第12話 それぞれの解決編

 久しぶりにくつろいだ気分だった。


 正方形のリビングの中心に置かれた正方形の食卓。白いテーブルクロスの四隅にはシェルピンスキーの三角形の模様。ピラミッドを積み重ねたフラクタル意匠は、さりげなく彼女の知性を主張しているように見える。


 テーブルの料理もなかなか見事だった。サラダボールに盛り付けられたのは、レタスとアボガドにプチトマトを添えたサラダ。溶き卵のコンソメスープ。メインのチキングリルは均一に焼き目の付いたパリパリの皮が香ばしく、パンではなく付け合わせのマッシュポテトで食べるようになっていた。


 手料理というにはすこし背伸びした感のある組み合わせは、私をもてなそうと考えた証のようで好感が持てる。味に関しても申し分なかった。料理が得意というのは本当のようだ。実験と料理に共通性があるというのは定説だ。彼女なら将来優秀な研究職になるだろう。


 そう言えば芽衣子が料理をしているのを見たことがなかった。彼女は次にどのレストランに行くか、それも料理ではなく周りに自慢できるか、を考える女だった。


 だからこそ私は彼女にあの化合物、SCL-7823を用いた。ごく微量で心筋細胞内外のカリウム濃度のバランスを崩す未知の毒物によって煩わしい女の心臓を止めたのだ。今思えば不確実性の大きなやり方だった。私ともあろう者がいささか衝動的な行動だったかもしれない。


 実際、彼女にコーヒーを贈ってから効果を発揮するまで二週間近くかかって気をもんだ。


 とはいえ全ては解決したことだ。


 今日部屋に招待されたのは、芽衣子の事件について真理亜の相談に乗ってきた礼だ。彼女は私にもうあきらめたと言ったのだ。


 当然だ。誰も知らないに等しい未知の化合物どくぶつを、警察ですら無理だったそれを、いくら優秀でも学生が突き止められるはずがない。そこに関しては不確実性などなかった。私の計算通りだ。


 そして若い一人暮らしの女性が自分の部屋に招いてくれる意味……。


「お待たせしました」


 奥のベッドに視線をやろうとした時、キッチンから真理亜が戻ってきた。私は冷静に視線を戻した。


 台形の茶色の菓子がテーブルに載せられた。表面を輪切りの円形の果実がびっしりと覆っている。切り分けられた生地が銀色の皿に置かれた。素朴な甘い香りが漂う。


「バナナケーキです。コーヒーと一緒にどうぞ」


 二つのカップにサーバーから黒色の液体が注がれた。真理亜は一つを私の前に置くと、向かいの席に座って頬づえをついた。何かを期待するような瞳に導かれるようにフォークを取った。


「とてもおいしいよ。バナナの甘さが全体にいきわたっている。生地も面白い食感だね。なんというかもちもちとしている」

「生地にグリーンバナナパウダーを使ってるんです。小麦粉の代わりになるんですよ」

「なるほど、バナナはデンプンに富んだ果物だからね。うん、コーヒーともよく合う」


 甘いものはそこまで好きではないが、濃い目に淹れられたコーヒーとの組み合わせはお世辞抜きに悪くなかった。芽衣子の好んでいたクリームだらけのデザートに辟易としていた自分を思い出す。


「そう言えば芽衣子はコーヒーに凝っていましたよね」

「…………ああ。実にいろいろなことに興味を持っていたからね。その最後の興味がコーヒーだった」

「そうですね。芽衣子が生きていたら今頃は別のことに凝り始めていたかもしれません」


 故人の思い出に浸る真理亜に話を合わせた。避けたい種類の話題だが仕方がない。


「実はこのバナナのケーキ、彼女が亡くなる夜の前日に差し入れたものなんです。“コーヒー”に合うように気を使いました」


 真理亜は思い出を続ける。その表情にあるのが追憶や悼みではなく、どこかいたずらっぽいものに変ったように見えるのは私の気のせいだろうか。


「今日みたいにコーヒーと一緒に二人で食べました。まあ私はコーヒーを飲まなかったんですけどね。以前、彼女の家でコーヒーを飲んだ後できまって悪寒がしたので」


 ふふっと笑う真理亜、彼女のカップが全く減っていないことに気が付いた。私はなぜか悪寒を感じた。心臓が動悸を速めた気がした。この話の帰結に不穏な何かを感じる。


「私、芽衣子のことは切り替えることにしたんです。将来のことを考えないといけないですし。おかげさまで希望する製薬会社に決まりましたし。これからも先輩として相談に乗っていただけますか」


