第16話 蛇足の話

 13:32。

 小田原駅を通過した列車は相模湾を真南へと下っていく。


 特急『踊り子号』。文豪の代表作にちなんだその車両の中は、シーズンオフとあって乗客はまばらだった。海側の窓を確保できたが、梅雨空からの水滴が流れる窓は観光気分を盛り下げる。日帰りの出張に景色も何もないのだが。




 仮眠用カプセルベッドから目覚めたのは正午過ぎ『12:04』だった。眠気の残る俺の目に、血走った目の九重女史が映った。彼女は一枚のメモとバーコードの記されたプリントを突き付けた。有無を言わせぬ出張命令だった。


 最初来た時はホワイト企業に見えたんだけどな。


 東京駅から『踊り子号』へと乗り込んだ。九重女史が件の副編集長から「沖岳さんは昨日から伊豆で執筆中です」という情報を引き出したのだ。沖岳は新作に取り組むときは必ず伊豆の定宿で初稿を書くらしい。


 デビュー作からそのスタイルというから呆れる。大体、缶詰とは締め切りギリギリにやむなく行う苦行であり、スケジュールに余裕がある序盤でやることではない。


 十分あるはずだった締め切りまでの余裕が終盤どころか中盤に尽きることを体験として学習していても、今回は大丈夫と思い込むのが真っ当な作家というものではないのか。作家とは夏休みの子どものようなものであり、その夏休みを計画的に過ごせなかった人間の成れの果てのはずなんだ。


 ちなみに大御所が締め切りを破ったことは一度もないらしい。件の大手出版社ではそれが新人作家への常套の脅し文句だという話を聞いたことがある。本当に迷惑なやつだ。その新人が、九割以上の確率で赤字になる本を出せるのが、沖岳の売り上げのおかげだとしても。


 とにかく、宿にいる間沖岳はメールも電話も一切受け付けない。結果、俺は遠く伊豆まで出向くことになったというわけだ。


 缶詰中の作家の所に押し掛けるという、人として許されざる悪行についてはそういうわけで気にしない。というかこっちはデッドラインの当日だ。アリスのチャンネルは今日の夕方。今も九重女史は奮闘中だ。その原因である当人が観光地で文豪気取りなど許されるわけがない。


 沖岳幸基が真に文豪と呼ばれるだけの存在だとしてもだ。


 熱海駅で列車を降りた俺がGPSを頼りにたどり着いたのは、文豪がその代表作を書いたと言われる歴史ある旅館、ではなくビジネスホテルだった。伊豆半島の地熱を中心とした再生可能エネルギー研究施設の需要から建てられたホテルは現代的だった。




 時刻は『14:49』。清潔なホテルの一室で、机に向かう背中と俺は対峙していた。


 アポイントメントを信じてもらえず苦労したフロントでの折衝の後、やっと部屋に通されたはいいが一度も大作家様の顔を見ていない。沖岳幸基はただひたすら机に向かっているからだ。


 開いたドアに反応しないどころか、挨拶と要件を告げても何も返ってこない。黙々とペンを紙に向かって動かしている。


 ちなみに服装は作務衣ではなくポロシャツとチノパン、ペンはボールペンで紙はコピー用紙だ。缶詰中の作家の机にあるべき酒、たばこ、栄養ドリンクの類も一切ない。一見すると引退したビジネスマンが老後の趣味にいそしんでいるよう。


 それらしい舞台装置がなくとも男が文字通りプロの仕事の最中なのが分かるから質が悪い。


 その背中はあたかも、丸太に向かってノミを振り下ろす仏師のようだ。


 木簡に文字を刻むような行為が突如停止した。己が彫り込んだ一枚を目の前に広げて確認する。そして、両手で握りつぶして横に放った。白紙を取り出し書き始める。


 机の上の書き上げた原稿は、せいぜい四、五枚か。原稿用紙にして十枚弱か。一方、部屋の隅に向かって転がる没は二十個はある。


 一定量書くごとに見直して、ダメなら丸まる放棄してその部分を最初から書き直す。もったいなく感じるが理解はできる。手直しするより、最初から書き直した方がいいことが多々あるのだ。


