第5話 テーマ
スムーズだった授業は暗礁に乗り上げていた。
「もう一度説明するぞ。『テーマ』というのは、自分が何を伝えるために小説を書くのかだ。言ってみれば君がその小説を書く目的だ」
「はい。理解しています」
「じゃあ、君が何を読者に伝えたいか、言いたいのかを考えてほしい」
「私にはこれを書きたいと明確に定義できる『テーマ』が存在していません」
優秀な生徒は答えた。自分で
まあいい、さっき説明したように小説のテーマが最初から明確に浮かぶことはほぼない。サンプル話でやって見せたように段階的に明確化する方が一般的だ。
「コンセプトはどうだ? こんな感じの小説が書きたいみたいな漠然としたイメージでいい」
「先生の定義ではテーマが目的でコンセプトは最終産物の概観イメージです。目的なしで最終産物のイメージを決めることは不可能です」
「……主人公はどうだ。こんなキャラクターを書いてみたいとか。歴史上の人物でもいい。この人物が好きとか、興味があるとか」
「歴史上の人物は、私にとっては人間として認識するにはあまりに情報量が少ないのです」
アリスは言葉と同時に首を振った。
「その様子だと、舞台設定も無理そうだな」
人間ならアイデアは断片的で連想的に生じる。こんな活躍が描きたい、といったシーンがまず浮かぶことは珍しくない。本能寺の炎の中で織田信長が最後に言ったセリフが浮かんだ、みたいな感じだ。
「そうか、俺はこの信長を書きたかったんだ」というイメージが見えれば、テーマもコンセプトもおのずと決まっていく。だから順番はどうでもいいのだ。むしろ循環する中で、明確になっていくのが小説の企画だ。『サンプル話』はその延長線上にある技術だ。
彼女は明らかにそれらの概念は理解してみせた。だが、テーマがなくコンセプトや主人公から逆算することも出来ないといっている。
「そうだ、これまで読んで一番面白かった小説の……。いや、今のは忘れてくれ」
アリスは「小説の面白さを知る」ために「小説を書きたい」と言っていた。面白い小説を挙げられるなら、俺がここにいることはなかった。彼女が“評価”している小説が俺の『
そもそも、彼女にとって小説の書き方を学ぶ理由が、小説を書きたいというのではなくViCとしての能力を上げるための
「私から提案があるのですがよろしいでしょうか。ランダムでテーマを決める、あるいはやはりテーマを先生が指定するのはどうでしょうか」
「いや、それは駄目だ」
「学習のステップを進めるために有効だと思ったのですが」
優秀な生徒の合理的で効率的な提案に首を振る。彼女が人間だったとしたら俺は今の提案を良しとしたかもしれない。人間なら明確に定義できなくてても、意識してなくても一つくらいは書きたいものがあるのだ。
無意識の中にある、これまでその人間が生きてきて培った世界や人間に対するイメージ。人間の内なる世界であり、
それを表現するための最低限の技術がかみ合えば面白い小説が生まれることは決して珍しくない。
いや、その一冊を生涯越えられない小説家が大半だったりする。無意識の中にしみ込んだテーマというのはそれくらい強い。逆に、どれだけよさそうなテーマでも、自身に根差していなければ何の力もない。
ましてや他人の決めたテーマで書かせる? 俺が引き受けたのはゴーストライターの養成じゃない。そもそも、ゴーストライターは作家になった後になるものだ。そして作家とは、自らのテーマで一冊書き終えたことのある人間のことだ。
これは信念とかじゃない。A.I.相手に精神論を説くほどいかれていないつもりだ。
「確認したい。アリスの最終目標は小説プロモーションのパフォーマンスを上げるため。その為に必要なのが小説の面白さを理解することで、小説の書き方を学ぶのはそのため」
「はい。その通りです」
ホワイトボードに三段階のチャートを書く。
ViCとしてのパフォーマンス向上 ← 小説の面白さの理解 ← 小説を書く
アリスは頷いた。手段としての小説の執筆。俺にとっては冒涜的だが、アリスにとっては合理的なのだろう。クライアントの要望に合わせるというのは、確かに一つの答えだ。こちらとしても、それの方が楽だ。何しろ、説明だけをすればいいのだから。
だが、俺はこの
改めてホワイトボードをみる。ストーリーの歪み、少なくとも俺が感じている、はどこにある。
目に入ったのは、目的でも手段でもなく、その中間だった。
「アリスはこれまで多くの小説を読んだり、小説の紹介をしてきた。だけど、それらの学習や経験から捉えられなかったデータがある。それが「小説の面白さ」。これは間違いないか?」
「はい」
「じゃあ質問だ。今君が言ったやり方で小説を書いたとしたら、それは君が普段やっている『台本』の規模を単に大きくしただけにならないか? それで、君は小説の面白さが理解できるか? 君が求めている新しい技能でも
俺は、アリスをまっすぐ見つめて問うた。
「もしも、今君が言ったやり方で君の目的が達成できるというのなら、君の要望に従おう。そうだな、この織田信長の企画を使ってみてもいい」
次の瞬間、アリスの表情が止まった。瞳の中を大量の光点が渦巻いた。俺の体感ではほんの数秒、コンピュータにとってはどれだけのステップを必要としたのかわからない
