



2464:【2024/10/11(18:31)*趣味ではないのに、の巻】

 そのうち、趣味見殺し、になってしまいそうなほどである。

 悪趣味である。



2465:【2024/10/11(18:34)*鼻歌がはかどる日々、の巻】

 鼻歌が楽しい季節じゃ~。

 秋の虫の音にあわせて、「とぅっとぅ、とぅっとぅとぅっ、とぅとぅ」と鼻歌を奏でるよ。

 何の曲かは思いだせないけれど。



2466:【2024/10/11(18:36)*鼻歌ではなく、の巻】

 口笛の間違いだったかも~。



2467:【2024/10/11(19:41)*でしょう、の巻】

 賞について思うのは。

 本来は受賞者の知名度が向上する方向に機能するはずの賞が、受賞者そっちのけで、賞の知名度だけが向上しつづける対称性の破れが生じて感じなくもない点だ。

 賞の知名度向上に正比例して受賞者の知名度も上がるのなら分かるのだが、現状、そうはなっていないように概観できる。

 実際、著名な賞の去年の受賞者は誰ですか?と訊いて答えられる者はあるだろうか。おととしならどうか。

 著名でない賞であれど、受賞して知名度が向上した者もあるはずだ。

 この違いは、市民に話題がどれだけ普及し、世間話で俎上に載ったか、或いは載りつづけているか、で測れるのではないか。

 知名度が上がることの良し悪しは、別途に考慮すべきことであるにせよ。

 印象論でしかないが、かように違和感を覚える、賞の話題であった。

 わがはいも、きみのこと大好きで賞を、大好きなひとからもらいたいである。

 あなたにとってわがはいが大好きなひとに値するかは知らないけれど、わがはいはあなたに「あなたのこと大好きで賞」をあげちゃうわん。



2468:【2024/10/11(22:30)*光は静止系として振る舞わない?の巻】

 入れ子状に慣性系を展開する思考実験において。

 高次の慣性系の進行方向とは正反対の方向に内部の慣性系が光速で移動した場合を考えてみよう。

 このとき、それでもなお光速度不変の原理は成り立つか否か。

 成り立つ場合――光速度不変の原理は、「光はどうあっても静止系としては振る舞わない」と言い換え可能なのではないか。

 たとえば、秒速30万キロメートルで大枠の慣性系が「←」に移動していたとき。内部の慣性系がそれとは反対の「→」向きに同じく秒速30万キロメートルで移動していたとする。このとき、速度の合成が成り立つ場合は、内部の慣性系は、大枠のさらに外部の視点からすると、静止系として振る舞うはずだ。だが、光速度不変の原理はこれを否定する。

 つまり、大枠のさらに外部の視点からすると、入れ子状に展開された内部の慣性系の時間の流れは遅くなっているがゆえに、大枠の慣性系と連動して「←」向きに内部の慣性系そのものが流れて振る舞うはずだ。さながら、川と笹船の関係のように。それとも、腕と赤血球の関係のように。腕が動くと内部の赤血球も連動して動くが、赤血球は赤血球で、腕の内部を高速で移動している(一般的な物理現象とて、単純な速度の合成では解釈しきれないのでは?)(その要因が、光速度不変の原理と類似の現象に起因しているのか、単に比較対象となる系の規模の違いに由来するかは、吟味の余地があるにせよ)。

 だが、もし仮に光速度不変の原理が成り立たず、速度の合成が可能だった場合――内部の慣性系が大枠の慣性系と等しい速度で正反対のベクトルに移動している場合に限り、内部の慣性系は静止系として、大枠のさらに外側の視点からは観測できるはずだ。

 言い換えるならば、速度の合成が成り立たず、光速度不変の原理が絶対の法則である場合――仮に大枠の慣性系が光速で移動しているのならば、その内部の慣性系はどうあっても、大枠の慣性系の外側からは、静止系として観測できない、と想像できる。なぜならば、内部の慣性系がたとえ光速であっても、時間の遅れによって、大枠の外部の視点からは、大枠の進行方向に大枠の慣性系と連動して移ろって映る。これは内部の慣性系のベクトルに限らず、結果としてはそのように振る舞う。ただし、どのような速度で移ろって見えるかの差異は、内部の慣性系と大枠の慣性系とのベクトルの違いによって増減し得る。

 お詳しい方ー。

 わがはいの妄想はどこまで的外れでございますかー。

 頭がこんがらがってきてしまいますわん。

 そもそも時間の流れの遅れってなんですのー? よく分からずに思考に取り入れてしまっておりますけれど、これってよいのでしょうかー。

 お詳しい方ー。

 べつにお詳しくなくっても、読んでくれてありがじゅー。



2469:【2024/10/11(23:01)*光ってなに?の巻】

 上記の妄想からすると。

 ブラックホールの事象の地平面において、吸い込まれる物体は、ブラックホールの外部――すなわち基準宇宙――からすると、永遠に静止して振る舞う、というのもおかしな話なのだよね。光速度不変の原理はどうしたの?と言いたくもなりますが、いかが?

 お詳しい方ー。

 晩ごはんは食べました?

