第3話
海岸沿いの工業地帯を、髙明の駆る自動車はぐんぐん飛ばしていく。
それに伴って、俺の目に映る光点も目まぐるしく流れ去っていく。
コンビナートや火力発電所、工場廃液処分場などが、照明を灯しているのだ。
半世紀ほど前、地球環境保全のために人類はほぼ一丸となって取り組んだそうだが、日本はドロップアウトしてしまった。
なんでも、世界における経済力・存在感を誇示できなくなったから、らしい。
多くの国際協定を逸脱したこの国は、国内外問わず犯罪組織の格好の標的となった。
いや、標的というより取引場所、と言った方がいいか。
金持ちや政治家という、いわゆる上級国民と呼ばれる連中。そいつらのことを考えると虫唾が走る。こんなに貧相になったこの国で、なんの裏事情もなく私腹を肥やしたり、利権にありついたりできるわけがないのだ。
世直しなどと綺麗事は言うまい。だが、俺はそんな世の中を許せないし、容認するつもりもない。
だからこそ、違法行為に関与した権力者を追い落とすこの組織――『フォレストグリーン』、通称FG――に参加したのだ。
何故権力者を狙うのか? 理由は単純で、ただの悪党共を懲らしめるだけでは、時間がいくらあっても足りないからだ。
こんな世紀末が訪れることを、二十一世紀中盤の人々は考えただろうか? まさか日本も銃社会になるということを?
まあ、そんなことはどうでもいい。俺はふわ、と欠伸を一つして、ぐったり脱力して目を閉じた。そして、いつもと同じ夢、否、過去の記憶と対面することになった。
※
七年前、十二月中旬。
俺の住んでいた東京の街は、薄っすらと白い化粧を施されていた。言うまでもなく雪化粧だ。その不思議な光景を、朝起きたばかりの俺は何事かと思ってぼんやり眺めていた。
「おはよう、剣矢。入るわよ」
「あっ、うん。いいよ」
聞こえてきたのは母親の声。扉が開かれると、そこに立っていた母親はエプロン姿で、お盆の上にマグカップを載せていた。
「身体が温かくなって目が覚めるように、生姜湯を作ってきたの。剣矢もどう?」
「ありがと……」
生返事になってしまったのは、ここ十数年ですっかり珍しくなったという降雪を目にしたからだ。
ことん、と俺の勉強机にマグカップの置かれる音がする。
ベッドの上で上半身を起こし、ぼんやり雪を眺める俺。そんな俺と目線を合わせて、母親は言った。
「そうだわ、今日は休日だし、展望台に行ってみない?」
「展望台?」
ずっと東京住まいだった俺は、何度か両親に連れられていったことがある。
かつて東京タワーと呼ばれていたその展望台は、電波塔としての役割を果たし終え、今は単なる観光名所だ。
だが、そんなことは関係ない。母親の提案を受けて、俺の寝ぼけた脳みそは一瞬で覚醒した。きっと楽しいに違いない。何せ、あの高高度から見下ろす街並みが、真っ白に染まっているのだ。どんな風に見えるのだろう。
俺が興味を抱いたことを悟ったのか、母親は俺の肩に手を載せ、優しく囁いた。
「お父さんにも訊いてみるわ。もしかしたら、今年は二十年ぶりのホワイトクリスマスになるかもしれない」
「ホワイトクリスマス……?」
初めて聞く言葉だが、俺はすぐさま理解した。雪が積もって街が白くなるからホワイトクリスマス、ということなのだろう。
「うん、楽しみにしてる!」
しかし、皆考えることは一緒らしい。
その日の夕刻、父親の運転する自動車で家を出た俺たちは、すぐさま渋滞に引っ掛かってしまった。
「せっかくクリスマス当日からずれたってのに、やっぱり混むもんだな」
「まあまあ、そう苛々しないで、お父さん」
「別にそんなわけじゃないよ、お母さん。これだけのろのろ運転なら、スリップ事故を起こす可能性もなくなるしね」
前部座席でのそんな遣り取りを耳にしつつ、俺はずっと外を見ていた。
これが雪か。
車内から触れることができないのは残念だ。だが、雪の積もった街路を眺めるのは、生で雪を見たことのなかった俺を興奮させるには十分だった。
それから丸々二時間かけて、俺たちは駐車場に車を停め、展望台のエレベーター入口に並んだ。
俺同様に初めて雪を見る子供たちや、その手を引く両親。日本の治安悪化が叫ばれて久しい今日この頃だが、少なくともこの空間は平和だった。
ようやく俺たちが展望スペースに到着した時のこと。
