アフタヌーンと草むしり

明日朝

アフタヌーンと草むしり

アフタヌーンと草むしり


秋川あきかわ君、今時間ある?」


 昼日中の高校、教科書を開いて次の授業の予習をしていたときだった。不意にクラスメイトの一人が、妙な猫なで声で僕の名前を呼ぶ。


 視線を少し上にずらせば、大きな薄茶色の瞳がじっと僕を見つめていた。彼女はそう、確か、崎野さんとかいうクラスメイト。


「何か、用」

「それが、ちょっと手伝ってほしいことがあって」

「他の子に頼めばいいじゃないか」

「それが、もう君くらいにか頼めないのよ。皆忙しいって言って、断られたから」

「そう言われても。僕もまあまあ忙しいんだけど」


 教科書を閉じて相手を見上げる。明るい茶色のウェーブがかかった髪に、猫を彷彿とさせる丸っこい瞳。やや童顔にも見えるその顔立ちには、一応見覚えはあった。


 同級生の崎野夕貴さきのゆうきさん。クラスでも何かと話題に上る、いわゆる人気者。

 僕みたいな地味な生徒とは、ほとんど交流がないはずなのだが。


「お礼はちゃんとするから、とにかく手を貸して!」

「お礼云々の前に、僕に何をさせるつもりなのか、説明してほしいところだけど」

 僕が言うと、崎野さんはむすっと顔をしかめる。


「説明したら、手伝ってくれる?」

「内容次第」

「随分とケチな人ねえ」

「ケチで結構、僕はできるだけ面倒事は避けたい気質なんだ」


 眼鏡ケースを取り出しながら、僕が冷淡に返す。崎野さんは気落ちしたようにか細い生きをスウッと吐いて、


「もとはと言えば、浜埜はまの先生に頼まれたことなんだけどね……」

「……浜埜先生って、隣のクラスの担任?」

「そう。背が高くてイケメンで、優しくってかっこよくって、おまけに声も良くて」

「先生のことはいいよ。……でもなんでまた、隣のクラスの先生なんかが、崎野さんに?」

「それは、みんながみんな嫌がったから、次点で私にお声がかかったのよ」

「……嫌な予感しかしないなあ」


 僕はぼんやり浜埜先生の姿を思い浮かべた。確かに端正な顔立ちで、かっこいい先生ではあるが、あの人って確か既婚者じゃなかったか……。


「先生がね、引き受けてくれたらご褒美をくれるって言ってたの。だから」

「ご褒美って、たかが知れていると思うよ。ありがとうの一言だけかもしれないし」

「誠実な浜埜先生に限ってそれはないよ」

 崎野さんが断言する。あまりに快活に話す彼女の姿に、僕は段々と頭が痛くなってきた。


「……ということで、真面目そうな秋川君に話が回ってきたの。ねっ、可愛らしいクラスメイトの頼みごとを、断るわけがないよね。ね?」

 大きな瞳をこれ以上無く見開いて、キラキラとさせながら崎野さんが尋ねる。


「内容次第」

 そんな愛くるしい表情をする崎野さんを、僕は無表情のまま一蹴する。


「えっ、なんでよう」

「まず何をするのか、そういう説明だよ。先生云々はその後」

「ええっ、そんなたいしたことじゃないよ。だってただの草むしりだもの」

「……草むしり?」 


 予想の斜め上の答え。怪訝な顔をする僕に、崎野さんは、

「中庭の草木がボーボーで、困ってるんだって。私一人じゃ、とても綺麗にできそうにないから、こうして片っ端から頼み込んでるんだけど、皆、全然引き受けてくれなくって」

「この炎天下の中、草むしり? ……嫌だなあ」

「でも、お堅い秋川君ならやってくれるわよね」

「お堅いって、半分馬鹿にしてないか」


 崎野さんは、パンッと手を合わせて「一生のお願い」と言いながら頭を下げた。かなりあっさりとした一生のお願いである。きっと一生どころか八生、九生くらいしてそうだ。


 僕には断るという選択肢もあるにはあった。けれど流石にこんな猛暑の中、彼女一人が中庭の掃除に向かうとなると、それなりにある良心がちょっと痛む。

