木鼠は誰が為に
kou
第1話 日の出食堂
うらぶれた商店街。
市の中心街にあるアーケードのある商店街とは異なり、少し離れればこんなにも閑散としてしまうのかと思うような通りを、一台の原付バイクが走っていた。
少年が乗っていた。
荷台には野菜の入ったダンボールを2つ重ねて乗せており、買い物帰りというより収穫した野菜を運んでいるというのが印象だ。
ご機嫌に流行歌を下手くそに歌いつつ、一軒の飲食店に原付を止めると、ヘルメットを外した。
まだ高校生ぐらいだろう。
顔の輪郭は丸く、顎が尖っていないため幼く見えるかもしれないが、しっかりと腰の座った目つきをしている。それは、どこか愛敬のある表情をしていた。
また、小柄で、ほっそりとした体型だが、しっかりと筋肉がついていることが服の上からでも分かる。
髪の毛はやや長めであり、前髪も目に被るくらい長い。
しかし、それを後ろに流しているため、爽やかな印象を受ける。頭には黒いバンダナを折り鉢巻状にして巻いてる。ファッションというよりも、髪をまとめたくてしているのが感じられる。
名前を、
拓真は、店の前に原付を止めて『日の出食堂』と書かれた店内に入ると、厨房の奥に声をかける。
「こんにちは、実り農園です。野菜をお届けに来ました」
すると奥から女性が出てきた。
20代後半、30歳前といったところか。
ウェーブがかかった黒髪に三角巾をし、エプロンをつけていた。
背が高くスラッとしている。
細身ではあるが胸は大きく膨らんでおり、健康的な色気を感じさせる。
年齢は若いのだが、人妻のような妙な艶っぽさがある女性だった。
女性は、優しそうな笑顔を浮かべている。
この店の女主人であり、名前を
由紀恵は笑顔で言った。
お礼の言葉だった。
それから由紀恵はカウンターから出てきて、段ボール箱を受け取る。
「榊君、いつもありがとう。実り農園さんの有機野菜は、お客さんから評判が良いのよ」
すると拓真は、照れくさそうに頭をかいた。
「いえ、そんな。家のような農園の野菜を使ってくれて、こちらこそありがとうございます。形が不揃いで見てくれが悪い為に、スーパーで扱ってもらえなくて。家こそ、本当に助けて頂いています」
拓真は誠心誠意のお礼を述べた。
すると由紀恵は首を横に振って言う。
優しく諭すような口調だ。
その声色は温かく、聞く者を安心させる。
彼女は続けた。
今の言葉を否定しているのではなく、むしろ肯定するように。
それはまるで子供をあやすかのようであった。
そして、こう付け加えたのだ。
形が悪くても味は同じだと。
確かにそうだと、拓真も思う。
だからこそ、こうして感謝されるのだ。
拓真は嬉しくなった。
心の底から喜びを感じた。
自分は農家をやって良かったと思う瞬間である。
それに、これは生活の為だけではない。
自分の作った野菜を食べてくれる人が居るという事実そのものが嬉しいことなのだ。だから農業を続ける意味があると言っても良い。
また、それこそが自分が目指すべき場所でもあると思っている。
すると、由紀恵は微笑みに影を落としながら、こう話を続けた。
「榊君、少し時間ある? カレーでも食べていかない」
由紀恵の提案に、拓真は驚いたように目をパチクリさせた後、満面の笑みを浮かべた。
とても嬉しかったようだ。
何しろ由紀恵とは仲が良く、良く店にも出入りしていたからだ。
由紀恵は優しい人で、いつも拓真のことを気にかけてくれる。拓真の家庭環境を知っているせいもあるかもしれないが、それでも拓真にとってはありがたい存在だった。
だからこそ、彼女の誘いを断るはずもない。
すぐに拓真は返事をした。
元気よく、ハッキリとした声で。
拓真は嬉しさを隠しきれない様子で、こう答えていた。
「はい。喜んで」
すると由紀恵もまたニッコリとして、言葉を続ける。
今度は悪戯っぽい言い方だ。
それも子供のように無邪気に。
由紀恵は、こんな風に言う。
「今日は何人前食べるつもりなの?」
と……。
そんなやり取りをする二人の間には、確かな信頼関係が築かれていることが見て取れた。
黄色、いや金色に輝くカレーライスが目の前にある。
それをスプーンですくうと、口の中へと運んだ。
辛さの中に旨味がある。
しかし、辛い。
だが美味しい。
そして、熱い。
思わず口を押えてしまう。
慌てすぎて舌を火傷したのだろう。
だが我慢して飲み込む。喉を通る時に熱さが走ったが、胃袋に収まる頃には落ち着くはずだ。
拓真は、もう一度すくって食す。
熱かった。
でも美味しい。
水を飲む。
でも、美味しさは舌に残ったままだ。
カレーの美味しさにスプーンが止まらず、三杯目になる。
もう充分だろう。
そう思った時、拓真は言った。
幸せそうな顔をしながら。
それは独り言なのか、それとも誰かに向けたものなのか。
あるいは自分に言い聞かせるためだったのか。
いずれにしても、拓真は満足げに言葉を漏らした。
「このカレーが食べられるだけで、俺は幸せな人間だと思う。だって、これを作った人は、俺の知らないところで汗を流して頑張っている」
その言葉に、由紀恵は、その苦労を想像するだけでも有り難いことだと思った。