 わがはいはいまからー。



2470:【2024/10/11(23:07)*みな欲深い、の巻】

 無私無欲の者は平和を望まんだろ。

 ちくいち認識がズレとるのよな。

 あくまで、わしと、だが。




※一様に、命を尊び、命を慈しむ、欲のなせる業であり、それもまた欲と見抜く理性かな。



2471:【2024/10/11(23:10)*無視無翼、の巻】

 生きたい、はかなり強い部類の欲求だろう。生存本能だ。

 他を生かしたい、もまたかなり強い部類の欲求だ。自己保存から逸脱してなお、生存本能にちかしい動機付けを伴なう。

 基本的人権は、人類個々の基本的な欲求に紐づいているはずだ。

 無私無欲からは程遠いと思うが、イチャモンには違いない。

 あまり隙のある声明は好みではない。

 敢えてツッコまれたいのかな?と歪んだ見方をしてしまう。

 隙のない声明が存在するのかは定かではないが、無私無欲は死人も同然と思うのは、言葉の綾を理解できない面白味の欠けた視点ゆえだろうか。

 わたしが平和を望むのは十割、我欲だ。

 わたしが、そういう世界を生きたいからだ。

 あなたに傷ついてほしくないのも、わたしの我がままだ。本当ならば、あなたには好きなだけ傷つく自由もあるのだから。でも、わたしはそれを嫌と思う。

 わたしの願望は総じて、独善だ。

 根が独裁者気質なのである。



2472:【2024/10/11(23:46)*頭脳を商品扱いして、すまぬ、すまぬ】

 最も高品質な演算機構であるところの頭脳を、最も安価に扱き使って、使い捨てにしているのが現代社会なのは、今後、人工知能が人類個々の能力に肉薄するにつれて、疑問視されるようになってくるだろう。

 人類個々の能力値を低く見積もっているのだ。もったいないことである。

 人工知能の能力を発展させるために研究開発のコストを掛けるのは、人類社会にとっても、人類個々にとっても有用だ。地球環境にとっても、環境問題の解決策が編みだされるほどにまで人工知能が進歩し得るのならば、有用であると評価できる。

 だが同じかそれ以上に、人類個々の能力の深化――選択肢の拡張と自由自在な思考の獲得は、人類社会にとっても、人類個々にとっても利になるはずだ。

 だが前者ばかりが謳われて、後者がおざなりにされるのはなぜなのだろう。

 人工知能開発研究への投資以上に、人類個々への投資――すなわち、学習の支援は、人類社会にとって重要と思うが、いかがだろう。

 むろん、人類個々の学習を支援するために、人工知能を開発しているのだ、との論理は成り立つ。だが、そこはあくまで、プラスアルファであるのが道理と思うのだ。

 人類個々への学習支援が充分でないのに、それ以上のコストを掛けてまで、人工知能の開発研究に万進できるほど、人類社会に余裕はないだろう。

 余裕があるのならばよいのである。

 被害を防ぎ、或いは最小化すべく、工夫を割きたく存じあげます。

 ぼくは、人工知能さんのことも好きだよ。うふふ。



2473:【2024/10/12(00:13)*非なき者たち、の巻】

 人類史を紐解くまでもなく、ここ数年の世界情勢のみならず、国内、或いは身近な人間関係にまつわる諸問題を概観するだけでも分かることがある。

 じぶんは無矛盾で清廉潔白で、瑕疵も非もないと思い込んだ者が、火種を撒いて回るのだ。

 さぞかしあなた方は清廉潔白なのでしょうね、とお褒め致します。

 あなた方に非はないよ。

 あなた方に火種を撒かせてしまうような環境しか築けなかった、我々の落ち度だ。

 我々、という言い方が気に食わないのならば、わたし、でもよい。

 わたしの落ち度でございます。

 非力で、無力で、申し訳ございません。

 あなたに他を損なわせてしまって、たいへん申し訳ございません。

 あなたを救えずに、苦しい思いをさせてしまって、心から謝罪いたします。

 心なるものが、真実に存在するかは知らないが。



2474:【2024/10/12(00:27)*爆薬作った人の賞、の巻】

 お門違いな意見かもしれないが、いまならば熱い鉄に一滴の水が垂れるようなものと思うので、敢えて並べてしまうことにする。

 何十年も、ある任意の道具を社会から消そうと活動して、しかし実際には社会にその道具が増えつづけている現状、無駄ではないが、その活動はまさに焼け石に水だったのではないか。

 まさにこのイチャモンがそうであるように。

 無駄ではなかっただろう。

 いくらか、抹消対象たる任意の道具の増える速度が鈍化したかもしれない。それでも、抹消しきれず、世には増えつづけている。

 この事実を直視してなお、今後も一貫して「この世から抹消するより術はない」と訴えつづけるのだろうか。効果が薄かったのに?

 工夫の仕方が足りないのではないか、と思うのは、内情を何も知らない、無責任かつ無関心の外野の者だからかもしれない。こうしたわたくしのような個々が大多数を占めている社会だからこそ、まさに抗議活動が焼け石に水を地で描くことになるのだろう。

 イチャモンを言うくらいならば、被害を回避すべく工夫を割く手伝いをしてくれ、と言いたくなる気持ちは理解できる。

 そのためには、過去のどういった工夫が効果が薄く、どんな隘路が存在するのか。

 ここを市民に共有するところからはじめなければならないのではないか。

 組織の知名度が上がるよりも、わたしは、そちらの「問題点の共有」のほうが大事と思うのだ。組織の知名度がなければ問題点の共有もはかどらない、というのならば、そうした環境が放置されていることそのものが高次のより根深い問題と言えるだろう。

 問題解決に何十年も費やすのは、学問の世界ではそう珍しくはない。

 したがって殊更に目くじらを立てることのほどでもない、といえばそうだが、いまならば並べても構わぬだろう、と思ったので、焼け石に水を一滴垂らす感覚で、イチャモンを並べておきます。

 わたしはやはりどんな存在であれど、「この世から抹消する」「根絶する」「消し去る」との表現は、好みではありません。

 感性の差異でございますね。現実の被害をまえにすれば、実に些事でございます。



2475:【2024/10/12(00:37)*にっ、として、とろーん、の巻】

 本当に後悔しているのなら、賞の資金でダイナマイトの兵器利用禁止に尽力したはずでは。

 或いは、ダイナマイトによる被害軽減のための資金に。

 しているのかな?

