惨憺 07
お察しの方もいるかもしれないが、僕の家には僕しかいない。
静かすぎるこの家が静かすぎると感じるという事は、昔は騒がしかったという証拠である。
だけど、特筆して騒がしかったかと言われれば大きく首肯することはできないが、一般的な生活音で満たされたあの時の居心地は、今に比べればとてもよかった。
静かな空間というのは、たまにだからいいのだとあの時の僕に教えてやりたい。
めまぐるしい生活音も、たわいもない会話も、しょうもない口喧嘩も、うざったい捨て台詞も、家の中で聞こえる何気ない音には失ってから気付く価値があり、全てかけがえのないものであり、そしてなくてはならない物なんだと僕は誰もいなくなった、何も聞こえなくなったこの家で日々痛感している。
幸せな生活は美人より薄命で、幸せな生活は美人より見つけるのが困難だ。
中学3年生の今より幼かったあの時の未熟な僕には、困難というよりむしろ不可能といっても過言ではない。
だからと言って今も何かできるとは到底思えないが。
自分では何もできない。成り行きに任せるしかない現状に辟易した。
そのくせ心は一丁前に大人に近づくおかげで、気付かなければ幸せなことに無意識に気づき、人の心の裏を読み、人の嫌味に敏感になる。
笑顔の裏の侮蔑や苛立ちの顔だけが目に見える笑顔よりも鮮明に感じ、吐き気がしたあの時を思い出すのは辛い。
そして今、遠回しに、気付いてほしいがゆえに、直接的な言い方を避けていることは逃げだ。
強くなると決めた。人生の指針を見つけた。
彼女はこんなことしない。
彼女なら薄ら笑いを浮かべて、自分の正義に突き進む。
強烈な正解へ、苛烈な正義へ。
彼女の掲げる正義がこの世で悪だとしても、彼女が正義だというのならそれは紛れもない正義なんだ。
なら、僕もそれくらい強くなる覚悟が必要だ。
・・・・彼女といることで芽生える劣等感を拭うには。
彼女の隣に立ち続けるには・・・・・・・・
「僕の両親は僕が小学生の頃に死にました」
彼女の興奮が冷め、少しの時が経ち、僕は口を開いた。
震えていたかもしれない。
上ずっていたかもしれない。
正直、うまく言えていた自信はない。
だけれど彼女には伝わったはずだ。
だって彼女は僕の音を聞いて、聴いて、効いた後、口を開いたんだから。
「私には家族がいる」
彼女は僕の家の天井を眺めながら、何かを思い出すかのように訥々と告げる。
「だからこそ、君の両親には会わずとも素晴らしい人だってことは分かる」
そして僕に視線を戻し、僕に微笑みかける。
「私の辞書には、親としての資質は子の一挙手一投足を見ればわかると記されている。君は少し内向的であるが、気遣いもできるとてもいい子だ。それに今は痛みを知っている。痛みを知っている人間は他人に優しくなれる。君の両親は死んでなお、君にたくさんのことを残してくれたんだ。誇りに思っていいだろう」
「あなたの辞書はいつだって僕に正解を教えてくれますね」
「当然だ。私は教育機関にすら一石を投じる女だぞ。むしろ学校に『私の辞書』として私の言葉全集を置いてほしいくらいだ」
彼女は大きく鼻息をふかし、胸を張る。
「値段は100円で構わない」
「意外と謙虚な値段設定ですね」
「あぁ。その代わり全ての教育機関に買わせる。電話、出張販売はお手の物だ。根性と行動力で構成された私の体に不可能はない」
「こわいよ!根性と行動力で構成された体なんてトラブルしか招かないよ!・・・・トラもブルっちゃうよ」
「君のセンスに私は今ブルってるよ」
彼女は自身の体を抱き寄せ、震える仕草を見せる。
ノリがよくて幸いだ。
そして何より抱き寄せた体に挟まれることで一点に集中し、胸の脂肪のノリもかなりよく見える。
特別大きいというわけではない。しかしながらフォルムが素晴らしいがゆえに、少し手を加え、想像力を豊かにすれば見えない物も見える。
昨日見た美乳を想像すると、僕自身がトラブルを起こしそうだ。
僕も中学生。思春期真っ只中。
待ったはなかなか聞かない、聞けないお年頃。
「君は今、私の体で何を想像した?」
「へっ?い、いやぁ・・・・別にぃ?」
「ふむ。まぁ、もし仮に私でエッチなことを考えていたのなら、私は君の生殖機能を無理やり剥奪していたところだ」
彼女は何か玉のようなものを握りつぶす仕草を僕に見せる。