 断るという選択肢は、なかなかに厳しい。


「はあ……じゃあ仕方ない。後でジュースかなにか奢ってくれるなら、やってもいいよ」

「やった、さすが秋川君! あなたなら受けてくれると思ったわ!」


 崎野さんが僕の手を両手で包み込み、ぶんぶんと大きく振る。

 僕は疲れやら呆れやらで、半ば朦朧としていた。


「暑さ対策しないと死ぬな……」

 僕は呟いて、時計を見た。

 時刻は午後に入ったばかりの一番暑苦しい時間帯である。



 ――放課後になった。

 特に部活にも入っていない僕は、中庭で崎野さんと待ち合わせをしていた。

 気温は三十度オーバー。湿気もそれなりにあるためか、外に出ただけで汗が噴き出るような暑さである。


「崎野さんは……準備があるって言ってたけど」

 水筒を傾けながら、僕が呟く。適度に水分補給をしなければ危険な酷暑。こんな中で草むしりなんて、自殺行為のような気もする。


 既に暑さにやられそうになっていると、ぱたぱたと足音が近付いてきた。

「秋川君! 待たせてごめんなさい」

 帽子を目深に被った崎野さんが、小走りで駆け寄ってくる。

「別に、そんなに待ってないけど」

「そう? それならいいけど。……ちなみに、準備のほうは出来た?」

「暑さ対策なら、程々にしてるよ」


 ちびちびと水分補給をしながら答える。崎野さんはそんな僕を見つめると、ほら、と軍手を手渡してきた。

使い古した、しなびた軍手である。乾いた土がこびりついた茶褐色の、かなり使い込んだと思しき軍手が一組。


「……もっと綺麗なの、ないの」

「先生、これしかないって言ってた」

「せめて土くらいは洗って落としてほしいよ」

 仕方なしに軍手を受け取る。崎野さんは額の汗をハンカチで何度も拭きながら、中庭の角にある、草木が生い茂ったエリアを指さした。


「あそこ一帯を清掃するのよ」

「草をむしるんだよね」

「ええ、木の方は放っておいていいんだって。雑草だけむしり取るのよ」


簡単に説明して、崎野さんは意気揚々と歩き出す。

 僕はげんなりした溜息をついて、そろそろとその後に続いた。



 根の張った雑草を、根っ子ごと引き抜いて山にする。たったそれだけの作業だというのに、照りつける日差しの強さで、汗が噴き出て止まらない。

汚い軍手を両手にはめた状態で、僕は滴り落ちる汗を拭うことすらできずに苦行のような作業をしていた。


「あっついわ」

 しゃがみ込んだ状態で、てきぱきと雑草をむしり取る崎野さんが呻く。崎野さんも、僕とまるで同じように暑さに辟易していた。汗を垂れ流しながら、真夏の空の下、僕らは仲良く雑草を抜く。 


「崎野さんって、浜埜先生のことが好きなの?」

 うだるような暑さをどうにか紛らわせようと、僕は崎野さんに問いかける。崎野さんはヒイヒイ言いながら雑草を一本一本丁寧に抜いていき、ポツリと一言。


「好きじゃなかったら、こんな大変な仕事引き受けないって」

「でも、先生結婚してなかったっけ」

「ええ。でも好きって言っても、ラブじゃなくてライクの方。人として尊敬してるだけ」


 崎野さんは、暑さに唸りながらもキッパリと言った。僕はちょっと意外に思って、下げていた視線を崎野さんに向ける。


「へえ、てっきり恋してるのかと思った」

「結婚している人に思いを寄せるようなことはしないわよ。先生が幸せそうにしてるのをこっそり眺めてたい。それだけで良いの」

「……崎野さんって、誠実なんだね」


 どうやら僕は大きな勘違いしていたようだ。彼女は自由奔放で快活なだけかと思っていたが、思いのしっかりした考えの持ち主らしい。


「誠実って、どうしてよ」

「だって、人の幸せを心から願えるって、案外難しいことだから」

 