ただ、それだけじゃない。
これは愛情が込められている。
それは誰に向けられたものだろうか。
自分の作った料理を食べる人に、愛を込めているに違いない。
拓真は、そんなことを考えつつ、もう一口食べた。
すると、拓真の顔に笑顔が戻る。
先ほどよりも自然な笑顔だ。
自然すぎて怖いくらいに。
その笑顔のまま、拓真は由紀恵に言った。
「佐枝さん、世界一美味しいです」
すると由紀恵は笑顔で答える。
「褒めすぎよ」
拓真は続けて言った。
「本当です」
すると由紀恵も笑顔で返す。
すると拓真も笑顔で返した。
しかし由紀恵はすぐに笑顔を引っ込めて、こう言った。
「バカね」
どこか呆れたような口調で。
拓真は不思議そうな顔をしている。
どうしてバカと言われなければならないのだろうと。
そんな拓真に、由紀恵は言う。
「照れ隠し」
その声色は優しかった。
まるで母親か姉のような声色だ。
拓真は、照れくさそうにしている。
由紀恵の頬には朱色が差していた。
だからだろう、由紀恵は苦しい胸の内を吐露する。
「……榊君、実はね。お店、辞めようと思っているの」
拓真はその一言を聞いて、一瞬固まってしまった。
しかし、すぐに我に返ると慌てて言葉を返す。
「や、辞めるって。どうしてですか?」
唐突な出来事に、拓真は慌てふためきながらも言った。馬鹿な冗談を言うかのように笑い飛ばしてみせる。
しかし、由紀恵の顔は真剣そのもの。
冗談を言っているようには見えない。
拓真は、どうすれば良いのか分からず混乱してしまう。
そんな拓真を見て、由紀恵は苦笑しながら説明を始めた。
由紀恵が辞める理由は、店の借金が原因だということを。
由紀恵が経営する店は、両親が経営していた個人経営の小さな飲食店だった。
新規開業者の場合、銀行からの借り入れは十分な担保が無い限り、大変難しいという。
過去の実績や経営者としての能力も未知数なため、銀行にとってリスクが非常に高いからだ。
また金融公庫からの借り入れもできなかったという。金融公庫の創業融資の成功率は20%といわれ、自力で書いて申し込む人の8割ほどが融資を受けられない現実がある。
その為、審査の緩い金融会社から借りるしかなかったという。
一定の期間ごとに金利の利率を見直す変動型金利で金を借り受けて何とかやりくりしていたが、金利が高くなってしまい、とうとう赤字経営になってしまったとのこと。
由紀恵の両親は、事故で亡くなり天涯孤独の身となった由紀恵が引き継いだものだ。店をそのまま畳もうかと思ったが、思い出の残るお店を無くしたくないという気持ちから、由紀恵が一人で切り盛りしていたのだ。
拓真は、そこまで聞いてようやく納得した。
だから店を辞めると言ったのだと。
しかし、それで疑問が残る。
由紀恵は拓真にとって母親のような姉ような存在であり、恩人でもあった。その彼女には、これから先の人生がある。
それなのに、このまま別れてしまっても良いものだろうか。
拓真は考えた。
だが、すぐに思い直す。
由紀恵には、この店でずっと働いて欲しい。
そう思ったからこそ、こんなことを言っていた。
自分には夢があること。日本一の農園になって、みんなに美味しい健康的な野菜を食べて欲しい。その夢に向かって頑張っていきたいこと。
だからこそ、自分の野菜を使ってくれる店に残って欲しいということを伝えた。
すると、その気持ちは伝わったようで、由紀恵は嬉しそうに笑う。
そして、こんなことを言う。
「私も、榊君の夢を応援するよ。だけど、もうお店は畳むしかないの」
その顔からは、既に諦めの雰囲気が漂っている。
そんな由紀恵に対して、拓真は思わずこう叫んでいた。
「俺に任せて欲しい。絶対に借金を完済させてみせる」
と。
拓真の言葉を聞いた友紀恵は、驚きのあまり目を大きく見開いた。
拓真は手元のカレーを完食すると財布からカレーの料金以上の金額を置く。由紀恵が呼び止めるのも構わずお店を飛び出していった。
その後ろ姿を眺めながら、由紀恵はあることを考えていた。
拓真の熱意に心を動かされたせいだろう。
由紀恵の心の中にあった迷いが消えていく。
それは、自分の人生をもう一度考えてみようという想いだ。
両親を失った友紀恵は、たった一人残された。親戚もおらず、頼れる相手はいない。
由紀恵は、自分なりに一生懸命生きてきたつもりだった。
しかし、やはり寂しさを感じてしまう。
それでも、自分がしっかりしなければと思い、今まで頑張ることができた。
それも限界だった。
借金を返していけなければ、店を畳むしか道はない。
ただでさえ、ギリギリの経営状況なのだ。
これ以上借金が増えれば、いずれ立ち行かなくなる。
そうなったら、自分はどうなるのだろうと不安になることもあった。
しかし、拓真に出会ってから、友紀恵は変わろうとしていた。
いや、変えられたと言うべきだろう。
あんなにも必要とされて。
その為にも、由紀恵はお店を今日も開けなければならないと思った。
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