永遠に眠る
とがわ
永遠に眠る
人間の三大欲求の中には睡眠欲がある。人は必ず睡眠をとるのだ。しかし、眠っている間、思考は停止する。臓器とか脳とか神経とか、動いている機能はいくつもあるのだろうけれど、眠っている自分を『今寝ている』と認知することはできない。例えば、寝落ちした時も、起きて初めて『寝ていた』と気づく。それは死とどう違うのだろう。ろくに勉強もできなくて賢くない僕は、死と睡眠がイコールで結びつかないことに納得がいかなかった。
しかし兄さんにそれをいうと、否定された。
「俺は自分が寝た時、寝たなって分かるんだ」
少し悲し気な表情を浮かべながらも自信満々といった様子でそう言い切った。何を根拠に言っているのかまるで分らなかったけれど、そんな兄さんも僕にはかっこよく映り、好きだった。
〇
ピーピーピー……。それは一定の速度で同じ音を鳴らした。
真っ白のベッドの上で、眠ったように横たわる兄さんの姿はまるで死人のようだった。
「ご愁傷様です」
ベッドの傍に立つ白衣を着た男がそういった。両親はベッドで眠る兄さんの手を強く握りしめて、狂ったように泣いていた。ベッドサイドモニターにはゼロの数字と綺麗な一直線が表示されていた。
そんな中、母さんが過呼吸になって倒れた。父さんは泣きながらも生きる母さんに手を伸ばし白衣を着た男と共に廊下へ出て行った。小さな部屋で、僕は兄さんと二人きりになった。
なんて綺麗な顔で眠るのだろうと思った。
僕はベッド近くにある椅子に腰を下ろし、いつものように兄さんに話しかける。
「ねぇ今日いい天気なんだけど、いつまで寝てるの?」
四つ離れている兄さんは、よく僕を外へ連れ出してくれた。僕は休日は決まってベッドから出ようとしなかった。ずっと寝ていればそれでいいと思ったからだ。けれど唯一兄さんはそんな僕を放っておかなかった。
どこで知ったのか、ある日突然兄さんは「学校でハブられてるのか?」と心配そうに聞いてきた。どうして気付いたのかは聞かなかった。いや聞いてる余裕などなくて、手を差し伸ばしてくれた兄さんの手をしっかり掴むのに必死だった。
兄さんは成績がよくて格好良くて友達もたくさんいて同じ人の子なのに僕とは正反対だった。しかしそれに僻むことはなかった。兄さんはこんな僕に寄り添って一緒に遊んだり、勉強まで見てくれる優しい人だった。兄さんの教えは学校の先生よりもずっと分かりやすくて、知識も溢れんばかりにあって、無駄がないように見えた。兄さんはずっと僕の理想だ。
常に僕を優先してくれる兄さん。それなのに、目の前で眠る兄さんは目を開けない。今度は身体を大きく揺らしてみた。腕を掴んで揺らすと、首から上が柔らかく揺れた。人の首はこんなにも脆かっただろうか。
「ねぇってば。起きなよ」
一層激しく揺らしたがその時、腕を強く掴まれた。
「何してるんだ!!」
父さんが泣きながら僕を殴った。左頬が痛いと叫んだ。
「兄さん起きないんだもん……」
赤く腫れているであろう左頬に手を当てながらそう訴える。父さんは、今度は僕をそっと抱きしめた。兄さんと違って、父さんは温かかった。
白衣を着た男がやってくると父さんは僕から離れて、また廊下へ出ていった。
大人は兄さんが死んだという。冷たくなった身体、動かなくなった臓器たち。しかし、僕にとって睡眠と死はイコールで結びつく。つまり死は睡眠で、睡眠はいつかまた目を覚ますのだ。兄さんはただ眠っているだけなのだ。
「ねぇ、早く起きてよ」
本気で起きるのだと信じていた。泣いたらイコールは崩れ、死を認めることになってしまうということも、本当は気づいていたと思う。
父さんたちは手続きを着実に進めていった。僕はほとんどの時間を兄さんの部屋で過ごした。兄さんはなかなか帰ってこない。兄さんのベッド、文房具、漫画、財布もスマホも、大人は全て遺品と言った。