「お母さん、すまない。ちょっと人混みに酔ったみたいだな……」
「あらお父さん、大丈夫?」
「ああ。ちょっと薬を飲んでくる」
精神的に不安定なところのあった父親にはよくあることだ。このご時世、ずっと平静を保っていられる人間の方が稀である。精神安定剤やそのジェネリック医薬品は無数に出回り、人々を救っていた。
だが、そんなことは俺にとっては些末なことだった。
「お母さん、早く窓の方へ行こうよ! きっと綺麗だよ、ホワイトクリスマス!」
そう言って、俺は人混みをかき分けながらずんずんと進んでいく。
「ちょっと待って、剣矢! 離れ離れになっちゃ――」
と、母親が俺に注意を促そうとした、まさにその時だった。
俺の身体が宙を舞った。
まるで巨大な手で背中を叩かれたように吹っ飛ばされ、顔面からべたり、と展望台の床に押しつけられる。
同時に、バリバリと展望台のガラス面が割れていく。
次に感じられたのは、圧倒的な熱だ。
背中が熱い。皮膚をジリジリ焼かれているようだ。
続いて非常ベルが鳴り、スプリンクラーが作動する。しかしその前に、爆炎は真っ黒な煙へとその姿を変え、強烈な臭いを放ち始めていた。生々しいものが焼ける悪臭だ。
一体何が起こったのか、俺は自分で確かめようとした。しかし、身体が動かない。
指先がぴくぴくと痙攣するだけ。
「……あ」
母親を呼ぼうとするも、その前に黒煙が喉に吹き込まれてきた。
俺は自分の意志では動けないまま。魚が飛び跳ねるような動きをして、なんとか黒煙を肺から追い出そうとするので精一杯だ。
やがて、目の前が霞み始めた。
俺はこのまま死ぬのだろうか? 何が原因かも分からないままに? それはあんまりだ。
俺には、今ここで何が起こっているのかを知る権利と義務がある。
しかし意識もまた、俺の心にはついてきてはくれなかった。
気がついた時、俺は自分がどこにいるのか把握するのにしばしの時間を要した。
この薬品臭さと真っ白な壁や天井。ここは、病院か?
「ん……」
俺は呻いた。まだ腕を動かせる状態ではないらしい。なんとか上半身を起こそうと、首を捻る。
すると、俺の行動を目にした白衣の女性(看護師だろう)が足早にやって来た。
「先生、十七番の患者さん、気がつきました」
「すぐ行くわ」
続いて現れたのは、これまた白衣の女性。看護師と違うのは、眼鏡をかけているところと聴診器を備えているところだ。彼女が先生、すなわち医師なのだろう。
「あなたの名前は錐山剣矢くん、で合ってるわね」
「……」
「ああ、無理しないで。当たってたら私の手を握って」
すっと差し出された左手。俺はそのうち人差し指と中指をぎゅっと握り締めた。
「ちょっと眩しくなるわよ」
俺の目にペンライトの光が刺さる。これも必要な処置なのだろうと自分を納得させ、俺は顔を逸らさずに我慢した。妙に冷静だな、と自覚する。
「瞳孔反応良好。意識あり。後をよろしく」
「分かりました」
医師が去ると、すぐさま看護師が説明を始めた。そして俺は、さっき以上に目を見開いた。
展望台が爆破テロに遭った、だって? それに自分や両親が巻き込まれた、と?
「お父さんは……お母さんは……?」
背中に残った僅かな火傷がひりひりと痛みを訴えている。これは夢じゃない。
だったらまず確認すべきは、家族の安否だ。
すると看護師は、元々痩せていた顔つきだったのをさらにげっそりさせてこう言った。
「剣矢くん、残念だけどあなたのご両親は――」
※
「うわああああああっ!!」
俺は絶叫を上げた。だがここは病院ではない。増してや血肉の焦げる臭いに満ちた展望台でもない。乗用車の中だ。ちょうど停車したところらしい。
ぱちり、と照明が点き、運転席から髙明が身を乗り出してきた。
「大丈夫か、剣矢?」
「あ、ああ……」
どうやら俺は、またうなされていたらしい。
髙明はそれ以上追及することなく、シートベルトを外した。
「取り敢えず、ドクの根城に到着した。行くぞ」
俺もまた、シートベルトを外した。手が震えている。まったく情けない。
やはり意地を張るのはやめて、ドクに相談すべきだろうか。悪夢にうなされてばかりだと。
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