 軍手をぱっぱと払いながら僕が言う。崎野さんは不思議そうな顔で瞬いた。

「……秋川君、あなたって見かけだけじゃなくて中身も堅物なのね」

「それって褒めてるの? それともけなしてる?」

「そんなの、私の言い方で分かるでしょ」


 崎野さんがふいっとそっぽを向く。僕は滴り落ちる汗を腕で拭いながら、溜息をこぼす。

「……とにかくさ、この苦行をさっさと終わらせようよ、崎野さん。……喋っているだけで体力が削られてる」

「同感、暑さをまぎらわせるどころか、更に熱が上がる感じ」

「だね、それで終わったら冷えたジュースでも飲もう。……もちろん、崎野さんの奢りで」

「ケチ」

 崎野さんが短く言い返す。だが、真夏の熱気は凄まじいもので、僕らから冷静な思考を奪っていく。かくして僕らは、それからただひたすら黙々と清掃活動を続けた。


 雑草を抜いては捨て、まとめて抜いては捨て。そうしている間に、あっという間に日が落ちた。部活動帰りの同級生やら先輩やらが、駄弁りながら僕らの横を通りすぎていく。


 いったい、いつまでこの作業を続けなければならないのか。積み重なった雑草を見ながら心配になったところで、僕らの背後から陽気な声がかかる。

「ああ二人とも、すまないね。こんなに暗くなるまでやってもらって」

 明るいながら、申し訳なさげな感情をのせた声だった。僕らが顔を上げると、爽やかなオーラを身に纏った、やけに顔立ちの整った教師がこちらに駆け寄ってくるところだった。


「あ! 浜埜先生!」

 途端に、それまで険しかった崎野さんの顔に笑顔が広がる。浜埜先生は僕と崎野さんに向かって、申し訳なさそうに、

「本当は僕も手伝うつもりだったんだが、職員会議が長引いてこんな時間に。……すまなかったね」


「いえ! 私たちは全然気にしていません!」

 ……僕はだいぶ気にしているのだが。崎野さんは、今までにないほどの快活な声で即答した。


 呆れる僕の視線もものともせず、崎野さんはハキハキとした声で続ける。

「それより先生! 手伝ったらご褒美をくれるっていう話でしたが」

「ああ、報酬のことだね、ついてきて」

 浜埜先生はそう言うと、ゆらりと歩き出す。


 僕らが通されたのは……職員室の隣に位置する、簡素な応接室。

「報酬って、何なのかしら」


 崎野さんはもはや、褒美のことしか考えていないようだった。

僕が呆れた視線を送っていると、先生がふら、と応接室を出て行き……しかしすぐに戻ってきた。その手元を見て、僕は首を捻る。


「……先生、それは?」

「紅茶だよ。僕、最近紅茶に凝っていてね。……炎天下の中での作業だったから、喉、乾いていると思って」

「喉が乾いている時に、紅茶ってあんまり飲まないような……」

 僕が呟く。だが先生はのほほんとしたまま、トレイに載っけた紅茶を運ぶ。


 入れ立ての紅茶に手を伸ばしつつ、僕は横目で崎野さんをうかがう。

 崎野さんは、なんとも言えない顔をしていた。

「……紅茶、紅茶かあ」

 しみじみと呟く崎野さん。僕は紅茶に口をつけながら、先生に聞く。

「それにしても先生が、紅茶好きだったなんて、初耳です」

「いつも、午後の時間帯に決まって飲んでいるんだよ。……アフタヌーンティーってやつ?」

「でも、もう夜ですよ」


 僕が冷静に告げると、浜埜先生ははつらつとした声で笑った。

 つられて崎野さんも笑みをこぼす。


 そんな二人の姿に、僕は嘆息する。

 正直、疲れすぎてちっとも笑えない。

 ……ただ、妙な達成感だけはあって、なんだか不思議な感じだった。



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