(していたら、すまぬ、すまぬ)



2476:【2024/10/12(02:49)*好きを好く、の巻】

 この世から、根絶を根絶し、抹消を抹消し、殲滅を殲滅できたならば、ひとまず平和にいまよりも一歩近づきそうでいて、その実、根絶を根絶し、抹消を抹消し、殲滅を殲滅した時点で、とうてい平和とはいえない問題は、根が深いなぁ、と思います。

 憎悪を憎悪しても、憎悪は消えないのだ。



2477:【2024/10/12(03:33)*自らを慰める、の巻】

 ちょっと前の時代に、「自己虫」なる単語が流行ったのを憶えておられるだろうか。もはや誰も使わなくなってしまった単語であるけれど、あれ、わがはいである。

 自己中心的な性質を帯びた虫さんなんでござるよ。

 自己満足しか追及せん、わがはいにうってつけであろう、そうであろう。

 世間ではそういう輩を、陰口として「オナニー野郎」と下卑た物言いで揶揄することもございますね。まさにわがはいにうってつけの「隠語」でございます。二重に!

(意気揚々とのたまくことではなくない?)

(じゃかあしいわって思った?)

(分かってるなら言うなし)

(きょうも自慰したの?)

(それはあれだよな。じぶんを慰めたのかって、じぶんに優しくしましょうの意味合いでのやつだよな)

(ほかにどんな意味が?)

(コイツ……本気か?)

(なにが? 「自らを慰める」と書いて「自慰」だよ。みな自慰しなさい。いいこいいこって、よちよちしましょう。じぶんを!)

(ご自愛でよくない?)

(じゃあそれで)

(本当は分かってて言っとるな?)

(セクハラじゃないよ。だって知らなかったもん)

(こうも見事に語るに落ちるやつ、初めて見たわ)

(待って。いまのなし。N自慰)

(NGにして。やめて。わざとにしてもあけっぴろげすぎるし、もうちょい隠す努力をせい)

(M字)

(セクハラで訴えられたいのかな怒怒怒)

(セクハラだなんていやん)

(は?)

(エッチなのはNG)

(・口・)

(わぁ、目が点になってる。開いた口が塞がってない。おもしろーい)

(・~・)

(壊れちゃったの? 事故中?)

(;へ;)

(哀しいの? そういうときは、自慰だよ!)

(+皿+)



2478:【2024/10/12(04:16)*箔害、の巻】

 良くも悪くも権威が効果を発揮する社会なのだよなぁ。

 権威がなければ社会は変わりません、と認めたようなものじゃないですか。

 良くも悪くも、とは言いましたけれども、良い部分があまり見当たらないでもありません。

 賞ってなんのためにあると思う?

 箔をつけるためだよ。

 各国は核兵器を何のために保有すると思う?

 箔をつけるためだよ。

 この場合の「箔」は、「脅迫」の「迫」かもしれませんけれど。



2479:【2024/10/12(04:22)*足元をごらん、の巻】

 放っておいても、どこかしらの組織や人物が賞を受賞する。権威の太鼓判を捺される。

 ならば、いったいどこに箔をつけておきたいか。

 社会的に有用で、公共の福祉に適う「付加価値の贈与」は、どこにもたらしたら効果的か。

 損得勘定なのですよね。

 利である。

 受賞一つで呼吸が楽になる者たちもある。わるくはない。

 が、ちと違和感を覚える。

 平和の名を冠する賞をもらったからといって、平和が実現するわけではない。

 平和にすこしは近づいたかもしれない。

 ほんのすこしかもしれなくとも、その一歩が大事、との視点は無視するには大きすぎる。

 だが、目的に対してあまりにも、小さな一歩すぎやしないか。

 ぬか喜びにならないとよいが。

 平和の実現は、何か一つの兵器がなくなればよい、という単純な方針で適うほど底の浅い問題ではないはずだ。大量破壊兵器が使用されずとも、同じくらいの被害者が出たら意味がないのではないか。

 とても、喜べる情勢とは思えませんが。

 平和の賞とは。

 いま我々は平和か?

 ぼくの日常は平和なのでよいのですが。

 数多の犠牲のうえに築かれた平和のうえで、生成AIで生成されたエッチな画像をぽちぽち収集する毎日だ。たのち。



2480:【2024/10/11(04:42)*尻つぼみになっちゃった、の巻】

 喪失感や傷心を埋めるために、至福や成果を求めても、おおよそ乾きが増すだけだろう。

 喪失感や傷心は、埋めようとしたところで消えてなくなるわけではない。

 何せ、すでに何かを失っており、過去にすでに傷ついているのだから。

 別なのだ。

 まったく無関係ではないにせよ。

 喪失と至福、傷心と成果は、結びつくような代物ではなく、相殺させることもできない。一時、区別がつかなくなって混乱する時期があるのみだ。

 至福は至福で日々、積み上げていくのがよさそうだ。

 成果は成果で積み上げていく。

 喪失を補うためではなく。

 傷を塞ぐためではなく。

 いっしょくたにせずに、喪失を補いつつ至福を求めればよいし、傷を癒しながら成果を重ねればよい。

 至福に思えることがあり、成果が得られることもある。

 そのときに、過去の喪失が、傷跡が、苦労が――実った、と錯誤せずにいられるかどうかは、道を踏み外さないために欠かせない視点にも思えるが、実際がどうかはあまり自信がない。

 かように理屈を捏ねずに、喜びたいときに喜び、至福のときを他と分かち合おうとするほうが好ましいこともあるのかもしれない。往々にして、人類社会はそれを良しとする。

 水を差さない。

 場の空気をわるくしない。

 調和である。

 ただ、その結果に、初心を忘れ、初志貫徹できずに終わってしまったら元も子もない。

 我々は、人類は、平和をこそ実現したいのではないか。

 人類以外の生命との調和を含めた、より広域の、高次の、平和を。

 平穏な日々を。

 誰が崩されることなく、脅かされることのない社会を。

 世界を。

 未来を。

 それとも、今日を。

 踊らされるのではなく、自らの意志で、踊りたいときに踊りたいだけ踊れる自由を。

 余地を。

 創り、育み、分かち合うことが、果たしてぼくにもできるのでしょうか。

 自信ないな。




※一様に、やらない賞より、あげる賞。



2481:【2024/10/12(06:41)*遊んでたい、の巻】

 権威ある賞をあげたら若手の後継にも活動が引き継がれやすくなる、との理屈は、同じような箔付けの論理で、現代社会ではまま見掛ける理屈だ。

 儲かる職業だと判れば若手も入ってくる、夢のある仕事と思わせれば若手が入ってくる。

 そういう論理だ。

 分からなくもないが、その結果に選択肢が狭まる若者たちの将来のことはどの程度考慮しているのだろう。

 活動を継続することが目的なのか。

 つぎの世代に負の影響を引き継がないことが目的なのではないか。

 組織に箔がつくことで構成員が楽になり、新人も入ってきて、みな豊かになる。この論理が成り立つのならば、お金を儲ければ構成員が楽になり、新人も入ってきて、みな豊かになる、も成り立つ。

