惨憺 05
とある本。
といっても別に魔法が放てるわけでも、実は古代兵器というわけでも、この世を壊滅させるような呪文が書いているわけでも何でもない。
ただの文庫本。
さらに言えば誰かが売り払った、厄介払いした古本。
そして僕が買った古本。
ページをめくれば他人の家のにおいがほのかに香り、紙の1枚1枚はやはりどこか少し柔らかくなっていて、日焼けや汚れがぽつぽつと散りばめられていた。
そこに記された物語に思い入れもなければ、その本自体に価値もない。
だからこそ、いや、そんなこと本来は絶対にしてはいけないのだが僕はその古本に落書きをし、改めて別の古本屋に売り払った。
古本、それも価値のつかないものを選んだのは、おそらく想像通りであろう限りなく罪悪感を減らすためであることは言うまでもない。
そもそも捨て鉢の気分で記した僕の落書きにとってせめてもの節度というか、何を上から言っているんだと言われても「すいません。ほんとすいません」と謝ることしか出来ないのだが、あの時の僕はそれほどに切羽詰まっていたんだと、思い出せば思い出すほどに、思い返せば思い返すほどにあれは仕方なかったんじゃないかとすら思える。
まぁ、そもそももう少し価値のある物で同じことを行えば、古本屋の鑑識?っぽい人がくまなく点検し、バレていただろうけど。
そうなれば僕はあの女にボコられることもなかったんじゃ・・・・
時間の経過とともにさっきまで気付かなかった痛みに気付き、抜けたアドレナリンのせいで痛みは増し、永久歯の何本かがぐらついていることに気付く。
気付いて、傷ついて、築いて、塞ぐ。
塞いで、しかしそれは溜まっていく一方の負債で、嘆いて、投げ出して、助けを求める。
・・・・・・・・まぁ今思えば悪くなかったんじゃないかとも思うんだけど。
あれだよ。マゾってわけじゃないよ。
痛みを快感に変換できるほど成熟していない。
痛みは痛みで、体から消えても心から消えるものじゃないっていうのは身をもって知っているし、当時の僕はその痛みと共存することを辞めようとしてたくらいだし。
当時も今も生きている心地はしないけど。
ただ生かされているというか、なんだかんだ死の恐怖には勝てないというか。
まぁ、面倒だから生きているという矛盾がなんだか1番しっくりくるというか。
それすらも矛盾している気がするけど。
閑話休題。
閑静な住宅街に、昼の暖かな日差しが差し込む。
まるで春の日差しを連想するような書き出しだが、残念なことに現在日本の気候は冬である。
暖かな日差しというのはあまりにも嘘、というか昼間のくせに平気で寒い。
プラシーボ効果に期待したが、期待外れも甚だしい。
吹く風は凍てつくとは言わずとも肌をピリピリと痺れさせる。
日向はまだ立ってられるが、日陰は別だ。
立っても座ってもいられない。
本当に落ち着きのない奴だ。
赤子か!と思い切り頭をひっ叩いてやりたくなるが、虐待だと言われると困るので誰にも見えない日陰で実行することにする。
って!おいおいー!ちょっとー!
僕はひな壇芸人か!
いえいえ日陰壇芸人です。
・・・・・・・・少々無理やりだったか。
無理なボケは客に横槍を入れられるな。
略して
はっはっはー---!
呵々大笑×999
とまぁ、僕はかなり浮かれている。
船が海に浮くように、空に雲が浮くように、班活動でコミュ障が浮くようにそれは自明の理で火を見るより明らかで、そりゃそうだ!当たり前だよ!仕方ないよ!で済ましてもらわないと困る。
というかそれで勘弁してください。
1日経っても体は痛いし、口の中は傷だらけで未だに血の味がし旧態依然そのものではあるのだけれど、それらを差し引いてもやはり僕の心に渦巻く期待と高揚感でプラマイゼロどころか大幅にプラスであった。
静かなこの家に美人のお姉さんが来ることもだが、やはり彼女なら、彼女のような堂々とした存在感の塊のような人なら僕を根底から変えてくれるのだと。
浮足立った僕の傷だらけの足は、手すりを支えにゆっくりと階段を下りる。
リビング、キッチンは昨晩片づけておいた。
大胆な模様替え(逃げ惑う僕と彼女の乱闘の名残)は改めて元の位置に戻し、倒れた観葉植物は新しい土を被せ、何とか元通りになった。
キッチンの割れた皿やコップなんかは捨てた。
まぁ、そもそも1人には多すぎたので断捨離できたと思えばもはや僥倖とすら呼べる。
そしてリビングの机には新しく深紅のベゴニアをさし、静かなリビングに色を入れた。
そんな僕と同じくらい浮かれたリビングを後にし、僕は重い扉に手をかけ、開く。
ぴょんぴょんと浮かれた足取りといっても物理的に浮いているわけではないので(いや、僕は社会的に浮いた存在だから物理的に浮いてなくても他人から見れば浮いて見えるのか?)コンクリートで塗り固められた三和土を踏みしめポストに手を伸ばす。
相変わらず錆びた音を奏でるけれど、今の僕には心地よい。
いつもと変わらない日常に少しのスパイス。
だけれどポストのその先に待っていたのは苛烈な畏怖だけだった。
「なにもない」
さながらバレンタイン当日の男子のような滑稽さだったかもしれないが、そんな冗談を言ってられないことが僕の身に降りかかっていることを僕はこの先知ることになるのだと思うとこの先の僕はなんて可哀そうなんだろう。
しかし、呑気な今の僕は、浮かれた今の僕は「なんだ、あいつにも凡ミスすることがあるんだなぁ」と軽く、まるで川の下流のように流した、いや、流れた。
目先の幸福によって。
恐怖が一瞬で掻き消えるほどに。
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