僕は自分のスマホを操って、兄さんのスマホに通話を繋げてみた。机の上に置いてある兄さんのスマホからありきたりな着信音が鳴る。それはいつまでも鳴り響いた。
気づけば葬式も終わり、兄さんの身体は骨となって帰ってきた。しかしそんな骨を見ても、記憶の中の兄さんとは何一つ一致しない。僕は常に兄さんを探し続けた。
毎晩、兄さんの部屋で兄さんの帰宅を待った。母さんはそんな僕を見るたび、「もうやめて」と涙ながらに乞うた。「兄さんは帰ってくるよ」決まり文句のように、僕はそれだけを言い放つ。兄さんが死んだと思い込んでいる二人は、僕の態度を見て呆れたり、時に憤ったりした。
「このままじゃ私たちまで変になるわ」
夜中、二人分の水を汲みにリビングへ向かうと、母さんが僕の悪口を言っているのに出くわした。そっとドアの影に隠れて話を聞いてみると、僕を精神科医に見てもらおうと父さんへ相談を持ち掛けているところだった。冗談じゃなかった。僕は狂ってなどいない。
「兄さんは眠っているんだよ」
僕は二人の前に姿を見せて、柔らかい声でそう言ってみた。
僕の声が兄さんに届いたのか、翌日、兄さんは帰ってきた。
いつも通り兄さんを待つ真夜中、今にも瞑ってしまいそうな頼りない眼を擦っていると、どこからか僕を呼ぶ声が聞こえた。ハッと身体が覚める。耳を澄ませる。
『ハルキ』
兄さんの声だった。僕は勢いのまま飛び上がった。
「兄さん!!!」
しかし部屋に兄さんの姿はなかった。
「兄さん?」
ベッドや机の下、窓の外を探していると、階段を駆け上がる音がした。
「兄さんだ!」
僕は嬉しくなって部屋のドアを思い切り開けた。同時に、父さんと母さんが現れた。
「いい加減にしなさい!!」
父さんは一喝して僕を殴った。あの日と同じ痛みが広がる。傷の痛みだけではない。父さんの痛みがじんわり流れてくる。そのあと、泣いてやっぱり僕を抱きしめた。
「違うんだ、本当に兄さんの声がしたんだ」
言葉尻を震わせながらも必死に訴えるけれど、二人は信じてはくれなかった。
翌日は久々に学校に向かっていた。最初は休むつもりだったけれど、休むなら出掛けようと母さんがいうので仕方なく学校に行くことを選んだ。母さんのいう出掛け先は十中八九精神科の病院だからだ。
しかし、学校もできるだけ行きたくはなかった。友達はできないままだった。兄さんが気にしてくれてもやっぱり僕は兄さんではなかった。体育で二人組を組めと言われたら決まって僕は先生と組まされた。五人グループで実験をするとなれば決まって僕は人数合わせとなった。虐められているわけではないけれど、陰口はどうしてもひそひそと漂ってきた。僕を受け入れようとしないあの教室が、学校が怖かった。
震える足を止めたのは、兄さんの声だった。
『ハルキ』
昨晩聞いた兄さんの声が、今度ははっきりと聞こえた。
「兄さん!」
四方八方視線を振りまいて兄さんを探す。通学路で叫んだ僕の傍には、またも誰もいない。
『ハルキ、声を出すな。俺には聞こえるから』
僕の脳裏で兄さんの声が響いた。確かに僕に話しかけてくるのは兄さんだった。僕は嬉しさのあまり大声で喜んでしまった。
『ばかハルキ! 静かにして』
兄さんが怒った。僕は笑った。そうしたら兄さんは笑ってくれた。
兄さんが言うに、兄さんは僕の脳に直接話しかけているのではないらしかった。「どういうこと?」と声を出すと、また怒られた。『口にださなくても聞こえるよ』兄さんがそういうものだから、じゃあ、と心の中で兄さんに話しかけてみる。『聞こえる?』こんな不安定な声で聞こえるのだろうか。『聞こえるよ』兄さんが答えた。
『ねぇ兄さんの身体はどこ?』『なんでこうやって話さないといけないの?』『生きてるんでしょ?』現状を把握できない僕は兄さんに畳みかけた。
『俺は死んだんだよ』
死んだ人間は死んだとは言わない。
『生きてるじゃん?』
『死んだからこうして話せてるんだ』