 真理亜はどこか熱のこもった目でこちらを見る。話が変わって私はほっとした。


「もちろんだよ。私としても大歓迎だ」

「ありがとうございます。早速ですけれど薬は量が大事ですよね。効果に大きな差が出ますから」

「容量反応曲線だね。薬の量が半分になれば効果が半分と思われがちだけど、実際は三分の一とか四分の一、ほとんどなくなってしまうこともある。もちろん場合によるけど」

「個人の体質もありますし、体重など男女差も大きいですよね。的確な容量を見極めるのは大変です。身近なところではこのコーヒーに入っている……カフェインも個人差は大きいです」

「そうだね。カフェインの効果は薬物に近い。酒やたばこが控えられている現代では、最も身近なものかもしれない」


 一般的な薬学の話だ。コーヒーの香りが鼻につくのは錯覚だ。


「食事との組み合わせも要注意ですよね。有名なのはグレープフルーツと血圧の薬ですけど。コーヒーもチョコレートやお茶と合わさることで、許容量を越えて中毒症状がでる可能性があります」


 ごく当たり前の話だ。当たり前すぎて私たちのレベルでするのは不自然なほどに。


「もちろんこのコーヒーに入っている成分では、成人女性の心臓に致命的な効果をもたらすには足りないです。基礎的な疾患がある高齢者ならともかく」


 真理亜は分かりませんか? と言わんばかりの顔で私を見る。もちろんわかっている。カフェインの健康に対する効果は多くの実験で実証されているが、過剰な摂取は心臓に影響を与える。


「例えば、私みたいに先天的にカリウムの代謝能力が弱い場合でも、決定的な効果には至らないんです。でも、一緒に大量のカリウムを含んだ食事をすればどうでしょう。例えばバナナケーキみたいに」

「いったい何の話をしている……」


 カフェインの話だろう、カリウムは言い間違い。そう言ってくれ。


「山岸さんは少し詰めが甘いと思うというお話です。あなたが芽衣子にプレゼントしたアレは効果が足りません。少なくとも倍の容量が必要だったと思います」

「真理亜、き、君は……」

「どうしてそんな怖い目をするんですか? 私はお手伝いしただけですよ。あなたのために」


 視線が医神アスクレピオスの杖に巻き付いた蛇のように私の心臓に絡みついた。震える喉を無理やり動かして問う。


「SCL-7623のことを突き止めるのは無理のはずだ」

「そういう名前だったんですね。化合物ライブラリーのコードネームでしょうか? さすが大手製薬会社ですね。私に分かったのはコーヒーに心筋のカリウムチャネルに影響を与える何かが入っていたことだけです。あなたがしようとしていることに気が付くのに、それで十分でした」


 真理亜は「確か梅雨が明ける前でした」と言った。芽衣子が死んだのはちょうど梅雨明け直前。つまり真理亜は芽衣子が死ぬ前にすでに真相にたどり着いていた。私が芽衣子に贈ったコーヒー豆を調べて、そして私も知らないうちに共犯者になったというのか。


「でも、あなたは私がしたことに全然気が付いてくれませんでした。デートの度にヒントをあげたのに」

「君と芽衣子は親しい友人だったはずだ」

「そうですね。芽衣子にとって私はいい友人だったと思います。彼女の自慢話にも飽きることなく付き合ってましたし。どれだけ山岸さんの自慢を聞かされたか。その度に私がどんな気持ちになっていったか。多分芽衣子は分かっていたと思います。見せびらかすのが大好きでしたから。高価なブランド豆も自慢されました。だから少し分けてほしいと頼んだんです」


 彼女はそう言って意味ありげに目の前のコーヒーカップをつついた。全く減っていない黒い液体が揺れる。空になった自分のカップと、生地の欠片が残るだけの横の銀の皿。


「まさかこのコーヒーも……」


 動悸が収まらない。あれとカリウムを大量に含んだ食事が組み合わされば。1.5倍近い男女の体重差があっても……。私は胸を抑えたまま立ち上がる。まずは大量の水を飲んで、それから救急車を……。