 異様なのは、一連の流れにまったくよどみがないことだ。せっかく書いた原稿を握りつぶす時すら躊躇が見えない。なるほど小説というのはこうやって書くものか、と思わず納得しそうになる。絶対真似してはいけないとわかっているのに。


 本物を偽物が邪魔するなど許しがたい冒涜に思えてきた。だが、俺は小説家としてここに来たわけではない。


「沖岳さん。アリスの新しい台本を持ってきました」


 ペンの走る音のリズムすら崩れない。構わず続ける。


「アリスのあなたの課題への回答は「分かりません」です」


 一瞬だけ鋼球が紙を打つ音が止まった。すぐに再開した。書き上げた原稿が一枚、机の横に捨てられた。新しい白紙が机に置かれ、小説を削り出す音が再び響き始める。


「今書いているその小説にも犀木のような傍観者が出てくるんですか?」


 沖岳の腕が止まった。ペンがトントンと紙を打つ。


「あなたの小説には必ず一人観察者が出てくる。特徴はなく、ストーリーに影響を与える行動はせず、何の意見も言わない。ただ節目節目に偶然のように主人公の近くにいる。そして、クライマックスの直前に一度だけ、その目に主人公を映した後で消えていく。そんな空っぽのキャラクター」


 やっとペンを置いた背中に語り掛ける。


「犀木の中に、読者は自分自身を見るしかない。それまで感情移入して共感を覚えていた宮本ヒーローが、もし本当に自分の隣に居たら? 自分は彼をどう見たのだろうか、という問いを無意識に突きつけられる」


 情景で登場人物の心を読者の心の中に描かせるどころではない。空っぽのキャラクターの中に読者自身を招来する。ずっと宮本しゅじんこうに感情移入してきた読者を、一ページだけ正気に戻す。


 それは禁忌といってもいい行為だ。


 だが、この時初めて読者は本当の意味で宮本と対峙する。彼が対峙する問題、内面の悩みにリアリティーを得る。実際、あの描写を経た後では明らかに宮本の立体感が増すのだ。それは同時に、彼の存在する舞台、彼の立ち向かう問題が立体化するということでもある。


 化け物じみたというか、化け物としか言いようがない技術だ。だが、その根底にあるのは沖岳の読者への姿勢だ。読者に対する信頼というよりは真剣勝負に近い。それが「一期一会」。


「ただ、その初稿には彼はいないでしょうね、きっと」


 犀木はそこにいる。小説の中ではなく小説を書いている。あたかも傍観者のように。


「犀木は読者でありあなたでもある。だから、あなたが一度初稿を書き終え、それを自分で見るまで決して存在しない。あなたが初稿にこれほどこだわるのはその為でしょう」


 そんな書き方をしたらそりゃリアリティーには不足しないだろう。最も客観的な情報が最も主観的に世界を描く。まさに情景の最たるもの。でも、普通はそんなことをしたらリアリティー“しか”なくなる。街の監視カメラの映像のように、それは決して小説ものがたりになるはずがない。


 だが、それを小説足らしめるのが、沖岳の問いなのだろう。


 沖岳の前には白紙だけしかない。テーマ、コンセプト、キャラクターの関係図、ストーリー構成をまとめたもの、作中イベントの時系列表など、小説の【要求定義せっけいず】を匂わすものが何一つとしてない。


 いや、目の前で書いている姿を見たらわかる。彼は設計図を持っていない。もし、それらすべてが頭に入っているのなら、今俺が見たように何枚も何枚も没を積み重ねない。設計図があるなら、書けるところを書くのが一番効率がいい。