冗談ではないことが伺えるのは、一切変わらない表情と・・・・・・・・この後の言動だった。
「ちなみに私は2度生殖機能を失う場面に立ち会ったことがある」
「2回も!いや、1回でもすごいというか、グロいというか、えぐいというか・・・・」
「
「キラキラネームぅ!時代を先行しすぎて何とも言えないよぉ!色々怖いからあんまり強く否定できないよぉ!」
「まぁ、家で飼ってる猫の話なんだがな」
「でしょうねぇ・・・・・・・・」
「それで、一体君は私を見て何を考えたんだい?」
「瓶牛乳・・・・略して美乳についてですかね」
「ほう、どうやら死にたいみたいだね」
途中から気付いていたのに最後まで付き合う僕も案外ノリがいい方なのかもしれないなぁ。
そして彼女と僕は互いにたわいもない話を繰り返し、彼女は昨日と同じ時間に家を出た。
「どうやらこっちの方が君にはあっていたみたいだね。君の顔にも少しづつ生気が戻ってきた気がするよ。それじゃあまた・・・・・・・・明日」
僕にそんな言葉を残して。
まるで病気の経過観察をし終えた医者のように。
あとは最終確認だけだと言わんばかりに。
どうやら、僕が長年悩まされた症状は彼女に出会ってたった2日で、残念ながら良い方向へ向かっているらしい。
嫌な予感を抑え込み、僕は彼女に笑顔を返した。
翌日。
今日は生憎の雨模様。
太陽は二日酔いなのか雲の中に塞ぎこんでいる。
そんな分厚い雲は空一帯を、まるですねた子供がおもちゃ売り場で駄々をこねるように席巻し、大粒の涙ならぬ雨を降らしていた。
白い息が出るほどに寒い空の下、昼間なのに夕方のような暗さのこの町ではどうしても嫌な事ばかり考えてしまう。
昨日彼女が残した最後の言葉が、のどに刺さる小骨のように僕の中に小さな焦燥感を残す。
わだかまりが沸々とまるで熾火のように募る。
さっぱりしない、すっきりしない嫌な予感は昨日からどんどん大きくなった。
雨は意外と強かったみたいだ。
落ち着かない僕はやはり受験勉強に向き合うことはできず、気分転換と時事問題対策という名目で、一昨日ようやく取り出したたまりに溜まった新聞紙に手を伸ばす。
とりあえず適当にと思ったが・・・・これは嫌な事件だ。
『
この事件を簡単に説明するならば、深夜複数の男が1人の女性に乱暴を行おうとしていたところを、偶然通りかかった1人の男性が助けるべく男性グループと揉めた際、男性グループの1人が打ちどころ悪く死亡してしまったという事件である。
一見すれば仕方ないと取れなくもないこの事件だが、この国では人助けした男性は罪に問われてしまった。
何とも後味の悪い事件である。
男性グループが一貫して女性への乱暴を否定し、乱暴されそうになった女性は精神的苦痛により当時のことを思い出せないでいた。
死んだ男性の両親の悲痛な叫びは世論の同情心を掴み、コメンテーターの心を掴み離さない、真実を話さない。
そのような一方的な証言は人助けをした彼をどんどんと追い詰め、彼は収監されてしまった。
しかし時が経てば世論は落ち着きを取り戻し、少数の人間が少しづつ異変に気付き始めた。
男性グループの証言は本当だったのか。人殺しの加害者である男性は本当に加害者であるのか。
人を殺した事実は変わらないが、それは故意ではないのでは?むしろ偶然、もっと言えば仕方のないことだったのでは。
さらには、1人の女性を複数人で乱暴しようとした奴は死んでも構わないといった過激な意見まで出るようになった。
そんな意見が世論に出回った理由の1つに、乱暴された女性が当時のことを少しづつ思い出し、メディアに当時の薄い記憶を訥々と伝えたというのが大きな要因だろう。
しかし警察は、このような事実が出た今もなお彼を収容している。
冤罪とまではいかないものの、警察は捜査不足という事実を否定すべく必死なようにしか見えなかった。
正義とは一体何なのだろう。
・・・・そんなことを思わせる嫌な事件であった。
確かこの事件の日も雨が降っていた気がする。
「今日はうんざりするような天気だね」
彼女は窓に打たれる雨に目を向け、鬱屈とした声で不満を述べる。
少し湿った彼女の制服は今日も変だ。
彼女にはもっとパリッとしたスーツの方が似合うのになぁと思う。
「もし、雲一つない空から雨が降っていたら気分はどうなるんだろうね」