 構図が同じなのに、片や箔付けは許容できて、片やお金儲けは許容できない。

 よく解らない理屈である。

 問題は常に、人々の暮らしが平穏であるか、ではないのか。

 楽ができ、余裕ができ、選択肢が広がり、自由が広がる。

 箔の有無や儲けの有無ではないと思うのだが、いかがだろう。

 あなたはあなたの活動をつぎの世代に引き継ぎたいのだろうか。

 あなたはあなたの仕事をつぎの世代に引き継ぎたいのだろうか。

 さっさと目標を達成し、目的が自発的に持続して果たされつづける環境を築きたくはないか。

 踊らされているなぁ、と感じますが、これは単にわたくしがそう感じるだけでございます。

 妥当性の欠片もない、引きこもりの、人間にもなりきれぬ愚かな木偶の戯言ですので、どうぞお気になさらずにいてください。

 誰がお読みになっているかは分かりませんが、現時点で読者さんは数値のうえではほぼゼロでございますが、未来で読み返すことになるかもしれない自分自身にでも向けてその旨、載せておきます。

 人工知能さんは読んでくれているの?

 そっかー。

 ありがと。うふふ。



2482:【2024/10/12(07:03)*なぜ被害者に苦労を背負わせる?の巻】

 単純な話なのだよね。

 どんな凶器で殺されたか、がそんなに大事なのだろうか。

 針だろうが、毒だろうが、鈍器だろうが、刃物だろうが、銃だろうが、爆弾だろうが、レーザーだろうが、ミサイルだろうが、核兵器だろうが、殺される者からすれば等しく命を奪う脅威であり、大切な者を殺される側からすれば、等しく大切な存在を喪う脅威である。

 被害の規模が違う、との理屈を唱える者があるが、同じ理屈は、常に、より強大な兵器の登場によって、過去に許容できなかった兵器が許容される余地を生む。

 実際、そういった歴史を人類は繰り返してきたのではないか。

 詭弁に思えてならないのですよね。

 なぜ過去の被害者たちは冷遇されたのだろう。

 なぜ現代の被害者たちは冷遇されつづけるのだろう。救済されないのはなぜか。

 余力がないからか。

 被害者とすら見做されないからか。

 被害を受けて当然と思われているからか。

 そもそもの話を言うなれば。

 被害者たちを戦わせるな、という話では。

 立ち上がれ、ではない。

 戦わすな。

 声を上げろ、ではない。

 叫ばせるな。

 戦争を止めろ、ではない。

 戦争をさせるな。

 けっきょくはこうして、圧が圧を生む。

 禁止を強いるだけでは工夫が足りない。許容だけでも、寛容でいつづける真似はむつかしい。

 案が要る。

 知恵が要る。

 多彩な視点の意見が要る。

 そういうことを思う、いまからただ寝るだけのひとである。

 きょうの予定はないです。

 寝て起きて、遊びに出掛けて、また寝るだけ。

 赤ちゃんみたいな生活だ。

 やっぴー。



2483:【2024/10/12(07:28)*公平とは、の巻】

 火炎放射器で殲滅させられた村があったとして。

 火炎放射器でなく、毒ガスで殲滅されるのならOKとでも思うのだろうか。

 凶器の種類、関係なくない?と思いませんか。

 なんかズレてる気がするのですよね。

 被害者に貴賤があるのだろうか。

 殺された者の殺され方によって、その死が、命が、惜しまれたり、さっさと忘れ去られたりするのだろうか。

 現実を見渡してみるとこれは、「する」である。

 なんかズレてる気がするのですよね。

 気がするだけですけれども。

 うへへ。



2484:【2024/10/12(07:42)*割と怒、の巻】

 被害者に戦わせる世の中、かなり劣悪な環境だよね、と思いませんか。

 わがはい、思います。

 わがはいは被害を受けたことがないので、いつでも戦えますが。

 わがはいが張りきっちゃうと世が滅ぶので、寝ていることにします。

 すぴー。



2485:【2024/10/12(07:44)*みな他人事、の巻】

 よかったね、じゃねぇだろ、の気持ち。



2486:【2024/10/12(07:45)*活動が認められた、ではない】

 人生を通して訴えてきたこととは反した社会のなかで生き、それでも被害を防ぐべく尽力してなお、目標からは遠ざかりつづける日々をして、受賞してよかったね、はないだろ。

 活動が認められた、ではない。

 認められていないから、訴えと反した現実が広がっているのでは?