『兄さんは死んでないよ』
そういうと、暫く兄さんは答えなかった。返答がないと僕は急に一人になった気がして『ねぇねぇ』と返答を催促した。
『確かに、死んだけどハルキの中では生き続ける予定』
『それって一生一緒ってこと?』
『……うん』
僕は嬉しくって無意識に足早になっていた。気づけば学校についてしまった。
『ハルキ? 教室いかないのか?』
昇降口でおどおどとしていると兄さんが心配そうに話しかけた。
『え、僕がどこにいるか見えてるの?』
『俺の身体はどれ? ていう質問に答えるならハルキの身体、だよ。ハルキの身体にはハルキと俺の魂が宿ってんの』
『じゃあ僕、一人じゃない?』
『当たり前だろっ』
兄さんは前から僕の味方だったけれど、これからは常に僕の味方となるのだ。誰より心配して大丈夫だよと声をかけてくれていた兄さんが、今度は僕の中で一生味方でいてくれるらしい。中学生の僕は、それがものすごく幸せなコトだと感じた。僕を世界の中心において生きてくれるのだ。
僕は勇気をもって教室に入る。誰も僕に目も向けない。空気と化している僕は、誰とも話さないまま自分の席に座る。『ハルキ、今もこんななのか?』兄さんの心配する声が聞こえる。『そうだよ』と返す。兄さんは僕とは違うのだ。恐らく兄さんは、教室に入った瞬間みんなからおはようと声を掛けられていたのだろう。でも羨ましいとは思わない。そんな絶対的な兄さんが僕の中にいれば怖いものなど何もなかった。
「藤咲さん、ここ答えられる?」
苦手な数学で運悪く先生に当てられた。一生懸命授業を聞いているつもりでも、数学はほとんどついて行けなかった。僕がおどおどしていると、兄さんが呪文のように数字を呟いた。『早く言って』催促され僕は兄さんのいうように先生へ答えた。
「お、完璧。やればできるじゃない」
クラスメートは驚いたのか、僕の方を見た。いつもと色の違うひそひそ声が聞こえる。でも一番驚いたのは僕自身だった。
『ねぇ兄さん、これ反則じゃない?』
『ハルキの中に俺がいるって、誰が信じる?』
兄さんは声に笑いを含ませながら言った。確かに考えてみれば誰も信じないだろう。兄さんくらい信頼のある人が言えば信じようとする人はでてくる可能性はあるけれど、僕の場合は誰も聞く耳を持たない。
『この関係は誰にも秘密だ。もちろん父さんたちにもな』
それが僕ら二人だけの約束だった。
その日から僕は傍から見れば普通の子へと戻った。父さんも母さんもホッと胸を撫で下ろした。兄さんがすぐ近くいることを知らずに、二人は写真の中の兄さんばかりを見つめていた。『言うなよ』兄さんは頑なだった。『わかってる』二人だけの約束が、寧ろ僕を強くした。
僕以外の人にとって兄さんは思い出となったのだと、二人をみて思った。しかし理解はできない。そう兄さんにいうと、『俺もよくわかんないかも』と笑っているようだった。
期末試験では兄さんのお陰で高得点をたたき出すことができた。兄さんはつきっきりで僕の勉強を見てくれた。それでも本番で分からなかった問題は答えを教えてくれた。それは絶対にバレることのない完璧なカンニングだった。
それが続いて、僕は進学校へ入学することができた。頭脳明晰な兄さんと、その兄さんに教わる僕がタッグを組めば進学校は案外楽勝だった。しかし、ほとんどが兄さんの実力だと分かったのは、入学してからだった。
『数学ついていけないよ兄さん』
『じゃあ数学は俺がやるから、ハルキは現国に集中して』
『分かった』
いつの間にか、僕の人生は兄さんと半分こしているようだった。
「なんかハルキ、コウキみたいに明るくなってきたわね」
高校も三年生へと進級する頃、ふと母さんがそういった。
「ハルキもともと勉強も苦手だったし、こんな頑張るようになって、コウキもずっと応援してくれているのねきっと」
