第3話 夜景

 胸があたたかい。身体が軽い。胸が広がっている。どうして、あなたや、あなたが一緒にいることを選んだ人々に会った後は、こんなにみぞおちが苦しくないのだろう。帰り道、行きはあれほど重かったペダルが軽い。ついさっきまで死ぬことだけを考えていたのに。今は、これで生きて行けるとだけ感じています。広々とした夜景の中、信号機と空が大きく感じられます。

 過去も未来もないときだけは、あなたに恋せずにいられる。

 ゴツゴツとした硬い金属で、あなたが顔をしかめてうずくまるほど、思い切り、大切な人、骨、を傷つけてしまう。怪我をさせた。浮かび上がる光景、頭がこわばり、息もできない。頭の中、身体、いつまでも反復して浮かび上がる光景、締まる胸。これが当たり前なのだと思っていました。私より、遥かに立派なすべてのこの世の人達、渋谷、新宿の交差点で行き交うすべての人達は、私よりもっとずっと重い苦しみに耐え苦しんでいらしたのだろうとだけ感じられていました。

 人の暖かさを受け取ることさえできなかった。人は、人の暖かさを感じ、それに耐え、体の奥へ留めておくことができる時にだけ眠ることができる。私は人の暖かさに耐えることができませんでした。すべてが終わった、との思いに縮み上がり、時が止まったようで、私のせいで興ざめさせられた人々の苦い顔をただ見つめて。


 夜、私は道路を挟んで、光る家を見ていました。家の前では、彼らが、ゴミを掃き、いそいそと、怠けるでもなく、急ぐでもなく、疲労をこぼしつつ、笑い、何度行われてきたかわからない労働を繰り返していました。辺りに光は他になく、一人二人、誰かが通り過ぎて行くこともありますが、幽霊のように、こちらを見ることはありませんでした。私は呼吸もせず、ただこの光景を眺めていました。いつでも彼らはこちらに来ることができましたから、私が道を渡って家を眺めていても同じことだったのです、むしろ彼らの労働が終われば私は戻らなければなりません、彼らから呼びかけられるようなへまを犯すべきではありませんでした。それでも、私はこれまでいつまでもその光の中から光に照らされた道を見ているばかりでしたから、彼らから離れることで、もっと凄惨な何かを味わわされることになったとしても、一度、息継ぎをするとは何かを知ってみたかったのです。

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