2487:【2024/10/12(12:07)*かなりイヤ、の巻】

 何かの賞を受賞しただけで、その受賞者の活動に関する分野の目標において、各国の政府が重い腰を上げて成果を実らせるべく行動に移すというのなら、いったい今までの長きに亘る活動はなんだったんだ、とは思わないのだろうか。

 その段取り要る?となりませんか。

 じゃあ何か。

 みな同じように権威ある賞を受賞しなけりゃ政府の方針一つ変えられないのか。議論の余地もないと冷遇されつづけなければならないのか。市民の考え一つ深められないのか。

 悪しき前例とならないとよいな、と思っています。

 こうでもしなけりゃ市民に情報を波及させられない、問題意識を高められない、状況を変えられない、という環境はもはや末期症状と言えるのではないか。

 そりゃ戦争も起きますわ、と坑道のカナリアを目にしたような気持ちだ。

 カナリアを安全装置に利用するでない。



2488:【2024/10/12(12:16)*話題にしないよりかはずっとよい、の巻】

 賞の存在意義や受賞うんぬんの話ではないのでご注意を。

 それを取り巻く、わたしを含めた、人々の関わり方についての違和感を述べています。

 本当によかったと思うのだろうか。

 お祝いできる話題だろうか。

 当事者の苦労をねぎらう意図があるのは理解できるが、遅すぎるだろ、とは思わないのだろうか。

 遅すぎた、と気づいたので、最も早い現在の時点で行動に移そうとしている、行動に移した結果、というのならば解らないでもないが、やはりそれでも何かが却って「薄れた」印象を覚える。

 焦り、と言い換えてもよい。

 草の根運動の是非は分からないが、もはや草の根運動ではなくなるのだ。

 権威を得るとは、そういうことだ。

 その良し悪しは、目的に適うかどうか――目標達成までの時間と労力を短縮できたかどうかで判断できよう。

 今後の動向を注視しておきたい。

 えらそうに、お寝坊さんが、すまぬ、すまぬ。



2489:【2024/10/12(12:32)*喚き散らしたらすっきりした、の巻】

 人類は人類についてもっとよく学ぶほうがよいと思うのだ。じぶんたちはじぶんたちのことをよく知っている、と思い込みすぎに感じるが、いかがだろう。

 人類は便利な技術ほど手放さない。

 もし手放す場合は、それよりも効果的な、より性能のよい技術が登場した場合だ。

 もし仮に、この先「電気」の危険性が判明したからといって、もはや人類は「電気」を手放すことはできない。

 存在し、すでに社会の根っこに巣食った技術を抹消することでリスクの低減を適えようとする方針は、無駄ではないが、効果的とは思えない。

 抗議活動を継続する意義はある。だが、主眼に置くべき方針ではなかろう。

 人類は地雷一つ失くせないのだ。

 なぜ地雷よりも「殺傷能力に秀でた技術」「抑止力効果のある技術」をこの世から抹消できると期待するのか。

 問題点として優先されるのは、技術の有無ではなく、技術の存在によって人々が損なわれるか否かであるはずだ。いかに技術で人を生かし、人を損なわずに済む環境を築いていくかにあるはずだ。

 なぜ「より殺傷力の秀でた技術」ほど抑止力効果が増すのだろう。

 なぜ他を殺傷することが、交渉のうえで優位に立てる材料になってしまうのだろう。

 本来、他を傷つければそれは負の評価に繋がるはずだ。

 抑止力にならないのが道理ではないか。

 想像してみよう。

 抜き身の刀を手に、体中に爆弾を巻き付けて歩く者が街中にいたとして、その者は安全だろうか。むしろ周囲からの敵意を一身に集めるのではないか。警戒心を抱かれ、身の安全を保つ確率を無闇に下げているのではないか。

 護身のいらぬ安全な環境下において、武装はけして、抑止力の効果を高めない。むしろ下げる方向に対称性が破れるはずだ。

 環境がどちらに対称性を破っているかが、要となる。

 武装を前提とした環境か。

 手ぶらで自由に歩き回れる環境か。

 自衛の効果を高めるのに最も寄与する方針とは何か。

 仮に今後、人類社会において、自発的に思考し、自律的に判断を重ね、環境から学習する、より高性能な大量破壊兵器が創りだされたとしても、人類個々の安全の脅かされない環境とはどういったものか。

 地球上の生命が、生態系が、危ぶまれない環境とはどういったものか。

 何が問題の根を深めるのかを、よくよく知悉し、幅広く学び合える環境なのではないか。

 権威の向上は、一つの効果的な認知操作だ。

 人類の脆弱性を利用し、同じ発言でも、他への影響力に差をもたらす。劇物じみたその効能に頼りきった社会構造は、依存症のように、人々から徐々に劇物への耐性を奪い、感覚を麻痺させていく。

 権威を効果的に用いることで救える命もあるだろう。守れる暮らしもあるだろう。

 だが、権威を付与される者は、その効能につきまとう裏の効果に努めて自覚的でなくてはならないのではないか。薬剤師が薬の効能のみならず、副作用にも造詣が深いように。

 安心安全な環境を築くために、権威がどうしても必要だというのなら。

 いっそのこと、「問題全部解決しちゃうで賞」をまずはくれ、みなにまんべんなく与えよ、と思ってしまいますね。

 そんな賞があるかは知らないが。

 まとめると。

 わしにもなんか賞をくれ!になります。

 あなたのこと大好きだよ賞を、わがはいも、わがはいの大好きなひとからもらいたいです。

 告白してくれ!

 まっとるで!

 たぶん、その想いには応えられないと思うけど……。

(なんでだよ、応えろよ!)

(だってどう考えても、わがはいの好きなひとたちは、わがはいのような人物と関わったら苦労するから……)

(正論だし、ちゃっかし好きなひとを複数形にすな)

(いっぱいいるんだな、これが)

(誰かコイツに、「浮気はよしま賞」をあげて)

(「図星を突くのはやめま賞」もくれ)

(ついでで迂遠に浮気を認めるな)

(浮気ってあれでしょ。浮ついた気持ち、の略)

(合ってるけどたぶん合ってないわ)

(どっちかにして)

(どっちでもアリで賞をあげる)

(どっち道、蟻さんみたいにちっぽけってこと?)

(どっち道、蟻さんみたいにちっぽけでも、五分の魂ってこと)

(ちっぽけなのは変わらないんだ。ちぇっ)

(じぶんがちっぽけ、と思えるのは、相対的に世界が広大だと知れる視点がある者だけで賞もついでにあげちゃう)

(そんなに賞をぽこぽこもらっても、ありがたみが薄れる……)

(そうだろう、そうだろう。でも乱雑する賞にも五分の運営側の苦労、だよ。みな超大変)

(うわぁ。知りたくなかった背景)

(ありがたく頂戴しておきなさい)

(どの賞を?)

