スターラハーツ
月輪雫
カウツリハーム/離反
僕一人だけが残った放課後の教室は、穏やかな様相を呈している。音楽室から聞こえる吹奏楽部の練習の音やグラウンドから聞こえる運動部の野獣のような声、どれもが青春の1ページに相応しいものだと、僕は思う。
「……ふぅ」
進まぬシャーペンは、今日の日付である9月7日火曜日と、自分の名前である「永井心太郎」ではなく、今日の日直だったはずのクラスのお調子者の名前を書いて、トツトツと学級日誌の端をつつくばかりだ。
6限が終わる前に「わりぃ!今日のヤツ書いてくれー!」とサッカー部の恭平に拝み倒され、特に予定もないので受け取った次第で。別に珍しいこともでもない。
どうしたものかと思案していた時だ、教室の扉が開けられ、怪訝そうな声が穏やかな時の流れる教室に零されたのは。
「……何してんの」
落としていた目線を教室の前の入口に向けると、困ったような不思議そうな表情を浮かべた、同じクラスの一時真紀菜が立っていた。通学カバンを肩にかけ、忘れ物でもしたのか戻ってきたようで、ため息をつきながら自分の席がある廊下側の教室の後ろの方へを歩いていく。それを目で追いながら
「あぁ、一時さん。見ての通り日誌書いてるところだよ」
と、僕は言った。
「また押し付けられてんでしょ。断ればいいのに」
バレていた。まぁ、日直でもない奴が学級日誌と向き合っていて、しかも進みが悪そうときたら、押し付けられたとみるのが正しいだろう。僕も別に代筆を隠している訳ではない。
一時さんは呆れたようにため息つき、廊下側にある自分の席から数冊教科書を取り出してカバンに入れた。やはり忘れものだったらしい。入れ終わると今度は僕の席の側に来て、
「そーゆーとこ、少しどうかと思うよ」
と日誌を覗き込んでいる。
「困った時はお互い様なだけだよ」
と学級日誌に目線を落とすと
「……ムカつく」
予想だにしていない彼女の言葉が僕に振ってきた。
「え……」
驚いた反射で彼女の顔を見上げると、彼女の表情は曇り、歪められた眉間と冷たい視線が僕の視線とかち合う。彼女の目の下のクマもあってか、輪をかけてその表情がきつく見えた。そんな彼女の表情が、僕の昔の嫌な記憶と少しオーバーラップしそうになる。
正面から冷水を浴びせられたかのように、体の中で何かが縮こまっていく。自分の思考回路が急速にその活動を放棄しそうになり、消し飛びそうだった僕の表情に当たり障りのない反応を張り付ける。
――この数秒間の衝撃で、今、僕の表情はどうなっている?
「……ははは、一時さんは手厳しいね」
「それと名前」
「え、」
「名字より名前で呼んでもらうことにしてるから」
食い気味に飛んできた返答、というか反応。これは別に僕に対して怒っているわけではない、と思う。事実、彼女はクラスのほとんどから下の名前で呼ばれているのを、僕は知っている。
「じゃあ、真紀菜さん」
「さんもいらないから。」
「あ、そ、そっか……ま、真紀菜は帰らないの?」
しどろもどろで彼女の名前を呼び、取り繕う様に言って再び学級日誌に向き合った。
しかし、僕の返答は届いていなかったのか、彼女は適当な席から椅子を引っ張り出し、僕の席――教室の一番前の窓側だ――の前に向かい合う様にして置いた。それに腰を下ろし、
「ねぇ、なんでそうするの」
とすらりとした足を組んで、僕にそう問いかけた。
「えっと、そうってどういうこと?」
「共感出来ないのよ、心太郎がそうすることに」
半ば吐き捨てるように真紀菜は言った。整った顔が理解に苦しむとでも言いたげに歪められている。
「あぁ、日誌の事?だって、誰かが結局は書かなきゃいけないだろ?」
「貸して」
そう言って一時さんは、僕の前に広げられているだけだった学級日誌をサッとひったくり、ぺらぺらと今日より前のページを捲りだした。彼女の赤茶に近い髪が、傾きだした茜色を受けて一層鮮やかに輝く。その様子に「返して」と返却を求める勇気もなく、僕はその様子を静かに見守っていた。
「ねぇ」
「……ぁ、なに?」
見守っていた、いや、訂正しよう。半ば見とれていたのがバレないように僕は声を絞り出した。
「ここ、日直は心太郎じゃないのに心太郎の字だよね?」
そう言って彼女のすらりとした白い指の指し示すページを覗き込んだ。確かに日直はその日は僕ではない。
「あ、そこはたしか早退しちゃった子の代わりに途中から書き足して、って言われて」
「あっそ、じゃあここは?」
そこからしばらく前のページがぱーっと捲られ、再び指差される。
「そこは大会前の子の代わりに日直した時で、名前はその子のやつ書いてるけど僕が書いたとこかな?」
ふーんとつまらなそうに言ったが、一時さんの表情は先ほどよりも和らいだように見える。まぁ、にこやかになった訳ではなく、マイナスがゼロになった感じだ。
「……恭介って今日の日直だよね」
「そうなんだけど、部活の鍵当番だからグラウンド早く行かなきゃいけないらしくて」
だから代わりに……と僕が言いかけた時だ。
「……ここは?」
と彼女が指さしたのは、
「そこは恭介の代わりに書いたとこ……」
そこに書かれた日誌は恭介の名前になっているが、明らかに僕の文字だ。こうして指摘されると自分が書いたページが、明らかに他の生徒より多いことが分かる。
「はぁ……」
と真紀菜は深く深くため息をついて、僕の机に学級日誌を荒っぽく置いた。
「よ、よく僕が書いたページ分かったね……」
「だって明らかに心太郎の文字じゃない」
眉間を抑えながら彼女は言った。確かに僕の字は汚い訳ではないのだがそれなりに特徴的な部分もあるので、筆跡で僕と分かってしまう。代筆は、きっとチェックする先生にもバレているだろう。
「うーん、筆跡まで似せるのは僕には無理かなー……」
「そうじゃないでしょ!?」
と彼女は机に両手を叩きつけ、椅子を跳ね飛ばして立ち上がった。
「なんで断らないのってことを言ってんの。マジで理解に苦しむ」
「え、いや、でも頼まれたし……?」
「じゃあ、心太郎は頼まれれば、なんでもするんだ」
「え」
彼女の目から体温が失われていくような、冷たい視線が僕に注がれる。
「じゃあ、私から頼みがあるんだけど」
「別にいいけど……何?」
固唾を飲む、というのはこういう時に使うのかもしれないと思った。行き場を失った僕の視線が右往左往していると、半開きになった教室の入り口の前を、担任が凝った肩を回しながら下の階の職員室へと帰っていったのが見えた。
「私、死にたいの」
この時、僕の全身から血の気が引いていくのが分かった。視線を再び彼女の方へ向けると、僕の机に頬杖をついて皮肉っぽく微笑んでいた。
「私の事、殺してよ」
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