第14話 to another world

 入葉いりはが洗面所に逃げ帰ると、直哉も反対方向に歩いて目の前の仏壇のある部屋に入った。

 心を落ち着けたいときに頼りになるのは、いつだってこの場所なのだ。


「落ち着け、なに動揺してんだ、俺」


 別に愛の告白をしたわけでもないのに、直哉の体はブルブルと震えていた。素直に自分の気持ちを話すということが、これほどしんどいとは思わなかった。

 加えて濡れたあの胸元。どうしてあんなに開けっぴろげだったのか。着替え途中なら、どうして飛び出したりしてきたのだろう?


 突然、家ががくんと大きく揺れた。

 地震というより、家がスローモーションでぐにゃりと曲がってゆがんでいくような、めまいに近い感覚。前にもどこかで、似たようなことがあった気がする。


「地震!? じゃ、ない……」


 声を出したとたん気づいた気持ちの悪い感覚。

 急激に体に入ってくる悪寒、それとともに出ていこうとする吐き気が直哉に襲い掛かった。

「や、やばい、かな?」

 気持ちが悪くて立っていられないと思うのに、立った姿勢のまま体が動かせない。このまま鉛筆が倒れるみたいに床にまっすぐ倒れるんじゃないか?

 そう思ったとき、カチリとロックが外れるみたいに急に体が自由になった。

「はあ、はあ、はあ」

 力が抜けてしまった体を壁に押し付けてなんとか倒れるのを防ぐ。

 いっそ畳の上に寝転がりたかったが、そうしなかったのは、まだ吐き気がするような悪寒が残っていたからだ。


 空気がよどんでいる。

 鼻をつくホコリと鉄の匂い。


「い、今揺れたよな! 大丈夫だったか? 入葉?」


 廊下に首を出して直哉が叫んだ。

 入葉の返事は返ってこない。

 いつもよりやけに家中に声が響いたし、家の中にいるなら聞こえていないはずはなかった。

 廊下を入葉が向かった方に歩いていくと、さっきの入葉が落とした水滴だろうか、床が濡れていて歩きにくい。かまわず入葉がいるはずの部屋の前まできてもう一度名前を読んだ。


「入葉。いないのか? 入葉?」


 返事がない。

 直哉は一気に不安になった。

 今の揺れで家具が倒れ、入葉が下敷きになったのかもしれないと思った。

 着替え中だったとしてもかまうものか。

 直哉は一気に扉を開けた。


「いり、は?」


 誰もいなかった。

 部屋に入葉の姿はなく、それどころか、まるで何年も人が出入りしなかったようにホコリが積もっていた。


「うそ、だろ?」


 直哉がつぶやいた瞬間、さっきまで直哉がいた部屋の方でガタガタと音がした。


「入葉?」


 慌てて仏壇の部屋に戻る。

 やはり入葉の姿はなかったが、なぜか仏壇の様子が気になって直哉は近づいて行った。

 写真立てが全部倒れていた。


「写真が倒れた音だったのか」


 父の写真と母の写真を元に戻して、枚数が合わないことに気づいた。見覚えのない写真立てがもうひとつあったのだ。


「誰が置いたんだ、これ?」


 ゆっくりと写真を起こすと、見覚えのある映像が目に入った。それは最近撮られたものだ。決して仏壇に置くような写真ではない。しかも、その写真立てもずっと以前からそこにあるみたにホコリだらけだった。



「ちょっと待ってよ。さっきの話はどうなったの?」

 あかりは母親の話を制止しようとして言った。

 これ以上ママ刑事デカの見当違いの推理を聞くのはごめんだ。

「え? あの、何の話だったかしらー」

 刑事の魔法から溶けた母は、いつもの話し方に戻って言った。

「だから直哉が、直哉のお母さんが死んじゃう前のお父さんに似てるって話よ」

「そうだったわねー」

 灯の母は指示棒をホワイトボードに置き、かけてもいない眼鏡を外して続けた。

「お葬式で、健一郎さんがひどくやつれた顔をしていたのは灯も覚えているわよね?」

「うん、子供の私でも分かるくらい……」

 そうだった。

 灯にとって、そんな大人の顔を見るのは初めてで、とても怖かった記憶がある。

 あの顔に今の直哉が似てる? たしかにお父さんが亡くなってからまだ日が浅いし、強がってるけどショックを受けてるのは分かる。でもどちらかというと、単に私があれこれいうのを迷惑がっているだけで、別に……。

「そうね、でも健一郎さん、奥さんが亡くなる数日前からおんなじ顔してたの」

「えっと、それってどういう……」

「直哉君のお母さん、祐美子ゆみこさんは事故で亡くなったでしょ? 健一郎さんは仕事で現場の近くにいなかったんだけど、助けるのが間に合わなかったって、すごく自分を責めてたの」

「助けるのが、間に合わない? いなかったのに?」

「そう、変でしょ? だから聞いてみたのよ。その理由を」

「……うん」


「予知夢っていうのかしら」


 灯の母親は、そのときの健一郎の姿を思い出すように目をつむり、手を顔の前で合わせながら言った。


「事故の前の何日か同じ夢を見てたんですって。夢の中で奥さんが殺されそうになるのを助けようとするんだけど、いつも間に合わなかったって――」



 直哉は見覚えのある写真を見て後ずさった。

「そんな……なんだよ、これ」

 ホコリまみれの入葉の部屋、写真立て、すべてがひとつの事実に結び付こうとしていた。

「違う! そんなわけ」

 その時、直哉は後ずさりする自分が畳の上につけている赤い足跡に気づく。鉄の匂いの正体。血の色だった。

「う!」


 ゴンゴンゴンゴンゴン。


 建機が近づいてくるような凄まじい音と振動が背後から近づいてきた。振り返った直哉は信じられないものを見た。

 灰色の巨大な渦が家を食いつぶしているところだった。隣の部屋から、徐々にこちらに近づいてくる。

 直哉は声の限りに叫んだ。


「入葉ー! まだ俺の声が聞こえるんなら、早く逃げろー!」


 その声を合図に、目の前で存在しないはずの大きなガラスが割れて白いかたまりが飛んできた。

 直哉はなすすべもなく背後に叩きつけられる。

 一瞬、目の前が真っ白になり、そして光を失った。

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