正月の落とし穴



 武蔵は体格だけ父親に似たらしく、頑丈で大きな赤ん坊だった。


 養子に出さないかと何度も周囲に言われたが、祖母も両親もアユも絶対に頷かなかった。尚にとっては年の離れた弟ができたような感覚で、世話をするのも楽しかった。



「お前はまだ若い。今のうちに勉強しな」


 祖母はアユにそう言うと、いつの間にか取り寄せた通信教育のパンフレットをごっそり積んだ。アユは高校の単位や何やかやを着実にものにした。



 農作物も順調に育ち、悪くない日々が続いていたのに、また落とし穴が現れた。



 それはまたしても正月の事だった。



 この集落で昔から幅を利かせているのは柚木の本家で、正月の三が日は親戚一同年始の挨拶に必ず一度は伺う。


 分家の嫁であるマイカは祖母と共に年末からその支度を手伝い、三が日も他の親戚の嫁たちと手分けして台所に立つのが通例だった。


 だいぶ日本語も話せるようになり集落の女性たちの輪に溶け込んだのを見た祖母は、数年前からこの裏方の仕事から手を引いた。



 すると柚木の鬼子母神と言われる祖母がいなくなったのを好機と見たのか、本家の跡取りが酒の席で配膳中のマイカを侮辱した。



「なあ、この台の上でいつもの裸踊りしろよ。謝礼は弾むぜ」



 げらげら笑って嫌がる彼女の尻を掴んだ。


 それを末席で見ていた父は、周囲が止める間もなく上座までものすごい速さで駆けていき、拳で跡取りの顔面を殴り飛ばした。



 本家の跡取りは父よりずっと年下でどちらかと言うとマイカに年が近い。


 風采の上がらない分家の父を昔から酒の席で弄る傾向にあったのは、我慢できた。


 しかし、妻を踊り子扱いしたことだけは断じて許せなかった。



 父は彼より頭一つ小さかったが、助走付きの渾身の一撃は見事に決まり、相手は床の間へ吹っ飛んだ。



「……てめ…。チビがいきがるんじゃねえっ」



 鼻から血を流し我に返った男を父は殴り、下になった相手は足をばたつかせて反撃する。


 床の間の正月飾りも掛け軸も何もかもぐちゃぐちゃに巻き込んで殴り合いを始めた二人を、慌てて周囲が止めに入に入ろうと試みる。



「消防団を……。とにかく若い奴呼んで来い! あと、柚木のトヨさんに電話!」



 列席していたのは若くない者ばかりで、巻き込まれたら怪我をしかねない。


 事態を収められるのは、若者と祖母だけだった。




 警察も駆け付けた元旦の騒動は、本家が手あたり次第に罪状を訴えて終わった。


 祖母も弁護士だのなんだの手配するのにいい加減慣れてきた。


 幸運だったのは、高額な弁償金を払わされる予定だった掛け軸が、鑑定の結果贋作と判明し二束三文だったことだろうか。

 その掛け軸は長い間先祖伝来と称して自慢され続けていた品だった。


「本家の馬鹿息子も、正月早々なかなか良い仕事をしたね」


 まるで昔話の山姥のような黒い笑みをトヨは浮かべ、家族を戦慄させた。



 このままでは腹の虫がおさまらない本家は、床の間と居間の修理を大改修に換え、治療費など多額の賠償請求をした上、集落の人々に村八分を要求した。


 里山の暮らしは助け合いで成り立つ部分がかなりある。もともと山間の一軒家だったとはいえ、農機具の貸し借りなど小さな助けが止まると色々支障が出るものだ。



 折悪く、健は高校受験目前だった。


 県内の模試で常に上位として名が挙がる彼は一番の県立高校へ通い東京の大学を目指す予定だったが、度重なるトラブルと財政状況では到底無理と考え、家族に相談せずに志望校を変えた。


 入学したのはさほど遠くない町にある工業高校。


 そこからできるだけ待遇の良い会社への就職を目指すことにした。


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