「大丈夫ですよ。このコーヒーはデパートで買ったものです。これがその証拠です」


 真理亜は温いコーヒーを飲み干した。思わず椅子に座り込んだ。心臓の動機は全く収まらない。人間の感情は薬物、例えばカフェインに左右されるが、今のそれは関係ない。大体コーヒーを飲んでから十分程度だ。カフェインの血中濃度が上がるのはこれからだ。


「何が目的だ」

「いった通りですよ。山岸さんにはこれからも私の相談に乗ってください。ううん、私たちの将来についての相談に、ですね」


 真理亜は楽しそうに冷たい笑いを浮かべた。


 今体内に吸収されつつある大量のカリウムは腎臓を通じて排出され、血中濃度は速やかに正常にもどるだろう。だが、私に平穏な日々は二度と戻ってこないのではないか。それこそ死が二人を分かつまで。




――『毒と薬』最終話



「了と。よし脱稿だ。お疲れ様真理亜」


 原稿を書き終えた俺は共著者に振り返った。


「訂正を要求します。私は真理亜じゃないです。こんなの初めてでおかしくなってしまいそうです。先生はやっぱりとても意地悪です」


 アリスは恨めしそうな目で俺を見た。仕方がないだろう、主役を追い詰めるのは作家の義務なんだ。キャラクターに真の姿を見せてもらうには、断崖絶壁の端まで追い詰める必要があるのだ。それこそミステリドラマのクライマックスのように。


 俺は生徒の抗議の視線を背中に、最後原稿を送信した。


 さて結果はどうなるか。といっても俺の仕事はこれで終わりだ。ここから先は蛇足みたいなものだけどな。






「二人目の犯人は青田、お前だ」


 法廷の被告席に足を組んで座った尼子がいった。中央のモニターには掴みかからんばかりの形相の男が映っていた。ちなみに探偵の手には抜き取られた鍵が弄ばれている。最後の犯人はさっきまで彼がいた部屋に閉じ込められたのだ。


「港に着くまでその椅子で大人しくしているといい。座り心地は保証しよう。特に考え事をするには最適だ」


 探偵尼子飛鳥あまごあすかはニヤリと笑った。結局生き残ったのは彼だけだが、それでも勝利は勝利だ。



――『死のフローチャート』最終話


「編集完了っと」


 用意された「 」かっこがきに最後のセリフを入力した宮本胡狼は、モニターに向かってそうつぶやいた。多くがコピー&ペーストですむとはいえ、脳は疲労している。AIは時々とんでもない勘違いをする。油断すると彼の指示とは正反対の文章が出来上がるのだ。一見それらしい文章になっているから余計にたちが悪い。


 林檎とアップルパイという二つの単語が近い関係であると理解していても、林檎からアップルパイが出来ることを理解していない。彼の指示と動画を元にAIが吐き出した文章を彼が修正、再びAIに戻して再生成という過程も時に必要になった。


「例のなんとかって分析はどうなっている」

『メンタルカーブは理想的な形状です』


 リリーが映し出したグラフは綺麗な波のようだった。専門用語で『センチメント』分析というらしい。文章内に出現するポジティブな単語とネガティブな単語の出現頻度を段落ごとに計算したものだという。


 詳しい説明は覚えていない。彼の理解では、感情のジェットコースターの図面だ。動画で言えば、激しい音楽の前に静かな音楽を流したり、熱い音楽の前に冷たい音楽を流すようなものだろう。


 一話ごとにしっかりと山と谷を作るのは動画と一緒だ。もっとも、全て文章でやらなければいけないというのは煩わしく、こうやって視覚化してくれるのは確かにありがたいことだった。


「原稿をアップしろ。それが終わったら落ちていい」

「わかりました」


 画面に原稿受領のメッセージが届き、リリーが消えた。


 光る画面に映る無機質な曲線が残った。ふとうすら寒いものを感じた。人間の感情を理解していないのに、その感情を操ることはできるAI。いや、そもそも人間は自分の感情を理解しているのか。自分の頭の中にあるものと、さっきまでそこにいた電子ニューロンの塊と何が違うのか。


 雑念を一蹴する。AIは所詮道具だ。自分はそれを上手く活用した。実際、結果はどうだ。最終話一話前までのアナリティクスは断トツ、二位の『毒と薬』を十分引き離している。高額の追加報酬は手に入れたも同然だ。


「プロって言っても所詮こんなもんだ。クリエーターとして時代遅れなんだよ」


 コンペの結果を見たら彼をニート扱いする両親も思い知るだろう。これが新世代スマートの仕事のやり方なのだと。

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