安らかに
とがわ
安らかに
五歳の時、祖母が死んだ。
祖母が死んだ時、父が一人で夜通し泣いていたのを知っている。僕と母と姉が眠った後、自室で肩を震わせていた父の背中は僕よりもずっと子どもに見えた。祖母が死んだ時、僕は泣けなかった。海外に住んでいて二年に一回会えればいい方だったほどに繋がりの薄い人だったからだ。僕の中に祖母との思い出はほんの一握りしかなくて、悲しいという感情はほぼないに等しかった。
しかし父のすすり泣き声を聞いた夜、僕も泣いた。父が、母が、姉が死んだらと思ったら自然と涙が流れた。その時からか、いつか来るその時を考えるようになっていた。
小学校にあがった頃、ようやく僕は一人で公園にいけるようになった。あの日から、僕には考えがあった。それをやっと実行することができると覚悟を決めた。しかし家族に心配はかけられず、普通の子どもの枠からはみ出さないよう取り繕って生きてきた。まさか僕が、動物を殺そうとしているなど微塵も思っていない。
最初から人をターゲットにしてもよかったのだが、彼らにも人生があって家族がいるのだという当たり前の事実を僕は知っていた。だから最初は野良猫にした。野良猫だからいいと思っているわけではない、というわけでもない。
公園に遊びに行くといって元気いっぱいな子どもの笑顔で外に出た。野良猫の見分け方は知らなかった。首輪がなければ野良猫だろうと思う事にし、猫じゃらしで猫と仲良くなったところで愛情表現である抱っこをして、森の中へと入っていった。どのように息の根を止めたかはここでは伏せておこうと思う。楽しいものではないからだ。ただ、悲惨な殺しなどはしない。解剖をしたいとか、殺してみたいという願いは一切ないからだ。安らかに眠ってくれさえすればよかった。
湿った土の上で、ピクリとも動かなくなった猫。ぐったりとしていて、まるで寝ているようであった。ついさっきまで息をして、僕と遊んでいた猫が、死んだ。
遊んだたった数十分を思い出して、猫の寝顔を覗く。可哀想でならなかった。ただそれに尽きた。僕は丁寧に猫を土に埋めた。祖母の墓場でしたように、手を合わせた。どこかの鳥が、鳴いていた。
僕が猫を殺したことは愚か、猫が殺された、死んだという話すらどこからも湧いてこなかった。やはりあの猫は野良猫で、誰にも見向きされていなかった可哀想な猫だったらしい。
小学校には一年から六年まで人がいて、学年問わず、何かと関わりを持たなければならなかった。そんな中で僕にも友達ができたし、好きだなと思える異性にも出逢った。
猫を殺したあの日から、動物を殺せずにいたのは殺すことに恐怖があったわけではなく(いやなくはない)、そんな彼らと遊んでいる時間が愛おしかったからだった。
二年、三年、四年、五年、六年とあっという間に時が経っていった。一年からずっと仲のいい人は数人だったが、それでも進級する度に増えていく大切な友達が、大切で好きだった。
卒業式、僕はこのままではいけないと突然目が覚めた。僕は彼らとの別れにも耐えられないと強く思った。
中学に進学してから人に見つからないように、人に不審がられないよう情報収集を始めた。人を殺さなければ僕はこの先狂ってしまうだろうと思えたからだ。
やはり、人にはそれなりに強い繋がりがある。家族がいて、友人がいて、思いがあって、愛しいと思う人がいて、夢をもつ人がいて、人生を精いっぱい生きている人がいて、つらい過去のある人や、未来がある人もいる。それを考慮しなければならないと思った。
全て当てはまらない人など恐らくいないし、いたとしても殺していい理由には到底ならないことくらい本当は知っている。しかしそんなことを言っていられるほどの脳が、その時の僕にはなかった。
計画は順調だった。目星をつけて、一目のつかない場所を狙ってその人と仲良くなって、ついには決行の日の夜に会おうと約束をした。
当日、道具をリュックに入れて彼女に会いに行った。
「やあ一週間ぶり」
僕より十年は長く生きているであろう女が、手を振って僕を出迎えた。しかしおばさんというほどでもなかった。服も髪も顔もボロボロで実年齢よりも老けているように見えていることだろう。それならば彼女はもう少し若く、そして綺麗なのかもしれなかった。
名前は麻実という。苗字はないし、麻実という名前も自分でつけたと言っていた。記憶がないらしい。
「今日は何して遊ぶ?」
「うん、何がいいか」
いつも通り適当に話をした。彼女はこれまで見てきた中で誰より孤独で、過去も未来もないダメな人だった。