いつしか、兄さんをよく知る大人たちは、僕という存在を兄さんに重ねて映すようになっていた。恐怖した。僕はいつか兄さんに身体を乗っ取られてしまうのではないかという不安がよぎり始めていた。
「でも僕は兄さんみたいに格好良くはないよ」
兄さんが好きだった。兄さんのようになりたかった。でも兄さんになりたいと思っているわけではない。
「あら、そんなことないわよ? 彼女とかいないの?」
母さんのその一言で僕は思い立つ。
兄さんに僕の人生が略奪されるのではないかと危惧した。兄さんは僕の恩人で、ずっと大切な人に変わりはない。しかし大切な僕の人生を兄さんにあげることはできない。
僕は今まで兄さんに依存しすぎて恋人など考えたことがなかった。兄さんのお陰で僕は友達を作ることができるようになった。教室を入って「おはよう」と言われるようになった。二人組を組む時もグループ分けも、向こうから誘ってくるようになった。女の友達もいる。僕は兄さんのように格好良くなれるかもしれない。だって兄弟だもの。昔の僕から進化してもいいだろう。でも、僕は兄さんではないのだ。
僕は写真に写る兄さんを見て自分を磨く努力を始めた。
『ハルキ、無理に格好良くなろうとしなくても、十分格好いいぞ?』
『兄さんに言われるとそうかもって思うけど、僕、彼女ほしいんだ』
最初は兄さんのように、次第にエスカレートして、兄さんよりも格好良くを目標に僕は垢ぬけていった。
『ハルキ、かっこいい』
鏡に映る僕は、兄さんのいうように本当に格好良かった。思わず自分に惚れてしまうほどだった。
『これなら彼女できるかな?』
『……きっとね』
兄さんのいうように、僕はすぐに彼女ができた。
『ハルキ、最近恋愛だらしなくないか?』
彼女と付き合い始めて五か月が経った頃、兄さんが僕の人生に初めて口出しをした。
『そんなことないよ』
『俺が中にいるって分かってる? いちゃつかれると困る……』
『俺だって兄さんに見られてるの恥ずかしいよ。大人しく眠っててよ』
兄さんが眠っているかどうか、僕にはわからなかった。兄さんが話さない間、兄さんが何を見て何を思っているのか何ひとつ分からないのだ。でも兄さんは賢いから、僕が彼女といる間は眠っていてくれているのだと思っていた。
彼女と初めて共に夜を明かす日、兄さんのことなど考えている余裕などなかった。兄さんは眠ってくれていたのだろう、何一つ話しかけてこなかった。朝目が覚めて、彼女の寝顔を見ながら、兄さんに話しかける。
『昨日の、見てないよね?』
『うん』
次第に兄さんは僕の人生のほんの一部へと減っていった。授業中やテストの期間にだけ必ず現れる。それで充分だった。
『ねぇハルキ、俺もしかして邪魔?』
平穏な日々を送る最中、兄さんは真夜中に突然話しかけてきた。とても声が重く、胸がざわついた。
『そんなことはないけど……。兄さん眠ってくれるし。勉強教えてくれるし』
人生を取られることは怖かったけれど、いなくなられるのは嫌だった。どうしたって兄さんは僕のヒーローに変わりはない。
そうだろかと、その時初めて引っ掛かりを覚えた。単に苦しい場面で助けてもらうだけの都合の良い扱いをしているのではないか。
『ごめん、ハルキ』
兄さんが謝る。なんて頼りない声だろう。僕は『どうしたの?』と心配になって尋ねる。
『ごめん、俺もう眠れないんだ』
眠れないという意味を理解するのに時間を要した。理解して、じわじわとこれまでの出来事を思い出す。僕の情けない初体験も、彼女の身体も、すべて兄さんに筒抜けだったと? 兄さんは僕の心の声を拾い上げて、そうだといった。
『ふざけんな! 眠ってるっていっただろう!?』
脳が沸騰した。
『眠れないんだ! あの日からもう眠れないんだよ!』
兄さんも激怒するが、言葉は震えていた。泣いているのか、兄さんの苦しみがじんわりと広がって、胸がぎゅっと締めつけられた。
『眠ってるって言わないと、お前、怒るだろ』
