幸運をあなたに

はんぺん

旅立ち

 別れの言葉は、その一言だけだった。正面にいる彼女は、どこか誇らしげな顔をしている。今日、俺は長い年月をかけ、厳しい試験を突破し、ようやく冒険者へと成り上がった。

「……ありがとう」

そしてそれをずっと支え続けてくれたのが正面の彼女だ。彼女に向かって、初めてまともな礼を言えることが、どうしてこんなにも喜ばしい。

 俺の言葉を聞き、彼女の顔は少し綻んだ。でも、その顔に僅かな憂いが残っているのは、別れを想う彼女の優しさからだろう。

 端正な顔立ちのその見慣れた顔を、改めて今、目に焼き付けようとする。するとそのたび、ふと、どうしても過去を思い出してしまう。なぜなら俺の人生は常に彼女によるものだと言っても過言ではないから——。


 彼女はシャンヌ・ライザという。俺が記憶を無くし、意識も朦朧なまま、道でくたばりかけていたところを、偶然通りかかった彼女に助けられ、今まで長らく世話になった。その時の俺は何も無くって、当然だけど、記憶もない俺にいくあても、頼りの綱も無かった。そんな何もない俺に、その全てを与えてくれたのがライザだった。ここがテレキアという国であること。この世界にはダンジョンという自然の迷宮があること。冒険者や、魔物など、この世界を知るに充分な知識を全て教えてくれた。全てを受け入れ、俺に生きることを許してくれた人が彼女なのだ。名前だってくれた。ハリスという名前だ。そこに彼女の性をつけて、シャンヌ・ハリス。俺という者が出来上がっていく、そんな感じがして嬉しかった。彼女のくれたもので、俺は常に満ちていた。


 ライザは、俺も含め、関わる人全てに優しく、気丈に振る舞う。その様は、いたって健康的で、その顔に何一つ曇りはない様に見える。しかし、実のところ、それはただの虚栄に過ぎない。それを俺は知っている。

 いつだったかな、ライザは俺に話してくれた。独り言を言うかのようにボソボソと、らしくない口調で語り出したのを今でも覚えている。

 ライザは小さい頃に、母親を亡くした。事故だった。その日、母はいつも通り川に行き、自生する木の実を取っていた。その時足を滑らせ、頭を打ちそのまま——。

 ……流れの早い川だったという。下流で見つかった遺体はなんとも酷い物だったようで、父は気が触れてしまった。母の死から数日後、父はライザを残して忽然といなくなった。汚い字の書き置きを残して。

 だから彼女は、孤独が嫌いで、だから俺を家族の一人だと思って受け入れたのだと、そう話して、俺に笑みを見せた。その時に見せたいつもの笑顔の奥に感じたものは、彼女の弱さが見えた時だった。俺が冒険者を目指したのは、丁度その時。彼女に少しでも恩を返したかったからだ。

 いつか読んだ本にも、「冒険者とはなれる人が少ない職業である。つまり収入は高い水準を維持できることは確実だ!」などという様なことが書いてあった。正直眉唾ものだが、そんな話を聞いたら、俺はそれを目指さずにはいられない。彼女はそれを聞いた時、やや悲しそうな顔をしたが、彼女の生活が楽になるのであれば、それに越したことはない。そう自分に言い聞かせた。

 そうして俺は冒険者を目指し続け、そしてその一つの目標が、たった今完了したという訳だ。


 と、長い回想に浸るのももう、終わりだ。彼女の目をじっと見る。吸い込まれそうな程綺麗な瞳だ。しばらく見れないのかと思うと、確かに悲しい。でも、行かなくちゃならない。それが俺に出来ることだから。

「じゃ、そろそろ行くよ」

敢えて軽い口調で別れを告げる。彼女の顔を名残惜しそうに眺めつつも、決心して振り向き、俺は歩き始めた。ただその正面に聳える、あの大きな山を目指して……。


 「元気でね」

……歩みを一瞬止める。黙って頷き、そしてまた歩みを進める。震えていて、か細い彼女の声は、今まで聞いたどの声よりも哀しく、それでいて美しかった。


 



 

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