目を覚ましたらこの星にいて、もう八年は彷徨っていると言っていた。記憶が全て飛んでいて、しかし思い出せない程にどうでもいい過去を送ってきたのだろうと彼女は考えていて、思い出す努力は最初の一年しただけで今は詐欺をしてなんとか生き延びているのだという。いつ死んでもいいんだと彼女は言った。
「実は」
もうすぐにでも、首を絞めてしまってもいいと思った。しかし伝えた方が誠実ではないかとどうしてか思ってしまった。
「今からあなたを殺したいと思うんですけど、いいですか?」
周囲に人は当然いない。猫を殺したのと同じような森の中だった。スマホのライトをつけるなどして地べたに座って駄弁っていた。
何を言っているのだと自分でも思ったが、引き返せなかった。彼女は驚いた後、なんとも優しく微笑んだ。
「嬉しい」
その言葉に偽りなどなく、ひどく澄んでいた。
「どうして?」
つい僕はそんな風に聞いてしまった。
「だってね」
彼女は本当に嬉しそうに言ってくれた。
「殺すって、最高の愛じゃない? あなたの人生が終わるのに、それでも殺したいって思うんでしょ?」
狂っていると、狂っている脳で思った。
「違いますよ。俺の人生は終わりません。人との別れが苦しいから、苦しくないように悲しくないように耐性をつけたいだけです」
僕が殺しをしようと思ったのは、そんな理由からだった。大切な人が死んだ時、人は涙をこれでもかというほどに流す。喪失感や虚無感が襲うという。僕はそれに耐えられる自信がこれっぽちもない。大切な人が増える度、大切と思う度、死が近づく度に、恐怖する。
僕がそれを伝えると、がくりと肩を落として「なぁんだ」と言った。
「わたしは君のちょっとの人生の登場人物になれたのに、少しも大切じゃないの?」
彼女は笑いながら言った。僕は、大切じゃないと即座に断言できないでいた。
「殺したいのなら、いいよ。いつ死んでもいいって思ってるのは本当。殺されるとは考えたことなかったけどね。いいよ」
「あ、でも詐欺してるから近い将来殺されてたかもな」なんて彼女は呑気に呟きながら、僕らは立ち上がって、音楽なんかを流してふたりぼっち、数秒間静寂な夜の空気の中を漂った。
「はい、いいよ」
彼女は両の手を大きく広げて僕に身体を、命を託してきた。僕は彼女の首に細いロープをかけた。彼女のすぐ真後ろに立つと、彼女がしっかりと熱をもって生きていることがわかった。僕よりも背が少し、高かった。人を殺したことはない。中学生の僕の力できちんと絞めることができるかは正直なんとも言えなかったが、もう、やるしかなかった。
「ほら」
彼女が催促する。彼女は死ぬのが怖くないのだろうか。なぜだろう。残される側が辛いのは知っているが、死んでいく側だって全てなくなるのだ、怖さも辛さもないはずがないのに。
「いいんだよ、殺していいんだ、はやく」
悪魔のような囁きだった。僕は半べそをかきながらロープに力を込め、引っ張ろうとした、その瞬間。
ロープにあるはずの重みがなくなり、僕は力を込めた方向に勢いよく倒れた。咄嗟に身体を起き上がらせ、彼女の方をみると、ナイフを握っていた。汚れたその服の中に隠し持っていたのか。僕が握っていたロープは、二本になっていた。鋭い刃で真っ二つだった。
彼女は依然としてにこにこと笑っていた。
殺される、と恐怖した。
「安心してよ」
彼女はいった。
「大丈夫。わたしは結局独りだから。ありがとね」
そういうと、彼女の手にあるナイフの刃が、彼女の心臓のあたりに向けられ、肉の中へと吸い込まれていった。
彼女が一瞬痛そうに眉間に皺を寄せたが、すぐにそれは落ち着いて、僕にまた微笑んだ。
僕は唖然として何も言えなかった。彼女はそのまま鈍い音を立てて、倒れた。
涼しい夏の夜だった。
警察を呼んだのは母だった。僕が帰宅しないので心配して警察に連絡をしたのだった。僕は生き絶えた麻実の横で一夜を過ごし、翌日の朝警察の人に起こされた。
結局、麻実の身元は分からずじまいだった。あの日の夜のことは僕と麻実だけの秘密にして、嘘の供述をした。
何も手につけられないほどに闇に落ちていったのは認めよう。しかし、今度は別の恐怖に襲われていた。
麻実との思い出とさよならをしなければならないその時がくることが、とても怖いと。
安らかに とがわ @togawa_sora
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