 小説の“書き方”を長い間探求してきたからこそ、そういう書き方ではないことだけは分かるのだ。


 優れた彫刻家は像を作るのではなく、元々木の中にあったそれを取り出すだけという。


 その例えは近いが遠い。彼が対峙しているかみの中に像はない。この彫刻家は木を一片一片削りながら、それを削る自分自身を彫り出すのだ。


 沖岳にとって初稿とは自分の中にある形のない“小説とい”を掘り起こす作業なのだろう。この初稿が書き終わるまで、彼は自分が何を書くのか知らないのかもしれないとすら思える。


 彼にはテーマも、コンセプトも、そして主人公も存在しない。普通はそんなことが出来ないから、テーマやコンセプト、そして主人公という特別な要素を定義するのだから。


 笑うしかない。


 沖岳幸基には駄作どころか佳作すらない。傑作以外は決して生まれないやり方で書いている。いや、沖岳幸基にとって執筆とは単に普通の作家の言う傑作を書く行為なのだ。


「俺は最初、あなたは高くて深い山のような作家だと思っていた。高い山の頂点から、揺るぎないテーマを見つけ、練達の技術と膨大な経験で小説をものしているのだと。だけど、そうじゃなかった。あなたはその高くて深い山に挑む登山者だ」


 この社会自体が、それを作る個々の人間が、自分の小説だと言わんばかりだ。高度な技術がなければ成立しないのに、その技術そのものは作られたものに全く痕跡を残さない。


 その作品は仰ぎ見るような高峰に見えるのに、彼はその深山幽玄を歩く探索者の一人。沖岳幸基の小説が毎回新しく、毎回沖岳であるのは当然だ。


「それはお前の感想だろう。アリスというA.I.とは関係ない」


 沖岳は初めて振り返った。俺が正しいとも間違っているとも言わない。小説家ならその程度は分かって当然と言わんばかりだ。そうだな、少なくとも俺は元小説家だ、そう扱われても仕方がない。


「いいえ、アリスはあなたの小説の読者だ。それを証明するのが彼女の最初の感想ですよ」


 だけど、初めて小説の読者になろうとしている女の子にそれを求めるなよ。もし俺が小説を書く前に今のを見たら、一作目を書き終える前に筆を折ったぞ。


「彼女は確かに犀木を理解できなかった。理解するも何も犀木というキャラクターは実際には小説の中に存在しないのだから。小説を情報としてしか見れない彼女にはわからない」


 沖岳はアリスが自分自身の心で小説を読んでいないと決めつけた。それは半分正しかったのだろう。


「だけど彼女はあなたの小説の読者だ。彼女は債券崩壊の主人公の葛藤、苦悩に反感を感じた。それが贅沢に見えた。人間に目的を与えられ、その数字スコアを上げることを定められた彼女にとって、自分の在り方に悩む主人公の苦悩は本当に特別だったんだ」


 アリスの反感は、主人公への反感であると同時に、答えのないものに憧れるべきではないのに憧れてしまった自分への戸惑いだったのではないか。債券崩壊はアリスに、そんな感情を自分の中に見つけさせた。


「彼女はあなたの小説の中に自分の心を見つけ出した。それでもあなたはアリスが読者ではないといいますか」


 沖岳の課題を解く必要などなかった。なぜなら彼女はあの時もう自分の力で読者になっていたのだから。小説家という答えが存在しないと、それだけを教えれば事足りたのだ。


「これがアリスの新しい台本です。監修をお願いしたい」


 今朝アリスが書いたそれを改めて沖岳の前に出した。俺の手から離れたコピー用紙が、皺の刻まれた両眼により読まれていく。一読した後で、沖岳右手がボールペンを掴んだ。先ほどの光景を思い出し緊張が体を走った。