『当たり前じゃん!』
僕は何度も何度も怒った。物体のない兄さんに物をぶつけることもできないで、手持無沙汰になりながら罵倒し続けた。『死んでしまえ!』僕がその言葉を放った瞬間、兄さんはしゃくりあげた。
『俺はもう、死ねないんだよ……!』
兄さんは涙ながらに、あの日のことを話し始めた。
兄さんの死因は睡眠薬中毒死だった。致死量を超えて使用し死に至った。不眠症でもなかった兄さんが睡眠薬と化す薬を大量に使用していた理由は、誰も知らず謎に包まれていた。表では睡眠薬自殺だと片付けられ、父さんたちは腑に落ちない様子だったのを覚えている。
『俺前にさ、自分が寝た時、寝たってことがわかるっていったの覚えてる?』
『うん』
学校で空気のようだった僕は、死んでしまってもいいと思いながらも死ぬ勇気がでなかった。だから、眠っていれば死なのだと思い込むようにした。
『ある日突然、高三の春頃から、寝るとハルキの身体にいたんだ。おかしいって思ったけど、それよりもハルキずっと一人だったから、俺ハルキの背中押せたらって思ったんだ。でもどうしても朝になれば本体の俺が起きちゃって、ハルキが起きてる間にはハルキの身体に行けなかった。身体がいうこときかなくて昼間は寝る事できなくって、だから薬つかって寝ようとしたら、死んだ』
兄さんの死の経緯をきいて、この人はなんて賢くない人間なのだろうと思って悲しくなった。兄さんは僕のヒーローで憧れだったのに。眠らずとも常に僕を傍で支えてくれていたのに、兄さんにとってそれでは不十分だったのだろうか。考えが浅はかで、呆れて胸が痛んだ。
『頭悪すぎでしょ』
なんとか絞り出た言葉そんな本心だった。
『本体の俺が死んだから、もうここから出られないし、眠れないし、死ねないんだ。ハルキのためって思ったのに、邪魔してごめん』
兄さんはなんて脆いのだろう。こんな愚かで頼りない人間だったのかと、落胆しながらも、どうしてか嬉しく思った。
『邪魔なんて、そんな……』
初めて、兄さんが死んで悲しいと感じた。
『ねぇ兄さん、兄さんが死んだの、本当馬鹿みたいって思う。だって、こんな近くにいるのに……』
言葉が詰まる。僕は自分の腕で自分の身体を兄さんだと想って強く抱きしめた。
温かかった。でも兄さんがいなければ、兄さんを抱きしめられない。こんなにも虚しい抱擁があるだろうか。
次第に視界がぼやけ、頬に冷たい水が伝い流れ落ちる。僕は初めて、兄さんが死んで泣いた。
『これからの人生面倒くさいなぁ』
震える声でそう言った。目を瞑って瞼の裏に兄さんを浮かばす。どうして触れられないのだろう。兄さんに会いたい。
『ごめんなハルキ』
兄さんはずっとそればかりだった。何に対してのごめんなのだろう。思い当たるごめんがそこら中に散らばっていて、よくわからない。きっと兄さんもそうで、だからごめんと言わずにはいられないのだと思う。
「兄さん、ありがとう」
身体の中が温かい。魂の兄さんが、僕を抱きしめているようだった。
その日から、兄さんは話しかけてこなくなった。いくら呼んでも、兄さんは現れなかった。頑なな兄さんだ。すぐそこにいるのに、兄さんはもう眠るらしい。
勉強が分からなくても一人で解けるよう努力した。大学にも進学して、僕だけの人生が進んでいく。僕だけの人生、しかし僕の人生を作り上げているのは僕だけではない。友達がいて恋人がいて、人とのつながりが僕を作り上げる。その基盤にいるのは、常に兄さんで、兄さんがいなければ僕はずっと独りぼっちだっただろう。そして死んでも尚、僕の世界の中心は兄さんなのだ。
それらを忘れたくはない。
兄さんの七回忌、今年も兄さんの墓で線香をあげ、思い出となった兄さんを想う。
永遠に眠る とがわ @togawa_sora
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