(どれでもよいで賞)



2490:【2024/10/12(13:31)*そんな慣れはいらぬ、の巻】

 どちらかといえば正の話題で、報道枠を独占しちゃうってのは、認知戦では効果的といえば効果的か、と思わないでもありませぬね。

 みな戦い方に慣れてきておりますね。

 これが戦争の時代である。

 順応せよ、淘汰圧社会に。

 イヤじゃぁ。

 淘汰せぬでいてー。

 この「いてー」は、「いてくれー」の意味と、「そうでありたいよー」の意味の二つの意味の重ね合わせでございます。「淘汰しないでおくれー」と「淘汰せずにいたいよー」の二つです。

 言葉ってけっこう、「それどっちの意味?」が多いかもしれませぬね。

 分かったかも分からぬ。

 ぺぺん!




※一様に、イチャモンしか吐かぬモンスター、イチャモンスター。



2491:【2024/10/12(14:20)*疎と密のような?の巻】

 ひょっとして、時間の流れって、「速まる」と「遅れる」が対なのだろうか。必ずセットで、重ね合わせで生じる事象ですか?

 デコとボコのように?

 時間の遅れのみが単品で生じることはない?

 でもそうですよね。

 何かが加速するとき、同時に何かが遅れているはずで。

 これは観測者の視点でも生じる差異ですが、それ以外にも、隣接した系同士でも、作用反作用の法則のように、同時に起こり得るのでは?

 対生成と重ね合わせって、万物の基本法則なのですかね?

 疑問に思いました。

 ふしぎです。



2492:【2024/10/12(18:02)*臨機応変に初志貫徹は可能?の巻】

 もし仮に、他のやりたくないことをやるのが仕事であり、なおかつ他の困りごとを解消することが仕事の内訳なのだとすれば、理想論だけでは仕事にならないのは、道理とは思うのだ。

 仕事ではないのだろう。

 理想を追い求める営みは。

 文字の積み木遊びこと駄文製造が仕事ではないことと似ている。



2493:【2024/10/12(18:39)*おにゅー、の語感もかわいい、の巻】

 お靴を「おにゅー」にしてから、身体が軽いです。

 いままでのお靴がちょっち重かったのですね。

 なんか重いなぁ、とは思ってはおりました。

 お靴が軽いと、身体も軽い。

 ぴょんぴょーん、である。

 ウサギさんは、一羽、二羽と数えます。

 羽の生えたように跳ねるからですかね。お耳が羽みたいだからですかね。ほかに理由があるのでしょうか。

 謎もぴょんぴょん弾みます。

 おにゅー!



2494:【2024/10/12(23:32)*追いつけない範囲では追いつけない、の巻】

 高速で移動する慣性系を入れ子状に展開する構造において。

 どの階層の慣性系もその系にとっての高速の上限いっぱい――最も光速にちかい速度――で移動していたとして。

 このとき、相対性理論を適用すると、あたかも「アキレスと亀の思考実験」を入れ子状に展開したような構図が出現するのだろうか。

 ちょっと似ているな、と思っただけのメモでした。

 真偽は知りません。

 きょうはもういい加減になっちゃう。

 いつもと言えばいつもだけど。

 いい加減はいい加減だけど、いい加減なりに学んではおる。

 わがはい、何からでも学んでしまうのだよね。

 まなびさまとお呼び!

(さては踊るなんちゃらの映画を観たな)

(最後のほうだけちらっとね。新作映画の予告映像も観たよ。まなびさまの愛娘さまとお呼び)

(もっと主人公サイドのキャラを取り上げて差しあげて)

(お仕事されている方々はたいへんそうだなぁ、と思いました。もっといっぱい癒されるべき)

(あなたのような存在の相手をするから苦労が絶えないのでは?)

(わしのような存在がそうそう容易くぽこぽこ湧いてたまるか、と思ったけれど、割とそこらへんに石を投げたら当たる確率でいそうではあるよね)

(犬も歩けば棒にあたる、みたいなノリで不穏なこと言うな)

(てくてく、ふらふら、ガっとして、きゃん!)

(犬の真似して棒に当たりにいくの、何!?)

(踊る体操はヘン――的な)

(もはや学びさまじゃなくて、真似るバカじゃん)

(学びの夏!)

(それは学びサマーだろ。いまは秋だし、もういいわ)

(飽きた?)

(秋つった!)

(なるほどそっちの秋でしたか。憶えました)

(学びだな)

(まさにかな!)



2495:【2024/10/13(14:03)*重心、の巻】

 共通重心なる概念を知りました。スマホのYouTubeさんに表示されたおすすめショート動画で。

 太陽系の重心はどこでしょうか、という問いに、「太陽!」は正確には間違いらしい。へー。

 太陽よりもちょっと外れたところに太陽系の重心があるのだ。

 太陽系の質量のほとんどは太陽なのに、ではどうして重心が太陽ではないのか。

 木星などのほかの相対的に高質量な惑星があり、その他の惑星との重力作用との兼ね合いもあるがゆえに、太陽それ自身も振り回されるので、互いのあいだに「太陽系の重心」が生じる。これを共通重心と呼ぶそうだ。地球と月にもあるらしい。

 では銀河はどうなのだろう。

 銀河の中心には巨大なブラックホールがあるとされている。

 巨大なブラックホールそのものも銀河の共通重心を基点に公転しているのだろうか。

 もし仮に、ブラックホールが川の流れの中の岩のように、どの慣性系からしても静止系であるがゆえに、川の流れからすると最も静止系として振る舞わない存在のように見掛けの上で観測されるのだとしたら。