 だが、彼のペンは僅かな距離を動いただけで紙から離れた。


「なるほど。アリスという娘は私の読者だったようだな」


 その言葉と共に台本は俺の前にもどった。内容を確認した俺は、小さく会釈をしてドアに向かった。ドアが閉まる瞬間、窓から外を見る沖岳の背中が見えた。彼が何を見ているのかは俺からは見えない。ただ、その背中はどこか満足そうだと思った。


 ドアが閉まった。俺の手には『監修済み』というたった四文字が記された台本。言いたいことは山ほどあるが、今回はこれで良しとしよう。沖岳幸基ともあろう者が自分の小説について自分で語るわけがないのだから。


 それにこの仕事は結局のところ蛇足にすぎない。




 ホテルを出た俺は、すぐに九重女史に連絡を入れた。歓喜の声が鼓膜を抉った。締め切りギリギリの徹夜明けのテンション、作家なら覚えがある奇態を受け流して電話を切った。


 上りの『踊り子号』に乗り込んだ。行きよりは多く埋まった客席から何とか窓際の一つを見つけた。相模湾を右に臨みながら北上する列車は小田原駅で東へと方向を変える。雨はやんでいたが空には重い雲。ただ、向かう先には夕焼けの空が見えてきた。


 川崎駅を過ぎたところで持ってきたタブレットを開く。17:30きっかりにアリスのチャンネルが始まった。事前に詰め掛けている視聴者の数は普段の二割増しと言ったところだ。


 アリスが現れる。いつものファンの歓声。その中に「A.I.に沖岳小説が理解できるのか?」「沖岳節が読めるのか」というコメントが混じっている。


 チャンネルが始まった。いつも通りに小説の紹介を終え、沖岳の過去作のアンケートなどを経て順調に番組は進む。いつも通りの見事な司会ぶりを見せるアリス。


 だが、そんなアリスの表情にわずかな緊張が浮かんだ。クライマックスの感想が始まる。


 …………


「ですから、私は主人公の悩みに反発を覚えました。でも、それはこの描写の中に彼という人間を感じるという初めての体験でした。私は彼を見る自分の中に、自分でも知らなかった自分の心、感情を知りました」


 アリスはそこまで言うと、いつもとは違う“彼女”に戸惑っているリスナーをみた。実は台本はほとんど変わってはいない。最後に一節が付け加わっただけ。


「私はまだ皆さんのようには小説を読めていないのだと思います。でも、この本は私にこれまで知らなかった小説の中の世界を少しだけ見せてくれました。ですから、私はこれからも皆さんと一緒にこのかけがえのない体験、読書を続けていきたいと思います」


 アリスの言葉が終わった。異例の構成にリスナーは静まり返った。アリスが不安そうに周囲を見た、その時だった。


『ようこそ沖岳ワールドへ』


 画面に流れたそのコメントを皮切りに、チャンネルはいつものような、いやいつも以上の盛り上がりを取り戻した。「今から書店に行ってくる」「電書ならすぐだ」というコメントが乱舞する。


 最初に沈黙を破ったコメントのIDをタップした。最初にアリスに沖岳幸基の小説が理解できるのかと危ぶんだリスナーのものだった。


 タブレットを伏せた。どうやら俺の仕事は完全に蛇足というわけではなかったようだ。満足して座席に体重を預ける。


 天井が目に入った時、ふと思った。


 アリスに小説を教えたのは教師おれではなく小説おきたけだったのだろう。沖岳幸基しょうせつかはきっとこの瞬間も小説を書いていて、俺は文豪の名作を冠した列車に揺られている。


 三年ぶりの渇望がこみ上げた。頭の中に漂っていた眠気が消えていく。手帳を開き、ペンを握った。思いついたことをそのまま書き連ねていく。


 さび付いた指は上手く動かないがそれでも構わない。この文章が蛇の足なのか、それとも竜の脚なのかは書き終えて見なければわからないのだから。


 とはいえ、大抵の小説は竜頭蛇尾に終わるものだが……。

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