チートとチープは紙一重

広瀬みつか

第1話 地獄からの解放、そして…

 物静かな森の中、一人の少年がただひたすらに走っていた。


 ボサボサになった黒髪は腰まで伸び、顔全体を隠してしまうほどに髭が生えていた。人目では、年齢を推測するのも難しいほどだ。


 身につけているものといえば、もはや服の機能を果たしていない布きれのみ。


 走れば走るほど木々の枝に引っ掛かり、布面積は減ると比例して肌に切り傷が増えていく。


 しかし、そんなことは彼にとってどうでもいいことだった。


 少年の脳内には、ただひたすらに走ることしかなかった。


 もう二度とあの要塞じごくに戻らないために……。




 少年は1時間前に“バスティアス公国”の辺境にある“ベイシアット要塞”から逃げ出したところであった。


 彼が8歳の頃、あ・る・理・由・で捕らえられ、“ベイシアット要塞”に送られてると、“研究”の名のもと10年間拷問を受け続けた。


 口で言うことが憚られるような多種多様な苦痛を受け続けて、少年の精神はすり減っていく。


 しかし、彼は決して希望を捨てることはなかった。


 拷問官や牢番の行動パターンを見続けて、隙ができるタイミングを推し量っていたのだった。


 そして今夜、交代をするため牢番が姿を消した隙を見計らい、手足に繋がった鎖を強引に引きちぎり、牢の鉄扉を壊し、出くわした兵たちをうち倒しながら、必死に要塞から逃げることができた。


 