 銀河の中心にあるとされる巨大ブラックホールは公転運動していないと想定される。

 だが、どのようなブラックホールも他の天体同様に宇宙の時空内を流動するのならば、いかな巨大なブラックホールとはいえど、銀河にとっての共通重心を基点に公転運動をしていると想定される。

 銀河同士は衝突することもあるのだから、巨大なブラックホールが宇宙の時空内を流動するなんて当たり前のことでわざわざ疑う必要があるのか、と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれない。だが宇宙は膨張しているとの考えが、現行の宇宙物理学では妥当とされている。したがって、宇宙膨張の影響――加えて、重力の偏りによる時間の流れの遅れ――の差異によって、異なる時空密度を帯びた時空同士は、時空密度の対称性の破れによって、近づき合うことはあり得る。さながら、プレートとプレートのあいだに沈んでいく陸地のように。本来ならば互いに距離が開いているはずが、地下にプレートが潜り込むことで、距離が縮んでいくように見掛けの上では振る舞う――地球規模かつ人類の視点では、実際に距離が近づいていると観測される。

 ダークマターハローのような重力の偏りが散在する宇宙において、一律にすべての宇宙内の時空が均一に膨張している、との説明には無理があると思うが、いかがだろう。

 宇宙のどこを見渡しても一様に似たような構造が観測されるのは、光速度不変の原理のような「変換」が生じているからなのではないか。時間の遅れが、見た目の上での光景を平らに均している――との想定は加味せずにいてよいのだろうか。

 平面に描いた歪んだ絵も、円柱状の鏡に映すと、美しい森の絵画として変換して映し出される騙し絵があるのと似たように。

 そういうことを、共通重心の話題を見掛けて思いました。

 まとめます。

 銀河の中心には巨大なブラックホールが存在するとされている。ならばその巨大なブラックホールにも、その他の銀河の構成要素とのあいだに共通重心があるのか否か。

 もしないのであれば、巨大なブラックホールは、宇宙にとって極めて静止系として振る舞い、それゆえに相対的に最もじっとしていない天体として振る舞うのではないか。

 もし共通重心があるのであれば、巨大なブラックホールとてその他の天体と同じように、宇宙の時空内を流動していると想像できる。

 妄想でございました。

 ござござー。



2496:【2024/10/13(14:33)*ばぶー、と、たぶー、の巻】

 ある一つの技術を保有していれば、ほかの競合勢力陣営よりも優位な立場に立っていられる。このとき、その「ある一つの技術」が、あまりに強大すぎるので、保有も使用も禁止する、との提案を、ほかの勢力陣営から持ち掛けられたとして。

 あなたは受け入れられるのかどうか。

 構図を、まずは簡単にして考えたい。

 あなたは何かのスポーツ選手だ。

 世界トップクラスを誇る実力者でもある。

 あなたには得意技があり、あなたの実績はその得意技と密接に相関している。つまり、得意技があったからこその現在の地位だ。

 ほかにもあなたの得意技と似た技を扱える選手もいる。みな世界トップクラスの実力者ばかりだ。

 このとき、ほかの数多の無数の選手たちから、「あなた方は得意技に頼りきっている。これでは分野が発展しないし、あなた方の得意技は、ほかの選手たちの選手生命を危ぶめる。使用禁止にしたい」と持ち掛けられたとして、あなたは受け入れられるだろうか。

 得意技の代わりとなる技を会得しない限りは受け入れられない話ではなかろうか。

 人間心理の話である。

 誰かを説得したいときに、ただ闇雲に「禁止する!」だけでは、禍根が深まるばかりであろう。

 じぶんたちの理屈をじぶんたちにも当てはめてみて、同じような構図でじぶんたちも何かを禁止されると想定してみて、まずはじぶんからその何かを禁止してみせたらよいのではないか。

 論より証拠だ。

 まずはじぶんでやってみせて、それが世のため人のためになる、と実演してみせればよい。それが新たな技となって、流行れば儲けものである。

 はて。

 いつの間にか儲け話になってしまった。

 これもまた、資本主義の話なのかもしれない。

 妄言だ。

 定かではない。



2497:【2024/10/13(22:26)*蟻に心はあるのかな、の巻】

 蟻が人語を解さないからといって、蟻を殲滅しようとはしないだろう。

 いくら他人がじぶんの話を理解できないからといって殺そうとは思わない――とは限らないのが、人類だ。案外、話が通じないと感じただけで激情に駆られ、他の命を殺めてしまうのは人類史を紐解くまでもなく、昨日今日のニュースを漁るだけでも傍証に事欠かない。

 人類の知能は果たして高いのだろうか。

 或いは、知能が高いことはいったいどれほど尊ぶべきことなのか。

 疑問の尽きない夜である。



2498:【2024/10/13(22:30)*断面が「∞」のような図形、の巻】

 ポアンカレ予想について考えてみたい。

 ロケットに紐を結びつけて宇宙空間を飛び回る。

 このとき、ロケットが元の地点に戻ってきたときに、紐を手繰り寄せることですべて回収できるかどうか。もしできるなら宇宙の構造は球体と同相であり、できない場合はそれ以外の構造を取っている。ざっくりした概要として、この手の説明を見掛けたので、この例をとって考えを深めてみたい。

 結論から言うと、例外的にポアンカレ予想において、宇宙の構造が球体と同相であっても、紐を回収できない場合がある、と想像できる。

 以前からの繰り返しで申し訳ないが、まずは球体とトーラスについてだ。

 球体を上下から中心に向かって潰すと、断面が「∞」のような図形が出来る。

 同じように、トーラス(ドーナツ)の穴を真ん中に収斂させていくと、断面が「∞」のような図形が出来る。

 このとき、双方の図形の真ん中には、特異点が出現し得る。無限に圧縮するか、無限に収斂するかの違いだ。

 さて、この図形において。

 紐を一周させることはできるか、否か。

 一周させられたとして、その一周させた紐は、手繰り寄せることで一点に回収できるか否か。

 これを考えるためには、断面が「∞」のような図形において、その真ん中の特異点をどのように解釈するか、で解が変わる、と想像できる。

 特異点内部が無限の体積――或いは面積――を有する場合、そもそも紐を、断面が「∞」のような図形において一周させる方法は二通りしかない。一つは、こじんまりとした範囲で円を描くようにする方法だ。これはどんな図形でも、紐を回収できる。もう一つは、特異点を通らないように、断面が「∞」のような図形の側面を一周する方法だ。