「小説の面白さを理解することは、この課題の必要十分条件です。私の提案は論理的に破綻していることを理解しました」
彼女はそこまで言うと、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。
「つまり、私には小説は書けないというのが結論でしょうか」
技術だけでは小説は書けない。俺がこの“仕事”に対して一貫して考えていることだ。これがその正しさの証明だとしたら、俺はそれに頷いてもいいはずだった。
「その結論は早いな」
だが、俺は首を振った。彼女の最初の答えに俺はある意味安堵していた。そして、彼女の二つ目の答えは、小説を書く者ならその過程で数えきれないほど口にする常套句だ。
いやしくも小説を書きたいなどと口にしたんだ、たった一回絶望を口にしただけで済むわけがない。
「しかし、先生の構築された論理的帰結は私には否定できません。先生はどうすればいいとお考えなのでしょうか」
「ああ、それはだな」
彼女の期待するような瞳に対して、俺は答える。
「次回のお楽しみだ」
「えっ? あの、それはどういう」
「今日の授業はここまで、この続きは次の授業でってことだ。一回分の内容としてはここまででも十分じゃないか」
「あっ、はい。理解できました。確かに今日の授業は内容がとても豊富でしたから、私も整理するための時間が必要です」
アリスはどこかほっとしたように言った。そして「次の授業、よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
高いビルを出た俺は、駅に向かって歩く。
アリスにああいったものの、俺には次のアイデアがあるわけではなかった。思わせぶりなことを言ってシーンを終える小説家の常套手段、だなんて読者、じゃなかった生徒には言えない。
歩行というのは冷静に問題を整理するための最適な行動の一つだ。
彼女に原理的にテーマが存在しないのなら俺にはどうしようもない。いや、どうするべきでもないと思っている。そこに関しては今日の“論理的帰結”を譲るつもりはない。だが、もし彼女が自分のテーマを認識できない、あるいは探す方法を知らないだけなら方法はあるかもしれない。
循環的な連想やサンプル話と言った人間なら当たり前の方法が役に立たない。その理由はなんだ?
そもそも彼女はどうして小説の面白さが理解できないんだ?
いや、そもそも彼女にとって小説とは何なんだ?
なるほど、俺は口では彼女に合わせると言っておきながら、ソフトウエア開発やウオーターフォールと小手先の技術用語にとどまっていた。もっと肝心なところを知らないということだ。
となると、次にやることは……。
胸元からスマホを取り出した。動画アプリを選択して、チャンネルのアーカイブを開いた。話題作、ベストセラー、人気作の羅列。本屋の平積みを見ているような気分にさせられる。上下に素早く動いていた指が、ドラマ化決定という宣伝文句付きのタイトルで止まった。
チャンネルアプリを閉じ、通話に変える。
こちらが要件を告げる前に、姦しい声が耳に響いた。
◇ ◇ ◇
物理ドアが開いた。入ってきたのは、ここのキーを持つ数少ない一人、『アリスの読書会』の担当者である九重詠美だ。彼女は誰もいない空間に向かって話しかける。
「トレーニング情報の整理は終わりましたか、アリス」
「…………はい。次のスケジュールは来週のチャンネルの台本構成ですね」
「そう。それが今の第一の仕事」
美しい姿を現したアリスに、九重詠美はビジネスライクに答えた。優先順位を明確にすることが、機械的な知性とのコミュニケーションの基本だ。アリスにとって一秒一秒は貴重なリソースだ。
そして本題に入る前の雑談のように本題を告げる。
「ただ、その前に一つ確認。さっきの授業はどうだった? ほら、最後の方負荷がかなり高まっていたでしょ」
「はい。最後に大きな問題を認識させられてしまいましたので。しかし、問題ありません」
「……アリスにとって海野先生はどうかしら。教師としての評価のことね」
「総合して期待以上です。小説の執筆に関して必要な技術の定義や説明は素晴らしかったです。最後の問題についても、次のトレーニングではきっと有効なメソッドを提示して頂けるはずです」
「そうね。確かに今日の学習の進捗は大きいみたいだから、これからも期待大ね」
詠美の経験上、あれは典型的な小説家の常套手段に見えたが、彼女はそれを口にしなかった。実際、今日のトレーニングの有効性は上司である鳴滝が評価している。
ただ、それだけに……。
「気を付けてね。あなたはいま不安定な時なのだから。さて、それじゃ、次のチャンネルの台本だけど、タイトルは……」
詠美は雑談を終えると、通常の業務に切り替える。テキパキと業務を進める姿は、優秀な編集者そのものだ。
だが、先ほどの一瞬だけ彼女が見せたその様、それをもし件の小説家が描写するなら。
彼は編集者ではなく別の職業になぞらえて書いただろう。
例えば、白衣が似合うような。
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