「はあ、はあ、はあ、もう、ダメだ……」


 ふと弱音が口から溢れる。


 どれだけ自分自身を騙そうとも、長時間走り続けたことで蓄積された疲労を無視することはできない。


「うわっ!」


 左右にふらつく中、足がもつれる。


 受け身をとることができず、少年の身体はドスンと音を立てながら倒れた。


 少年は奥歯を噛みしめながら、その場から立ち上がろうとするが、彼にはもう自分の上半身を再び起こすだけの力も残っていない。


 仕方なく腕の力だけで、全身を前へ前へと全身を引きずる。


 胸から足先にかけて、皮膚がむけるような痛みが襲う。内臓が鉛のように重い。


 しかし、少年は進むことをやめない。


「嫌だ。こんな、ところで、もう……」


 過去の激痛と屈辱に満ちた日々に帰りたくない。その想いだけが彼の原動力だった。




 数分間無心に進み続けると、少年はいつの間にか草むらを抜けていた。


 そして、目の前に草木が生えていない空間が広がった。


「俺は、助かった、のか?」


 眼前に広がる光景を見ると、少年の中で張り詰めていた糸がピンッと切れて、フッと力が抜けた。


 確かにこの瞬間なにか希望のようなものを見出したのだ。


「はぁーふぅー……」


 仰向けに体を転がすと、大きく呼吸をした。


 冷たい空気が気道を通るたびに痛い。


 それはここ数年得ることのなかった、“生きている”という感覚を教えてくれる。


 少年にとってそれがうれしかった。


 気が落ち着くと周りに気を向けるだけの余裕が生まれた。そして、さっきまで気づかなかった小さな音に気付く。


 音の鳴るほうに目をやると、きらきらと光るものが見えた。


 少年は再びうつ伏せになると、限界を迎えた体に鞭を打って前進する。


 10メートルほど進むと、月光に反射してキラキラと光る水面があった。


 少年は我慢しきれずに顔を突っ込み、水を頬張った。


 窒息しそうになったが、不思議と水面から口を離すことができない。


 そして、のどが潤ったのを感じ、やっと池から頭を上げる。


「はあ、はあ、生き返ったぁ!」


 頭を左右に揺らして、顔や髪についた水分を飛ばす。


 ふと水面に目をやる。水面の波紋が徐々に消えていくと、そこには一人の男の顔があった。


 数秒間、それが誰なのか理解できなかったが、まぎれもなくそれは少年自身である。


「彼が最後に自分の顔を見たのは七つぐらいの頃か?」


 うっすらとしか覚えてないが、もう少しかわいい顔をしていた記憶がある。


 だが、水面に映る彼は全くの別人。


 ひげを無造作に生やし、腰まで伸びた黒い髪は四方八方に乱れている。自分自身の不衛生さに吐き気がする。


 それと同時に自分の外見の変化に年月の経過を感じる。


 再び仰向けに転がると、少年“ミユウ・ハイストロ”はこれまでの数年間を思い出す。


「なんだったんだ。俺の人生は……」


 その無意味で無価値な年月は、彼の心に虚無感を抱かせたのだった。






 ーーー






 野原に一陣の冷たい風が吹くと、ミユウはその肌寒さに目を覚ました。


 気付かぬ間に眠りについていたらしい。


 全身を支配していた疲労はわずかではあるものの、確かに減っていた。どうやらかなりの時間寝ていたようだ。


 ミユウは右腕を上げると、自分の胸から腹にかけて手のひらでさする。


 走っている間に全身にできた切り傷も、体を引きづった時に腹部にできた擦り傷がなくなっていた。それどころか、一生残っても不思議ではないほどの拷問による壮絶な傷さえ残っていない。


 しかし、ミユウはそれが当たり前のことのように事実を受け入れる。


「こんな力があったせいで……」


 虚しくため息をつくと、瞳を閉じる。


 そのとき、遠くからガサガサと物音がした。


 ミユウは瞬時に体を起こし、瞬時に全身を低くし、戦闘態勢をとる。


(動物か?それとも追っ手?)


 焦りから頬に冷や汗が流れる。


 目を細め、周りを見渡した。


 すると、正面の藪の向こうの陰に人の姿を見つけた。


「誰だ!そ、そこにいることは、わ、わかっているんだぞ!」


 人影に向けて声を荒げる。


 威勢を張って見せているが、手足は震えていた。


(疲労した今の状態でも武装した男たちでも倒せる自信はある。もし戦いが無理だったとしても逃げればいい。怖がる要素はない、はず、なのに……)


 脳内に長年の拷問の記憶がよみがえる。


 もう、あそこには帰りたくない。恐怖がミユウの筋肉を硬直させていた。


 しかし、それを相手に知られるわけにはいかない。


 ミユウは太ももを拳で殴り、強引に震えを止めた。


「隠れても無駄だ!早く、出てこい!」


 再び人影に声をかける。


 すると、人影は藪をかき分けながらミユウのもとに近づいてきた。




「……え?」


 ミユウは月明かりに照らされた人影の全貌を見て、素っ頓狂な声を漏らした。


 鋼鉄で武装した騎士、もしくはこの森を根城にする盗賊あたりが登場するかとおもいきや、その正体が自分と同い年の少女だったからだった。


 紺色の丈の長いワンピースを着た少女は、透き通るような白い肌に金色の長い髪、ルビーのように赤く輝く瞳、そして幼さと大人っぽさを兼ね備えた端正な顔立ちと、他の人間のそれとかけ離れた容姿をしている。


 その上、彼女はミユウに対して、母親が我が子に向けるような柔らかく温かい微笑みを見せていたのだった。


(なんでこいつ、俺に微笑んでるんだ?)


 ミユウは彼女の意図を測りかね、警戒心を強める一方で、全身の緊張が自然と緩まるのを自覚した。なんとも不思議な感覚である。


「お前は、一体……」


 すると少女は突然足を止めると、ミユウに対し深々と頭を下げた。


「10年間お疲れさまでした。ミユウさん」


「?!」


 少女の言葉を聞いて、再びミユウは警戒を最大限に強めた。


「どうして俺の名前を知っている?!」


 ミユウが訊ねると、少女はゆっくりと頭を上げ、ニコッと笑った。


「私はあなたのことなら何でも知っています」


「何でも知っている?」


「はい。あなたの名前がミユウ・ハイストロであることも。今まで10年間“ベイシアット要塞”に囚われていたことも。そして、それはあなたが“不殺族”であることが原因だということも」


