聖なる泉の物語

井上 幸

第1話 霧の森

 重たい霧が立ち込めている。一歩進むごとに足元から呑みこまれ、世界を踏み外しているような感覚。

 この森の奥深くに『聖なる泉』があるという。おとぎ話のようなその泉の水には不思議な力が宿っていて、一口飲めばどんなやまいも立ちどころに治ってしまう。まことしやかにささやかれるが、その泉を見たものは居なかった。

 長い道のりを辿り、疲労とは別の汗がほおを伝った。

 家を出たのはもう二日も前のこと。森に入り、しばらくはこれと言って変わったこともなかった。しかし、夜明けとともに歩き出した今日、その様子は一変した。この霧では時間の見当もつかない。地図があるわけでもない。ただ自分の直感だけを頼りに、水の気配を探して森を彷徨さまよっていた。


―― ぴちょん


 不意に水音が聞こえた。空を覆う分厚い雲のおかげか、小さいはずのその音は辺りに反響し、自分を呼び寄せるかのように断続的に続く。

 慎重に歩を進め、少しずつだが確実に近づいていく。


―― カサッ、パタパタッ


 すぐそばで揺れた下草の音に肩が跳ねる。

 霧に阻まれて視認は出来ないが、恐らく昆虫の類だろう。遠ざかっていく音にホッとする。と同時にぼやけた視界の中、ほのかに発光するものがあることに気付いた。

 ぽわり、ふわりと灯って消えて。あちらの木、こちらの木と移動する。

 その内数も増えてきて、気づけば光の輪の中に閉じ込められていた。


『ニンゲン、ダ』『ニンゲン、ガイル』

『ドウシヨウ』『ドウシヨウ』

『ツレテイク?』『ツレテイコウ』


 ささやくような声がいくつも聞こえてきた。驚いて辺りを見回すけれど、光の輪の他は霧ばかりで何も見えなかった。

 しかし、徐々に光の輪が近づいてくる。それを避けるように僕は更に森の奥深く、霧の中へと入って行くしかなかった。

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