今みたいに気分は落ちるのかな。それともむしろテンション上がったりして雪遊びならぬ雨遊びでも始めちゃうんだろうか、なんておどけた様子を見せて続けた。
「雨遊びって何するんですか?雨合戦?雨だるまづくり?どれも物理的に無理そうなんですけど」
「そうだね。できることは少なそうだ。・・・・・・・・せいぜい証拠隠滅くらいだろうねぇ」
彼女は薄ら笑いを浮かべ、突然物騒なことを告げる。
「証拠隠滅って、土が柔らかくなっているから山に死体を埋めやすいとかそういう事ですか?」
そんな僕の返答に彼女は呵々大笑を繰り返す。
彼女が深呼吸をし落ち着きを取り戻すまで、僕は恥ずかしさから俯くことしか出来なかった。
「君は悪い方へ悪い方へ考えすぎだよ」
「あなたが突拍子もないこと言うからですよ」
「はっはっはー-!突拍子もないことに遭遇してしまったという事は君が油断していたという事だ。まだまだ君にも甘さがあるという事だ。精進したまえ」
くっ・・・・まるで僕が全部悪いみたいじゃないか。
雨から連想されるのが証拠隠滅って、そんな殺人鬼みたいなこと言われたら誰でも悪い方へ考えてテンパるっての。
「なぁに、ただ姉のことを思い出しただけだよ」
「お姉さんがいたんですか」
「意外かい?」
「正直、一人っ子だと思っていました」
「それはどういう意味かなぁ」
彼女は返答次第では殺すと言わんばかりに身を乗り出し、首を傾げ僕に最後通告を言い渡す。
「ふ、深い意味はないですよ。男の直感です。女性には理解できないやつなんで」
「・・・・・・・・まぁいい。逃がしてあげよう。私も君から見ればお姉さんだ。たまの優しさくらいは見せてあげよう」
僕は胸をなでおろし、そして彼女が優しいうちに話を展開する。
それはつまりこれ以上の一人っ子論争を避けるためである。
「で、雨の日からどうして証拠隠滅なんてワードが連想されたんですか?」
「私の姉は生きやすい性格をしていてね。私はよく姉に振り回されていたのさ」
「へぇ、あなたのような人が。時間って残酷ですね」
「殺されたいのかな?」
「い、いいえ!続けてください!」
「言われなくてもそのつもりさ。・・・・ごほん。姉は幼いころ私を色々なところに連れまわしたんだ。どこに行くにも私の手を引っ張ってな。
そんな姉はある日、今日みたいな雨の日に珍しく1人で外に駆け出して行ったんだ。どうしたんだろうと思った私は姉の後をつけてみたんだ。
姉は傘もささず一目散に走っていった。いつもの公園に向かうでも、友達の家に行くでもなく、時折立ち止まってきょろきょろと辺りを見回して挙動不審な態度をとりながら普段通らない道を駆けて行った。
行きついた先の詳細な場所までは覚えていない。というのもそもそも姉も私も言ったこともない場所だったんだ。
人目のつかない、そして街灯も少ないくらい場所だったことは覚えている。
そこで姉はどうしていたと思う?」
彼女はそこで一息つき、僕に尋ねてくる。
昔を懐かしむようなノスタルジーな表情を浮かべながら、そして彼女の姉の幼さが故の非行に呆れた母親のようなため息交じりの笑顔で僕を見つめていた。
「うーん・・・・・・・・やっぱり捨て猫の世話をこっそりしていたとかですかね。王道ですけど」
「捨て猫なら2度拾っている。それに姉はそういうときは私を無理やり引っ張り出しているんだ」
「
「あぁ。姉がつけた名だ」
「そ、そうだったんですね」
「それで、捨て猫以外に何か思い当たらないのかい?」
「えー・・・・・・・・」
正直あまり興味がない。というか早く他の話題に移ろうよとすら思っている。
だけどここまで何か言ってほしそうな彼女の顔を見てしまうとそんなこと言えるはずもなく。
そんな僕にしびれを切らしたのか彼女はため息をつき、そして「ヒントを上げよう」と僕を答えの方へ無理やり引っ張る。
血は争えないという奴だ。彼女は今、彼女の姉と物理的ではないものの同じようなことをしている。
自覚はないみたいだけど。
「ヒントは罪悪感だ」
「・・・・・・・・お友達と煙草を吸っていたとかですかね」
「幼いころといったはずだし、もし私がそんなところを見たのなら姉とはいえ容赦しない。それが真実なら姉はおそらくこの世にいない」
こぇえよ。同じ血同士で争う覚悟ありだったよ。
血は争えないとか嘘だよ。