「?!要塞から逃げ出したことを見てたのか?!いや、その前に俺が不殺族だということも知って……まさか、お前は俺を捕まえるために要塞から派遣された追っ手か!」


「え?ちょっと待ってください!私は……」


「捕まってたまるか!」


 ミユウは左足で地面を思いっきり蹴り、少女との距離を一気に縮める。そして、少女に向けて右拳を放った。


「きゃっ!」


 突然のことに驚いた少女は後ろに倒れ、地面に腰を打ち付けた。


 目標を失ったミユウの拳撃は少女の足元に着地し、地面に大きなクレーターを作った。


 その光景を見た少女は全身を小刻みに震わせる。


「あわわ……な、何をするのですか!あなたの力で殴られたら、死んでしまうでしょ!」


「そりゃ殺す気でやったんだから当たり前だろ。俺はもうあそこに戻る気はないんだよ」


「わ、私は要塞の追っ手ではありません!」


「嘘つくな!要塞の追っ手じゃなかったら、俺が捕まっていたことも、不殺族だってことも知っているはずがないだろ!」


「落ち着いて、よく聞いてください。私はミユウさんが捕まる前からあなたのことを知っていたのです。だから……」


「誰がそんなこと信じるかーー!」


 ミユウは右腕を後ろに振りかぶる。


「い、いい加減にしなさーーい!」


 少女は右手を上げると、パチンと指を鳴らした。


 すると、ミユウの背後から光が放たれた。


「何?!」


 後ろの光に気を取られていると、突然ミユウの胸から足首までを数十本の鎖で巻かれ、後方へと引きずり込まれ、背中から地面に叩きつけられた。


「なんだこれは!」


「まったく。人の話をまともに聞こうとされないから、こうなるのです」


 少女はゆっくり腰を上げると、ワンピースの土埃をはらう。


「しかし、さすがは巨人族と同等の怪力と、比類なき身体能力を持つ不殺族です。まともに攻撃を受ければ、確実に死んでいましたよ。それに……」


 少女はミユウの側でしゃがみ込むと、彼の首を人差し指でなぞる。


「な、なんだよ……」


「要塞の中では拷問が行われていると噂で聞いていましたが、その形跡が全くありません。重傷を負っても即座に治り、殺されても何度でも蘇ることができる自己治癒能力ですか。もしこの力がなければ、ミユウさんはずっと逃げ出すことはできなかったでしょうね」


「まあ、この力のせいで俺はあいつらに捕まったんだけどな。本当に迷惑な話だ。実験と称して、いろんな方法で痛めつけられるし、訳の分からん薬を投与されてるし、何度も殺されるし……」


「確か不殺族の戦闘能力と自己治癒能力を研究し、最強の兵士を作り上げる。なんとも非人道的な行為です。とてもまともな国家のする行為ではありませんね」


「ふんっ!よく言うよ。お前だってその非人道的な国家の使いっ走りじゃねぇか。どうせこのまま俺をあの要塞へ連れて行くつもりだろ?」


「だから、私は追っ手ではないとお伝えしているでしょ……え?もしかして、私のことを本当に忘れていらっしゃるのですか?」


「は?お前のことなんて知らねぇよ」


「う、嘘ですよね?ほら、短い期間ではありましたが、10年前に一緒に遊んだではありませんか」


「お前と?…………うっ!」


 ミユウの頭に電撃ような鋭い痛みが走る。それはまるで何かを思い出すことを脳が拒否しているような感覚だった。


「どうかされましたか?先ほど倒れたときに頭をぶつけてしまいましたか?」


「いや、違う……昔のことが思い出せない」


「どういうことですか?」


「俺たちは蘇るときに殺される少し前の記憶が曖昧になるんだ。普通なら10分もあれば思い出すんだが、俺はいままで数え切れないほど殺された。その上、変な薬も飲まされたせいか、昔の記憶がぼんやりとしてるんだ」


「……それで私のことを忘れたと?」


「たぶん、そう……」


「…………酷いです」


 少女はそうつぶやくと、その場で立ち上がった。


「本当に酷いことをしやがるぜ」


「いいえ。酷いのはミユウさんの方です」


「は?お前さっきの話聞いてた?俺はただの被害者、で……」


 ミユウは少女の顔を覗き込むと、言葉を止めた。


 彼女が廃棄物でも見るような軽蔑の目でミユウを見ていたからだ。


 ミユウの全身にいままでに感じたことのない冷ややかな空気がまとわりつく。


「私はね、ミユウさんが行方をくらましてから現在までの10年間あなたのことを一時も忘れたことはありません。誇張などではなく、本当のことです。命をかけて誓ってもいいほどです」


