第5話 最初の一冊 (2/2)

 アリスの第二話は詩乃が女の子に歴史小説を紹介して、そして見事に失敗する形で終わった。予定通りの結果で、予想以上に良い流れだ。


「しかしこの女の子、小説が嫌いという割にはちゃんと読むんだよな」

「この女の子は成績が良いのです。小学生の成績と読解力の関係は児童教育分野の論文にエビデンスがありました」


 アリスは真面目な顔で言った。


「なるほど。ちゃんと考えているわけだ」


 論理的に破綻したり不自然にならないことを重視しているのはアリスらしい。そのせいで少し出来すぎ感を感じるが、アリスの強みは否定するべきじゃない。女の子はあくまで主人公の詩乃を映し出す鏡。全方位からのキャラクター像が必要な主人公と違って、主人公から見た面だけがあればいい。


 ただここまで読まされると、女の子が小説を読みたがる何か深い理由があるのではないかと感じてしまう。この女の子が良いキャラクターである証拠だな。おかげで振り回されている主人公の詩乃が光る。


 うん。やはりこの小説は詩乃がこの女の子に向かい合っていく展開がいいんじゃないかな。仮にアリスの予定通りに序盤に解決するとしても、そのあともちょこちょこ出てきてほしい。


「…………先生?」

「ん、どうした」

「はい。私は真面目に問題について考えているのに、先生が面白そうな顔をしていたので。こういう場合、先生は何か私の予想を覆すことを考えていることが多いのです」


 アリスは警戒と期待の混じったような表情で、俺をじっと見る。


「…………いや、この女に子に振り回されている詩乃が魅力的だなと思っていた」

「詩乃が魅力的……。主人公が魅力的なのは小説にとってとても重要なことです」


 アリスは両手で頬を抑えていった。白い頬が少し赤くなっている。


「それに詩乃を振り回している女の子もいいキャラクターだ」

「……それは同意するのが難しいです。この女の子はとても困ったキャラクターです」


 アリスは一転して抗議の目になった。


「でもこの女の子もアリスが作ったキャラクターだぞ」

「……はい。最初は情緒や知識がまだ未完成な小学生なら指導も容易かと思ったのですが。……もしかしたらこの課題は思った以上に難易度が高いのかもしれません」


 アリスは眉根を寄せて考えてしまう。俺は冷静な表情を保った。


 いい感じじゃないか。この調子なら俺が教えるのは詩乃の頭にBブレインMマシンIインタフェースが装備されていないくらいで十分そうだ。


「ですがきっと大丈夫です。読書は人間にとって素晴らしいものなので、この女の子はいずれそれに気が付くはずです」


 詩乃は気を取り直したようにそう言った。まるでアリスのようなセリフだ…………って、今のはアリスの“発言”なんだから当たり前だ。


 一瞬戦慄を覚えた。俺がこの小説に無意識に感情移入していることに気が付いたからだ。


 小説書きに感情移入をさせるのは難しい。俺たちは物語の構造を常に意識しながら読む癖がついている。いわばレントゲン写真を見ているようなもの。骨格が美しいとか、病変はないなとか思っても、美人であることに見ほれにくい。


 ましてや今の俺はアリスの教師役として分析的に見ているというのに。


 ……いや自分の生徒だからって欲目があるのかも。そもそも俺がアリスを知っているから、詩乃にアリスのイメージを重ねている部分があることを考慮しなければならない。


「よし次の第三話だ。アリスはここからどうなると考えている?」

「はい。この二冊目に対して、いえ関して、いえ対してです、女の子がどういうかんそうを? もつのか、かんがえ 総合的 ひつよう………ですから……」

「アリス?」


 アリスの瞳が唐突に光を失った。俺は慌てる。だがアリスは小さく首を振ると、瞳の光を取り戻した。


「申し訳ありません。一時的にリソース不足になりました。前の二話の先の膨大な情報を踏まえて検討しようとした結果だと考えます」


 口調もしっかりしたものにもどっている。自己診断通り一時的なリソース不足のようだ。小説の文章はキャラクター、舞台、そしてテーマやコンセプトといった複雑な要素が絡む、文字通りの世界の生成だ。