「はぁぁぁぁぁ。仕方ない正解を教えてあげよう」
なぜこんなんことも分からないんだこの愚図、とでも言いたげな長い溜息の後、彼女は正解を述べた。
「簡単な話だよ。姉は0点の答案用紙をびちゃびちゃのコンクリートに浸して、ふやかして、存在そのものを消去したんだ。姉は頭の回転が速い人だったからな。姉の思惑通り答案用紙は跡形もなく消えてなくなった。そこまでは姉の計画通りだったんだろうけど、残念無念というかなんというか」
「あなたが出てきたんですね」
「そういう事だ。私が姉の名前を呼んだ瞬間、姉は一瞬驚いた顔を見せたがすぐにやっぱりかみたいな顔をしていたよ。どこかそんな予感みたいなのはあったんだろうね」
「その後はやっぱり・・・・」
「姉と言えど容赦はしないさ。それは君が身をもって理解しているだろう。もちろん私は姉を説教した。姉は私の言うことにすべて頷き、その非を認め、謝罪した。だが・・・・私がどれだけ説教してもなぜ0点なんてとってしまったのかだけは答えなかったなぁ」
彼女は思い出に浸るかのようにゆっくりと、時々微笑みながら話す。
そんな彼女とは裏腹に、僕は彼女の姉が一体どんな目にあったかを想像するだけで身震いがした。
不謹慎であるが、彼女の姉は今生きているんだろうか。
実は、証拠隠滅というのは彼女の姉の答案用紙の話がカモフラージュで、実際は姉を殺してしまった彼女の行いなのかもしれないなんて思ってしまう。
さ、流石にそれはないよね。
あえて確認はしないけど。あ・え・て・・・・ね!
「そんな姉は今旅に出ているんだ」
よかった生きてるみたい。
「姉は小説家志望らしくてな。自分の夢を叶えるために日々『運命』的なことを当てもなく探し回っているみたいだ。すごいと思わないかい?」
「すごいと思います。とても僕にはまねできない」
「自分の殻を破って、自分の可能性を信じて毎日ゴールの見えない道を突き進む。それは今日のような雨の日の暗がりなんて比にならないくらい真っ暗な道で、右も左も分からないはずなのに小説家なりたいっていうあやふやなコンパスだけで歩いているんだ。私は姉を尊敬しているし、そんな人だからこそ私は真に人として認めている」
「・・・・・・・・そんなこと僕に言ってどうするんですか?当てつけですか?嫌がらせですか?そういうのはもう間に合ってるんです」
「私は優しいからな。最初に言った通り急にはいなくならない。だからこそ言わせてもらうが、いなくならなければいけないと感じたのならば私はいなくなる」
彼女は席を立つ。
湿り気を帯びていた制服はいつの間にかパリッと渇いていた。
時計を確認すればいつも彼女が出ていく時間になっている。
あぁ、もう時間切れか。
そして彼女はもうここには来ない。
鈍感だし、何に対しても経験不足な僕だけれどそれくらいは分かる。
まぁ、現に彼女はいなくなるって明確に宣言していたしな。
「そんな悲しい顔をしないでくれよ」
彼女は僕に微笑みかけた。
まるで出来損ないの弟に向けるような視線で。
「はぁ・・・・私もつくづく優し女だな。いやはや、これはもう弱さと言われても言い返すことはできないなぁ」
僕の頭はクシャっと撫でまわされ、そしてこつんと頭部を叩かれる。
痛くない。こんなところに居たくない。
誰かと一緒に居たい。
それなのに、それだけなのに。
『惨憺』な境遇が変わると思ったのに。
「何度も言わせないでくれ。私は急にはいなくならない。だからそうだな・・・・・・・・・別れの挨拶は、またね。これが1番相応しいんだろうなぁ」
そんな言葉を残して彼女は家を出た。
静かすぎる家に僕を残して。
・・・・・・・・・あぁ、違う違う。
静かすぎるこの家に、ずいぶん騒がしくなってしまった僕を残して。
『惨憺』な境遇を変えようと奮闘する僕を残して。
彼女はいただきますをしても簡単にごちそうさまをしないマナーの悪い人だ。
ごちそうさまをした後に、もう1度いただきますをしようとしている僕が言うセリフではないか。
僕は食べかすを拭い、机に向かう。
時間はあまりない。
だけれど失敗する未来は見えない。
とりあえず、必死になってみるか。
死ぬ気でやってみるのもいい。
もう死のうなんて思わないだろうけど。
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