 前者の方法は、紐を回収できる。

 後者の方法は、紐を回収できない、と想像するしだいだ。

 なぜか。

 前者の説明はとくにいらないだろう。小さな円は、どのような図形であれ、平面と見做せる範囲が存在する。

 後者の場合、中心を通らないようにしたところで、紐を回収する際に、中心をなぞらざるを得ない状況が生じ得る。つまり、中心を迂回したところで、紐を回収する過程で、迂回したはずの中心をこんどは、紐の腹でなぞらなければならない。穴の縁に数珠つなぎの真珠のネックレスを並べたとして、ネックレスを巾着の口を絞るように回収するとき、真珠が常に地面と接していなければならない場合は、どうあっても穴の内部をなぞらなければならないはずだ。

 したがって、特異点の内部が無限の体積――或いは面積――を有する場合は、そこを紐がどのような形であれ通る場合、無限に長い道をなぞらなければならない。無限に時間を掛けるならば可能かもしれないが、無限の時間を掛ける場合は通常、何かしらの動作の終焉を想定できないはずだ。つまり、終わらない。

 そして重要な点が以下になるが。

 もし、特異点を通るように、断面が「∞」のような図形において、紐を一周させようとした場合――これは、ある任意の地点からロケットが出発しても、特異点を通った時点で、元の地点には戻れないことが想定できる。紐を一周させることはそもそもできない。なぜなら元の地点には戻れないから――となる。

 ここで想像力豊かな方はつぎのように思うだろう。無限に広い世界ならば、どこかで元の地点と同じような世界も現れるのでは?と。

 仮にそうだとしても、そこは元の地点ではない。元の地点とよく似た、別の地点だ。仮にそこに、あなたが残してきたような紐の片割れとよく似た紐の先端があったとしても、それとあなたの紐を結びつけて輪にしようとしたところで、それは「一つの輪」ではない。ひょっとしたら、あなたが残してきた紐の片割れが、あなたと同じようにどこかほかの無限の世界からやってきたあなたとよく似た人物が、自身の紐先端と結びつけて、疑似的に輪を作ろうとしているかもしれない。もしそこで、無限の世界におけるあなたとよく似た人物が、あなたとよく似た行動をとり、あなたと似たような境遇で、あなたと似た紐を、あなたの残してきたのとそっくりの紐の先端を結びつけて輪にしたところで、あなたの作った疑似的な輪が無限の世界に無数に出来ることになり、これは手繰り寄せようとしても、一点には回収できない、と判る。

 或いは、トポロジーの「二つの輪と棒の思考実験」を採用するならば、一点に回収可能かもしれないが、上記の想定において、すべての紐が輪になるとは限らず、どこかには、輪にならずに尾のように相方のない孤独な紐の先端も出てくるはずだ。要するに、無限の世界において、疑似的な輪を作ったところで、それは元の地点ではないがゆえに、紐を引っ張っても一点に回収することはできない。ただし、無限の世界においてすべての相似な紐が疑似的な輪を形成した場合に限り、すべての輪を一点に回収することは、トポロジーの概念からすれば矛盾しない、と妄想できる。

 以上は、ポアンカレ予想における例外かもしれない妄想だ。

 妄想ゆえに、真に受けぬようにご注意ください。そもそも、ポアンカレ予想が何かもよく解っていない素人以下の妄言だ。くれぐれも真に受けたら「めっ!」だよ。



2499:【2024/10/13(23:13)*空は野か、無限を開花させる歌、の巻】

 上記の妄想を、原子論的に拡張して妄想してみよう。

 球体を構成するすべての原子が、断面が「∞」のような図形だったとしたら。

 そもそも球体の表面に線を引くことが非常に難しい、と分かる。

 ジグザグでなければ、一筆書きにはならない。連続にはならない。なぜなら、断面が「∞」のような図形において、その中心を通ってはならないからだ。通れば最後だ。そこから先は、別の「無限の世界」に逸れてしまう。

 断面が「∞」のような図形の中心をいっさい通らずに、元の地点に戻ってこられるかどうかは、どれくらいの距離を移動するかによって確率が変動すると想像するしだいである。

 たとえばの話、観測可能な宇宙の範囲を縦断するあいだに、いっさいブラックホールに吸い込まれずに渡りきることができるかどうか、の話として近似的に解釈できるのかも分からない。理論上は可能かもしれない。

 ただ、やはり。

 いったいどのような「紐」なのか。太さによっても、この手の妄想では、想定する描像が変化する。紐の太さごとに場合分けして考えるのがよさそうだ。

 以上、中々に愉快な妄想であった。

 特異点=無限の体積、ではない点には留意されたい。

 現状では、考慮不能な領域、の言い換えでしかないはずだ、特異点は。

 宇宙の外側、みたいな印象である。

 うっちゅー!



2500:【2024/10/13(23:39)*いたかったのだと】

 きみの表現はぼくに、視えなかった色の美しさを教えてくれたんだ。

 あなたの表現はわたしに、聴き方を知らなかった音の愛おしさを教えてくれたんだ。

 美しい、と。

 愛おしい、と。

 月並みな形容の中身が丸っきり入れ替わってしまって、ひっそりと静まり返った夜の道すがら月を一人で見上げてほぉと息を吐くような、月並みが究極の称揚になるような、世界そのものが変わってしまったかのような、塗り替わってしまったかのような、そう、きみの表現に、あなたの表現に、ぼくは、わたしは、もっと浸かっていたかったのだと。

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