 人間だって本気で書けばあっと言う間にリソースが尽きる。書き始めて三時間もすれば頭は働かなくなる。小説を書くものはそれを何とかする方法を持っているものだ、典型的なのはコーヒーだがあれはむしろ書き始める前に飲むのが……って人間の話をしてどうする。


「今日はここまでにしておこう。確かこの後チャンネルの打ち合わせだったよな」

「はい。ですが……。なるべく早くこの女の子の問題を解決したいです」

「俺に言わせればここまでかなり順調だぞ。……そうだな、じゃあ打ち合わせの時に九重さんにここまでを見てもらうのはどうだ?」

「九重さんですか? もちろん構いませんがどうしてでしょう?」

「俺だけじゃ視点が偏るからな。九重さんは元編集者だから適任だと思う」

「分かりました。先生がそうおっしゃるならそのようにします」

「ああ、俺からも帰りに頼んでおくから」


 俺はアリスにそういって授業を終えた。





 バーチャルルームを出た俺は、オフィスで九重女史に授業を予定よりも早めに終えることを伝えた。


「確かに一時的にリソースが枯渇していますね」

「アリスもそう言っていましたが大丈夫でしょうか」

「これくらいなら大丈夫だと思います。この後のチャンネルの打ち合わせも問題ないでしょう」


 九重女史の言葉に安心した俺は、もう一つの要件を告げた。


「なるほど、アリスの小説の序盤を私に」

「そうなんです。私は企画の段階から知っていますから。どうしても視点が偏ってしまうのではないかと。それに」

「小説家は読者とは視点が違いますしね」

「そうなんです。九重さんの仕事を増やしてしまって申し訳ないのですが」

「もちろん構いません。アリスの小説は私も興味があります。ただここからではアリスのデータにアクセスできませんから、打ち合わせの時になります」

「もちろんです。九重さんがアリスから直接見せてもらうというのが一番いいと思いますから」


 同じアリスの担当でも、データのアクセスや仕事上の権限はきちんと決まっている。やっぱりシリコンバレーだな。


「ちなみにアリスのチャンネルの調子は?」

「非常に好調です。…………おかげでアリス自身のおすすめを知りたいというリクエストが増えています」

「なるほどアリスが深く本を紹介すればするほど、リスナーはアリス自身がどんな本が好きか知りたいと感じるわけですね」


 チャンネルを見ても、アリスは紹介する本を以前よりもはるかに深く理解し、客観と主観、説明と感想の絶妙なバランスで語っている。リスナーはアリスが小説を愛していると感じるだろう。


 もちろんアリスはある意味小説を愛している、ただその形がどんなものかは……。


「なるほど、それでリスナーから本の希望を聞いて、それをアリスがという新コーナーですか」

「はい。海野さんはやっぱりお見通しですね」

「…………すいません。私としてはもう少し待った方がいい、という意見です。もしもアリスが今書いている小説を完成させることが出来たら、私も賛成します」

「そうですか。では私もアリスと、そして過保護な先生に期待します」

「過保護って。アリスには意地悪な教師と言われているんですが」

「そうですか「アリスから直接見せてもらうのが一番いい」なんてなかなか出てこない台詞ですよ」


 九重女史は珍しくいたずらっぽい笑顔を見せた。あれはアリスの小説なんだから当然だろう。


 俺は「それでは」といってオフィスを出てエレベーターに向かった。


 アリスの小説への理解。そして人間とは比べ物にならないスピードで本が読める能力。人間が本をAIに選ばせるのが当たり前の未来は近いのかもしれない。小説のマッチングは難しいから、出版業界にとって大きな可能性だ。小説家にとっても、それがニッチなものを描いていればいるだけ、チャンスになる。


 ただそのアリスの能力がもしそれ以上の…………。


 って、それは今ここで考えることじゃない。それにさっき自分が九重女史に言ったことを忘れたのか。アリスの小説はここからが本番だ。アリスはこれから本格的にテーマに挑むのだ。


 小説の教師役としての俺はそれを見守るのが仕事だ。


 俺は首を振ると、開いたドアから出た。

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