熱帯魚

大隅 スミヲ

第1話 水槽の中

 俺は水槽の中にいる。

 決まった時間にエサを与えられ、温水の中を泳ぎまわる。

 何ひとつ不自由のない生活。

 だが、それは水槽の中だけの話。

 ひとたび水槽から飛び出してしまえば、待っているのは死だけ。

 水槽に戻ろうとしてあがいてもどうにもならず、干からびて死ぬのを待つだけ。

 俺はペットショップで売られている熱帯魚と同じだ。


「その熱帯魚が気に入ったのか。もし欲しいのなら買ってもいいぞ」

 水槽の中を優雅に泳ぐ熱帯魚に目を奪われていると、飯島が話し掛けてきた。


 蓬色の和服に、総白髪の頭。左手にはいつもと同じ杖が握られている。

 歳は七〇を越しているはずだ。


「別に欲しくない」

 それだけ言うと、水槽の前から離れた。


 飯島は何か言いたげな目でこちらを見ていたが、俺はそんな視線を気にすることなく飯島に背を向けて水槽から離れた。


 少し離れたところには、爬虫類コーナーが設けてあった。

 蛇やトカゲといった生物がヒーターのつけられた水槽の中に入れられている。

 毒々しい色をした蛇やカラフルなトカゲたちは、その水槽の中でじっと息を潜めている。


 水槽の中にいる方が幸せなのだろうか。

 ふと、そんな考えが脳裏をよぎった。


 蛇やトカゲといった爬虫類であれば、水槽から逃げ出せれば自由に生きていく事ができるはずだ。爬虫類は熱帯魚とは違い、水の中で無くても生きていく事ができるのだから。


 俺はどうだろうか。

 水槽が無くても生きていけるだろうか。

 水槽が無くても生きていける。そう言い切る事はできるだろうか。

 もし出来るのであれば、どうして俺はいつまでも水槽の中に留まっているんだ。

 逃げ出すことはいつでも出来るはずなのに、なぜ俺はいつまでも水槽の中にいるんだ。


 なぜ。


 自分でもわからなかった。

 表の世界が怖いから?

 そうかもしれない。

 何が怖いんだ?

 わからない。

 わからないが、俺は水槽から逃げ出すことは出来ない。

 それだけはわかっている。


 飯島の声が遠くで聞こえ、俺は我に返った。

 目の前にある水槽の中では、灰色のトカゲがじっと俺のことを見つめていた。


 飯島は店員と何やら話し込んでいた。

 また買うらしい。

 何年か前から、飯島は流木を集めるといった奇妙な趣味をはじめるようになっていた。

 無駄に広い飯島の家の庭には、様々な形をした流木が無造作に置かれている。

 天気のよい日などは、その流木を半日以上眺めている事もある。

 俺には理解の出来ない世界だった。


「帰るぞ」

 飯島に声を掛けられ、俺は店の外に出た。

 店の目の前に路上駐車していたメルセデスのエンジンを掛けると、少しバックさせて飯島が乗り込みやすいように後部座席が店の出口の目の前に来るようにしてやった。


 店員に見送られながら後部座席に乗り込んできた飯島の手には、赤ん坊ぐらいの大きさの流木が抱えられていた。また一つ、コレクションを増やしたようだ。


「腹が減ったな。寿司でも行くか」

 飯島がルームミラー越しに、こちらを見ながら言う。


 俺はその言葉に無言で頷き、ハンドルを握った。

 俺には拒否する権利はなかった。

 俺は飯島の行きたいところへ車を走らせる。

 それが俺の仕事でもあった。

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