「そう、なのか?」


「そして、ようやくこうやってあなたと出会えることができた。ああ、今までの私の苦難は報われたんだと。これからはミユウさんとずっと一緒にいられると。この胸は嬉しさで今すぐにでもはち切れそうです………………なのに、あなたは私のことを忘れてしまわれていた。こんな悲しいことがありますか?悔しいことはありますか?私の心はズタボロです……」


「だから、それはやつらの拷問のせいで……」


「理由なんてどうでもいいです。大事なのは結果だけなのですから」


「なんて理不尽な……」


「ええ。私もこれがどれほど理不尽なことかは十分に理解しています。しかし、人の心とは理屈などで割り切れるものではないのですよ。特に乙女心は繊細で壊れやすいもの」


「意味分かんねぇ……」


 少女はミユウの足元に移動すると、再びしゃがみ込んだ。


「おい!何するつもりだ!」


「今からあなたに乙女の純情を踏みにじった報いを受けていただきます」


「てめぇ、ふざけんな!そんな無茶苦茶な理由でなんで報いを受けなくちゃいけねぇんだ!」


「全ては私とあなたのこれからのためです。いわば“愛の契り”」


 少女はニヤッと笑い、右手でパチンと指を鳴らすと、彼女の両手の上にそれぞれ小さな光の玉が出現した。


 そして、右手の光は小筆に、左手の光は赤い液体の入った小瓶に姿を変えた。


「怖がらなくていいのですよ。決して痛いことはしません。少しだけ、ほんの少しだけくすぐったいです。それに、大人しくしていただければ、すぐに終わりますから」


「ああ。わかった。今はどうしても無理だが、時間かけて絶対にお前のこと思い出す。だからな?一旦落ち着こう。話し合えばわかるはずだ。だから、やめ……」


「言い訳の多い男性は嫌われますよ。ここはビシッと覚悟を決めてください」


 少女は瓶の中に小筆の先を浸し、赤く染まった筆先をミユウの左の足の土踏まずにくっつけた。


「ひぃっ!」


 足の裏に冷たいものが触れた瞬間、鋭い刺激が針のようにミユウの足から頭にかけ貫き、不覚にも甲高い声を上げてしまった。


「うふふ。先ほどまであんなに強がっていたのに、女の子のようなお声を出されて……」


「う、うる、せ……」


 からかうように笑う少女。


 その声を聞いて、ミユウは自身の男としてのプライドが大きく傷つけられたと感じた。


 さっきのように少女へ憎まれ口を叩いてやりたいが、全身が硬直して持ったように声が出ない。


「でも、これで終わりではありませんよ」


 少女はゆっくりと小筆を動かす。その度、ミユウの全身にくすぐったさが襲う。


 しかし、ミユウは笑い声を出さなかった。


 同い年の少女にされるがままであるこの状況だけでも屈辱的であるのに、ここで大声で笑えば彼の中の大事な何かが取り返しのつかない状態になると思った。


 同時に、自由に動く足首を左右上下に動かし、最大限の抵抗を見せる。


「じっとしていてください。そう動かれるとうまく描けないではないですか」


「誰が、お前の、言う、ことを、きく、か……」


「仕方ありませんね。えいっ!」


 少女はミユウの足の指を左手で掴むと、足の甲側にグイッと反らした。


 もうこうなっては何もできない。


「これでもう邪魔できませんね」


 少女の筆は無抵抗になったミユウの左の足の裏で縦横無尽に動く。


「もう、だ、だめ、だ……あ、あはははははははははは!」


 笑い出すと、もう我慢することはできない。


「もう最初からそのように無理せず笑えば良かったのですよ」


「は、はひ、や、やめ、いひひひ、ははははははは!」


 笑い悶えるミユウに目もくれず、少女は着実に何かを完成させつつあった。


 すると、ミユウの反応に変化が現れた。


 彼の全身を支配していたくすぐったさが、温かい感覚に変化したのである。


 そう。例えるならば、よく晴れた春の日だまりで草むらに寝転がった時のような安心感。


「なんだ、これ……」


 笑い悶えていたミユウに眠気が襲う。今にも眠ってしまいそうだ。


「おや?どうやら効き目が出てきたようですね」


「どういう、ことだ。俺の身体に、何を……」


「うふふ。それは後のお楽しみです。今は安心して、お眠ってください」


「安心、できる、か……」


 そう言い残すと、ミユウは重たい瞼を閉じていった。

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